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月末所感

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台風が去って真夏並の陽気が戻ってきたが、朝晩はやはり秋の気配が漂うようになった。蝉時雨は相変わらず聞えているが、ツクツクボウシの声がどんどん目立つようになり、晩夏と呼ぶにふさわしい。8月も今日で終わり。今や夏休みの期間もまちまちで2、3日前学校帰りの小学生たちを見た。今年は残暑が長引くとの予報を耳にしたが、秋だと実感できるのはいつごろなのだろうか。

今月半ば、SEALDsの解散が伝えられた。昨年5月3日の憲法記念日に結成され、若者らしい率直なスピーチやデモで諦めムードが漂う世間に新しい風を送った感があった。各メディアも度々とりあげ、SNSなどを通して彼らに共感する人たちは確実に増えていったと思う。

解散はあらかじめ予定されていたもののようだが、解散を惜しむ声が多く寄せられたらしい。そんな声に呼びかけるように、「終わったというならまた始めましょう。始めるのは私であり、あなたです。」と彼らは声明を発表した。惜しむ声をあげた人々のほとんどが未だ自分では動かず、共感を感じつつ静観するにとどまっていることは彼らも十分感じているに違いない。そんな沈黙する人々に対してのメッセージが今後なんらかの形になっていくといいと思う。

そんなSEALDsについて、公安が監視しているという話があることを知った。公安調査庁のレポート「内外情勢の回顧と展望」(平成28年1月)において、オウム真理教などとともにSEALDsがとりあげられており、公安はSEALDsメンバーの顔や名前を把握している、オウムの信者だった者と同じように一生監視される、云々。

これが本当だったら全く怖いことだが、ありえなくはないとも思う。情報だけは氾濫しているものの、何を信じたらいいのかの判断が非常に難しい時代になったとつくづく感じる。

築地市場の豊洲移転が延期になった。11月に予定されていた移転が来年になったということだ。個人的に新知事はあまり好きではないが、今回の決定には賛同したい。そもそも土壌汚染を調べる地下水モニタリング調査がすべて終了していないのに移転を実行に移すというのは無謀というかおかしな話だと思う。

2020年のオリンピックのために道路を造らねばならない。そのためにはできるだけ早く築地市場を閉鎖・解体しなくてはならない。まずオリンピックありきであることは目に見えている。また、施設の設計などにも不安要素はけっこうあるようで、それらを無視しての強行移転は結局後々悔いが残るものになるような気がする。

それにしても、国立競技場にしろ豊洲市場にしろ、あれだけ大きな施設を造るには綿密な計画を立てていると思うのに、基本中の基本がぽっかり抜けているように見えるのは何故なのだろう。実際に施設を利用する人たちや建設に費やす税金を納めている人たちよりも、利権争いをしている一部の金持ちたちが優先されているということだろうか。

老朽化した築地市場はいずれ建て替えるか移転せざるをえないだろう。流通のしくみも大きく変化したし、「食の安全」についての意識も市場建設当時とは違う。移転は仕方ないことだと思うし、誰もが納得のいく移転などありえないだろうとは思うが、11月の移転には抵抗を感じる。

そんな築地市場について考えが掲載されたブログを今日見つけた。そこで紹介されている石巻水産物地方卸売市場のことや、それを設計した横河建築設計事務所についての話がなかなかおもしろい。今の築地市場を設計したのが横河建築設計事務所の前身である横河工務所という会社で、それを創設した横河民輔氏は立志伝中の人だという。現代という時代は、横河氏のような人物が出てきにくい時代なのか。それともすでにいないのか。

| - | 18:41 | comments(0) | - |
「あの日からのマンガ」

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先日も触れた「あの日からのマンガ」(しりあがり寿)を読んだ。とても面白い作品だった。“面白い”という言葉は適切ではないかもしれない。ある種の感動・・・いや“感動”という言葉もしっくりこないのだが、全くおおげさではないのだが確かに気持ちが動いている実感、とでもいおうか。共感、驚き、優しさ、楽しさ、哀しさ、そして残酷さ等々様々な感覚を覚えながら読み終えた。

読むのにさほど時間がかかる作品ではないが、あえてゆっくり読んだ。ゆっくり読まねばならないという気持ちにさせられたからだ。定価650円。片手で楽々持てる軽い本。しかも「マンガ」である。しかし、内容は決して軽くはない。「あの日」、つまり東日本大震災以来作者が感じ、考えてきたことが淡々と描かれている。

ぜひ多くの人に読んでいただきたいので内容にはあまり触れたくないと思う。が、それではナニなので少しだけ紹介したい。

朝日新聞に連載されていた「地球防衛家のヒトビト」からの抜粋がいくつかある。地球防衛家のヒトビトがボランティア活動をするため被災地を訪れた話や、大変なことが起きたとは知りつつ漠然とした危機感に安住しがちな当事者でない人々(私も含まれる)の様子などがユーモアたっぷり皮肉少々といった感じで描かれている。

月間コミックビーム2011年5月号に掲載された「海辺の村」は、震災から50年を経た海辺の村の話。皆、崩れ落ちそうな家に住み、テレビもなかなかうまく写らないという生活をしている。子供たちはそのような生活しか知らないので天真爛漫だが、寝たきりになっている老人は昔をなつかしむ。夜はいつまでも煌々と明るく部屋の中は快適・・・「昔はホントに豊かだった」となつかしみ、「なにがエネルギーシフトだ、こんちくしょう!」と怒りを爆発させる。しかし、その息子らしき男は「しょせん背伸びした豊かさだったんだよ」とやさしく宥める。

その男には何人か子どもがいるが一番下の男の子は「ミライ」という名で背中に羽根が生えている。学校から帰って遊びに行こうとすると父親が叫ぶ。「特にゲンパツには近づくな!」。それでも同じように羽根のある友だちとゲンパツの方まで飛んでいく。そして朽ち果てたゲンパツの向こうに風力発電の風車がびっしり建設されているのを見る。子供たちは風車の上を自由に飛び回っている・・・

朝日新聞に掲載された作者の寄稿のタイトルは、「大きな賭に負けたボクたちは」だ。「地球防衛家のヒトビト」の作者として、被災地に行かなくてはならないと思ったしりあがり氏は、有志4人と被災地を訪れたそうだ。見渡す限りの瓦礫にショックを受け、復興への果てしない日々を思い、そして「ボクたちはずいぶん大きな賭に負けたんだなぁ」と思ったという。一部引用してみよう。

(前略)自然が思いもかけない猛威をふるうことは誰だって知ってはいるけど、まさかこんなに大きな地震がくるとは・・・そう、こんな大きな地震は、高い津波は、こない方に賭けていた。

絶対安全なんてこの世にないことは分かっちゃいるけど、危険を訴える人がいるのは知っていたけど、まさかあの原発がこんなことにはならない方に賭けていた。

政府や企業は都合のいいことしか言わないことは分かっていた。だけど、多少のこまかしはあっても自分たちの生活をおびやかすほどのことはない方に賭けていた。・・・そしてその日、出たのは出るはずのない最悪の目だった。

実に正直な感覚だと思う。私たちの多くはうすうす危険を感じつつ、その危険が現実のものとなるとは思ってこなかった・・・いや、考えたくないのでそこで思考停止する方を選んだ。それはまぎれもなく私たち1人1人の責任で多くの人が自責の念を感じたと思う。しかし、しりあがり氏はそこまで言及はしていない。たぶん実際に被災地を訪れ、福島第一原発で作られた電気を当たり前のように使っていた自分のことも考えたに違いないし、自責の念はかなりもたれたのではないかと想像するが、あえてそれには触れずすべてが無になったところに自分たちは何ができるのだろうかと思いを馳せている。寄稿の終わり近くに記された文章は震災から5年経過した今読むとさらに重く感じられる。

過去にかんじがらめの未来ではなく、折り重なった現実の中に見えなくなっていた「理想」に今こそ賭けることはできないだろうか?

下の写真は、私も好きな「双子のオヤジ」が出てくる「川下りの双子のオヤジ」。筆で書かれた簡潔なオヤジのゆるさがなんともいえない。この作品ではオヤジたちがのんびり筏で川下りをしていると、淋しそうな顔をした「ゲンパツ」さんに出会う。ケガをしているようなので心配して近づこうとすると、危険だからやめろと言う。

「今まで一生懸命みんなのために働いてきたけど」「こんなに嫌われておしまいだなんて!!」「でもいいの・・・私は分かっていたの」「私を手なずけるには人類はまだ百年は早いわ」

血が流れているからそれを止めようとするオヤジたちに彼女は叫ぶ。「触らないで!!」「この血が問題なのよ。私の中に流れているのは悪魔の血なのよ」と。そして別の流れに行くことを勧め最後に「他の流れで私のような女に会ったら伝えて。あなた達もいつこんな目に会うか分からないって・・・」

オヤジたちはゲンパツさんに同情しながら素直に別の流れに移動し、川下りを再開する。すると、さきほど会った女と似た女達がたくさんいるのに出会う。女達はちょっとはしゃいでいるようだ。「それでねー私、言ってやったのー」「直下型がきたらブチ切れてやるってー」(“やだーもう♡”)「そしたら慌てちゃって」「キャハハコワーイ」(“アハハ”“キャハハ”) そこでこの話は終わりになっている。

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| - | 19:20 | comments(0) | - |
気圧に右往左往

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妙な動きをしている台風が明日あたり関東地方を横断する気配。その前の台風の影響もあってか、このところ涼しい日が続いている。朝起きた時まず涼しいと感じ、秋の気配が漂う中で咲いている白い朝顔の清冽さに目を奪われる。

暑さに弱いので涼しくなってくることは大歓迎なのだが、最近頭痛に悩まされることが多くすっきりしない。暑さにもようやく身体が慣れてきたと思ったら今度は頭痛か!とどんより。頭痛の原因は特定するのがなかなか難しく、単なる肩凝りや目の疲れだろうと思うこともあれば自分でもよくわからないこともある。

最近感じるのは、気圧の変化が大きい時に頭痛になりがちだということ。特に低気圧が停滞していたりすると朝目覚めた時から頭が痛いことが多い。

頭痛にかけては中学生のころからのベテランなのでしばらく様子を見て鎮痛剤を飲み、なんとかやり過ごす。若いころは今よりもっと痛みがひどく(鈍感になってきたのか?)、起きていることもできない上に横になっても痛くてじっとしていられない、という状態に苦しんだ。吐き気を催すことも多く、どこへ行くにもお守り代わりに鎮痛剤を持っていったものだ。

出産したら体質が変わったのかとんと頭痛を感じなくなり、しめしめと思っていたのだが・・・やはりそうは甘くない。5年前くらいからまた頭痛体質が復活し、どこかすっきりしない気分で過ごす日が多くなった。神経系統が弱いので神経痛なのかあちこち痛くなるし・・・年は取りたくないなと思うが、こればかりは仕方ないとも。

老化は誰しも歓迎すべからぬ現象だが、何が何でものアンチ・エイジングには抵抗がある。「年なんだから」と諦めきるのはよくないが、ある程度自分の身体をメンテナンスしながら「こんなもんかな」程度にのんびりかまえてゆるゆると老いていけばいいのではないか、というのが最近の心境だ。

この1週間を振り返ると、鎮痛剤を3回飲まねばしのげなかった日もあれば1回で済んだ日、全く飲まずにいられた日、と様々だ。早く天気が安定してすっきりした気分で過ごせる季節になってほしいな。

| - | 09:14 | comments(2) | - |
淡紫の朝顔

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3年続けて朝顔の種を蒔いたのは、蒔きどきをかなり過ぎた6月初旬。今年は体調もあまりよくなかったこともあり、ポットに蒔いて発芽したら定植、という手順が億劫で直蒔きしてしまった。適当に間引きはしたが、こんなアバウトな方法で果たしてちゃんと花が咲くのか・・・と不安だったのだが。

なんとか育ってきたものの世間の朝顔が咲き始めてもなかなかつぼみをつけない。やっぱり蒔くのが遅かったからかなぁ、今年は無理かなぁ、と思っていたが遅まきながら今月から咲き始めた。蒔いたのは、毎年蒔いている白い朝顔の種と知人からいただいた変化朝顔2種。白い朝顔は近所の畑の縁で毎年こぼれ種から芽生えるものの種を少しもらったもので、真っ白な花が咲いたと思うとかすかに紫を帯びた微妙な色の花も咲く。そこが気に入って毎年種を保存しているのだ。

変化朝顔のうち1種類は鉢が落下したのにしばらく気づかず、慌てて植えなおしたのだが1本しか残らなかった。もうひとつはなんとか育っているが置き場所の関係から行灯づくりにはせずハンギング鉢のまま思うようにからませている。変化朝顔については機会があったらまた書きたいと思っているが、なかなか奥が深くおもしろい。わが家のいただきものは白い花と渋い紫系の色の花だが、白い方は若干花が小さめでそこがなんとも奥ゆかしいし、紫系の方は色がとてもいい。

白(あるいは淡紫)のものは、仕事部屋の方のベランダに持ち込んでバラにからませている。種を採集したらつるは処分するので、それまでバラには我慢してもらうことにした。ずっと白い花ばかりだったのだが、今朝は淡紫の花が3輪ほど咲き、曇り空に溶け込むような感じがなんともいえずよかった。

淡紫といってもいろいろだと思うが、この花はほとんど白といってもいい色。しかし白ではなく紫が微かに溶け込んでいる感じ。この微妙な色はなかなか求めても手に入れることができないような気がして、できるだけ毎年種を蒔きたいと思っている。

来週は大型の台風が近づき、もしかしたら上陸するかもしれないという予想が出ている。ベランダの鉢のいくつかは飛ばされないよう棚から下ろすつもりでいるが、朝顔はすでに複雑にからまっているのでそのままにしるしかない。どうか生き残ってくれますように。

| - | 19:01 | comments(0) | - |
「可哀想」という言葉

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twitterで「『可哀想は時に人を傷つける』」という新聞への投稿が話題になっているようだ。投稿の内容はリンク先を見ていただければと思うが、全く投稿者の言う通りだと私は思う。上っ面の同情から出た言葉は「可哀想」に限らず軽薄なものだと思っているが、たぶん言った本人はそう行っても反発して怒るだけだろう。

世の中には、誰がどう見ても「可哀想」な状況もあるが、そうでないことも多々ある。価値観の違いや生活習慣の違いなどそれぞれの事情があるのは当然で、ある人から見たら「可哀想」でも当事者は全くそうは思っていないことも珍しくない。例としてあげるのは適当ではないのかもしれないが、障害を持つ人に対して安易に「可哀想」と思うことは、思われた本人にとってはかえって不愉快だったりショックだったりするのではないだろうか。

新聞の投稿者(44歳男性)は、投稿を以下のような文章で締めくくっている。

「可哀想に」という人は、自分が優しい人間だと思っているのかもしれない。しかし、この言葉は浅はかで無責任で、時に人を傷つけ、何も生み出さない。そのことを知ってほしい。

私も安易に「可哀想」という言葉を使う人をあまり信用できないし、優しい人間でも何でもないと思っている。「可哀想だと思った自分は人の気持ちがわかる優しい人間」であると思い満足しているだけで、可哀想だと思う状況の背後に何があるか、そもそも本当に可哀想な状況などか、などを知ろうともしないことが多いような気がする。本当に「可哀想」なのは、そんな人かもしれないね。

話は全く違うが、いい大人である子どもの不祥事について親が謝るっていうの、もういいかげんにしてほしいと思う。芸能人だからそうしなければ「世間」が許さないというなら、それもおかしい。育て方云々も他人がどうこういうことではないだろうに。女優である母親に味方するつもりは毛頭ないが、テレビをつければ謝罪記者会見をバカみたいに繰り返しているのを見ると閉口してしまう。やれやれ。

| - | 19:13 | comments(0) | - |
本を掘る

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昨日は最近知り合いになった方をご案内して学芸大学の古本屋「流浪堂」に行ってきた。何度か行ったことはあるが久しぶりだ。そして、やはりこの店はいいなぁと実感した。

前にも書いたことがあると思うが、古本屋はおもしろい。ここ数年、特におもしろいと思っている。出版不況が続く昨今、一般の書店はそれぞれ工夫を凝らしながらも苦戦しているのが現状だろう。電子書籍という手強いライバルが出てきて、「紙の本」などという不思議な言葉まで登場してきて、新刊書中心の書店の未来は決して明るくないと思う。

そこへいくと、小さな商売かもしれないが古本屋は店主の志向を反映しやすく、個人経営が多いゆえ企画も自由にやりやすく、コアなファンを作りやすいと思う。店主の提案に共感する人の数をある程度増やしていければ、大もうけできないにしても細く長く続けていけそうな気がしている。

昨日は今まで気づかなかったことに気づくことができた。一般書店と違い、ジャンル別に分類されているわけでもないところが楽しいのだが、全くランダムに本が並べられているのではないということくらいは気づいていた。が、棚に並べ切れずに積み上げられた本も、ただ単に置き場所がないから積み上げたのではないということに気づいたのだ。

中井英夫の著作が目に入ったので1冊手に取って見てみた。下の本を見たらまた中井英夫の著作。その下も・・・という具合に同じ作家のものがちゃんとまとまっているのだ。あらあら・・・と思いつつ次々と本を取り出していたら、なんだか「本を掘っている」ような気がしてきた。「掘り出し物」という言葉があるが、ああやって本を掘っているうちにこれぞ読みたい1冊というものに出会えたならそれはまさしく「掘り出し物」なのだろう。

「流浪堂」が好きなのは欲しいと思わせてくれる本が多いこと。多すぎるので結局あれこれ買わずにいられること(^^;)。昨日は「コルシア書店の仲間たち」(須賀敦子)を見つけたので買ってきた。表紙に採用された船橋桂さんの彫刻の写真に惹かれて。

けっこう時間をかけていたように思ったが、先ほどスマートフォンで撮った写真を見て「あ!」と思った。以前から欲しいと思っていた本がガラスごしに展示されていたのだ。気づかなかった!やれやれ、近日中にまた行くことになるかなぁ。    

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「夜へ急ぐ人」〜ちあきなおみ

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どこで見かけたのか全く覚えていないのだが、『伝説となった紅白歌合戦の「夜へ急ぐ人』〜ちあきなおみとジャニス・ジョジョプリンの狂気』という記事が目に入った。元記事は昨年12月に公開されているので、私が見たのはそれをリンクした記事だと思う。

ニュースサイトやfacebookなどは漫然と見ていることが多いのだが、たまに「!!」と気を引くものに出会う。今回もそんな感じで、何がどのように自分を惹きつけたのかわからぬまま記事を読んでみた。そして、ちあきなおみという歌手の特異性をあらためて感じた。

記事のタイトルになっている「夜へ急ぐ人」という歌は、作詞作曲をした友川カズキの歌を聞いたちあきがぜひ曲を作ってほしいと思い、アプローチしたことから生まれた歌だったそうだ。友川カズキについては名前こを聞いた事があるような気がするが歌は全く聞いたことがなかった。ちあきなおみと友川カズキの接点はそれまで全くなかったというが、それは当たり前だろう。ヒット曲をいくつも出した実力派女性歌手とさほど名前が売れているわけではないフォーク歌手。しかも、岡林信康の歌を聞いてフォークシンガーをめざしただけあって、どこか土臭く暗く重くそして烈しい歌を歌っていたのだから。

しかし、そんな友川の名を世に知らしめる出来事が起こる。友川がちあきのために作った「夜へ急ぐ人」をちあきが1977年の紅白歌合戦で歌ったのだ。それは年末の華やかな大イベントの雰囲気を一気にぶちこわすくらいインパクトがあるものだったらしく(動画を見たらなるほどと思った)、今や伝説になっているらしい。

ちあきの事務所から突然連絡を受け、曲を依頼された友川は、ちあきのステージを見に行くことにした。そこで歌われていたのが、ジャニス・ジョプリン。以前からジャニスに心酔していた友川はそれにとても感動して即座に「夜へ急ぐ人」を作ったと語っている。

友川、ちあき、ジャニス・・・この3人に共通するものは何か。それは「狂気」だと私でなくとも思うのではないだろうか。ちあきなおみが歌っている姿は私も何度かテレビで見ているが、時として何かが乗り移ったのではないかと思わせるほどの歌い方に驚いたことが何度かある。すごい、と思う一方怖い、とも感じた。その怖さはたぶん「狂気」に対する怖さだ。怖いものを見ると2度と見たくないと思う人がいる一方で、私はその怖さから目が離せなくなる人間だ。たぶん私のそんな感性が今回の記事を見つけたのではないかと思えてくる。

あらためて、ちあきなおみについて調べてみたが、やはり並の歌手ではないと思った。幼いころから芸能の道に入り、どさ回りを含む長い下積み時代を送った後21歳で歌手デビュー。デビュー曲である「雨に濡れた慕情」は今聞いても洒落たいい曲だと思うが、その後「四つのお願い」でアイドル路線を取らざるを得なくなる。これはプロダクションの戦略で実際ヒットしたわけだが、ちあき自身は不本意だったようだ。

しかしそこはプロである。その後も様々な歌を歌い、歌番組以外にも出演してタレントとしても活躍。「タンスにゴン」などCMにも出て多才ぶりを発揮した。そして、1972年「喝采」で第14回レコード大賞を受賞。

アイドル路線には不本意だったものの、全体的に見れば順調な歌手生活だったように思える。が、調べ治してみると、自分が納得いく歌を探し続けていた姿がほのかに見えてくる。本当に実力がある歌手だからどんなジャンルの歌も自分のものにすることができたと思うが、それにしてもポップス系の曲から演歌(船村演歌なら歌ってみたい、とのことだったようだ)、シャンソンまでこなし、中島みゆきの「ルージュ」を歌うなどニューミュージックの分野にも積極的だったようだ。

そんなちあきが突然芸能界から姿を消したことは、今なお惜しむ声とともに聞えてくる。夫でありマネージャーでもあった郷鍈治が1992年に肺ガンで急逝、「・・・静かな時間を過ごさせて下さいますよう・・・」というコメントを出して以来、未だに芸能活動は再開していない。

芸能界から個人に至るまで、数多くのラブコールがあり、2013年にも特集番組が放送されたというが、私はこのままそっとしておいてあげた方がいいのではないかと思う。夫婦としてだけでなく、絶大な信頼のもとに仕事をしてきたパートナーを失ったつらさというのは、いつまでも癒えることはないのかもしれない。また、以外の理由もあるのかもしれないが、あの姿の消し方を知るとそうした方がいいような気がする。

それにしても、「夜へ急ぐ人」のステージはすごかった。ちあきは何かのインタビューで「私は暗い性格なので」と言っていたようだが、その暗さが存分に発揮された歌唱で鬼気迫るものがあった。動画を見て以来、歌声が耳の奥から消えずにやや困っている(^^;)

この記事を書きながら、またしても経験した偶然に気づき少し驚いている。「あの姿の消し方」と書いた時だ。ちあきなおみについての記事を見かけたのはごく最近だが、2ヶ月くらい前に書評で見た「その姿の消し方」(堀江敏幸著)を現在読んでいることに気づいたのだ。堀江氏は好きな作家のひとりで何冊か著作も読んでいるが、この本についてはとにかくタイトルが気になって仕方なく購入したと記憶している。難解というわけではないが、どこか一言一句じっくり読まねばならないような雰囲気があり長々と時間をかけて読んでいた。

また、これは数週間前になるが、「ジャニス〜リトル・ガール・ブルー」という映画が来月公開されることを知って見に行こうと思っていたことも思い出した。ジャニスについてはほとんど知らず、その伝説だけを時折目にするくらいなのだが、だからこそこの映画は観ておいた方がいいかなと思っている。

その時は全く関連性のない事柄がある日突然つながる。このような経験をするのは私だけではないと思うのだが、私にはけっこうこういうことが多くていつも不思議に思う。

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祭のあと・嵐のあと

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リオ・オリンピックがやっと終わった。なんでも日本のメダル獲得数が更新されたとのことだが、連日テレビをつければどの局もオリンピックの話題ばかりで興味のない人間にとっては「なにをそんなに騒ぐのか」という程度のこと。選手たちが懸命に闘う(相手と、あるいは自分と)姿は感動できるものだと思うが、その周辺の常軌を逸した騒ぎぶりや華やかな祭から少し目を離すと見えるブラジルの現状との落差の方が気になってしまう。

「オリンピックを目標にがんばってきました」というような言葉を選手へのインタビューなどでよく聞くが、オリンピックってそんなにすごいものなのか、そろそろオリンピック至上主義を抜け出した方がラクなのではないか、などと思う私は天の邪鬼だろうか。

前にも書いたと思うが、オリンピックを開催するには莫大な金が必要だ。その金を調達するための様々な戦略が飛び交い、よくも悪くも商業主義的にならねば運営できないのが最近のオリンピックだと思う。また、開催国となるためにもいろいろな手練手管を労しなければならないだろう。オリンピックはそのような「欲」という種から生まれた華やかな徒花のように見えてならない。

今年のツール・ド・フランスで第2〜4ステージでマイヨ・ジョーヌを身に付けることになったペーター・サガンは、世界選手権の覇者のみが身に付けることを許されているアルカンシェルのジャージを身に着けてレースをスタートした。マイヨ・ジョーヌを着ることになった時、「嬉しいけれど、ボクはアルカンシェルに誇りを持っている」というようなコメントをしていた。

ツール・ド・フランスは世界の自転車レースの頂点に位置づけられるレースである。プロの選手となった以上誰しもが憧れるが、出られるのはそのうちのほんの一握り。一流中の一流と認められた選手でなければ出られない。ヨーロッパの自転車レース好きは日本では想像できないほどであり、歴史もありひとつの文化となっているから、ツールの総合タイム首位者が着るマイヨ・ジョーヌは大きな名誉でもある。

しかし、ツールはまたひとつの祭でもある。背景には開催国やコース誘致を望む各地域の思惑があり、運営のスポンサーとなった企業、チームのスポンサーである企業の思惑や金の動きがあるのは当たり前のようになっている。そうでなければ開催できないのがツールだともいえるだろう。

そう考えた時、世界選手権という(ほぼ)実力のみで勝ち取った名誉を重んじているという点で、ペーター・サガンの態度はごくまっとうなものに思える。若いころはやんちゃでゴール後ウィリーなどをして観客を楽しませたりしていたが、サガンももはや堂々たる実力者になった、とあらためて感じた。

何を名誉とするかは選手個々で違うのかもしれないが、「オリンピックは特別」だという意識は根強くあると想像する。それが悪いとは言わないが、そのオリンピック至上主義が選手たち自身を追いつめ、ドーピング問題なども起きているのも事実だ。

オリンピックの閉会式で、どこぞの首相が変な帽子をかぶって出てきたら、外国の人たちが大喜びして4年後のオリンピックへの期待をふくらませた、というニュースを見かけた。それらの人たちは、帽子をかぶった男が「アンダー・コントロール」と嘯いた原発が未だにコントロールされていないことを知っているのか。8月の東京がどれくらい暑いか知っているのか。やれやれ。

台風が関東地方に上陸したのは11年ぶりらしい。さすがに昨日は雨も風も強く、市民の森の木々が折れそうなくらい大きく揺らいでいるのを見るのは久しぶりだった。高台に住んでいるので雨よりも風の方が怖いのだが、各地で雨の被害が相次いでいて困っている方々も多いと思う。大昔の人々は自然の驚異に接すると神の怒りを感じて自らを戒めるということをしてきたと思うが、今はもうそのようなことはないだろう。

降り続く雨を見ていると、先日も話題にした「方舟」(しりあがり寿)を思い出す。いつまでも雨が降り続く静かな終末の物語だ。しりあがり作品の多くには諧謔が鏤められ、その先には現実を見すえた皮肉や警告があると私は感じている。だからこそ、ずっとファンでいられるのだろうと思う。

北側のベランダにだいぶ前から小さな蜘蛛がいる。普段は庇の溝に身を潜めているが、時々出てきて巣を作ったりしている。いったい餌となる虫など来るのだろうかと心配しているが、ずっといるところをみると生きていけるだけのものは得ているのだろう。

台風の強烈な風雨が蜘蛛を飛ばしてしまったのでは?、と今朝様子を見てみたら、いつもの溝でじっとしていた。しばらくすると糸をたらして穏やかになった風にゆらりゆらりと揺れていた。雨や風が一旦治まると途端に蝉時雨が聞えた。風で飛ばされたり雨で流されたりした蝉も多かっただろう。それでも生き残った彼らが間近に迫る死をものともせず鳴き続けている。蜘蛛も蝉もたいしたものである。

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22日は猫に語らせる日・・・8月担当:まめこ

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おはよう。まめこなの。さいきん、じゃなくてずーーーーっとごきげんがわるい、まめこなの。ごきげんがわるいわけは、とってもいやなヤツがいるからなの。

4がつのぶろぶとうばんのときは、しろくろのわかいのがいやだったの。でも、それからもっといやなヤツができたの。ちゃしろの、しっぽがまめこよりながくてみみがおおきいヤツなの。さいしょは、いやだからちかくにくるとパンチしておいかえしていたの。でも、あいつはだんだんこのいえになれてきて、からだもどんどんおおきくなって、たいどもおおきくなって、まめこにはむかうようになったの。だいせんぱいにたいしてしつれいだと、まめこはおもうです。

まめこ、こんげつの1にちで12さいになったの。あいつは1さいになったばかりなの。まめこ、にんげんならすみごんとおなじくらいだとおもうけど、あいつは「こうこうせい」くらいだとおもうの。すみごんが、「こうこうせい」のだんしとけんかしたら、まけるにきまってるよ。まめこだってがんばっているけど、あいつはうごきもはやいから、おいつめられてしまうです。

まめこ、なんどもおいつめられて、こわくておもらししちゃったです。すみごんたちはぜんぜんおこらなかったけど、おもらしなんてまめこ、ちょっとはずかしいの。でも、しらないうちにでちゃうんだから、しかたないの。

あいつ・・・「だいすけ」ってゆうなまえらしいけど、そんなりっぱななまえはもったいないとおもうです。「だいすけ」は、まめこが「ふーっ!」「しゃーっ!」っていかくしても、へいきなの。すこしずつ、まめこにしのびよってくるの。そして、まめこの「ひみつきち」にものぼってきて、こないだなんかそこでひるねしてたです。にっくらしいったらないの。

すみごんは、「まーちゃん、だいすけはあそびたいだけだよ。あんまりきらわないで。」ってゆうけど、まめこ、あんなわかぞうとあそびたくないの。それに、「だいすけ」はあまったれで、すみごんにべったりなんだよ。すみごんが、「まーちゃん」ってよぶからいこうかな、とおもっていると、あいつがさきにいってしまって、なでてもらって、ごろごろ、すりすりしてる。けしからん!なのっ!

だから、まめこはさいきん、すみごんにたいする「しんらいかん」がすこしうすれているです。おっさんは、なにかにつけてまめこをかばってくれるので、このごろはおっさんとなかよくして(あげて)いるです。ぶらっしんぐもしてくれるので、だっこされてもおとなしくがまんしているです。

「だいすけ」は、ゴンににているけいろだけど、ゴンとはおおちがいなの。ゴンのほうが、100ばいも1000ばいもかっこよかったの。みかんは、「あんた、わるいめつきでにらむから、よけいにねらわれるんじゃないの?あたしみたいに、あいてにしなければあきらめるとおもうわよ」なんてゆうけど、まめこは「いやなものはいや!」なせいかくなの!

「ふく」はまえほどいやだとおもわなくなったの。だって、「だいすけ」と「ふく」がとっくみあいをすると、「ふく」のほうがつよくて「だいすけ」がいつもにげているの。それをみていると、ちょっとすかっとするです。だから、まめこ、「ふく」をもっとたよりにしようかなとおもうんだけど、「ふく」は「だいすけ」がきらいでいじめているわけじゃないってゆうの。「だって、おもしろいんだもーん!」だってさ。

あーあ、まめこのまいにちは、くらいまいにちなの。たよりはおっさんだけなんだけど、いまいちたよりがいがないってゆうか・・・すみごんに、「だいすけをしからないで」ってゆわれているからなのか、「だいすけ」もかわいがっているのが、やっぱりきにくわないです。もっとびしびししかってほしいの。

すみごんが、「まーちゃん、だいすけもおとなになったら、もうちょっとおちつくとおもうから、いまはがまんしてね」ってゆうけど、まめこ、「だいすけ」がおとなしくなるまでまっていられないかもしれないの。いますぐ、おとなしくなってほしいの!!

らいげつは、さいきんあまりいやじゃなくなった「ふく」のばんなの。さいきん、「ふく」じゃなくて「にく」ってよばれてるの。ぷぷぷ。デブだからなのと、なんども「にく」をぬすみぐいしているから、おっさんが「にく」ってよびはじめて、すみごんまで「にく」ってよんでるの。でも、「ふく」はちっともきにしていないの。そして、あいかわらず、すみごんたちの「すき」をついて、たべものをぬすんでいるです。こないだなんか、「しょくぱん」をほとんど1まいぬすみぐいしたです。わかいやつらって、どいつもこいつも、どうしようもないヤツばっかりだとまめこはおもうようになったです。

きょうは、「たいふう」がきていてさっきからあめがたくさんふっているの。かぜもつよいの。すみごんが、「おそとのこ、あめにぬれないところにいるかなぁ」ってゆってた。まめこも、すみごんちにこなかったらいまごろおそとでぬれているかもしれないの。そうおもって、がまんしようとおもったけど、やっぱりいやなものはいやなのっ!おしまい。

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しりあがり寿の現代美術 回転展

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このところ天気が不安定で出掛けるのもタイミングを見計らって、ということになっているが、先週絶妙のタイミングを得て懸案だった「しりあがり寿の現代美術 回転展」に行ってきた。前々から行こうと思っていたのだが、偶然招待券をいただきラッキーだった。

しりあがり寿氏については以前にも書いたことがあると思うが、私の中では「漫画家」であった。デビュー作である「エレキな春」からのファンなのだが、「現代美術」となるとどのようなものかちょっと想像できなかった。が、実際に行ってみればなるほど「しりあがり寿」らしいというか、ユーモラスで破天荒でありながらどこか哲学的なものを見る者に感じさせる展覧会だった。

展示は過去の漫画作品の原画展示からはじまって、本題(?)である「回転」をテーマとするものに移っていく。身の回りにあるごくつまらないもの、たとえばレシートだとかメモの切れ端だとか食品の包装フィルムだとかトイレットペーパーだとか、そんなものがすべて回転している。別のコーナーでは日本の歴史をごくごくかいつまんだアニメーションがエンドレスで映されている。ゆるーいイラストのアニメーションが大きめのディスプレイにエンドレスで流され、その下ににランダムに並べられた大小のタブレットでもアニメーションが流されている。すべて違うアニメなのだが、どれを見ても不思議と飽きることがない。ひとつひとつ納得がいくまで見ていたら・・・たぶんいつまで経っても見終わることがないような気がした。

そう思った時、ふと「回転とはエンドレスであること」に気づき、このテーマは宇宙的だなと感じた。図録(「回転展を拡張するスーパーカタログ」という名前だが)の冒頭に作家本人の「回転宣言」があり、以下のように書かれている。

(前略)

思えば回転は人類の歴史の始まりから

否この世界の成り立ちから我々とともにあり

大きく回り小さく回り

存在の根源を仄めかし、現れる諸相を巻き込み

いまや直線的な歴史の放棄を迫られた人類に

回転にこそ、その未来があるのだと覚醒を促す

素粒子が回り、銀河が回り、歴史が回り、我々も回る

グルグルグルグルグールグル♪

回れ回れ、回転に幸あれ!

しりあがり寿氏は「天才」という人もあるが私にとってはやはり「異才」の人である。その異才っぷりが半端ではなく、常に新鮮なおもしろさを感じさせてくれる。「なにがなにやらよくわらからないが、おもしろい」といつも感じ、それゆえ何度も読みたくなり、またおもしろいと思い・・・その繰り返しはもしや「回転」か!?

すべての作品を読んだわけではないが(とくに近年のものは読んでいない)、手持ちの作品の中でベストを選べば「真夜中の弥次さん喜多さん」か。続編である「弥次喜多in DEEP」もぶっとび具合が更にアップしていて捨てがたいし、「方舟」の静かな静かな終焉の物語もいいし・・・と選ぶのがなかなか難しい。

とりあえずまだ読んでいなかった「あの日からのマンガ」を注文してみたので近々届く予定だ。あの日とは東日本大震災の日のことらしい。それをどのようにとらえて「しりあがりワールド」ができ上がっているか楽しみだ。

それにしても、ちょっとおかしな話だが今回の展覧会を楽しめた自分が嬉しかった。というのも、年齢を重ねるごとに難解なものをパスする傾向にある自分に気付き、ちょっとがっかりしていたから。わかりやすいものを気楽に楽しむ方を選びがちな自分が情けなく思っていたのだ。しりあがり作品は「難解」だとは思わないが、わかりやすかというとそうではないと思う。「わからないけれどおもしろい」と素直に感じること、わからないなりに楽しめること、そういう感性を失いたくはない。

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