泣いても笑っても2017年は今日で終わり。一年の終わりだからといって特別なことではないようにも思えるが、日々の流れに区切りをつけて生きてきたのが人間であるから、やはり年の終わりには思うことも多い。
とりたてて大きな出来事は少ない一年だった。還暦を過ぎて変わってきた体質に戸惑うことはあっても、それにも少し慣れて自分をいたわりつつ、ごまかしつつ過ごせるようになってきたのかもしれない。5月に伯母が亡くなり小さからぬ喪失感を味わったが、齢97才という大往生だったこともあり悲痛さはなかった。年末が近づくと毎年クリスマスカードを送り、3月が近づけばひな祭りのカードを送り・・・一年に何度か季節の便りをしていた人がまた1人いなくなったことは淋しいけれど。
一番大きな出来事といえば、やはり「きもの」との出会いだろうか。「きもの」のことをあれこれ考えている時間がとても多かったように思う。着付けの具体的な方法だったり、素材の魅力についてだったり、着こなしのヒントだったり・・・着てでかけられなかった夏の2ヶ月はかなりつらいものだったが、「きもの」一年生としては突っ走り過ぎている感もあった。それゆえ失敗も何度か経験し、学ぶことも多かったと思う。
来年は今年以上に「きもの」を着て出かけたいと思っている。が、思うように着たいものが手に入るかといえばそれは無理というものだ。「きもの」は自分の理想を追求していくと無限に金がかかるであろうことを今年は実感した。我慢し、妥協することもまた修業のひとつだと心得て、来年も「きもの」地獄に片足をつっこみながら暮していくことだろう。
*
話は大きく変わるが、今日放送される紅白歌合戦に竹原ピストルが出るというニュースを今朝目にした。知らない名前が連なる昨今の紅白だが、竹原ピストルは以前から気になっている人である。ミュージシャンであり俳優活動もしている人だが、私がはじめて彼を見たのは映画のスクリーンであった。
佐藤泰志の作品に基づく「函館三部作」の第一作目である「海炭市叙景」で印象的な演技をしていた。「海炭市・・・」は三部作の中でも最も好きな作品で、いくつかの話がオムニバスのように繋がっている。その冒頭の話に竹原ピストルが出てくる。
かつて造船業で賑わった海炭市(函館がモデルだろう)も時代の流れとともに造船会社はどんどんなくなり、業務縮小が相次いでいた。竹原演じる男も会社を解雇され、妹と二人で貧しい生活を余儀なくされている。大晦日、兄と妹は1人前の年越し蕎麦を分けあったあと函館山に上って初日の出を見ることにする。
夜明け前の暗くて長い坂を降りる兄と妹。ポケットにはもう小銭しかない。ロープウェイで山に登り朝日を待つ。漸く登ってきた太陽を見ながら、周囲の人たちは等しく幸せそうな顔をしている。妹も笑顔を見せていたが、兄はぼんやりした顔をしてじっと遠くを見つめているだけだった。
陽が昇り終わり、人々は帰路につきはじめた。ロープウェイを待つ人の列に加わろうとする妹に、兄は自分は歩いて下ると言いだす。それでは自分も一緒に、という妹を押しとどめ、下で会おう、あっという間だ、といいながら兄は笑い一人山を下っていく。
妹は、ロープウェイの発着所で兄が山を下りてくるのを待つ。しかし、いくら待っても兄は帰ってこない・・・そんな話だ。
竹原ピストルは、寡黙でぶっきらぼうだが妹思いの兄を演じてその存在感を知らしめた。本業ではないのかもしれないが、この人にしか演じられない役どころがあるなぁと感心した。悔しさ、悲しさ、やりきれなさ・・・すべての負の感情を身内に引き受けた男の最後の笑顔がよかった。
*
元旦外に出かけると、行き合う人たちの顔が一様に清々しい表情をしているような気がする。その多くは家族とともに初詣でを済ませた帰りといった様子だ。一年の無事を神様にお願いしたし、家族はとりあえず健康で元気だし・・・そこそこ穏やかな正月を迎えている人たちなのだろう。
しかし、一方で暗く沈んだまま新年を迎えている人たちもいる。彼らはたぶんあえて人目につく場所には出てこない。ある物は不幸をかこちながら、ある物は不安をじっと見つめながら家の中に、自分の中にこもっている。
そういった人々に比べたら私など十分すぎるほど幸せだと思っている。思い悩むことは人並みにいくつかあるが、悲しさ、悔しさ、淋しさ、憤りなどを一端受け止めて腹の中に収めるためしばし立ち止まることができるようになった。立ち止まり、深呼吸し、冷静になってもう一度歩き出すことを覚えたということだろう。
いくら思い煩っても、なるようにしかならないこともある。あがいてもあがいても思うようにならないならば、一端あがくのをやめる。そして、そう「襟裳岬」の歌詞にもあるように、静かに笑ってしまおうと思う。さよなら、2017年。