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日々の内側
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静かに笑ってしまおう。

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泣いても笑っても2017年は今日で終わり。一年の終わりだからといって特別なことではないようにも思えるが、日々の流れに区切りをつけて生きてきたのが人間であるから、やはり年の終わりには思うことも多い。

とりたてて大きな出来事は少ない一年だった。還暦を過ぎて変わってきた体質に戸惑うことはあっても、それにも少し慣れて自分をいたわりつつ、ごまかしつつ過ごせるようになってきたのかもしれない。5月に伯母が亡くなり小さからぬ喪失感を味わったが、齢97才という大往生だったこともあり悲痛さはなかった。年末が近づくと毎年クリスマスカードを送り、3月が近づけばひな祭りのカードを送り・・・一年に何度か季節の便りをしていた人がまた1人いなくなったことは淋しいけれど。

一番大きな出来事といえば、やはり「きもの」との出会いだろうか。「きもの」のことをあれこれ考えている時間がとても多かったように思う。着付けの具体的な方法だったり、素材の魅力についてだったり、着こなしのヒントだったり・・・着てでかけられなかった夏の2ヶ月はかなりつらいものだったが、「きもの」一年生としては突っ走り過ぎている感もあった。それゆえ失敗も何度か経験し、学ぶことも多かったと思う。

来年は今年以上に「きもの」を着て出かけたいと思っている。が、思うように着たいものが手に入るかといえばそれは無理というものだ。「きもの」は自分の理想を追求していくと無限に金がかかるであろうことを今年は実感した。我慢し、妥協することもまた修業のひとつだと心得て、来年も「きもの」地獄に片足をつっこみながら暮していくことだろう。

話は大きく変わるが、今日放送される紅白歌合戦に竹原ピストルが出るというニュースを今朝目にした。知らない名前が連なる昨今の紅白だが、竹原ピストルは以前から気になっている人である。ミュージシャンであり俳優活動もしている人だが、私がはじめて彼を見たのは映画のスクリーンであった。

佐藤泰志の作品に基づく「函館三部作」の第一作目である「海炭市叙景」で印象的な演技をしていた。「海炭市・・・」は三部作の中でも最も好きな作品で、いくつかの話がオムニバスのように繋がっている。その冒頭の話に竹原ピストルが出てくる。

かつて造船業で賑わった海炭市(函館がモデルだろう)も時代の流れとともに造船会社はどんどんなくなり、業務縮小が相次いでいた。竹原演じる男も会社を解雇され、妹と二人で貧しい生活を余儀なくされている。大晦日、兄と妹は1人前の年越し蕎麦を分けあったあと函館山に上って初日の出を見ることにする。

夜明け前の暗くて長い坂を降りる兄と妹。ポケットにはもう小銭しかない。ロープウェイで山に登り朝日を待つ。漸く登ってきた太陽を見ながら、周囲の人たちは等しく幸せそうな顔をしている。妹も笑顔を見せていたが、兄はぼんやりした顔をしてじっと遠くを見つめているだけだった。

陽が昇り終わり、人々は帰路につきはじめた。ロープウェイを待つ人の列に加わろうとする妹に、兄は自分は歩いて下ると言いだす。それでは自分も一緒に、という妹を押しとどめ、下で会おう、あっという間だ、といいながら兄は笑い一人山を下っていく。

妹は、ロープウェイの発着所で兄が山を下りてくるのを待つ。しかし、いくら待っても兄は帰ってこない・・・そんな話だ。

竹原ピストルは、寡黙でぶっきらぼうだが妹思いの兄を演じてその存在感を知らしめた。本業ではないのかもしれないが、この人にしか演じられない役どころがあるなぁと感心した。悔しさ、悲しさ、やりきれなさ・・・すべての負の感情を身内に引き受けた男の最後の笑顔がよかった。

元旦外に出かけると、行き合う人たちの顔が一様に清々しい表情をしているような気がする。その多くは家族とともに初詣でを済ませた帰りといった様子だ。一年の無事を神様にお願いしたし、家族はとりあえず健康で元気だし・・・そこそこ穏やかな正月を迎えている人たちなのだろう。

しかし、一方で暗く沈んだまま新年を迎えている人たちもいる。彼らはたぶんあえて人目につく場所には出てこない。ある物は不幸をかこちながら、ある物は不安をじっと見つめながら家の中に、自分の中にこもっている。

そういった人々に比べたら私など十分すぎるほど幸せだと思っている。思い悩むことは人並みにいくつかあるが、悲しさ、悔しさ、淋しさ、憤りなどを一端受け止めて腹の中に収めるためしばし立ち止まることができるようになった。立ち止まり、深呼吸し、冷静になってもう一度歩き出すことを覚えたということだろう。

いくら思い煩っても、なるようにしかならないこともある。あがいてもあがいても思うようにならないならば、一端あがくのをやめる。そして、そう「襟裳岬」の歌詞にもあるように、静かに笑ってしまおうと思う。さよなら、2017年。

| - | 09:22 | comments(0) | - |
猫ちぐら

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・・・みかんに先を越されて不機嫌なゴン、の図。2011年1月23日撮影・・・

日参している「りきの毎日」で衝撃的な場面を見てしまった。“クリスマスイブの悲劇”である。ああ、あんなことになるとは!!

フローロングに藁が散らばっている。黒い猫が2匹、藁で編まれた何かに群がっている。布の帽子を被せられ、たいせつにされていたそれは今や崩壊の危機に!バリバリとツメを研ぐ音が聞こえてきそうな気がする。ああ、あの猫ちぐらの運命やいかに!

と心配していたら、どうやら修復されたようで一安心。ほぐれてしまった藁を糸でくくり段ボールで底を突くって貼り付けたらしい。これであとしばらくは大丈夫だと思うのだが、活発な猫がうじゃうじゃいるお宅なのでいつまた悲劇が起こるか・・・スリル満点である(すみません・・・)。

わが家にも猫ちぐらがあって、先日ダイスケが入っている写真をアップした。出身はりきさん宅のものと同じ新潟県関川村(関川村猫ちぐらの会)。たぶん、猫ちぐらというものが世に知られるようになったきっかけは関川村の取り組みからだったような気がする。米所として有名な新潟県の地域活性化策のひとつなのだろうか、また昔ながらの技術を継承していくための試みなのだろうか、ほっこしりた形としっかりした作りが徐々に広まり、空前の猫ブームを背景に人気は衰えないようだ。

引き出しの中を探してみたら、猫ちぐらについていたタグがあった。由緒正しき(!)猫ちぐらであることの証拠である。タグの裏には作ってくれた方「本間サク」さんの名前もきちんと記載されている。特大サイズ(2匹用)で平成15年製作ということはかれこれ15年以上前に注文したものということになる。当時も注文してから届くまで1年以上待ったと思うが、今や2年は待たなくてはいけないらしい。

特大サイズなので重い。そしてわが家にはこの大きな猫ちぐらを置く床スペースがない。それで必然的に何かの上に置くことになってしまうのだが、これが功を奏したのか今のところ屋根も底も無事である。以前屋根の上に乗って爪とぎする輩がいたが、今はぬいぐるみを置いて「爪とぎ禁止」になっている。中にはタオルやら古いマフラーやらが入っており、そろそろ掃除をしないといけないと思っているところだ。

15年前ということは、わが家はゴンとみかんの2匹しかいなかった。まず新しいものが好きなゴンが入り、用心深いみかんが次に入ったと思う。一端入ってみるとやはり快適らしく、時にはとりあいになることもあった。2匹で仲良く入っていたかと思うと猫ちぐらの中でもめてどちらかが追い出されたり・・・いろいろ思い出深いちぐらなのである。

今は若い2匹が利用している。どちらかというとダイスケの方が使っていると思うが、夜はふくが独占していることが多い。ダイスケが気持ちよさそうに寝ているところに突入して、「あたしに譲るんだもんね!」と強引に入り込んでいるのだろうか。いずれにしろ猫たちに無視されることなく、15年に亘って愛用されているのは嬉しい。

15年経ってもさほど傷んでいないので、あと15年は大丈夫だろう。ってそのころ私は生きているのか、猫たちはいるのか。それはわからないが、どっしりした安定感とそこそこ使用感のある猫ちぐらを見ていると、穏やかな心持ちになってくる。人の手で時間をかけて作られたものはやはりいい。もっと広い家に住んでいれば、お椀型のちぐらも欲しいくらいだ。猫に藁のちぐらは本当によく似合う。

さて、今日と明日はわが家の大掃除のピーク。猫ちぐらがあるリビングの掃除は一番最後になると思うが、その間もバタバタするので猫たちは落ち着かないだろう。落ち着かずうろうろするのはいいとしても、妙なお手伝いをしてくれるヤツも出てくるから掃除もなかなか思うようにはいかぬ。腹をたてずマイペースで(つまりアバウトな感じで)掃除を済ませ新年を迎えたい。

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Sycamore

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・・・ロゴもロゴマークもオシャレですなぁ・・・

 

ボロ市に行った帰り、前から気になっていた蕎麦屋に入ってみた。いつから営業しているのかは知らないが、さほど前ではないと思う。世田谷線の招き猫電車に乗りたいと思って出かけた時、昼を蕎麦屋でと思って探していて見つけた店だ。残念ながら夕方からの営業だったのでその時は諦めたが、夜しか営業していないとなると当然酒を飲む人向きの蕎麦屋となるから期待度大!

店の名前は「蕎麦Sycamore」。蕎麦屋の名前らしくないが、最近はどんどん洒落た蕎麦屋ができているからオーナーのセンスなんだろうなぁ・・・と思いつつ店の前まで行く。予約時間(営業開始の17:30)少し前に着いたのだが、地下だし看板はないし「準備中」の札もない。「本当にここ?」と一瞬戸惑ったが、歩道に面して細長い窓があるのでそこからのぞいてみると、カウンターとテーブル席が見えて一安心。時間となり、いそいそと店内に・・・

最近とんと蕎麦屋探訪をしていない。以前は雑誌やネット情報を頼りにあちこち行っていたが、いつしか足が遠のき地元のそこそこの蕎麦屋しか行かなくなってしまった。そこそこの酒とそこそこの肴、そこそこの蕎麦で満足するのも悪くはないのだが、たまには新鮮な発見も欲しい。来年はもう少しわが家の「蕎麦屋リスト」を充実させたいと思っている。

で、シカモア。「シカモア」とは何のことだろうと思って調べてみると、木材の名前だということがわかった。ホワイトシカモアというカエデ科の木で、セイヨウカジカエデ、シカモアカエデなどとも呼ばれているらしい。木材としてはたいへん高価なものらしく、高級家具や楽器材などに使われストラディバリウスなど高級弦楽器の甲板に使われたことで有名・・・らしい。

地下にある店はいわゆる現代風の造りでさほど広くはない。カウンター(6席)とテーブル席(14席)でこじんまりしている。20人くらいというのはほどよい規模だと思う。大勢が集う店ではなく、ゆったりした気分で会話と味を楽しむ店はこれくらいの空間が一番いいように思われる。

酒は好みがあるし同じ名前でも時期によっていろいろな種類があるから、一期一会。3種類ほど飲んだが「これは!」というものには当らなかった。しかし、付きだしをはじめとして肴や蕎麦はなかなかのものだったし器の選び方にもセンスを感じた。もう少し近くにあればなぁ・・・が、世田谷線は好きな路線なので、また行くことになるだろう。久しぶりにリピートしたくなる店に出会って嬉しい。

ここ数年、酒を飲むなら蕎麦屋に限ると思うようになった。日本酒に力を入れる蕎麦屋が増えてきたことは実に好ましい。下手すると〆の蕎麦までたどりつかなくなってしまった私たちではあるが、ほろ酔い状態で食べるキリッとしたせいろもまた格別だ。おいしい酒とおいしい肴を楽しむためにも、健康でいなければなぁ・・・と落ち着く先はこんな結論になってしまう。今日を入れて今年もあと3日。

17-1229-2.jpg付きだしの「揚げくわいの塩昆布和え」おいしかった!

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神社は神社で大変だ!

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「初詣で」というものに行ったことがあるのは数えるほどだ。子どものころ家族で川崎大師に出かけたが(たしか大晦日の夜に出て、日が明けてから帰ってきた)、あまりに寒くてみなが懲りてしまい、翌年からは自宅のすぐ近くにある小さな神社に行くだけになった。

20代のころ、当時付き合っていた人と明治神宮に行ったが、寒さよりも人の多さにうんざりしてしまい、翌年からは行かなくなった。大勢が本殿目指して歩くわけだが、あまりに人が多いので進み方は牛歩のごとし。話す相手がいるとはいえ、並ぶのが大嫌いな私としてはそれだけでうんざりしてしまった。

3〜4年前の元旦、最寄り駅と隣駅の中間あたりにある神社に行くことにした。さほど有名な神社ではないが、この辺りだと比較的大きな構えで名前も知られている。隣駅まで行って街道沿いを10分くらい歩き、右折して坂道を上りきったところある神社を目指した。が、人の列が街道まで達していてあえなく諦めることに。以来、三が日を過ぎたころに、歩いて行ける小さな神社に行ったりしている。これも「初詣で」と言えばそうなのかもしれないが、そもそも普段からお参りしていないのに「初」もないだろう。

昨日も少し触れた富岡八幡宮は全国的に名が知れた大きな神社である。深川話八幡とも呼ばれ、深川祭りは江戸三大祭のひとつとして今なお盛況を極めている感がある。「神輿深川、山車神田」と昔から言われているように、神輿の数の多さには目を見張るものがある。どれくらの人が祭りに関わっているかは知るよしもないが、いずれにしろ富岡八幡宮の氏子たち多いことだろう。普段の平日に行っても観光客などで賑わい、知名度の高さと神社の格を知る思いがする。

しかし・・・神社にも「経営」「運営」はある。先だっての事件に関するニュースの中に、「超格差社会?神社を巡る意外な事情」という記事(毎日新聞・12月15日)があって、神社界の内実の一端を知り少し驚いた。

私は全く知らなかったのだが、「神社本庁」というものがあるらしい。「庁」がつくのではじめは国の組織かと思ったがそうどえはなく宗教法人である。神社界での最大勢力で(やっぱりあるのね、勢力争い)、そのトップに君臨するのが伊勢神宮だ。全国約79,000社の神社を傘下に入れており、コンビニエンスストアより多いという(コンビニは全国に約55,000軒)。

「神社本庁」は様々な権限を持ち、傘下の神社の宮司を任命することもそのひとつだという。宮司は神社側の推薦に基づき、「神社本庁」の人事委員会で任命するかどうかが行儀されるそうだ。富岡八幡宮もかつては「神社本庁」の傘下にあり、「別表神社」と呼ばれる特別な神社のひとつとして名を連ねていた。「別表神社」は由緒、社殿や私設の状況、常勤の神職の数、経済状況、活動状況などに基づき選ばれ、約350社が指定されているらしい。

しかし、今回の事件で殺害された女性宮司を「神社本庁」は認めず、今年9月から富岡八幡宮は「神社本庁」からは離脱していたそうだ。他にも「神社本庁」といざこざを起こした神社はいくつかあるようで、政治の世界同様なにやらいろいろなものがうごめく閉鎖的な世界を思わせる。

別表神社のように由緒も規模も格式の高さもある神社がある程度存在する一方で、人口減少に伴い経営に苦しむ神社も多いようだ。神社の収入減は主に「賽銭「「祈祷料」「駐車場経営」らしいが、初詣でや合格祈願で賑わう都市圏の神社を除いて、後継者不足や資金難にあえぐ神社が増えている、と記事は伝えている。年収300万円未満が6割以上というから、神社経営も大変なのだ。

地方の過疎化は今後ストップがかかるだろうか。移住を望む熱心な活動もされているようだが、今一つ決め手に欠くような印象を持つ。国レベルで本腰を入れた対策がとられなければ、今後も都市集中は収まらず限界集落は増え続けるのではないだろうか。

八百万の神々を信仰してきた日本人だが、私のように初詣でにさえ行かない人間が多くなっている。弱小神社は今後どうなっていくのだろうか。そこに祭られている神は・・・などと柄にもないことを考えたりしている。地域に根ざした暮らしを長く続けていれば、氏神を尊ぶ気持ちも持つことができるだろう。が、そいうった暮らしはすでに過去のものになりつつある。昔から受け継がれてきた文化がどんどん消えていくようで淋しい。

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Are You Happy?

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「嫌い」とはちょっと違うが、できるだけ使いたくない、使わないようにしている言葉のひとつに「ハッピー」がある。高度成長時代、「ハッピー」には夢も希望もあった。しかし、今使われている「ハッピー」は刹那的な気分でしかないように私には思え、軽佻浮薄を連想させてしまうからかもしれない。

今なおその天才を讃えられるCMディレクター・杉山登志は、「ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません」という言葉を遺書に残して1973年12月12日自宅マンションで縊死した。名声をほしいままにし、経済的にも全く困っておらず(残されたポケットには11月分の給料35万円が手付かずで入っていたらしい)、誰もが羨むような生活をしていた・・・ように見えた人は、自分をリッチでもハッピーでもないと言って死んだ。

彼が生きた時代の「ハッピー」には確かに夢や希望があった。夢や希望を持つ人が感じる充実感があった。しかし、傍目にはそう見えないにしても、杉山登志には夢も希望もなかったのだろう。ただ疲れ果てた自分がいるだけ・・・その虚しさに耐えきれず燃え尽きたという印象を私は持つ。

悲惨なニュースが続いている。いじめによる子どもの自殺。両親による虐待で死んだ4歳児。体重が19キロになるまで衰えて死んだ33才の女性。なんともやりきれない思いだけを抱かせる事件ばかりが目に付いて、思わずよく晴れた冬空を見上げ、「空はこんなに青いのに・・・」と胸の中で呟く。

いずれの死も、当人が望んだ死ではないことは言うまでもない。周囲の人々が追いやった死である。いじめられているとあげた声は無視され、学校側は「マンパワーが足りない・・・」などと言い訳しつつ頭を下げたが失われた命はもどらない。全身あざだらけになりながら、「階段から落ちた」と言っていたという4才の男の子の健気さを、母親は知ろうともしなかったのか。16才から自宅に監禁されていたという女性には精神疾患があったというが、どのような疾患にせよ監禁する以外の方法はいくらでもあったように思う。19キロといえば、6歳児の平均体重である。2重扉に施錠し、タンクからチューブで室内に水を送っていたというが食べ物はどうしていたのか。動かなくなってからも5日間は放置していた親たちの言い分が知りたい。

年齢を重ねたせいなのかはわからないが、心から幸せだと叫びたくなるような感覚とはもはや無縁になってしまった。しみじみと静かに感じることはあるが、その感覚に充たされるということはない。とりたてて大きなトラブルがなければそれで幸せ・・・そんな感じだろうか。

とりあえず健康であること。楽しい経験を共有できる人がいること。愛すべき猫たちと暮していること。それだけでも私は十分幸せである。そして、これでいいと思っている。

| - | 08:08 | comments(0) | - |
ジャンクにウンザリ

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年末商戦と関係あるのかどうかはわからないが、このところ鬱陶しいくらいジャンクメールが届いて、いささかウンザリしている。サーバーやメールソフトが自動的に判断し、「迷惑メール」フォルダに自動的に入れられるものもあるが、そういったフィルターをすり抜けるべく工夫(!)されたメールもあるので、手動で捨てなければならないこともあり・・・

一昔前のジャンクメールは、いかにもという感じですぐにそれと分かるものだった。件名だけ読めば、あるいはメールの出だしだけ読めばそのままポイ!することができた。数も少なかったと思う。

しかし、最近のは凝っていてシラッとまともそうなことを伝える。慎重にならないと添付ファイルを開いたりURLをクリックしたりして思わぬ災難に煩わされることになってしまう。ここまでインターネットが生活に入り込んでくると避けようのない事態だとはいえ面倒なことである。

ネットで買い物をしたり、会員登録をしたりすれば自ずと自分の個人情報を提供していることになるから、一度買い物をしたところからDMが来るとか、署名したことがあるボランティア団体などからお知らせのメールが来るとか、それくらいなら仕方ないと思う。また、発信元を明確にしてあれば、たとえそれは不要なメールであったとしても単純に捨てればいいだけなのでこれもネットを利用したツケだと思えば済む。

しかし、どこかでこっそりアドレスを入手し、何かになりすまして人をだまそうとするメールが多くなってきたのには、ご時世だとはいえ腹立たしい。全くもって油断ならない時代なのである。

最近とくにいやーな感じなのは、私だけでなく多くの人が利用していそうな企業、あるいはサービスを名乗って送られてくるメールだ。たとえば、大手宅配業者や某巨大通販サイト。メールの内容は、「お届物の配送スケジュールのお知らせ」だったり、「パスワードが認証できなかった」だったり、「このままだと利用できなくなる」だったり。比較的短い文章の後に、もれなく「ここで確認してくれ」というURLが記載されている。

自分がなにかをネットで注文していたりすると、ああ、あれのことかな?と思わず目を止める。しかーし、すぐにはクリックしないぞ。メールの送信者の名前をもう一度確認してみる。確かに「○○急便」とはあるが、なんだかヘン。それに、宅配物の追跡は伝票番号がわかっていれば業者サイトで確認できるし、伝票番号は商品の販売元から知らされるはずだから、宅配業者から直接知らせてくるというのはおかしいのだ。

もうひとつ、「 info@○○○・・・」というのも曲者。プロバイダや各種サービスなどからのまともなお知らせによく使われるから、油断しているとそれだと勘違いしてしまう。お知らせなら具体的な内容が書かれているはずだが(たとえばサーバーメンテナンスの予定など)、そういった情報は一切記載されていないのですぐにおかしいと分かるものの、「なりすまし」テクニックの一端を見せられた感じでなんともいやな気分だ。

こういった煩わしさを厭い、ネットでは一切自分の情報を出さないという人もいる。それはそれで賢い判断だと思う。ネットで買い物をしない、情報を得るための会員登録もしない、アドレス記入必須のブログにはコメントを書かない・・・そこまで徹底していれば、ジャンクメールもかなり少なくなるだろう。

しかし、私は便利なものは利用したいから、リスクはリスクとして認識しながらネットと付き合っていくと思う。買いたいものが決まってれいば、ポチっとな!キャットフードや園芸用土など重たいものもポチッとな!と、これからもかなり利用していくと思う。

ただし、ますます油断大敵になってきたことは肝に命じておかないといけない。ネットは危険でいっぱいだということを教えてくれるという意味ではジャンクメールも役に立っているということか。いやだなぁ。

*沖縄の小学校(窓枠が落ちた)への誹謗中傷、ひどい!

| - | 06:48 | comments(0) | - |
年末所感

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今日はクリスマス。といって特別なことは何もしない普段と変わりない一日を過ごす日。街の騒ぎも今日で一段落、だろうか。クリスマス当日よりも前日に焦点を当てたかのようなお祭り騒ぎにうんざりするようになって久しい。

何でも、昨今はクリスマスよりもハロウィンの方が経済効果があるらしい。サンタクロースもカボチャのオバケに負けそう、といったところだろうか。所詮、メーカーや流通各社や広告代理店がしかけたイベントにすぎないのだが、日本人は本当にそういったわかりやすいお祭りが好きな民族だなと思う。

昨日渋谷で、「クリスマス粉砕デモ」というものが行われたらしい。何でも、恋愛至上主義に反対する「革命的非モテ同盟(革非同)」という団体が主催したとか。2006年からデモをやっているらしいのだが、私ははじめてその存在を知った。

クリスマスはバレンタインに並んで恋人同士にスポットが当てられるから、モテない面々はその日が来るたびにいやーな思いをしているのだろう。しかし、団結してデモを決行するほどモテないということは大事なのだろうか・・・モテないよりモテた方がいいのだろうが、無闇にモテても面倒くさいだけだと想像するのだが。

「モテない人の明るい未来を築き上げるべく、非モテ同士の連帯を!」と言っているらしいが、はじめは冗談かと思った。モテない人たちが集まって連帯するってなんだかみじめじゃない?モテるモテないより大切なことはたくさんあり、そちらの方に目を向けた方が明るい未来に繋がっていくような気がしないでもないのだが、まあいいか。

それよりも、ボーナスが出たり、家族や友人、恋人たちとの繋がりを確認する時間が多くなるこの時期、孤独感に呵まれたり、貧困に絶望感を感じたりして自殺する人が多いことの方が私には気になる。普段はあきらめているようでも、絵に描いたような幸せを実感している(かのように見える)人たちを見ると、自分の不幸が身にしみる・・・そんな人たちが一定数存在していることを思い、寒空の下で何を思っているのだろうと気にかかる。

他人事ではないのだ。今の日本を見れば。生活保護費を削減する一方で、高額な武器をどんどん買う国なのだ。弱者切り捨ての政策はここ数年でさらに明らかになっているのだ。クリスマスや大晦日にとことん落ち込んだ気分になる人はこれからも増え続けるような気がする。

大相撲の騒動も少し落ち着いてきたのだろうか。騒いでいるのはマスコミで、当事者たちはそれどころではないだろう。ワイドショーなどでの露出があまりに多く、そしてあまりにどうでもいいことを繰り返しているのを見るとうんざりするのは私だけではないだろう。

確かに、単なる暴力事件では済まされないものがあるに違いない。角界という特殊な、閉鎖的な社会の中の闇のようなものがチラリと見えたことが、ニュース価値ありと判断されているのだと思う。暴力を振るった者、振るわれた者よりもその周辺の関係性にスポットが当てられているようだが、もうこれは角界全体の問題なんだろう。かつて神に捧げられた相撲はもはやプロレスのような興業になっているということか。

ご存知の方も多いと思うが、「横綱」は白麻製の綱の名称に由来している。江戸時代の相撲では大関が最高位で、大関の中でも特に心技体が優れている者に綱を締めさせ、一人で土俵入りを披露させることになったことをきっかけに、「横綱」という最高位が生まれたという歴史がある。

今でもニュースで横綱締める綱を同じ部屋の力士たちが作る「綱打ち式」の様子がニュースなどで伝えられることがあるが、穢れなき白一色の綱に紙垂を付けた「横綱」は、まさしく注連縄を思わせる。神の存在を思わせる綱であることを思えば、それを付けることには並々ならぬ覚悟と自身に対する厳しさがなくてはならないと思うのだが・・・勝ち負けへのこだわりは時として醜く見えることがある。行司の判断にいちゃもんをつけて粘る横綱を見てがっかりした人も多いのではないだろうか。

たぶん、「相撲とは何か」という根本的な考え方の違いが角界の中で渦巻いているのだろう。大相撲もまた時代の流れとともに変わっていかざるを得ない面はあるが、決して譲ってはならない、変わってはならないものもまたある。なにを変えて何を変えないか。今後の動きに注目したい。

富岡八幡宮の殺人事件も衝撃的だった。夏に祭りを見に行ったばかりだったのでよけいに。あの世界も相当闇をかかえているような気がする。おどろおどろしささえ感じる加害者の怨念がすさまじい。相撲にしろ、神社にしろ、「伝統」を背負った世界はなかなか怖いものがある。

さて、今年もあと1週間あまりで終わりだ。反省すべきことばかりあったような気がするが、特別大きな不幸もなく無事に過ごせたことをありがたく思っている。年賀状は数年前から書かないことにしたし、あとはおおざっぱな掃除をするのみ。あたたかい部屋でのんびりできることを感謝しつつ、気になるあの人この人のことを思いつつ、静かに新しい年を待ちたいと思う。

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PHOTO WEEK・・・世田谷ボロ市2017<7>

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ボロ市は、やはり暗くなって灯がついてからの雰囲気がいい。最近は出店エリア外にも店が出ていて(たぶん無届け?)駅前から人の流れが続いている。昔に比べたら大きく様変わりしたのだろうけれど、市の賑わいはやはりいい。

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PHOTO WEEK・・・世田谷ボロ市2017<6>

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毎年みかけるサボテンや多肉植物の露店。にぎやかにおしゃべりしながら、買ってくれる人を待っているみたい。

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22日は猫に語らせる日・・・12月担当:ダイスケ(大介)

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みなさん、おはようございます。ダイスケだよ。ことしも、あともうすこしでおわるんだってね。すみごんが「おおそうじはどうしよう」なんてこまったかおでいっているよ。いつも、ぎりぎりまでやりはじめないくせに。ちゃしろのおばちゃんがいってたけど、ねんねん「おおざっぱ」になってきたんだって。ボクはおへやがちらかっていてもぜんぜんきにしないけど、にんげんってめんどうくさいなっておもうの。

ことしはいつもよりさむいんだってね。ぼくはきょねんから「いえねこ」になったので、これでもおそとよりずっとあったかだとおもうんだけど、ふくちゃんは「ふくは、はこいりむすめだから、さむくてさむくてがまんできないもんね」っていってるよ。ふくちゃん、はこいりむすめっていうかんじじゃないとおもうんだけど・・・いうと、なぐられるからいわないの。

ふくちゃんは、「おばばみたいな“でんきあんか”をふくのためにもかうもんね!」ってきょうりょくアピールしたらしいけど、でんきだいがばかにならないとかで、ボクたちはちいさな「ゆたんぽ」になったよ。あついおゆをいれてもらうと、とってもあったかいよ。

さいきん、ボクはねこちぐらがおきにいりだよ。ねこちぐらのなかに「ゆたんぽ」をいれてもらって、そこでおひるねすると、もう「ごくらく」だよ。ときどき、ふくちゃんがよこどりするけどボクのほうがたくさんねこちぐらをつかっていて、すみごんは「だいちゃん、ちぐらがよくおにあいだね!」っていってくれるよ。

ボクはあいかわらず、ふくちゃんとのバトルにはまけているけど、ふくちゃんもすこしかわってきたよ。ときどき、ボクをなめてくれるよ。でも・・・ボクがきたばっかりのころ、ボクがなめてあげるといきなりくいついてきたから、ボクはなめてもらってもビクビクしちゃうの。またかみつかれるかとおもっちゃって。そうすると、ふくちゃんは「なにさ。せっかくふくがおていれしてあげようとおもったのに。なまいきだもんね!」ってごきげんがわるくなるの。だって、だって、ずっとかみつかれてきたんだもん。すぐになかよくはなれないよ。

ちゃしろのおばちゃんは、あいかわらず1しゅうかんに1かい、「ペットクリニック」にかよっているよ。いやがっているみたいだけど、かえってくるとちょっとすっきりしたかおをしているよ。「ペットクリニック」では、ねこよりもいぬのかんじゃさんがおおいんだって。ふくちゃんは「いぬってひよわだもんね!」っていうけど、ふくちゃんにくらべたら、だれだってひよわだとボクはおもうの。

くろっぽいおばちゃんは、あいかわらずきまったいすのうえでねているよ。さむくなってきたので、「ねこべっど」をだしてもらったんだけど、さいしょのうちいやがってはいらないから、おっさんに「まーちゃん、ばか!もう、くちきかない!」といわれていたよ。でも、おっさんはくろっぽいおばちゃんがだいすきなので、また「まーちゃん、あったかいところにおいでー」って、「ねこべっど」にさそっていたよ。いまは、ベッドのうえにあったかいもうふをかけてもらって、ごはんとトイレのときいがいは、そのなかでねているよ。

すみごんたちのあさごはん、きょうはやきのりがでるらしいよ。きのうのよるから「よこく」していたから、ボクはとってもたのしみにしているの。ボクはやきのりがだいすきだから。すみごんは、たべるちょっとまえにのりをあぶるから、パリパリでおいしいの。ボクはおもわずがぶっとたべるよ。ふくちゃんは、ボクよりやきのりのたべかたがへただよ。くちのはしからのりがすこしでていることがあるよ。やきのりにかんしては、ボクのほうが「ぷろふぇっしょなる」だよ。

ふくちゃんは、たべものならなんでもほしがるくいしんぼうだから、さいきん「だいえっとさせなくちゃ」といわれているよ。すこしくらいたべものをへらしても、ふくちゃんはやせないとボクはおもうんだけどなー ボクはふくちゃんとおなじくらいのおもさだけど、みためが「すまーと」だから「だいえっと」っていわれないとおもうの。きのうもおっさんに「だいちゃん、かっこいいね」っていわれたよ。へへへ。

らいげつは、ちゃしろのおばちゃんのばんだよ。じんぞうびょうようのカリカリにちょっとあきたらしくて、ほかのごはんをほしそうにしていて、ちょっとかわいそうなの。ボクのをすこしわけてあげてもいいんだけど、ボクのは「おなかがでりけーとなねこ」ようのなので、だめなのかな。

きょうはこのへんでおわりにするよ。みなさん、ことしいちねん、ボクたちのぶろぐをみてくれてどうもありがとう。らいねんもよろしくおねがいします(ちゃんとあいさつしてね、ってすみごんにいわれたの)。らいねんは、もうすこしつよくなって、ふくちゃんと「ごかく」にとっくみあいできるようになりたいとおもっているから、おうえんしてね。おわり。

17-1222-2.jpgめすらしい「つーしょっと」だよ。

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