・・・川崎市民ミュージアムにある「トーマス転炉」。すごい存在感だ。・・・
「ガンには怖い感じの言葉が目立つ」という記事を見かけた。なるほど、「余命」「宣告」などまるで罰を与えられるような、怖い感じの言葉がガンにはつきまとっている。そして、ガンに罹った人たちが、「ガンと闘っていきます」と気丈に語ったりもし、その闘いの壮絶さを想像させている。
しかし、ガンも一つの病である。日本人の2人に1人はガンになり、3人に1人はガンで亡くなる・・・とまで言われていることを考えると、最もポピュラーな病気だといえる。それなのに、決定的な治療法が確立していない(ステージによるが)ということからなのか、「死病」イメージが未だにつきまとっているように思える。そして、「死」は誰でも怖い。「怖い」というイメージが理性を失わせることになったり、もしかしたらかえって死期を早めたりしているのかもしれない。
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それでもここ数年、ガンに罹った自分を冷静に受け止めて「ガンとつきあう」自分を公表する人たちがちらほら出てきた。先の記事に登場する絵門ゆう子さんという方も、「余命、告知、宣告、生存率」といった言葉が患者を追いつめると怒っていたという。また新聞記者自身が自らのガンを公表し、ガンについての記事を連載していたと思う。今まで「死病」としてタブーだったガンのカミングアウトは珍しいことではなくなってきている。
俳優の小西博之さんは、「闘病という言葉をなくしたい!」とあるイベントで叫び、「ガン闘病ではなく、ガン治療でいいじゃないか」と語ったという。いくら治療しても完治しない、あるいは少しずつ死期が近づく病であっても、なんらかの医療行為を受けるのであれば「治療」でいいと私も思う。必要以上にガンの「怖さ」を感じさせるのはもうそろそろ終わりにした方がいいのではないだろうか。
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私もたぶん、ガンになってガンで死ぬだろう、と思う。他の病気になるかもしれないが、今までを省みるとやはりガンかな。両親、親類もほとんどがガンに罹っているし、脳梗塞や心筋梗塞になりそうな所見は今まで経験していないし。そして、ごく初期ではあったが自分自身もガンになったことがあるし。
そう思っているので、ガンと診断されたらどうしようかと普段から考えている。まず、手術して完治する可能性がないなら手術はしないかもしれない。したとしても、放射線治療や抗がん剤治療はやらない。痛みだけを抑えてもらって、できるだけやりたいことをしたい。尊厳死協会にもう一度入って、周囲の人たち(家人と息子)にも再度自分の意思を伝えておかなくては、と思っている。
残りの日々を「闘い」で費やしたくはない。ガンと向き合い、つき合いながら「ガンになってもまだ生きている人間」として、肩ひじ張らずにいられればいいと思っている。なかなか簡単にはいかないことだろうとは思うけれど。
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お気付きの方もいらっしゃると思うが、1月、2月ともPHOTO WEEKなしだった。なんのことはない、あまりに寒いので写真を撮りに出かけなかっただけで、来月あたりから復活させたいと思っている。5年前くらいだったら、いくら寒くてもあちこち出かけたなぁと思うと情けないことである。当時より今の方がずっと時間はあるというのに。それだけ老いてきたのだと思うが、老いに甘えるのはそこそこにして少し気合いを入れないと!と思う今日このごろ。