CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< October 2016 >>
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

Interior

日々の内側
copyright sumigon all rights reserved
しもやけ&爪対策

16-1031.jpg

10月も今日で終わり。ようやく秋らしい気温が続く今日このごろ、大気が澄んできたのがよくわかって、冬好きとしては嬉しい季節の到来である。

嬉しいは嬉しいのだが、寄る年波を実感する我が身体にとってはいろいろ気を使わねばならない季節でもある。加齢による不具合は人によってまちまちだと思うが、ここ3年ほど感じているのが神経系と皮膚の不調だ。梅雨時にも出がちなのだが、肋間神経痛、座骨神経痛、膝の神経痛が寒くなると少しずつ出てくる。かなり前に骨折した右足親指も時々しくしく痛む。

皮膚が弱いということはなかったのだが、やはりここ数年悩まされることが多い。3年前はやたらと身体中が痒くなって背中をかきこわし、ボロボロ状態になってしまった。もっともそれは春から始まった症状なので気温低下とはあまり関係ないと思う。皮膚科にも行って保湿ローションを処方されたが、皮膚表面の問題というよりも身体の中で痒みを引き起こす物質があばれているといった感覚があった。秋ころには一応症状は軽くなったが、背中の傷跡は翌年まで残り襟ぐりがあいた服を着ることができなかった。

痒みは今のところ治まっているが、次に現れたのが手の「しもやけ」。ここ3年ほど気をつけているつもりなのに何本かの指がやられる。一昨年は右手、昨年は左手が中心。第一関節の部分が赤く腫れてくるだけで痛みも痒みもないのだが、指を曲げると違和感がある。なにしろ見た目が・・・(^^;)

「しもやけ」は気温が上がってくると治ってくるが、やはり痕が残る。今でもよく見ると去年やられた左手の中指、薬指の第一関節部分の色が若干違うのがわかるが、とりあえず症状は沈静化した。が、次なる魔の手(!)は爪に・・・右手薬指の爪がいわゆる二枚爪状態になったかと思ったら、徐々にはがれてきて真ん中にぽっかり穴が空いてしまった(去年)。痛くはないのだが、服を着たりする時に引っかかるので、だいぶ長い間絆創膏を貼っていた。今年、爪が伸びて穴の部分はなくなったが、また二枚爪で先の方からボロボロになり、ちぎれてしまって今は超深爪状態。加えて左手の親指の爪がある日突然反り返ってしまった。「スプーン爪」というらしいが、これにはびっくり。

ただの老化現象なら致し方ないのだが、「しもやけ」のこともあるので今月半ば皮膚科に行ってきた。爪に関しては乾燥が主な原因らしいが、貧血でもそうなるという。加齢もある程度影響しているようだ。「しもやけ」も爪もとにかく保湿し血行をよくするように、とのことでビタミンEとステロイド剤(外用薬)、保湿クリームを処方してもらった。

ビタミンEは去年も処方してもらっており、1ヶ月分出してもらえる。なくなったらまた処方せんを書いてもらえるので、市販のサプリメントより経済的。ステロイド剤も去年と同じ。そして今年はじめて処方された保湿クリームがなかなか期待できそうだ。ヘパリン類似物質が配合されたクリームで、保湿だけでなく血行促進効果があるらしい。

あまりベタベタせず、さっぱりしすぎる感じもなく使い心地はなかなかいい。ステロイド非配合なので一日何回使ってもいいとのことだ。気に入ってたびたび使っていたら、25グラム入りがあっという間になくなってしまった。来月半ばにはまた処方せんをもらいにいくが、それまでどうしようか・・・とネットを探したら似たようなクリームを発見したのでそれを購入。ただし、50グラムで1500円近くするし送料も必要になってくるので処方してもらった方が経済的だろう。次に行った時多めに出してもらえないか聞いてみようと思っている。

保湿は手間を厭わなければできることなのだが、血行促進は体質的なものもありなかなか難しい。手のマッサージはしているが、身体全体の血行促進も必要だろう。とりあえず冷たいものは口にしないようにし、できるだけ身体を動かす!ああ、どうか今年は「しもやけ」さんが来ませんように・・・ニャーメン!

| - | 08:19 | comments(0) | - |
「ありがとう」という思い

16-1030.jpg

若いころは誰の力も借りずに生きているように思い、何かにつけて傲慢な気持ちを持ちがちだ。しかし、年齢を重ねるたびに少しずつ自分の未熟さを知り、人は決して1人では生きていけないということを思い知る。本意であるかどうかに関わらず、人はなんらかのかたちで他人に助けられ、迷惑をかけ、世話になり、躓きながら生きていく。

気持ちであれ時間であれ金であれ、人から何かをいただいた時は感謝の気持ちを持つ。「ありがとう」という言葉はその感謝の気持ちを伝える最も基本的な言葉だろう。だからこそ、ないがしろにできない言葉だと私は思っている。言葉そのものというよりも、言葉に託された「思い」を忘れたくはない。

日本人には、言葉で表現しなくても理解する・・・「以心伝心」という意識があって、それは今なお人間関係の有りように関わっていると思う。しかし、やはり言葉はたいせつで、時には素直に表現していかないと思わぬ誤解を生む危険性もある。家族というごく身近な存在に対しては「言わなくてもわかているに違いない」と思いがちだが、何かしてもらった時には「ありがとう」と気持ちを表した方が円滑な関係を続けられるような気がする。

前にも書いたが、数年前に他界した元夫は、ほとんど「ありがとう」と言わない人だった。もともと無口だったということもあるが、それにしても「ありがとう」を口にしなかった。そんな人ではあったが、死期が近づいてきたときごく自然に「ありがとう」と言うようになった。明らかに人の世話にならなければ生きていけない自分が身にしみたのかもしれないが、言われてみると嬉しいと同時に哀しさを感じたのを覚えている。

少し前のことになるが、ネットで「ありがとう」の反対語は何だと思いますか?という質問を見かけた。何だろう・・・しばらくあれこれ考えたがこれぞといった言葉が浮かばなかった。答えを見たら考えすぎていたことがわかった。語源を考えれば・・・「ありがとう」は「有り難い」から生まれた言葉だから、その反対は「あたりまえ」。なるほど、何があっても「あたりまえ」だと思っていれば「ありがとう」という言葉は出てこないだろう。

なるほどなぁ、そうだよなぁ、と妙に感心していたら、ふとあることを思い出した。1ヶ月ほど前にことだ。

ほぼ同時に2人の方からメールを受け取った。最初のメールは最近お付合いはないが既知のAさんからで、Bさんという方がある件で私に相談があるとのこと。連絡がいくと思うのでよろしく、とのメールだった。ある件の内容については割愛するが、私も何かにつけて気になっていた件であり、役に立てるかどうかはわからないが了解の旨の返事を出した。

翌日、Bさんから連絡が来た。私のメールアドレスを知らないとのことで、un filの商品注文フォームからの連絡だった。相談内容はおおむね聞いていたので、フォームに記載されていたメールアドレスにとりあえず返信した。翌日メールが届き、自分の思いやこれからやろうとしていること、私からのアドバイスなどがあればお願いしたい、等々が丁寧に書かれていた。情熱をもって取り組もうとされているのがよくわかり、なにか適切な意見があればいいのだが・・・と思ったが、けっこう複雑でスケール感のある課題なのですぐには返信できなかった。

いろいろ考えた末、メールをもらった翌日返事を送った。考えられることは多々あったがそれが役に立つかはわからないし、一度だけのメールですべてを語ることも無理だと判断し、課題について私が知っている範囲での情報とBさんがやろうとしていることへの感想、提案を少し書いた。書きそびれたこともあったが、それは今後のやりとりで伝えていけばいいと思っていた。

が、以来何の連絡もなく梨のつぶてである。相談に乗ったことへの感謝をのべてほしいということではないが、せめて私のメールがきちんと届き、読んだという連絡くらいあってもいいのではないかと思った。腹を立てるというほどのことでもないが、丁寧なメールを送ってよこした人なのに、とその後の態度がどうもしっくりこなかった。

軽い相談であれ何であれ、人にものを頼むというのはそれなりに気を使わねばならないことだと私は思っている。だからあなたも、と押し付ける気持ちはないが、Bさんが真剣に考えていることを実現するためには、様々な人と関わっていかなくてはならないはずだ。相談への返信に何も応えないような態度でいるなら、Bさんが情熱を傾けている案件はうまく運ばないような気がする。

しばらくの間「なんだかなぁ」などと気持ちが晴れずにいたが、もしかしたらBさんにとって私からの返信は「あたりまえ」のことで、メールを受け取ればもう用はないということなのかもしれないと思うに至った。そうなれば、こちらも忘れてしまえばいいのである。熱心だっただけに少し残念ではあるが。

子どものころから、母親には「お礼とお詫びはできるだけ早く」と育てられてきた。だから、今でもそれは「あたりまえ」のこととして実行している。お礼はまずメールや手紙で取り急ぎ送る。お詫びも同じ。本来であれば会って直接言うのが礼儀だと思うが、なかなかそういうわけにもいかない。なにかいただいた時は、お礼の言葉はすぐに送り、少し間をあけて気を使わない程度のものを送ったりしている。そのタイミングはなかなか難しく、かえって気を使わせてしまわないかといつも心配になる。

60年も生きていると、世の中「あたりまえ」のことなどそうそうないと思うようになる。いつ何が起きてもおかしくはない。突然の不幸にはひたすら耐え忍ぶしかないのかもしれないが、突然の幸運、幸福には「有り難い」ことだと思いつつ感謝の気持ちを忘れずにいたい。

*それにしても急に寒くなってきましたなぁ。くしゃみがとまらない!(^^;)

*そろそろ、モコモコのスリッパを買わなくちゃ!

| - | 08:24 | comments(0) | - |
ぬいぐるみ好き

16-1029.jpg

ちょっと意外かもしれないが(^^;)、私はぬいぐるみ好きである。ぬいぐるみなら何でもいいというわけではないが、なにかと目が行く。先日家人が北海道に行っていた時、スマートフォンのメッセージで旭山動物園に行ってシロクマのぬいぐるみを買ってきてくれと指令(!)を出した。シロクマのぬいぐるみは数種類あるので(以前行って確認済み)、ネットで欲しいものの画像を探し画像付きで指令発信!

「でかいやつ!」と申し渡したが、特大サイズはけっこう高価なので中ぐらいのサイズのものが家人とともにわが家にやってきた。クマのぬいぐるみというと顔が大きくて目がくりくりしていて・・・というのが多いが、私はリアルなぬいぐるみが好き。写真のシロクマは実物に近い感じてとても気に入っている。実物自体もぬいぐるみのような愛らしい外貌だが、クマの仲間の中でも唯一人間を襲う(他のクマも人間を襲うことはあるがそれは特別なケースで、本来雑食性。シロクマは肉食なので人間も餌のひとつ)とのことなので、人間にとってはたいへん危険な動物なのだ。

思えば子どものころからぬいぐるみが好きだった。人間のかたちの人形(妙な表現だが)には目もくれず、動物のぬいぐるみばかりを身近にはべらせていた。子どものころから人間より動物が好きだったのかもしれない。リカちゃん、バービーなども欲しいと思ったことがなかったなぁ。

小学生の時、お年玉を持って妹と横浜島屋に行き、うす茶色のクマのぬいぐるみを買った。「ペペ」という名前を付けてとても大切にしていた。フェルトで洋服を何枚も作り悦に入っていたが、今から思うとクマのぬいぐるみに洋服は似合わないのだが。寝る時はいつも一緒で妹とぬいぐるみ遊び(?)もよくやった。一度首がスポン!と取れてしまったことがあり、私は泣きながら母に直してもらった。10才くらいの時に買ったものですでに50年が経過しているが、今でも本棚の上にある「ぬいぐるみ入れ」に入っている。ここ数年確認していないので、近いうち出してみようと思っている。

大人になってからはあまりぬいぐるみを買うということはなくなった。子どものころ買ったものも知らないうちになくなったものが多い。しばらくぬいぐるみがない暮らしが続いたが、息子がおなかの中にいたころ玉動物園で買ったマレーグマのぬいぐるみ(たまちゃん)は今でも大切にし、枕の上に置いてある。息子より年上なので、かわいいたまちゃんも27才!

たまちゃん以外にもいくつかのぬいぐるみがわが家にはある。ブランド名は忘れてしまったが、けっこう前に家人が買ってくれたドイツ製のネコ2匹。1匹は「悪い顔」をしていてしっぽがとても長く、もう1匹はたいへん太っている。両方ともチャコールグレーでシックな感じ。値段からしても子どものオモチャらしからぬ存在感がある。

その他は、一昨年だったかやはり家人が旭山動物園で買ってきてくれたカバ、息子のものだったワニ(熱川のバナナ・ワニ園出身)、マグロ(葛西臨海水族園出身)などなど。親に似たのか息子は子どものころぬいぐるみ好きで、いつも枕元に何匹もはべらせていた。外出先でねだられることが多かったが、ワニもマグロも強烈なねだりに負けて買ってやったものだ。

目黒に「Dear Bear」というぬいぐるみ専門店があり、リアルなぬいぐるみがたくさんいる。店名のとおりテディベアが一番多く、たいへん高価なものも珍しくない。そういったものは素材もデザインも一流でマニアがいるのももっともなことだと思える。たまに行っていろいろな動物たちを見るのが楽しみだ。

最近気になっているのが、深海魚類のぬいぐるみ。ダイオウグソクムシの特大ぬいぐるみはついに買わずじまいだったが、先日も葛西臨海水族園のショップで見かけてちょっと食指が動いた。マンボウのリアルぬいぐるみがあったら買ってしまいそうだ。気をつけねば!!

*私が気に入っているリアルぬいぐるみはHANSA社のものだと判明!

*うわぁ!いいなぁ!欲しいのがいっぱい

| - | 08:26 | comments(0) | - |
星野道夫の旅

16-1028.jpg

あれからもう20年も経ってしまったのか。ネイチャー・フォトグラファー・星野道夫さんが、取材先でグリズリー(羆)に襲われ不慮の死を遂げてから。昨日は友人に誘われて「没後20年特別展 星野道夫の旅」を見てきた。

非常に有名な方で様々なメディアで作品が紹介されているが、展覧会というかたちで見たのははじめてだった。やはり対象(主にアラスカの大自然と動物たち)のスケールが大きいだけに、雑誌の誌面で見るのとは格段に違う。大きければいいというわけではないが、ああいった写真はある程度以上のサイズが欲しい。

雄大な風景の中を移動するカリブーの群れ。ただ1頭でたたずむムースには「孤高」という言葉がふさわしい。くつろいでいるホッキョクグマの親子。草の影から顔を出したグリズリー。星野さんんが撮った動物たちの写真には、撮影者の愛情と畏敬の念がある。大きな動物たちだけでなく、足元の小さな草にさえ目を留めた写真家は、本当にアラスカを愛していたのだと感じられた。

そんな星野さんであるから、自然の脅威や野生動物と人間の間に存在する深い溝について誰よりも知っていたはずだと思う。経験も豊富で地元の人たちとの交流もあり、撮影対象の習性にも知悉していたはずだ。そんな星野さんがグリズリーに襲われるとは!と、当時はかなり驚き、どのような思いで最期を迎えられたのだろうと想像した。が、それは永遠の謎なのだろう。

アラスカに本拠を置いての仕事が多かったようなので、どこか世間離れした人なのかと思っていたが、最後の仕事は星野さんがみずからテレビ局にもちこんだものだったという。そして、鮭が遡上する時期のグリズリーは人間を襲わないという考えの元、スタッフたちとは離れて単独でテントを張り数日を過ごしていたらしい。後からわかったことだが、そこへ地元の人が餌付けしたグリズリーがやってきて星野さんを襲った。

スタッフたちの再三の勧めにも従わず単独で行動したとか、自分の考えを曲げなかったとか、死後様々なことが言われたらしいが、真実は闇の中だろう。テレビ局が出した報告書もすべてが本当かどうかわからない。まだ43才だったとは、あまりに若い。

動物の写真以外で印象に残ったのは、アラスカの原住民たちとの写真やクジラ漁の写真だろうか。日に焼けた顔で原住民たちとともに写真に納まった星野さんは、見るからにみなから信用されているといった感じだ。小さな舟に数人が乗り込んで行うクジラ漁は、文字通りクジラと人との戦いであっただろう。浜にあげたクジラの肉を人数分に分け、残った骨は祈りを捧げながら海に還す・・・生きるためにいただいた命に対する感謝の気持ち・・・飽くなき飽食を続ける現代人がとうの昔の忘れてしまったものを突きつけられたような気がした。

トーテムポールの写真もよかった。昔々原住民が作ったトーテムポールは朽ちかけ、あるものは倒れてしまっている。しかし、それらのトーテムポールを見た時、星野さんは霊的なものを感じたという。その気持ちがよくわかるような気がしたのだ。

子どもの頃、私は某大学の広い敷地の中で遊ぶことが多かった。今ではかなり整備され現代的な建物が建っているが、当時はまだ手つかずの雑木林のような場所がたくさんあり、子どもたちにとっては格好の「冒険の場」だった。

足元の草をかき分け、鬱蒼とした森の中を数人の友だちと歩いていた時のこと。倒れてからだいぶ長い年月が経ち苔むした大木を橋のように渡って飛び降りた時、近くに木彫りの顔が落ちていた。丸太を粗く削って作ったような人の顔・・・今思うとトーテムポールの一部だったのかもしれないと思えるようなものだったのだが、私はそれを見て急に怖くなってしまったのだ。

たかが木で作られた、彫刻ともいえないくらい荒っぽい作りのものだったが、魂のようなものが宿っているような気がして怖くなり、逃げるように帰ったことを今でも覚えている。一緒にいた友だちがそれに気づいたかどうかわからない。怖くて話題にもできず、ずっと気になりながらもう一度確認するのも怖くて以来その場所には行こうと思わなかった。

今でも、あれは何だったのだろうと思う。なぜ森の中にあのようなものがあったのか。森とはいえ大学の構内である。大学がその土地を買う前からあったものなのか。いろいろ思い出すと今でも怖さを感じるのだが、それは鬱蒼とした森に1人迷い込んだ時の怖さに似ている。動物に襲われるかもしれないとか、変質者に後をつけられるとか、そういった怖さではない。あたり一面に漂う「気」のようなものに圧倒されてしまうといった感じ。

自然とは本来そいういうもので、人間はその中で本当にちっぽけな存在なのだ。星野道夫さんはそれを身をもって体験し、自然に対して愛着と同時に畏れる気持ちも持ち続けていたはずである。機会があったら、諸作も読んでみたいと思っている。

| - | 09:41 | comments(0) | - |
わるねこ

16-1027-1.jpg

家人の誕生日祝いとして2日遅れで届いたのが、この「わるねこ」。一癖二癖ありそうな顔をしつつ、しっかり招いている。邪悪なものを招いているわけではないだろうが、いろいろ疑ってみるのもまた楽しい。

「わるねこ」は、鎌倉にある「萩工房」から生まれた。いわゆる土産物のひとつだろうが、古布などを使い、しっかり作られている。柄により印象がけっこう違うので選ぶ楽しさもある。調べてみると、なにやら背負っている(「幸せ」を背負っているらしい)猫や立ち上がっている猫などもあり、コレクションしている人もいそうだ。

「萩工房」の招き猫を知ったのはだいぶ前。鎌倉・江ノ電方面のガイドブックの表紙になっており、おもしろい猫だなぁと思った。鎌倉駅の中にある江ノ電ショップにも江ノ電柄の猫があったと記憶している。が、そのまま買おうともせずにいたのだが、家人がバカに気に入っているようなのでこの度探してみた次第だ。

ガイドブックの説明によると、江ノ電極楽寺駅近くに工房と店があるとのこと。小さな写真も掲載されており、それを見て急に思い出した。かなり昔、1人で極楽寺あたりをぶらぶらした時店の前を通ったことがあったということを。店先に布製の招き猫がずらっと並んでおり目を引いたということを。

プレゼント用に欲しいと思ったが、それだけのためにわざわざ行くのは億劫・・・ということで調べてみると伊勢丹のオンラインショップで扱っていることがわかった。しかし、ガイドブックの表紙の猫とはちょっと違う。顔が「わるい顔」になっている(^^;) 私は「わるい顔」がけっこう好きだが(俳優なども悪役顔の人はけっこう好き)、自分用ではないのでどうしようか。少し迷ったが、藍色の柄で赤い首輪をした「わるねこ」に決めた。

猫の顔が変わったのは、作り手が変わったからだということにあとで気づいた。「萩工房」のサイトにその説明があるが、現在の「萩工房」で人形を作られているのは小山内保夫さんという方。先代の堀井孝雄さんの弟子で暖簾を譲られたとのことだ。「萩工房」のオンラインショップは現在工事中になっているが、猫ブームが続く昨今、全国各地の猫関連イベントに商品を出しているようなので、そちらの方がお忙しくなったのかもしれない。

先代が作られていた、ちょっととぼけた雰囲気の招き猫もなかなかいい。今はもう手に入らないのだろうか、と思ってさらに調べてみると、現在「ドールアンリミテッド」という名前で商売をされているようだ。店は以前の「萩工房」があった場所(極楽寺駅前)。つまり、「萩工房」という名前は弟子に譲り、堀井さんご自身は名前を変えて同じ場所で商売している、ということか。少しややこしいが。もしかしたら、注文製作のみになっているのかもしれないが、一度当ってみてもいいかな。

鎌倉の仏像巡りはまだ始めたばかり。次回は北鎌倉方面を考えていたが、江ノ電方面にしてもいいかなと思っているところだ。元気があれば鎌倉から長谷まで歩き、極楽寺にも行けるかもしれない。仏像以外にも楽しみができたぞー!

16-1027-2.jpg

| - | 05:45 | comments(0) | - |
3人の戦争 「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」

16-1026-1.jpg

芸術の秋、昨日は平塚市美術館まで出掛けてきた。先月都内の美術館でポスターを見かけて気に留めていたところ美術番組にも取り上げられ・・・これははずせない!と思った「香月泰男、丸木位里・俊、そして川田喜久治」である。

川田さんについてはお名前のみ知っているという程度だったが、香月作品はテレビでは見ており一度実物が見たいと思っていた。が、絵の多くは山口県立美術館に所蔵されており、大規模な展覧はなかなかないと思われた。丸木位里・俊夫妻の絵は埼玉の「原爆の図 丸木美術館」で見ている。

今回は香月泰男の「シベリア・シリーズ」、丸木夫妻の「原爆の図」、川田喜久治の「地図」にスポットを当てた企画だ。この3人の組み合せはなかなかないと思われ、美術館の意気込みを感じた。それは「美術館からのメッセージ」からも汲み取ることができる。

平塚市美術館館長からのメッセージには、美術館には様々な使命があり、老若男女楽しんでもらうという使命のみならず時には積極的なメッセージを送るのもたいせつな使命だと考えている、とある。平塚市は昭和20年に大規模な空襲を受けて甚大な被害を被った。その惨禍を後世に伝え平和を願うため毎年様々なキャンペーンを実施しているという。「原爆の図」の展覧会も1956年に開催しており、平和への思いを何らかのかたちで伝えるため、今回の企画に至った、とのことだ。

この企画の背景には、「戦争をしない国」から「戦争をしようと思えばできる国」になろうとしている日本への大きな不安があり、平和を願いつづけてきた自治体としての意志を私は感じた。有名な作家の作品を大規模展示する展覧会にはない潔さのようなものを感じながら一点一点じっくり鑑賞してきた。

この3人には接点はなく、全く違う人生を歩んだ(川田氏はご健在)。今回最も見たかった「シベリア・シリーズ」の香月泰男は32才で招集されて満州に動員され、34才の時に敗戦を迎えた。日本軍の降伏、ソ連軍による武器解除の後シベリアに移送されほぼ2年間の抑留生活を過ごしている。

「シベリア・シリーズ」の絵には画家本人の簡単な説明が添付されていて、抑留生活がいかに厳しいものだったか、画家たちが生と死の間を揺れ動きながら生きていたかを偲ばせる。たとえば上の写真の左側に少し移っている「朕」という絵には以下の説明が添えられていた。

我国ノ軍隊ハ世々、天皇ノ統率シ給フ所ニゾアル・・・朕ハ大元帥ナルゾ、サレバ朕ハ・・・朕ヲ・・・朕・・・敗戦の紀元節、粉雪舞う海拉爾の営庭に兵は凍傷予防のための足ぶみを続ける。その絶え間ない軍靴の響きと入り交じって、軍人勅論奉読が行われた。朕の名のため、数多くの人間が命を失った。

また「雪」という作品の解説は・・・

雪の夜、軍隊毛布に包まれた遺体から、その霊だけが抜け出して故郷へ帰る。そして残った者には先の判らぬ苦しみが続く。現身の苦悩から解放された死体を羨ましいとさえ思わずにいられなかった。

丸木位里・俊夫妻は直接被爆はしていない。広島への原爆投下時は東京におり、母であるスマさんらがいる広島へ駆けつけ、その惨状を見ることになった。しばらくの間は救助に忙しく、信じがたい光景に呆然とするのみで絵を描こうなどとは思わなかったらしい。原爆の図の共同制作は1950年からだったというが、俊は後年、本当にすぐれた芸術家だったら原爆投下直後から原爆の図を描きはじめたに違いないと後悔の念を口にしたという。私はそれを知り、自ら被爆し、焦土を歩きながら未曾有の惨状を書かなければならないと心に誓ったという原民喜や大田治子のことを思い出した。

川田喜久治は1933年生まれで終戦時はまだほんの子どもだった世代だ。大学在学中から将来を嘱望され、新潮社勤務を経てフリーランスとして活躍しつづけている写真家である。今回の展覧会で取り上げられている最初の写真集「地図」は1965年8月6日に発行されており、広島原爆投下からちょうど20年目ということになる。

「地図」は、原爆ドームの天井や壁に浮き出た「しみ」「ひび」などを撮影したシリーズで、写真集にはその他にも原爆記念館に展示されている遺品や特攻隊員の手紙なども加えられている。原爆ドームは現在柵で囲われており中には入れないが、以前はそっと入り込むことができたようだ。壁に残る「地図」にも似た「しみ」や剥落はそこで死んでいった人たちの涙とも血とも悲しみとも怨念ともいえるもののように見えなくもない。

平塚市美術館は開放的な吹き抜けを設けたここちよい美術館だった。郊外や地方に行くとこのような美術館が多く、年々お気に入りの美術館が増えて嬉しい限りである。さて、次はいずこへ・・・

16-1026-2.jpg

| - | 09:46 | comments(0) | - |
「丁寧に作る白和え」に挑戦!

16-1025.jpg

・・・誕生日プレゼントが白和えとは!でも美味しかったからいいよね?・・・

 

私は白和えが好きである。かなり、好きである。今年の春、地元の和食店で食べた春野菜の白和えがとても美味しく、今度作ってみようと思いつつ・・・秋になってしまった。が、発奮して(!)昨日ついに白和え作りにチャレンジしてみた。昨日は家人の誕生日だったのだが、プレゼント用にネットで買ったものがまだ到着していない(26日到着予定)。それなら家人も好きな白和えでもこしらえるか!とあいなったわけ。

しかし、あらためてレシピを検索してみると、白和えはまともに作ろうとするとけっこう手間がかかる。材料はお好みでいいとして、和え衣(豆腐とゴマ)作りでさえ時間がかかる。少なくとも本格的な和食など作らない私にはちょっと難しそうに思えた。

が、せっかく作る気になったのだし、最初はできるだけ手抜きなしのレシピで作った方がいいと思った。手を抜くにしても、きちんとしたレシピを経験してからでないとどこで手を抜けばいいか見当がつかないし。ということで、こちらの「丁寧に作る白和えのレシピ」を採用、材料・手順とも忠実に作ってみた。

調味料以外の材料は木綿豆腐、ほうれん草、にんじん、しめじ、こんにゃく。炒りゴマは持っているが買ってから時間が経っているので新たに購入。スーパーで京都は山田製油の「純国産炒りごま(白)」を見つけたので迷わずそれを選んだ。山田製油はゴマやごま油のメーカーで、北海道の居酒屋で若社長夫人と隣り合わせたことをきっかけに何度か商品を買ったことがあり、美味しさはよく知っていた。

豆腐はキッチンタオルにくるんで重しを起き30分以上水切りをしておく。とにかく和え衣が薄まらないよう徹底的に水切りすることがポイントのようだ。野菜は茹でておくのだが、こちらも水切りは徹底する。にんじんとこんにゃくは味がしみにくいので、だし汁・薄口醤油・みりんで炊いてそのまま冷ましておく。

今回はだし汁から作ったのでその分余計に時間がかかった。昆布を2時間ほどつけておき、30分以上かけてゆっくり出汁をとり沸騰直前に引き上げる。火を弱めてかつお節を入れ、2〜3分経ったらザルで濾す。白和えに使うだし汁は100ccだけなので残りはペットボトルに入れて冷蔵庫へ。近々煮物でも作ろうと思っている。

一番手間取ったのは、豆腐の裏ごし。かなり水分を切ったので細かいザルの目をなかなか通らない。力を入れてぐいぐい押し付けやっと裏ごし完了。次はゴマを擂る。こちらもゴマの粒が残らないよう丁寧に擂る。とてもいい香りがして期待度アップ!

あとは裏ごしした豆腐、すりゴマ、調味料をなめらかになるまで混ぜ、用意しておいた野菜と和えるだけ。和え物は食べる直前に和えるのが一番美味しいので、出掛けていた家人が帰宅するのを待って食卓に乗せた。味見はしておいたが、ちょっと緊張。出汁作りから入れると2時間近くかけて作ったので美味しくなかったらけっこうショックである。

が・・・やはり美味しかった!北海道の酒(高砂酒造・「風のささやき」など)を飲みながら、2人であっという間に食べてしまった。やはり手をかけたものは美味しいなぁ(自画自賛)。

不思議なのだが、食べるものに関しては年々手をかけることを厭わないようになってきている。もともと短気というか、何をするにもいかに効率的にやるかを考える方なので(いかに手抜きするか・・・かな?)、料理も簡単にささっとできるものが中心だし、そもそも料理らしい料理を日常的に作らない。が、時折俄然やる気になると手間をかけて料理を作ったりする。「手間」だと思うから敬遠しがちだが、素材と向き合い個性を引き出す時間だと考えればいいのではないか、と生意気に考えたりするようになった。

さて、先日実家から超高級な利尻昆布(桐箱入り!結婚祝いのお返しだとか)をもらったので、昆布だしの美味しさを活かせる料理をいくつか作ってみようかと思っている。何が出来ることやら。

*もう少し豆腐の量が多くてもよかったかも。

*カラー写真はfacebookで。

*山田製油のゴマ製品、美味しいでっせ。

| - | 05:31 | comments(0) | - |
「ここはどこだ」

16-1024.jpg

昨日、杉田劇場(磯子区民センター)まで「松元ヒロ ソロライブ」を見に行ってきた。ヒロさんについては、昨年6月に矢崎泰久氏とのトークライブについての記事(2015.6.25)を参照していただきたいが、社会派(?)のピン芸人として、“テレビに出ない”(出してもらえない、出せない)芸人として熱心なファンを持つ人である。

昨日はソロライブということで、開演から約2時間たっぷり楽しませていただいた。ステージ右手に「ステージ上の楽屋」を設けて1つのネタが終わるとそこに行って座り水を飲み汗を拭く。一応楽屋に戻っているという設定だが観客は常にヒロさんを見ており、実質的には2時間ぶっ通しのステージだった。

軽めのネタで多いに会場を沸かせた後、沖縄の話題に移った。現在ヘリパッド建設で地元住民と機動隊が正面衝突している高江に、ヒロさんも今年行ってきたそうだ。そしてデモの先頭に立っていた島袋文子おばあ(87才)が“わたしたちはね、血を飲んで生きてきたんだよ。わかる?”と必死に叫ぶ姿を見たという。

文子おばあは、沖縄戦のまっただ中、目の不自由な母親と弟を連れて逃げ惑っていた。そこいらじゅうに転がっている死体を踏まないよう苦労しながら歩き続け、やっとのことで人心地ついた時は真っ暗。その時弟が水を飲みたいと訴えた。手探りで水を求めていると砲弾跡にできた水たまりを発見、その水を弟と母に飲ませ自分も飲んだ。夜が明けてそこを見ると、それは死体から流れた血が混ざった真っ赤な水だったそうだ。この話はこちらに詳しく掲載されている。

また、ヒロさんのところには本がたくさん送られてくるのだそうだが、その中に沖縄の少年兵について書かれた本があったという。本のタイトルと著者を失念してしまった(私が)のは残念だが、沖縄戦末期に15才以上の少年が「護郷隊」という秘密裏に組織された隊に組み込まれ、兵士として戦場に出た・・・その話についてである。厳しい訓練で洗脳され“お国のため”に戦った少年たちの多くが死に、生き残った者たちには決して消えな傷を残した。

昨年、某局が特別番組として「あの日、僕らは戦場で〜少年兵の告白〜」を放映し、私は今年になってそれを動画サイトで見ている。ヒロさんが読んだ本の内容とは少し違うと思うが、少年たちの苦難を知り暗澹たる気持ちになった。本家本元はオンデマンド契約をしていなければ見られないが、探せば無料動画サイトで見ることができる(たとえば、ここ)ので、ぜひ見ていただきたい。

ヒロさん最後のネタは今年亡くなった永六輔さんのこと。ヒロさんは立川談志師匠と永六輔さんにかわいがられた芸人で、特に永さんのラジオ番組には何度もゲストで登場し私も聴いたことがあった。永さんの思い出の数々を披露した後で、ヒロさんは永さんがかつて作った歌「ここはどこだ」を力強く暗唱した。「ここはどこだ」は、『にほんのうたシリーズ』として永六輔作詞・いずみたく作曲でデュークエイセスが歌うという企画で発表されたものの中のひとつで、1965〜70年にかけて発売された。

 

ここはどこだ

 

ここはどこだ いまはいつだ

なみだは かわいたのか

ここはどこだ いまはいつだ

いくさは おわったのか

 

ここはどこだ きみはだれだ

なかまは どこへいった

ここはどこだ きみはだれだ

にほんは どこへいった

 

流された血を

美しい波が洗っても

僕達の島は

それを忘れない

散ったヒメ百合を忘れはしない

君の足元で歌いつづける

 

ここはどこだ いまはいつだ

いくさは おわったのか

ここはどこだ きみはだれだ

にほんは どこへいった

 

今から50年以上前に作られた歌は、もしかしたら当時よりさらに強く、何度も何度も歌われなければならないような気がした。日本の一部なのに日本ではないような扱いを受け続けている沖縄。戦争が終わって70年も経っているのに、アメリカの基地に悩まされ、争いが絶えぬ沖縄。本当に戦争は終わっているのか。そして、この時代に生きて沖縄の窮状を見ているだけのおまえたちは誰なのだ・・・そう厳しく問われているような気がしてならない。

松元ヒロさんは、先にも描いたがネタがネタだけにテレビではほとんど見かけないと思う。が、痛烈な批判をユーモアたっぷりに表現する芸は、他の追随を許さない感がある。大笑いして涙がでそうになったり、深刻な話題を情熱的に語ったり、とメリハリが利いたステージは時間を忘れさせてくれる。

観客の年齢層が意外と高いことに少し驚いた。私など最年少の部類である。もっと若い人たちにもヒロさんのステージを見てほしいと思った。私もまた機会を見つけて出掛けていきたい。とりあえず年末あたりいかがでしょう。

松元ヒロ ひとり語り、たっぷり・・・2016.12.14(水) 練馬文化センター

16-1024-2.jpg

| - | 07:12 | comments(0) | - |
父の絵

16-1023.jpg

・・・これは2月に行った北海道は石狩川に飛来した白鳥・・・

 

なぜ思い出したのだろう。なぜ今ごろになって。人間の記憶というものは本当に不思議だと思う。50年も前のこと、50年間一度も思い出さなかったことがある日突然記憶の海の底から立ち上り蘇る。きっかけらしきものがあったわけではない。ただ、ふと気づくとその記憶が頭の中にぽっかりと、鮮やかに浮かんでいた。

父の絵の記憶である。それは池に浮かぶ白鳥の絵だ。池の周辺の木々の緑を映す水面は微妙な濃淡を描きながら瑞々しい緑色や灰緑に塗られていた。そこに浮かぶ白鳥はあくまで優雅で、静かに浮かんでいた。

本当なら私が描くべき絵だった。なぜなら、それは私の宿題だったからだ。小学校中学年のころだと思うが、遠足で「こどもの国」というところに行き、図画工作の宿題として遠足の思いでが課題となった。そして私は池で見た白鳥を描こうと思ったのだが、描いても描いても気に入らない。白鳥はまるでアヒルのようであったし、なぜそんな色を使ったのかわからないが池は濃い青で塗ってしまい自分の記憶と全く違っていた。「池は青」という既成観念があったのだろうか。私には絵の才能がない・・・その時感じた絶望感とも焦りともいえない感情を今でははっきり思い出すことができる。

私はかなり嘆いたのだろうか。落ち込んだのだろうか。それともイライラして絵筆を放り投げそうになっていたのだろうか。何故か父が別の画用紙に絵を描いた。描いている過程も見ているはずなのにそれはいくら記憶をたどっても思い出せない。でき上がった絵のすばらしさだけが鮮やかに残っている。

厚かましくも私は父が描いた絵を提出したのだが、さすがに後ろめたい気持ちは持っていた。教師も一目見れば子どもが描いた絵ではないことはわかっただろう。が、なにも言われずそのままになり、私は自分にとって恥ずべき記憶を頭の中から抹消した・・・意図的にではないにしても、あっさり忘れたということはそういうことだと思う。

父が絵を描くなど思いもよらなかった。白鳥の絵は私が知る唯一の父の絵だ。たぶん母や妹は一枚も父の絵を見てないに違いない。北海道の日本海側、小さな漁村に生まれて中学校を卒業して東京に出てきた父は、若いころ映画が好きでよく観に行ったと言っていた。本もよく読んだようだったが、絵が好きだとか絵を描くとかいう話は一度も聞いたことがなかった。高校生になって私が油絵を描くようになっても、父は何も言わなかった。絵について何か語ったという記憶も全くない。

ふと、もしかしたらあの絵は私の想像上のものなのか、と思った。そんな絵は実際にはなかったのだが、なにがどうしたかはわからぬが私の想像が作り上げたものなのではないか、と。しかし、「こどもの国」に行ったこと、思うように描けず悔しかったこと、そして父が描いた美しい白鳥の絵の記憶は確かなものと感じられた。

「こどもの国」に白鳥はいたのだろうか。当時の私は小さな女の子が持ちがちなロマンチックで美しいものに憧れていたので、白鳥は格好の題材ではあった。遠足で「こどもの国」に行ったことは確かなので、もしそこに白鳥がいないとしたら、父の絵の記憶も想像にすぎないのかもしれない。そう思って調べてみたら、「こどもの国」には「白鳥湖」というのがあってコブハクチョウがいることがわかった。そういえば父の絵の白鳥もくちばしの上にコブがあった・・・私が説明したのだろうか、それとも父は知っていたのだろうか・・・それはわからないがオレンジ色のくちばしの上に黒いコブがあったことは確かだ。

父は何故突然絵を描く気になったのだろう。私があまりに嘆いて見るに見かねて描いたのだろうか。それともほろ酔い気分がそうさせたのだろうか。母は子どもが描いた絵を保存しておくような人ではないので、その絵はとっくの昔に失われている。もしその絵が今もあり、今の私が見たらどう思うだろうか。それほど上手な絵ではないと思うのだろうか。

たぶん父も自分が私に代わって絵を描いたことなど忘れていたに違いない。私が覚えていれば聞くこともできただろうが、私だってずっと忘れていたのだ。その父も他界して20年が経っていて、もはや父の絵の記憶しか私には残ってない。しかし、50年も経ってから突然現れた父の絵の記憶を、私はこれから大切に持ちつづけたいと思う。上手い絵だったかどうかは関係ない。そこには父の娘に対する愛情があったこと、私は父に愛されて育ったこと、それだけを感じていければいいと思う。

 

| - | 07:51 | comments(2) | - |
22日は猫に語らせる日・・・10月担当:ダイスケ(大介)

16-1022-1.jpg

みなさん、おはようございます。ダイスケだよ。もう10がつがおわりそうなのに、あついひがおおいよ。でも、さむいのがすごくつらいっていうの、ボクしってるからあまりさむくなってほしくないの。「ほご」されるまで、ボクはおかあさんといっしょだったけど、さむくてさむくてしかたのないときは、みんなでくっついてあっためあっていたの。これからは、そんなことはないからね、ってすみごんやちゃしろのおばちゃんがいってた。「あんか」っていうのもあって、さむいひはそれをあっためてくれるんだって。ちょっとたのしみにしているよ。

このあいだ、いつもいるおっちゃんがしばらくいなかったよ。テーブルのうえがひろくなったので(おっちゃんは、なんでもテーブルにのせるから)、ふだんはのぼらないんだけど、ボクものぼってみたよ。なかなか「いごこち」がよくてきにいったけど、おっちゃんがかえってきたら、ボクののるばしょがまたなくなってしまったの。ざんねん。

ねこは、みんな「おきにいり」のばしょがあるってきいたけど、ボクの「おきにいり」のばしょは、「まどぎわ」とすみごんのふとんのうえと、テーブルのしたのダンボールだよ。ダンボールは、ボクがこのうちにきたときにケージにはいっていたやつで、さいしょのころボクはずっとそこにおこもりしていたの。だから、なかにはいるとおちつくんだ。でも、ボクもおおきくなったので、すこしきゅうくつだよ。だから、たいていはみだしながらねているよ。

ボクにはさいきんちょっと「ふまん」があるの。それは、すみごんがボクを「おこちゃま」だっていうことなの。「ふくちゃんは、ずいぶんおとなになったね。そのてん、ダイちゃんは、まだまだおこちゃまだね」っていうの。ふくちゃんとボクはだいたいおなじときにうまれたのになー。からだのおおきさだって、ふくちゃんにはまけないよ(「ふとさ」ではまけるけど)。それなのに、ボクだけおこちゃまなんて。

でも、「おとこのこはいつまでたってもおこちゃまだもんね。そこがかわいいんだよ」っていってくれたので、「おこちゃま」だっていいんだ!っておもうことにしたの。ふくちゃんは、「あんた、かおがちいさいから、きっとのうみそもすくないんだもんね。だから、おこちゃまなんだもんね」っていうの。すみごんは、「ダイちゃん、こがおであしがながくてかっこいいよ」っていってくれるのに。きっと、ふくちゃんは「でぶ」っていわれているからくやしいんだとおもうことにしたの。

ボクはさいきん「だいこうぶつ」をはっけんしたよ。それは、「やきのり」だよ。きょうのあさも、すみごんたちがたべているので、くれるのをじっとまっていたよ。ふくちゃんは、テーブルのうえにのって、すきがあればぬすもうとしていたけどぬすめなかったの。そして、「ふくちゃん、ダイちゃんみたいにちゃんとしたでまっていないとあげないよ」ってしかられてたの。やーいやーい!

きょうは、いつもよりたくさん「やきのり」をたべられてラッキーだったよ。すみごんがちぎってくれるぶんはあっというまにたべちゃって、「はい、もうおしまい!」っていわれたのであきらめていたら、ふくちゃんが、おっちゃんのめのまえにあった「やきのり」(さいごの1まい)をさっとぬすんで、もってきたよ。すみごんがそれをみつけて、「あらら。しかたないなー」といって、ちぎってわけてくれたの。ふくちゃんって、やっぱりすごいとボクはおもったの。

くろっぽいおばちゃんとは、まだ「けんあく」だけど、ちゃしろのおばちゃんとはちょっぴりなかよくなったよ。らいげつは、そのちゃしろのおばちゃんのばんだよ。きのう、おばちゃんは「ぺっとくりにっく」につれていかれて、「おしりほりほり」されてきたんだって。「べんぴ」でなかなかでないんだって。ちょっとかわいそうだとおもうの。さむくなったら、ちゃしろのおばちゃんとくっついてねられるといいな。ふくちゃんといっしょだと、いつかみつかれるかわからないから、ちょっとこわいの。じゃ、またね。

16-1022-2.jpg

| - | 08:21 | comments(4) | - |
SPONSORED LINKS