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柳家の系譜・・・三三〜小三治〜小さん

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・・・小さん師匠に似ていなくもないアンパンマン・・・

 

系譜というと普通は古い方からの流れということになるのかもしれないが、私はヘソマガリなので・・・というより、昨日「柳家三三独演会」に行ってきたので。

柳家三三さんについては以前も少し書いたことがあったかと思う。興味を持ったきっかけはドキュメンタリー番組「情熱大陸」の動画を見たこと。高校を卒業してすぐに小三治師匠に弟子入りし、若手の中でも注目され続けていた人である。年間430席をこなしたこともあるとのことで(2005年)、芸に対する真摯な姿勢、苦しみながらも淡々とした雰囲気、そして人がやらないものをということで談洲楼燕枝の「嶋鵆沖白波(しまちどりおきつしらなみ)」を三夜連続で演じるという心意気に魅かれた。

三三さんの高座を見るのは二度目だが、本格的な独演会は初めてだった。そのため期待度が高すぎたのかもしれないが、終演後まず感じたのは微かな物足りなさだった。「富久」「堀部安兵衛」の二席だったので、せめて3席は聞かせてもらいたかった。あと、これは人それぞれだと思うが、テンポが速く軽快感があるのだが、私自身が今ひとつついていけなかったようにも感じられた。

しかし、噺のまとめ方はさすがだったし、「堀部安兵衛」といえば忠臣蔵か高田馬場の決闘だと思いきや道場破りに的を絞り込んだあたりなど、やはり曲者なのだろう。圓朝作品もやったことがあるとのことなので、次回はぜひ江戸時代の人情ばなしを聞いてみたいものだ。

「情熱大陸」にも登場するが、私が現在最も行ってみたい、聞いてみたいのが三三さんの師匠である小三治さん。この方のチケットはなかなかとれそうにないのだが、5月に独演会があるようなのでトライしようと思っている。

小三治さんの落語は動画や音源で親しんでおり、あの飄々とした感じ、すっとぼけた感じ、いつ終わるかわからないけれどおもしろい枕、などとても魅力的な方だと思う。「プロフェッショナル」という番組の動画を先ほど見たが、リウマチを長年患っていらっしゃるとのこと。かなりつらい病気だと思うが、そのつらさを全く感じさせない姿は感動的でさえある。

一件くだけたおもしろい人に見えるが、非常に真面目で物事を深く長く考え続ける人のようだ。師匠である小さんに「おまえの噺はおもしろくない」と言われ、何故おもしろくないのか、おもしろいとはどういうことかを考え続け、「芸は笑わせようとすることではなく、思わず笑ってしまうもの」という信念にたどりついたとのことだ。

1939年12月生まれの小三治さん。御歳78歳である。これからいつでも聞けるやとのんびり構えていていい方ではない。チケット発売日をカレンダーにさっそく書き込み、今からやる気満々(^^;)

小三治さんの師匠であった柳家小さんさんも映像や音源では何度も見たり聞いたりしている。あの丸い温厚そうな顔はCMでも見たことがあるし、どことなく親しみやすい雰囲気を持った方だった。が、「名人」というとすぐに名前が挙がる三遊亭円生、古今亭志ん生、桂文楽・・・などなどの方々に比べたら、今一つ派手さがないというか「花」がないというか、そんな印象を持っていた。落語を聞き始めのころは。

しかし、それには柳家が滑稽噺を得意としていることも影響しているのではないかと気付き、「人情噺」の方に重きをおきがちなのは初心者だからだろうなぁと思うようになった。滑稽噺の軽やかな面白みは落語の大きな魅力のひとつであり、それを得意とした小さん師匠の芸を弟子である小三治さんが確かに引き継いでいることを思うと、落語界にとって貴重な方だったんだなと実感するのである。iTunesに入っている「狸賽」でも久しぶりに聞いてみるかな。

| - | 11:26 | comments(0) | - |
乱読月間

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あと1日を残すが、1月ももうすぐ終わり・・・なんと早いことよ。日々の流れの早さを感じるたびに、その中ですべき事を為さず自堕落に甘んじている自分に焦りを覚える。それなのにすぐ、その焦りを忘れ・・・こんな繰り返しでいいのか。いや、よくないに決まっている。だいたい・・・やーめた!(^^;)

例年いまごろの時節は編み物に没頭していることが多かった。まだまだ寒いし、毛糸の手触りが心地よく感じるし。が、今季は毛糸に触れておらず(ほら、寄る年波で手とか目とかがね)、その分の時間を読書に充てているせいか、最近とみに読書量が減っている私にしてはあれこれ本を読んでいる。

読む、というより見る本も中にはあるのだが、それにしても我が乱読ぶりが自分でも不思議だ。その日、いやその時に読みたい本を読むとどうしてもこうなるのだが、人によっては信じられない本の選び方なのかもしれない。

今月をざっと振り返ってみると、月初に円谷幸吉さんのことを書いたので「敗れざる者たち」(沢木耕太郎)が読みたくなり再読。ついでに(?)もう何度も読んでいる「テロルの決算」(同)を読み始めたが途中で別の本に移り・・・その本が何だったのか・・・たしか「きもの」(幸田文)だったか。それと平行して「きもの美」(白洲正子)を読み、少し疲れ始めたら「ポーの一族」(萩尾望都)を一気に読み・・・

PHOTO WEEKのタイトル(「いつもと同じ初春」)を思いついたきっかけである「いつもと同じ春」(辻井喬)を読み、こりゃもう少し知りたいぞとなって「堤清二 罪と罰〜最後の告白」(児玉博)を読んだ。あの一族関係にはまだ興味があったがとりあえず一段落付け、きもの関係のムック本や実用書をパラパラとめくり、「SIMPLE KIMONO」(三原佳子)を見て読んでため息をもらし、七月堂古書部に送る本を探していて目に付いた「チェーザレ」(惣領冬美)を5巻まで読み、「きもの美」を再度読み返し、きものをステキに着こなしている岩下尚史さんの本が気になり「ヒタメン 三島由紀夫若き日の恋」と「大人のお作法」を平行読みし、「見出された恋 「金閣寺」への船出」を読み始め・・・そんな感じ。

今読んでいる本を読み終えても、目の前には「マイルス・デイヴィスの真実」(小川隆夫)、古書で買った「父の肖像」(辻井喬・思ったより厚い!しかも単行本)、「吉備大臣入唐絵巻の謎」(黒田日出男)があり、先日ふと“美しい本とは・・・”などと考えていて本棚の奥から引っ張り出してきた「他者」(ジュリアン・グリーン)、そして昨日本棚にふと目をむけた時にまた読みたくなった「石の幻影」(ディーノ・ブッツァーティ)が控えている。しかも、その時になってみないとそれらの本が読みたいかどうかわからない。あーこりゃこりゃ!

それにしても、本を読まない日はないし、読みたい本が手元にないとひどくイライラするし、もしかしたら私は本がないと生きていけない人間なのでは?と思えてくる。火事などで本をすべて失い、新たな本を手に入れる余裕もなければ読書など頭からすっぽり抜けるのかもしれないが・・・そんなことは絶対にあって欲しくないぞ!

*本の名前がいくつも出てきたので面倒になりリンクは省略(^^;)

*興味がある方はご自分で調べてね。

| - | 07:15 | comments(0) | - |
PAPABUBBLE

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先日行った志の輔さんの独演会は横浜の関内ホールで行われた。開場時間より早くついてしまったので、コンビニに飲み物を買いに行き、さて戻ろうとするとホールの隣になにやら楽しそうな店が!中をのぞくと、宝石のようにきれいなキャンディの数々。PAPABUBBLE横浜店であった。

実はこの店、オープンしたばかりの時に偶然通りかかって中に入ったことがあった。場所をきちんと把握していなかっただけなのだった・・・

PAPABUBBLEはバルセロナ発祥のキャンディショップで、伝統的な飴細工(日本の金太郎飴のような感じ?)でバラエティに富んだ商品を作っている。売るだけではなく、店頭で飴作りのパフォーマンスを行い客の目を楽しませる。見ていると、店員が試食品を持って回ってきたりすることもある。

材料を練るところからはじめて、数種類の素材を組み合わせてどんどん細く伸ばしていく、直径1センチくらいになったらリズミカルにカット。その時までどんな柄のキャンディなのかわからないから見ている方も目が離せない。おもしろーい!そして、店内を見回すと色とりどりのキャンディが気の利いたパッケージに入って並んでいて・・・こりゃ、女子だったら買うでしょ!といった感じだ。

日本の金太郎飴は、見た目は楽しいが味がみな同じ、淡い甘さがあるだけという印象がある。が、PAPABUBBLEのキャンディは思いの他フルーティだったりする。そして鮮やかでカラフル。小さなパックは値段もお手ごろでちょっとしたプレゼントにも向いていると思う(回し者ではないですよ)。

先日は、次の日にMちゃんと会う約束をしていたので、季節限定と思われる「節分」をテーマにしたミニパックを2つ買った(写真右。ひとつは自分用)。すると、なんでも横浜店は5周年を迎えるということで、オマケをくれた(写真左)。太っ腹!?節分のキャンディは、鬼やら金棒やら鬼が履いていると思われる虎柄のパンツやらお多福やらの柄。食べるのがちょっともったいないが、食べちゃうぞ。口に入れるとほろほろと溶けていく食感で、すぐになくなってしまいそう。

| - | 07:43 | comments(2) | - |
遺体ホテル

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ニュースサイトを見ていたら「遺体ホテル」という言葉が目に飛び込んできた。「遺体」と「ホテル」・・・ほとんど関係なさそうな組み合せにぎょっとしたと同時に妙な想像が・・・(^^;)

何らかの事情で誰にも看取られず死んでいった人たちの遺体が・・・時計の針が午前2時を指すと・・・どこからともなくそろーり、そろーり集まってきて・・・古びた小さなビルに音もなく入っていく・・・それぞれの個室に消えていく者、同じくらいの年齢の遺体とひっそり話をする者、落ち着かない様子で廊下をゆらりゆらり歩きつづける者・・・昼までもどこか気味の悪い空気に包まれたこの建物を誰ともなくこう呼ぶようになった・・・「遺体ホテル」。うわぁぁぁ!

悪い冗談はこの辺にして、「遺体ホテル」とは「遺体安置ビジネス」の拠点のことをいうらしい。亡くなった人を火葬や葬儀ま預かるビジネスで最近このサービスが増えているとのことだ。身近な人が亡くなった時、悲しみをおさえてやらねばならないことがある。火葬の段取り。葬儀の手配などだ。葬儀はいらないという人もいるし、最近では直葬や家族葬が増えているとのことで個々のケースによってまちまちだろうが、火葬はそういうわけにはいかない。

私はさほど経験しているわけではないが、主に葬儀社に依頼すれば火葬の段取りも決めてくれると思う。それはいいのだが、亡くなってから火葬の間まで日数がかかってしまいハラハラしたという経験はないだろうか。私は一度だけだがあるのだ。もう30年ほど前のことになるが、義父であった人が真夏に亡くなった。が、火葬まで数日待たされることになり、かなりハラハラしたのだ。自宅に棺を置くスペースがなく、近くの公民館のようなところを借りたのだが生憎エアコンが故障していた!!葬儀会社の担当者がこまめにドライアイスを入れてくれたが、それでも周囲は気が気ではなかったと記憶する。

「遺体ホテル」増加の背景には、住宅事情もさることながら火葬場の不足があるという。火葬待ちの行列状態、というから深刻な話だ。葬儀場で葬儀を営まず病院から直接火葬場に遺体を送る「直葬」の増加も火葬ニーズの増加に拍車をかけている。そこで「遺体ホテル」が登場してくるわけだ。

記事の中で紹介されていた川崎市の施設は、地味な外観の3階建てビルを使って「遺体ホテル」を運営している。10〜12畳の部屋に棺を置く台やテーブルが設置され、横になれるようなソファもあるとのこと。昼夜を問わず故人と面会でき、飲み物などの持ち込みも可能で、利用料は24時間9000円。

川崎市は人口が約150万人だというが、公営の火葬場は二つしかないそうだ。当然ながら火葬待ちは常態化しているが、火葬場の新設には住民の反対が立ちはだかりなかなか解消できないというのが実情のようだ。

亡くなっているとはいえ人間を焼く場所が自宅近くにできたら嬉しくはないだろう。火葬場だけでなく、「遺体ホテル」についても嫌がる人が多いらしい。「死」は誰にでも訪れるものなのに、生きている人間にとっては忌み嫌う対象となってしまう。

しかし、もうそんなことは言っていられないのではないだろうか。高齢化はますます進み、このままでいくと火葬待ちの行列はさらに長くなりそうだ。各自治体のさらなる努力を求めるとともに、私たちもまた考え方を変えていかなくてはならない時期にきているように思う。

遺体が怖い、気味が悪い、という気持ちはわからなくはない。とくに核家族化が進み身近な人間が死に至る過程を見る機会は激減しているだろう。遺体を見ることがとても特別なことになっており、話しかけても答えることのない冷たい身体を突然見せられたら、悲しいと同時にどこか気味悪さを感じてもおかしくはないのかもしれぬ。

しかし私は、以前にも書いたことがあったかもしれないが、「死」は恐ろしいものでも、汚らわしいものでもなく、ごく自然のものだと思いたい。

今まで葬儀場以外で遺体を見たことが3回ある。小学校一年生の時、授業中に呼び出されてみると祖母がなくなったという。迎えに来た母とともに病院に行き、祖母の遺体を見た。やすらかな顔をしていたが、首のところがうっ血したようになっており、かわいそうだと思った。二度目は義父であった人だったが、長々と患った果ての死だったこともあり、本人も看病疲れで倒れそうになっていた義母もこれでようやく解放されるのだ、と思った。三度目は自分の父で、様々な思いを伝えることができずに去っていた父にしばらくの間寄り添いたいような気持ちだったと思う。いずれも「怖い」とは思わなかった。

父は5月に他界したが、火葬まで2日間待たされたと思う。遺体が病院から帰ってきた日、葬儀まで実家に泊まり込むために息子を連れて出掛けていった。息子が父の遺体を見てどういう反応をするか、少し不安だったことを今でも覚えている。大好きだったおじいちゃんが冷たくなって横たわっている。息もしていない。当時5歳だった息子にとってはじめて見る遺体であり、こわがっても仕方ないかと内心思っていた。

しかし、息子はすたすたと父の近くに歩いていき、じっとその顔を見つめ、父のおでこにそっと手を当てた。そして「おじいちゃん、冷たくなっちゃって、かわいそうだね」と言った。「そうだね、悲しいけど、おじいちゃんは死んじゃったんだね。でも、おじいちゃんの心はまだここにあって、見えないけどみんなを見ているかもしれないよ」というと、父に向かって「おじいちゃん、ありがとね」と言った。そして、夜通し線香の見張りをすることを買って出て、幼いのに明け方まで起きていた。葬儀場に運ぶ前日は「おじいちゃんと同じ部屋で寝る」と言い出したので、私と息子が遺体の近くで眠った。

「死」のとらえかたも、親の考え方次第だとその時思った。そして、人の死を考えることは自分の死を考えることにもなる。「遺体ホテル」でじっくりお別れができてよかったという人たちはそれでいいと思うが、火葬待ちのため何日もビルの中に置かれたままの遺体のことを思うと、やはり悲しくなる。火葬場の新設は、やはり必要なことだと思うので、もし私が住むところの近くにできるという話が出ても反対はしないつもりだ。

| - | 10:04 | comments(0) | - |
たっぷり、志の輔

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昨日は昨年から待ちに待っていた「志の輔らくご in NIPPON」の日。昨年まで11年間、毎年恒例の1ヶ月公演「志の輔らくご in PARCO」があったのだが、パルコが建て替えとなり今年は志の輔さん自身が“お礼参り”として全国12都市を回るという企画になった。その10番目の都市が横浜だったので、チケット発売開始日にがんばって予約したのだった。

志の輔さんの高坐を見るのは本当に久しぶりだ。もっとちょくちょく行きたいのだが、なにせチケットが取れない。今まで何度かトライしたがとれず半ばあきらめかけていた。地方都市ではどうかわからないが、とくに東京、とくにパルコのチケットは取りにくい。今年はなんと12都市の中に東京がはいっておらず、それが幸いしたのかもしれない。

演目は「質屋暦」「モモリン」「紺屋高尾」。途中休憩を15分入れてほぼ3時間、久しぶりに“たっぷり”志の輔さんの高坐を楽しんできた。落語(落語だけではないのかもしれないが)で噺家が登場した時、“待ってました。たっぷり!”という掛け声がかかることがある・・・らしい。私は実際聞いたことがないが、一年に一度でいいから、志の輔さんをたっぷり見て、聞いてみたいものだ。

「質屋暦」は以前にも聞いたことがある。他の人のものだったかとも思ったが、調べてみるとこの演目は志の輔さんの新作落語(オリジナル落語)。ということは、以前どこかの独演会で聞いたのだろう。明治時代に旧暦を新暦に変えたことに関する蘊蓄を枕にし、質屋から大工道具を出したい夫婦と暦が変わったことを悪用してもっと金を取ろうとする質屋のやりとりがおもしろい。

明治政府が1年が13ヶ月あった旧暦(天保歴)から12ヶ月の新暦(グレゴリオ歴)に変えたのは、月給制度にした官吏(公務員)の給与を少なくするためだったらしく、背景には政府の財政難があったということだ。政府にとっては都合のよいことであっても、世の中、とくに庶民は混乱した。旧暦の明治5年12月2日は新暦でいうと1972年12月31日になる。そこで政府は明治5年12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日にしたのだが・・・こりゃ、混乱するのは必至だろう。その混乱に理不尽さを感じる大工夫婦と混乱を利用して儲けようとたくらむ質屋。ちょっと理屈っぽい演目ではあるが、それを芸が忘れさせてくれる。

「モモリン」も新作で私は初見であった。志の輔さんの新作は「みどりの窓口」をはじめおもしろいものが多く、古典とは全く違う魅力を持っている。性別、年齢、立場などにより人間が見せがちな態度、発しがちな言葉などが巧みに盛り込まれ、ひたすらおもしろおかしい。「モモリン」はゆるキャラの名前で、何の気なしにモモリンの頭部を被ったはいいが脱げなくなってしまった市長の困惑ぶりに会場は笑いの渦。いやぁ、笑った、笑った!

「紺屋高尾」は古典の名作のひとつで、今までいろいろな噺家のものを聞いた。志の輔さんの「紺屋高尾」もかつて聞いたことがあったかもしれないが、昨日は枕なしでいきなり噺に入るという大胆さが印象的だった。座布団に座り、扇子を前に置いて深々と頭を下げ、頭を上げ終わる前からいきなり噺がはじまった。

紺屋の職人である久蔵がはじめて吉原に行った折にかいま見た「花魁道中」。その中でもひときわ美しかった高尾に一目ぼれし、寝込むほどになる。昨日の噺はそこから始まった。一途な久蔵にほだされて、親方は3年身を粉にして働き給金をためれば高尾に会えると言ってしまう。その言葉を信じて久蔵はひたすら働き金を貯める。そして3年の年月が流れる・・・久蔵の一途さ、親方の人情、そして高尾の心意気。江戸っ子がいかにも好きそうな噺だと思う。

枕で当時の吉原の話をする人も多いこの演目を、志の輔さんはいきなり始め、所々に笑いをまじえてダイナミックに演じた。ひたすら人情噺として演じられることも多く、それはそでいいと思う。しかし、何度かそういった噺を聞いている身としては、昨日のような「紺屋高尾」は新鮮味があっておもしろい。円熟の域に達しかけた人ならではの自在さゆえだろうか。

| - | 09:47 | comments(0) | - |
宅配便問題

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今年に入ってから、宅配便の遅配が何度かあった。遅配といっても「午前中指定」だったものが午後1時くらいになった程度のことなので、さほど目くじらを立てるつもりはない。が、今まであれほど指定した時間帯にきちんと届いていたのに・・・と訝しく思い、最近ちらほら耳に入ってくる運送業界の慢性的な人手不足を思い、利用者も意識を変えなくてはいけないのではないか、と思った。

何度も放映されているので見た方も多いと思うが、例のアレ、宅配便のドライバーが荷物を投げたり蹴ったりしている動画には正直驚いた。中味は大丈夫なのだろうか、常習的にあんなことやっていたのだろうか、等々。いかにもひどい行為で、あの業者はもともと信用していないこともありわが家では「ぶんなげ便」とか「けとばし便」などと呼んでいる。同じ会社にいても、真面目に辛抱強く仕事をしている人もいるとは思う。そういう人には申しわけないが、一度こういったことがあると世間はそんな目で見るものなのだ。

あの動画が話題になった時、一部のマスコミでは再配達率の増加により人材不足に拍車がかかり、それがドライバーに心理的なストレスを与えていることが取り上げられていた。確かに普通は一度で済むことが二度三度と繰り返さなければならなかったら、イライラするのも理解できる。だからといって荷物を投げたり蹴飛ばしたりするのは論外の行為だが、利用者の方にも問題があることは明らかだと私も思う。

私自身、ネットで買い物をすることが以前に比べてかなり多くなっている。Amazonなんてヘビーユーザーかもしれない。今はたいてい受け取りたい時間帯を指定できるから、家にいる可能性が高い午前中を指定することが多い。配送日もわかっているので、自分が指定した時間帯には在宅するようにしている。たまに、どうしても出掛けなくてはならない用事が急にできて再配達を依頼することがあるが、そんな時は本当に申しわけないと思い、届けてくれたドライバーには「お手数おかけして・・・」と謝る。私が住んでいるマンションはドライバーにとってもけっこうやっかいな建て方(階段多い、エレベーターない、等々)のでなおさら申しわけなく思うのだ。

しかし、世間にはあまり考えずに配達時間を指定し、それを忘れて出掛けてしまう人も一定数いるようだ。悪気はないにしろ、そんないいかげんな行為が宅配業界で働く人たちに悪影響を与えているとしたら、やはり責任は利用者にもある。しかし、いくら利用者へのモラルアップを呼びかけても、根本的な解決にはならないような気がするので、再配達の有料化について私は基本的に賛成だ。

配達時間を指定できないものはのぞくとして、自分で指定した時間帯に在宅せず再配達を依頼する場合は有料。再々配達はさらに有料。こうでもしないと、わからんヤツにはわからん!というのは乱暴だろうか。また、物を売る方もコンビニ受け取りなど再配達を少なくする選択肢を積極的に増やしてもらいたいものだ。

だいぶ前のことになるが、例の「ぶんなげ便」の会社について冗談とも皮肉ともいやがらせともいえるような噂を耳にしたことがある。当時その会社のドライバーは常に走っていなければならず、体育会系の人でなければ勤まらないのではないかと思っていたが・・・「(会社に入って)3年経てば家が建つ。5年経てば墓が立つ」という噂だった。それだけハードな業務だということだろうが・・・

客というのは勝手なもので、金を出したんだから何をしても許されると思っている人が少なからず存在していると私は見ている。しかし、売買は「取引」であり、その間を取り持つ人たちは両者に振り回されがちであることも忘れてはいけないと思う。いつになく余裕のない表情のドライバーを見て、どうにかしないと!と思う今日このごろ。

| - | 06:33 | comments(2) | - |
動物プロダクション

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もはや知っている人も少ないのかもしれないが、広告業界には「3Bの法則」なるものがあった。3つのBを使えば人の目を引きやすく好感度も高くなる、というものだ。3つのBとは「Beauty(美人)」「Baby(赤ちゃん」「Beast(動物)」で、この法則は今でも通用していると思われる。

人間の「美人」については時代とともに見方が変わる。また人によって微妙に感覚が違うから一様にこの人が「美人」であると断定するのはなかなか難しい(平均的な、無難な、典型的な「美人」というのはあると思うが)。「赤ちゃん」は確かにかわいらしいが、不妊に悩む人にとっては見るのもつらいものになりかねない。その点、「動物」は現在のところ最も魅力的な「道具」として使われているような気がする。

千葉の動物プロダクションで、経営者を含む2人がライオンに噛まれて重症・・・というニュースが流れた。有名な白い犬もこのプロダクションに所属しており、タレントリスト(タレント!!)、クライアント、出演作品などを見ると錚々たる企業が名を連ねている。それだけの実績があるということなのだろうが、ライオン、パンサー、イノシシ、オオカミまでいるとは思わなかった。それらの動物たちを「調教」し、“クルーの方々の安全をも守りながら100%の演技をご提供”するというのだが、このPRにははっきり言ってムカついてしまった。

家畜としての歴史が長い犬や猫ならいざ知らず(猫の「調教」は難しいだろうなぁ)、野生を強く残す動物たちを「調教」し商売道具にするのは人間の傲慢さ以外の何ものでもないと思う。しかも「100%の演技」ときたもんだ。「演技」なんぞ人間だけがやるもので、動物たちにやらせるものではない、というのが私の持論なのである。「演技させられている」ことが透けて見えた時点で、その様子がどんなにかわいらしくても単純に「かわいい!」と喜ぶことなどできぬ。

噛みついたライオンは体調が悪く隔離していたという。それなのに仕事に連れ出すため身体を洗っていたという。いつもしていることなのだろうが、ネコ科の動物が水を嫌うことはほとんど本能であり、普段は「調教」の効果があっておとなしくしていたのかもしれないが、不調の時には人間だって「地」が出るものだ。虫の居所が悪かった、では済まされないことだと思う。

絶滅の危機に瀕している野生動物が増え続けている。それは主に人間が増え、欲を出した結果に因ると私は思っている。野生動物を商売道具にしている人々も欲を出した人間たちの一部だ。そして、100%かどうかはわからぬが「演技」している動物たちを見て喜んでいる人たちが大勢いる。

野生動物は「自然」の一部だと思う。「自然」には決して犯してはならないところがあると思う。「自然」とともに生きていくのであれば。どこまでが許されてどこからがダメなのか・・・それはなかなか難しい問題ではあるが、私たち1人1人がきちんと考えなければならないこと。海外の動物愛護ぶりを行き過ぎだと非難する前に、自分たちのことを省みなければならないだろう。

話は変わるが、白い犬の件で思い出したことがある。こんな話を聞いたのだ。ある家の女の子が「白い犬」が欲しいと言った。父親はペットショップで白い子犬を買ってきた。女の子ははじめのうちとてもかわいがった。が、ある時、「もう、この犬いらいない!」と言い出し見向きもしなくなった。邪魔者になってしまった白い犬を父親は捨てた。女の子はなぜあんなに欲しがった白い犬なのに「いらない」と言ったのか。「だって、この犬ちっともお話しないんだもん」・・・やれやれ。

| - | 07:36 | comments(5) | - |
「フローラ逍遥」

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明大前の七月堂・古書部にはなかなかおもしろそうな本がある。インスタグラムで見かけて欲しいと思い、先日手に入れたのが「フローラ逍遥」(澁澤龍彦)だ。函に印刷された椿の絵が美しく、こういう本は図書館で見るだけでは満足できないだろう。所有欲をそそる本である。

澁澤氏の著作というとサド公爵がまず頭に浮かぶ。いわゆる異端者にスポットを当てた作品が多いという印象で、この本もどこかペダンティックな香りのする本なのかなと思っていた。が、読み始めてみるとそのようなことはほとんどなく、ヨーロッパを旅行した時のことや幼い日のことなどが綴られている。雑誌「太陽」に連載されていたとのことなので、編集方針とのかねあいかもしれないが。ちなみに連載時のタイトルは「弄筆百花苑」。「弄筆」とは「文章を必要以上に飾って書くこと」という意味だそうで、そうなると私が読む前に想像していたこともあながち全くはずれているわけではないのかも?

この本の魅力は、澁澤氏も「あとがき」に書かれているように、掲載されている絵の美しさにある。澁澤氏がとりあげた25種のフローラの絵は、植物愛好家である八坂安守さんという方が蒐集した内外の植物図譜で貴重なものとのこと。それは見ただけでわかる。そしてありがたいことに、巻末にそれぞれの図譜の解説が添えられている。植物好きには嬉しい配慮だ

たとえば、函の椿の説明は以下のとおり。

サミュエル・カーチス『ツバキ属の研究』(Samuel Cutris;A Monograph on Genus Camellia,1819)の中の一図(銅版手彩色)で一重のツバキを描いたもの。カーチスは「C.B.M」の創始者ウィリアム・カーチスのいとこで後に養子となって事業をひき継いだ。1801年から46年までの「C.B.M」は彼によって発行が続けられた。彼は本書の他に『美花選』(「チューリップ」の項参照)も刊行しているように植物学者であるとともに出版人でもあった。『ツバキ属の研究』は大型フォリオ判(70×57cm)の豪華本で一図の中に数種の園芸品種を入れたものが五図収録されている。図は『美花選』と同じくクララ・マリア・ポープ夫人(Clara Maria Pppe,1760?〜1838)によって描かれた。両書とも図は正確さ精密さよりも、多くの花を集合的に描いて豪華さを感じさせるものとなっている。本書はツバキの図譜としてはごく初期に属するもので、ツバキ研究の貴重な資料とされている。

どうですか、この詳しさ。ちなみに「C.B.M」とは「Curtis Botanical Magazine」のことで、カーティス氏については薔薇の勉強を少ししている方ならおなじみだと思う。

澁澤氏の洗練された文章と美しい図譜、そして丁寧な解説。この本は3つの「読書の愉しみ」を含んでいる。手に入れてよかった!

*「フローラ逍遥」は新書判でも出ている。

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| - | 08:47 | comments(6) | - |
漢字は難しい。でも、おもしろい。

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・・・玉にある漢字が読めない。日本では使われない漢字?・・・

数日前facebookで漢字にまつわるトピックを見た。テレビのクイズ番組によくあるような問題で、漢字の読み方を当てるものである。特別漢字に詳しいというわけではないが、なにせ文章にかかわる仕事をしてきたのでとりあえずトライ!まあまあ読めたが、全問正解というわけにはいかずちょっと悔しかった。

問題は、読み方に「た」からはじまる動詞。出所はこちらで、正解は、ここでわかる。

蓄える 窘める 嗜む 讃える 棚引く 誑かす 盾突く 束ねる 黄昏る 弛む 戯れる 奉る 耕す 魂消る 手向ける 滾る 頼む 頼る 扶ける 辿る 尊ぶ 斃れる 躊躇う 揺蕩う 戯ける 畳む 佇む 平らげる 質す 訊ねる

読めなかったのは「窘める」と「誑かす」だ。うーん、不覚なり〜

では、「あ」から始まる動詞は・・・

暴く 商う 抗う 著す 垢抜ける 争う 贖う 溢れる 崇める 糾う 与る 漁る 炙る 中る 嘲る 慌てる 侮る 危ぶむ 足掻く 嘲う 仰向ける 宛てがう 憧れる 倦む 肖る 呷る 誂える 革める 赧める 荒げる(正解は、こちら

うーん。こっちもなかなか難しい。できなかったのは「糾う」「倦む」「肖る」。「た」から始まる動詞についてはキーボードで入力すると変換されるが、「嘲う」「赧める」は変換されなかった(私のソフトでは)。

ずいぶん前から、読めても書けない漢字が多いことに情けなさを感じてきた。手書きで文章を書くことが極端に減ったことが大きな要因だと思われるが、さりとて効率を考えるとどうしてもキーボードに頼りがちになってしまう。手紙などはすべて手書きにしているが、使う言葉はごく日常的な言葉だけだ。それでもふと自信がなくなり調べたりするのだから本当に情けなし。

書けない漢字が多いことはわかっていたが、読めないものも自分が思っている以上にあるんだなぁ、と思い知った。まあ、読めなくてもほとんど困ることはないので、どうでもいいことだといえばどうでもいい。が、この「どうでもいい」ことってけっこうおもしろいのだ。

ふと、こういった問題を全部クリアする人ってどんな人だろう、と考えた。本をたくさん読んでいる人?教養が深い人?問題集で鍛えている人?いったいどんな人たちなのだろう。

私は割と本を読む方だと思うが、最近は読めない漢字が出てきても「あとで調べよう」で済ませてしまい、結局読めないままになっていることが多くなってきた。とくに寝る前は手元にメモも付せんもないので、明日調べようと思っても翌日になると忘れていたりする。いかん、いかん。

漢字が自在に読めたからといって別に偉いわけでもなんでもない。が、漢字というのはそれぞれに込められた意味があり、けっこう奥が深いものだと思う。自在に読めて自在に使えたらかなりステキだと私は思うのだった。

*「日本語入力・かな漢字変換システム」はFEPと呼ぶのだと思っていた。

*でも、ちょっと違うみたい。Macの場合は「IM」(Imput Method)が適切らしい。ふーん。

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22日は猫に語らせる日・・・1月担当:ふく

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おはよう。ふくだよ。ふくちゃんだよ。おまたせ!

ことしさいしょのブログだから、「あけまして」ってかいたほうがいいんじゃないかって、みかんがいってたけど、もう1がつもおわりにちかいもんね。だから、ふくは「おめでとう」なんてかかないもんね。でも、そのとしのはじめがふくのばんってことは、やっぱりふくがこのうちの「だいひょう」ってことになるもんね。どっちかっていうと、みんなに「おめでとう」っていってほしいもんねー

「おしょうがつ」って、にんげんにとってはちょっととくべつらしいね。ふくたちには、なんにもかんけいないけど。だけど、ことしの「がんたん」は、あさからたいへんだったらしいもんね。なんでかっていうと、あけがた「だいすけ」と「まめこ」がもめたらしいんだけど、そのとき、すみごんのふとんに「まめこ」がう○ちして、そのうえから「だいすけ」がお○っこしたらしいよ。おきたとき、すみごんが「ぎゃー!」っていってたもんね。

そんなこんなで、すみごんは「がんたん」からせんたくすることになったもんね。せんたくきを5かいまわしたんだってさ。おっさんから、「ことしは“うん”がつくかもよ」といわれていたけど、すみごんは「やめれー」となげいていたもんね。ちょっと、おもしろかったもんねー。でも、すみごんは「だいすけ」も「まめこ」もしからなかったもんね。それだけは「えらい」とふくはおもったもんね。

ふくはいつもどおり、げんきだもんね。すみごんが、「けーじ」のうえに「まざーぼーる」をおいてくれたので、「だいすけ」とかわりばんこにつかっているもんね。そこからだと、そとがみえるからおもしろいもんね。ごごからはひがあたるので、あったかくてきもちいいんだもんねー。ときどき「まざーぼーる」のとりあいになるけど、たいていふくがかつもんね。

よるは、あんかをいれた「いぬはうす」にはいるか、すみごんのふとんのなかにはいるか、どっちかだもんね。「だいすけ」が「いぬはうす」にいても、ふくがはいりたかったらおいだすもんね。「だいすけ」はしかたなくすみごんのいすのうえでねているもんね。あいつはきょねんまでそとでくらしていたらしいから、さむさにはつよいとおもうもんね。「おんしつそだち」のふくにゆずるのがとうぜんだもんねーだ。

さいきんのふくの「しゅうかん」は、あさ6じまえにすみごんをよぶことだよ。すみごんは、たいてい6じまえにおきてじぶんのへやにいるもんね。ふくたちのごはんは6じってきまっているから、5ふんまえくらいにドアをあけてさいそくするもんね。すみごんは「ふくちゃん、6じになったらね。もうちょっとまっててね」といってドアをしめるもんね。ふくはかしこいから、ちゃんとまっているもんね。10ふんすぎくらいまでまってもでてこないと、もういちどさいそくするもんね。すみごんがでてきて、「ふくちゃん、ごめん、ごめん、いまいくよ」っていって、「ふくちゃん、やっぱりかしこいねー」ってほめるもんね。あたりまえだもんねーだ。

すみごんは、なんだかんだいってふくにはやさしくしてくれるから、ふくもふとんのなかにはいってあげているもんね。おっさんは、ちいさなふくをつれてきたくせに、ときどきおこるもんね。そいでもって、ふくのことを「でぶ」とか「わる」とか「ずるがしこい」とかいうもんね。ふくは、「でぶ」じゃなくて、なまえのとおり「ふくよか」なんだもんね。「わる」じゃなくて「ほんのうにすなお」なんだもんね。「ずるがしこい」んじゃなくて、「すごくかしこい」だけだもんねー おっさん、わかっていないもんね!

らいげつは、さいきん「ぼやっきー」とよばれている「だいすけ」のばんだよ。あいつは、なにかというとすぐになくもんね。なきかたがぼやいているようにきこえるらしいよ。ふくとおなじくらいからだがおおきいのに、なさけないもんねー でも、さいきんおっさんにかわいがられていて、ちょっといいきになっているところもあるもんね。あまりいいきになると、ふくが「てっけんぱんち」をおみまいするもんね。なんてったって、このうちの「だいひょう」はふくだもんね! おしまい。

*シウマイ弁当の紙紐に異様な関心を見せた、ふく。

*遊ばせていたのだが・・・気づくと紐が・・・ない!

*もしかして、喰っちゃった?

*ちゃんと出てくるかなぁ。食い意地にも程があるぞー

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