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日々の内側
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たかが機械、されど・・・

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私たちの暮らしは様々な機械を使うことで成り立っている・・・と言っても過言ではないほど、生活の中に機械は溶け込んでいる。調理に使うガス(あるいは電気)器具をはじめ、風呂に入るにも暑さ寒さをしのぐにも、仕事にも娯楽にも機械は必要不可欠だ。


そんな機械にどれくらい依存しているかは人によってかなり違うのかもしれない。私の場合、テレビが故障してもさほど困らないが、テレビ好きの人にとってはいても立ってもいられなくなり、すぐに新しいものを買いに出掛けるかもしれない。昔ならまず「修理」が頭に浮かんだと思うが、今は「修理」するより「新調」した方が安くあがるなんていう馬鹿馬鹿しい世の中になってしまった。また、人心についても「修理」している間の時間を待つという忍耐力というかゆとりというかそんなものが薄れ、手っ取り早く新しいものを買ってしまいがちだ。


先日スマートフォンをなくした時はさすがに困った。困ったというより、落とすようなことはしていなかったのにないので腑に落ちずにいたし、まだ使えるものがなくなってしまったことが惜しく、悔しいような気分だった。翌日には新しいものを買うことになったので、私も立派にスマホに依存しているということになるのだろうか。ただし、依存度はさほど強いとはいえないと思う。翌日買いに行ったのは、なんとなくだが出てこないような予感があったからであり、そろそろ買い替え時であったからでもある。


失うのも困るが、不具合も大変困る。使い慣れたものが使えなくなった時のストレスはけっこう大きい。新しいものにも慣れてしまえば当初の戸惑いやイライラはなくなっていくのだが、それでも以前から使っていたものが使えなくなるのは困る。年齢を重ねるに従ってこの困るという思いは強くなり、変化を求めていた時代ははるか昔に過ぎてしまったことを改めて思い知る。


最近、いつも使っていたブラウザが使えなくなり困っている。別のブラウザを使えば用は足りるのだが、使い慣れたインターフェイスを失うとどこか落ち着かない。これはあきらかに依存しているということだろう。あれこれ調べたが手に負えそうにないので(システムをいじるのは怖い、ということを過去の経験から知っているため)近いうちサポートの扶けを借りたいと思っている。


とりあえず別のブラウザを使っているが、ブックマークが今までと違うのでそれを少し整備した。他のアプリケーションは今のところ大丈夫のようだが、機械はいつ壊れるかわからない。うろたえる時間をできるだけ短くするためにはバックアップが肝腎・・・と思いつつ仕事以外のデータはバックアップしていないなぁ。ゴールデンウイークは例年のように家でのんびりしているので、その間にいろいろ考えようかと思っている。

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オパールの指輪

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およそ宝石というものにほとんど興味を持たずに今まできた。だから「宝石」と呼べるようなものはひとつも持っていない。いや、今は「ジュエリー」と言った方がいいのかな。とにかく「宝石」「ジュエリー」にはとんと縁がない暮らしをしている。持っているのは、ごくごく小さなダイヤモンドやトパーズのピアスくらいで、これらは私の中では「宝石」「ジュエリー」の範疇には入らない。
縁はないが嫌いかというと嫌いではない。美しい宝石を見れば素直に美しいと思う。昔の肖像画などを見ていると描かれている貴婦人が身に付けている宝石のなんと豪華であることか。実物はどのようなものであろうかなどと想像し、きれいだが重いのではないかなどと余計なことまで考えたりもしている。


先日、何故なのか一向にわからないのだが、もうだいぶ前に亡くなった伯母が持っていたオパールの指輪のことを思い出した。子どもがいなかったので私たち姉妹をとてもかわいがってくれて、妹と二人で伯母の家に泊まりにいったり、一泊旅行に連れていってもらったりした。伯母はおよそ「オシャレ」とは無縁のような人で、着るものも地味すぎるほど地味。余計なものは一切買わずに暮している人だった。家の中も装飾品らしきものはなく、晩年は一人暮らしだったが相変わらずこざっぱりと暮していた。


そんな伯母が宝石がついた指輪をしていたことが、今になって気になりはじめた。子どもだった当時は乳白色の中に赤や緑、青などがちらちらと入る石をただきれいだと思っていただけだ。かたちは「マーキーズシェイプ」というのだろうか、舟のようなかたちだった。石だけで飾りらしきものはなく、金の台につけられていたと思う。オパールにもいろいろな種類があるようだが、今でもオパールというと伯母の指輪についていたあの石がまず頭に浮かぶ。地味すぎるほど地味な装いをしていた伯母とけっこう大きなオパール。そのギャップが気になる・・・というか、その指輪に秘められたなにかがあるような気がしている。


その伯母は母の姉たちの中でも最も苦労した人ではないかと思う。といっても、本人は自分の過去を一切私たちには語らなかったから、他の親類や母から聞いた話でしかないのだが。若いころ結婚したが別れたとか、誰かの妾になっていたとか、そんな話も耳に入ったが目の前にいる伯母は苦労した過去を感じさせず、ただつつましく暮していた。伯父とは年齢が離れていたようだが、いつ出会って結婚(伯母にとっては再婚か)したのかも知らない。どこかのほのんとした、とぼけた雰囲気がある伯父だったが実はアルコール中毒気味で伯母も苦労したらしい。しかし2人は子どもから見ればとても仲がよく、冗談をポンポン言い合いながら和やかな関係に見えた。


そんな伯父もある日路上で倒れて急逝し、以来伯母は1人で暮していた。すぐ近くにもうひとりの伯母がおり、一緒に暮そうかという話もあったようだが、いくら仲がいい姉妹でも一緒に暮せばしないでいい気遣いもすることになる云々で1人暮らしを選んだようだ。そして、ビルの清掃のパートをしながらひっそり暮していた。もともと身体があまり丈夫ではない人だったようだが、我慢強く愚痴を言わない人だった。話をすれば明るくユーモアがあり、ほろ酔い加減になると毒舌が炸裂したりして私たち姉妹にとっては楽しく明るい伯母でもあった。


身体がついていかなくなるまで伯母は清掃の仕事をやっていたようだ。仕事が丁寧で愛想がいいというわけでもないのに気に入られ、掃除に入っている会社の社員には「おばちゃん!」と呼ばれて親しまれていたようだった。仕事はつらかったのかもしれないが、そうした軽い言葉のやりとりを伯母も楽しんでいたのではないだろうか。何度も手術を受け入退院を繰り返し、晩年はヘルパーの扶けを借りながら暮していたがついに入院したと聞いた時、私は急いで病院まで行った。肺ガンだったことは前々から知っていたが、年齢的に進行は遅いと医師からも言われており自宅静養していたが、ついに入院しなくてはいけないくらい病が篤くなったのだ。


京急沿線の小さな病院の6人部屋に伯母はいた。痛み止めのためモルヒネが処方されていたようで、少し頭がぼんやりしていたようだった。それでも、いつものような口調でゆっくり話し、笑顔も見せてくれた。そして何を思ったか急に写真を撮ってほしいと言い出した。偶然私は小さなカメラを持っていたので(当時はでかける時は常に携帯していた)、伯母の希望を叶えたくて写真を1枚撮り小さなディスプレイ画面で伯母に確認してもらった。写真の伯母の弱々しい笑顔を思い出すと切なくなる。伯母はどういうつもりで写真を撮ってほしいなどと言ったのだろうか。遺影に使う写真が欲しかったのだろうか。後で実家に行ってその話をすると、母から縁起でもないと写真を撮ったことを責められたが、伯母が望んだことをしただけなので私は後悔していない。


晩年の伯母は、もうオパールの指輪はしていなかった。いつから身に付けるのをやめたのだろうか。しかし伯母のことだから、どこかに大切に保管していたに違いないのだが・・・あの指輪はどうなってしまったのだろうか。遺品整理にはもう1人の伯母と母、妹が出かけていったはずなのだが、指輪については何も言っていなかった。親族が遺品として欲しいものを選んだ後は業者任せにしたらしいので、業者に処分されてしまったのだろうか。


およそ贅沢らしい贅沢はしない伯母だった。指輪を自分で買ったとは思えない。誰から贈られた指輪だったのだろうか。詮索するつもりはないが少し気になる。が、伯母にも自分の中に秘めた様々な思い出があったのだ。謎は謎のままにしておいた方がいい。そう思うことにした。

 

*写真は指輪ならぬオパールの帯留。ヤフオクで格安購入(3000円くらい)。

*古いもので本物かどうかもわからない。でもいいの。

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「小高へ〜父 島尾敏雄への旅」

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なんだかとらえどころのない本である。その気になれば数時間で読み終えてしまえるほどのボリュームなのだが、読んでいる最中も読み終えてからも、この「とらえどころのなさ」が解消されず、この本について書こうと思いつつ時間が経ってしまった。

この本はどうやら自主企画ではなく、出版社からの依頼で書かれたいくつかの文章(エッセイ?)を改めて1冊の本に編集したもののようだ。著者自身、第六章「琉球旅行」の冒頭で「この作文を私は出版社の注文に従って書きはじめています」と書いている。その注文というのは「ぼくのおとうさんだということになっている、物書きという文章を書いて収入を得る、不思議な職業を生涯の友とした島尾敏雄についての思い出を、何か書かなければならないのですが・・・」ということらしい。またそれに続いて、自発的に書きたいと思っているわけではなく、収入を得たいからというだけだということもすんなりと書いてしまっている。

私の中には「なるほど」と納得できそうな感覚と、たぶん自分には理解できそうにないという感覚がないまぜになったような状態で存在しており、どこか居心地がよろしくないというか妙な気分を感じている・・・としか今は言えない。

ただ、これだけは言えると思えるのは、著者が幼いころから受け続けてきたであろう様々な精神的な傷は相当根深いということだろうか。また、当たり前のことだが著者は両親からその気質、性質・・・考えようによってはどこか狂っていると思われてもしかたない性質・・・を確実に受け継いでいるであろうと感じる。それらから生まれたものだと思えば、この本から受ける「とらえどころのなさ」もある程度納得できそうな気もしている。

「死の棘」を読めばわかることだが、著者とその妹は二人の異常な夫婦の子として幼いころからさんざんな目に遭ってきた。幼い者は幼いなりに自分を守ろうとする。自分を守るためには、現実からあえて目をそらすことも必要だっただろう。目の前で父と母がとっくみあいをし、父が首を吊ろうとすれば母が寝ている子どもたちを呼んで「お父さまが死のうとしている」とそれを見せ、怒鳴ったり喚いたり泣いたりしている両親の姿を日常的に見せられれば・・・それは大きなトラウマとして残るであろうことは容易に想像できる。

著者は両親を憎みつづけたであろう。親を憎まねばならないというのは残酷なことだ。しかし子どもは親を完全に憎みきることはできないだろう。心のどこかで求め、愛されたいと願うだろう。憎しみと愛情の相克を幼いうちに知ってしまった、ということはひとつの悲劇だと思う。

最も印象的だったのは最終章である「骨」だろうか。島尾敏雄が死んだ時、著者は友人の結婚披露宴に出るため香港にいたという。そこに父の臨終を知らせる電報が届き、母の様子やあまり身体の自由がきかない妹の様子などを想像し心配する。が、電話で母の声を聞きながら、葬儀が終わるころに到着する方が面倒でなくて良さそうだと思う。

披露宴を終えて帰国、鹿児島・宇宿の家へ向かう。父は書庫で本の整理をしていた時に倒れたといい、母はその時の様子を真似てみせる。その時は父の書庫であったところに母が着物を入れてあるタンスを置きたいといいだしたので、父が寒い場所へ本を移動させていたらしい。その家に引っ越してきた時から、「おとうさんとおかあさんの世界が混同しないように」一階にはおかあさんのものだけ、二階にはおとうさんと妹のものだけ、というように分別していたのに、一階には着物だけ置いておける六畳の部屋だって確保してあったのにそこはゴミ箱みたいになっていた。著者は「おかあさんの侵食力が無限大であること」をあらためて知らされることになった。

家に代えれば、母の命令には絶対に服従しなくてはいけなかったようだ。頭に包帯を巻かれた父の鼻の穴から血が出てくれば、母は拭けと命令する。「お父様、伸三ですよ」と父に語りかけ、「伸三、何か言いなさい」と命令する。しかし著者は何も言えず父を見ているだけしかできない。父の顔に絶望の気配が漂っているのが分かったという。脳内出血で倒れたらしいが、母が執拗に頭蓋骨を開ける手術を望んだため死ななくてもいいのに死んでしまったという人もいたらしい。父の最後の言葉は、「ミホ、もういやだよ」だったそうだ。

父の様子があまりに痛々しく惨殺されたように見えたので、母はだれにも見せてはいけないといい、その言いつけに従って著者、著者の妻である「登久子さん」、娘のマホの3人で棺を見張った。血がついたティッシュは母の監視下、台所のガスコンロで焼いたが1枚だけこっそりポケットに隠し、数年後福島の記念文学資料館に渡したという。

葬儀が終わって遺骨を持ち帰ってきてからも母の命令は続く。畳の居間に新聞紙を敷き、ふたつの骨壷から焼いた骨をそこに広げる。なぜ骨壷がふたつかというと、きれいに残った骨とそうでないものを別々にするため母が希望したからだ。骨を壺に入れる時も母は係の人に「あの骨を入れろ」「もっと大きいのが残っている」などと細かく命令していたらしい。そしてもう一つ骨壷が必要だと言い出し、葬儀社の人に持ってきてもらったのだ。

新聞紙に骨を広げると、著者はかたちのいいものだけを綺麗な骨壷に入れ、悲しんでいるふりをして大きな骨をガリガリと食べて見せる。妹も迷わず泣きながら食べる。母は一瞬ギクッとした表情を見せた後、嫌そうに小さな骨を食べる。かくして綺麗な骨壷は「おかあさんのもの」になり、粉々の骨が入った白い骨壷は墓に入れるものとなった。著者は白い方の骨壷を持って福島県相馬郡にある「小高駅」に降り立つことになった。

骨の整理をした後も母の命令は続くのだが、もう書くの飽きてしまった。とにかく異様な母親である。その異様さは、たとえば若いころであれはある意味で美しく見えることもあったのかもしれない。しかし、葬儀後の行動を見る限りただ単に異様であるとしか思えない。そしてまた思う。異様でありつづけるにもエネルギーが必要であり、たとえば先に書いた「ドルチェ」に出てくる衰えた姿はすでにエネルギーが枯渇してきたことによるのかもしれない、などと。

父も母も妹ももうこの世にはいない。著者にとっての家族は、優しい登久子さんと娘のまほだけだ。現在はどのような暮らしをされているのだろうか。写真家としての活動は続けられているのだろうか。娘である「しまおまほ」さんは漫画家になったらしいがまだ作品は見ていない。それにしても、母「みほ」と妹「マヤ」から一字ずつもらったとしか思えないその名前のことを思うと、やはり著者は家族からの呪縛から解き放たれてはいないのかもしれない、いや自らその呪縛を選んだのかもしれないと思えてくる。

*釜飯、食べる前に写真を撮っておこうと思っていたのにー

*気づいたらもう半分くらい食べていた。これだもんなー

*昨日、iPhoneの写真の焦点が合わなくなってしまいやや焦った。

*サポートの電話予約をしたのだが、何度目かの再起動で元に戻った。

*とりあえずよかったが、新しいものってこれだもんなー

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碓氷第三橋梁

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天気が少し心配だったが、昨日は群馬方面に出かけてきた。目的は2つ。まずは以前から「また食べたい!」と思っていたおぎのやの「峠の釜飯」を買いに行くこと。もうひとつは通称「めがね橋」として知られている碓氷第三橋梁を見に行くこと。

釜飯は今まで何度か食べたことがあるが、ここにきて急に食べたくなった。前に食べたのは直近でも10年以上前。当時今より元気だった家人がバイク(スーパーカブ)であちら方面に行った時に3人分担いできてくれたのだ。ずいぶん重たかっただろうと思う。小学生だった息子は大喜びで、あの器もしばらくは家にあった(引っ越しの時に処分した)。

約55年前駅弁としてスタートした「峠の釜飯」もかなり有名になったようだ。本店には観光バスが数台注射しており、売店には中国の方々が・・・釜飯を2つ買って長居は無用とばかりに店を出た。次はいよいよ「めがね橋」。家人はあのあたりに詳しいらしくあっという間に到着。

いやぁ、久しぶりにスケール感のあるカッコいい建造物を見たというのが第一印象。レンガ作りのアーチが美しく見とれてしまった。到着前に昔の隧道跡と思われるものも見かけたが、この橋は昔、信越本線・横河駅〜軽井沢駅を結ぶアプト式鉄道の橋として作られた。現地にあった解説看板によると「旧信越本線の碓氷第三アーチ」という名称になっており、建設は明治25年12月。設計はイギリスのパウエル技師と古川晴一技師。「碓氷の峻険をこえるため、ドイツの「ハルツ山鉄道」のアプト式を採用」とある。全長91m、川底からの高さ31m、使用されたレンガは約200万個。ひえー!

現存するレンガ造りの橋の中では国内最大級とのことで、1993年「碓氷峠鉄道施設」として国の重要文化財に指定された。2007年にはユネスコの世界遺産の登録を目指したらしいが、今のところ暫定リストに入っているだけのようだ。すぐ近くまで行くことができて嬉しいのだが、それゆえレンガの橋脚に自分の名前などを刻む不届者がいて対処に苦労しているらしい。けしからん!

昨日は下から橋を見上げただけだったが、横河駅から「アプトの道」という廃線を利用した遊歩道が整えられており、橋の上を歩くこともできる。帰宅して調べてみたら、「碓氷峠鉄道文化むら」というテーマパーク(?)があり、トロッコ列車も運行されているようだ。私はいわゆる鉄ちゃんではないが、鉄道の旅は好きだし車両を見るのも好き。春か秋、気候のいい時にぜひ行ってみたいと思っている。

「めがね橋」を見た後、霧積温泉の周辺に行ってみた。霧積といえば、そう「人間の証明」に出てくるあの霧積である。細い山道をくねくね登り辿りついたのが「秘境の宿」ともいえる「金湯舘」・・・のはずが、昔あったらしき建物がない!と思ったらなくなっていたのは「きりずみ舘」という建物の方で「金湯舘」はまだ営業しているようだ。が、どこにあるのかわからなかった。

あの辺りは明治初期に温泉旅館が季節営業をはじめてから政治家や文化人が訪れる避暑地として知られるようになったという。勝海舟、伊藤博文、岡倉天心、与謝野晶子、そしてもちろん西条八十も。しかし、明治43年の山津波で42軒あった旅館が流され残ったのが「きりずみ舘」と「金湯舘」のみになったそうだ。調べてみると「きりずみ舘「は2012年に閉館したらしい。1軒だけ残った「金湯舘」、がんばれ!

「きりずみ舘」跡にはシンボルだっ水車や西条八十の「帽子」が書かれた看板などがまだ残されている。そのうち朽ちてしまうであろうものたちのたたずまいをしっかり記憶に留めておきたい。「帽子」も映画のキャッチフレーズとして使われた冒頭部分しか覚えていなかったが、今あらためて読むとしみじみしたものがある。

 

母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、

谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

母さん、あれは好きな帽子でしたよ、

僕はあのときずいぶんくやしかった、

だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。

母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、

紺の脚絆に手甲をした。

そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。

けれど、とうとう駄目だった、

なにしろ深い谷で、それに草が

背たけぐらい伸びていたんですもの。

母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?

そのとき傍らに咲いていた車百合の花は

もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、

秋には、灰色の霧があの丘をこめ、

あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。

母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、

あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、

昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、

その裏に僕が書いた

Y.S という頭文字を

埋めるように、静かに、寂しく。

(西条八十「帽子」)

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燕子花を見にいく。

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この春ぜひとも行きたいと思っていた展覧会が3つあった。そのうち2つは行くことができたが、あとひとつはどうしようかと迷っていた。根津美術館で開催されている「燕子花図と夏秋渓流図」展である。先だって美術館であんなことがあったので、ちょっと行く気持ちが薄れてきた。燕子花図屏風は根津美術館の所蔵品だし、またいつか見る機会があるかもしれないとも思った。

そんな折、スマホ契約の待ち時間をつぶすために入った大手チェーン古本屋で「芸術新潮」の2005年10月号が目に入った。特集は「光琳の七不思議」。表紙はもちろん、かの燕子花である。うーん、そうきたか。やっぱり行けということなのか。と勝手に判断して昨日行ってきた。

根津美術館はかなり久しぶりだった。改装したのはいつのことだったか忘れてしまったが、前回行ったのは改装前であるからにして・・・調べてみると改装工事は2006〜2009年にかけてなので、10年以上ご無沙汰していたことになるそれはさておき、燕子花図。やはり大きい。近づいてじっくり見て(ガラスごしだが)、離れてじっくり見て、また近づいて・・・を繰り返した。単純化された花の様子や繰り返し表現、リズミカルな配置、等々この絵については様々なことが言われ続け、切手にもなり、何度も目にしているかわからない。だからなのかこれといった感動は覚えなかった。ふーん・・・みたいな?

確かに、熱海のMOA美術館の庭園に再現されている光琳屋敷を見ても、当代きっての洗練されたアーティストであるとは思う。いいデザインだな、色の使い方がいいなぁ、この構図の妙がまた!などは常に感じることではあるが、理由をあげるのが難しい単純な感動とでもいおうか、見た瞬間気持ちの中にぐぐぐっと入ってくるようなものを私は光琳作品からは感じない。

燕子花図屏風は、よく知られているように伊勢物語の東下りの部分に出てくる歌を題材にしているといわれている。教科書にも出ていたような気がするが・・・

からころも着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ

「かきつばた」という5文字を句の上に据えて歌を詠めと言われて主人公の男が読んだ歌として有名だ。その時男は三河の国の八橋というところにいた。そこは水の流れが蜘蛛の足のように四方八方に分かれ、橋を八つ渡してあることから八橋と呼ばれていた。川べりには燕子花がきれいに咲いていた・・・という背景から生まれた歌、ということになっている。ニューヨークのメトロポリタン美術館には燕子花の中に橋がある「八橋図屏風」があり、数年前に里帰りして根津美術館で同時公開された。

「琳派」といえば、たぶんまず思い浮かべるのが尾形光琳だろう。「琳派」だし。伊藤若冲をはじめとする「奇想」の画家にスポットが当てられるようになってからも「琳派」は人気らしく(「琳派」も奇想といえば奇想)、展覧会をやればひどく混雑するのが目に見えているからここ数年は出掛けていない。が、2008年トーハクで開催された「大琳派展」にはかろうじて(!)行ったのだが、そこで私が最も感動したのは本阿弥光悦と俵屋宗達のコラボレーションだった。また、宗達、光琳、抱一が手がけた「風神雷神図屏風」では画面から風神雷神がはみださんばかりに描かれている宗達の作品が一番好き。

そもそも、「琳派」などというが、別の時代に生きた人たちをひとくくりにしたのは後代の人間なのだ。それぞれ私淑というかたちで繋がりはあるかもしれないが、時代の風が違えば人間的な価値観や感性も違う。あまりひとくくりにして考えないほうがいいように思う。そう思いはじめたのには理由があるのだが、それはいずれ。

なにはともあれ、根津美術館は都心とは思えない静かな雰囲気がいい。庭園も季節柄新緑がきれいで、藤が満開。池のカキツバタもちらほら咲き始めていた。次回の展覧会は「はじめての古美術鑑賞〜紙の装飾」と比較的地味なもの。が、ちょっと紙の装飾には興味をもちはじめたところなので機会をみつけてこれまた行ってみたいと思っているところ。

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スカルポーニ!

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今朝何気なくfacebookを見ていたら、サイクルロードレースの写真家・砂田弓弦さんの記事が目に飛び込んできた。なんとなんと、アスタナ・プロチームのミケーレ・スカルポーニが練習中の事故で死亡、とのこと。これからはじまるシーズン、なくてはならぬ人が突然いなくなってしまった。個人的に好きな選手だったのでショック!

詳しい情報が欲しいと思い調べてみると、シクロワイアードの記事にたどりついた。スカルポーニはツアー・オブ・アルプスを総合4位で終えて(初日ステージは優勝)自宅へ戻り、翌朝トレーニングに出掛けてトラックと正面衝突。即死状態だったらしい。事故の原因はトラック運転手の前方不注意だったというからなんともやりきれない。運転手からすれば、たとえ目に入っていたとしてもたかが自転車だと思っていたのかもしれないが、たかが自転車でもプロ選手のスピードは半端ではない。あっという間に近づいてくるのに対応できなかったのかも?あってはならないことが起きたといえばそれまでだが、ベテランで人柄もよく選手からも慕われていた人だけにその死の衝撃は大きな波紋を広げているはずだ。

スカルポーニといえば、昨年のジロ・デ・イタリアでの活躍がまず思い出される。このブログの記事にも書いたが、アスタナのエースであるヴィンツェンツォ・ニーバリの最終アシストとして大活躍したことは記憶に新しい。スカルポーニ自身エースになれる力を持っているので、他チームにとっては脅威であっただろう。ニーバリ自身がそれを一番よく知っていたはずであり、頼もしいアシストとして尊敬すらしていたのではないだろうか。

ニーバリが勝った時、自分自身のことのように喜ぶ姿が印象的だった。

今年も好調だったようで、アスタナの現エースであるファビオ・アルが膝の故障でジロ出場を断念したのを受けてエースとして出場することが決まっていたという。アスタナチームがスカルポー二に捧げるムービーを公開しているが、それを見ても人懐こくあたたかい人柄が偲ばれる。

サイクルロードレースの世界では、今までも何度かこのような悲劇があった。レース中の事故で死んだ選手もいるし、マルコ・パンターニのように自殺に近い死に方をした選手もいる。スカルポーニもその中に入ってしまったわけだが、37才のベテランの死は非常に重いと言わざるを得ない。ご冥福を祈る。

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本がなくては・・・

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私の人生に必要なものを3つだけ挙げろ、と言われたら「本・猫・植物」と答えるだろう。もちろん暮していけるだけの金がなくては生きていけないわけだが、そのような現実的なことではなく所謂「心の支え」として必要なもの、という意味において。気の置けない友人がいれがなおよいが、いなくても上記の3つがあれば元気に生きていけそうな気がする。

さほど読書家というわけでもなく、系統立てて読むこともなく、乱読の限りを尽して今日まで来た。若いころは背伸びして自分には扱いかねる難しい本を読んだりもしたが、そういう本の内容はすぐに忘れてしまう。全く無駄だったかというとそうではないと思っているが、ここ10年ほどは読みたい本を読みたい時に読むことにしており、読んでいて途中で嫌になってきたらさっさとやめる。気が散りやすいので、1冊の本を読んでいる最中に別の本が読みたくなることは日常茶飯事。自ずと平行読みすることになり、だいたい3冊くらいを同時進行的に読んでいる。

読書が好きなだけでなく、私は本そのものが好きだ。だから、読むならやはり紙に印刷された「本」という体裁がとられたものに限る。美しいと思える本に出会うととても嬉しい。つい先頃もそんな本に出会った。その本は自分の本棚から出てきた。

本好きではあるが、延々と増えつづける本をどうにかしなくてはと思い続けている。収納場所には限りがあるからだ。そこで最近は時間をみて本棚を見直し、二度と読まないかもしれないと思える本を中心にどんどん手放すことにしている。手放すといってもなんとかオフに持って行くのではなく、明大前にある小さな印刷屋「七月堂」の古書部を担当している方に送るのだ。会社として応援したい気持ちもあるし、本が好きな人が集まる場所でもあるので、自分の本はそういう人たちの手に渡したいと思うのだ。基本的に寄付というかたちをとっているが、先方では安めながら値段をつけ、金券に還元してくれるので、次回行った時におもしろそうな本を探す楽しみもある。

そこで先日も本棚の前面に並ぶ本をどかして後方の列にある本を見てみた。後方列は古い本が多く、何度も手放そうかと思いつつ残っているものも多い。まず、「春の戴冠」(辻邦生)をピックアップ。この本はいずれまた読みたいのだがしっかりした単行本上下巻は重量感もあり、持ち歩くのにはふさわしくない。家で読むにしても私は行儀悪く寝ころんで読むので持ち重りがする。装丁がきれいなので今まで持っていたが思いきって送ることにした。一応ネットで文庫判が出ていることを確認したので思いきりよく。

「春の戴冠」の横にあった本を見て「あれ?」と思った。こんな本持っていたんだ・・・と。写真の本である。「日を繋けて」(島尾敏雄)。島尾敏雄の本は「死の棘」しか持っていないと思っていたのに。ふーん、じゃ、この際読んでみるかと読み始めたら、なんとない前に読んだ事があるような気がしてきた。

この本は短編集で、タイトルの作品以外に3篇が収録されている。最初のタイトル作品は読み終わり著者のあとがきを読んだら、「日を繋けて」は「死の棘」の第十章に当る、とあった。なーんだ、そうだったか。どうりで読んだ事があるような気がしたわけだ。って、納得していいのか?忘れっぽいことこの上ない。

「死の棘」は続けて書かれたものではなく、島尾が自分の日記を下敷きに断続的に書き続けた短編の集合である。それは知っていたのだが、あとがきを読むまで気づかないとはこれまたうかつなことであった。それにしてもいつ私はこの本を買ったのだろうか。初版で発行は昭和48年(1968年)。よーく見たら最後のページに鉛筆書きの価格が書かれていたので古書として買ったということだ(当たり前。1968年だと私はまだ12才)。前に書いた「ドルチェ」にしてもこの本にしても、頭のどこかに島尾敏雄がいつもあったということなのだろうか。

それはまあいいとして、この本がなかなか美しい。箱から出すと箱と同じ版画が印刷されているが、タイトルと作者名は横書きで金色が使われている。字の部分が少しへこんでいるので活版印刷であることがわかる。施行しは黒でタイトル、作者名はやはり金。裏表紙は黒で発行元である中央公論社のロゴが押されるようにして中央にある。シンプルだが上品で美しい。装幀は誰がやったのか?と思ったら、版画家の駒井哲郎氏であった。なーるほど!昔の本はこの本のように決して派手ではないが、凝った作りのものがあって嬉しくなる。今は経費優先でお手軽な装幀ばかり。

この本は読み終えたらまた本棚にしまって大切に持っていようと思う。いいなぁ、本は。やはり本がなくては生きていけないな。

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BABEL

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スマホ紛失事件(!)でドタバタしていたが、その現場となったのが東京都美術館の「バベルの塔展」。私にしては珍しく会期2日目に行ったのだが、珍しいことをするのはよくないのかもしれない。しかも、その日は「シルバーデー」とかで65才以上は無料。本当に興味を持っているのかどうか分からない高齢者たちが群れを為して押し掛けており、会場に入るまで10分ほど待たされた。別の日にすればよかった、と美術館を入った途端思ったが・・・ふがふが。

この企画展は前々から楽しみにしていた。どこかの美術館に行った時にフライヤーが置かれており、「おお!ブリューゲル!ボス!こりゃ、行かなくちゃ」と思っていた。なので、あんなことはあったが、展覧会そのものは十分楽しむことができたといっていい。

楽しみにしていた、と言ってもブリューゲルやボスについてさほど知っているわけではない。また、ネーデルランド(今のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)の美術についてはほとんど無知といっていいと思う。私はピーテル・ブリューゲルI世やヒエロニムス・ボスが描くなんとも奇妙な世界やそこに登場する「へんなイキモノ」が好きで、実物を見たいと思っただけである。

実際に行ってみると、個性的なネーデルランドの彫刻(衣服の襞の表現!)や、作者不詳の絵画の数々のおもしろさも知ることができたし、イタリアのそれとは雰囲気が違う宗教画を見ることができたし、なによりボスやブリューゲルの本物を見ることができて満足。また、ボスの作品かと思われていたものが実はそうではなく、ボス風に描かれた作者不詳のものが多いことも知ることができた。絵そのものがおもしろければボスの作品でなくても私にとってはほとんど関係ないのだが、一応正確な知識は得ておかないと。

ブリューゲルは美術の教科書などにも掲載されていたと思う。たくさんの農民の姿を描いた作品だったと思うが、そのため長い間農民の暮らしを描いた画家だと思っていた。が、それはごく一部であって、神話に題材をとった作品やボス風の絵画を希望したパトロンからの依頼で制作された作品もあることを知り、俄然興味を持った次第。今回の展覧会にも出されているが、「大きな魚は小さな魚を食う」や「聖アントニウスの誘惑」などの版画はとてもおもしろい。また、思っていたより実物が小さかったが、目玉である「バベルの塔」の緻密さには目を見張るものがあった。

ボスについては、以前から調べようと思っており「ヒエロニムス・ボスの『快楽の園』を読む」という本も買ってあるのだがまだ未読。あの絵に出てくる「へんなイキモノ」(?)がとてもおもしろく、横浜美術館でフィギュアを見た時はよだれが・・・(^^;)

最近展覧会に行っても図録を買うことが少なくなってきたのだが、今回は迷わずゲット。解説はそのうちゆっくり読むとして、今のところは展覧会で見たものを再度じっくり見ている。混雑していたし、「バベルの塔」なんて行列が出来ていて“歩きながら見てください”なんていう条件付きだった。行く日を間違えたのか、それともいつ行ってもあんな感じなのかはわからないが、もう少しゆっくり見られれば最高だったのに。まあ、あんなものかなぁ。

| - | 08:05 | comments(3) | - |
22日は猫に語らせる日・・・4月担当:みかん

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おはようございます。1ヶ月遅れでブログを書くことになった、みかんです。先月はイレギュラーなスタッフが担当しましたが、案外評判がよかったようでなにより・・・でも、最初は反対が多かったんです。前々からカメには「オレを出させろよー」「オレが一番古株なんだからよー」などと半ば脅迫めいた要請があったんですが、みんなに聞いてみると、まめこは「カメはダメ。ちね。」、ふくは「ふくのばんがおくれるからダメだもんね」、ダイスケは「ボク、どっちでもいい」。でも、カメがいうようにあたしたちよりこの家に長くいるし、すみごんが「この家の猫リーダーはみーくん(あたし)なんだから好きなようにしていいよ」って言ってくれたので、カメに譲りました。

カメのブログなかなかおもしろかったようで、あたしも楽しく読みました。でもね、カメったら図々しいんですよ。あたしにお礼も言わず、「おうおう!オレのブログ、人気があるから今度から猫、カメ、猫、カメ、の順番でやろうぜ!」なんて言うんです。あたしは言いました。「22日は猫に語らせる日」っていうことだから、カメは特別出演なのよ、って。カメは不服そうでしたが、「特別出演か。ふーん。それってあれか?大物俳優が映画やドラマに出た時に友情出演とか特別出演とかあるよな、あれか?」って。もう面倒になったから、「そうそう!やっぱり大物はあまり頻繁には出てこないのよ。ここぞ、っていう時にがーんと出てきて目立つ役をやるのよ」って言いました。そうしたら、カメは首を長く伸ばして目を細め、「ふーん。なんかだまされたような気がするけど、まあいいか。今年中にもう一度くらい出させろよ!」と一応納得したようです。ええ、ええ、だましました。でも、だまし方にもいろいろあるんですよね。うまくだませば相手も傷つけないし。

そんなこんなで気苦労が多いあたしですが、このところ体調もよく、ペットクリニックに行くことがほとんどなくなりました。すみごんがあたし用に新聞を敷いたトイレを作ってくれて、こまめに新聞を取り換えてくれるので気持ちよく用が足せるようになったからかしら。

でも、不満なこともあります。あたしはこの1日で15才になりましたが、人間はどうかわからないけれど、猫は年よりになると心細くなって甘えん坊になるんです。ゴンなんかすみごんのストーカーのようになっていました。あたしも、閑さえあればすみごんやおっさんの膝の上に行きたくなります。とくに、すみごんが寒い間来ているふわふわの上着の感触がよくて、すみごんが椅子に座ると抱っこしてもらおうと思って近づいていきます。抱っこしてくれる時もあるけれど、「みーくんを抱っこしていると何にもできないよ」と言って断られたり、少しだけ抱っこしてすぐに下ろされてしまったりします。あと、あたしって爪が伸びすぎているのか、完全にひっこまないんです。で、薄着になったら痛いといって抱っこ頻度が減りました。ペットクリニックに行って爪を気ってもらう?って聞かれたけど、あそこにはいい思いでがないし・・・

あたし以外の面々の近況というと、相変わらずですね、ほぼ。まめこは相変わらずピキピキしていて、時々おっさんに「もうまーちゃんと口きかない」と言われているけど、いざとなるとああいう子ってがっちりしているんです。美味しいものは絶対に逃さず食べるし。ふくは・・・まあ、ふくです。相変わらずゴミ袋は破っているし、買い物袋の中にいれたままになっていた肉はむさぼるし、テーブルの上のものはスキをみて盗むし。口に入るものなら何でも食べてみたいようです。ダイスケは夜の間ケージに入れられて少しかわいそうなんですが、6時前になるとしつこく鳴いてすみごんを起こしています。あいつは若いくせに甘えん坊で、身体をくねくねさせてすみごんやおっさんに甘えています。猫毛で作ったボールが大好きで、狂ったように遊んでいます。

そうそう。先日すみごんがスマホを落としたか盗まれたかしたみたいで、しばらく元気なかったです。おシリのポケットなんかに入れて絵に見とれているからなんですが、すみごんってそういうところがけっこうおマヌケなんです、前々から。新しいスマホを買いに行ったらしいんですが、かなり待たされたってブーブー言っていました。そして帰ってきたら、あれがない、これができない、ぶつぶつぶつ・・・と言いながら奮闘していました。

今日の写真は新しいスマホで撮ったもので、「おお!前のよりきれいに撮れるわ!」と喜んでいました。けっこう単純なやつです、すみごんって。昨日の夜は、突然何かを思いったってバタバタしていたと思ったら「おおお!音楽が聴けるようになったわ!やったー!」などと1人で騒いでいました。

来月は「まーちゃんとは口きかない」と言われながらおっさんに溺愛されているまめこの番です。わが家で一番身体が小さいけれど、毛艶がよくていつも「まーちゃん美人だね」とおだてられています。性格ももう少し美人になればいいのに、ってあたしは思ったりもしますけど。

では、今後も引き続き「22日は猫に語らせる日」をお楽しみに。カメは秋くらいに登場予定です。みかんでした。

| - | 06:45 | comments(4) | - |
人生いろいろ、私もいろいろ

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やれやれ。ふーっ。いやはや。数年に一度の失態を(本当に数年か?)をやらかしてしまった。スマートフォンをなくしてしまったのであーる。

なくしたのは美術館の中。トイレに行った以外は立ちっぱなしだったのでどこでなくなったのかわからない。デニムのおシリポケットに入れたままにしておいたのがよくないのはわかっているのだが、もしトイレで落としたとしたらすぐにわかる(経験者は語る。はい、水没させました)。それ以外でポケットからスマホが出るなんてあり得るのか・・・

展覧会を観て、ああ、よかったなぁとご機嫌になって特設ショップであれこれ買い、久しぶりにガシャポンまでやっていい気分だったのに・・・出口近くにあるスマホ撮影用のセットを撮ろうとした時ないことに気づいた。なんだかおめでたい話。

慌てて一番可能性があると思われるトイレへ急行。自分が入った個室を見たがない。近くにいた係員に言うと、展覧会場入り口のスタッフに言ってくれという。入り口に行って伝えると、今度は防災センターに行ってくれと。防災センターがまたわかりにくい場所で、レストランの従業員が親切にも連れていってくれた。遺失届を出すと、受けとったおじさんがスマホの場合はたいてい見つかるよ、と言ってくれた。が、なんとなく出てこないような気がしていた。そして、私の勘は当ったようだ。翌日電話したが出てきていないという。やっぱりね、がっくり。

ロックがかかっているスマホなど拾っても普通は何の役にも立たない。それ以前に落とした人のことを考えてすぐに届けるのが常識的な行動だろう。それが出てこないという事は、何らかの意図で届けなかったか、あるいはポケットからそーっと抜いたか。しかし何のために?考えてみれば、美術館の展覧会場なんてバーゲン会場に似たところがあり、みな展示されているものに夢中になっているからスリ行為にはもってこいなんだな。今までそんなことはなかったので、全く警戒していなかった。やはりおシリのポケットはダメだな。

一日経っても出てこない場合はもう永遠に出ない可能性が高いと判断し、泣く泣く新しいものを買うことにし、昨日今まで使っていたキャリアのショップに行ってきた。そして、うんざりするほど待たされた。平日の昼間なのに何故あんなに待たないといけないのか。銀行だって今どきそんなに待たせないのでは?と腹立たしかったが、「てやんでぃ!」とやめてしまうわけにもいかずじっと我慢の子。やっとのことで新しいスマホを持って帰宅した。

経験されている方も多いと思うが、これからがまた一苦労なのだ。前に使っていたものがあれば自動的にデータを移行できるのだろうが、それがないものだから自分で一からやらなければならないことが多い。幸い、クラウドにバックアップしてあったデータは同期すればいいので助かったが。自分で入れていたアプリはもう一度ダウンロード、インストールし、IDやパスワードを入力して使えるようにしなければならない。

それがけっこう面倒な手順を踏まなくてはならず、帰ってきてから食事の時間をのぞいて夜遅くまでかかってしまった。それでも解決していない問題がいくつか。

その中で一番大きいのが音楽。iTunesに入れてある曲を新しいiPhoneに同期しようとするとダメなのである。たぶん私が使っているmacのOSが最新のiPhoneには無視されてしまうのかもしれない。しかし、OSをアップグレードするということには慎重であるべきで、今まで意図的にやってこなかった。というのも、新しいOSにするといくつかのアプリケーションが使えなくなる可能性があるからだ。今の環境になれていて、そのまま使い続けたい場合、無闇にOSを上げていくのは危険だと思っている。

しかし、音楽を聴けないのは痛いし、不本意である。仕方ないので普段は使っていないノートブックの方のOSを最新のものにし、再度トライ。お?使えるようになったか?と思われたが、そうではなかった。iTune storeで購入した曲は聴けるが、自分でCDから読み込んだ曲は認識されない(曲名は出てくるが聴けない)。ネットでいろいろ調べてみたがわからないので、Appleのサポートにメールを入れておいた。連絡が来るまで最低3日はかかると思うので、短気な私はかなりイライラしている。

自分ではわからない、無理→サポートを頼んでいるのだからあきらめて待つ・・・となれればいいのだが、今朝もまだなんとか自分で解決できないかといろいろ調べたりして挫折している(^^;) 懲りないヤツ? 

それにしても、やはり環境の変化を楽しめないお年ごろになったなぁとつくづく思う。できるなら、慣れた環境を維持したい、環境に自分を合わせるのが億劫だ、いろいろ調べながら解決していくのが面倒だ・・・そんな気持ちがたとえば10年前に比べたらかなり強くなっていると思う。これでいいのか、よろしくないのか。

そんなこんなで、おもしろかった展覧会の話題は少し先になりそう。いや、展覧会そのものはよかったのだ。が、その後のことがあるので少し落ち着いたら。本についても書きたいことはいろいろあるのだが、それも落ち着いたら(^^;)ということでよろしくどうぞー!

| - | 10:28 | comments(2) | - |
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