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月末所感

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たしか昨年の8月31日も「月末所感」だったような。8月は戦争やら原爆やら人々の死やらを思う日が多く、体調も不安定になりがちで月末ともなると疲労感を覚える。とりたてて忙しいわけでもないのだが、いろいろなモヤモヤが身につき纏い、そこに秋を感じさせる風がふっと通り過ぎたりしている。今日は雨。

昨日の毎日新聞夕刊1面に「谷口稜曄(すみてる)さん死去」の見出しがあった。例によって人の名前を覚えるのが苦手なので写真がなければ記事すべてを読まなくてはわからなかったと思うが、写真が掲載されていたので、あああの方が・・・と思った。

谷口さんは長崎で被爆し、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員として活動されていた。私は先に紹介した「ヒロシマ・ナガサキ」に出ておられるところを見ている。被爆直後背中のほとんどを焼かれた無残な状態や、映画撮影時カメラの前で衣服を脱いで見せたすさまじい手術跡も強く印象に残っている。88才での逝去だが、あの日目の前で斃れていった人々のために核廃絶運動の最前線に立ち続けた人生だった、という。

戦争を経験した人が減り続けている。いつか全くいなくなる。私を含めて戦争を知らない子供たちであった人たちが今後語り継いでいくことはひとつの義務ではないだろうか・・昨夜「この空の花」を見ながらそんなことを考えた

ミサイルで大騒ぎ。揶揄ではなく、Jアラートが鳴り響いた地域の方々にとっては青天の霹靂であり、漠然とした不安が一気に鮮やかになった出来事だったのだろうと思う。アラートがなったところでどうしたらいいのかわからない。地下や頑丈な建物に避難せよと言われても近くにそうのような場所はない。一体どうしたらいいの?という戸惑いは当然のことだと思う。

しかし、こういう時だからこそ冷静になって少し距離をもって事態を見守った方がいいように思う。北朝鮮にはイライラしがちだが、見方を変えればなかなかしたたかである。アメリカ、中国、ロシア(日本はオマケみたいなものだからあまり眼中にはないかも)の決して一致しないであろう思惑をうまく利用し、からかっているのか?とさえ思える。

たしかに重大事だろうが、それを利用してまた支持率アップを図ろうとしているような誰かさん及びその周辺の動きもきちんと見ておくべきだろう。厳重に抗議しても中国やロシアを動かすことができなければ事態は変わらないような気がするのだが・・・

明日から9月。9月1日は自殺する子どもたちが多いということが数日前から盛んに話題にされている。「無理して学校に行くことはないんだよ」という優しげな語りかけもあるが、それではとりあえず1日の自殺は食い止めることができるくらいなのではないだろうか。

いじめが原因の自殺は珍しいことではなくなった。明らかになる度に様々な分析や提案がなされるが、決定的な解決方法はいまだ見当たらず、「学校側は把握していない」ととぼけた言い逃れが常套句になっている。

前にも書いたと思うが、現代のいじめは私たちが子どものころのいじめとは全く違うように思う。学校、家庭、地域社会、国・・・様々な環境が与えている影響もあると思うし、子育てや家族についての思いもまたより複雑になっている。もちろんいじめはよろしくないことなのだが、「いじめられた側=善 いじめた側=悪」という単純な公式は当てはめて解決することではないだろう。

子どもたちには、自分で考え、自分で自分を守る方策を見つける力を身に付けてほしい。つらくてつらくて仕方なければ学校に行かないというのもひとつの方策である。身の回りの大人たちが信用できなければ、信用できそうな大人を探すのも方策である。まず自分自身を信じ、考え、しあわせになるための道を探してほしい。

炎症を越していた右足首はほとんど完治した(と思う)。足首を曲げても痛くないし、赤みもなくなった。しかし、痛かった間に妙な歩き方をしていたのか今度は筋肉痛(^^;) あまり動かなかったので血行が悪くなったのか頭痛。いつどのような不具合が出てくるかわからない年齢になったと先日も書いたが、それに加えて不具合の連鎖が起きる年齢にもなったことを知る。この間買った崎陽軒の「シウマイ」に入っていた“ひょうちゃん”は今の私にぴったりだ。

| - | 10:50 | comments(6) | - |
愛されすぎたぬいぐるみ・・・ペペ

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先日、朝日新聞のサイトを見ていたら「愛されすぎたぬいぐるみたち」という特集が目に留まった。アイルランドの写真家・マーク・ニクソンさんという方が子どものころから何十年も一緒に時を過ごしたぬいぐるみと持ち主を撮り写真集を出した、自分のサイトに掲載したところ1ヶ月で150万件以上のアクセスがあった、云々。

その一部が紹介されているのだが、なるほどと思えるような古いものから比較的ダメージが少ないものまでいろいろありそうだ。しかし、片耳がとれてしまったり、毛がほとんど抜けてしまったぬいぐるみを見ていると、ただ部屋に置いていただけでなく持ち主が抱いたり撫でたりスキンシップをとっていた様子がしのばれて年がいもなく「胸キュン!」である。

ちょっと切ないような気持ちになったのは、私にもそのようなぬいぐるみがあったからだろう。そして今は物置部屋の本棚の上に置いてある箱の中にずっと入れたままになっていたことを思いだしたからだろう。これも何かの啓示かもしれないぞ・・・そう思って箱を下ろして中から私の「愛されすぎたぬいぐるみ」であるペペを出してきた。うーん、ボロボロ!

特に目立つおが耳で、両耳とも穴があいてひどい状態だ。鼻の周りもほつれて詰め物が見えている。それ意外はさほどのダメージはないが、片手と両足はすでにフェルトを貼って直してある。いつ直したのか全く覚えていないが、よく見ると小さな穴をかがっているところも数ヶ所あって、ペペが私にとって特別なぬいぐるみだったことを改めて思いだした。口は太い糸で「へ」の字に刺繍されていたが、その糸もほどけて今はない。凛々しい顔もかなりくたびれている。

くたびれるはずだと思う。ペペはもう50才なのだから。小学校5年生の時、お年玉をもって横浜高島屋に行き迷いに迷って買ったのを今でも覚えている。確か800円だった。赤と黒の細かいチェックのリボンを首に着けていた。一緒に行った妹は淡い水色の優しげな顔のクマを買ったが、私は薄茶色の男の子らしい顔立ちをしたペペを選んだ。当時男の子のように活発だった妹とおとなしかった私が選らんだものが自分たちのイメージとは対照的なものだったことが今となってはおもしろい。

妹は自分のぬいぐるみに「コロ」という犬のような名前をつけた。何故私が「ペペ」にしたかは、これまた全く記憶にない。が2匹は仲良し(!)でよく一緒に遊んだものだ。遊び過ぎてある日ペペの頭がポロリと取れてしまい、私は半べそをかいて母に直してもらったっけ。

通学途中の商店街に手芸店があり、私は学校の帰りによく立ち寄った。そこで20センチ四方くらいのフェルト、レース、チロリアンテープ、ボタン、ビーズなどを買ってペペの洋服を作った。ごつい顔をしたペペには似合うとは言いがたい洋服をいくつも作った。材料を選びデザインして作る・・・その楽しさに夢中になっていたのだろう。

さて、ぺぺはこれからどうしようか。このままボロボロでもいいかなとも思ったのだが、傷みがひどいところはちょっと触っただけで崩れてしまいそうだ。子どもの時のような遊び方はしないにしても(当たり前だ!)今後が少し心配だ。

「愛されすぎたぬいぐるみたち」の中には、専門の業者に頼んで修理してもらっているものもあった。そこで少し調べてみると、ぬいぐるみの修理をしている店や個人がけっこういるようだ。そのうちのひとつにメールで問い合わせをしてみたところ、実物を見てから修理方法を相談しましょうとの返事があった。詰め物をすべて新しく替えたり毛皮(?)を新しいものにしたりもできるらしいが、あまり大幅な修理をすると元のイメージが薄れる。「愛されすぎた」感はある程度そのまま残したいので、近々送った上で最小限の修理を依頼しようかなと思っているところだ。

大人は判ってくれない」という映画があった。フランソワーズ・トリュフォーの自伝的作品と言われ、主人公は12才の少年。観たようでいて観ていなかった映画だが、あらすじを読むと少年の鬱屈した気持ちが分かるような気がした。厳しい母親、両親の喧嘩、母の浮気、悪い成績、教師の叱責・・・少年は嘘をつき、盗みを働き、鑑別所に送られる。そして脱走・・・というような映画らしい。これは見なくてはと思う。

私の少女時代(自分で書くとなにやら恥ずかしい気分)は映画の主人公のようなものではなかったが、それでも「大人は判ってくれない」と何度も心の中で呟いていた。判ってもらいたいという気持ちが強かったのかもしれないが、大人たちは判ってくれない、判ろうとさえしない、そう思っていた。

「大人は判ってくれない」と自分の中で繰り返しながら、少しずつ「判ってくれなくてもいい。判るはずがない」と思うようになり、子どもにしては醒めた目で大人の社会を見る子どもになっていった。

しかし、まだ小学生である。寝る前などになると「判ってもらえない」自分が哀れだと感情的になる。そんな時私はペペを抱いて「いいもん。ペペがわかってくれるから」と自分に言い聞かせ、ペペに話しかけたりしていた。小学生のつつましい孤独は今となってはほほ笑ましいくらいだが、たぶんその後の人生に大きな影響を及ぼしたように思う。

そんなこんなで、ペペは孤独を知った私の唯一の友だちだったのだ。学校の友だちも幾人かいたが、本音をさらけだして付き合っていたかというとそうではなかったように思う。大人に対しても同じ年齢の子どもに対しても距離感を置く姿勢はすでにあのころからあったのだ。ただのぬいぐるみだからこそ、私は距離感を気にすることなくペペを愛することができたのだろう。

さてさて、箱の中から久しぶりに出してきたばかりだというのに、また修理のために手放すことになってしまうようでなんだか淋しい。できるだけ納得のいくような修理をしてもらい、棺に入れてもらうまでたいせつにしたいと思っている。

| - | 08:40 | comments(2) | - |
ひさしぶりに、ケーキ!

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ケーキを買って食べるのは、たぶん1年に2回程度だろうか。子どものころや若いころは、美味しいケーキというとすぐに「食べてみたい!」と思ったものだが、酒を飲むようになってからはあまり食べたいと思わなくなった。30代はとくに甘いものがダメになってほとんど食べなかったと思う。

40代ころから徐々に甘いものをたまに食べるようになり、50代からは和菓子が好きになり今に至る。もともとクリームが少し苦手なところがあって、ケーキと呼ばれるものでもアップルパイやタルトを好んで食べてきたから、今でも選ぶのはそのようなものになる。

昨日、久しぶりにケーキを買った。通院している整形外科の真向かいに比較的最近できたケーキ屋(今はパティスリーっていうんですかね)があるのに気づいたからだ。ローカルな情報サイトである「横浜日吉新聞」でオープンの記事を見かけたことがあり、機会があったら一度試してみてもいいかなと思っていたのだが、詳しい場所まで確認していなかった。診察が終わって迎えの車(ふふふ。送迎付きですぜ)を待っている時に何気なく前をみたらその店があるのに気づいた次第。

ご老体2人の家庭なので2つでいいかな、と思っていたのだが、ずらっと並んだケーキを見ていたら1人2個になってしまった。サイズが小降りなのもあり、みな美味しそうなこともあり、で。舌を噛みそうな名前はみな忘れてしまったが、自分用にフランボアーズとクリームチーズのムースとブルーベリータルト(写真)。家人用にショートケーキとチョコレートのムース。

チョコレートのムースはけっこう濃厚な味だったらしく家人はやや持て余し気味だったが、ショートケーキを食べた後だからさもありなん、というところか。苦めのコーヒーと一緒に食べたら美味しそうだった。私は一度に2個も食べられないので別々に。フランボアーズのムースはもともとフランボアーズ好きということもあってか大満足のお味。ブルーベリータルトも甘味を抑えた上品な味でなかなか。

おっと。ここまで書いて確認するため調べてみたら、「横浜日吉新聞」で私が見かけた記事は違う店のものだった。が、かなり今回の店に近い。同じ街道沿いなのでてっきり(^^;)。まあ、私のおっちょこちょいも今に始まったことではないし、美味しいケーキ屋を見つけたことになるのでよしとしよう。

*私が買ったのは、こちら

記事で見かけた店はショコラトリーらしい。

*美味しいチョコレートが食べたくなったら行ってみよう。

| - | 11:52 | comments(0) | - |
純白の朝顔

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今年は朝顔の種を蒔きそびれてしまった。昨年まで3年連続で蒔いていたのに・・・知人からいただいた変化朝顔も昨年花を咲かせた後に採集しておいたのに・・・来年は忘れずに蒔きたいと思う。

種を蒔いていないのに、今我が家のベランダでは朝顔が咲いている。北東側のベランダでは、昨年8月27日の記事で書いた薄紫色の花が、南西側のベランダでは純白の花が見頃だ。朝顔というと夏の花ということで7月8月が見頃だというイメージが強いが、私が思うに8月下旬から9月にかけてが最も美しい。種を蒔く時期にもよるが、盛夏よりも朝晩の空気に秋の気配が感じられる晩夏に見る朝顔の花は儚くも凛としていて見飽きない。

薄紫色の朝顔は、昨年も書いたがその微妙な色がなんともいえず好きである。「白」といっていいほどの色だが、微かに薄紫を帯びる。その繊細な色あいが気に入って、この種はずっと採集しつづけようと思っている。

純白の花を咲かせる朝顔も同じところで採集したものだ。近所に小さな畑があり、道路との境に放置状態で毎年咲く朝顔があってずっと気になっており、数年前に種をいくつか失敬した。今年も同じ場所で咲いていたが、早々と刈り取られてしまい今は見る蔭もない。毎年こぼれ種から芽を出し、ぐんぐん伸びて花を見事に咲かせているが、持ち主からすると邪魔な存在なのかもしれない。

最初は白い朝顔だったのが、なにかの拍子に交雑して薄紫色の花を咲かせるようになったのかもしれないし、最初は紫だったのが交雑して淡い紫や白の花を咲かせるようになったのかもしれない。自然交配は人の考えが及ぶところではないので、咲いた花を素直に愛でればいいと思っている。

今年はこの純白の朝顔がやけに美しく見える。北東側の薄紫色の朝顔は薔薇の鉢にこぼれた種から発芽し、現在薔薇と同居しながら花を咲かせている。枯れてくれば種をとった後に切ってしまえばいいので、蔓も伸び放題。一方純白の朝顔は鉢の上にではなく、ベランダの排水用に溝にたまった土で芽生えた。ほんのわずかな土しかないのに、そこで芽生えてぐんぐん成長し、薔薇の枝にからまり、どんどん花を咲かせている。なんとたくましいことか。

純白の朝顔も伸び放題にさせているが、ほとんど栄養分などないわずかな土から育ったとは思えないほど元気だ。葉も黄変することなく健康的。邪魔にならないよう適当に蔓を誘引(!)したところ、毎朝清々しい花を咲かせて目を楽しませてくれている。やはり白い花はいいなぁ・・・とつくづく思う。

白い朝顔というと、私は利休を思い浮かべる。有名な「朝顔の茶会」のことだ。逸話なので実際にあったことなのかは不明だが、いかにも利休と思わせるあたりが心憎い。あらためて調べてみると、利休の庭で咲いていた朝顔の色がわからなくなった。私は白だと思っていたのだが・・・

私のイメージは映画「利休」によるものなのかもしれない。原作である「秀吉と利休」(野上弥生子)ではどだったのかまだ確認していないが、少なくとも勅使河原宏監督は白を採用したということだろう。しかし、「茶話指月集」という茶道の逸話を集めた本では「色鮮やかなる一輪を床にいけたり」とあるようだ。「茶話指月集」は利休の孫にあたる千宗旦の弟子であった藤村庸軒の女婿である久須美疎安(あー、ややこしい)が義父(庸軒)から聞いた話をまとめたもの、だといい、元禄時代に出版されたようだ。

今でも朝顔の色は豊富で、様々な紫があり、薄紅があり、紅があり、そして白があり、絞り模様もあり、だが、利休の時代の朝顔はどのような色だったのだろう。奈良時代に遣唐使が種を持ち帰ったことがわかっているようなので朝顔の日本における歴史は古い。当初は薬用植物として利用されていたらしく、利休の時代でも観賞用としてはあまり知られていなかったのではないだろうか。品種改良が盛んになったのは江戸時代なので、それ以前は今ほど多様な花もなかっただろう。

「色鮮やか」となると何色なのだろう。濃い紅色か。すっきりした紫か。うーん・・・考えながらも私の中では白い朝顔の花が以前として頑として動かない。どうでもいいことなのだが気になってしかたない。話そのものが本当にあったかどうかもわからないというのに。

利休にカラフルな花は似合わない、という私の勝手な思い込みゆえだろうか。しかし、たとえば「江岑夏書(こうしんげがき)」という江岑宗左(利休の曾孫)による本に、「花ハ白キカ能候と、休被仰候と旦御物語候・・・」なるくだりがあるらしく、利休が「花は白いのがよい」と言ったらしいことが書かれているようだ。宗左は先に書いた宗旦の子で、宗旦は実際利休がそう語ったところに居合わせていたようなので利休が白い花を好んだのは間違いあるまい。

それならば。やはり朝顔の茶会の朝顔は白でよい。利休屋敷の朝顔が見事だという話を聞いてワクワクしながら秀吉が駆けつけたのは、たぶん朝靄がまだ晴れぬ時刻だったに違いない。乳色の靄の中を早足で歩く秀吉が期待していたのは、何色の朝顔だったのだろうか。利休の庭に着いても朝顔の花は一輪もない。怪訝に思いながら茶室に案内されると・・・そこには一輪の朝顔があった。

咲き乱れる朝顔の花を一輪残してすべて積み、その一輪だけを見せた利休。豪華絢爛、きんきらきん、過剰さを好んだ秀吉への挑戦とも、侮蔑とも、戒めとも様々に言われているが利休の真意はどうだったのだろう。

朝顔をすっきり活けて、静かなたたずまいで秀吉を迎える利休。息せききってたどりついたところで見せられた意外で心憎い演出に驚きを隠せない秀吉。この二人の対照がおもしろいゆえ逸話として今も語られているのだろう。映画の印象から抜けきれないのかもしれないが、やはり朝顔は白でなくてはならないと思う。

*また映画を見ようかな。もう何度め?

*足首の炎症はほぼ治った模様。しばらくは様子見なれど。

| - | 11:14 | comments(0) | - |
AIとの付き合い方

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今朝の毎日新聞一面に「AIが個人格付け」という記事が掲載されていた。中国のアリババグループが開発したスマホ決済を利用すると、利用状況により個人のランク付けがなされるという。そのランクは一種の信用情報となり、ステイタスシンボル(死語?)にもなっているようだ。ランクによって各種の優待サービスが使え、通常保証金を前もって払わなくてはいけないホテルでも、最上ランクの人は保証金なしで宿泊できるらしい。

私は利用していないが、スマホ決済は日本でも珍しいことではなくなっている。コンビニでの買い物も、電車やバスに乗る時も・・・ごく普通にスマホ決済を利用している人は多い。便利で手軽だが、その便利さを享受しながら自分の個人情報を提供していることになることを、どれくらいの人が意識しているのだろうか。

もはや個人情報は何らかのかたちで流出しているのだから、あまり気にしない人も多いのかもしれない。実際カードを使って買い物をしたり、ネット通販を利用したりしても個人情報は流れる。私もリスクがあることを覚悟しつつ便利に使っている。理想的には現金払いがいいのだが、そう思いつつカード決済などをしているのだから人のことはあまり言えない。

一昔前、「A.I.」という映画があった。スピルバーグの映画だったか。不治の病の息子を持つ夫婦の元に少年型のロボットが送られてくる。夫婦の息子は冷凍保存されたままになっており目覚める保証はない。起動した人を愛するようにプログラムされたロボットは母親を愛するようになるが、実の息子が奇跡的に目を覚まして帰ってきてから、母は彼より人間の息子を愛するようになる。そして少年型ロボットは森に捨てられる・・・ストーリーそのものは悲しいものだったと思うが、あそこまで人間に近いロボットが将来出てくるのか、と思うと怖いような気もした。

しかし、昨今の人工知能の活躍ぶりを見聞きすると、ああいう時代は思っているよりも早くきそうな気がしないでもない。人間のように食料を必要とせず、病気もせず、プログラム通りに動くロボットは省資源に大きく貢献するし、仕事の現場では最もかさむ人件費節減に役立つ。

いくら優れていてもロボットはロボット。血の通う人間にかなうものはない、と考え方は人情としてはわかるが現実的ではなくなってきているのかもしれない。人工知能にとって変わられそうな仕事は何か、などという話題もちらほら出ている現在、人間はそれらとどう付き合っていくかを真剣に考えなければならない時期に来ているように思われる。よく口にされる「倫理」とは何かも考えなくてはならないだろう。

人間はもはや遺伝子操作まで平気でやってのけるのだ。最近、かつての戦争の時に暗躍した731部隊についての番組を見たり、久々に「悪魔の飽食」を読んだりしたが、科学者というのは「倫理」よりも「野心」や「探求心」などを優先させがちのようだ。捕虜とはいえ人間を「マルタ(丸太)」と呼び、消耗品としてどんどん使い捨てていく・・・人間にはそのような面があることを改めて思い知るとともに、戦争中でなくても下手をすると似たようなことが為される可能性はあると思った。

前にも書いたが、私は人間は数を減らした方がいいと思っている。どのような形で減るのがいいのかは、人間である私が考えるべきことではないような気がする。神のみぞ知ることなのではないだろうか。もしかしたら今よりもっと世界各地で戦争が多くなり、人間同士が殺しあうようになって数が減るのかもしれないし、治療困難な病気が蔓延するのかもしれないし。ただ、おそらくそういった事態になるとすれば、人間自身の行為の結果、つまり自業自得によるものになるような気がしている。

AIに関する技術は今後もどんどん進歩していくだろう。その進歩は人間次第なのだが、どこまでAIにやらせ、どこからはたとえどのような理由があろうとも人間がやる、というような基準を考え、実行していかなければなし崩し的にとって変わられるかもしれない。たとえそうなったとしても、たぶん私は生きていないので知ったことか!とも思うが、気にならないわけでもない。

AIについては真面目に考えていかなければならないのだが、ちょっと不真面目なAIの利用も実害がない限り楽しいのかもしれない。というのも、最近思わず苦笑したニュースがあったからだ。

私が住んでいる横浜市の資源環境局がAIを使ったゴミの分別検索を試験的にやっているというのだ。それを利用した人がSNSに書き込みをしていて、それがおもしろかった。お相手は「イーオ」と名付けられたAIで、LINEのような画面が出てきて、分別方法を知りたいものをメッセージとして書き込む。すると、「イーオ」が答えてくれる。チャット機能を使った案内は確かに親しみやすい。

ニュースで見た記事は「横浜市のゴミ分別AIがめちゃ意識高い」としている。最初は「天ぷらの油はどう?」と聞くと「捨てたいものが、食用油なら、捨て方は、燃やすゴミだよ。油を紙などに染み込ませるか固めてね。ボトルはプラスティック容器包装へ」と丁寧に答えてくれる。その後「ドレッシングの瓶」「電池」などと聞いた後、試しに「夫」と聞いてみる。すると「イーオ」は「あわわ。。。」。しつこく聞いていくと「その質問はよくわからないんだ。ごめんね。別の言葉を入力するか・・・」。さらに続けると、「人間は判断力のけつじょによって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する、ってアルマン・サラクルーは言ってたよ。忍耐力を鍛えてみたら、どうかな」ときた。うーん、意識高い!?

AIというとクソ真面目に考えがちだが(真面目に考えなくてはいけないんだけどね)、こうした遊びというか、AIとの付き合い方もアリかもしれない、などと思った。適当にあしらわれたら腹が立つかもしれないが、「イーオ」くんみたいに親切だったら楽しいかも。

*「イーオ」君、好評らしく実証期間延長だって。

*そういえば高校時代、「倫理・社会」は苦手だったなぁ(^^;)

| - | 11:46 | comments(2) | - |
大田洋子と林京子

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書いておこうと思いつつ、なかなか書くところまで行けなかったこのテーマ。やはり8月中に書き残しておきたいと思う。記憶はすぐに薄れてしまうので。

7月から8月にかけて原爆についての本を読み続けている。今年は大田洋子と林京子の作品を例年より多く読むことになった。私の読書は全く計画的ではないので気の向くままに読んでいったら結果的にそうなった、というだけなのだが。

大田洋子については以前も書いた。林京子の作品についてもこれまで何度か書いている。それぞれの作品については、今後も書くことがあるかもしれないが今日は作家として、女性としての2人を比較してみたい。

「被爆」という想像を絶する体験をした、という共通点を持つ2人である。大田は広島で、林は長崎で被爆した。しかも爆心地に近いところで。死者と生者の運命が紙一重のところで決められてしまう場にいたことを思うと、2人とも運が良かったといえなくもない。しかし、生き残ったゆえの苦しみは一生ついて回る。あの時即死してしまった方が楽だったのではないか・・・なぜ自分だけが生き残ってしまったのか・・・次々と死んでいく人々を見ながら何度そう思ったことだろうか。

「被爆」したことが作家としての原点になっているところは共通しているが、それ以外については対照的でさえある、というのが現在のことろ私が感じていることだ。作品を読み続けるに従って、この印象は強くなっている。

大田洋子は1906年生まれなので被爆時は39才ということになる。評価はさておき、すでに作家としての立場で生きていたし、作家として被爆直後の有り様を見ていた。一緒に被爆した妹に「よく見ていられますね」と責められても、目の前の悲惨極まる光景から目を話さずにいたのも、作家としての義務だと思っていたと自ら書いている。

一方林京子は1930年生まれで、被爆時は14才の女学生だった。学徒動員で三菱兵器工場にいた時に被爆した。その時は将来自分が作家になるなど全く考えていなかっただろう。まだ大人になり切らない年齢で被爆し、同級生たちを一瞬にして失い、その後も原爆症で次々と倒れていく友人たちを見続けている。

39才と14才。この年齢差が大きいと思う。しかし、生まれ育った環境も大きく違い、それもまた二人のその後の人生、思想、作風などにかなり影響を与えていると思える。

大田洋子は複雑な家庭環境で育った。母親は何度も離婚・結婚を繰り返し、大田が8才の時に何度目かの離婚をし、洋子は母とともに母の実家に行くことになる。しかし何故か親戚の家の籍に入れ、母とは違う姓となる。その後母は再婚し大田もついていくが、再婚先で母が生んだ子どもたちとも折りあえず、血の繋がった弟たちとも離され、孤独な青春時代を過ごしている。母を厭う気持ちはこういった環境から生まれたと思うが、その底にはごく普通の母と子のように愛し愛される関係性への渇望があったように思える。望みながら叶えられなかったことが、大田のある意味で偏屈、理解しにくい性格を形成していったのではないだろうか。

林京子は誕生した翌年、三井物産の社員であった父親の勤務地だる上海に移住している。戦況が悪くなり帰国し、父親の故郷である長崎に帰り長崎県立高騰女学校に中途入学。県内から集まってきた優秀な学友たちの中でコンプレックスを感じつつも、穏やかな女学校生活を送っていたところを被爆した。被爆した時父親はまだ上海におり、母と他の娘たちは諌早に疎開していて無事だった。

長崎は全滅との噂が流れたが、骨くらい持って帰りたいという思いから母親は諌早から長崎まで出かけていき、奇跡的に助かった娘を連れて帰っている。林もまた母親については複雑な心理を作品の中でも示しているが、それは大人になってから徐々に感じてきた違和感によるものであり、性格形成に影響したと感じるものではない。

人の性格を分析して云々するのはあまり好きではないし、いくら推測したところでそれはその人のほんの一部にしか過ぎないと思っている。それを踏まえて上であえて書いてみれば、大田洋子の偏屈で嫌われがちな性格は環境によるものだけではないと思う。もって生まれたものというのも確かにあったのではないだろうか。感受性が強く臆病。その反動としての突飛な行動。強い承認欲求から生まれる野心。それらを作家として活かすことができなかった不器用さ。小説家として認められたいと願いつつ挫折を繰り返し、不遇のうちに57才で客死したその人生は痛々しくさえある。根底にあるのは「怒り」であり、その時々によって様相は違うが、常に「怒り」を感じ「怒り」に苦しみ、死ぬまで自らの「怒り」と折り合いをつけられなかった、そんな印象を持つ。

林京子の作品を読んで感じるのは、大陸的な性格だ。人格形成に大きな影響を与える幼少期を当時の国際都市上海で過ごしたことは、視野の広さと懐の深さ、そして冷静な視点を育んだと想像する。大田洋子同様話京子も作品の中に様々な原爆についての情報やデータを記しているが、それらをもって「小説ではない」「原爆ファシストだ」などと言われることがあっても動じない。批判は覚悟の上でのことで、それらが決定的な傷になることはなかったと思う。

林京子も大田洋子同様、作家として立った以上認められたいという欲望はあっただろう。しかし、「原爆の語り部」たることを自らに誓った時から、野心よりも強い意志があの小柄な身体の中に存在し続けたのではないだろうか。あくまで客観的で淡々としていながら、読むものをぐいぐいと引き込んでいく作品を読んでいると、やはり才能豊かな人であったことがわかる。

今でこそ、大田洋子は「原爆作家」として名を知られるようになった。しかし生前はごく一部の人にしか知られることなく、全集が出たのは大田の死後19年経過した1982年である(絶版)。2001年に違う出版社から全集がでており、私が図書館から借りて読んだのはそちらだ。文庫になっているのは「屍の街・半人間」のみ。いまだに広く知られる機会を得ていない感がある。

一方林京子はデビュー作ともいえる「祭りの場」で第18回群像新人文学賞を受賞。その後この作品は芥川賞も受賞している。「ギヤマン ビードロ」で芸術選奨文部大臣新人賞の内示を受けるが辞退。「上海」で女流文学賞、「三界の家」で川端康成賞、「やすらかに今はねむり給え」で谷崎潤一郎賞、「長い時間をかけた人間の経験」で野間文芸賞を受賞。文学的功績を認められて2005年度朝日賞も受賞しており、作家として広く認められ、大田洋子とは対照的である。

8月15日付の新聞(毎日新聞)に加賀乙彦らが発起人となり「林京子の人と文学を語る会」が結成されたという記事が載っていた。今年の2月19日に87才で天寿を全うした作家への追悼の意味もあると思う。「端正で美しい文体で、感情を高ぶらせることなく冷静かつ綿密に恐怖を描き出している。非常に厚みがある」と加賀は評価したという。

「語る会」は都内で開かれ、林の長男である知世(ともよ)さんも参加されたようだ。自分のことだけでなく、被爆二世として生まれた息子のことを心配しつづけた林の心境は子を持つ身としてよくわかるような気がする。大田洋子は子を持つことがなかったが、林京子は悩みながらも母になることを決意した。園辺りも大きく違うところかもしれない。母は強いのである。

体調不良のため欠席した三木卓は「林さんは国家が押し付けた戦争の欺瞞への怒りを解くことはなく、不動の怒りは我々の確かな物差しであり続ける」というメッセージを寄せたそうだ。同じ「怒り」であっても、大田洋子の「怒り」と林京子の「怒り」は似て非なるものなのだろう。大田は「怒り」に翻弄されがた、林は「怒り」をエネルギーとして活かした・・・そんな印象を持つ。

書きたいことはまだまだあるのだが、今日はこの辺で。比較してみたが、どちらが優れている云々という話ではない。私自身は林京子作品にとても惹かれるが、大田洋子の激しい「怒り」もまた読者として魅力的だと思っている。いずれも、もっと多くの人に読んでもらいたい作家であり作品である。

| - | 07:25 | comments(0) | - |
ねないこ だれだ

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夏といえば怪談。怪談といえば幽霊。ということで先日は谷中の全生庵でやっている「幽霊画展」を見に行ってきた。全生庵は三遊亭圓朝ゆかりの寺で墓所もあり以前お参りしたこともある。怪談噺の作者でもあった圓朝は幽霊画もコレクションしていららしく、それらが寺に残されたという。これらのうちいくつかが公開されるということでいそいそと出掛けていった、というわけ。

幽霊のイメージを作り上げたと言われる丸山応挙の作品もあったし、今回は新たに発見されたという鏑木清方の作品も展示されていた。番町皿屋敷のお菊さんを描いたものと思われ、一見ちっとも怖くない。うつむいた姿勢でふた付きの茶碗を献上する女性が描かれていて、こわいというより美しい絵という印象だ。しかし、よく見てみると女性の手は生きている人間のもものようには見えない。骨ばった白い手は異様に細く、指先に怨念を感じさせる。そこであらためて「ぞぞぞ」となる。

幽霊画を見ていたら、昔絵本で見たおばけを思い出した。「ねないこ だれだ」(せな けいこ)のおばけである。ちぎり絵の手法で作られたこの小さな絵本は1969年に誕生したというから、絵本の中でも50年近く愛されている稀な本だと思う。子育てしたことがある人なら一度は見た、手に取ったことがあるのではないだろうか。

私はこの絵本が好きだった。短いストーリーもよかったし絵の作風も好きだし、なにより愛嬌のあるおばけが気に入っていた。しかし・・・一緒に楽しもうと思っていた息子はこのおばけが大嫌いで、本を出してこようものなら一目散で逃げた。おばけの真似をして両手を広げて「ねないこ、だれだー」と言おうものなら「やめてよー」と言って逃げた。

その怖がりぶりがおかしくて、私はお気に入りの絵本の間にいれて突然さっと出したり、メモ用紙におばけの絵を描いたりして息子を怖がらせた。何度やっても慣れるということがなく、その度に泣きそうな顔をして怖がる息子の様子がおかしく、そしてかわいかった。今思うと悪いことをしたと思う。ごめんよ、息子。

家にあったはずなのに、探してもない。仕方ないので新たに買うことにした。今度は自分のために。そしてあらためて読んでみたが、やはりいい絵本だと思う。まず柱時計の絵。午後9時を指している。次は闇の中に光る目。「こんな じかんに おきているのは だれだ?」。今どきの子どもは午後9時に起きていることなど普通なのかもしれないが、この絵本が作られた時代はあってはならないことだったのかもしれない。

ふくろう、みみずく、くろねこ・・・と「こんなじかん」に起きている動物が登場し、「どろぼう」まで出てくる。そして・・・くまのぬいぐるみを持った女の子が。おばけが言う。「よなかに あそぶこは おばけに おなり」。そしてお女の子の手を取り「おばけのせかい」へ飛んでいく。最後のページでは、女の子のシルエットがすでにおばけのかたちになっている。

息子が怖がったのは、おばけの大きな目と赤い口だろう。ストーリーそのものというよりも、描かれているおばけの姿(ちっとも怖くないのに。大人には)が怖くて仕方なかったのだと思う。しかしこの本は、そのストーリーから寝ない子どもを寝かせるしつけに使われることが多く、またそのような本だと思っている人も多いようだ。

しかし、調べていたら作者のせなさんが「しつけのための本」ではない、と書いている記事を見つけた(東洋経済オンライン2016年8月20日)。この本は子どもにも人気のようで、せなさんいわく「しつけの本だったら、子どもはこんなに好きになってくれるはずがありません。子どもは敏感ですからね。そういったことはすくにわかってしまうんです」。そうそう、その通りだと思う。さすが、子どもの心理をきっちり理解されているなぁ。

せなさんの娘さんは、「いいよ、とんでいくよ」と言ったという。我が息子とは大違いだが、子どもたちの心の中には、怖いけれどちょっと行ってみたい、見てみたい、というイキイキした好奇心があるのを作者は見抜いているのだ。おばけは自由気ままに生き、そして子どもはそのことを知っている・・・だから、おばけに連れられてとんでいってもいいな・・・そこはどんな世界だろう・・・子どもたちの想像は無限に広がっていくのではないだろうか。

ここからは全く別の話(^^;)

現在私は右足首に湿布を貼って外出を控えて安静中。行こうと思っていた展覧会も友人たちのの約束もキャンセルして。今週はじっと我慢の子の1週間になりそうだ。

といってもたいしたことではないのでご心配なく。日曜日あたりから足首周辺に妙な痛みを感じてはいた。脛が攣った時のような痛みなのだが、それほどひどくなかった。やわな身体なので知らず知らずのうちに変なところに力を入れてしまい、そのための筋肉痛かと思っていた。

しかし、筋肉痛にしては長引く・・・というより痛みが徐々に強くなってきた。とりたてて運動をしたわけでもなく、つまずいて転んだわけでもなく、ぶつけたわけでもなく、思い当たることが全くない。冷えからくるものなのかとも考えたが、痛みを感じるところはうっすらと赤くなっており表面を触ると内出血したところを触った時のような微かな痛みがある。なんだ、こりゃ。

今日は高校時代の友人たちとランチをする約束があった。行くつもりでいたので昨日近くの整形外科まで行って診てもらったのだが、どうやら足首のところにある「伸筋支帯」という腱が炎症を起こしていることがわかった。「伸筋支帯」は足の筋肉を骨に押し付けて支える役割があるようで、筋肉との摩擦が激しくなると炎症を起こすらしい。

足首を酷使するドライバーやサッカー選手などに多いというが、私は・・・(^^;) このところ暑いから外に出てもさほど長い距離は歩かないし、出掛ける時はもっぱら履き慣れたスニーカーだし。何故こんなことになったのか全くわからない。

が、なってしまったものはしかたない。処方された抗生物質、痛み止めを飲み湿布してしばらく様子を見ることに。抗生物質を飲みはじめたら、痛みはだいぶ軽くなってきた。やはり炎症を起こしていたんだなと思うとともに、たいしたことないと自己判断してズルズル診てもらうのを延ばしているのはよくないと思い知った次第。結果的にたいしたことがなくても、違和感を覚えたら早めに受診、の年齢になってきたのだろう。

来月になったら行きたいところがたくさんあるから、ここはじっと我慢して早々の完治をめざしたい。それにしても、足の痛みと前後して右手をヤケドするわ、右側の顎関節がおかしいわ、身体の右側に集中して不具合が出ている。うーん。右側といえば寝る時家人は私の右側だなぁ。寝ている間に妙な念を送っているのでは!?怨まれることはしていない(つもり)なんだけどなぁ。冗談ですよ、冗談。

*記事を書くために調べているといろいろ発見してしまう。

*「幽霊名画集ー全生庵蔵・三遊亭圓朝コレクション」だって。

*しかも、私が敬愛する辻惟雄さんの著書だって。欲しい・・・

*「ねないこ だれだ おばけバスタオル」だって。

*来月息子の誕生日なのでプレゼントにするかな。ふっふっふ。

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| - | 08:55 | comments(2) | - |
歩道は歩く人だけのものにあらず

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昨日の毎日新聞朝刊に、電動車椅子を使う人が「歩道は恐ろしい。だから車道を通る」という人がいる、という記事を見かけた。電動とはいえ車椅子が車道を通るのはいかにも危険に思えるが、使っている人が車道を選んだということはよほどの理由があるということだろう。

電動車椅子使用者は何度も歩道を通っていた時に縁石の段差で転倒したり、車止めのポールが現れて立ち往生したりした、という。その状況に驚いた知人が歩道の状況がわかる歩道マップを11年かけて作ったそうだが、仕事をしながらの行為に頭が下がるとともに日本の歩道のひどさが浮き彫りになった結果に、「さもありなん」と大いに頷いた次第。

地域にもよるのだろうが、私が日常的に過ごした地域で常々感じてきたことは、体裁を繕うために作ったかのように見える歩道が多いということだ。まず段差が多く、若い人なら何も感じないで歩ける歩道も足の上げ下げが緩慢になっている年齢の人は躓きはしないか、と容易に想像できる。

ベビーカーを使ったことがある人はわかると思うが、あの小さな車輪で通行するにも段差は大きな障害だ。段差の前で一旦立ち止まり、後輪に重心をかけて前輪を段差の上に乗せることを繰り返さなくてはならないことが多い。

また、歩道の幅が狭いところが多く、突然電信柱が現れたりするので大きなベビーカーは通れなくなりそうだ。車椅子ならさぞ困るだろうと思われる。車道の修繕に比べて歩道はなおざりにされている感があり、表面の状態もよろしくないことが多い。

私は最近自転車に乗っている時はできるだけ車道を走るようにしている。自転車も「車両」なので当然なのだが、車道が狭い時など後ろから来る車が追い越せずにイライラしているのがわかる。歩道を走れよ!と言いたいのだろうが、車道と歩道の段差など気にしていないからそう思えるのだろう。すぐに歩道に行けるとしても、歩道そのものが狭ければ歩行者の邪魔になる。だから、イライラしているのがわかっても、私はそのまま車道を走り続ける。ひどい運転者は我慢できずに私の自転車スレスレのところで一気に追い抜いていくが、まかりまちがえば事故になるなと内心肝を冷やす。

歩道のデコボコはただ歩いているだけだと気づきにくい。ベビーカーや自転車で通ってみるとよくわかる。広い歩道でもデコボコが多いと通るのがイヤになる。自転車のカゴに卵や瓶など割れやすいものを積んでいる時は、できるだけなだらかな道を走りたい。だから車道を選ぶことになる。

車道にも問題がないわけではない。水はけのためなのか車道の両端は少し低くなっていることが多いが、そこに溜まるのは水だけではない。砂ならまだいいが、ガラス片や釘などの金属もたまるので下手をするとパンクしてしまう。これまで2度か3度歩道ギリギリを走ってパンクしたことがあるので、今はそこを避けて走るようにしている。車の運転者には邪魔かもしれないが、パンクして困るのはこちらだ。文句があるなら道路管理者に言ってほしい。

オリンピックを控えて、街のバリアフリー化が急速に進められている。が、海外からの観光客が行きそうなところだけのバリアフリーでは私たちにほとんど関係ない。年度末になると税金に帳尻を合わせるためなのかやたらと道路工事をしているが、歩道を工事していることは滅多にない。人間の最も基本的な移動手段は自分の足で歩くことである。また、高齢化と少子化がここまで進んでいる現代、高齢者と子ども連れがストレスなく移動できるようにしてもらわねば困る。

車椅子を利用している人など、誰が一番困っているかを各自治体はしっかり把握してもらいたい。その人たちに合わせた歩道整備を行えば、誰でもストレスなく通れる道になる。首都圏においては、もういいかげん車中心の考え方はやめてほしい。まったくもう!

| - | 07:27 | comments(3) | - |
沢田教一展

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先週、日本橋の高島屋で開催されている「沢田教一展ーその視線の先に」を見てきた。この写真展はどこかでフライヤーを持ち帰ってきたので知っていたが、ピューリッツァー賞を受賞した戦場カメラマンとして有名な人だし、場所が百貨店とあって行こうか迷っていたのだった。そんなところにお誘いがあり、そういうのは縁があるということ、と思って。

沢田教一の「安全への逃避」は戦場写真、報道写真が云々される時によく紹介されるので、写真に特段興味を持っていない人もけっこう知っているのではないかと思う。爆撃を避けて川に飛び込んだ母親と子ども3人を撮影したもので、必死で生きていこうとする親子の姿を通して戦争とは何かを問いかけてくる写真だ。

今回の写真展は、戦場写真以外のものも多く展示されていた。子どもたちの写真が多く、どの時代であっても、どこの国であっても邪気のない子供たちの表情がカメラマンの心をとらえたことがよくわかる。沢田は青森県出身とのことで、プロになる前に撮った青森の人々の写真もなかなかよかった。働く人たちの写真が多く、子どもとともに労働者に向ける視線のぬくもりが感じられた。

いつから写真に興味をもったのか自分でも覚えていないのだが、20代のころに沢田教一の生涯を扱った「ライカでグッドバイ カメラマン沢田教一が撃たれた日」(青木富貴子)を読んだ記憶がある。内容はほとんど覚えていないが(^^;)、沢田の名前を知ってからもう40年近くが経ったことになる。本などでも何度か作品は見ているが、実物は見たことがあったのかなかったのか・・・

34才という若さで斃れた沢田だが、夫人のサタさんは健在で先日「徹子の部屋」に出演されていたようだ。展覧会場の混雑はそれゆえかとも思えるが、蔭で沢田を支えたサタさんもまた魅力的な女性のようだ。サタさんは沢田より11才年上で、結婚したのは沢田が20才の時。今でも10才以上年上の女性と結婚する若者は稀だと思うが、当時それをささっとやってしまう大胆さが沢田にはあった。この大胆さは、戦場カメラマンとしての仕事に生かされ、人々の心を動かす多くの写真を残せたのではないかと思う。

大胆さとともに、沢田は野心家でもあったような気がする。ピューリッツァー賞を受賞した後も、もう一度賞を取りたいと言っていたらしい。その野心、そして大胆な性格は戦場カメラマン向きではあるが、危険を省みない行動にも繋がる。一歩間違えれば「死」という地雷を踏みかねない。しかし、沢田の死は戦場におけるものではなく、取材に行った帰りに襲われたうえでのことだったようだ。34才という年齢や数々の実績を考えれば実に惜しい死ではあるが、戦場で流れ弾に当った等々ではないことは残された者たちにとってかすかな救いになったのかもしれない。

同じ戦場カメラマンであった一ノ瀬泰三は当時クメール・ジュールの支配下にあったアンコールワットに潜入したまま帰らず、後に遺体が発見された。クメール・ジュールに捕まり処刑されたこともわかっている。享年26才。

展覧会場には沢田がサタさんに当てて出した手紙がいくつか展示されていた。混雑していたので丁寧に見ることはしなかったが、自分の現況を説明しつつサタさんを思いやるやさしい文面だったと思う。年上ということもあるが、自分のよき理解者としてサタさんを尊敬もし、愛していたに違いない。

サタさんは今でも青森で元気に暮されているようだ。1週間に何度もケーキを焼いて近所の人たちと交流しており、92才とは思えぬしっかりした方である。沢田のベトナム行きを「自分も連れて行くなら」という条件付きで認めたというから、若いころから腹が座った女性だったのだろう。黒柳徹子が写真を見て「ハンサムですね、ご主人」というと、「だから私みたいなのが(バランスがとれて丁度いい)」。沢田の才能をまず見出したのがサタさんであり、自ら働いて沢田を支えた人の自信から言わせたのかもしれないが、それをほとんど感じさせない。いいご夫婦だったんだろうなぁと思う。

| - | 09:53 | comments(0) | - |
22日は猫に語らせる日・・・8月担当:ゴン(降臨中)

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・・・こうしてみると、オイラも「ちょいわるないいおとこ」ですにゃ!・・・

うにゃ。うにゃにゃ。おひさしぶりの、ゴンですにゃ。みなさまにおかれましてはげんきですかにゃ?オイラわあいかわらず、あっちのせかいでげんきにやっていますにゃ。なかまもけっこうふえて、あいかわらずもてもてですにゃ!

にんげんのせかいでわ、「おぼん」っていうのがあって「ごせんぞさま」が「さとがえり」するらしいですにゃ。ものしりのなかまがおしえてくれましたにゃ。じゃ、オイラたちも「さとがえり」するのかにゃ?ってきいたら、かいぬしがそらをみあげて「かえってこーい!」ってよんだら「さとがえり」できるらしいですにゃ。

で、せんげつのまんなかくらいに、オイラわしたのほうをみましたにゃ。すみごんちわ、あいかわらずとっちらかっていましたにゃ。「あつくてだめだめ〜」と、すみごんわだらけていましたにゃ。すると、おっさんがこっちをみあげて「おーい!ごーん!」ってよびましたにゃ。ちょっとめんどくさかったけど、それじゃ、オイラも「さとがえり」しようかにゃ、とおもってじゅんびをしていたら、すみごんが「おぼんは、らいげつだよ」っていっていましたにゃ。おっさんわ「とうきょうわ、こんげつ!」すみごんは「らいげつ!」でゆずりませんにゃ。あーあ、どっちでもいいのににゃー、とおもっているうちにめんどくさくなってやめてしまいましたにゃ。

ものしりのなかまにきいたら、「おぼん」は2しゅるいあるらしいですにゃ。「だいいちびん」は7がつで、「だいにびん」は8がつにでかけることになっているんだっていっていましたにゃ。にんげんのせかいって、めんどくさいにゃ。

せんげつかえりそびれたので、こんげつのまんなかくらいに、オイラわまたしたのほうをみましたにゃ。すると、すみごんが「ごんくーん!まってるよー!」っていっていましたにゃ。またかえりそびれるといけないので、オイラわりちぎにかえってきましたにゃ。でも、「おそなえ」もぜんぜんなくて、「かんげい」されているのかどうかわかりませんでしたにゃ。でも、すみごんが「ごんくんが、このへんにいるよ」とみえないくせにオイラがいるばしょをあてたりしたので、やっぱり「らいせ」をちかいあっただけのことわあるとおもいましたにゃ。

オイラが「みもこころもかるく」なるちょっとまえにきた、しろくろのしんいりわ、すごくおおきくなっていましたにゃ。オイラの「さいこうたいじゅう」よりもおもたくなって、まわわかいのに「ちゅうねんぶとり」しているようにみえますにゃ。あいかわらず「つよき」でまっしぐらですにゃ。オイラにちょっとにているダイスケはオイラとおなじようにやさしいヤツらしいですにゃ。しろくろにやられてばっかりなので、オイラわちょっとなさけなくおもいましたにゃ。そしたら、すみごんが「みかんにかおをおさえられて、うごけなくなったのわ、だれだったっけなー」っていいましたにゃ。オイラのよわみを「ばくろ」するなんてひどいにゃ!

オイラがしんぱいだったのわ、みかんが「にゅういん」したことですにゃ。5にちも「にゅういん」したといっていましたにゃ。まえわ、けっこうデブでからかっていたけど、みかんもとしよりになってやせてしまいましたにゃ。いちばんなかがよかったのでしんぱいしてたけど、みかんわ、かえってきたとき、おとなりのびょうしつ(けーじ)にわかくてハンサムなこがいてなかよくなった、なんていっていましたにゃ。オイラがしんぱいしていたのにひどいにゃ。でも、そんなちょうしなら、まだまだいけるとすこしあんしんしましたにゃ。

「おぼん」のさいごのひ、オイラもかえろうとしましたにゃ。そうしたら、すみごんが「こんげつの22にち、ごんくんブログをかいていったら?」っていいましたにゃ。ちこくしたら、あっちのせかいの「せいもん」がしまってはいれなくなってしまったらどうしようといったら、「だいじょうぶ、だいじょうぶ。かみさまわ、ごんくんみたいにふとっぱらだから」といいましたにゃ。なので、このブログをかいてから、かえることにしましたにゃ。

らいげつわ、「あたし、らいげつでもいいから、どうぞ」っていってくれた、やさしいみかんのばんですにゃ。「えーなんでー!ふくのばんがおそくなるもんねー」っていったしろくろのデブとはおおちがいですにゃ。みなさんも、みかんをおうえんしてやってにゃ!あと、らいげつわ、カメもでてくるらしいですにゃ。「オレはまだまだわかい!」とあいかわらず、「いわ」からみずのなかにおっこちたりしていますにゃ。いまから、「らいげつわ、オレがしゅやくだぜ」っていきごんでいるので、おたのしみににゃ。しゅやくじゃないけど。

じゃ、オイラわ、これからふわりふわりとかえりますにゃ。また「こうりん」するとおもうので、そのときわ、よろしくにゃ!

| - | 06:54 | comments(2) | - |
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