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KINCHOのCMがおもしろい

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・・・6月も今日で終わり。最後の写真はやはりこの花で・・・

 

箸にも棒にもかからないCMが氾濫している中、KINCHOがなかなか頑張っている。どこの代理店のものか知らないが、以前から「お!」と思わせるCMを作っていて今後もこの線で行ってもらいたいものだ。見たくなくても見えてしまう、聞きたくなくても聞えてしまうのがCMなのだから。

現在いくつかの商品のCMが流れていると思うが、私が好きなのは「蚊がいなくなるスプレー」のもの。俳優の笹野高史さんがボディビルダー姿で登場するアレだ。最後の決め文句「卑怯だろう?」で思わずくすっと笑わせる。

卑怯であることは普通よろしくないことだと考えらえている。それを逆手にとったあたりがミソだと思うが、これを見てかつてトヨエツが出ていたキンチョールのCMを思い出した。海の家らしきところで「長持ちするやつか、遠くへ飛ぶやつか・・・今夜はどっちのキンチョールがええんや」ともだえるように言うトヨエツ。背後にいるおばちゃんたちが「いやらしいわぁ」「いやらしいやろう」とトヨエツ。このセンスと「卑怯だろう?」は同じだと感じる。

キンチョールといえば大滝秀治と岸部一徳のCMもおもしろかった。「つまらん。おまえの話はつまらん!」「わしとおまえと2人だけ!」などなど。2人の個性が鮮やかに出ていて、いつも楽しみにしていたものだ。

最近のラジオCMもなかなかおもしろい。「金鳥少年」シリーズで、昨年からやっているらしく今流れているのは2017年版。高校生だと思われる「高山さん」と「大沢くん」の会話なのだが、高山さんが好きだが内気な大沢君の戸惑った様子がくすっと笑える。脇役で「後藤君」という少年も出てきて、なかなか現実味のあるストーリーだ。現在4商品のCMが流されているようで、5つ目もそのうち登場しそうだ。

KINCHOのCMの面白さは、爆笑を狙ったものではなく「くすっ!」「ふふふ」といった微かな笑いを誘うところにあると思う。商品の特長やメリットを簡潔に説明しながら笑いの余韻を残すあたり、やるなぁと思うのだがどうだろう。

KINCHOのサイトを見ていたら、「ウルトラがいちゅう大百科」なるものがあった。なんと!昨日ウルトラ怪獣の話を書いたらこれだもの。「ウルトラ怪獣大百科」という本が確かあったと記憶する。息子が持っていたのだが、今はもうない。とっておけばよかったかなぁ。

| - | 08:13 | comments(0) | - |
ジャミラ!

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今朝起き抜けに(最近早寝なので起きるのは4時過ぎ!)facebookをつらつらと見ていたら、なつかしい画像が目に飛び込んできた。ウルトラマンに出てきた怪獣、ジャミラである。ジャミラはウルトラ怪獣の中でも一二を争う人気者だからご存知の方も多いに違いない。

ジャミラが出た第23回のタイトルは「故郷は地球」。宇宙開発競争が盛んに行われていた時代、ある国が打ち上げた人工衛星に乗っていた宇宙飛行士が水のない惑星に置き去りにされ、環境に適応するため異様な姿になった・・・それがジャミラである。ジャミラは国際批判を恐れて事実を隠し自分を見捨てた母国に復習するため地球にやってきたのだった。

旅客機や宇宙船を次々と墜落させていたジャミラを葬り去れ、という指令が科学特捜隊に下る。あくまでも、ジャミラが元は人間だったという事実は隠し1匹の怪獣として殺せという。ジャミラの弱点は水なので、特捜隊は人工降雨弾攻撃をしかけるが怨念の強さゆえかジャミラはからくもそれに耐える。そこで出てくるのがウルトラマンだ。国際会議場に現れたジャミラにウルトラマンのウルトラ水流(ぷぷぷ)が炸裂!ジャミラは悲痛な鳴き声をあげながら死んでいく。

番組はそこで終わらない。ジャミラ騒動の後、科学特捜隊により国際会議場の近くにジャミラの墓標が建てられた。そこで黙祷する科学特捜隊の面々。ひとしきりしてみなが戻っていく中、イデ隊員(二瓶正也)だけが残る。そして墓標に刻まれた「人類の夢と科学の発展のために死んだ戦士の魂ここに眠る」という墓碑銘を見ながら呟く。「犠牲者はいつもこうだ。文句だけは美しいけれど」

私がウルトラマンを見始めたのは実際に放映されていた時ではない。当時はほとんど興味はなかった。しかし、ウルトラマンは時代を超えたヒーローであり、息子もまた夢中になった。付き合うというよりも、一緒に見ているうちに私も好きになり、レンタルビデオを何本も借りて2人でよく見たものだ。

息子は子どもらしく強い怪獣が好きだった。エレキング、レッドキングなどなど。私はやはり大人なので、ちょっと見方がちがい、ジャミラとメトロン星人が好きだった。サンシャインで毎年行われていたいウルトラマンフェスティバルにも何度か行き、いろいろねだられたこともなつかしい思いでである。

息子が子どもだったころも、ヒーローもののテレビ番組はいくつかあった。ほとんどが変身もので、体の一部が飛び道具になったり、複雑な動きをしたり。剣のような道具やベルトなどが玩具として売られ、男の子には大人気だったと記憶する。

しかし、私の中ではやはりウルトラマン、仮面ライダーは別格。ウルトラマンに出てくるのは「怪獣」、仮面ライダーは「怪人」だったと思うが、そもそものところでコンセプトが対照的だったと思う。ウルトラマンには大人のメッセージが込められており、物語性が高い。仮面ライダーはストーリーも子ども向けの単純明快なものでドライな感じがする。

ジャミラに込められたのは「人間のエゴ」だろうか。また、それぞれの事情をかかえて地球にやってくる怪獣とウルトラマンの戦いを通して、「正義とは何か」という問いかけもあるような気がする。それらに惹かれていまだにウルトラマンが好きな大人たちも多いのではないだろうか。

ウルトラシリーズの中で私が一番好きだったのはウルトラセブン。中でも、メトロン星人とモロボシ・ダン(森次晃嗣)が夕闇迫る安アパートの一室でちゃぶ台ごしに話し合うシーンは今でもよく覚えている。話し合いは決裂し、沈みゆく太陽をバックに戦うセブンとメトロン。あのシーンもかっこよかった。

そういえば・・・と本棚を見たら、「21世紀ウルトラマン宣言」なる本があった。1995年発行だから、22年前の本である。何度も本棚整理をしてきたが残っていたということは、私にとってはそれなりの価値がある本、ということになろう。ウルトラマンにこめられたメッセージ性をテーマとした本で、代表的な怪獣の紹介もある。「ジャミラの悲しみは深い」「倒しても倒してもバルタン星人」「メトロン星人は、何か言いかけて、フッと消えた」・・・また、この本の著者(PAX ULTORAMANAというグループ)の思い入れ具合が、「正義はある。でも、どちらにもある」「ウルトラマンも、ウルトラマンの敵も、誇り高い」などの言葉によく表れており、今読んでもなかなか楽しい。

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| - | 08:10 | comments(5) | - |
北の色、北の香り

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1週間ほど前、北海道から小包が届いた。その少し前に電話をもらっていたので中に何が入っているかはわかっていた。留萌市礼受町で咲いているハマナスの枝である。

送ってくれたのは、まだ会ったこともない従兄弟の奥さん。従兄弟といっても父の兄の息子なのでもう70才を越しているという。昨年ふと思い立って手紙を書いたところ電話をもらい、以来何度かやりとりしている。父の思いでとして、亡くなる前日に私がハマナスの鉢植えを持って行ったところ大変喜んでいたことを伝えると、咲いたら送ると言ってくれていた。

父が子どものころはどうだったのかは知らないが、数年前に訪れた礼受は淋しいくらいひっそりとしたところだった。町といっていいのかどうかさえわからないほどに。にしん漁が盛んだったころはもっと家も多かっただろうが、今はもうその面影もない。

父の実家の墓もそこにある。そしてハマナスは墓に向かう途中に群れ咲いているとのことだ。このところ気温が低く暖房を使っているらしいが、そんな寒村で咲く鮮やかな花はこちらで見るよりもずっと美しいに違いない。

箱を開ける前からいい香りがしていた。残念なことに、花びらはみな散っていて、花を見ることはできなかった。生花を送ることに慣れていないのだろう。切り口に水分を含んだものを巻き付けるなどの処理がまったくされていなかったので、2日経てば花も散る。かろうじてつぼみが残っていたので慌てて水に入れたが、ついに開くことなく終わった。

しかし、箱の中で散っている花びらの色は、なんともいいようのない鮮やかなマゼンダ色だった。枝にはびっしりと棘がついており、切って持ち帰るのも大変だったのではないかと思われる。なによりも感動したのはその香りで、ハマナスがこんなに強く香るとは思っていなかった。野性味を残しながら華やぎを感じさせる香りは、来るべき夏を予感させる期待感そのものなのかもしれない。

私はまだハマナスが咲くころの北海道に行ったことがない。聞けば白い花のハマナスも近所で咲いているとのこと。いつか、きっとこの目で見てみたいと思う。

| - | 09:16 | comments(0) | - |
ロマンチック・エロチスト

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相変わらず気まぐれな乱読を続けている。ここ1〜2ヶ月の興味は、たとえば嵯峨本、その中心的な役割を担った光悦、光悦といえばやはり宗達、いや嵯峨本の本当の中心であろう角倉素庵・・・という連想的な読書だけでなく、力作だと思われる「芸者論」(岩下尚史)、本棚を何気なく見ていて再々読した「女人讃歌ー甲斐荘楠音の生涯」・・・と、もっぱら日本美術関係に集中している。

「女人讃歌」を読むのはもう3度目か4度目なのだが、読みながら今までその気も起きなかった溝口健二監督の映画を見てみようと思った。甲斐荘については、2014年5月19日20日の記事でとりあげているので詳しくはそちらを読んでほしいが、例の「穢い絵」事件以来くすぶっていた甲斐荘が突然映画の世界で活躍しはじめ、溝口監督が彼に絶大な信頼を寄せていたということに、今さらながら興味を持ったからだ。

そういった目で「元禄忠臣蔵」「雨月物語」などを観てみると、なるほどと感じいることが多かった。甲斐荘は映画製作の現場で考証家という役割を担ったわけだが(「元禄忠臣蔵」では風俗の考証家として名前が記されている)、彼が着付けをちょっといじっただけで雰囲気ががらりと変わる、と監督は驚いたという。意見を求められた甲斐荘が何か言えば、ほとんどが通ったというから監督との相性はかなりよかったようだ。絵の世界である意味挫折した甲斐荘が映画の世界に道を見つけられたことは彼の人生の中でも大きな幸運といえたのかもしれない。

今回、溝口監督の下で働いていた新藤兼人氏が「弔辞」という著作の中で甲斐荘をとりあげていることを知り、古書を求めて読んでみた。杉村春子、勝新太郎など新藤氏が過去にかかわった人たちへの思い出を「弔辞」とした書いたもので、甲斐荘楠音への弔辞には「汚い絵」というタイトルがつけられている。たぶん本当は「穢い」だと思うが、そのあたりは大目にみることにして・・・

新藤氏は「元禄忠臣蔵」の撮影現場ではじめて甲斐荘と会った時のことをこう書いている。

セットで働く者は、すべて作業服だがこの男は和服だった。丸顔でずんぐりとした体躯、足元は下駄、呉服屋の番頭という姿だった。二十九歳のわたしには五十ぐらいのおっさんに見えたが、年譜をみると当時三十九歳だった。

彼の前評判は、日本画家くずれということで、衣装部のベテランだちには、絵かきくずれに衣装のことなんかわかるんやろか、と侮りの目でみられた。

しかし、絵かきくずれのおっさんは、間もなく衣装部のベテランに一撃を加えた。

帯の幅を少うし短くしたらどや、といった。女の帯のことだ。日本の女性は胴長だから、帯が体の幅をとって、帯ばかり目立つ、実際はどうであれ、映画的に幅をちぢめたらスマートになる、というのだ。

溝口健二がぎょっとした目で甲斐荘をふり返った。勘の鋭い溝口は、甲斐荘の「目」にはっとしたのだ。

京都風のかわいらしい袱紗袋をさげ、白足袋の足元をちょこちょこと女みたいに踏んで撮影所に出勤する甲斐荘に興味を覚え、新藤氏はひそかに彼の仕事を見守るようになったという。

一度、食事をしにこないかと誘われたことがあり、新藤夫婦と助監督で甲斐荘の家へ行ったことがあるらしい。純京都風の町屋の玄関で出迎えた甲斐荘はタスキをかけており、台所を手伝っているのかと思ったという。出てきた食事は焼き魚、野菜の煮付け、おひたし、味噌汁などで、当時としてはかなり豪華。奥方がつくっているに違いないと思っていた一同だったが、甲斐荘は独身。自分で料理をして客をもてなしたわけである。

「女人讃歌」をすでに何度か読んでいる私は甲斐荘が男色家で女性的な感覚の持ち主だったことを知っているので、さして驚くようなことでもなかった。が、当時の常識的な感覚からすれば、まめまめしく料理を作ってもてなす「おっさん」はかなり異色の存在だったのだろう。

甲斐荘楠音が描く絵は一度観たら忘れられない絵だ。良くも悪くも。そして、どちらかというと嫌悪感を感じる人の方が多いと思う。好きか嫌いかと問われれば、私でさえ迷う。好きなのか嫌いなのか自分でわからない・・・ただ、20年以上前に出会ってからずっとひどく惹かれる絵であることは確かだ。

なんでこれほど惹かれるのだろう。不思議に思い、以前から欲しいと思っていた甲斐荘の画集を入手した。「甲斐荘楠音画集 ロマンチック・エロチスト」(求龍堂)である。これまで私が見たことがあった絵といえば、「女人讃歌」に掲載されていたいくつかの絵と、ネットで見かけたいくつかの絵のみだったので、いずれ入手しようとは思っていた本だ。

ざっと見ただけで、彼が日本画家として相当の技術をもっていたことがわかる。素肌に黒い絽だか紗だかのきものを着た女性の絵など、技術がなければ描けないだろう。少女のように無邪気な女、太りじしの妊婦のような女、あだっぽい女、不気味な微笑みをうかべる女、はかなく悲しげな女・・・彼はとことん女を描こうとした画家だ。

そして「女人讃歌」の著者である栗田勇氏が指摘しているように、甲斐荘が描く女は「男の目」から見た女ではなく、女になりきった画家が演じる女なのだ。そこには男が描く女にはない妖しさと気味の悪さがある。その妖しさと気味の悪さにどんどん引きずられ、深い闇に引きずり込まれるような感覚・・・それが私をとらえて離さないのかもしれない。

新藤兼人氏は、甲斐荘の死についてこう書いている。

友人のアパートに遊びに行っていて、喘息の発作で死んだとはまったく甲斐荘らしい。かれは生涯結婚することなく、独りで生きてきたのだ。人はかれの死を惨めだと思うかもしれないが、かれは自分の思うままに生きてきたのだから、無念の思いを残したとは思いたくない。大往生だ。タタミの上で家族に見守られて死ぬことを最上の願いとする人には甲斐荘楠音の生き方は理解できないだろう。

甲斐荘楠音は1978年6月16日に83才で急逝した。長い間映画の世界にいた甲斐荘であったが、1976年には日本橋三越美術画廊で「甲斐荘楠音回顧展」が開かれ、とても嬉しそうだったという。また、前のブログにも書いたが、甲斐荘はかなり昔に描きはじめた「畜生塚」という絵を完成させようとしていた節がある。結局、画家として死んでいった、「まあ、こんなもんでっしゃろ」と思いながら大往生したと私も思いたい。

| - | 19:36 | comments(2) | - |
きものみち

「けものみち」ではなく。しかし、「きものみち」もなかなか生半可なものではない、とつくづく思う今日この頃なのであーる。

5月に4回ほど着付け教室に行き、名古屋帯を締めるところまではひととおり教えてもらった。とはいえ、1回当り1時間半ほどの教室4回のみできちんと着られるようになるわけはなく、それでさえ物覚えが悪く手先に力を入れるのが苦手な私にとって、これはほんのスタートにすぎない。

しかし、スタートは切ったのだ。切った以上前にある道を行かねばならぬ・・・というか今はひたすら行きたいと思う。学ばなければならないことはまだたくさんあるし、覚えなければならないこともまた多い。奥が深いので知識も当然ながら必要だが、今はひたすら実践を通して「身体で覚える」ことが私にとって一番必要なことだと考えている。

過去をのぞくわけにはいかないから、比較的時代考証がしっかりしていると思われる時代劇をよく見ている。町人と武家の装いの違いや、商家の娘と長屋住まいの娘の違い、未婚者と既婚者の違い、などなどそれだけ見ていてもおもしろい。下駄を履いてごく普通に走っているのを見ると、昔は慣れているから当然だろうが、今の俳優はたいへんだなぁなどと妙に感心してしまったりもする。

家では、週に数回ほど練習しているのだが、前の日まあまあよくできたと思っても翌日はダメだったり、どうやっても気に入らないところがあったり、と進み方はスムースとは言いがたい。また、練習用に用意したきものが袷なので暑くて暑くて。肌襦袢、長襦袢、きもの、となんとか進んでも帯を締めるのに四苦八苦すると汗びっしょりである。汗をかきにくいはずなのに、軽い運動をしたくらい汗をかく。

これからもっと暑くなるから、たまらずに安い浴衣を練習用に購入した。長襦袢もこれまたお手軽価格の夏物にした。袷よりだいぶ違うが、それでも暑い(^^;)。しかし、とりあえずしばらくはこれでがんばろうと思う。本当は、家で着ているだけでなく、なんとなく形になったと思ったら外に出てしばらく動いてみなくてはいけないのだが、今のところこの時季に着るきものがない。

浴衣なら手ごろなのではないか・・・そう思われる方もいると思うが、納得のいく品質の浴衣はそれなりのお値段である。また浴衣だけあればいいというわけではなく、浴衣に合う夏帯、襦袢、下駄、昼間出掛けるなら日傘、などなど付随して必要になってくるものを考えると簡単に買えるものではない。

きものの世界では、7月、8月に着るのは夏物のきもので、絽、紗、麻、など透け感のある涼しげなものが中心になる。帯もまたしかり。私がもっている単衣のきものは9月にならないと着られないので、今しばらく我慢我慢。

とりあえず、先日以前草履を頼んだ浅草の長谷川商店に行って下駄を注文してきた。下駄も履き慣れる必要があるので、夏の間は普段着に下駄スタイルで練習することにする。木綿のきものを着る時にも下駄は活躍すると思うし、最初は「右近」という草履に近いかたちのものにするが、ゆくゆくは駒下駄を軽やかに履いてみたい。

この年齢になると、何事も自分の身体と相談しながら、ということになる。遅々として進まないように見えても、回数をこなしていくことによって少しずつ進歩していければいい。なによりも、今はきものが着たくて仕方ない。この気持ちを持ち続けることができれば、いずれなんとか形よく着られるようになる・・・と思うことにしている。

きものみち・・・平坦ではないし、体力気力経済力が求められてつらいところもあるが、やはり楽しいみちである。

| - | 06:52 | comments(0) | - |
それが、人生。

触れずにおこうかとも思ったのだが、やはりちょっと・・・(^^;) そう、ここ数日この話題でもちきりの、歌舞伎俳優の妻の死について。

今さら驚くことも、腹を立てることでもないのだが、マスコミはこぞって取上げている。彼らにとって情報は商品だとはいえ同じようなことを繰り返し発し続けるのはニーズがあってのことなのだろうと思う。発する方も反応する方も「どっちもどっち」だとは思うが、インターネット社会になる前の時代だったら、これほどのことにはならないだろうとも思う。

テレビではどうだか知らないが(私は昼食時っくらいしかテレビを見ないので)、ラジオでさえパーソナリティたちが番組進行の前にお悔やみの言葉を言っていた。まあ、亡くなった人が元アナウンサーだし、夫は梨園の有名人なのでそうなるのだろうと思うが、「言っておかないとまずい」的な礼儀といえば礼儀、処世術といえば処世術からなのだろうとひねくれ者の私は思ってしまう。

亡くなった人はまだ34才。しかも、幼い子どもを残しての死。さぞ心残りであったろう、とは思う。私も子どもを産んだ身であるし、35才の時に子宮ガンの手術をしたので少しは気持ちが分かるような気がする。幸い私はごく初期の段階での手術で「死」が目の前にあったわけではないが、麻酔の後遺症で起き上がれなくなりかなり不安な日々を病院で過ごした。頭に浮かぶのは実家に預けた3才の息子のことばかりで、どうしているだろうと思うと涙が出た。

亡くなった人のブログが多くの人たちに読まれ、「勇気をもらった」「感動した」という多くの声があり、海外でも評価されたことも繰り返し伝えられている。確かに同じ病を得ている人やその家族たちにとっては、健気にがんばる姿はひとつの支えになったのかもしれない。しかし、たぶんブログを続けてきたのは根本的に自分と自分の家族のためであると思うし、それでいいのだと思う。ある意味で、彼女は自分ができることをやりつくして旅立ったのかもしれない。そうだとしたら、短かったかもしれないが幸せな人生だったとも言えるのではないだろうか。

突然の訃報だったのでこれだけ大騒ぎになっているのかもしれないが、私は自宅療養に切り替えたという話を見かけた時に、ああもう残り時間が少ないんだなと思った。また、病気を公表した時点でステージ4だと公言していたし、抗がん剤治療しかしていないことを考えれば他に手だてがないほどの病状だったことは容易に想像できた。私の周囲はガン死した人だらけなので、ある程度の知識はあるからかもしれないが。

また、闘病の様子が公開されると、励ましの言葉が多く聞える中で、「あんなことしていたら、どんどん悪くなる一方」だという声もあった。現代のガン治療、それ以上に現代の医療そのものについて懐疑的(というより明らかに反対)の立場を持つ医療関係者たちの声だ。話が専門的になってくると私にも判断がつかなくなることが多いのだが、なるほどそうかもしれないと思わせることが多かった。

そういうこともあって、私にとっては(多くの人にとってと同じように)、若くしての死は本人および周囲の人たちにとっては残念この上ないことであると思うだけである。見ず知らずの人間からすれば、冷たいようだが「それが、人生」としか言いようがなく、とりたてて話題にしたいことではない。

先日あった同窓会で一番楽しみにしていたのは、中学校3年生の時に仲がよかった友人に会えることだった。ずっと消息不明だったが、もう1人の友人からの情報で所在を知り、連絡先不明になっていたので同窓会幹事に住所を知らせ、時々LINEで連絡をとりあっていた。

女子高を卒業して某有名百貨店に入り、エレベーターガールに抜擢された美人で、20代前半に社内結婚し私も結婚式に招かれた。ゆとりあるマダムライフを送っているのだろうと思っていたが、豈図らんや。2人の娘が独立した時に離婚し、一人暮らしをしているようだった。しかも、乳がんになって治療中とのこと。手術に向けた抗がん剤治療、手術、その後の抗がん剤投与、リハビリなどかなりつらい経験を経ての再会だった。

時々体調が心配になって連絡をすると、同窓会をとても楽しみにしている様子だった。運よく一番つらい時期を送った後の同窓会だったので、知らない人が見ればガンだったことなどわからないほど元気な姿を見せてくれた。薬の副作用で太ってしまったと言っていたが、相変わらず美人で明るくふるまう姿を見られて本当によかった・・・しみじみ思うひとときだった。

その一方で、先日もブログの記事として書いたが、小学校の同級生が急死したことや、中学時代テニス部で活躍した同窓生が亡くなっていたことなど、何人かの死も知ることになった。この年齢になると珍しいことではないと思うが、人の一生はいつどうなるかわからない、「それが、人生」だと思わざるを得なかった。

34才の死を「若すぎる」と言う人が多いことについて、抵抗感を感じるという人がいることを今朝知った。HUFFPOSTがとりあげたもので、昨年妻を33才で失った人。長男出産の翌日大量出血で妻は亡くなったという。周囲から「早すぎる」と言われる度に失意はさらに深まったという。妻のことは自分が一番よく知っているのに、その死を他人が勝手に評価することが嫌だった・・・云々。

「早すぎる死」という表現はよく使われる。私も言ったことがある。そういう時、私はその人の人生を評価しているつもりは毛頭ないのだが、それを「評価」としてとらえる人がいるのだということ、そう言われ手傷つく人もいるのだということを知った。

考えてみれば、私自身平均寿命を念頭において「早すぎる」とか「大往生」とか安易に発言してきた。しかし、還暦を過ぎてつくづく思うのは、平均寿命というのはあくまでも統計的なデータであり、人の命というのはいつどうなるかわからないということだ。

先日亡くなった伯母は97才だったが、亡くなる時に大満足していたかといえばそうではないと思う。むしろ、なんとかその年齢まで生きていたのに最後の最後まで思うようにはならないことに憤慨している節があった。それを感じてしまうと、長かろうが短かろうが人間はいくつかの禍根を残して死んでいくものなのだとまたしても思うのだ。

件の歌舞伎俳優は、これからは母親と父親の役割を1人でこなしていくという決意を語ったようだ。彼にとってはとても悲しい出来事だったに違いないし、ひとりで二親の役目を果たすことは簡単なことではないと思う。しかし、大変だがまた子供たちがいることで救われもする。

彼の舞台は今後ますます人気が出るだろう。そして、何年かしたら若くて美しい女性と再婚するような気がする。その時マスコミをはじめ全く関係のない人たちがあれやこれや騒ぐのだろうが、彼自身の人生なのだからいいではないか。

去る者は日々に疎し。痛いほど鮮やかだった悲しみも、月日の流れの中で少しずつぼんやりと薄れていく。誰かの死が決して消えない傷跡を作ったとしても、時々思い出したようにうずく痛みを感じながら生きていくのが人生。誰しもがかかえもつあたりまえのこと。見ず知らずの人間がわかったような顔でああだこうだ言うことではない。とかなんとか言いつつ、こうしてブログのネタにしている私も私だなぁ・・・その気がさほどなかったのに成り行きで書いているので冗漫な文章になってしまった。反省。

| - | 11:52 | comments(2) | - |
気象病!?

昨日の毎日新聞で「気象病」という記事を見かけ、「これだ!」と思った。天気が急激に変わるこの時季、頭痛などに悩まされているのは私だけではあるまい、と思っていたがやはりそうだったか。記事になるくらいだから、けっこう多くの人がこの症状に悩まされているのだろう。

気象病と「病」がついているが、病気というより単なる症状くらいにとらえておいた方がいいと思う。正式な病名ではないということだし。ただ、ひどい人はけっこう苦しんでいるようなので、できれば避けて通りたいことには違いない。

症状は主に頭痛(やっぱりね!)、めまい、吐き気、肩凝り、だるさ、しびれ、関節痛、うつ症状、アレルギー症状・・・など多岐に亘るという。私が考えていた通り、これらの症状には自律神経が密接に関係しており、その自律神経と強い関係のある「内耳」が気候の変化を敏感に感じとることが不快な症状の原因ではないか・・・とのこと(せたがや内科・神経科クリニックの久手堅司院長)。

なるほどなるほど。私はもともと自律神経が乱れやすいので、その乱れがさらに強くなるということだろう。今年は去年までの症状に加えて血圧が不安定になり、普段は100-60くらいなのにいきなり130-80なんていう数字が出てきてびっくりする。血圧が高くなったから頭痛がひどいのか、はたまたその逆で頭痛がひどいから血圧が高くなっているのかわからないが。

自律神経には、ご存知のように緊張した時に優位に働く交感神経と、リラックスした時に優位になる副交感神経があり、両者のバランスがとれているうちは体調もよくなる。交感神経は血圧を上げたり、呼吸を早めたりし、副交感神経はその逆ということなので、この時季の私の体の中は交感神経優位になっているのだろう。心拍数も動かずとも100を超えることがある。

記事の中では気象病の対処方法として、耳や肩回りのストレッチが紹介されている。久手堅院長によると気圧の変化にかかわらずこまめに身体を動かすことが予防になるとのこと。具合が悪いとついつい動かないでいたくなるのだが、少し努力すれば動ける状態だったら動いた方がいい・・・これもなんとなく今までの経験で感じていたことだ。

役に立ちそうなのが、耳回りのストレッチ。ひとつは、耳たぶの少し上を水平方向に引っ張るストレッチ。5〜10秒したら手を放し、これを数回繰り返すといいらしい。もうひとつは、耳の後ろの骨のへこみ(萼関節)を斜め上に30秒程度ぐっと押す。手を離した時に耳の回りが軽くなっているようだったら効果が出ているということらしい。ためしにやってみたら、なんとなくいいみたい。

できるだけ身体を動かして汗をかく、耳周辺や肩回りのストレッチ。しばらくはこれらを続けてみようと思う。苦手な夏ではあるが、やはり気持ちよく迎えたいもーん。

| - | 06:54 | comments(0) | - |
溝口健二作品を観る

ふとしたことがきっかけで、溝口健二監督の映画を観たいと思った。有名な映画監督なので名前だけは当然ながら知ってはいたが、まだ作品を観たことがなかった。溝口作品といってもたくさんあるが、とりあえず観たのは「雨月物語」「残菊物語」「西鶴一代女」「山椒太夫」である。

溝口監督の作風についてもほとんど知らなかったが、ワンカット・ワンシーンの長回しを多用することで有名、とある。なるほど現代の映画やテレビドラマに慣れた目には、いかにも悠長かつ違和感を感じるカメラワークだが、見続けていると癖になるというか、目が離せなくなってくる。短いカットを編集したものにはない独特の緊張感のようなものがあって、決していい画質とはいえない動画の画面に釘付けになってしまうのだ。

モノクロームの世界の濃い陰影。ほのかな灯。深い闇。その中で不思議な光を放つ女たち。ほかの作品を観ていないので何ともいえないが、この監督は女性をいかに表現するかを追求した監督であったような気がする。髪形、衣装、化粧などもたいそう凝っているが、なによりも身のこなしにこわだりを感じた。今の女優にはほとんど求めることができないような‘色っぽさ’を感じるのは私だけであろうか。

人となりについては、かなり毀誉褒貶のある人だったようだ。撮影に関してはかなりワンマンだったようで、俳優陣には恐れられていたらしい。自分の父親を憎むがゆえに、作品でも父親を好意的に描いたものはないという話もある。権威に弱いくせに目下には横暴、映画で使われた道具をわが物にするなどの公私混同、罵倒された妻の発狂、田中絹代への片思い・・・まあまあ、いろいろ出てくる。

私は映画でも絵画でも文学作品でも作者の人柄や生活態度と作品は別、というスタンスをとっているが、作品とそれらが全く関係ないとは思っていない。溝口作品などはやはり監督のどこかハチャメチャな部分がなければできなかったのではないか、そんな気がする。

ごく個人的な理由で注視してしまうのが、きものの着こなし方。着付けそのものというよりも、きものを着ての動きが気になっている。それを観察したからといってすぐに自分が実践するということではないが、やはり昔の女優は格が違うなぁと感じ入ることが多い。あといくつか観たい作品があるので、ゆるりゆるりと探して鑑賞したい。

| - | 11:02 | comments(2) | - |
22日は猫に語らせる日・・・6月担当:ふく

みんな、おはよう。ふくだよ。かわいいかわいい、ふくちゃんだよ!

なんだか、じゅんばんがまわってくるのが、すごくおそいとおもうもんね。このさいだから、おとしよりはもう「いんたい」して、ふくとダイスケだけでやるのがいいとおもうもんねー。いいアイデアだとおもうのに、すみごんが「だめだめ」だって。

ふくは、このあいだ2さいになったもんね。「はなもはじらうおとめ」だもんね。でも、うちのおっさんはこのごろとってもしつれいないことばかりいうもんね。「でぶ」とか。おんなのこに、そんなこといっちゃいけないんだもんねーだ。それに、すみごんは「でぶのほうがかわいい」っていってるもんね。がりがりねこなんて、かわいくないもんねーだ。

そのてん、ふくはとってもかわいいもんね。このあいだ、たいじゅうをはかってもらったら、ふくは6.1キロあったもんね。ダイスケは5.4キロだったもんね。やっぱり、ふくの「かち!」だもんねー。でも、さいきん「おんなのこで6キロはおもすぎるかも。からだのために、ダイエットしたほうがいいかも」って、すみごんまでがいいだしているもんね。ふくは、すききらいなくなんでもたべるえらいこなのに。ダイエットなんていやだもんね!

ふくはパンがすきだもんね。とくに「くろわっさん」っていうのがすきだもんね。ばたーのにおいがたまらないもんねー すみごんたちがあさごはんで「くろわっさん」をたべていると、ふくは「あついしせん」でじーーーーっとみているもんね。すみごんはふくの「あついしせん」にたえられなくなって、すこしわけてくれるもんね。まるまる1こくれてもいいけど、それはちょっとむりだもんね。

さいきん、ふくがとってもきにいっているのは、「しょうゆ」がはいっていただんぼーるだもんね。ちいさい「びん」がふたつはいっておくられてきたらしいけど、それがふくのサイズにぴったりだもんね。だんぼーるのなかにはいってねていると、「かわいいこねこちゃん」にもどったようなきがするもんね。

ダイスケは、このうちにきたときにつかっていた「だんぼーるはうす」がいまでもおきにいりで、てーぶるのしたにおいてある「だんぼーるはうす」にいまでもはいってねているもんね。このごろあつくなってきたのに、あいつはくらくてあつくるしいところで、ぴーぴーねているもんね。「なんであんた、あんなあつくるしいところでねているの」ってきいたら、「だって、ぼく、ここがおちつくんだもん」っていってたもんね。へんなやつだもんねー

ちゃしろのばーちゃんは、さいきん、また「ペットクリニック」かよいがはじまったもんね。うんちがでないんだってさ。ふくはまいにち「かいしょくかいべん」だもんね。それに、ふくはちゃんと「ねこずな」でうめるもんね。ふくとトイレをいっしょにつかっているダイスケはうめないもんね。だからいつもふくが、ダイスケのぶんまでうめているもんね。まったくせわのかかる「こぶん」だもんね。

くろっぽいばーちゃんは、こそこそしているくせに、たべるときはがつがつげんきだもんね。あさは「ごはんくれー」って、ダイスケとこうたいごうたいでうるさくないているもんね。いくらうるさくないたって、すみごんがきめたじかんにならないともらえないのにさ。ふくはそれをしっているから、じっとおとなしくまっているもんね。すみごんが、「ふくちゃんは、やっぱりかしこい」とほめてくれるもんねーだ。

らいげつは、ときどき「だんぼーるはうす」のあつさにたえきれず、でてきてびろーんとのびているダイスケのばんだもんね。いまでも、くろっぽいばーちゃんをときどきおいかけておこられているけど、「はんさむ」「かっこいい」とすみごんからいわれて「とくいがお」してるときがあるもんね。「しょうしんもの」のくせに、なまいきだもんね。

あ、それから、すみごんがいってたけど、9がつ6にちが「まつざきしげるのひ」になったらしいから、そのひはカメがぶろぐをかくらしいよ。あいつもさいきん、「めしくれ!」ってうるさいもんね。「おおもの」はふくみたいに「ふげんじっこう」じゃなくちゃだめだもんね。カメも「こもの」だもんねーだ。おしまい。

ちょっとまえまでは、この「つめとぎさーくる」がすきだったもんね

きぶんはいつも「かわいいこねこちゃん」だもんね!

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なっちゃん

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・・・初めて会った日のなっちゃん(再掲載)。若いね!・・・

なっちゃんはね、薺(なずな)っていうんだほんとはね。

だけどかわいいから、みんながなっちゃんってよぶんだよ

さびしいな なっちゃん

 

りきの毎日でおなじみの、りき家のなっちゃんが亡くなったそうだ。昨年秋のことだという。りきさんは猫が亡くなってもたいてい半年くらい経過してからブログで報告してくれるから、そのこと自体はさほど驚くことではなかった。が、まだ8才だったと知り、つくづく惜しまれる。

私がはじめてりき家を訪れたのは2012年3月14日。5年ほど前になる。その時一番歓迎してくれたのが、なっちゃんとよっちゃん(蓬くん)。遡って計算すればその時なっちゃんはまだ3才で、元気盛りの若猫だったということになる。見知らぬ人にも怖けることなく近づいてくるのは、家の中で生まれて怖いもの知らずということもあろうが、もって生まれた性格もあると思う。

一昨年お邪魔した時にも、なっちゃんは相変わらず素晴らしい接待ぶりで、家人になついて喜ばせていた。一緒に生まれたレンくん(蓮くん)と一緒に、持って行ったオモチャでよく遊んでいた姿を思い出す。まだ8才だったのか・・・

家猫の平均寿命は2016年時点で15.04才だという(日本ペットフード協会調べ)。外に出さない猫は15.81才、外に出す猫は13.26才ということだ。一昨年あちらに行ってしまったわがゴンは16才だったので、まあまあ平均寿命だったといえる。

しかし、人間だって壮年期に突然体調をくずして他界、というケースが珍しくない。猫の8才は人間でいうと48才くらいらしいから、ナイスミドルまっさかりの年齢。しかし、病には勝てないこともある。今は、それぞれ与えられた命を精いっぱい生きたと思うほかない。

先月、実家に最後まで残った猫が亡くなった。うちのまめこと同年齢だから12才だった。猫もオスの方がどちらかというと短命だが、嫌がることはさせたくないということで獣医にも行かずじまいで徐々に弱っていった様子を聞いていたので、その死にはちょっと納得できないものもある。が、飼い主の判断なので口を挟むべきではないのだろう。

なっちゃんは猫たちの間でも人気者で、他の猫を引き寄せていつも猫団子の中心だったという。そういう猫がいなくなると、ひときわ淋しさが募るのではないかと思う。なにかが足りない・・・そんな感じだろうか。

そろそろりき家の猫軍団にお目にかかりたいと思っていた矢先の訃報だった。なっちゃんがいなくなってしまったのはとても淋しいが、今ごろはあの世で母のオウちゃんと再会していることだろう。ご冥福を祈る。

| - | 06:42 | comments(0) | - |
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