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距離感

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日参している「馬とニャンコと男と女」で人懐こいキタキツネの話が出ていた。ひょっこり現れたキツネに近づいていっても逃げないという。なぜか。人(たいていは旅行者だろう)が車に乗っていてキツネの姿を発見し、写真を撮りたいがために餌で近くまで呼び寄せるということをしているうちに、人を恐れることよりも餌ほしさに寄ってくるようになったのではないか、とのことだ。それゆえ、車が通りかかると近づいてきて車に轢かれてしまったり、自力で餌を獲れずに飢え死にしてしまう。「馬とニャンコと・・・」の運営者かじやんは、野生動物に対して安易に餌をやってはいけないことを、多くの人に知ってもらいたいと書いていた。

全くその通りだと思う。単に珍しいから、かわいいから、といって安易に近づき、SNSにアップしたいからといって安易に写真を撮ろうとする・・・そういう何も考えない安易な人たちが多すぎると常日ごろから私も腹立たしく感じているのだ。

考えてみれば、観光客の車の窓から強引に中に入って菓子などを奪う猿も、もともとは観光客が安易に餌を与え、ラクして飢えをしのぐ術を学んだのだろう。似たような例は探せばけっこう出てくるに違いない。野生動物でなくても、たとえば動物園の動物に餌をやる人もかつては多かったようで、「餌を与えないでください」という看板をよく見かけた。より近くで見たいがためにやった安易な行動が、結果的に動物を傷つけることになるなどと思いもしない人たちがいるということだ。

動物、とくに野生動物とは一定の距離感をもつのが重要だと思っている。何故なら、彼らには彼らの、私(人間)には私の立場があり生活があるからだ。相手が人間ではないから、人間より劣る動物だからという理由で彼らの領域にズカズカと入っていいとはとても思えぬ。彼らが存在するということをたいせつにしたいのであれば、遠くから見ているだけにしたいものだ。

よく、野良猫と仲良くなりたいけれどすぐに逃げられてしまうという話を聞く。あ、かわいい猫!おーい、仲良くしようよ!とやおら近づいていけば逃げるに決まっている。彼らは人間ではなく、身近にいる野生動物なのだ。野生動物は生きていくために用心深くなくてはならない。ちょっとした不注意も命取りになりかねない暮らしをしている。呼べば寄ってくるなら、彼らはもはや野良猫失格だろう。

かくいう私もよく見かける野良猫は常に気にしている。冬の寒さに耐えているだろうか、酷暑にばてていないだろうか、等々。普段よく見かける場所を通ればちょっと立ち止まって様子を見るが、いれば一安心して立ち去り、いなければ少し気にしつつ立ち去る。中には、人を見かけると近づいてくる猫もいるが、私はそのような猫こそ心配だ。野良猫は人懐こくなってはいけないのだ。いつ危害を及ぼそうとする人間が近づいてくるとも限らないのだから。

悩ましいのは、すでに人間馴れしている野良猫だ。地域猫活動をしている人など特定の人が餌をやっている場合はまだいい。そういう人たちは、責任感を持って世話をしていることが多いから。雨の日も雪の日も餌をやり、病気になれば獣医に連れて行き、避妊手術を自腹でやり・・・そういう人ならまだいいのだ。

そうではなく、気まぐれに何人かの人間が餌をやり、人に馴れてしまった猫が困っているとこちらも困る。余計な手出しはしたくないが、弱りきっている姿を見てしまうとどうにかしてやりたくなる。人馴れしていない野良猫は、身体が弱り死期を悟ると誰にも見えないところに消えてしまうことが多いが、人に馴れた野良猫は痩せ衰えた姿で突然現れたりするのだ。

今まで二匹、そんな猫たちと縁があった。一匹はなんとか飼い主が見つかったのでよかったのだが、もう一匹は飼い主を探すなどを考える前に死んでしまった。弱りきっていて獣医も手の施しようがなかったようだった。とてもかわいらしく人懐こい猫だったので誰かが保護して飼ってくれればいいなと思っているうちに姿を見せなくなり、数ヶ月して見かけたらもうボロボロだった。もっと早く見つけてやれれば・・・と今でも思う。

話がそれてしまった(毎度のこと?)。つい先日、子供がヤマカガシに噛まれて重体になったというニュースがあった。公園で噛まれたとのことだが、たぶんつかまえようとしたのではないかと思う。ヤマカガシは毒蛇ではあるが、多くの野生動物がそうであるようにこちらから攻撃しなければ噛みつくなどということはしないと思う。噛まれた子の友人がヘビをリュックに入れて持ってきたとのことなので、しかけたのは子供たちの方だったのではないだろうか。これでヤマカガシが悪者になっては気の毒だ。

この件にしても、野生動物との距離のとりかたを知らぬ故のことだと思う。子供たちは好奇心いっぱいで何にでも近づきたがるものだし、それ自体は悪いことではない。しかし、毒性があるかもしれない動物に対しては、近づかぬよう大人たちがきちんと教えておいてくれないと。とはいうものの、安易に距離を縮めたり、かと思うとヒステリックに離れたり“適当”な距離感について考える大人も少ないのかもしれないわなぁ。

7月も今日で終わり。ここ数日戻り梅雨とかで少し涼しかったが、これからまた猛暑酷暑が襲いかかってくる。台風も近づいてくるようだ。できるだけ暑苦しいことはやりたくないと思っているのに、動物のこととなるとついつい(^^;) 

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江戸の風

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なんだか時代劇にそんなのがあったような・・・(あれは「江戸の旋風」でしたな)。昨日は隅田川の花火だったらしいが、夏は「江戸」を思う季節でもある。浴衣、四万六千日、大川の川開き、江戸風鈴、団扇、打ち水、夏祭り・・・なんとなく「江戸」を思い起こさせるものが多くて。

マニアとまでいかずとも「江戸」好きな私は一年中「江戸」関連には心惹かれる。きものに興味を持ちはじめたのでなおさら。本を読んだり見たり、だけでは物足りず「江戸」を感じさせる映像はないものか、とそんな時代劇を探したりしている。が、それがなかなかないんだな。つくづく、あれ(時代劇)は「江戸らしさ」をエンターテイメントとして演出しているだけで、ストーリーとしては面白いものもあるし、配役がなかなかいいこともあるが、あれで「江戸」を感じるのは難しいと思った。

このところ大田洋子にからめとられながら、一方で杉浦日向子の著作も読み直したりしている。漫画もいいが、エッセイもなかなか。つくづく早世が惜しまれる。なにがいいって、彼女の作品には「江戸」の風が吹いていると感じるからだ。日本橋の呉服屋に生まれたとのことなので、ご自身江戸っ子であるのは間違いないし、「江戸」の雰囲気を残す事物や人々と幼いころから触れ合っていたのではないだろうか。

名著「蕎麦屋で憩う」はだいぶ前に出会って昼酒の楽しみを教えてもらった。「江戸へようこそ」「大江戸観光」「一日江戸人」では、今までいかに間違ったイメージを持っていたかを教えてもらいながら、「江戸」の多彩な魅力を知ることができた。

「百日紅」「風流江戸雀」[「ゑひもせず」では「江戸」の粋を、「合葬」では徒花のようにはかない彰義隊の運命を、時には笑いながら、時にはしんみりしながら読ませてもらったっけ。いいなぁ、杉浦日向子。しばらくは未読の作品を少しずつ読んでいこうかなと思っているところだ。彼女の作品には「江戸」の風が吹いているような気がするから。

*書名のリンクは面倒なのでなし(^^;) 

*今日は横浜市長選挙。うーーん。全く盛り上がっていないなぁ。

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つつがなく・・・

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先日仕事で葉山に行った時、時間がけっこうあったので森戸神社(森戸大明神)に行ってみた。森戸海岸の海水浴場に隣接する立派な神社で、源頼朝が源氏の再興を感謝して三嶋明神(静岡・現在の三嶋大明神)の御分霊をここに祀ったという由緒があるようだ。神社裏手の海岸から沖合い700メートルのところに小さな島(名島)も森戸神社の境内のようで、赤い鳥居が印象的だった。

ざくっと一回りした時(かなり暑かったので・・・)、本殿手前に据え付けられていた厄年一覧の大きな看板に目が止った。何気なく見ていたのだが、あらら、私って今年後厄? もともと厄年というものをあまり気にしない方なので全く知らずにいたが、今年は数え年61才が本厄らしい。

今年が後厄ということは一昨年は前厄、去年は本厄ということになる。知らない間にその2年間を過ごし、後厄の今年ももう半分以上過ぎてしまったことになるが、思い返してみれば一昨年は急に身体のあちこちが痒くなった。とくに背中が痒くて掻きこわし状態になりボロボロ。頭はヘアカラーにアレルギーが出て湿疹だらけ・・・という具合だった。昨年は昨年で年明けから救急車のお世話になり、虚血性大腸炎〜胃潰瘍になってしまったっけ。

厄年とは、外から何らかの禍が来るということより、むしろ自分の身体に不調をきたしがちな年でもあるということかもしれない。ここ1〜2年、今まではこうじゃなかった・・・体質が変わったのかな・・・などと感じることが多かったがそういうことか。

今年はさほどの不調はないが、気象病なのか頭痛に悩まされることが多くなっている。後厄の年だからというわけではないが、一応それを頭に入れておいて精神的にも肉体的にも無理せず過ごしたいと思った次第だ。

還暦を過ぎるころになると、もはやとんでもない幸運を夢見ることなどなくなってしまった。うわぁ!幸せ!と思うこともなくなった。毎日をつつがなく、穏やかに過ごせればいいと思うのは老境に片足をつっこんだということだろうか。それはそれでいいと思っている。

つつがなく、は「恙なく」と書くようだ。「恙」は「災難」「患い」を意味し、源氏物語匂宮に「事に触れて、我が身に恙ある心地するも」とあるらしい。そういえばツツガムシ(恙虫)っていういやなヤツ(最近話題のダニの仲間)もいるようで。いやん。

厄除けということでもないが、森戸神社でかわいらしい鯛のかたちをしたおみくじを売っていたので買ってみた。背中のところに穴があいていておみくじが入っている。帰宅して開いてみたら「大吉」!“風吹けば風ふくままに港よしと百舟千舟うちつどいつつ”とのことで、商売は利益少なしらしいが(^^;)その他はおおむねいいようだ。早いものでもうすぎ8月。身を慎みつつがなく・・・過ごしていきたい。

| - | 05:12 | comments(2) | - |
ジャコメッティ

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久しぶりに国立新美術館に行ってきた。現在開催されている「ジャコメッティ展」へ。いつもお世話になっているRさんに招待券をいただいたのだが、そういう幸運がなくても行くつもりではいた。教科書などで見かけてはいたが、実際にジャコメッティの作品を見るのははじめて。

ジャコメッティといえば、針金のように細い人物彫刻で有名。細いがゴツゴツしていて独特の雰囲気がある。人物だけでなく猫もゴツゴツ!ゴツゴツだがちゃんと猫だと分かるのが不思議だ。

ジャコメッティはスイスの人だが、活動は主にフランスでサルトルとの交流もあったという。サルトルといえば実存主義。ジャコメッティの彫刻も実存主義的だと言われているらしいが、そもそも私は実存主義とは何ぞやということを理解していないので、ふーん・・・くらいしか言えない。が、存在をギリギリまで削り取った表現にはどこか精神性を感じることは確かだ・

なぜあそこまで細いのか。対象を見て、見て、見続けることにより余分なものがどんどん削り取られていったのだろうか。ジャコメッティの視線が刃物のように作用し、肉体がどんどん削られていったのだろうか。そして最終的に残ったのが存在の核ともいえるものだけになったのだろうか・・・そんなことを思いながら会場を巡った。

展覧会では彫刻だけでなくデッサンや版画も展示されている。晩年の代表作である版画集「終わりなきパリ」はなかなかよかった。日本の哲学者・矢内原伊作とも親しかったようで、彼をモデルとしたデッサンなども展示されている。

展覧会を観た後は、ミュージアムショップをひやかし、お茶を飲みながらおしゃべり。駅に戻る途中でおつな寿司によっておみやげ購入。夕暮れ時の六本木は風が思いの他気持ちよかったなぁ。

| - | 20:54 | comments(2) | - |
セルゲイ・ポルーニン

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映画館のチェックを怠っていたら、数ヶ月前から見ようと思っていた映画を見逃してしまった。問題作・話題作が多いキム・ギドク監督の「STOP!」がそれだ。東日本大震災、福島第一原発の事故を扱った映画で、公開できるかどうか危ぶまれていたらしい。無事公開が決まったので絶対に見るぞ!と思っていたのだが、「絶対」はやはりアテにならない。関東エリアでの上映はすべて終わったので残念無念である。

意気消沈してしまったが、いつまでも考えていたって仕方ない・・・と思いつつ贔屓の映画館J&B(ジャック&ベティ)の上映作品を見ていたら、おお!これは!という映画があった。で、レディースデーの昨日さっそく観に行ってきた。

観たのは「ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣」。いやはや、よかった。おもしろかったというよりも、よかった。若き天才セルゲイ・ポルーニンの足跡を描くドキュメンタリーだが、久しぶりにいいもの見せてもらいました、という感じ。なにがいいって、彼の肉体と超絶技巧たっぷりのダンス。それらを観られただけでも十分見ごたえがあったと思う。

もちろん、映画にするくらいだから順調満帆なドキュメンタリーではない。19才で英国ロイヤル・バレエ団の最年少プリンシプルになったセルゲイ・ポルーニンは、輝かしい将来を約束されたかに見えたダンサーだ。しかし、彼に最高のレッスンをさせるために家族はバラバラになり(学費を捻出するため、父親や祖母が出稼ぎに出た)、父母は離婚してしまった。家族の期待を一身に背負い、それゆえ家族に喜んでもらえるダンサーになるため研鑽を積んでいたのに、結果的には自分が原因で家族が分解してしまった・・・それが彼の心に深い傷を負わせた。

バレエ界の厳しい規則に対する反発もあった。家族のために踊るという目的も失った。そして悩んだ揚げ句に彼が選んだのは、絶頂期における退団。ヌレエフの再来と言われたセルゲイの退団は大きな話題として世界を巡ったという。

イギリスを去り、故郷のロシアに帰ったセルゲイを救ったのは、著名なダンサーだったイーゴリ・ゼレンスキー。心から尊敬できる人間に出会えたことは、もしかしたら破滅へと一直線に落ちていったかもしれないセルゲイにとって天からの救いだったに違いない。招かれてスタニスラフスキー・ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念音楽劇場などのプリンシプルとなり、ゼレンスキーが芸術監督を務めるバイエルン国立劇場の常任ゲスト・アーティストになった。現在はダンサーを支援する「プロジェクト・ポルーニン」の活動もしており、彼に憧れてバレエをはじめた若い人たちの指導者的な存在でもある。

映画では、セルゲイがかつて演じた「ジゼル」「ラ・バヤデール」「ドン・キホーテ」「海賊」などの映像がふんだんに使われており、「ヌレエフの再来」と言われた理由がよくわかるような気がした。とにかく、存在感が抜群にあり、たぶん彼が舞台に出てきた途端観客は一時も目が離せなくなったに違いない。

中でも、写真家デヴィッド・ラシャペルによりハワイで撮影された動画は素晴らしく、YouTubeで1000万回超のアクセスがあったという話も頷ける。

動画を見ればお分かりのように、セルゲイは全身にタトゥーを入れている。タトゥーを入れたバレエ・ダンサーなどそうそう存在するわけはないだろう。それは彼の周囲に対する反発や苦しみから生まれたもので、身体に彫り物をしなければ保てなかった苦悩の大きさをも伺わせるものだ。

セルゲイはまたかなりのイケメンでもある。女性からの人気はさぞかし高いことと思われる。昨日もいくらレディスデーだったとはいえ、雨模様なのに映画館は満席に近かった。普段はほとんどそんなことはないのに(^^;)

ああ、いいもの見えてもらっちゃった!しばらくは「Take Me to Church」を観てセルゲイを愛でようっと。ちなみにこの曲はアイルランド出身のミュージシャン、ホージアのヒット曲でグラミー賞にもノミネートされたらしい。ロシアの同性愛禁止法におけるLGBT抑圧へのプロテストを込めて作られたようで、MVではゲイへの集団リンチが生々しく描かれている。

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怪談の夏。圓朝の夏。

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・・・なにやら妙なイキモノめいて見える浜辺の流木・・・

肝試し、お化け屋敷、怪談・・・夏の風物詩も昨今はさほど目立って伝えられなくなってきた。子どものころ、遊園地のお化け屋敷に行きたいそう怖い思いをしたが、今はもっと派手なアトラクションに人が集まるのだろう。ここ数年、私は夏になると落語の怪談噺を聞いている。寄席や落語会に行って聞くのが一番なのだが、暑いし・・・とりあえずネット上の音源を利用しているが、それでも十分楽しめる。

怪談というと何を思い出すだろうか。「四谷怪談」か「番町皿屋敷」か。それもいいが、個人的には三遊亭圓朝の作品をお薦めしたい。代表作である「牡丹灯籠」は言うに及ばず、「真景累ヶ渕(しんけいかさねがふち)」「乳房榎」あたりがいいと思う。

いずれもかなりの長編で、有名なのは三遊亭圓生(六代目)のものか。何回かに分けて演じているが、1回分でもゆうに1時間以上を費やしている。子供義太夫で鍛えた喉と、持ち味と言われる「色っぽさ」、信じがたいほどの知識など圓生の魅力をたっぷり味わえる長講だと思う。

「牡丹灯籠」はよく知られている話なので割愛する。「真景累ヶ渕」は金に困っていた無禄の侍が出入りの按摩(鍼灸医?)から金を借りて返せず、催促にきた彼を斬り殺し、乱心して隣家に乗り込み逆に斬られ、お家取りつぶしとなるところから始まる。侍には息子が2人、按摩には娘が2人いたが、その4人がその後妙な縁で出会い、様々な人情が入り乱れていく。最近では桂歌丸が熱心に圓朝作品を取上げていて「真景累ヶ渕」も何度か演じているが、かなりのエネルギーが必要な演目なので今後聞けるかどうか・・・

一番マイナーだと思われるのが「乳房榎」。こちらも話は長いのだが、私は全てを通して聞いたことはない。圓生も途中でやめていたと思う。この話は、絵師の女房に横恋慕した浪人が弟子として入門、幼い子をたてに女房に詰め寄り関係を持ち、下男をたぶらかして絵師を殺してしまう話だ。私が知っているのはそこまでなのだが、調べてみるとその後浪人は絵師の女房と結婚し、子供が邪魔になり下男に殺させようとする。そこへ絵師の亡霊が現れ・・・と怪談めいてくるようだ。

昔の人たちは、夏になると講談や落語でこのような噺を聞き、おおいに盛り上がっていたのだろう。なんだか今よりずっと健全であるような気がしてくる。以下は圓生の音源。

●牡丹灯籠 https://www.youtube.com/watch?v=h9uSwKYzMMs

●真景累ヶ渕 http://www.nicovideo.jp/watch/sm3718018

●怪談乳房榎  http://www.nicovideo.jp/watch/sm4020127

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卒母

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「そつはは」と読むらしい。漫画家・西原理恵子さんが毎日新聞紙上で16年間連載していた「毎日かあさん」の終了を決め、「卒母宣言」した時から女性たちの間で様々な反響が起きているという。連載終了は先月の26日。西原さんの子どもは息子さんが20才、娘さんが16才。母としての視点で描かれ共感を得てきた連載終了は「母親業」からの卒業でもあったようだ。

現在は西原さんの「卒母宣言」に対する反響の数々が掲載されており、それを読んでいると「母親」であることの意味をいろいろ考えさせられる。自分の身を省みて、果たして自分は「卒母」したのか、実はまだ完全にできていないのか、できていたとしてそれは上手にできたのか、そもそも「母」をやめるということはできるのか、等々。

私も毎日新聞をとるようになってからは「毎日かあさん」を愛読してきた。共感することも多かったが、私は西原さんのようなバイタリティも、強いメンタリティもないなぁ・・・などと感じてもいた。子どもに対するスタンスは似ているところがあると思うが、私はあそこまで豪快にはできないなぁ・・・などと。しかし、作品で描かれていることは事実であったとしても、あの楽しい漫画の背後にはやはり西原さんなりの迷いや不安、悩みなどがいくらでもあったに違いないとも思う。

「卒母」とは「母親業をやめること」ではあるが、「母」をやめることではないだろう。というか、誰でも子どもを持てば死ぬまで父親であり母親である。親離れ・子離れできない人たちが多くなり、時に注目されている時代だからこそ、「母親業」=「母としての役割」に自ら終止符を打った西原さんの行為が話題になっているのかもしれない。

我が息子も今年で27才。早いものである。「おかあさん」が口癖で学校の担任にまで「おかあさん」と言ってしまうような子が今ではこちらから連絡しなければ1ヶ月でも2ヶ月でも連絡してこない。淋しいような気がすることもあるが、これがごく自然のことだと思っている。

友人たちの中には孫がいる人も増えてきたが、今のところ孫が欲しいと思う気持ちにはなっていない(まだ結婚もしていないし)。住んでいる場所と務めているところは知っているが、それ以外はほとんどなにも知らない。自分で選んだ道なのだから、なにがあっても自分でなんとかせい!てなものである。

たぶん私はだいぶ前に「卒母」していたのだろう。とにかく自分1人で生きていく力を身に付けさせることを目標にした時点で、「卒母」への道は開かれていたのだろう。手を出さずに見ているだけにすること。口を出さずにやりたいようにやらせること。それはけっこう難しい。難しいが常にそれを実行しようとしてきた。時には失敗し、時にはなんとかやりおおせた。その繰り返しをしているうちに、手も出さず口も出さないでいることが多くなり、自然と「卒母」に至る・・・そんな感じ?

「故郷は遠きにありて思うもの」などと言うが、子どもも離れて思うものなのかもしれない。ちゃんと食べているだろうか、病気はしていないだろうか、仕事はうまくいっているだろうか、金に困っていないだろうか・・・心配の種はつきないがそれが親というものだろう。離れて黙って心配していれがそれでいいのだ。

それよりなにより、自分のことをどうするか。これからはそれを考えていかねばなるまい。残りがいかほどあるかはわからないが、自分の幸せを考えていくことにしなければと思う。たぶん、息子もそれを望んでいるはずだしね。

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ハエトリグモくん

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今月12日の記事でも触れたが、ハエトリグモの本を楽しんでいる。以前からわが家では「ハエトリグモくん」と、「くん」を付けて親しんでいるのだが、あらためて彼らの魅力を知ることができて嬉しい。虫嫌い、蜘蛛嫌いの方には到底理解できないことだと思うが、身近なところでともに暮す生きものとしてはかなりかわいい部類だと思っている。

なつかしき「月刊かがくのとも」の2016年8月号「ハエトリグモ」は、子ども向きの本なのでわかりやすく楽しい。秋山あゆ子さんという方が描いている絵はとても細密で、普段は小さいゆえなかなか気づけない彼らの様子がよくわかる。もじゃもじゃして毛深い足。8つの目。ジャンプする時の様子・・・とくに、頭髪が薄くなったオヤジさんのような、ふわふわと毛が生えた頭がかわいい。8つある目のうち中央の大きな二つの目で獲物を観察し、それ以外の目で獲物の動きをとらえるそうだ。

ハエトリグモは家の中だけにいると思っていたら、外でも見ることができるらしい。外にいるハエトリグモは交尾の後適当な葉をみつけ、糸で葉の縁をくっつけるようにして産卵場所を作る。糸でできたやわらかい巣の中で産卵し、2週間ほどメスは卵を守り続けるという。子クモは巣の中で一度脱皮し、その後親離れして自力で生きていく。自分の身体にみあった大きさの虫をつかまえて成長し、寒くなると糸で巣を作ってじっと春を待つ。うーん、なかなかエライ!

世にも美しい瞳ハエトリグモ」は、美しい写真とハエトリグモくんの魅力満載の本。前面に並ぶ4つの目のアップは本当にきれいだ。よく猫の写真とともに「もふもふ〜♪」などとコメントされているのを見かけるが、ハエトリグモくんも負けずにもふもふ〜!

この本では家の中で暮すハエトリグモを「おうちハエトリ」と呼び、私がよく見るのは「アンダソンハエトリ」(ハエトリ界のグローバルスタンダード、だそうな)や「ミスジハエトリ」であることを知った。「ネコハエトリ」というのもいるらしいのだが、今のところ見たことがない・・・ような気がする。なにせ小さいので(^^;)

ハエトリグモくんの本を買った日、スタンドをつけて寝床で本(別の本)を読んでいたらなにやらの気配がした。ふと横を見ると「アンダソンハエトリ」が・・・なんという偶然か。本を見て愛でているのを知ってお礼にきた・・・わけではないだろうが、知れば知るほどかわいらしいハエトリグモくんなのであった。

こんな動画も(クモ嫌いな方閲覧注意)

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大田洋子に捉えられる・

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・・・先週金曜日は久しぶりの取材仕事。猛暑の森戸海岸(葉山)にて・・・

先日このブログにも書いたように、7月8月は戦争や原爆についての本を読むことにしている。義務的な読書は可能な限りしないことにしているから、これはもちろん自発的な行為だ。7月も半ばを過ぎるころになると気持ちが自然とそちらに向き、数冊の本を読むのが(結果的に)習慣になっている。

今年もまたその読書期間がやってきた。いつもなら「夏の花」(原民喜)あたりから始めるのだが、今年は「屍の街・半人間」(大田洋子)から。すぐに読み終えて「夏の花」に行こうと思ったのだがなんだか気分が乗らない。もっと大田洋子の著作を読みたいという気持ちが強かった。しかし、原民喜や長崎で被爆した林京子に比べて大田洋子の作品は手に入れにくい。文庫化されているのは「屍の街・・・」のみだと思う。全集が出ているが各巻5000円以上して安易には入手できない。何度も読む本なのでいずれは手に入れることにして、今回は図書館で借りることにした。

その前に大田洋子の評伝である「草饐(くさずえ)」(江刺昭子)を読んだ。ますます「屍の街」以外の本も読まなくてはという気持ちになった。すぐに図書館に行きたかったが都合がつかず間を埋めるようなかたちで「夏の花」を読み、先週の月曜日に図書館へ。全集の第二巻(「人間襤褸」他)、第三巻(「夕凪の街と人と」他)、第四巻(「流離の岸」他)を借りてきた。すでに第二巻は読み終え、現在第三巻を読んでいるところだが、なんとなく大田洋子に捉えられているような、あるいは囚われているような妙な感覚を覚える。

自ら被爆し、その経験をもとに作品を書いた作家は何人か存在する。その代表が原民喜であり、大田洋子であり、林京子であると思う。原爆についてはその他にも井上光晴、大江健三郎、井伏鱒二(「黒い雨」が有名)などがおり、いずれ気が向いた作品は読みたいと思っているが・・・やはり私の中では原民喜をはじめとする3人が特別な存在になっている。

原民喜と大田洋子は広島で被爆した。そして、被爆直後の混乱の中で、作家として何かを残しておかなければならないと強く意識したところも共通している。しかし、描かれている悲惨な光景は似ているとしても、それぞれから感じる雰囲気というか作品の奥に潜む作家の心理は大きく違うような気がする。

詩人でもある原民喜の作品には詩情というのだろうか、独特の淡い叙情が感じられる時がある。目の前の地獄のような光景を淡々と描きながらも、時として白昼夢を見るような夢想が漂う。そして夢から醒めた時に感じる悲しみ、どうにもならない無常観が底流にあるように思われる。

しかし。大田洋子の作品の核となっているのは、理不尽さに対する強い怒りだ。彼女はあらゆるものに対して怒る。これは「わがままで、ケチで」と嫌われがちだった作家本人の性格とも強く関係しているのは否めないだろうけれど、怒るという行為には莫大なエネルギーが必要であり、彼女は消耗しつづけ、揚げ句の果てに原爆について書かなくなり、放浪者のような生活に陥って客死した。

そういった作家なので、作品は常に暗い。暗いところが魅力でもあり、暗いもの好きな私は涯がないかもしれない渕をのぞきこみたい衝動に動かされてこうして彼女の作品を読んでいるのかもしれない。

それぞれの作品から受けた印象や感想は、機会があったら書きたいと思っている。ただ、今言えることは、暗いかもしれないが大田洋子の作品はもっと多くの人に読まれるべき作品だということだ。理不尽さに怒り、その原因や詳細を執拗に追求する姿勢を知るにつけ、さぞかし疲れただろう、精神を病んだのも不思議ではないと思う。人間的にはイヤなヤツだったかもしれないが、残した作品には大きな価値があると私は思っている。

お気付きの方もいらっしゃるかと思うが、昨年だったか評判になった映画「この世界の片隅に」の原作者であるこうの史代さんの出世作として知られているのが「夕凪の街・桜の国」である。どのような理由からかは知らないが、これは大田洋子の作品からインスパイアされたものに間違いないと思われる(大田洋子には「桜の国」という作品もある)。まだ読んでいる最中だが、「夕凪の街と人と」で作家が取材する『原爆スラム』と呼ばれている土手の貧民街をイメージさせる絵が「夕凪の街・桜の国」で描かれており、気分転換がてらそちらも再読した。

他に借りてきた本もあり2週間では読みきれないだろう(^^;) 期限直前になったら貸し出し延長の手続きをすることにして、ゆっくり読んでみたいと思っている。夏はまだまだ続くのだから・・・

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22日は猫に語らせる日・・・7月担当:ダイスケ(大介)

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・・・ごはんのあとは、いつもすごくねむくなるの。ふにふにふに・・・

みなさん、おはようございます。ダイスケだよ。まいにち、あついよ。ボクは6がつうまれだから、ちっちゃいころはまいにちあついおそとでがんばっていたの。いまは、「えあこん」っていうのがいえのなかにあって、けっこうすずしいよ。あと、のっかるとひんやりする「あるみぼーど」っていうのがあって、ケージのうえにおいてもらったので、このごろはそのうえでねているの。まえにいたゴンさんがあいようしていたんだって。ボクとおなじ「けいろ」だったから、すみごんがなつかしがっているよ。

でもね、ときどき、ふくちゃんがきて「あんた、どきなさいよ。せんぱいのふくにゆずってあたりまえだもんね」っていうの。しかたないから、「あるみぼーど」のよこにおいてあるダンボールにはいるの。ちいさめのダンボールだから、ちょっときゅうくつだけどそれがまたいいんだよ。

でもでも、すこしするとまたふくちゃんが、「あんた、そのダンボールはふくのだもんね。むだんでつかっちゃいけないんだもんね。どいて!」っていうの。ボクでもみっちりなのに、ふくちゃんがはいったら、いつかこわれるとおもうの。でも、ボクは「こうはい」だからだまってゆずっているよ。

あのね、このあいだ、ちゃしろのおばちゃんがなんいちかいなかったよ。「ぺっとくりにっく」っていうところに「にゅういん」していたんだって。「じんぞう」っていうところがわるくて、ずっと「てんてき」していたんだって。やっとかえってきたら、「えあこん」のない、あついへやのおくにこもっていたよ。「ぺっとくりにっく」って、こわいところなのかな。ボク、いくのいやだな。おばちゃんに「こわいところ?」ってきいたら、「となりのケージにいた、ハンサムなアメショーとなかよくなったのよ」なんて、のんきなことをいっていたよ。ボク、わからなくなっちゃったの。

くろっぽいおばちゃんは、あいかわらずいじわるそうなめでボクをジトッとみているよ。とくに、ボクがすみごんになでられていると、とおくのほうからジトーーーーってみるの。なんだかおちつかないきぶんなの。じぶんがなでられているときは、ごろごろ、くねくねして「どやがお」でボクをみるの。このあいだ、こそっと「あんたのカリカリ、あたしにもよこしな!」っていうの。ボクのはおいしいんだって。でも、ごはんのよういをするのはボクじゃないから、そういわれてもこまるの。すみごんにいったら、「ダイちゃんのは、おなかがよわいこせんようので、けっこうおたかいのよー」って。ふーん、ボクのは「こうきゅうひん」なんだ。だから、「こうきゅうひんだから、おばちゃんにはあげられないんだってさ」っていってやったの。そしたら、いきなり「ちね!」っていうの。あのおばちゃんはちょっと「げひん」だとボクはおもうの。

ふくちゃんとはけっこうなかよくやっているよ。いっしょにねたりはしていないけど。このあいだから、ときどきボクのあたまをなめてくれるようになったよ。まえはかんでばかりいたのに。でも、いつかみつかれるかわからないから、うれしいような、こわいような、ふくざつなきもちのボクなの。ふくちゃんは、すみごんによく「かしこいね」ってほめられているよ。ボクがうらやましそうにしていると、「ダイちゃんは、ちょっとおまぬけなところがいいんだよ」だって。ふーん。そうなの?

らいげつは、とうぶん「ペットクリニック」かよいをするちゃしろのおばちゃんのばんだよ。「じんぞうびょう」ようのカリカリをもらっていて、いつもすこしのこすよ。のこりをもらったら、けっこうおいしかったの。ボクにもときどきあれをくれるといいなぁっておもっているの。おしまい。

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