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ガンという病

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・・・川崎市民ミュージアムにある「トーマス転炉」。すごい存在感だ。・・・

 

「ガンには怖い感じの言葉が目立つ」という記事を見かけた。なるほど、「余命」「宣告」などまるで罰を与えられるような、怖い感じの言葉がガンにはつきまとっている。そして、ガンに罹った人たちが、「ガンと闘っていきます」と気丈に語ったりもし、その闘いの壮絶さを想像させている。

しかし、ガンも一つの病である。日本人の2人に1人はガンになり、3人に1人はガンで亡くなる・・・とまで言われていることを考えると、最もポピュラーな病気だといえる。それなのに、決定的な治療法が確立していない(ステージによるが)ということからなのか、「死病」イメージが未だにつきまとっているように思える。そして、「死」は誰でも怖い。「怖い」というイメージが理性を失わせることになったり、もしかしたらかえって死期を早めたりしているのかもしれない。

それでもここ数年、ガンに罹った自分を冷静に受け止めて「ガンとつきあう」自分を公表する人たちがちらほら出てきた。先の記事に登場する絵門ゆう子さんという方も、「余命、告知、宣告、生存率」といった言葉が患者を追いつめると怒っていたという。また新聞記者自身が自らのガンを公表し、ガンについての記事を連載していたと思う。今まで「死病」としてタブーだったガンのカミングアウトは珍しいことではなくなってきている。

俳優の小西博之さんは、「闘病という言葉をなくしたい!」とあるイベントで叫び、「ガン闘病ではなく、ガン治療でいいじゃないか」と語ったという。いくら治療しても完治しない、あるいは少しずつ死期が近づく病であっても、なんらかの医療行為を受けるのであれば「治療」でいいと私も思う。必要以上にガンの「怖さ」を感じさせるのはもうそろそろ終わりにした方がいいのではないだろうか。

私もたぶん、ガンになってガンで死ぬだろう、と思う。他の病気になるかもしれないが、今までを省みるとやはりガンかな。両親、親類もほとんどがガンに罹っているし、脳梗塞や心筋梗塞になりそうな所見は今まで経験していないし。そして、ごく初期ではあったが自分自身もガンになったことがあるし。

そう思っているので、ガンと診断されたらどうしようかと普段から考えている。まず、手術して完治する可能性がないなら手術はしないかもしれない。したとしても、放射線治療や抗がん剤治療はやらない。痛みだけを抑えてもらって、できるだけやりたいことをしたい。尊厳死協会にもう一度入って、周囲の人たち(家人と息子)にも再度自分の意思を伝えておかなくては、と思っている。

残りの日々を「闘い」で費やしたくはない。ガンと向き合い、つき合いながら「ガンになってもまだ生きている人間」として、肩ひじ張らずにいられればいいと思っている。なかなか簡単にはいかないことだろうとは思うけれど。

***

お気付きの方もいらっしゃると思うが、1月、2月ともPHOTO WEEKなしだった。なんのことはない、あまりに寒いので写真を撮りに出かけなかっただけで、来月あたりから復活させたいと思っている。5年前くらいだったら、いくら寒くてもあちこち出かけたなぁと思うと情けないことである。当時より今の方がずっと時間はあるというのに。それだけ老いてきたのだと思うが、老いに甘えるのはそこそこにして少し気合いを入れないと!と思う今日このごろ。

| - | 09:36 | comments(0) | - |
「快楽の園」

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一昨年あたりから画家をテーマにした映画が多く上映されている・・・ような気がする。いちいち記録していないので数まではわからないが、「あ、まただ」と思ったことは覚えている。見たいと思っていたものの見逃してしまったものもある(たとえば、「ゴッホ最後の手紙」など)。

昨日は数あまた存在する画家の中でもかなり不思議な絵を書いた画家を取上げた映画を観てきた。このところ展覧会ばかり行っていて映画をチェックしわすれていたのだが、危ういところで気づいた。セーフ!

観たのは「謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス」である。以前、「バベル」展について書いた時(昨年4月23日)にも触れたが、かの「快楽の園」を描いたと言われている画家だ。この絵の不思議さについては今までもあちこちで取上げられているが、今回の映画もまたその謎の奥深さに観る者を誘う内容になっている。

そもそも、ヒエロニムス・ボス本人についての記録がほとんどない。どういう人だったのか全くといっていいほどわからないのだ。没後500年、現存する作品は25点のみ。肖像も自画像もないのだ。

「快楽の園」(この題名も後から付けられたもののようだ)はボスの代表作にして美術史上最も異才を放つ傑作として知られている。所蔵しているプラド美術館の全面協力を得て作られたのが今回の映画で、各界の知識人たちが思い思いに絵について語るという構成だ。

歌手、音楽家、作家、歴史家、哲学者、漫画家、美術史家、神経科学者、修復家、学芸員・・・「快楽の園」を詳細に観ながら、ある人は分析し、ある人はひたすら驚き、ある人はさらなる謎を発見する。多彩な反応を見ているうちに、この絵ははじめから鑑賞者にゆだねるつもりで書いたのではないか、あるいは系統的な謎ではなく断片的な謎をいくつも象徴化してボスだけにしか作りえぬ世界を描いたのではないか、などと思えてくる。

それにしても見れば見るほど興味深い絵である。色やフォルムは美しいが、ひとたび「これは何だろう?」と解釈しようとすると奇妙なこと限りない。いつまでも見ていたくなる、見ているうちに別の世界に入り込んでしまいそうな絵・・・「悪魔のクリエイター」と呼ばれたこともあったという話にも頷けるものがある。

また、この絵が祭壇画として描かれたということにも興味を覚える。とてもじゃないが、おごそかな祭壇に掲げられるような絵ではないように思うのだが、たとえば日本にも「地獄絵」のようなものがあるわけだから不思議ではないのかもしれない。しかし、おぞましさもまたすべて寓意的に表現されているものだから、意図がわからず見るものはそこでずっと立ち止らざるをえなくなる。

悪魔的といえば悪魔的なのかもしれないが、私はそういうものに滅法弱い。実際にじっくり見てみたくなる。また、三連の祭壇画なので普段は閉じられているこの絵の扉がゆっくりと開かれていくところも見てみたい(映画ではそんなシーンがある)。かなりワクワクしそうだ。

先日横浜美術館に行った時、ミュージアムショップに展示されている(もちろん販売もしている)ボスの絵に出てくるキャラクター(?)のフィギュアを見てきた。まだあってよかった。いつか一つか二つは欲しいものである。

映画とは全く関係ないのだが、今回も利用した映画館にはスタンプカードがあり、1年間で8個スタンプがたまると1作品無料で見られる。昨日で8個になったのだが、期限が明日まで(^^;) さて、どうするか。見たいものもあるので、また行こうかな。

18-0227-2.jpg“tree man”と呼ばれている奇妙な登場人物(?)

| - | 09:12 | comments(2) | - |
この人を見よ〜沖縄の写真家・石川真生さん

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・・・写真展リーフレットより拝借!見れ!・・・

 

オリンピックが終わり、過熱報道も一段落するかと思うと少しだけ嬉しい。当初は政治的利用云々というような問題がとりあげられていたが、日本選手の活躍が続くとみなさん政治のことなどあっさり忘れてしまうらしい。

それはさておき、今月15日の記事でも紹介した「大琉球写真絵巻」について、石川真生さんが毎日新聞のインタビューに答えている動画を最近見つけた。そして、あらためてこの展覧会の重要性を感じ、多くの人に知ってもらいたいと思った。

インタビュアーに対して真生さんはざっくばらんな口調でテキパキと答えている。ユーモアを交えながらではあるが、その言葉には有無を言わせぬ決意が込められている。ヤマト(本土)の人たちの無関心さへの怒りの言葉は、気にしつつ何もしていない自らを省みれば「ごもっとも」と言うしかなく、罪悪感すら感じてしまう。

今回の展覧会は私が予想していたように「政治的な内容」だということを理由に断った施設があったようだ。そして真生さんは言う。“この沖縄のものをそういう風に言う人がもしこれからも出るとしたら、「おバカ」だと思っている。沖縄を「政治的だ」と言うんだったら、じゃあ、あんたたちは「何的」なの?って感じなんだけど”

報道の自由、表現の自由が脅かされていると感じはじめて久しい。とくに「政治的」な事柄になると極端な忖度が働いているように思えてならない。今回の展示もまさに本土では忖度づくめだたのではないだろうか。結果的に、もっともふさわしい場所での開催にはなったと思うが、より多くの人たちの目に触れることを目的とするなら、アクセスのよい都内の施設が望ましい。引き受けるところがなかったのかと思うと残念だ。

昨日の日曜美術館のアートシーン(番組の最後にいくつかの展覧会を紹介するコーナー)でこの写真展の紹介がされていたが、なにゆえ会期が迫ってからの紹介であったのか、と思う。しかも、ごくあっさりとした紹介で物足りないことこの上ない。あれが精いっぱいだったのかもしれないが、「とにかく取上げましたから」といった態度を感じてしまった。

内容が内容だけに、いわゆる「ネトウヨ」などからの攻撃も真生さんは頭に入れているようだ。その上で、“どの写真を出す時も、どんな反応があても受け止める覚悟で出している”と腹をくくっている。これはまさに本当の覚悟だと私には思える。昨今のネットを見ればわかるように、陰湿な攻撃が無意味に繰り返されており、それを想定しながら意志を通すことは決して簡単なことではない。

私が石川真生という写真家を知った時点で、すでに真生さんは人工肛門をつけていたと記憶する。そんな自分の写真を公開し、自らがある意味裸になった状態で写真を採り続ける覚悟を表明しているように私には思えた。そして昨年には「ステージ4」の癌が発見された。ライフワークである「大琉球写真絵巻」の「パート4」が進行している最中であり、ニューヨークで写真集の出版記念パーティ、写真展が企画されているタイミングだった。

しかし、真生さんは治療より写真を優先させた。医師と話し合いを重ねつつ、手術は受けるが副作用の強い抗がん剤治療、放射線治療は受けないことに決め、手術にのぞんだ。facebookにはそのあたりの近況が逐一報告され、陰ながら回復を祈っていた。

そして、持ち前のバイタリティで真生さんは渡米を果たし、そして今は「パート5」の撮影中ということだ。この人の腹の括り方は生半可なものではない。沖縄の現状への反応の薄さにショックを受け、「沖縄の写真家による沖縄の写真」を見れ!見れ!と言っていたエネルギーがトーンダウンしているそうだが、私のように歯がゆい思いをしながら沖縄に注目している者も多いと思う。

写真展の会期は3月4日まで。次の日曜日までである。もうあまり時間はないが、私も繰り返して言いたいと思う。見れ!見れ!と。

●「石川真生 大琉球写真絵巻」原爆の図丸木美術館

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「仁和寺と御室派のみほとけ」

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・・・左奥で笛を持つ「迦楼羅(かるら)王」がお気に入り・・・

やっと上野(「仁和寺と御室派のみほとけ」)に行ってきた。ぽかぽか陽気の暖かい日でよかった。これも、みほとけの・・・(冗談ですよ)。ここ数年、東京国立博物館(トーハク)は目が離せない存在で、これでもか!という企画展を催しつづけている。あまりの混雑ぶりにあきらめたものもあるが、今回はあきらめないよう前売り券を買っておいた。twitterで混雑状況が逐次アップされるのはありがたい。

仁和寺は宇多天皇が父である光孝天皇の菩提を弔うために立てた古刹で、仁和4年(888年)創建。真言宗御室派の総本山であり、世界遺産でもある。宇多天皇ゆかりの寺として皇室出身者が代々住職を務め、平安〜鎌倉時代には門跡寺院として最高の格式を保ったそうだ。しかし、応仁の乱で一山のほとんどが焼け、本尊の阿弥陀三尊などは仁和寺の院家であった真光院に移された。江戸時代に再興がはじまり、正保3年(1646年)、伽藍の再建が完了した(仁和寺のサイより)。

由緒ある寺だということはぼんやりとわかっていたつもりだが、仁和寺というとまず学生時代に古文の教科書に出てきた「仁和寺にある法師」(徒然草)が頭に浮かんでしまう。

仁和寺にいたある法師が長年望んでいた石清水八幡宮への参詣を決意して出かける。極楽寺と高良神社に行き、参拝した人々がみな山に登るのを不思議に思いつつ、自分は行楽に来たのではないとそのまま帰り、同僚たちにそのすばらしさを自慢した。しかし、石清水八幡宮は山頂にあったのだ。せっかく行ったというのに。何事にも案内者はいてほしいものだ、と作者(吉田兼好)の感想に軽い皮肉が含まれている。

今回は、仁和寺創建当時の本尊である国宝「阿弥陀如来坐像および両脇侍立像」、秘仏・国宝「薬師如来坐像」など仁和寺が誇る仏像に加えて、全国の御室派寺院から貴重な秘仏などが集まり、合計66体が公開されている。滅多に見ることができない仏像が多く、とくに葛井寺の国宝「千手観音菩薩坐像」は展覧会の目玉として注目され、私もこれが一番見たくて出かけたのだった。

さすがとしかいいようのない内容だった。仁和寺の観音堂を再現したコーナーは唯一撮影が可能で人だかりがすごかったが、居並ぶ仏像や壁画の見事なこと。真言宗の中心的存在である大日如来像もいくつか展示されており、みうらじゅん氏ではないがあの「智拳印」はやっぱりかっこいいなぁ、などと感心。密教の仏像のキテレツぶりも堪能できた。

さて、千手観音菩薩坐像である。これはもう圧倒的な存在感だった。一般的に千手観音は40本の手を持つ。1本の手に25の力があるとし、掛け合わせて「千手」とする。しかし、葛井寺の国宝は実際に千の、いや合計して1041本の手を持つのだ。すごいぞー!そして、手のひらにはそれぞれ目が描かれ「千手千眼」の菩薩なのである。奈良時代のもので、国内で最古の千手観音と言われているらしいが、「千手」なのだから千本の手を作る、という純真な信仰心が感じられて見る者の胸を打つ。この像の前で祈れば、千本のうちどれか1本が自分に差し伸べられるかもしれない・・・そんな思いを抱かせる。

見どころはたくさんあり、書きたいことも多いのだがすでに長々と書いているのでこの辺りでやめておく。混在ぶりは予想どおりで会場は暑いくらいだった。しかし、内容を見ればさもありなんと諦めるほかなく、自分の目で見られたことだけでもよかったと思っている。

前売り券は「千手アームクッション」付きのものを買った。ふかふかで手首に当てると気持ちいい。手は左右あるようだが私のは左手。手のひらにはちゃんと目がある。展覧会用かと思いきや、フェリシモで販売されていた!会場で私が受け取るところを見て羨ましそうにしていた人!買うこともできますぜ!

*げ。千手のイヤリングなんていうのもある。

光背アンブレラ!フェリシモ、なかなかやりますな。

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| - | 10:25 | comments(0) | - |
染の小道

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昨日はきもの友だちに誘われて「染の小道」探索に行ってきた。西武新宿線・中井駅周辺で毎年行われているイベントで、染色に関する様々な展示やイベントが行われている。中井・落合周辺は大正時代から川沿いに染色産業が発展し、昭和30年代までは妙正寺川で反物を洗っていたという。

昨日も染色をやっている人や地元の小学校の生徒たちの作品がずらりと川に掛けられ、かつての風景を再現していた。寒かったがけっこうな人出で、友人たちと3人ぶらぶらあちこちをのぞいて染色の世界を楽しんできた。

一口に「染め」「染色」といっても技法は多岐に亘り、私が知っているものなどほんの一部。体験コーナーが各所に設けられていたので、一度はそんなものを自ら体験することによって奥深さも少しは理解できるのではないか・・・と思いつつ、今回ははじめてなのであっさりと見て回るだけにした。

私はバティック(ろうけつ染め)、型染めなどが特に好きで、そんな作品もたくさん見ることができた。タマネギの皮を使った草木染めも興味深く、やはり天然染料の色は優しく、そして奥も深いと実感した次第。染色に関するものだけでなく、小物類を販売する小道もあったりして、「市」の賑わいも感じることができた。

このイベントのように、昔からあった地域の産業を新しい視点で見直すイベントはもっともっとあっていいと思う。なにもかも効率重視、コスパ重視の世の中になったからこそ、手をかけ時間をかけてものを作ることのすばらしさを自分の目で見たり体験したりすることは人生を豊かにしてくれる、と思うのだ。

染色とは全く関係ないのだが、小道のはずれに木工品を置いて販売している人がいて、不思議なものを発見。凹凸がある長方体の木のブロックなのだが何に使うものなのかわからない。思わず聞いてみると、店主(?)が喜んで説明してくれた。なんとしれはスマホ用のスピーカーだった。へこんだところにスマホを置いて音楽(音声でもいいのだが)を流すと、あらあら不思議きれいに聞こえるのであった。電源など全くないのに・・・とそのあたりの知識が全くない私はただただ驚くばかり。素材は4種類ほどで確か楢、橡、桜、シャム柿だったと思う。シャム柿とははじめて聞いた木だが、調べてみると柿の仲間ではなくムラサキ科の広葉樹らしい。メキシコなど南米原産。他の木材よりあきらかに黒っぽく重厚感があった。

お値段は5000〜6000円。決して高いとは思わないが、財布と相談して今回は見送った。手軽にスマホの音楽が聴けるので(radicoも聞けるな・・・)便利に使えそうなので、名刺をもらっておいた。千葉に工房があるらしい。

どこへ行ってもおもしろいものを見つけてしまうのは、いいことなのか、困ったことなのか。まあ、いいことだとしておこう!(^^;)

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猫ってやつは・・・

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昨日は、わが家のまめこも書いていたいが「猫の日」だった。各所で「猫の日」にちなんだイベントが行われたり、猫関連の商品が発売されたり、と猫は相変わらずの人気者である。動画サイトを見ても猫の様子を伝えるもの(おもしろいのは、やはり猫が何かに失敗するシーン)が溢れるほどあって、猫飼いはみなにやにやしたり大笑いしたりして見ていると思われる。

前日21日の毎日新聞紙上でも取上げられ、空前の猫ブームについて養老孟司氏などへのインタビューが掲載されていた。養老先生曰く、猫は「人生の達人」であり、「人生100年時代の見本」だそうな。猫ののんびりした様子を見ていると、あれこれジタバタしていることがバカらしくなる・・・云々。確かに。

最初に猫を飼ったのは40年近く前になるから、猫とのつき合いも長くなってきた。そして付き合えば付き合うほど、猫ほどおもしろい動物はいないと思うようになった。犬と飼い主は主従関係だが、猫とは「主」も「従」もない関係になる。姉妹のようだったり、親子のようだったり、友だちのようだったり。

猫は感情表現が犬に比べて控えめなので、時に「何を考えているかわからない」「冷たい」と言われる。しかし、飼ってみるとけっこう考えていることはわかるし、あちらもこちらの頭の中を見通しているようなことがある。人間同様、猫にもそれぞれ個性があり、「猫らしさ」という人間が考えた枠に収まる猫はいないと思う。こちらの期待を鮮やかに裏切ったり、思いもしない慰めを与えてくれたり。

猫には飼い主を思いのままにあやつる力がある、と言われることがある。確かにそういうことはあると思う。あやつる、というと意図的に思えるかもしれないが、人間があやつられたいと思っているからそう見えるだけなのかもしれない。気づけば猫中心の生活になっている、なんていうことはよくあるが、これも猫に対する愛情の結果であることが多い。

最近楽しみにしているのが、「ねこのきもち」サイトで連載されている「男の猫道」という4コマ漫画だ。年齢や職業が違う男性と飼い猫の「あるある」話だが、簡潔な4コマに集約されたエピソードが楽しいのだ。やはりどの男性も猫に振り回されたり、困らされたりしているが、みんなそれを内心楽しんでいるように見える。

わが家も相当猫に振り回されている。猫同士の相性が悪くていざこざが起きたり、ボロボロの壁を修繕したり、破られたゴミ袋周辺にひろがる生ゴミを拾って掃除したり・・・朝は早くから起こされ、夜は寝ているところをズカズカと踏まれ・・・それでも「よしよし」「しょーかしょーか(そうか、そうか)」とにやついている人間2人。

最近、ふく(白黒・♀・今年の6月で3才)が私の部屋に入ってくるようになった。いや、前から入ろうとしていたのだが、いちいち追いだしていた。仕事部屋でもあるので、ケーブル類が多く遊ばれると困ることになるからだ。しかし、もはやここは禁断の部屋ではなくなってしまった。ドアを自分で開けて、わが物顔で入ってくる。しばらく様子を見てみたが、ケーブルでじゃれるということはなさそうだし、仕事もさっぱりヒマになってきたので、まあいいか、ということに。一度「まあいいか」と許した後、「やっぱりダメ!」と理不尽なことは言いたくないので、よほどのことがない限り、ふくは出入り自由。ただし、お一人様に限る。ドアの外でダイスケが羨ましそうに見ていることがあるが、人間の子ども同様複数になったら何をしでかすかわからないからだ。

猫は外を見るのが好きだ。風で枝が動いたり、鳥が飛び交ったり・・・それらを長い間じっと見ている。外を見るには高いところが最適で、はじめのうち床に座って外を見ていたふくも、視野が狭いのがいやだったのかデスクの上に上がるようになった。最初はいちいち下ろしていたのだが、面倒になってきて(重い!6 キロ近くある!)、今まで細々としたものを置いていた場所を空けて特等席を作ってやった。

しかーし。その一番見晴らしがいい特等席に満足するかと思いきや、しばらくそこで外を見た後は私の目の前に来る。モニターと私の間に来て視野を遮り、時にキーボードを踏みつけたりする。こらこら!と言うとこちらを向いて「かわいい顔」で近づいてくる。そっと身体を押して少しずつ邪魔にならない場所に押しだすが、少しするとまた目の前に・・・やれやれ。

ああ、猫のペースに巻き込まれているなぁと思いつつ、時々背中を撫でながらキーボードをたたいていたりする(今も)。眠くなると、ふくのために置いたダンボールの中に入ってうとうとしているが、このダンボールも狭い部屋の中ではけっこう邪魔なのである。それでも置き続けているあたり、やはり猫のペースに組み込まれてしまっているなぁ。

「今日も寒いねぇ、ふくちゃん」「ヒヨドリが来るといいねぇ、ふくちゃん」「そろそろごはんにしようかねぇ、ふくちゃん」「外のコたちはたいへんだねぇ、ふくちゃん」「ふくちゃんはあったかい部屋にいていいねぇ」・・・ふくは何も答えない。しかし、私の話を聞いていないわけではない。ちゃんと聞いているのは顔を見ればわかる。この柔らかくてあたたかくて意のままにならないイキモノと私は死ぬまで付き合っていくことだろう。

| - | 08:15 | comments(0) | - |
22日は猫に語らせる日・・・2月担当:まめこ

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おはよう。まめこなの。きょうは「ねこのひ」なの。なんか、おいしいものもらえるかなってきたいしているけど、ぜんぜんそんなかんじがしないの。すみごんは、「きょうは、ねこのきってがはつばいされるから、ゆうびんきょくにいかなくちゃ」とかゆってる。きってなんか、ちっともおいしくないから、まめこはいらないとおもうです。

きょうのしゃしん、まめこはきらいなの。だって、むりやりとられたしゃしんだからなの。いつも、「まーちゃん、しゃしんないね。ぶろぐのとうばんだから、しゃしんとろうね」って、すみごんはゆうけど、つねひごろまめこのしゃしんをとろうとしないから、ぎりぎりになってこういうことになるの。そいでもって、おっさんに「めいれい」して、まめこをだっこさせたりするの。

まめこは、しゃしんとられるより、「せなかすりすり」「こしぽんぽん」がすきだから、ふまんなかおになっちゃうの。みみなんかおもいきり「いかみみ」になってるの、わかるでしょう?「まーちゃん、めつきがわるい!」ってゆわれたけど、いやだからめつきもわるくなるの!

さいきん、しろくろのでぶがいないことがあるの。いつも、のっしのっしあるきまわっているのにおかしいな、っておもっていたら、すみごんのへやにはいりこんでいるらしいの。けしからん!って、まめこはおもうです。だって、あのへやは、「ねこきんし」のはずだよ。ゴンだって、いれてもらえなかったんだよ。なんであのでぶははいっているのか、まめこはとってもふふくなの。

そいでもってさ、あのでぶ(ふくっていうなまえだけど、でぶでいいの)は、よるになると、すみごんのふとんのなかにはいって、ぬっくぬくになっているの。まめこなんか、いすのうえでまるまっているのにさ。あいつはなんでもゆるされるとおもって、ちょっと「いいき」になっているとまめこはおもうです。

みかんは、ときどきおっさんのふとんのなかにはいってねているらしいよ。だって、みかんの「ねこべっど」をときどきあのちゃしろのいやなやつがよこどりするから。おこればいいのにさ、みかんたら、「どうしよう、あたしのいばしょがない」なんて、ぶつぶつゆってるの。わかいやつらは、みんなずうずうしいとおもうです。

まめこね、こないだ「ちょうひさしぶり」に、でんぐりがえりをしたの。にんげんみたいにできるんだよ。でも、むずかしいからなかなかきれいにきまらないの。こないだは、「せなかすりすり」をいっぱいやってもらって、いいきぶんだったからできたとおもうの。まめこのでんぐりがえりをみたかったら、もっともっとまめこをかわいがらないとだめなの!

そうそう。すこしまえに、おっさんが「ねずみ」のおもちゃをかってきてくれたの。まめこだってあそびたかったけど、わかいやつらががんがんあそんで、あっというまに「ねずみ」はぼろぼろになっちゃったの。またかってきてほしいの。そいでもって、まめこだけにつかわせてほしいの。あの「ねずみ」、とってもいいにおいがするんだよ。ねこだったら、だまっていられないにおいなんだよ。

あ、そうそう。まめこたち、みんな「くびわ」があたらしくなったんだよ。みかんがせんげつかいたってゆってた。でもね、まめこのだけすこしほそくて、いろが「じみ」なの。すみごんは「まーちゃんは、しっくなものがにあうから」ってゆうけど、「じみ」と「しっく」はちがうとまめこはおもうです。もっとかわいい「くびわ」にしてほしいの!

らいげつは、ずうずうしい(すみごんは、ただまっしぐらなだけってゆうけど)しろくろのでぶのばんなの。まあ、あいつはまめこにたいしては、ちょっと「えんりょ」をするのでおおめにみてあげているけどさ。あいつの「くびわ」は、あかくていちばん「はで」なの。それでなくてもめだつやつなのに、よけいにめだっているの。ずるいとまめこはおもうです。おしまい。

*みんなが好きな「ねずみ」は、これ。さっそくダースで注文!

| - | 08:51 | comments(2) | - |
MJ's FES

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上野に行かねばという焦りをとりあえず横に置いておき(^^;)、昨日は川崎市民ミュージアムまで行ってきた。本当に久しぶり。一昨日の朝、何気なくネットをうろうろしていて「MJ's FES みうらじゅんフェス!〜マイブームの全貌」が開催されていることを知ったので、気分転換もかねて。

なにゆえ川崎市でみうらじゅんを・・・とも思うが、川崎市民ミュージアムは時々おもしろい企画展をやっていて何度か足を運んだことがある。自宅からも行きやすい場所(東横線・武蔵小杉駅からバス)だし、施設が広々としていて気持ちいいのだ。行けばわかると思うが、膨大な「みうらじゅん」関連資料(?)を展示できる施設は限られており、都内では開催できる場所がなかったのではあるまいか。名だたる美術館はいくつもあるが、いわゆる「芸術」と誰でもが思う作家のものしか受け入れないと思う。川崎市民ミュージアムが開催してくれてよかった、と心から思う。全貌をざっとでも見ることができる機会はなかなかないと思われるから。

漫画家、イラストレーターという肩書きで紹介されることが多いみうらじゅんさん。しかし、コアなファンはけっこう多く、ファンというほどではないが私も彼のユニークな活動には注目している者の一人だ。以前、「いやげもの展」というのに行って一気に興味を持ちはじめ、「TV見仏記」で尊敬の念さえ抱き、ちょっとこういう人はいないのではないかと思っている。

全貌と標榜している通り、会場には小学校時代の「ケロリ新聞」、エッセイに凝ったころの原稿、大学生時代のスケッチブックなどがずらりと展示されている。仏像には小学生のころから興味を持っており、写真入りのスクラップブックには感想が細々と書かれている。

みうらじゅんさんといえば「マイブーム」。この言葉を作ったご本人なので、展覧会は各ブームで構成されており、第一会場は「エッセイストブーム」「イラストレーターブーム」「ウシブーム」「怪獣ブーム」「仏像ブーム」「漫画家ブーム」などに分かれている。それぞれに展示されているものの量に圧倒されつつ第二会場に行くと「いやげものブーム」の様々なコレクション、ゆるキャラ(これもみうらさんが作った造語)、「フェロモンレコード」「SINCE」「冷マ」などが展示されている。

中でもおもしろかったのが、「SINCE」。街中で見かける看板に表示されている「SINCE○○○○」を集めて1枚のシート状にしたものだ。私は聞いていなかったのだが、日曜日のTBSラジオ「安住紳一朗の日曜天国」に出演し、“シンスの概念が変わった”ことに気づいた話などをしていたようだ。モニターで流されていたラップ“君のSINCE”もおもしろくて見入ってしまった。

あまりに多いコレクション、発想のユニークさなどはとても紹介しきれない。ご本人はアーティストと呼ばれることに抵抗を感じているようだが、アーティストであろうとなかろうと貴重な存在であることに変わりはないと思う。山田五郎さんとともに他人のフリして展覧会場を見て歩くみうらじゅんさんの映像も流されていて、「みうらじゅんワールド」の特徴がよくわかっておもしろかった。写真撮影可だったので、いくつか掲載しておくが、おもしろいものがお好きな方には激しくおすすめする。3月25日まで。

18-0221-3.jpg第一会場の様子。広くてゆっくり鑑賞できる。

18-0221-4.jpg街中で般若心経の文字を拾った「アウトドア般若心経」

18-0221-2.jpg削りに削っても長々と続く、みうらじゅん年表

18-0221-5.jpgSINCEを集めたシート

18-0221-6.jpgご存知!?甘えた坊主コレクション

18-0221-7.jpgこれまたご存知、つっこみ如来立像

18-0221-8.jpg中庭から。堂々たる展覧会ですなぁ。

 

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ねこやなぎ

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先日埼玉方面に出かけた折、道の駅でねこやなぎの束を買ってきた。午後ともなると野菜はほとんど売り切れ状態。何も買わずに帰ろうかと思ったら、花のコーナーがあったのでのぞいてみて発見した。けっこうな本数の束が200円とはお安いこと!

ねこやなぎを見ると、思わず触ってみたくなる。園芸品種もいろいろあるようだが、銀白色のやわらかな毛がなんともかわいらしい基本種が好きだ。これは花穂であり、時間が経つと花粉をつけたシベが出てくる。冬の間は赤みを帯びた花芽の状態で、春が近づくとそこから毛に覆われた花穂が出てくる。ふわふわ、すべすべの花穂を猫の尾にたとえたというが、わが家の猫の尾よりも柔らかいような気がする。

ヤナギの仲間は水が好きで、よく河原などに自生しているのを見かける。枝が水にひたればそこから根を出すとのことで、よほど水が好きなのだろう。枝を水に指しておくだけで根が出てくるから、挿し木もいたって簡単のようだ。ヤナギというとシダレヤナギ(銀座の街路樹のアレね)を連想する人も多いと思うが、私は株立ちになるネコヤナギが一番好きだ。

木にも陰陽があるそうだが、ヤナギは「陽樹」だそうな。幽霊画に描かれるので「陰樹」かと思いきや。幽霊はもちろん「陰」なので、バランスをとるために「陽」のヤナギが描かれている・・・落語の枕(怪談などの)でよく言われることだが本当だろうか。

買ってきてもう1週間になろうとしているが、寒いせいかシベがようやく出始めたところだ。このまま根が出るまで水に入れておいて、まとめて鉢に植えてみたらどうだろう、などと画策中。

そういえば、ねこやなぎの花穂のような、短い尾の猫を見かけなくなった。いわゆる和猫、ジャパニーズボブテイルと呼ばれる猫はいったいいずこに?野生化しているうちに洋猫の血が混ざり、もともと日本にいた短い尾の猫はどんどん少なくなってしまったのか。純粋な日本猫はすでに絶滅してしまったという話もある。

江戸時代の浮世絵、たとえば歌川国芳などの絵に出てくる猫はみな尾が短い。たいていは白黒で和猫の代表のように思われている三毛の方が珍しいように思う。わが家の白黒の尾は太くて中途半端な長さ。太さをそのままにしてもっと短く生まれてきたらよかったのに・・・などと猫に言っても知らんぷり。ネコジャラシ(オモチャではなく植物)には食いつくくせに、ねこやなぎには興味がないようだ。

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身体を温める

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例年になく寒さが厳しいこの冬・・・身体を温めることにあれこれ気を配っている。それでなくても、ここ数年手にしもやけができ困っているのだ。いくらハンドクリームを頻繁に塗ろうとビタミンEを飲もうと校かがあまりなく、こりゃ身体そのものを温めなくてはダメだ!という結論に達した。それに、身体の冷えはしもやけだけでなく、あちこちの不具合の原因になっているような気もしてきたし。

とりあえず、今まで好きではないという理由で最低限しか使わなかったエアコン暖房を使うことにした。電気代が高くなるのは痛いのだが・・・自室にいる時はエアコン暖房と足元暖房のダブルで身体を温めている。そのせいか、今年はしもやけになっていない!手は相変わらず冷たいのだが、しもやけになるところまでいっていないのだ。まだまだ油断大敵だがこのまま春をむかえられたらいいなぁと思っている。

食べ物や飲み物も身体の冷えに関係してくるので、とにかく身体を冷やすと言われるものは可能な限り身体に入れないようにしている。夏野菜は身体を冷やすと言われるが、トマト(夏野菜ですよね?)は好きなのでスープに入れるなどして温めてから食べる。根菜類を多く食べるようにし、キノコ類も意識的に多く食べている。

飲み物は普段から冷たいものはほとんど飲まないが、他の季節は時々飲む野菜ジュースもしばらくストップ。ビールはグラス1杯くらいにし、あとはワインか日本酒か焼酎のお湯割(あ、昨日は紹興酒だった)。

先日、友人が「yogi」というブランドのハーブティを紹介していてなかなかよさそうだったので、手軽に入手できるAmazonに頼んでみた。いろいろな種類があるが、お試しなので飲みやすいと思われる「レモンジンジャー」にした。レモンの酸味とショウガのピリッとした味がミックスされてなかなかおいしい。

ショウガは身体を温める代表的な食材だが、生のものより乾燥させたショウガの方が効くらしい。以前はハチミツの中にレモンのスライスにショウガのスライスを入れ、それを冷蔵庫で保存しておいて適宜湯で薄めて飲んだりしていた。今年はレモンの変わりに鍋で使った柚子の皮を細く切ったものにし、ショウガは高知産の粉末を使っている。粉末ショウガってこんなにからいのか!というくらいからく、ほんの少し入れるだけで効果抜群である。

「yogi」ティーにはスパイスの利いたタイプもあるようなので、次はそちらを頼んでみたい。あとは運動だな。ラジオ体操を日課にしてみようかな。

18-0219-2.jpg最近我が物顔で私の部屋に入ってくる。夜は湯たんぽになってくれるけど。

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