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日々の内側
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半世紀以上前のオルゴール

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今週、久しぶりに妹に会った。そして実家に置きっぱなしになっていたオルゴールを受け取ってきた。このオルゴールについては、2年前の3月29日の記事で触れている。中には、小学生のころ伯母に買ってもらったネックレス(もちろん子どものおもちゃ)や集めていたガラスのかけらが入っていたはずだったが、受け取ったオルゴールの中は空だった。私自身が空にして実家に置いていたのか、私が置いていったので妹が処分したのかわからない。

私には自分が処分したという記憶はない。ガラクタばかりだがたいせつな思い出の品々だったからだ。しかし、「はじめから中は空だった」という妹の言葉を疑いたくもない。若いころは今ほど昔の思い出をなつかしいと思っていなかったから、家を出る時に思い切って私が処分したということも考えられる。そして、いくら考えてもわからないことだから、オルゴールが残っているだけでよかったと思うことにした。

以前の記事でも書いているが、木彫りのオルゴールである。2年前は思い出せなかったのだが、なにやらエジプト人らしい3人が彫ってある。中心が偉い人で両脇にいる人(女性)が花などを捧げているというデザインだ。うっすらの色付けされているが派手さはない。図柄の周囲を荒い彫りで囲み、側面も同じように彫られている。

中をあけると2段になっていて、蓋部分の裏側には鏡が貼られている。上の段の側面も彫られており、下段にある機械が入れてあるところにも魚や料理道具(?)らしきものが彫られている。鍵穴までついていて、けっこう凝った作りである。底に小さなネジがあって、それを回し蓋をあけると曲が流れる。フォスターの「おお、スザンナ」だ。

このオルゴールが私のものになったいきさつは2年前に書いている。私も妹も欲しがったので、母が通知表に「5」がある方にあげると言ったのだ。後から思えばずいぶんと残酷なやりかただったと思うが、母はさほど深く考えずにそうしたと思う。妹にとっては今でもあまり見たくないものなのかもしれず、探すのに手間取ったのもわからなくもない。

このオルゴール、母はどのようにして手に入れたのだろうか。子どものころ聞いた記憶もあるのに、全くといっていいほど覚えていない。結婚し子どもを育てるようになってから買ったものではないだろう。宝石らしいものを一切持っていなかったし、買えるような経済状態ではなかったし。とすると、結婚前、少なくとも25歳以前に手に入れたものということになる。母は今年86歳になったから計算すると61年前より以前、ということになろう。

今度母に会ったら忘れずに聞いておかなくては、と思っている。だいぶ長い間巻いていなかったので、ネジがきつくなって(錆びたか!?)あまり巻けなくなっており、なんとか巻いて蓋をあけると「おお、スザンナ」がゆっくりと、そして少し淋しげに流れてくる。その音を聞きながら、母のこと、妹と私の関係などについてつらつらと思いを馳せる。それにしても、2年前とほぼ同時期にこのオルゴールについて書くことになろうとは・・・

*3月も終わりか・・・今日は地元の公園で桜まつり。

*カラオケやら何やらの音がけっこううるさいのだー

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| - | 08:18 | comments(0) | - |
ささやかなコレクション

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先日ベランダの整理をしていてトックリバチの巣と思われるものを発見した。やったー!3個目ゲットだぜ!

はじめてこの巣を見つけたのはかなり前になるが、土でできた小さな壺がかわいらしくて見つけると枝などからそっとはがして大切に保管している。使用後の巣なのでハチに迷惑はかけないし、中から何かが出てくることもない。

いびつだが、どう見ても壺である。よく出来ていると思う。泥を運んできて巣を作り中にタマゴを1個吊るすそうだ。そして蛾の幼虫を獲ってきて中にいれて孵化した自分の子の餌にする。指先ほどの小さな壺の中でそうした営みが行われていたと思うと無闇に捨てることができない。

トックリバチはドロバチと呼ばれる仲間のひとつで、スズメバチは近縁に当るらしい。泥で巣を作るのは同じだが巣の大きさも成虫の性格も全く違う。トックリバチは体長10〜15mmほどと小さくおとなしい性格、とのことだ。首の長い大きな徳利を逆さにしたような巣を作るのは、どうやらスズメバチの仲間らしく、造詣の妙に感心することはあっても近くにあると落ち着かないだろう。

この辺りは木が多いせいか部屋の中によくハチが入ってくる。大きなハチが入ってきた時はちょっと緊張するが(羽音がすごい)基本的にじっとして部屋から出ていってくれるのを待つ。一度スズメバチが窓際につり下げておいたリースに巣を作りかけたことがあってあの時はさすがに驚いた。

本棚につっこんであった小さな筒の中に巣を作られたこともあったっけ。筒を数本まとめてベランダにつり下げておいたら、翌年もやってきて巣を作っていた。筒はずっとそのままにしておいたのだが、先月風にあおられて落ちてしまったのでまたつり下げておかなくちゃ。

メジロもヒヨドリも来なくなった。これからの季節はいろいろな虫がやってくる。部屋の中まで入ってくるのはハチだけだが、どれも小さいながら自分の命を懸命に生きている。そういった生きものたちとともにあることが嬉しい。

| - | 08:13 | comments(0) | - |
「愛」と「道徳」

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・・・ビオラの中には顔のようなものをもつものがいる。みんなでこっちを見ている!・・・

道徳の教科書に関する話題が相次いだ。ひとつは「愛国心」を自己評価させる内容が入った教科書があり、専門家の間で疑問の声があがっている、というもの。もうひとつは、愛とはどんなものなのかを考えさせるために漫画「北斗の拳」の中の“愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!・・・”という場面を掲載した教科書があるというもの。どちらもなんだかピンとこないのは、私が道徳観のない人間だからなのだろうか?

あらためて考えてみると、これはなかなか難しい問題である。「愛」も「道徳」もその捉え方は人それぞれだろうから。しかし、私個人としては「愛」と「道徳」は相容れない・・・というかもしかしたら両極にさえありえるものだという感を持つ。

「道徳」というのはベースに「こうあるべきだ」という頭で考えたひとつの理想で、ともすると画一的になりがちだと思う。が、「愛」となるとそのかたちは実に様々であり法律に抵触する愛し方さえありうるのではないだろうか。「道徳」の「道」が人としてあるべき、ありたい道筋のことだとする。そこに「愛」を持ち出してしまうと、人生はかなり退屈でつまらないものになってしまいそうだ。

「愛」はままならぬものだ。何故なら、頭で考えて作りだしたものではないから。心が動かされることに理屈は通用しない。愛ゆえに人は崇高にもなれれば愚直にもなる。60年以上生きていれば、愛ゆえのやさしさ、強さ、悲しさ、愚かさなど様々な人の心の動きを見てきたし自分でも経験してきた。そして、ままならぬもの、理屈におさまらないものだと実感している。

中島みゆきの「たかが愛」という曲が好きだ。愛とはそうしたものだと思う。

たかが愛に迷い、そしてたかが愛に立ち止まらされても

捨ててしまえない たかが愛

*昨日は暑かったー!今日はそれ以上になるとか。

*でも、明日から平年並?身体がついていかない・・・

| - | 07:45 | comments(2) | - |
今年の花見

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今日は9時前に家を出て、昼過ぎに帰宅。家に帰る途中、満開の桜を見つつ「これで今年の花見はおしまい

!」と思った。が、ちょっと待てよ・・・普段ベランダから見ているソメイヨシノの大木の近くにはまだ行っていなかったことを思いだした。毎日見ているのですっかり忘れていたが、そこは私のヒミツのお花見スポットなのだ。

お花見といっても、その下にシートを敷いて酒を飲むわけではない。ただひたすら桜の花を見る。近づいて幹を触り腕をまわして抱きしめる。今年もありがとう、という気持ちを込めて。

ベランダから見える桜は樹齢何年くらいなのだろうか。ソメイヨシノとしてはかなり大きな木である。反対側のベランダからはヤマザクラを見ることができるが、そちらもけっこう大きい。思い切り首を反らせて見上げなければ枝先までは見ることができず、頚椎が弱い私はずっと見上げることができず、同じ動作を何度も繰り返す。

今日は小さな娘を連れたお父さんが通りかかったくらいで誰もいなかった。花は盛りを過ぎて風が吹いたり枝と枝を鳥が往き来したりするたびに花びらがはらはらと舞い落ちる。花吹雪というほどではなく、少し間を置いてはらはら・・・そんな時分ば私の花見時である。

今日もいつもの場所に立って、はらはらと落ちてくる花びらの中、桜の花を堪能した。さしずめ「なんちゃって桜の森の満開の下」である。物語のように冷たい風が吹きすぎることもなく、遠くで子どもの声がする他は余計な音もしない。静かな静かなひととき・・・一人だけで木の下に佇み花を見る時間。計れば5分ほどに過ぎないのだが、私にとっては大切な時間なのだ。

今住んでいるところは環境面では理想的である。駅まで徒歩10分以内。駅からは都心に出やすい。しかし、近隣は静かで木々が多い。今朝は鳥たちの声がうるさいほどよく聞こえた。満開の桜の中を飛び回っているのだろうか。毎日木々を見て、鳥たちの声を聞いて・・・こんな生活はなかなか手放すことができないだろう。

18-0328-2.jpg右下は花盛りのハナモモ。遠くに見えるのは自宅があるマンション。

18-0328-3.jpgマンション敷地内ではヤエベニシダレが満開。

| - | 13:05 | comments(0) | - |
ツリバナ

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ベランダで長いこと育てている(水をやっているだけ)ツリバナが、今年も芽吹いた。高台の3階は思っていたより植物にとっては厳しい環境なのか、夏越しできなかったり冬の乾燥で枯死してしまったりするものも少なくないのだが、ツリバナは健気に生き残って瑞々しい新葉で目を楽しませてくれる。

盆栽にしようと思って買ってきたのだが、購入時すでにひょろっとした樹形だった。文人仕立てのようにしようと思いつつ、剪定を怠ったりいいかげんに切ってしまったりでほぼ放任状態で育っている。鉢は何度か替えたが未だに定まっていない。

ツリバナは好きな木で、毎年つり下がるようにして咲く地味な花、その後できる緑色の実、秋に赤く色づいてはじける様子、どれをとっても申し分ない。友人の庭には大きなツリバナの木があってえ花時は降り注ぐように咲いていたっけ。

きものにうつつを抜かしていたこと、今年の冬は特に寒かったこと、などによりベランダからいなくなってしまったものが例年以上に多かった。しばらくは数を増やすことをせず、もうすこし植物との時間を増やしていきたいと思う。

いつだったかラジオで植物学者の田中修氏が、植物には触覚があると話していた。植物に話しかけるとよくそだつのは本当か、という質問に対して聴覚はないのでそれは無理だが、人間が触るとそれをちゃんと感じるとのことだ。こまめに剪定することも「触る」うちのひとつなのかもしれないし、痛んだ葉を取り去ることもそうだろう。

目で楽しむだけでなく、触れることで植物ともっと近しくなれればステキなことだと思う。

| - | 11:17 | comments(0) | - |
ミリキタニの猫

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見逃したことをずっと後悔してきた映画「ミリキタニの猫」(2006年)をやっと観ることができた。今回は「特別篇」というかたちで「ミリキタニの記憶」も同時上映された。今月初め、友人の誘いでジャズを聴きに行った時、同じ場所でドキュメンタリー映画祭をやることを知り、プログラムの中にこの映画を見つけて内心小躍りした。外に出ていけば、いろいろな出会いがある。貴重な出会いもある。それをあらためて実感。

ミリキタニ、とは人の名前である。ジミー・ツトム・ミリキタニという映画撮影当時ニューヨークのソーホーで路上生活をしながら絵を描いていた80歳の老人。極寒のニューヨークで何枚も重ね着しながらもペンを動かし、クレヨンで色を塗りつぶし、淡々と描いていた自称「グレート・アーティスト」だ。

実際に映画を観るまで、私はユニークな路上生活者を扱ったドキュメンタリー映画だと思っていた。映画になるくらいだから、ただ追いかけただけではなく追いかけるだけの理由はある、とは思っていたけれど。しかし、ミリキタニが抱えていた過去や強い意志、そしてジャンルにとらわれない絵の世界を見て、この映画は作られるべくして作られた作品だと思った。

作られるべくして、ではあるが、発端は偶然の出会いである。監督、プロデューサー、撮影、編集をこなしたリンダ・ハッテンドーフはドキュメンタリー映画の世界で20年以上活躍している人だという。そのリンダがある日ミリキタニに声をかける。彼が描いている猫の絵が欲しいというと、代金の代わりに自分を撮ってくれと言われた。それがきっかけとなりこの映画が誕生したのだ。

カラフルで奔放・・・80歳のミリキタニが描く絵は、上手いのか「ヘタウマ」なのかよくわからない絵だ。日本でも時々路上で自作を並べて売っている人を見かけるが、その類いの人だと思われても仕方ないとも思った。しかし・・・

ミリキタニは日本画の基礎をしっかり学んでいる人だった。映画後半に出てくる若い日の絵を観ると誰もが驚くと思う。墨絵をよく描いていたようで、墨の濃淡を活かした美しい線、勢いのある線を描く人だったのだ。

なぜミリキタニは高齢になってもニューヨークで路上生活をしているのか。映画はそれを明らかにしていく。ジミー・ツトム・ミリキタニ(三力谷勤)は1920年カリフォルニア州サクラメントで生まれた。生後まもなく父親の故郷である広島に移住。高校の夏休みを利用してオークランドに住む叔父を訪ね、一端日本に帰ったもののふたたび「帰国」(ミリキタニの国籍はアメリカ)、優れた日本の芸術を世界に紹介するという志を抱いての帰国だった。

幼いころから絵心があり、絵の勉強もしてきたミリキタニは自分が天性の画家であり、「グレート・アーティスト」であると生涯信じつづけてきた。そんな彼に歴史の大きな波が押し寄せる。第二次世界大戦。日系アメリカ人たちは収容所に集められ過酷な生活を余儀なくされる。ミリキタニも、ワシントンの集合センターを経てツールレイクの収容所に送られた。

ツールレイク収容所は日系人12万人を収容するアメリカ国内で最も規模の大きな収容所だったという。フェンスで囲まれ、アメリカ兵が銃を持って監視していた。ジミーはそこで一人の少年に出会う。少年はジミーになつき、どこに行くにもついてきたという。そして、ジミーに「猫の絵を描いて」と頼んだ。ジミーは絵を描いてやったが、少年は間もなく死んでしまった。強制収容所の過酷な暮らしに耐えられなかったのか。少年はツールレイクの砂漠に埋められたが、その思い出はジミーの生涯につきまとっていたように思う。猫の絵を好んで描いていたのは、少年を思ってのことだったのではないだろうか。

収容所に集められた日系人の多くは忠誠審査を受け、アメリカの市民権放棄を余儀なくされた。放棄するかどうかを弁護士に相談することは許されず、ある者はアメリカへの敵意から、ある者はよく内容がわからないまま、ある者は半ば強制的に市民権放棄に至ったらしい。ミリキタニも市民権を放棄したが、収容所の暮らしは彼にアメリカへの強い敵意を植え付けた。老齢になっても福祉施設に行くことを拒み、年金はいらないといい、アメリカのパスポートなど「クズ」だといい・・・

それでもニューヨークを離れなかったのは、自分が芸術家だから。親戚縁者がみつかってゆっくり暮せることがわかっても、彼はニューヨークで暮し続けた。徐々に周囲とも打ち解けるようになり、絵の教室をもったことにより年金も受けとることにし、単身者用のマンションに住めるようになった。

「ミリキタニの猫」と同時に上映された「ミリキタニの記憶」は2016年に作られた短編だ。「ミリキタニの猫」は様々なところで評判になり、数々の賞を受賞。それをきっかけに親類縁者や昔の知人が次々と判明し、ミリキタニ自身も広島を訪れたりした。「猫」でアシスタント的な役割を担っていたマサ・ヨシカワが監督を務め、「猫」以降のミリキタニを記録している。

中でも写真家の佐藤哲郎さんが撮った路上生活者時代のミリキタニの写真が非常に印象的だった。映画ではしょぼしょぼしているように見えたミリキタニのかっこよさに驚いてしまった。全身から不思議なオーラが出ている。路上生活者であっても誇りを失わず信念を貫こうとする一人の人間のかっこよさ、だろうか。

上映終了後、「記憶」の監督であるマサさんが妙な帽子をかぶって登場し、映画について語った。かなり気さくな方とお見受けしたが、これからどのような作品を創られるのだろうか。販売されていた「ミリキタニの思い出I」「ミリキタニの思い出II」を迷わずゲット。これからじっくり読もうと思っている。

*「ミリキタニの猫」予告編は、こちら

18-0326-2.jpgこんな場所で映画を観るのもオツなもの。

18-0326-3.jpg上映後に買った2冊。

18-0326-4.jpg佐藤哲郎さんが撮影したミリキタニ。

18-0326-5.jpg静かで少し悲しげだが強い意志を感じさせる視線。

 

| - | 09:34 | comments(2) | - |
「桜の森の満開の下」、いくたび

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・・・昨日の目黒川沿いの桜。花はきれいに咲いていたが・・・ふがふが・・・

桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。

この文章からはじまる「桜の森の満開の下」を私は何度読んだことだろう。少なくとも5回は読んでいる・・・いや10回か。最初に読んだのは何年前だったかすでに記憶の彼方だが、毎年桜が満開に近づくとこの作品を思いだす。花見客で賑わう桜の名所の様子がテレビで流されれば、またこの作品を、あるいは「桜の樹の下には屍体が埋まっている」で有名な梶井基二郎の作品を思いだし、安吾や基二郎とはかけはなれた人々の無頓着を微かに軽蔑し、そして羨む。

「桜の森の満開の下」に登場する山賊はたいへんむごたらしい男だ。旅人の持ち物をはぎとるだけでなく、時には全く何の躊躇いもなく命を奪う。山に住む鹿や猪も自分のもの、いやあの山もこの山もオレのものだと思っている。山は彼とともにあり、彼は山でなくては生きることができない。

そんな彼でもひとつ恐ろしいと思うものがある。それは桜の花だ。桜の森の花の下にくると怖しくなり気が変になり、「花というものは怖しいものだな、なんだか厭なものだ」と腹の中で呟く。そして自分の中にある恐怖が不思議でならず、今年こそ考えてみようと思いつつそうせぬまま年を重ねていった。

しかしある時、男は出会ってしまう。都から着た美しい女に。女は夫と二人連れで山賊の山を通りかかった。山賊はいつものように持ち物を奪うだけにしようと思ったのに、女の顔を見た途端に夫を殺してしまう。女は山賊にとって運命の女=ファムファタールだったのだ。

女はたいへんわがままで、山賊がそれまでとらえて家に置いていた女たちをことごとく殺せと言う。山賊はさからえず1人だけ残してすべての女を殺す。血刀を投げ捨てた男はどっと疲れて呆然となる。あたりは急に静まり返り、山賊の目の前にはやるせない風情でたたずむ女がいる。彼はあらためて女の美しさに魂を奪われるが、それと同時に不安にもなる。何が不安なのかわからないのだが、女の美しさに魂が吸い寄せられているので胸の不安の波立ちを気にせずにいられた・・・そして彼は思う。「なんだか、似ているようだな」と。

何に似ているのか・・・桜の森の満開の下、に似ていたのである。どのように似ているのか、何が似ているのか、わからない。わからないことを追求しつづける性格ではなかったから、山賊は今年こそ桜の森の満開の下でじっと動かずにいてやろうと思う。それから山賊と女がどうなったのか・・・ご存知の方も多いことだろうからこれ以上は書かない。ご存知ない方はぜひ本を読んでいただきたいと思う。

そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷たい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは「孤独」というものであったかもしれません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。

| - | 07:45 | comments(4) | - |
さくらクラッカー

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余計なものは買わないようにしよう、本当に必要かどうか熟考してから「ポチッとな」しよう・・・そう思っている。モノが多すぎて徐々に始末していかねばならないし、買ったはいいがほとんど使っていないものも多い。無駄遣い大魔王と言われても仕方ない・・・だから、買い物は心して、と自分に言い聞かせている日々。

しかし、やはり買ってしまうのである。「おもしろいな」「なかなかのセンスだな」と思うものは。高価なものはさすがに思いとどまるが、1000円でおつりがくるようなものは危ない。それでもだいぶ買わなくなったと思うが、先日つい手を出したのが写真のクラッカー。

クラッカーというとパーティなどでパンパーン!と威勢よく鳴らすもので、たいてはカラフルな紙の小片が入っている・・・と思う(あまり使ったことがない)。しかし、こちらは「さくらクラッカー」だ。円すい形のパッケージの紐をひくと、中から桜の花や花びらが飛び出し、舞い落ちるというしかけ。ただの紙片ならうるさいだけなのでちっとも欲しくならないのだが、これには心ひかれてついポチッとな!

4本入りで、それぞれのパッケージに違う桜の名前が書かれている。「染井吉野」「江戸彼岸」「紅枝垂れ」「関山」。漢字表記もいいカンジ。おざなりに「桜」をかたどった紙片ではなく、それぞれの品種の特徴をとらえたデザインがなおよい。見本の紙片が数枚同梱されていて、中味がどんなだか見ることができて親切だ。

実は、同じ会社が作った別の商品を以前手に入れている。商品名は忘れたが四季のクラッカーで、「さくら」「おちば」「あめ」「ゆき」の4種類がパッケージに入っているもの。中味は桜の花、色づいた葉、雨滴、雪の結晶である。これを見つけた時には、世の中には洒落たことを考える人がいるなぁと思った。そして使い道も考えないままいくつか購入し、友人たちにプレゼントした。

クラッカーを鳴らすほどめでたいことはほとんどないし、それ以前にわが家には猫が4匹いる。音にびっくりした後は飛び散った紙片をさらに散らかすことが容易に想像できる。だから、たぶん通常の使い方はしない。ふと思いついたのは、ビニール袋の中で紐をひいて、出てきた紙片を集め、カードに貼ったりラッピングに使ったりする、というもの。なかなかいいアイデアだと思うが、まだ実行していない。使ってしまえばおしまいなので、ちょっと惜しくもある。

サクラサク、サクラチル・・・悲喜こもごもの春である。

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| - | 08:12 | comments(0) | - |
父の桜

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昨日はだいぶ暖かくなって、桜の開花も一気に進んだようだ。東京の桜は今週末には満開になるらしい。私は毎年ベランダから見える桜(ソメイヨシノ)やマンションの敷地内に植えられている桜(ベニシダレ)、あるいは近所の公園で咲く桜(ソメイヨシノ中心だが、近年ちょっと違う品種が植えられている)を見るだけでいわゆる「お花見」には出かけない。桜が日に日に満開に近づき、そして散っていく様を毎日身近なところで見ていると、それはもう見ているというより感じているといった感覚に近くなる。

全くの偶然なのだが、今住んでいるマンションはかつて家族3人で暮したマンションにほど近い。そこには息子が4歳になる年の春に引っ越してきて7〜8年暮した。3階建の小さな賃貸マンションで、私たちは1階の一番奥の部屋だった。

最寄りのコンビニに行く途中、そのマンションの脇を通る。先日通りかかった時に、敷地の一番奥(つまり私たちが住んでいた部屋の近く)に植えられているソメイヨシノが咲いていた。私が住んでいたころはそれほど大きな木ではなかったが、ソメイヨシノは生長が早い。現在地に引っ越してすぐに見た時はかなり大きな木になっており、月日の流れを感じたものだった。

先日見た時、その木は花こそ咲いているがかなり剪定されて無残な姿をしていた。たぶん枝が伸びて隣の敷地に入ったり一番近い住戸のベランダに入ったりしたのかもしれない。それにしても「剪定」というのはあまりに乱暴な切り方に見えた。邪魔な枝はどんどん切ってしまえ!早く仕事を片づけよう!という思いが透けてみえるような。

木の生長のための剪定ならいい。しかし、あまりにひどい剪定、伐採がやたらと目に付く昨今である。それを見るたび悲しい思いをするのだが、あのマンションの桜には思い出がありなおさら悲しくなった。

末期の肺ガンで手術をした父は余命1年と言われ、自宅での療養を選んだ。あのマンションに引っ越してきて2年くらい経ったころだったと思う。母と妹の意向で本人に余命は告知されなかったが、父はうすうす感じ取っていたのかもしれない。ひたすら自宅にいることを望んだ。

片肺を取り、その後放射線治療をした父は酸素ボンベを装着しての散歩は許されていた。しかし、放射線治療は父の体力を想像以上に奪ったようで、ちょっと歩いてもつらくなって散歩どころではなかった。一度、近所の桜が見たくて出かけたらしいが、目的地につく前に具合が悪くなり真っ青な顔をしてなんとか家に帰った・・・という話を聞いた。

私はマンションの敷地で咲いている桜の枝を1本、父に持っていった。ちょうどベランダに枝が伸びていて花を咲かせていたので、悪いこととは知りながら1本だけいただいた。一枝の桜を見た父は、弱々しい笑顔で「これでやっと花見ができるな!」と言った。まだ桜は咲いているから、体調をみながらもう一度行ってみたら?と私は言ったが、父も私ももう二度と父が桜を見に出かけられないことはわかっていた。

あのマンションの桜にはそんな思い出がある。いつまでも花を咲かせてほしいと願っていたが、あのような扱いを受けていたのでは楽観視できない。

父と桜、といえば、もうひとつ覚えていることがある。中学生まで北海道で過ごした父にとって桜といえば八重桜(サトザクラ)だったようだ。子どものころ近くの大学の構内を散歩していた時に1本の関山(カンザン・濃い紅色のサトザクラ)を見て父は立ち止まり、きれいだなぁと言った。その言葉には単にきれいなものを見たというだけでなく、どこか郷愁が混ざっていたような気がした。

関山は葉も赤っぽく、華やかといえば華やかだがどこか垢抜けない感じがして私はあまり好まなかった。しかし、父の好みには合っていたようだ。そしてそれだけで私は関山を見るとなつかしくなるのである。

***

父の桜ではないが、昨年亡くなった伯母の家の前にもソメイヨシノがあった。小さな公園に植えられている木で、昨年4月7日に私が断りもなく伯母の家を訪れた時満開を迎えていた。あの時はまだ、伯母は生きており、自分の家におり、暗い部屋のベッドの上に腰掛け、下を向いて話をしていた。話すうちにだんだん表情が明るくなり、最後は笑顔を見せて私の手をとり「あなた、手が冷たいわねぇ」と言った。

止むに止まれぬ気持ちで伯母を訪れたが、来客を望まぬ伯母にとってそれがいいことだったかは今でもわからない。伯母の家の玄関を出てしばし立ち止まり公園の桜を見上げた。その日から2週間後、伯母は入院し5月6日に他界した。来月には一周忌の集まりがある。

特別好きというわけでもないのに、桜には忘れ難い思い出がつきまとう。桜とはそういう木なのかもしれない。

18-0323-2.jpg伯母の家の前の桜。2017.4.7撮影

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22日は猫に語らせる日・・・3月担当:ふく

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・・・すみごんにほめられている「こうばこ」スタイル。あしがみえちゃダメだもんね・・・

みんな、おはよう。ふくだよ。みんなのにんきもの、ふくちゃんだよ。

ふくは、あいかわらずげんきいっぱいだもんね。でも、きのうはとってもさむかったもんねー。「ゆき」っていうのがふってきて、すみごんは「さぶいーさぶいー」って。ふくたちの「ゆたんぽ」はもうしまわれちゃったから、よけいにさむさがこたえるもんね。すみごんは「ふくちゃん、ちっともさむそうにみえないよ。からだがふくふくしているから」っていうけど、ふくだってさむいときはさむいもんね!おばばたちは「あんか」をつけてもらっているからいいけどさ。

そうそう。びっぐにゅーすがあるもんね。あのね、ふくは、「ねこきんし」のすみごんべやにはいることが「きょか」されたもんね!(許可というか、あまりにしつこく入ってくるので根負けしたっていうのが実際のところです。by飼い主)。このへやは、まえにいたゴンだっってはいれなかったんだよ。でも、ふくはじぶんでドアをあけられるからなんどでもはいっちゃうもんね。へへーん!

へやにはいると、そとがみたくなるもんね。だから、すみごんのつくえのうえにのぼってうろうろするもんね。めのまえにいるとなんだかじゃまにされてふくは「ふふく」だもんね。でも、つくえのかどにおいてあったものをどかしてくれて、ふくのばしょをつくってくれたからゆるしてあげるもんね。さいしょからそうすればいいのにさ。

ふくが、すみごんべやにはいると、うしろのほうでダイスケがうらやましそうにみているもんね。でも、あいつは「しょうしんもの」だからびくびくしてなかなかはいってこないもんね。へやにいるすみごんとめがあうと、いちもくさんでにげていくもんね。おこられていないのに。ほんとうにへなちょこなやつだとふくはおもうもんね!

でも、ダイスケは「やきのり」をもらうときだけ「ひょうへん」するもんね。けさも、ふくがたべかけているのをよこどりしようとしたり、てをだしたりしたのですみごんにしかられたもんね。いつもはへなちょこなのに、「やきのり」がでてくると「やせいか」するもんね。そのてん、ふくは「はこいりむすめ」だから、そんなげひんなことはしないもんね。だいたい、よこどりしようとしたってむだだもんね。ふくは、むだなことはやらないもんねーだ。

くろっぽいおばちゃんは、さいきんすみごんがリビングにくるとなでてもらいたくってでてくるもんね。あまりにしつこくでてくるから、すみごんは「まーちゃんをなでるためにきたんじゃないよ」っていってるもんね。すみごんは、しつこいのがきらいだから、このまましつこくしつづけているときらわれちゃうもんね。でも、そのぶん、おっさんがくろっぽいおばちゃんをあまやかしているから「ばらんす」はとれているとふくはおもうもんね。

ちゃしろのおばちゃんは、あいかわらず1しゅうかんに1ど、クリニックにいっているもんね。さいきんは、あきらめたのかなれたのか、いくときもにげなくなったもんね。かえってくると、「あーすっきりした」っていってたもんね。う○ちはじぶんでださないといけないのに、おばちゃんはおとしよりなのでだせなくなっちゃったんだってさ。ふくなんか、まいにち「かいしょくかいべん」で、だしたらちゃんと「ねこずな」でかくすもんね。うちのほかのやつらは、この「ねこのおさほう」をまもらないもんね。しょうがないやつらだと、ふくはおもうもんねー

ふくは、かわいいくびわをしているもんね。あかっぽいかわいいがらで、「すず」がついているもんね。すみごんが「ふくちゃんはゆだんたいてきだから、すずをつけたほうがいい」っていったらしいけど、すずをつけてもむだだもんね。みんなのすきをついて、ふくはいまでもゴミふくろをやぶいたりしているもんね!

ちょっと「けしからん」っておもうのは、ダイスケがまえにゴンがつかっていた「こうきゅうくびわ」をつけてもらったことだもんね。「いひん」としてたいせつにしていたけど、「そろそろゴンもいいっていうとおもうから」といって、ゴンとけいろがにているダイスケにゆずったもんね。まえよりちょっとだけかっこよくみえるのがしゃくにさわるもんねー。でも、いい「くびわ」をつけても「なかみ」がかわらないからむだなことだとふくはおもうもんね。

らいげつは、そのダイスケのばんだもんね。まいあさ、うるさくないてすみごんをおこして、「ダイちゃん、うるさーーーい!」っていわれているけど、おなかがすくとがまんできないらしいもんね。ふくは、ないたってさわいだって「あさごはんのじかん」にならないともらえないのがわかっているから、じっとまっているもんね。それでもおきないときは、ダイスケみたいになかないで、すみごんのうえにのっかって「ぜんたいじゅう」をかけるもんね。すみごんは「ふくちゃん、おもいたいよぉ」っていいながらおきるもんね。なくより、のしかかったほうが「こうかてき」だってこと、ふくはちゃんとしっているもんね!

きょうからまた、すこしあったかくなるらしいもんね。すみごんべやのまどぎわにおいてある「ふくちゃんばこ」でおひるねをしようかとおもっているところだもんね。じゃ、ばいばい。

18-0322-2.jpg「ふくちゃんばこ」はなかなかいごこちいいもんね!

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