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日々の内側
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衣に守られる、ということ。

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・・・横浜美術館1階の展示。銘仙のカラフルさ、デザインの斬新さには驚いてしまう・・・

きものの背中の縫い目には霊力が宿り、背後から近づいてくる悪しきものから着ている人を守る・・・昨日も少し触れたが、この言い伝えを読んだときなんだか感動してしまった。迷信さ!と軽くいなすこともできるが、とてもそのようには思えなかった。昔の人は着るものにもそうした思いを託してきたのだ、と感じて、一針一針に心をこめる気持ちの有り様がなんともゆかしく、しみじみとしたものが胸に残った。

そういえば、再読中の「きものは、からだにとてもいい」(三砂ちづる)の中にも印象的な話があった。帯についての話である。帯文化研究家である笹塚寿美さんがどこかで書いておられたことで、帯の「たれ」の部分に入っている二本の線は「界切り線」というとのこと。

笹島さんが機織りに詳しい老齢の方に聞いたところによると、『最初の織り出しの界切り線は、お参りの時の拍手、霞線は鳥居、柄部分は参道と本殿、最後の「手先」の線は一礼』なのだ、と。そうなると、帯そのものが神社=神のおわします場所であるということになり、三砂さんは“帯を巻く、とは「結界を張る」ことなのだ”と思うに至る。

私もうすうすではあるが、帯が身体を支えてくれているような気がすることがある。最初のうちは、普段しめつけることがない胴まわりが苦しいと思った。しかし、補正のためのタオルや紐類(腰紐や伊達締め)の上から帯をぐっと締めると、身体の中心が定まるように思えてきた。もっと着慣れてくれば、三砂さんのように帯を結んだ時に清々しさを感じ、「帯に守られている」と実感できるようになるのだろうか。

衣服にはいろいろな役割がある。外部からの様々な刺激や目に見えぬ雑菌から身体を守るというのもそのひとつだろう。寒い季節なら冷たい風から、暑い季節なら強い陽射しから身体を守る。汗を吸い取り快適さを保つ。そういった実用的な役割だけでなく、ファッションとしての役割も大きい。しかし、きものの背中の縫い目のように、霊力や神を意識した部分を含む衣服というのは、他になにかあるのだろうか。

民族衣装にはあるような気がする。いわゆる発展途上国と言われる国々にもあるかもしれない。ネイティブ・アメリカン、エスキモー、山岳に暮す少数民族・・・そのような人たちの暮らしにもあるかもしれない。

そう考えると、自然とともに生きている人たちは自然の中に神を見、魔を見てきたのだと思えてくる。そして、自分たちの力では抗いようもないものを畏れ、敬い、着るものにもそんな気持ちを込めたのではないか、と。

今自分が持っている衣類は便利さを追求した欧米世界のものである。神への畏れもへったくりもなく、機能性やファッション性、もしくは経済性を追求したものばかり。致し方のないことなので、それはそれでいいとは思う。が、きものを着ることによってまた別の衣服のありようを知ることができるような気がする。きものって・・・やはり奥が深いですなぁ。

*以前図書館で「帯の話 結びの話」(笹塚寿美)を借りたっけな。

*もう一度読みたくなって探したら手ごろな古書があったので注文。

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背守り

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相変わらず寒い日が続いているが、億劫がっていると行く予定のところに行かず仕舞いになりかねない。で、昨日は「肌理と写真」展に行ってきた。石内都の集大成とでもいうべき写真展で昨年から楽しみにしていたのだ。

会場は「横浜」「絹」「無垢」「遺されたもの」の4つのパートに分かれている。「横浜」は古いアパートの内部や外観が中心。「絹」は石内の故郷でもある群馬県桐生の銘仙や阿波浄瑠璃人形の衣装を撮影した写真群。「無垢」は疵のある身体や手足を撮ったもので、「不知火の指」(「苦海浄土」の作者である石牟礼道子の手足)が印象的だった。「遺されたもの」はフリーダ・カーロの遺品、石内の母親の遺品、広島の被爆者たちが身に付けていたもの。

私は何度か石内都の写真展に行っているし、フリーダ・カーロの遺品を撮影するドキュメンタリー映画も診ているので、以前に見たことがある写真も少なくなかった。写真集も何冊か持っている。しかし、広い会場で大きな実物を見ると、はじめて見たような新鮮さを感じる。

今回の写真展のタイトルにもなっている「肌理(きめ)」は石内自身が設定したキーワードだ。「肌理が細かい肌」などという表現はよく使われるが、人間の肌だけでなく、様々なものの「手触り」を感じさせるのが石内作品なのかもしれないと思った。塗料が剥落してガサガサの壁も、古びてほころんだり穴があいたりしている衣服も。

「絹」のパートの写真は初見だった。割と最近の作品だと思う。銘仙の斬新なデザイン、鮮やかな色彩にも目を奪われたが、子供のきものと思われる写真に目が向いた。展示されている写真には一切説明が付けられていないのでそのまま見て通り過ぎたが、最後にミュージアムショップで本を見ていてそれが「背守り」を付けた子供のきものだったことを知った。

2014年にLIXILギャラリーで「背守り〜子どもの魔よけ」という企画展があったようで、石内都が写真を担当したようだ。小さな写真集があったのでそれを買って帰ってきた。きものに興味を持ちはじめたから目についた写真なのかもしれないが、いいものを見つけた!という気分だ。

今でこそ出産はごく安全に行われているし、育児も便利なものに囲まれて昔よりずっと快適になされるようになった。そうなればなるで別の悩みや問題は出てくるにしても、幼くして命を落とす子どもが多かった時代に比べれば、命にかかわる心配事がないだけ恵まれていると言わざるをえない。

無事に生まれてきても、大人になるまで順調に育つかどうかわからなかった時代。親たちは子どもを守るべくさまざまなことをした。その多くは神仏にたよることだったかもしれない。お宮参りも、七五三も子どもの無事な成長を願うものだが、「背守り」もそのひとつだ。

大人のきものには背中に縫い目(背中心)があり、昔はこの縫い目に霊力が宿り、背後から忍び寄る魔を防ぐとされていたそうだ。しかし、子どものきものは小さいので布を接ぐことなく作れ、背中に縫い目がない。そこで、背中に様々な刺繍をしたり、押絵を付けたりして魔よけをした。きものが日常着であったころまでこの風習は残っていたという。

本を見ると、「背守り」のバラエティに驚く。比較的簡単な「糸じるし」紐や小裂をつけたもの、縁起がいい文字やかたちを刺繍したもの、凝った押絵をアップリケのようにつけたもの・・・どれもみな、親が心をこめてつけた子どものお守りである。

「背守り」ではないが、「百徳」と呼ばれる子どものきものも印象的だ。金沢の風習らしい。子育ちのいい家や長寿の年寄りがいる家から布の端切れをもらって集め、百枚になったら丁寧に繋ぎ合わせてきものを作る。そのきものを子どもに着させると丈夫に育つ・・・というもの。無事成長した暁には、鬼子母神を祀る真成寺にお礼参りをし、きものを奉納したという。なんともゆかしい風習である。

「背守り」にしろ「百徳」にしろ、親(母親)自身が自ら手をかけて作るところに意味がある。既成のもので間に合わせることができたとしても、それでは意味はないと思う。裁縫が苦手な母親だっていただろう。不器用な人もいただろう。しかし子どもを思う気持ちに勝るものはない。不器用な人は不器用なりに簡単な刺繍を、器用な人は凝った刺繍や押絵を作ったのかもしれない。

幼い子どもを虐待したりネグレクトして死なせたり・・・そんな話題が珍しくなくなってしまった現代。生んだ時は「よくぞ生まれてくれた」という気持ちもあっただろうに、と思う。大人たちを取り巻く環境も複雑になっているから、親だけの問題ではないこともある。しかし、「背守り」に込められた子どもへの思いを知り、もう少しゆったり、目先の物事に惑わされることなく子育てしてほしいような気もする。

18-0130-2.jpg「赤麻(あかそ)」の絣に施された四つ菱紋の背守り

18-0130-3.jpg明治時代の「百徳」。表112枚、裏82枚の端切れが使われている。

以上「背守り〜子どもの魔よけ」(LIXIL出版)より。

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お辞儀

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私たちは日常生活の様々なシーンでお辞儀をしている。また、誰かがお辞儀をしている姿を目撃する。軽い挨拶程度の「会釈」、スーパーのレジ店員が客に対して行う「敬礼」、不祥事を詫びる「最敬礼」など私生活の場で、あるいはビジネスの場で人は何度もお辞儀をしたりされたりしている。

しかし、そのお辞儀にどれだけ気持ちがこもっているかを考えると、本当の意味でのお辞儀は稀なのかもしれないと思えてくる。ビジネスシーンではともかく、プライベートシーンでのお辞儀も無意識にしろ「とりあえずやっておけばよい」というものが多いのではないだろうか。

しかし、それでいいのだろうか・・・と最近思うようになってきた。本当にお辞儀をすべき時はきちんとすべきではないか・・・と。

そう思うようになったきっかけは、先日行った「ゆずりは」の展示会だ。帰り際、店主の田中さんがきちんと正座をして丁寧なお辞儀で見送ってくれた。それに対して、私は帰ろうとしていたとはいえ立ったままで軽いお辞儀をし、いくらなんでもそれでは失礼だと咄嗟に思ったので座り直して慌ただしくお辞儀をした。後で思い返すと、はじめからゆったり座ってお辞儀をし、立ち上がって帰ってくれはよかった。なんだか自分が気付かぬうちに非礼を非礼とも思わない鈍感な人間になってしまったような気がして情けなくなった。

その日田中さんは具合が悪く病院に寄ってから来たとのことで、珍しく洋装だった。それでも、居住まいをきちんと正してお辞儀をする姿は美しかった。旅館などに行くと女将さんや従業員の女性が正座してお辞儀をしてくれるが、美しいとまでは感じない。何故か。たぶん、気持ちがこもっているかどうかだと思う。

「とりあえず」「決まりだから」から為されるお辞儀ではなく、感謝の気持ちから自然に為されるお辞儀だからこそ美しいのではないか。そう思える。そしてそれには普段の心がけが大切で、特別意識しなくても自然にできるようになってはじめて礼節をわきまえた態度になるのではないか。

そういえば、子供の頃親類が集まるとまるで「お辞儀大会」のようになって子供心におかしかった。母の兄弟姉妹はみな仲が良く、常に和気靄々とした雰囲気だった。しかし、気軽な話をする前に必ずお辞儀が入るのだ。お互いにきちんと正座し、顔を見ながら何度も頭を下げる。

「先日はおいしいものをいただき、ありがとうございました」等々、その時だけは敬語使いになる。けっこう長いことお辞儀をし合っているので、私と妹は「また始まったよ」などと言いながら笑っていたが、母たちは親からそのように教えられ、しつけられてきたのだろう。

祖父は自分の子供たちとも畳1枚隔てて話をした、ということも聞き及んでいるので、きっと立ち居振る舞いについても厳しかったに違いない。親しき仲にも礼儀あり、が母たちにはごく自然のものとして身に付いていた。

礼儀作法というものは、「かたち」だけのものであるはずがない。いささか老いてはきたが、いや老いてきたからこそもう一度本当の礼儀とは何かを考えてみた方がいいと思うようになった。とりあえず!?きちんとお辞儀ができるようになろう。神社に参拝する時は「二礼二拍手一礼」をきちんとやろう(その前に鳥居に一礼、手水舎で身を清める)。会釈であっても、できるだけ立ち止まって相手の顔を見て。

あまり丁寧すぎてその場がしらけるのはよろしくないが、気に留めておかないと身に付かない。人生、何才になっても学ぶべきことは多いなぁ。

| - | 08:00 | comments(0) | - |
女の踵

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一昔前、向田邦子のドラマシリーズというのがあった。新春シリーズと銘打った「女正月」の印象が強かったのだろうか、昨年暮からDVDを借りたり無料動画を探したりしていくつか見ていた。原作もいいが、配役が適切で何度見てもおもしろい。女性ならではの視点があちこちにあって、それをさらりと取り入れているあたりはさすがだと思う。

昨夜風呂で足を洗っていて、「阿修羅のごとく」を思いだした。今年見たのは映画版で母親役を八千草薫、大竹しのぶ、黒木瞳、深瀬絵里、深田恭子が娘を演じている。監督は森田芳光。今も活躍する女優陣だが、映画は2003年の製作で“一昔前”といってもいいだろう。

映画の中で、娘たちが鏡餅を割るシーンがある。乾燥してひびわれた鏡餅を見ていて、誰かが「お母さんの踵」を思いださない?と言いだす。鏡餅のようにひび割れた母親の踵は、夫や娘たちの世話に明け暮れた母の象徴でもあるように思える。しかし、そこで(たしか)長女(大竹しのぶ)が「男がいないと女の踵が荒れる」(実際の台詞は忘れたがそんな意味)と水を差すように言う。長女は夫を亡くした未亡人だが奔放な性格で不倫をしている。

平凡なサラリーマンの夫とつつましく暮していた次女(黒木ひとみ)は、長女の言葉をある日思い出し、自分の踵を見る。ひびわれてストッキングが伝線している。自分は姉のようにふしだらな女ではない、家庭をたいせつにしている良き妻である、と思いたい一方で夫の浮気を疑っている・・・彼女の踵のひび割れは、平凡だが幸せな家庭の中で築いてきた立場を脅かすものの象徴であり、女としての魅力を失っているかもしれないという不安の象徴でもあるように思えた。

鏡餅〜女の踵〜男女関係という連想が鮮やかに記憶に残っていたのだろう。自分の踵を見ながら、私は踵の荒れよりも家族の世話を選ぶような女ではないなぁと思った。ドラマの背景はまさしく「昭和」で、忙しく働く夫だけでなく4人も娘がいるとなっては自分の身体の手入れなどしていられなかったとは思う。が、同じ時代に生きていたとしても、私はそのようにかいがいしく、可愛げのある主婦にはなれなかっただろう。

ふと、それこそだいぶ前になるが、椎名誠が奥様を選んだ理由について「手にあかぎれがあったから」と言っていたことを思いだした。あかぎれを作るほど働き者だったということなのだろう。男性方にはそのような価値観を持つ方々が今でもかなりいると推測するが(年齢は高めだろうが)、そういった方々から見ればけしからん女なのかもしれない。

自分で言うのもおこがましいが、私の踵は年齢の割にはつるつるしている。顔はシミ・シワ・たるみオンパレードの還暦過ぎそのものなのに、踵はつるつる。なんともアンバランスなのだが、30代のころから踵の手入れ(といっても特別なことはしていない)は怠らなかったのでそのせいだろう。

自分の踵を意識しはじめたのは、息子を生んでしばらくしたころだったと思う。乳幼児と母親を対象としたリトミック(今でもありますかね)教室なるものに参加した時のことだ。裸足になって子供と一緒に動くといったものだったと思うが、私のすぐ近くにいた若い母親の踵を見たときにぎくっとしたのだ。

私よりずっと若い人だった。それなのに踵が・・・バリバリに割れていて痛くないのかと思ったが平気な顔をしていた。普段はあまり人に見せることのない踵ではあるが、それでも気にならないのかなと不思議にも思った。そして自分の踵を見てみると、ひび割れはしていないものの白っぽく乾燥して硬くなっている。このままだとバリバリになるかも・・・と、風呂に入る度にこすり、その後クリームをつけることが習慣になった。

習慣になっているので、今でも風呂からあがるとまず踵。次に手。顔に化粧水をつけるのは一番後!忘れていることもある(^^;) 一番目立つ顔が一番後に回ってしまっている。鏡で自分の顔を見る度に、これじゃいかん!と思うが、何を今さらで済ませてしまっている。これじゃいかん?

向田邦子作品は、このようにほんの小さな事に視点を置くことによって、(とくに女性の)気持ちの揺れ動きや奥底にかかえているものを浮かび上がらせる。他の作品にもそういう視点は散らばっているはずだ。以前持っていた文庫本は何故かないようなので、また買っていくつか読んでみたいと思っている。

*時折挿入されていた(ラストにも)「ラジオのように」が印象的。

*終戦特別企画「あさき夢みし」もいい。

*岸恵子がいい。ああいうきものの着こなし方はなかなかできないと思う。

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源氏か平家か・・・

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世の中で起こっている様々な事柄についていろいろ考えることは多い。が、体力気力ともに下降気味の時期らしく、それらについて書こうというところまでいかぬ。こういう時はもっぱら趣味の話題に徹して、つらつらと書くしかないと思う。この寒さが一段落したら、体力も気力も戻ってくるのではないか・・・と期待しているところだ。

しばらく本のことを書いていない。正月に「しめかざり」の本と伝承切り紙の本について書いて以来だろうか。ブログで話題にはしていないが、相変わらず本だけは読んでいる。相変わらず、計画性のかけらもない気の向くままの読書ではあるが。

買ったまま読んでいなかった「芥川追想」を拾い読みし、持っている芥川作品をいくつか読んだ。夏目漱石の弟子であり、明治生まれの文豪として知らない人はいないくらい有名な芥川龍之介。カミソリのような容貌からも伺い知れるように極度に神経を使う人であることを再認識したが、東京人の特質であろうか、さりげなく気を使う心やさしい面もあったようだ。「ぼんやりとした不安」という言葉を残して自死したが、果たしてそれは本当かどうか。過剰な自意識に呵まれ、生来弱かった身体のあちこちに不具合が生じ、なにもかもに疲れてしまった・・・そんな現実から解放されたかった・・・私にはそう思えてならない。

芥川の作品には今昔物語や宇治拾遺に題材を求めたものが少なからず存在する。「羅生門」「薮の中」「芋粥」「地獄変」・・・私はそれらがけっこう好きで今回も再読した。やはりおもしろいなぁと思う。そして古典に関する本をもう少し読みたいと思い、「古典の細道」(白洲正子)と「往生の物語」(林望)を再読(再々読)。

「古典の細道」は、倭建命、在原業平、小野小町、平兼盛、花山院、世阿弥、蝉丸、継体天皇などの伝説を訊ね歩き著された本で、つくづく白洲さんは行動の人だなと思った。ご自分であれこれ調べるのはもちろんだが、実際に伝説をたどって現地に足を運ぶ。その行動力と素朴に信じられてきた伝説へのあたたかい視線が印象的だ。伝説が真実かどうかも重要ではあるが、たとえ真実ではないにしても伝説となって伝えられてきたことの中には別の真実がある、という考え方に私は共感を覚える。

「往生の物語」は以前にもブログで取上げたかもしれないが、平家物語のことである。リンボー先生は、平家物語を数々の往生の物語、タナトスの物語だと解釈し、登場人物の死に様を原文とともに紹介、それぞれの人物像に思いを馳せる。サブタイトルにもあるように平家物語は「死の万華鏡」だ。良くも悪くも、平氏の男たちはみな個性的で平家贔屓の私としては何度読んでもおもしろい本である。

ご存知のように平家物語は琵琶法師によって語られることを前提としている。読むための物語ではなく、語り、そして聞く物語なのだ。だから、本来であれば原文をじっくり読んだ方がいいと前々から思っているのだが、まだそこまで踏み切れていない。

少し前になるが、もう一度源氏物語を読もうかと思った。原文は勘弁してもらって、以前読んだ与謝野晶子の源氏以外の源氏を。源氏物語はリンボー先生によれば平家物語とは対照的な「エロスの物語」、つまり「生の物語」である。光源氏が巻き起こす様々な恋愛沙汰は生きている証であり、登場する女性たちについても同様だ。

さて誰の源氏を読もうかなと思って探してみた。谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴・・・などの大御所と並び角田光代さんの名前が・・・もしかしたらおもしろいかもしれない。これを読もうかなとAmazonのリストに入れておいた。

同じ古典のシリーズで平家物語もある。うーん、こちらも魅力的である。編者は池澤夏樹さんで、著作を読んだこともないくせに何故か好感を持っている。福永武彦氏の息子だからだろうか。どちらを先にするか・・・しばし迷うことにする。いずれにしろ、読まれることを待っている本が少なくとも3冊あるし、読みかけの本も数冊。それらを読み終えてからになるから3月か4月になるかな。

*面倒になったので今日はリンクなし(^^;)

*興味がある方はご自分で調べてね。

*外で雪かきの音がする。隣のマンションの人たちかな?

*半ば凍っているので大変だろうなぁ。

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「ゆずりは」〜東北の手仕事を伝え続けるひと

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先週、青山の蔦サロンで開催されている「東北の手仕事」(暮らしのクラフトゆずりは)に行ってきた。きものを着て行きたかったが雨の予報が出ていたので仕方なく洋服で。予報どおり午後から雨が降りはじめ、帰宅する時間には本格的な降りになっていた。しかし、胸の中にはなにかあたたかいものがあり、それを感じながら雨の中を早足で歩いて帰った。

「ゆずりは」という店については今までにも何度か書いている。ブログにはじめて書いたのは、検索する限り2013年5月17日だ。ひとりで十和田湖畔休屋にある店に行き、買ってきた黒猫の張り子を紹介している。次は2014年9月30日。友人と蔦サロンの展示会に行き、オレオレカンバのジャムスプーンを買ったことを書いている。直近は2017年5月19日でラオスの布製品を見てきたことを記録している。

毎年、東京では同じ場所(蔦サロン)で展示会が開かれているが、私にとっての「ゆずりは」はやはり十和田湖畔の店である。2010年、今は亡き花鳥渓谷の木村暢子さんに連れていってもらったのがはじめてだったが、それ以来2013年くらいまでは毎年行っていたと思う。ストールやカゴなど欲しいものはたくさんあったが手を出せる値段ではなかったので、張り子の猫やら作家物の一輪挿し、ぐい呑みなどを買ってきた。

何度か店に行ってはいたが、店主の田中優子さんには会えずじまいだった。田中さんとお会いしたのは昨年青山の展示会がはじめて。今年もお会いできてよかったと思っている。

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十和田湖畔の店でなかなかお会いできなかった理由がなんとなくわかってきた。田中さんは東北の手仕事を広く伝えていくために、日本全国だけでなく昨年はフランスにまで出かけている。十和田に帰って少しゆっくりできるのは一年の中でも半分あるかないかなのではないだろうか。田中さんについては、2017年の記事にリンクしているところを読んでいただければと思うが、ご自分が生まれた青森をはじめとする東北の手仕事のすばらしさ、職人さんたちの思いなどを伝えることを使命として活動され続けている。

その思いが並大抵のものではないことを実際にお話しているとよくわかる。「ゆずりは」は今年で開業30年だそうだが、その間に出会った職人さんたちのことをよく覚えていらっしゃって、懐かしげに、時には少し悲しげに、静かに語ってくれるひとである。

今回も平日に出かけたのだが、日曜日には田中さんのお話し会が予定されていた。電車の混雑などを避けたくて平日にしたのだが、お話し会はやはり行くべきであったと後悔している。次回はぜひお話し会にも参加したい。

存在は知っていたのだが、田中さんには一冊の著書がある。「ゆずりはの詩」という本で2007年に主婦と生活社から出されている本で、2013年9月の時点で第4冊となっている。その本を今回は展示会場で買ってきて、帰りの電車の中で読みはじめた。

そこには、たぶん選ぶのに苦労したであろう何人かの職人さんたちとの思いでが綴られている。まだおつき合いのある人もいれば、すでに故人になられた人もいて原稿を書きながら田中さんは泣いていたのではないかと思われる部分もあった。

東北の自然を写したきれいな写真や職人さんたちの作品の写真がところどころに掲載されている。帯、桜皮細工、菱刺し、曲げわっぱ、あけび細工、籠作り、馬具バッグ・・・全て素晴らしい仕事であり、職人さんたち一人一人の人間性がにじみ出ているように思えてくる。

その中に、柴田市郎さん・吉田重太さんという“おじいちゃんコンビ”が出てくる。お二人は岩手で仲良く籠を作っていた職人さんだ。岩手の内陸の集落に暮らし、幼いころから親とともに山に入って木々と触れ合ってきた。木の皮やぶどうづるの皮は一年のうち一ヶ月しか採る時期がないという。その時期をはずすと、材料として籠に向かなくなるのだそうだ。

田中さんは彼らに同行して山に入り、材料を採るところを実際に見てきたという。採集された皮は乾かしたり濡らしたりを何度か繰り返し、幅や厚みを整えてる。そこまでの方が編む作業よりずっと時間もかかり、苦労も多いらしい。

田中さんがこの本を書いた時点で柴田さんは81才、吉田さんは85才。作れる籠の数はさすがに減ったようだがまだ現役で仕事をされていたようだ。吉田さんは自宅が火事にあった時、籠の編み方が書かれている本だけは焼くまいと炎の中からなんとか取り出して雪の中に投げたという。四隅がまる焦げになった本を大事そうにめくっている吉田さんの姿を田中さんは見ている。

そんな柴田さん、吉田さんに田中さんは書類鞄のような幅の狭い平らな籠を注文した。平らな籠は中に手を入れにくく編みにくいものだったがお客様にはとても好評で待ってもいっから欲しいという注文が相次いだらしい。

そのような注文に応えるため、吉田さんは作った籠を背負い、一日に2本しかないバスに乗って最寄りの町まで出かけ、郵便局から送ってきたという。到着するころには段ボール箱が変形して籠が飛び出しそうになっていたりしており、籠の中に詰め物をしてかたちを整えてから店に出していたそうだ。

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本に掲載されていた幅の薄い籠がそれだと思う。そして今回、私は「お蔵だし」として田中さんが蔦サロンに持ち込んでいたこの籠に出会った。安いものではない。欲しいが・・・どうしよう・・・かなり迷った。しかし、ひとつだけ残しておいた最後の1つだと聞き、吉田さんの人となりを聞き、それらを語る田中さんの表情を見ているうちに、この一期一会は逃してはならないと思えてきた。そして思い切って買うことにしたのだった。

田中さんはとても喜んでくれた。そして籠と一緒に写真を撮らせてくれないかと。籠だけでいいのではと思ったが、私も一緒に撮りたいというご要望だ。どのような人のところに籠が買われていったのか、覚えておきたかったのかもしれない。

「本当は・・・売りたくなかったんです」と田中さんは静かにおっしゃった。「でも、自分の仕事を考えると、それではだめだと思って今回思い切って持ってきたんです。買っていただけてよかった」と。田中さんにとっても思いで深い籠だったのだろう。幅は薄いがB4サイズのものも入るくらい大きな籠である。面倒な包装は遠慮して籠のまま抱くようにして持ち帰ってきた。

モノとの出会いは千差万別である。「出会ってしまったんだから」などと強引に理由づけして高価なものを買ったことも何度かあった。しかし肉体的にも精神的にも、そして経済的にも衰えを感じざるをえない年齢になってからは、そういうこともめっきり減った。

今回入手した籠は久しぶりに心から出合いを喜べるものだった。大切に使わせていただこうと思う。そしていつか、きものを着てこの籠を持ち田中さんにお会いしたい。スマートな印象の籠なので洋服にも無理なく合うのだが、やはりきもので。

「ゆずりは」には不思議な縁を感じている。二度しかお会いしていないが故・木村暢子さんが無意識にしろ私にくれた縁のような気がする。「ゆずりはの詩」の裏表紙に印刷されている発行年月日を見て驚いた。2007年6月18日第一刷発行。私の誕生日である。

最後に「ゆずりはの詩」の冒頭で田中さんが引用されていた詩を私も引用させていただく。河井酔茗という詩人は知らなかったが、いい詩だと思う。田中さんはこの詩を知らずに店の名を「ゆずりは」にしたのだが、後になってお父さまからこの詩のことを教えられたという。そしてあらためてご自分がなすべきことを確認されたのだろう。そして、田中さんご自身がいつか“ゆずりは”の1枚になれればと思っていらっしゃるのではないか、そんな気がする。

 

ゆずりは

 

こどもたちよ、

これはゆずりはの木です。

このゆずりはは

新しい葉ができると

入れ代わって古い葉が落ちてしまうのです。

 

こんなに厚い葉

こんなに大きい葉でも

新しい葉ができると無造作に落ちる、

新しい葉にいのちを譲って―。

 

こどもたちよ、

おまえたちは何をほしがらないでも

すべてのものがおまえたちに譲られるのです。

太陽のまわるかぎり

譲られるものは絶えません。

 

輝ける大都会も

そっくりおまえたちが譲り受けるものです、

読みきれないほどの書物も。

みんなおまえたちの手に受け取るのです、

幸福なるこどもたちよ、

おまえたちの手はまだ小さいけれど―。

 

世のおとうさんおかあさんたちは

何一つ持っていかない。

みんなおまえたちに譲っていくために、

いのちあるものよいもの美しいものを

一生懸命に造っています。

 

今おまえたちは気がつかないけれど

ひとりでにいのちは伸びる。

鳥のように歌い花のように笑っている間に

気がついてきます。

 

そしたらこどもたちよ、

もう一度ゆずりはの木の下に立って

ゆずりはを見る時がくるでしょう。

 

(「花鎮抄」より。河井酔茗)

 

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コバリョー!

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・・・積もった雪は当分消えそうにない。足元注意!・・・

昨年の5月に開かれた同窓会の幹事だったMちゃんとメールをやりとりしていて、今年も同窓会をやるらしいという情報を得た。昨年同様5月に予定しているようだ。次の幹事に選ばれた人が積極的で、昨年の段階で同窓会は毎年同じ場所でやることにすればいい、というようなことを言っていたらしいので、実行するつもりなのかもしれない。

しかし・・・毎年の同窓会ってどうなのだろうか。確かにみなさん還暦を過ぎて物故者もちらほらいる年代になった。年に一回、一堂に会するというのも悪くはないが、私の感覚だと3年に一度とか5年に一度とかでいいような気もする。まだ先のことなので行くかどうかは未定。

同窓会のことが頭の片隅にあったのだろうか。なつかしい(?)人のことを思いだした。コバリョーである。もちろんニックネームだ。小学校5、6年と中学校3年生の時に同じクラスだった男子だ。たしか昨年の同窓会の終わりに配られた出席者リストの最後にあった所在不明者にコバリョーの名前もあったので、今どうしているかを知る術もない。

なぜ思いだしたかというと、トム・ジョーンズの「Love Me Tonight」を聴いたからだ。先日「雪が降る」をYouTubeであれこれ聴いていて、尾崎紀世彦がこの歌を歌っている動画に行き当たった。彼は和製トム・ジョーンズと呼ばれていたこともあるとのことで、いい感じで歌っていた。

それなら本家も聴かなくちゃ、と聴いているうちにコバリョーを思いだしたのである。そして、中学3年生の時の文化祭を。

私たちのクラスでは当時男子数人がギターを持ち込んで、休み時間や放課後に弾いたり歌ったりしていた。私が好きだったO君もその一人でギターが上手く、フォークソングなどをよくやっていた。どういういきさつで決まったのかは全く覚えていないが、文化祭の出し物は彼らのライブにしようということになり、机を教室の奥に集めてステージを作り窓などは黒い布で覆って雰囲気を出した。

O君たちはグループで出演し、海外のフォークソングをやった。「花はどこへ行った」「グリーンフィールズ」などブラザース・フォーの曲が多かったと記憶する。3〜4人のグループで、一人一人が自分のギターを持って一緒に歌うだけというスタイルだからバンドとはいえなかったが、ギターも歌もそこそこのもので、入場者はけっこういたと思う。

そんな中、突然(プログラムを把握していなかったので)、ステージにコバリョーが出てきたのである。一人で。そしていきなり「Love Me Tonight」を歌いだした。正直言ってびっくりした。あまりの上手さに。

中学校の文化祭だからもちろんマイクなどはない。ギターを弾きながら歌う彼の声は豊かな声量を感じさせ、英語の発音も見事だった。

ジーパンの裾を折りあげ、チェックのシャツかなにかを着ていたように思う。圧倒的な歌だったので、会場(教室ね)はしばらくの間静まり返った。歌い終わるとコバリョーは笑顔を見せることもなくさっさとステージから降りていった。

歌の上手さもさることながら、選曲が他の男子と比べて大人っぽい。歌詞の本当の意味を把握していたかはわからないが、フォークソングの清潔で優等生然とした雰囲気とは対照的な歌であることは間違いないだろう。それに、私たちはコバリョーがそのような曲を好み、自ら歌うなんて想像していなかった。私はコバリョーの別の顔を見たような気がし、ひそかに見直した。

見直したと書いたが別に軽蔑していたわけではない。中学校でふたたび同じクラスになった時、コバリョーはかなり変わっていた。何を考えているのかわからない、つかみ所のない人になっていたのだ。小学生のころ、クラスの女子のスカートめくりを繰り返していた「いたずら小僧」の雰囲気は消え、静かであまり目立たないコバリョーになっていた。

私もスカートをたびたびめくられたクチで、「いやなヤツ!」と思いつつ憎めないところがあると思っていた。ソバカス顔で髪の毛が少し赤みを帯び、スカートをめくられて騒ぐ女子たちを見て愉快そうに笑っていたコバリョーの顔は罪のない「いたずら小僧」そのものだった。担任に叱られても悪びれることもなく、休み時間になるとさっと女子に近づいてスカートをめくり、軽々と逃げて笑っていた。

今にして思うのは、もしかしたらすでに小学生の時からコバリョーは私たちより大人だったのかもしれないということだ。スカートをめくりながら、女子たちの反応を観察し、クラス内での自分の立ち位置を把握し・・・そして小学校を卒業すると同時にスカートめくりも卒業し、内に何かを秘めた静かな男子になっていったのではないだろうか。

親しく話をしたという記憶はない。が、嫌っていたわけでもない。中学校3年間で一番好きなクラスの一員というだけのコバリョーだったが、なにやらひどくなつかしい。どこの高校に行ったかもしらない。当然どのような仕事をしてきたかも、どんなオジサンになっているかも、生きているかもわからない。しかし、かつて好きだったO君よりも私はコバリョーに会ってみたい。文化祭で「Love Me Tonight」を歌ったことを覚えているか聞いてみたい。

| - | 07:47 | comments(0) | - |
ビーズ細工

少し前、浅草でビーズ細工の小物を販売している店の前を通りかかった。浅草には何度も行っており、いろいろな細工物の店があるのは知っていたが、普段通らないエリアなのでそれまでその店の事は知らなかった。ショーウインドーや店の棚に並べられたバッグや小銭入れの美しさに思わず見とれてしまった。ビーズ細工にはどこか懐かしさを感じさせる雰囲気がある。

昔、そう私が子供の頃はビーズを編み込んだ小さながま口やパーティバッグなどをよく見かけたように思う。母には何人か姉がいたが、その中でもとびきりの美人で一生独身を通したひとがいた。幼いころ、祖父の兄の家の養女となったので、母たちとは育ちも違った。養父だった人は宝石商だったらしく、浮き沈みの多かった祖父とは違い堅実に商売をやっていたようだ。経済的にも容姿にも恵まれ、お嬢様として育ったその伯母は働くということをついにしなかった。

法事などの時に会うくらいだったから、親しく話をした記憶はない。が、幼心にも華やかで堂々とした伯母は圧倒的な存在感を放っていた。いつだったか、伯母が若いころダンスに行く時に着たというドレスがわが家にきた。着る人などいないのに何故だったのか・・・それはともかく、白地にグリーンの濃淡の大きな花がプリントされたワンピースで、肩がぐっと開き、ウエストがぐっと締まり、そこから贅沢なギャザーを寄せたスカートが続いていた。

私は小学校高学年くらいだったと思うが、見た事もないドレスに感動しつつ着てみた。ウエストは少しゆるいくらいだったが、バストはダブダブ。肩は落ちてしまうという悲惨さだった。いかに伯母のプロポーションがよかったか、を想像して憧れた。

その伯母から、ビーズ細工のポーチをもらった。彫金が施された四角いがま口がついたもので、臙脂のサテンにすき間なくビーズ刺繍が施されていた。アラベスクのような曲線と花を描いた刺繍で使われていたビーすは濃い臙脂色、白、銀、金、などだったと思う。

あまりにきれいなものをもらったので、始終出して触っていたのだろう。いつかしらビーズの数が減り、今では(だぶん家のどこかにあるはず)花と曲線のみが残り背景に敷き詰められていたビーズはほとんどなくなってしまっている。

そうそう。高校生くらいの時、父が社員旅行で香港に行き、私と妹にビーズのバッグを買ってきたことがあった。見た目のきれいさで選んだのだと思うが、凝ったものながらいかにも中国製!といった安っぽさがあった。父は旅行に行くと必ず家族に土産を買ってくる人だったが、いつもちょっとピントがはずれている。母には翡翠の指輪を買ってきていたが、サイズを知らないものだからゆるゆるだった。それでも私たちは父の気持ちが嬉しく、喜んで土産を受け取っていた。

そんな思いでがあるからだろうか。ビーす細工の小物を見るとなつかしいな、と思う。パーティバッグなど使う生活はしていないのに、ひとつくらい欲しくなったりもする。しかし、実用性を考えると買う気持ちにはなれず、きれいだなぁと思いつつ見ているだけだった。

浅草で見かけたのは「柏ビーズ」という店。用事を済ませた後で立ち寄ってみたのだが、近くで見るとさらに細かい仕事がなされていてちょっと感動してしまった。店の人がいろいろ説明してくれたのだが、意外だったのがその軽さである。ビーズのバッグというと大きさの割に持ち重りがするというイメージを持っていたが、実際に持ってみると想像していたよりはるかに軽い。小さいビーズを使っているからだ、と店の人は言っていたが、小さくても土台の生地を埋め尽くすくらいビーズが刺されているのだから不思議である。

「柏ビーズ」は現在千葉県柏市に本拠を置くので地名を店名にしたらしい。が、創業は1936年、浅草である。浅草の老舗和装小物店で修業した初代が修理に持ち込まれた舶来のビーズバッグから作り方を学び、それまで作っていた布製のバッグにビーズ刺繍を施し販売を開始した、とのことだ。

直径1.4〜1.9mmのビーズを2粒ずつ縫い付けるという技法らしいのだが、中国などでは一般に3〜5粒ずつだという。2粒ずつだと手間はかかるが糸が浮きにくく、糸が切れてビーズがこぼれるということも避けられるのだろう。

店にいた人は40代くらいかと思われ職人のひとりらしかったが、自分は最年少だと言っていた。それだけ習得するには時間がかかる職人技を必要とするものなのだろう。見ただけでも眩暈がしそうなくらい丁寧な仕事である。

手のひらに収まるくらいの小さながま口でも1万円以上するので気軽に買うことはできない。が、なかなかいい感じの髪留め(マジェステ、という名前で売られているタイプ)があったのでひとつ買ってきた。髪を後ろでまとめた時のアクセントにいいかな、と思って。

がま口や小銭入れくらいだったら、気の利いたプレゼントにもなるだろう。買うことななかなかないが、浅草に行った折にはまた立ち寄ってみたいと思っている。

| - | 08:42 | comments(2) | - |
雪が降る? 雪は降る?

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・・・ベランダより。下々の民の屋根にも雪が積もっておじゃる。ほほほ〜

4年ぶりの大雪だったそうだ。大雪というのはちょっと大げさかと思うが、ニュースで伝えられる都会の混乱を見ると、やはり「都会においては」という括弧付きで大雪だったのだろうと思う。通勤・通学でやむなく(!)出かけた方々、お疲れさま。私は午前中に整形外科に行っただけで、あとは部屋からのんびり雪の降り具合を眺めていた。はは暢気だね〜

ふと、「雪が降る」を聴きたくなって動画を探してみた。こんなことをしているのは私だけではないだろうなと思いつつ。「雪が降る」はいわずとしれたサルバトール・アダモのヒット曲で各国でカバーされたという。日本語バージョンもあり、たぶんはじめて聴いたのはそれだったと記憶する。今となってはフランス語バージョンが一番好きだが、日本語のものも歌詞はいいと思う。

アダモが歌った日本語バージョンの歌詞は、安井かずみ(以下敬称略)によるもので多くの日本人歌手が同じ歌詞の「雪が降る」を歌っている。しかし、越路吹雪が歌った「雪が降る」の歌詞は長年の相棒である岩谷時子によるもの。日本では主にこの二つの歌詞があるといっていいと思う・・・と思っていたら、もうひとつあった。長谷川きよしが歌っているのはどちらでもない。テレビ番組の中で歌っているのだが、安井版が登場する前からこの歌詞はあったようだ。誰が作詞したのか今のところわからない。

とりあえず何人かの歌を聴いてみた。尾崎紀世彦の歌は安井版の歌詞が一部変わっているが(「鳥は遊ぶ」が「二人は遊ぶ」になっている?)、前野曜子藤圭子(なんと!)、美空ひばり(なんとなんと!)、布施明原大輔(知りませんでした・・・)などほとんどが安井版の歌詞で歌っている。越路吹雪と長谷川きよしのみが違う歌詞。

ということで、日本での「雪が降る」はおおむね安井版といっていいと思う。耳慣れているせいもあるかと思うが、じっくり聴き比べてみても私は安井版の歌詞が一番いいと思う。どこがいいかと問われると困るが、説明的でないところ?潔い感じ?そんな風にしか説明できないけれど。

ところで、歌詞の内容が異なるのは別にどうということもないのだが、ひとつひっかかってしまった。長谷川きよしも指摘しているのだが、安井版では「雪は降る」になっている(タイトルが「雪が降る」にもかかわらず)、他のものは「雪が降る」だ。

「は」と「が」の違いはけっこう微妙である。しかし、作詞を生業としていた安井かずみがなんとなく「は」にしたはずはない。まがりなりにも言葉を道具として(あるいは手段として)仕事をしてきた私にとっても“どうでもいいじゃん”で済ませられないところなのである。詩を書く人なども気になるのではないだろうか。

気になるものの、「は」と「が」の違いを簡潔に述べよと言われるとこれがなかなか難しい。ニュアンスが違うのだが・・・くらいしか頭に浮かばないので調べてみた。けっこうわかりやすい解説をしているサイトがあったので自分の覚書として以下に記しておく。

●「は」と「が」の基本的な使い分けは以下の通り。

・名詞文、形容詞文の場合は、「は」

 (例)佐藤さんは社長だ。佐藤さんはやさしい。

・動詞文の場合は、「が」

 (例)佐藤さんが来た。

もちろん、ここで使われている「が」「は」を「は」「が」に変えることは可能なのだが、そうすると少しニュアンスが違ってくる。

●名詞文、形容詞文に「が」を使う、あるいは動詞文に「は」を使うと主語を特定することになる。

 (例)佐藤さんが、社長だ

     →(田中さんでもなく、高橋さんでもなく)佐藤さんこそが社長である。

   佐藤さんがやさしい

     →(やさしいのは田中さんでも高橋さんでもなく)佐藤さんこそがやさしい。

・動詞文に「は」を使う場合も同様で他を排除して該当者と特定する。

 (例)佐藤さんは、来た

     →(来たのは田中さんでも高橋さんでもなく)佐藤さんである。

なるほどね・・・そこまで気にして文章を書く人はそう多くはないかもしれない。しかし、ニュアンスとはいえ印象はけっこう違ってくるのではないだろうか。

安井かずみの歌詞は「雪は降る」。雨でもなく霙でもなく霧でもなく「雪」なのだという意思が込められている歌詞といっていいと思う。感覚が鋭い人だったんだなぁと改めて感心しながらもう一度曲を聴くと、さらにいい歌詞だと思えてくる。たかが助詞、されど助詞である。

*檀一雄も「雪が降る」が好きだったのねー

*尾崎紀世彦、やっぱり上手いですなぁ。

| - | 09:36 | comments(0) | - |
22日は猫に語らせる日・・・1月担当:みかん

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みなさん、おはようございます。&お寒うございます。今年はじめての猫ブログを担当する、みかんです。あたしも4月が来ると満16才。ずいぶん長い事この家にいます。はじめてすみごん家に来た時はこの家ではありませんでした。もう少し狭くて、猫はゴンだけでした。あたしは生まれてすぐに保護され獣医さんのところで暮していました。他の子のお母さんのオッパイをもらっていたところ、すみごんたちが来てあたしを選んでくれました(選んだのは、おっさんです。ちゃんと書いておけって言われました)。

だから、お母さんというものを知らず、ゴンをお母さんだと思って年中くっついていました。ついこの間のことのようですが、あれから16年・・・十年一昔っていうから二昔くらいでしょうか。年をとったせいか、こんなことを時々思いながら昼寝しています。

今年はとくに寒いような気がします。あたしはほとんど椅子の上に置かれた猫ベッドの中にいます。中には電気あんかが入っていてぽかぽかです。まめこも別の椅子で同じようにしています。この家にはダイニングテーブルと椅子が3脚あるんですが、残りひとつも時々ダイスケが寝ていることがあり、「人間が座るところがなーい!」と時々すみごんが嘆いています。おっさんは別の椅子があるので大丈夫なんですけどね。

ふくとダイスケはケージの上に置いてある「犬ハウス(犬の形をしたふわふわのドーム)」かダンボール箱にいることが多いです。どちらも湯たんぽをいれてもらっていて、電気あんかよりあったかいくらいです。そんなわけでわが家の猫たちは寒い思いをしないでいられますが、外にいる仲間たちはさぞ寒いことでしょう。今日は雪が降るらしいのでよけいに心配です。

そうそう。あたしの首輪、新しくなったんですよ。あたしだけでなく、みんな新しい首輪になりました。写真ではちょっとわかりにくいかもしれませんが、あたしのは白地にピンクの桜の花びらを散らした柄です。すみごんがちりめんの紐をネットで探し、適当な長さに気って先を縫いとめて作ってくれました。どう?似合うかしら。あたしのイメージカラーはずっとピンクなので、今度も優しい感じの柄を選んでくれました。

まめこは黒地に赤やピンクの模様が入ったもの、ふくは赤地にいろいろな柄が入ったもので、一番派手です。ダイスケは男の子なので若草色の無地です。ふくがちりめんの紐を首に付けると「ニッポンの猫!」っていう感じになる、ってすみごんたちが言っています。本人(ふく)はどうでもよさそうですが。

ふくは、最近すみごんの部屋に入ってしばらく過ごしたりしているようです。ちょっと前までは猫禁止だったんですが、あまりにしつこく入ってくるので(どういうわけかドアストッパーが外側しか効かない)、すみごんが面倒くさくなってそのままにしているらしいです。

今のところこれといった悪さはしていないようですが、油断ならないヤツなのでいつか大きな被害が出るような気がします。すみごんの部屋はエアコン暖房をつけているのでリビングよりあったかいからなのかもしれません。それと、ふくはすみごんが好きでそばにいたいのかもしれません。あたしもたまには入ってみたいけど、やっぱり落ち着かないと思うな。いつもいる場所が一番です。

まめこは、またダイスケ過敏症になり布団の上やすみごんの椅子(リビングの)の上に粗相しています。すみごんは慣れたもので黙々と片づけて洗濯していますが、もうそろそろどっしり構えてもいいと思うんだけどなぁ。ダイスケも追いかけるのをやめればいいのに。ふくとやり合うと負けるのでストレス発散のためにしているのかもしれないけれど、年よりをいじめちゃいけないのよ。「いじめてないもん。ぼく、ちょっとからかっているだけだよ」なんて言っているけど、年よりにとってそれは「いじめ」なの。

ダイスケは身体ばかり大きく立派になったけれど、中味はまだまだ子供です。焼きのりをもらう時は、ムキになってすみごんの手までくいつきそうな勢いなんですよ。隣で待っているふくがあきれ顔をしています。海苔を焼きはじめるともうそれを察知して、すみごんの足にまとわりついているんですが、なんであんなに海苔が好きなのかしら。あたしにはわかりません。朝も5時くらいから「おなかへった!」とうるさく鳴くので、すみごんに「ダイちゃん、もうちょっと寝かせてよー」って言われています。

そんなこんなでわが家の猫たちは相変わらずです。あたしは週に一度クリニック通いをしていて(これ、ずっと続くのかもしれません。ちょっと憂鬱)いますが食欲はあって元気です。このところ、すみごんがあちこちおかしくなって、ガタピシしています。今日もこれから整形外科に行くとか言っていました。飼い主が元気でいてくれないとあたしたちもいろいろ困るので、早く直してほしいと思っています。

来月は粗忽者ならぬ粗相者のまめこの番です。あまり言うとそれでなくても面倒くさい性格なので(あたしが言っているんじゃなくて、すみごんたちが言うんですからね!)、あたしは触らぬ神に・・・と何も言いませんけど。年中ピキピキしていて疲れないのかなぁと心配になることもありますが、ごはんを食べる早さがあたしの3倍くらいだし、粗相以外はとりたてて具合悪いところもなさそうです。

寒さもまだまだ続きそうですね。みなさんも風邪やインフルエンザに気をつけて、いい春をむかえてくださいね。今日はこのへんで。

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| - | 07:52 | comments(4) | - |
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