触れずにおこうかとも思ったのだが、やはりちょっと・・・(^^;) そう、ここ数日この話題でもちきりの、歌舞伎俳優の妻の死について。
今さら驚くことも、腹を立てることでもないのだが、マスコミはこぞって取上げている。彼らにとって情報は商品だとはいえ同じようなことを繰り返し発し続けるのはニーズがあってのことなのだろうと思う。発する方も反応する方も「どっちもどっち」だとは思うが、インターネット社会になる前の時代だったら、これほどのことにはならないだろうとも思う。
テレビではどうだか知らないが(私は昼食時っくらいしかテレビを見ないので)、ラジオでさえパーソナリティたちが番組進行の前にお悔やみの言葉を言っていた。まあ、亡くなった人が元アナウンサーだし、夫は梨園の有名人なのでそうなるのだろうと思うが、「言っておかないとまずい」的な礼儀といえば礼儀、処世術といえば処世術からなのだろうとひねくれ者の私は思ってしまう。
亡くなった人はまだ34才。しかも、幼い子どもを残しての死。さぞ心残りであったろう、とは思う。私も子どもを産んだ身であるし、35才の時に子宮ガンの手術をしたので少しは気持ちが分かるような気がする。幸い私はごく初期の段階での手術で「死」が目の前にあったわけではないが、麻酔の後遺症で起き上がれなくなりかなり不安な日々を病院で過ごした。頭に浮かぶのは実家に預けた3才の息子のことばかりで、どうしているだろうと思うと涙が出た。
亡くなった人のブログが多くの人たちに読まれ、「勇気をもらった」「感動した」という多くの声があり、海外でも評価されたことも繰り返し伝えられている。確かに同じ病を得ている人やその家族たちにとっては、健気にがんばる姿はひとつの支えになったのかもしれない。しかし、たぶんブログを続けてきたのは根本的に自分と自分の家族のためであると思うし、それでいいのだと思う。ある意味で、彼女は自分ができることをやりつくして旅立ったのかもしれない。そうだとしたら、短かったかもしれないが幸せな人生だったとも言えるのではないだろうか。
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突然の訃報だったのでこれだけ大騒ぎになっているのかもしれないが、私は自宅療養に切り替えたという話を見かけた時に、ああもう残り時間が少ないんだなと思った。また、病気を公表した時点でステージ4だと公言していたし、抗がん剤治療しかしていないことを考えれば他に手だてがないほどの病状だったことは容易に想像できた。私の周囲はガン死した人だらけなので、ある程度の知識はあるからかもしれないが。
また、闘病の様子が公開されると、励ましの言葉が多く聞える中で、「あんなことしていたら、どんどん悪くなる一方」だという声もあった。現代のガン治療、それ以上に現代の医療そのものについて懐疑的(というより明らかに反対)の立場を持つ医療関係者たちの声だ。話が専門的になってくると私にも判断がつかなくなることが多いのだが、なるほどそうかもしれないと思わせることが多かった。
そういうこともあって、私にとっては(多くの人にとってと同じように)、若くしての死は本人および周囲の人たちにとっては残念この上ないことであると思うだけである。見ず知らずの人間からすれば、冷たいようだが「それが、人生」としか言いようがなく、とりたてて話題にしたいことではない。
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先日あった同窓会で一番楽しみにしていたのは、中学校3年生の時に仲がよかった友人に会えることだった。ずっと消息不明だったが、もう1人の友人からの情報で所在を知り、連絡先不明になっていたので同窓会幹事に住所を知らせ、時々LINEで連絡をとりあっていた。
女子高を卒業して某有名百貨店に入り、エレベーターガールに抜擢された美人で、20代前半に社内結婚し私も結婚式に招かれた。ゆとりあるマダムライフを送っているのだろうと思っていたが、豈図らんや。2人の娘が独立した時に離婚し、一人暮らしをしているようだった。しかも、乳がんになって治療中とのこと。手術に向けた抗がん剤治療、手術、その後の抗がん剤投与、リハビリなどかなりつらい経験を経ての再会だった。
時々体調が心配になって連絡をすると、同窓会をとても楽しみにしている様子だった。運よく一番つらい時期を送った後の同窓会だったので、知らない人が見ればガンだったことなどわからないほど元気な姿を見せてくれた。薬の副作用で太ってしまったと言っていたが、相変わらず美人で明るくふるまう姿を見られて本当によかった・・・しみじみ思うひとときだった。
その一方で、先日もブログの記事として書いたが、小学校の同級生が急死したことや、中学時代テニス部で活躍した同窓生が亡くなっていたことなど、何人かの死も知ることになった。この年齢になると珍しいことではないと思うが、人の一生はいつどうなるかわからない、「それが、人生」だと思わざるを得なかった。
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34才の死を「若すぎる」と言う人が多いことについて、抵抗感を感じるという人がいることを今朝知った。HUFFPOSTがとりあげたもので、昨年妻を33才で失った人。長男出産の翌日大量出血で妻は亡くなったという。周囲から「早すぎる」と言われる度に失意はさらに深まったという。妻のことは自分が一番よく知っているのに、その死を他人が勝手に評価することが嫌だった・・・云々。
「早すぎる死」という表現はよく使われる。私も言ったことがある。そういう時、私はその人の人生を評価しているつもりは毛頭ないのだが、それを「評価」としてとらえる人がいるのだということ、そう言われ手傷つく人もいるのだということを知った。
考えてみれば、私自身平均寿命を念頭において「早すぎる」とか「大往生」とか安易に発言してきた。しかし、還暦を過ぎてつくづく思うのは、平均寿命というのはあくまでも統計的なデータであり、人の命というのはいつどうなるかわからないということだ。
先日亡くなった伯母は97才だったが、亡くなる時に大満足していたかといえばそうではないと思う。むしろ、なんとかその年齢まで生きていたのに最後の最後まで思うようにはならないことに憤慨している節があった。それを感じてしまうと、長かろうが短かろうが人間はいくつかの禍根を残して死んでいくものなのだとまたしても思うのだ。
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件の歌舞伎俳優は、これからは母親と父親の役割を1人でこなしていくという決意を語ったようだ。彼にとってはとても悲しい出来事だったに違いないし、ひとりで二親の役目を果たすことは簡単なことではないと思う。しかし、大変だがまた子供たちがいることで救われもする。
彼の舞台は今後ますます人気が出るだろう。そして、何年かしたら若くて美しい女性と再婚するような気がする。その時マスコミをはじめ全く関係のない人たちがあれやこれや騒ぐのだろうが、彼自身の人生なのだからいいではないか。
去る者は日々に疎し。痛いほど鮮やかだった悲しみも、月日の流れの中で少しずつぼんやりと薄れていく。誰かの死が決して消えない傷跡を作ったとしても、時々思い出したようにうずく痛みを感じながら生きていくのが人生。誰しもがかかえもつあたりまえのこと。見ず知らずの人間がわかったような顔でああだこうだ言うことではない。とかなんとか言いつつ、こうしてブログのネタにしている私も私だなぁ・・・その気がさほどなかったのに成り行きで書いているので冗漫な文章になってしまった。反省。