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大人猫の魅力
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・・・生後2週間くらい。なんだこのちっちゃさは!この可愛さは、ずるい可愛さ?・・・
 

猫ブームが続いている。猫に関するイベントが規模を問わず開催され続けていることを見ると、猫好きは相当数存在するのだろう。私も先日チケットをいただいて、「あそぶ浮世絵ねこづくし」を見てきた。江戸時代の浮世絵に登場する、“かわいらしい”とは言いがたい猫たちも駆り出され、あの手この手で猫好きのココロをとらえている。

猫カフェも今や珍しいものではなくなった。私はまだ行ったことがないのだが、一度は行ってみたいものだ。行ってみたいと思っていてもなかなか行かずにいるのは、自分の家に猫がいるからなのかもしれない。なにも金を払ってまで、という気持ちがどこかにあるのかもしれないと思う。

猫カフェも登場したころは純血種の猫が中心だったように思うが、今は里親探しを兼ねた雑種猫たちを集めた店も多い。カフェとしての営業以外にも物販を行ったり、各種講習を開催したりと活動の幅も広がっている。猫を飼いたいという気持ちは持っているけれど、様々な不安があって踏みとどまっている人たちに向けて、猫の習性や飼う時のポイントなどを伝えるという使命もあるようだ。

わが家はすでに猫の方が人間より多く満杯状態なのでこれ以上増やす予定はないが、飼いたいと思っている人に対して「大人猫もいいですよ!」と言いたい。なるほど子猫は無条件でかわいいし、子猫の時から一緒にいれば愛着も深まるかもしれない。性格にもよるが、たいていはごくすんなり人間の暮らしに馴染むから、「なつかない!」という悩みを持つことも稀だと思う。

大人になってからだと、どうしても慣れるまでに時間を必要とする。猫はもともと警戒心が強く、犬に比べても野生を残している動物だ。それが魅力でもあるのだが、猫として自然に成熟した猫は、人間や人間の暮らしにすぐ慣れるというわけにはいかない。人間の方にも配慮や忍耐が求められる。

しかし、大人猫には子猫にない魅力もある。子猫のように走り回ることも少なく静かだ。身体が大きいので病気に対する耐性も子猫に比べれば強い。個性がはっきりするのも大人になってからだと思うので、それを見る楽しみもある。そして、やはりネコ科の動物の「しなやかさ」、動きの美しさが見られるのも大人になってからだと思う。

私のような年齢になると、生まれたばかりの子猫を引き取っても最後まで自分が面倒を見られるかという不安がつきまとう。長生きする猫は20年以上生きる。あと20年以上自分が健康で生きていられるか、途中で入院でもすることになったらどうしようか、など考えてしまうからだ。

そういった不安を持っている猫好きには、大人猫をオススメしたい。慣れるまで時間はかかるが、その過程を楽しもうという気持ちを持てれば、大人猫もなかなかいい。重ねて言うが個性はまちまちで、慣れても食事時以外は放っておいてほしいという猫もいる。「猫なんて呼んでもこない」という映画があったが、呼べば来る、話しかければ反応する、なでられるのが好き、膝に乗ってくる、等々を求めている人には向かないかもしれないが、それはそれでひとつの個性である。その個性を慈しむことができるなら、猫と静かな暮らしを楽しめると思う。

野良猫を保護し里親を募っている団体、個人もたくさん存在するし、自治体の愛護センターなどでも里親募集をしているところが多い。子猫の貰い手はつきやすいが、成猫はなかなか難しいようだ。が、何度か様子を見る機会を得られることも多いので、じっくり猫を観察してこれは!という猫がいればぜひ引き取って大切に飼ってほしいと願う。「保護猫カフェ」というのもいくつかあって、納得がいくまで猫を観察し、アドバイスを受けながら里親になる機会を提供しているからそれを利用するのもいいだろう。

人間の年寄りと老猫という組み合せもいいではないか。お互いいろいろ苦労してきたが、今はなんとなく穏やかで幸せなら、言葉を交わさなくても解り合えているような気分にさせてくれそうだ。

写真はわが家に来たばかりの「ふく」(生後15日くらい)と、生後7ヶ月くらいの彼女。雌猫は生後3ヶ月くらいから成熟しはじめるというから(避妊手術ができるのは6ヶ月以降)、完全に大人にはなっていないもののほぼ完成形か?それにしても、この変わりぶり!!雌猫としては骨格が大きいらしいが、堂々たる体形になりつつある。が、子猫の時にはない可愛さもあって毎日様々な話題を提供してくれている。

わが家の猫については毎月1回の「猫ブログ」で個性を伝えるようにしているが、次女のまめこ(8月で12歳)は、わが家に来て10年以上経過しているというのに未だに警戒心が強い。大きな音や動きには過敏に反応し、部屋の奥に引きこもって出てこなくなる。それでもこちらが気にせずにいると、ふらりと出てきて好きな場所でくつろいでいたり、なでてほしそうにしたりする。他の猫ともさほど仲がいいというわけではないが、険悪でもない。自分のペース、スタイルを持っているのでかえって安心できる面もある。12歳ということは人間に換算すると64歳。私より年上になってしまったが、毛づやピカピカ、体形はスマートで若々しく羨ましい・・・(^^;)

子猫は動きがいちいち可愛いし、無防備で無邪気なところが魅力だ。予想のつかないようなことをするが、小さいからそれもご愛嬌である。しかし、部屋の中で自由にさせておくと、すき間に潜り込んでしまったり、踏みそうになったりする。体力がないので病気に対する気遣いも大人猫よりしっかりしなくてはいけない。留守がちな家で留守番はちょっとかわいそうだ。ライフスタイルや猫に望むもの次第では、子猫より大人猫の方がオススメできる方もいらっしゃると思っている。どうです、そこのアナタ!!

*「保護猫カフェマップ」っていのがあるらしいですよ、奥様。

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・・・でーん!どどーん!生後7ヶ月でこの貫録。でも可愛い(^^;)・・・

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茶芸にふれる
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昨日、友人Rさんが長年習っている中国茶の教室(といってもマンツーマン)の様子を見させていただいた。先生は中国で暮らしたこともあるOさん。日本の茶道さえ知らないので、ちょっとドキドキ!!

話にも出たが、日本でいう茶道の「お点前」にあたる所作の手順(?)を中国茶の場合は「茶芸」というそうだ。「芸」というと私たち日本人は専門的な技術をイメージしやすいかもしれないが、少しニュアンスが違うと思う。日本の茶道が「もてなし」の心を追求するものであるのに対し、中国茶は「茶をおいしく、楽しく飲む」ためのものだという話もある。言葉が適当かどうかわからないが「見せる」ことに重点を置いたパフォーマンス的な要素が強いと感じた。

所作のひとつひとつを見ると、きちんとした決まりがありそうだ。そして茶道に比べて演技的なものを強く感じさせた。が、身に付いた人の動きを見ていると流れるようであり、ゆるやかなリズムがある。それは茶道にもいえることだろう。

茶芸は大きく分けて大陸スタイルと台湾スタイルの2つに分かれているらしい。昨日体験したのは大陸スタイルで、茶を飲む「茶杯」のほかに香りを聞く「聞香杯」というものを使う。茶を飲む直前に一旦少し茶を入れて空にし器に残った茶の香りをまず楽しむために使うもので、円筒形をしている(下の写真参照)。

急須にあたる「茶壺」は小さく小振りのかわいらしいもので、人さし指でふたのつまみを押さえ、親指と中指で持つ。つまみには穴があいており、指をずらすことで「茶海」に茶を注ぐ・・・つまり片手だけで茶を入れる。「茶海」はこれも小型のピッチャーのようなもので、茶を均一化した上でそれぞれの茶碗に分けるため使われる。茶碗は「茶杯」」と呼ばれ、持ち方にも決まりがある。時計でいう12時のところに人さし指、6時のところに親指、底の部分に中指を添えて9時のところから飲む。はじめての私はぎこちないことこの上ないのだが、和やかな雰囲気なので十分楽しむことができた。

普通、2煎目までは口を開かず、3煎目から菓子をつまんだりおしゃべりしたりするそうだ。茶葉の状態にもよるのだろうが、8煎くらいまでは十分香りを楽しめるらしい。日本の緑茶だったら3煎がいいところだと思うが、それだけ茶葉がしっかりしているということなのかもしれない。

昨日飲ませていただいたお茶は2種類。名前を忘れてしまったが最初が鉄観音で今まで経験したことのない香りを楽しむことができた。飲んだ後で香りがすっと鼻に抜け、抜けた後にここちよい余韻が残る。その余韻はすぐに去らず、しばらくの間嗅覚を楽しませてくれるのだ。その体験は私にとって新鮮であり感動に値するものだった。

今日は朝からRさんがくださった鉄観音を飲んでみた。「茶壺」も「茶海」もいただいたので昨日の記憶をたどりながら入れた。いい香りで、しばらくの間はまりそうな気がする。最近私はコーヒーより断然お茶派になっており、普段はそこそこのものを適当に入れていたが、その中に「中国茶」が加わって楽しみもぐっと広がりそうだ。

残念なのは、中国茶の値段が高騰しているらしいこと。いいお茶に巡り合うのも難しそうで、昨日教えてくださったOさんは中国に行って真空パックにしてもらいまとめて買っているらしい。ネットで検索してみても値段は種類によってまちまちながら、25グラムで2000円台なんていうものがザラにある。買える範囲のものを楽しめばいいと思いつつ、もう少し手ごろな値段になってほしいと願う。

*今年は花粉症の薬の副作用(眠気!)が強く出る。
*服用後数時間すると、眠くて眠くて眠くて・・・(^^;) ついつい昼寝!

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| - | 16:18 | comments(2) | - |
最近食べたおいしいもの
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お気付きの方も多いと思うが、食べ物の話題はあまり出していない。理由のひとつに写真をモノクロに決めているということがある。撮った写真をモノクロにしてみると、やはりカラーの方がおいしそうである。なにも「おいしいぞ!」ということを写真で伝えようとは思っていないが、なんとなく気が進まないことが多い。

そもそも私はグルメでも何でもなく、食べ物に特別執着しているわけでもない。また、SNSでよく見かけるように自分が食べたものを知り合いに知らせたいという気持ちもほとんどない。よほど気に入った店に出会えばかえってあまり知らせたくないと思う。いじわるではなく、あまりメジャーになってほしくないと思うからだ。

しかし、年始早々虚血性大腸炎になってほぼ2ヶ月ほど体調が戻らなかった経験を通して、「おいしい」と感じられる幸せがいかにたいせつかを知った。年齢的にももはや「量」はこなせないし、若いころにはなかった微妙な好みも年々強くなってきている。味覚も少しずつ洗練されていくんだなとあらためて思うわけだが、だからこそあまり食べたくないものはできるだけ食べずにいたいと思っている。

それはともかく、今日は珍しく食べ物の話。最近食べたものの中で「おいしい」と素直に喜べたものについて書いてみたい。

上の写真は地元の「一粋」という店の春野菜の白あえ。食べログでのジャンルは「割烹・小料理」となっているが、さほど入りにくい印象はない。検索すると同じ名前の店がいくつか出てくるが(同じ字を書いて「いっき」と読ませる)、私が知っている店の読みは「いっすい」。西京焼きが売り物らしく実際おいしいのだが、それ以外のメニューも季節感がある素材を使った繊細な味付けで気に入っている。

西京焼きは今まで鮭、鯖、鰆を食べたがどれもおいしい。炭火で焼いていて皮までおいしい。前回行った時に頼んだ三つ葉とアサリのおひたしもよかったし、今回食べたはまぐりの蒸し焼きもどことなく磯の香りを残しながら生臭さが全くなくてよかった。どれも素材を選んでいるなと思わせるもので、基本中の基本を押さえた上でいろいろ工夫されていると思う。

もうひとつは下の写真の蕎麦。神奈川県でも東京都でもなく、千葉は茂原にある「蕎麦 さとう」のせいろである。千葉県民には失礼ながら、千葉にこれほどおいしい蕎麦屋があったのかとはじめて行った時は思った。今回は「吟挽そば」の天せいろを頼んでみたが、国産の石挽そば粉を使い手打ちにしたとのこと。確かに風味もありきりっとした食感で美味しかった。

ただし、残念なことにつゆが今ひとつ。私はまず蕎麦だけ食べてからつゆを使うが少しがっかりした。つゆはなかなか「これぞ!」といったものに出会えないのでマイナスポイントというほどでもないのだが・・・あと、天ぷらが今ひとつ洗練されていないように思う。前に行った時は辛味大根せいろかなにかを頼んだのだが、そちらの方が正解かもしれない。

以前は家人とおいしい蕎麦屋を探して歩き回ったものだが、最近とんとそんなことがなくなった。が、2人とも蕎麦好き(もちろん、蕎麦を食べる前に飲む)だし、おいしい酒と肴を楽しんだ後の上質な蕎麦はこたえられない。そろそろ、中目黒辺りにも行ってみたくなってきた。

*地方の美味しい蕎麦というと、山梨・白州の「くぼ田」もなかなか。
*水がいいのが最大の強みかも。

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| - | 08:30 | comments(0) | - |
ヨーコさんの名言
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某局の某美術番組の前のわずかな時間に放送されていた「ヨーコさんの言葉」がまた始まった。ヨーコさん(佐野洋子さん)のファンとしては実に嬉しい。ヨーコさんはすでに故人なのでエッセイなどからの抜粋だと思われるが、ピックアップのセンスがなかなかいい。

先日のものは「2005年夏」というタイトルで韓流ドラマにはまったお話だった。あれ?この話は知っているぞ?と思って後から調べたら「役にたたない日々」に収録されているエッセイから抜粋したものだった。イラストとともに語られるヨーコさんの言葉に「なるほど!」と感心してしまったのは、読んでいた時にはあまり意識せず読み流してしまったからだろう。抜粋されると俄然光ってくる言葉というものもあるが、もう少し丁寧に読まねばと思った次第だ。

お話は「私は韓流ドラマに身をもちくずした」ではじまった。なにかのはずみでそれまで興味のなかった韓流ドラマに一時はまり、そればかり見ていたことはエッセイの中に詳しく記されている。やがて韓流ドラマに対する熱は醒めるのだが、醒めた後の冷静な目線で書かれている文章はユーモラスでおもしろい。

韓流ドラマにはまったヨーコさんは韓国まで行ってしまう。「冬のソナタ」のロケ地まで行き、大勢の小母さんたちに会う。そして自分を含めた上で「小母さんたちは淋しいのである」と言い、その淋しさの中で「燃焼しきれない見果てぬ夢」に気付き、「もうこれでもかと満たされたい」のだと分析する。

そして、私からするとこっぱずかしくて見ていられないような「やさしさの表現」を素直に受け入れ、「情」をとことん使い抜く韓流映画に涙する・・・そしてヨーコさんは言う。

理性は矛盾を許さないが、感性は矛盾のマグマである。

これは名言だと思う。理性的な人、感性に従って動く人、いろいろいるが大抵は「理」と「情」の狭間で揺れ動きながら生きていくのが人間だろう。理性と感性の使い方が違うだけなのかもしれない。しかし、なかなかそれに気付き、そんなもんだと割り切れるものではない。

現に私は未だに韓流映画の良さ(韓国映画、ではない)はわからないし、あれに自分がはまってしまうことは想像できない。「なんであんなもんにはまるのか」という気持ちが今でもある。しかし、ヨーコさんのエッセイを読んでみると、私がそう思うのは私の理性がそうさせているからであって、矛盾だらけの感性が少しでも動けばこの私とてどうなるかわからない。

ヨーコさんは小母さんたちの行動力に感心し、小母さんたちに感謝し、こう書いている。

しかし私は小母さんである。小母さんは無意識である。使われなかった気持ちの袋が空っぽだった事も気づかなかった。韓流ドラマを見て、気持ちの袋に見果てぬ気持ちをドバドバ注ぎ込まれたのである。知らなかったら、気づかずに死んだだろう。人生こんなものさって。しかし、ブラウン管に映る絵空事で、こんなに満たされたら、そりゃお得です。(「役にたたない日々〜2005年夏」より)

ヨーコさんは韓流ドラマが「絵空事」だということを知っている。その上で「お得です」と言いきる態度が羨ましい。私もそれくらいフレキシブルになれたらいいのに、と思う。実年齢からすれば私だって立派な小母さんなのだが、小母さんゴコロがまだ足りないのであろうか。

| - | 18:21 | comments(0) | - |
躑躅の花
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・・・同じ躑躅でもこれは大好き。淡い淡い黄色のヒカゲツツジ・・・

いよいよ様々な花の開花シーズン開幕といった今日このごろ、旅行雑誌はもちろん駅貼りのポスターや情報誌、新聞の旅行広告は「花を堪能する旅」のまさに花盛りである。

桜が終わっても○○があるさ、というところだろうが、当然ながら見てみたいと思うものもあれば、ちょっと遠慮したいものもある。もちろんごく個人的な好みや感覚によっての話だが、私はその個人的な好みがけっこうはっきりしていて開花シーズン到来も手放しで喜べない。花ならなんでもいい、なんでもきれいだと思えたら、もっと心穏やかでいられるのにと思う。

今ごろ見頃を迎える花の中では、躑躅が少し苦手である。ただし条件付きで、都市部の公園や街路樹の下あたりで咲いている色鮮やかな躑躅が苦手。朱色、赤、赤紫等々の花がびっしり咲いているのを見ると、目の奥が痛くなるような感覚を覚えて花には申し訳ないが思わず目を背ける。

同じ色の躑躅の花でも、それが山の中や緑に覆われた場所ならさほど気にならない。緑の中のアクセントとしてあるなら街中で見るよりずっと美しく見える。

躑躅といえば、小学生のころ親が館林に連れていってくれたことがある。バスに長い間乗って行った記憶があり、乗物酔しやすい私と妹は現地に到着するまで楽しいというより苦しく不安な時間を過ごした。なんとか吐き気をやり過ごしてバスを降り歩き始めたら躑躅の花のまっただ中。息が詰まるような、眩暈がしてきそうな、妙な気分を味わった。それがトラウマになっているのだろうか。初夏の気温を思わせる中でびっしり咲いている躑躅の花を見ると今でも目を閉じたくなる。

幼いころから、私は色に対する感受性が過敏だった。過敏であるということは色から多くの幸せな気分を貰えると同時に、多くの不快な思いも感じざるをえない。生まれつきのものなのでどうしようもないが、時折それを負担に感じることがある。もっと鷹揚に、もっと広い心でいられたらと思うだが、こればかりは頭がいくら命令してもどうしようもない。

子どものころ、躑躅の花をむしって(ごめんね、躑躅)蜜を吸った記憶もある。あの時はほとんど何も感じなかったのに・・・そんなことを思い出すと躑躅が苦手などと言っていて申し訳ないような気もする。しかし、やはり躑躅の過剰な花群に出会えば目を背けてしまうのだろう。

実は、住んでいるマンションの敷地内にもかなりの数の躑躅がある。葉が小さく花も小さめなのだが、花盛りともなると明るい赤の花をびっしり咲かせて私の目を悩ませる。最近は手入れが行き届いていないのか、花付きが以前よりよくない。それで少し救われている私なのであった。

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そろそろ本気で電気について考えなくちゃ。
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桜に気を取られていたらもう4月も終わりそう。あっという間にゴールデンウイークに突入し、あっという間に夏になってしまいそうだ。今年こそエアコンを新調しなければと思うが、その前に電気を買う会社を決めなくてはいけない。

東日本大震災以来、東京電力への不信感が募るとともに今まで自分が使っていた電気についてあまりにも無頓着だったことに愕然としてきた。そして「反原発オバサン」と揶揄されようが、とにかく原子力を資源とする電気は使いたくないと思ってきた。

この度の熊本の地震でも川内原発・伊方原発への不安があちこちで指摘されているようだが、たとえ地震など大きな天災がなくても、いやそれ以前の問題として原発は必要ないと思う。稼働している限り次から次へと出てくる廃棄物の処理は一体どうするのか。処理できないということは、手に余るということだ。そんなものは必要ない。

しかし、いざ電力会社を選ぶとなるとなかなか悩ましい。電力販売に名乗りを上げている多くの企業の中からどれを選ぶか。まずその基準を自分なりに設定しなければならないだろう。

まず、電源構成を公表している会社でなくては信用できないし、電気会社を変える意味がない。また、電気料金も重要だ。原子力を使っていないからといって電気代が現在よりかなり高くなってしまってはやはり困る。理想だけでは生活できぬ。

残念なことに、わが家はオール電化の集合住宅である。だから、例えば東京ガスなどで実施しているガス利用との相乗り割引などが使えない。それでも使うとなると料金はいくらくらいになるのか問い合わせしてみたが、深夜電力の「力率」なるものが不明のため(検診票に記載されているらしいのだが)試算はできなかった。検診票はまじまじと見ることなく処分していたので、次に来た時にもう一度見積もりしてもらおうかなと思っている。

昨日だったか、「iSwitch」というキャンペーンを知ったのでさっそく登録して「電力乗り換えガイド」を入手してみた。住んでいる地域別に利用できる電力会社が掲載されており、電源構成もわかるようになっている。これを参考にしながら、そろそろ本気で検討に入りたいと思っているところだ。

| - | 15:53 | comments(0) | - |
隅田川を往く
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・・・大好きな勝鬨橋。築地も次第に淋しくなるなぁ・・・
 

一昨日、Mちゃんと一緒に隅田川クルーズを楽しんできた。日の出桟橋から浅草までの40分は、いつ乗っても短すぎる。次から次へと橋が現れて、もう少しゆっくり楽しみたいといつも思う。

隅田川沿いはかつて1人で延々と歩いたものだ。水のある風景は気持ちを明るく穏やかにしてくれるが、とくに私は川が好きだ。「往く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」のように、寄せては返る海の波よりも、常にとどまる湖の水よりも、常に移り変わる川の水が私の気持ちにはぴったりする。

川から見る両岸の建物群も散歩やジョギングをする人々も同じように見えて常に変化している。永遠に変わらぬものなどないという思い、無常観ともいえる思想が私の根底にあるのに気付くのも、川への愛着を感じる時だ。移ろいゆき変わりゆくものの中に「美」を見出すのが日本人の美意識だといわれていると聞けば、私もやはり日本人だなぁと思うのである。

今回吾妻橋で降りて言問橋に向かう途中にもうひとつの発着所があるのに気付いた。いつも利用するのは「隅田川ライン」だが、「東京水辺ライン」というのがあってこちらはまた別のコースが用意されている。いつも40分はあまりに短いと思うし、一日中乗っていたいような気もするので次回は「水辺ライン」の「江戸東京ぶらり旅」コースにしてみたい。両国を9:35に出て吾妻橋、浅草、千住、を通り両国に戻る。その後今度は越中島、お台場海浜公園、ビッグサイトに向かい桜橋を経て浅草、両国に17:05に戻る。8時間弱になるから、たっぷり隅田川を堪能できそうだ。

一昨日はせっかくだから日が暮れてからも乗りたいということになり、お気に入りのカフェ・ムルソーでワインを飲みながら暗くなるまで時間を潰した。駒形橋や川が一望できる好立地だが平日なので客もほとんどない状態で時間つぶしとはいいながらいい時間を過ごせた。

夜の隅田川もまたいいものだ。ナイトクルーズというのもあるようなのでこちらも一度経験してみたい。うーん、欲張り!!

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・・・夜の勝鬨橋もいいぞ!グリーンとブルーにライトアップ!・・・

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「さざなみ」
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今週はお出掛け週間。火曜日に新宿御苑、水曜日は映画、木曜日は牡丹園、そして昨日金曜日は隅田川クルーズと洒落てきた。4日立て続けに出かけるといささかお疲れ気味。終末はゆっくりしようと思っている。

水曜日に見た映画は「さざなみ」。前評判がいいのか(私は新聞の映画評を1つ読んだだけ)珍しく満席状態。レディースデーということもあろうが、今までの経験からしても珍しい。平日の昼間に映画を観に行ける立場だということもあるが、映画の内容がものをいっているのか中高年の女性が圧倒的に多かった。

この映画の原題は「45years」。45年間というのは、シャーロット・ランブリング演じるケイトと夫であるジェフが共に暮らした年月。週末に結婚45周年記念のパーティを控えた週の月曜日から物語は始まる。

イギリスの郊外、緑溢れる穏やかな環境の中で夫婦は静かに暮らしている。仕事はそれぞれ引退したようで、子どもはいない。長い年月を共にした夫婦は互いを空気のように受け入れ、凪のような時間を共に過ごしている。

しかし、月曜日に夫宛の手紙が届いた時から夫婦の間に奇妙な違和感が生まれる。夫宛の手紙には、50年以上前に雪山で遭難した夫の恋人であった女性の遺体が発見されたという知らせだった。ともに登山したものの、恋人はクレバスに落ち行方不明になっていたのだった。が、地球温暖化の影響からか雪が溶け、澄んだ水の中に当時のままの姿で恋人がいた。スイスまでその遺体の確認をしにきて欲しいという依頼も添えられており、ジェフの心は揺れる。

自分たちが知り合う前のことだ。そしてそのような恋人がいたということはケイトも知っていた。が、恋人が遭難した経緯や夫と彼女がどのような関係であったのかは聞いたことがなかった。あれこれ聞く妻に夫は「僕のカチャ」と恋人の名前を口にし、聞かれるまま昔の出来事を詳細に話す。

火曜日、夫は珍しく街に出たいと言い出す。そして図書館で地球温暖化についての本を借りて読みふける。週末のパーティの話を含め他のことにはほとんど関心を示さないほど地球温暖化についてとらわれている。それはとりもなおさず、温暖化によって姿を現したかつての恋人への思いに繋がっているように妻には思える。深夜、物音に気付いて起きたケイトはジェフが屋根裏部屋でカチャの写真を探していることを知る。ケイトとジェフは自分たちの写真を持たない。それまでは写真がないことも自然の成り行きだったのだ。しかし・・・

週末まで、時間は淡々と流れていく。とりたてて大きな出来事は起きない。ジェフが気乗りのしないOB会(かつて勤めていた会社の)に出たことくらいだ。夫がいない間にケイトは屋根裏部屋に上がって古いスライドを見つける。プロジェクターのスイッチを押し次から次へと写真を見ていく。ぼんやりしたカチャの写真は次第にはっきりしたものになっていく。呆然とするケイトはパーティの担当者からの突然の電話で我に返る。

金曜日、ケイトが起きるとジェフがいない。メモを残して1人街に出かけていた。予感に導かれるようにケイトも街に出て、旅行会社に入る。スイス旅行について相談しに来た人はいなかったか、と聞くとやはりジェフは来ていた。夕方帰ってきたジェフとケイトは珍しく強い言い争いをする。いや、ケイトが一方的に怒り、「彼女(カチャ)の名前を言わないで。匂いが家中に染み込んでいるの!」と言い、自分をなだめるかのように「薬を飲み、そして夕食。それから寝て、そして起きる。またやり直すの」とジェフに告げる。

土曜日、シックなドレスに身を包んだケイトはジェフからプレゼントされたネックレスをつけてパーティに臨む。友人知人で溢れる会場でケイトはにこやかに対応するが、その表情は硬くぎくしゃくしている。ジェフはスピーチでケイトへの変わらぬ愛を語り、自分の言葉に感動して涙を流す。和やかなパーティ会場の中で、ケイトは1人取り残されたように見える。ジェフとダンスをしていても、誰かと話をしていても、ケイトが心から楽しんでいないのは明らかだ。シャーロット・ランブリングの表情がなんともいえない。

ジェフは前日の妻の言葉を都合のいいようにとらえ許されたと思いパーティを楽しんでいる。妻の心の変化に気付きもしない。月曜日に現れた「さざなみ」は次第に波紋を広げ、今や45年間という夫婦の時間を押し流そうとしている。その後に残る虚しさ、不信感、絶望。ケイトはそれを呆然としながら感じ取っているように見える。

いかに長い年月を共に暮らしてきた夫婦であっても、ほんの小さな出来事をきかっけにそれまでとは違う関係になってしまうこともある、ということだろう。それほど、男と女の関係は微妙なのだ。ある意味で怖い映画でもあると思う。映画を観た多くの女性たち、とくにケイトと同年代の女性たちが何を感じたか聞いてみたい。

シャーロット・ランブリングは「愛の嵐」以来ずっと好きな女優で、年を重ねてからの映画もいくつか観ている。一見冷たそうに見える表情の中に神秘的ともいえるニュアンスを漂わせる希有な女優だと思う。まだ見ていない作品もあるのでこれを機会に探してみようと思う。また、若き監督カンドリュー・ヘイ(1973年生まれ)にも要注目だ。

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22日は猫に語らせる日・・・4月担当:まめこ
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おはようちゃん。まめこなの。さいきん、とってもごきげんわるい、まめこなの。

ごきげんがわるいわけは、いろいろあるの。みんなかいていると、じかんがなくなっちゃうから(まめこのじかんじゃなくて、すみごんの。ぷんぷん!)すこしかくです。

こないだ、ねんまつでもないのに、すみごんとおっさんがへやのなかをおかたづけしていたの。ものおきみたいになっているおへや(すみごんのむすこがいたへや)のダンボールをうごかしたり、いろいろすてたり、バタバタ、ドンドンやっていて、しんけいしつなまめこはこまったです。おちつけるばしょがなくて、すごーくこまったです。ごはんものどをとおらないほど、こまったです。ぷんぷん!

おへやのかたづけがおわったら、なんだかみなれないものがおへやにあったです。「ケージ」っていうらしいけど、なんであんなじゃまものをおくのかな。まめこにはわかんないです。すみごんたちには、それなりにりゆうがあるらしいけど、おへやのなかにみなれないものがあると、まめこはおちつかないの。はやく、すてちゃえばいいとまめこはおもうです。

あと、さいきん、あのしろくろのわるいやつが、「かわいい」とゆわれているのがふふくなの。まだかんぜんにおとなになっていないのに、まめこよりふとっているんだよ。まえほど、かんだりひっかいたりしなくなったので「かわいい」とゆわれているだけなのにさ。あいつは、ちょっといいきになっているようなきがするです。

でもね、こないだあいつは、「ひにんしゅづつ」をするのでおいしゃさんにつれていかれたの。まめこもやったけど、しらないうちにおなかをさかれてしまうんだよ。こわいこわい!で、そのときあいつは、「これいじょう、ふとらいようにきをつけたほうがいいでしょう」とせんせいからゆわれたの。あいつはもう4.3キロあるんだって。デブなの。いままで、みかんのことをデブってゆっていたけど、みかんはさいきんやせたので4キロないの。だから、デブはあいつだけなの。

あいつったら、「エリザベスカラー」ってゆうのをつけられているのに、ちっともきにしないの。ふだんはとおれても、あれをつけているととおれないところがあるのに、ごういんにぐいぐいとおろうとするの。ごはんのときだって、たべにくいのにそのままがつがつたべるんだよ。あるくときにくびをふってあるくので、すみごんたちが「かわいい」とゆっていたけど、そんなことをゆうからあいつがつけあがるんだよ。

そうそう、すみごんが、こないだ「けんこうしんだん」ってゆうのをやって、「ちょうゆうしゅう」とゆわれたとじまんしてたけど、まめこなんか「ひにんしゅづつ」をしてから、びょういんにいっていないよ。たいけいもスマートだし、つやつや、ぴかぴかだよ。すみごんよりずっと「ゆうしゅう」だとおもうです。

らいげつは、しかたないけどあいつなの。このごろ、ごはんのときはとなりのへやにとじこめられているです。だって、はやぐいでたべおわったらみんなのごはんをとるんだもん。ざまみろ!なの。おなかに、チャックみたいなきずあとがあって、かっこわるの。けけけ! おしまい。

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牡丹
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けっこう前から牡丹園に行きたいと思っていた。須賀川(福島県)がつとに有名だが気軽に行くには遠いので、今日は茂原(千葉)の牡丹園へ。同じ千葉県の東松山にもあるようだが、茂原は友人が住んでいることもありブログで記事も読ませてもらっていたのでとりあえず。

雨が降りそうな天気だったが、降り始めたのは牡丹園を出て帰路についたころ。曇りという天気は花を見たり写真を撮ったりするには最適で、花そのものも強い陽射しにダメージを受けることがないのできれいだ。

茂原牡丹園は、田園風景の中にあるこじんまりした施設。茅葺き屋根の民家が2棟あり、その庭園を牡丹園にしていて雰囲気もなかなかだ。母屋は享保年間(1730年)、長屋門は天保8年(1837年)の健造とのことで、建物を見る楽しみもある。

牡丹の蒐集・栽培は昭和54年間からで、現在250種・2500株が養生されているという。牡丹についてはほとんど知識がないので品種間の違いなどはよくわからないのだが、花びらの数、質感、色合いなど微妙な違いが園芸植物としての歴史を語っているように思われた。

私は基本的に大きな花はあまり好まないのだが、例外はやはりある。そのひとつが牡丹で、あと思い浮かぶのは蓮、朴くらいだろうか。芍薬もきれいだなとは思うが、牡丹から感じる気品はあまり感じない。

牡丹に高貴さを感じるのは、中国で最高位の花とされていること、それゆえか「花王」という別名もあること(他にも「富貴花」「百花王」「花神」「天下国色」等々たくさん!)に無関係ではないかもしれない。が、そのような知識がなくても、見る者を圧倒するような豪華絢爛さで、野草が好きな私の気持ちでさえ惹きつける。突き抜けた豪華絢爛さを目の前にすると、「恐れ入りました」という気分になってしまうのだ。

鉢での栽培もできるが、やはり庭に植えた方がいい花だと思うし、狭いベランダでは「花王」には申し訳ない。そういう意味で気楽に楽しめる(手に入れたいとはあまり思わないから)のもいい。来年はぜひ須賀川にも行ってみたいものだ。

*茂原牡丹園の開園は5月9日まで。
*牡丹園に行く前に、「蕎麦さとう」でお昼を。
*牡丹園の写真はfacebookにアップしました。

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