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日々の内側
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ゆく年くる年〜ゆく人くる人
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さて、2015年も今日で終わり。これといって感慨はないが、昨年の今日書いたことを思い起こすとなんだか予知めいた内容で不思議さを感じる。


昨年12月31日の記事のタイトルは「死を想え」だった。前日に元同僚のNを見舞ったことから連想された内容だとは思うが、果たしてそれだけだったのだろうか。記事の最後を私はこう括っている。


来年はもっと「死を想う」時間を増やし、生きていることに感謝し、生きているうちにやりたいことをやろう。


「死を思う」時間は意識して増やしたわけではなく、そうせざるをえなくなった。年明け早々訃報が3回立て続けに届いた。そのうちひとつは以前にも書いたようにNの訃報だった。知り合いの家の犬や猫が亡くなり、わが家のゴンも旅立った。自分や身近な人たちの「衰え」を強く感じるようになった中での「死」は、自ずと自分の「死」を想うこと、「死」とは何かと考えることにつながっていった。



あらためて言うまでもないことだが、私も私の周りの人たちもいつこの世からいなくなるかわからない。「死」という絶対的なものによる別れ以外にも、なんとなく疎遠になっていくということもある。


みな自分の人生を自分の足で歩んでいるのだから、そういう人たちの人生と私の人生の接点がなくなったに過ぎない・・・と思うことにしている。私は「縁」というものを大切にしたいと思っているのでできるだけ不義理はしていないつもりだが、「縁」も「義理」もとらえかたは人それぞれだ。去る者は追わず、のスタンスが一番いい。


以前に比べて外に出ることが減り(仕事はもっと減り)、新しい出会いは少なくなった。が、今年は中学校時代の友人に会えたし、友人と江戸巡りの散歩や美術館に何度も行くことができた。その都度それぞれの人生から得たものを交換できたと思うし、それはこれからも続いていくと期待している。自分のネットショップを通じて京都にお住まいの方とも知り合え、いつか京都に行った時は案内してくださるとの約束もできた。「いつか」が来年になればいいとほのかな希望も持っている。


また、来年2月には久しぶりの旅行ができるかもしれない。極寒の季節に極寒の地に行く計画がある。今から楽しみだ。ぱっと明るいことがほとんどなくなってしまった昨今だが、好奇心を持ち、何かを作り、どこかに行く。


来年は私にとって一つの区切りの年になるかもしれない。年女だし。どう区切るのか自分でもわからないが、新しい何かを見つけられればいいと思っている。さよなら、2015年。


| - | 18:05 | comments(0) | - |
迎春のアレンジ
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毎年暮も押し迫ると、正月の花はどうしようかと思う。といっても、わが家の玄関には花を飾る場所もなく、リビングは猫の餌食になるので花は飾れない。置けるところは私の部屋のデスクの上くらいなものなのでおおげさなものではない。が、新しい年を迎える時くらい、少しは気を入れて花を活けようかと思うのであった。


昨日地元の青山フラワーマーケットに行ってみたのだが、花の種類は少なく、かつ花束やアレンジがたくさん並んでいるものの個別に買える花となると季節感のないバラやダリア(冬にダリア!)が多く店内に入ったもののなかなか決めることができなかった。


いったん店を出て昔ながらの花屋に行ってみたが、そちらも同じようなもの。松・千両・菊などの束ばかりが幅を利かせていて自由に選ぶことがほとんどできない状態。椿や梅の枝物でもあればと思っていたのだが、全くみかけなかった。


それでもせっかく意気込んで出てきたので、再度青山フラワーマーケットに戻って松、ハボタン、スイセンを買った。ちょっと物足りなかったので、スーパーの花束も買い中に入っていた緑色の菊を入れて活けてみた。今年はオアシスという便利なものを用意したので切って挿して終わり!という手軽さだ。


器はだいぶ前(おそらく30年くらい前)に駒場同大前にあった器の店で買った作家物のボウル。作家名を忘れてしまったが、今でも気に入って何かというと使っている。食器として売られていたものだが、私は花や根洗いの草盆栽専用に使っている。


部屋の掃除を終えて花を飾ると気持ちが少しすっきりする。花の隣にゴンの写真を置いて、しんみり静かに新年を迎えたい。


*カラー版は、「木と草と花と・・・」で。

| - | 21:15 | comments(0) | - |
馬のいのち・犬のいのち・猫のいのち
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日曜日の有馬記念、ゴールドシップは残念ながら着外に終わった。ラストランの有馬を優勝で飾ったオルフェーブルのようにはいかなかったが、無事走り終えて本当によかったと思っている。レース後に引退式が催されその動画を昨日見てみたが、厩務員さんの涙が印象的だった。決して扱いやすい馬ではなかったと思うが、だからこそ愛着も強いのではないだろうか。


競馬番組でレースの実況ももちろん見た。本当に白くなり、荒々しさが薄れて優雅な馬という印象になっていた。雄大さを感じさせる馬体はやはりただ者ではなく、優等生ではないがまぎれもなく名馬といえる馬だろう。種牡馬生活もそれほどのんびりしたものにはならないだろうが、現役時代ケガひとつしなかったことを思うと彼らしく気ままにやっていくのではないかと思う。ゴールドシップの父であるステイゴールドが今年死亡してしまったのは残念だが、父の血を継ぐ名馬を生み出してほしいと思っている。


G1に出てくるような馬はほんのひとにぎりだが、それらの馬たちがすべて順調に種牡馬になれるかというとそうでもないらしい。昨年の有馬記念に出た後ケガで引退したウインバリアシオンは一時乗馬になるというニュースが流れた。結局青森で種牡馬になれたようだが人間の都合に振り回された感がある。


有馬の前日行われた中山大障害に出走して途中でレースをやめたアポロマーベリックは結局安楽死となってしまった。まだ若くても致命的なケガをすればたいていの馬は安楽死となる。がんばってもがんばっても勝てずに引退した馬の中には食肉になっていくものも多いと聞く。競走馬ははかない生きものだと思う。だからこそ男たちはロマンを求めるのかもしれないが、私は馬たちのその後が気になってロマンどころではない(^^;)



りきの毎日」のりきさん宅の犬、ハナ(華)ちゃんが9月に亡くなったそうだ。7月末に小猫(ふく)を連れて行った時は会えたのだが、再度お邪魔した時ハナちゃんがいなかったので少し気になっていた。


 ハナちゃんはりきさんの息子さんが小学校5年生の時コンビニの前に繋がれたままになっていたのを保護した犬。「お世話係」(息子さん)の犬として幸せな日々を送った。公園までピクニックに行きのんびり昼寝している姿が印象的だった。私が最初にりきさんの家にお邪魔した時、散歩がてら駅までりきさんと一緒に来てくれたハナちゃん。大好きな「お世話係」と最後の夜も一緒に寝て、ちゃんと看取ってもらうまで生き抜いて・・・推定17歳の立派な生涯だった。ご冥福を祈りたい。



今年は私にとって唯一無二の存在だったゴンが旅立ってしまった。今でも毎日写真に向かって話しかけているが、まだそこいらへんにいるような気がしてならない。残った猫たちを今まで以上にかわいがることをゴンも望んでいると思う。


 ふくも生後6ヶ月を迎えようとしており、まだまだ子どもっぽいが以前より他の猫に飛びかかっていくことが減ってきた。相変わらず噛みつくことがあり油断ならないが、どうやら噛むことはふくにとってコミュニケーション手段らしいと気付いた。毛皮のない人間にとっては痛いコミュニケーションなのだが、そう思えば怒らずに済む。今のところ人見知りはせず、先日漏電検査があったがまったく平気だった。おおらかに育ってくれればいい。若いいのちは輝きに満ちている。それを見せてもらうだけで十分だと思いたい。

| - | 21:35 | comments(0) | - |
年末感、ほとんどゼロ!
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もう28日だというのに、年末だという実感がほとんどない。もちろん頭ではわかっている。大掃除しなくては、とも思うし、ゴミを早めに出さないとゴミ置き場がいっぱいになって困ることになる、との懸念もある。が、なぜか切迫した気分がまったくない。いつもより少し丁寧に掃除をすればいいかな、程度にしか思えてこないのでいまだにほとんど何もしていない。


普段からきちんと整理整頓や掃除をしている家ならいざしらず、わが家は散らかり放題。今年は子猫がきたこともあり、壁紙は急激にボロボロになり、カーペットは猫が吐いた跡だらけ。いくらきれいにしてもシミは増えるばかりで、もう諦めの境地になってしまったような気がする。それに加えて片づけられない人が約1名(^^;)。たいていのことなら目をつぶれるようになってきた自分が少し恐ろしいかも。


久しぶりに行ったスーパーでは、正月用品を特設コーナーで売ってはいるが、客はまばら。 ドラッグストアの前で店員が呼び込みをしていたがなんとなく空回りの雰囲気。年がら年中セールをやっているので、「最終処分」という言葉の魅力もとっくの昔に失せている。


実家では毎年大騒ぎして大掃除をしていた。母は料理はまったくといっていいほどダメだったが、掃除が大好きな人。近くの会社にパートにでるようになってからも、毎朝出社前に家全体を掃除する週間だった。掃除をしているとテンションが高くなるのか、ハタキの音がうるさくて寝坊していられなかった。大掃除となるとさらにヒートアップし、父も1年に一度くらいはがんばろうと思っていたのか張りきってあれこれやっていた。


そんな家だったので、年末の大掃除は義務として長らく私の頭の中にあった。しなくても特段困りはしないが、気持ちがすっきりせずクリスマスを過ぎたくらいから切迫感を感じるようになる。会社勤めが長かったのでそう早々と掃除にとりかかるわけにはいかなかったが、休みに入るとすぐに計画を立てて30日までにはすべてを終え、大晦日はゆっくり過ごしたいと思ってい

 た。


ところがどっこい、どこでどうなったのかは覚えていないがここ数年は大晦日に掃除などをしている。それもかなりおおざっぱに。買物も大晦日。買うものは雑煮の用意くらいか。それでも去年は築地まで行き昆布や海苔を仕入れてきたが、今年はそれもなし。明日から3日間、ゆるゆるとできる範囲で動くのみになりそうだ。

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新聞代集金人と新聞について話をする。
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毎月月末になると新聞の販売店が集金に来る。以前別の新聞を取っていた時は銀行引き落としにしていたので販売店の人と合うのは契約更新の時くらいだったが、新聞を変えてから毎月少なくとも1度は会うことになった。いつもは無口でまじめそうな人が集金に来ていたのだが、今月は別の人で玄関先で少し立ち話をした。


今の契約は来年3月までのものだが、早めに再契約できないかと言う。新聞契約件数は年々少なくなっているのだろうから、どこの販売店も契約確保に必死なのだろう。それは十分わかるのでかまわないのだが、今の新聞(毎日新聞)に変える時、かなり迷ったのでもう少し考えさせてほしいと答えた。


毎日新聞か東京新聞か・・・これでけっこう迷い結局毎日新聞にしたことを話すと、「東京新聞、いいですよね。僕も好きです」との答えが返ってきた。ただ、東京新聞の場合独自の販売ルートがないため、他の新聞販売店に委託する形をとっており、販売店員は熱心に勧めることをしないのでなかなか購読拡大が難しいのだ、ということも教えてくれた。


朝日や読売の販売店にいたこともあるそうだが、新聞そのものが好きな人のようで、記事の内容や取材の方向性などについて少し話をすることができた。彼曰く、どの新聞もとりあげる大きなニュースはネットでも見られるから、その他の記事が大切、と。


ちょっと意外な気がした。今まで会った新聞販売店の人(とくに勧誘担当)は、新聞の内容の話など全くせず、とにかくオマケをこれくらいつけるから頼みますよー!という人がほとんどだったのだ。私はもううんざりしており、契約しない理由をあれこれ考えるのさえ面倒になっていた。自分が契約をとろうとする新聞の内容や他社との違い、訴求ポイントなんて全く考えず、とにかく契約件数を増やすことだけを目指しているのは明らかだ。それが彼らの仕事かもしれないが、商品についてよく知りもせず売ろうなんてやはりどこかおかしいと思う。


結局契約更新の返事は年明けまで待ってもらうことにしたが、もう1年同じ新聞を読んでみようかと思っている。というのは、知人がつらい闘病生活をしている脳脊髄液減少症についての記事(11月30日、12月25日夕刊)を掲載していることを評価しているから。


また、今日の新聞ではハンセン病患者を取材した記事が一面と六面(六面は全面使用)に掲載されており、長い間地道に「弱い立場」の人たちと付き合おうという記者が存在すると思うからだ。


新聞を変えてから以前よりじっくり新聞を読むようになった。来年はさらにじっくり読みたいと思っている。なんだかんだ言っても、私は電波より紙媒体の方がまだ信頼できると考えているから。



話は全く変わるが、今日は有馬記念だ。発走は15:25だそうで、今からワクワクしている。馬券は買っていないが・・・芦毛の怪物・ゴールドシップはこのところ全く奮わないが人知を超えた馬なので何かやらかしてくれるのか。ラストランだし好きな馬なので私の希望としては勝って欲しいのだが、期待を裏切るのを楽しんでいるようにも見える馬なのでどうなることやら。牝馬のルージュバックにもがんばってもらいたいが、去年からちょっと注目しているサウンズ・オブ・アースあたりが来ると嬉しいかも。騎手もミルコだし。

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孤独死
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昨日の記事を書きながら頭に浮かんだので、今日は「孤独死」について。


高齢化がどんどん進むにつれて、一人暮らしの高齢者に関する様々なニュースを耳にする。しかし一口に「独居老人」といってもそれぞれの背景は様々だろうし、一人で暮らすことを選んだ高齢者も少なからずいるはずだ。が、ニュースの調子はどこか「年をとっているのに一人なんで可哀想」だという色合いを帯びているように感じることが多い。そしてその度に「そうかなぁ?」と私は思う。


本人が家族と一緒に住みたいと思ってもそうはいかない事情をかかえている場合も多いと思う。しかしそんな場合でさえ、「可哀想」だと同情してしまってはかえって失礼になるのではないかと思うこともある。世の中の人々の多くが「わかりやすい」ことばかり求めているように思えてならないが、人間は複雑でわかりにくいイキモノなのだ。それなのにひとつのレテルを貼ってわかったような気になっているとしたら、それは大きな間違いだと思う。


一人暮らしの老人が死後かなり経過してから発見される。部屋の中は散らかり放題で、整理するため専門の業者が呼ばれたりする。それを社会問題としてニュースでとりあげるのは悲惨な話題を常に探しているマスコミの習性だ。その人たち一人一人の背後になにがあるのか、当人が何を考えていきてきたか、などを深く掘り下げることは稀だし、たとえ掘り下げたとしても理解できているかどうかはわからない。


病院で、家族親族に看取られて死ぬのが幸福だ、と思うのも錯覚だと私は思っている。死んでいく本人がそれを望んでいたなら幸福だと思うが、果たしてみながみなそれを望んでいるのだろうか。ひとりでひっそりと死んでいきたいと思っている人だっているのではないか。


もう何年も前に亡くなった伯母は、最期まで一人を通した。夫に先立たれたが、夫の故郷にお骨を収め自分たちの墓を持とうともしなかった。子どものころからよく面倒を見てもらっていたので夫婦の様子は見ていたが、夫を嫌っていたわけではないと思う。仲が良い夫婦だった。


だから、夫(私にとっては伯父)の骨を故郷の墓に入れたと聞いたときには何故なんだろうと思ったが、伯母には伯母の考えがあったのだろう。


身体が弱く、癌を患い入退院を繰り返していた。近くに住む姉(昨日書いた95歳の伯母)が心配して一緒に住もうかと言ったこともあったと聞くが、仲のいい姉妹でも一緒に暮らすとお互いに無駄な気を遣うからといって一人暮らしを続けた。身体が弱くなってからはヘルパーを依頼していたようだが、自分でできることはできるだけ自分でやっていた。


最後に入院した病院に見舞いに行ったが、それこそ老人の吹きだまりのような狭い病院の8人部屋で伯母はひっそりと死の訪れを待っていた。だいぶ前に卵巣ガンになり卵巣を摘出したのだが予後が悪く人工肛門をつけることになって久しかったが、今度は肺に癌が見つかったと本人から聞いたことがある。が、年齢からしても癌の進行はゆっくりなのでその前にあの世に行くことになるかもね、なんて笑っていた。


しかし、やはり癌の進行は着実で、私が最後に会った伯母は痛み止めのパッチ(モルヒネ?)を胸に貼っていた。まだ話はしっかり通じたが、なにを思ったのか写真を撮ってほしいといきなり言い出し、偶然コンデジを持っていたので撮ってあげて小さなディスプレイで見せると満足そうな顔をしていた。あの時伯母は、もうその病院で自分が死ぬことをわかっていたと思う。そして、結果的には姉が急遽駆けつけて最期を看取ったが、誰もいなくてもそれでいいと思っていたのではないか。そんな気がしている。


まわりに人がいようといるまいと、死ぬときはみな一人だ。そう考えると「孤独死」などという言葉は無意味に思えてくる。望んだように死ねればいいが、そうできるかどうかは誰にもわからない。一人で生まれ、一人で死んでいく。ただそれだけだ。

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衰えゆく歳月
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新聞の書籍広告欄を見ていたら、「一〇三歳、ひとりで生きる作法」(篠田桃紅著)が目に留まった。著者である篠田さんについては恥ずかしながら全く存じ上げなかった。墨を使った作品を手がけていらっしゃるようで、世界的な評価も高く有名な方に違いない。ネットで調べて作品の一部を見たが、気持ちの中にぐっと入ってくる作品がいくつかあった。機会があったらもっと見てみたいと思っている。エッセイも書かれているようなので、そちらの方をまず読もうか。


広告には本の中からいくつかの文章が抜粋されて掲載されている。最近よく見かける体裁だ。広告曰く「世界が賞賛する孤高の美術家」の「若さにこ媚びない姿勢」がこの本に書かれているらしいのだが、さすがに自立して生きてきた一〇三歳の方の言葉はいちいち納得できるものが多い。前作「一〇三歳になってわかったこと」はベストセラーになっているそうだ。


印象的な言葉がいくつかあったが、「昨日より衰えている。しかし、人の成熟はだんだん衰えていくところにあるのかもしれない」には思わずうなるほど共感した。自分のことを考えても日々衰えを感じる今日このごろだし、先日95歳の伯母と電話で話したばかりだったのでなおさら「衰え」について考えることが多くなっているからなのかもしれない。


よく言われることだが、熟した果物は腐る一歩手前・・・もしかしたら微かに腐りかけているのかもしれないと思うことがある。しかし、成熟とは最もよい状態のことを言うのか。商品としての果物であれば最もおいしい時点を指すのかもしれないが、生命体として考えた場合成熟とは果たして「点」であるのか。どんどん衰えていく日々はもしかしたら成熟が深まっているということだと考えられはしないか。


電話口で伯母は、夜眠りにつく前「’明日はちゃんと目が醒めるだろうか」と思って恐くなることがある、と言っていた。同じことをもう何度も聞いている。95歳になっても、やはり「死」は恐いのだ。もう十分生きたと思っても。死にたくないというよりも恐いのだと思う。


私のような若輩者が言うのは生意気なのだが、「でも、伯母さん、誰でもいつかは死ぬんだし」と言うと「そうねぇ、そうよねぇ。なんだか少し気が楽になった気がするわ」という明るい声が返ってきた。95歳ともなれば「死」を思うことは日常的になっているのかもしれないが、それについて口にすることはタブーだという意識が私などの年代より強いのかもしれない。が、「死」は当たり前のことであり、、また語るべきことだと私は思っている。伯母の気持ちが少しでも軽くなればそれが一番。


今年、白髪を染めることをやめようと思ったあたりから、私自身の中で何かが変わり始めているような気がしている。何が変わりかけているのか今のところわからないが、悪いことではないと思っている。もしかしたら、これからいつまで続くかわからぬ「衰えゆく歳月」を冷静に見つめる覚悟のようなものができてきたのかもしれない。


自分ではできるはずだと思っているから、落ち込んでやけを起こす。それを“思いあがり”という」この言葉も鋭い。


 日々できることが少なくなるのに対して自分の中の記憶は「まだできるはず」だと思わせる。そのギャップをどうとらえるか。残された時間がどんどん少なくなっているのだから、落ち込んだりやけになったりするのはもったいない。だからといって、諦めきってだらしなくなってしまうのは避けたい。時にはちょっと無理をしながら、時にはちょっと自分を甘やかしながら、静かな気持ちで自分の衰えと向き合っていく。それが肝要かな。難しいことだとは思うけれど。

| - | 18:22 | comments(4) | - |
羊毛っていいな。
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手編みの素材の中で一番好きなのがウール、という話は以前にも書いたと思う。コットンやリネンなどの糸を編んでいるとどこか違う!という感覚をいつも感じるのは、触覚人間の私の手がウールの感触や編み心地を覚えているからだろう。同じウールでも品質はいろいろだし細かく言えばどんなウールを使っているかによっても感触は違うのだが、とにかくウールが好き。だから編み物は秋冬に限ると思っている。


けっこう前から、糸としてのウールだけでなく「羊毛」にも関心をもっていて、「羊毛のしごと」(緒方伶香著)などの本を時々見たりしていた。が、ニードルを使ってフェルト玉を作ること以外はほとんど何もしていない。


数年前に少しだけお湯を使って圧縮させたりしてみたのだが、コサージュらしきものを2つほど作った後はなにもしていない。興味は失っていないのだが、作業場所を考えると億劫になってしまって。


 しかし、このところまた羊毛熱があがってきて、通販で羊毛を買ってみた。街の手芸店などで販売されている羊毛は主にメリーノ種(羊の種類ね)なのだが、これがけっこうニードルでまとめにくいのだ。別の羊の毛を試してみたくてコリデールという種類の羊の羊毛を選んでみた。今日届いたのでさっそくボールを作ってみると、これがとてもいい感じ!まとめやすいし、ニードルを刺す時の感触がなかなかで癖になりそう。


「羊毛のしごと」ではいろいろな羊の毛が紹介されている。「ロムニー」「メリーノ」「コリデール」「コーモ」「ポルワス」「ゴットランド」・・・それぞれに特徴があり、私などはまず触ってみたいと思ってしまう。カラフルに染色された羊毛もいいが、私が一番好きなのは染色しない原毛。ミルク色やベージュ、様々なグレー、焦げ茶色、などナチュラルな羊毛で何か作ってみたいなぁと思っている。本当は1度習いにいくといいのだが、習い事嫌いな私なので結局自己流でやってみるかもしれないが。やっぱり習った方がいいかなぁ・・・


今回羊毛を注文したのは山梨に本店がある「アナンダ」という店。様々な羊毛を販売しているだけでなく講習会も行っている。幸運なことに吉祥寺に支店があるので、来年あたり1度見にいってみようと思っているところだ。


羊といえば、息子が小さかったころ千葉のマザー牧場に行って、羊の毛の刈取りを見学したことがある。お土産に刈取った毛をもらってきたのだが、汚れているわ脂っぽいわでしばらくしたら捨ててしまった。きれいに洗えば何かに使えたかもしれない。あのころは羊毛に特段興味を持っていなかったので仕方ないが、羊そのものもちゃんと見てくればよかったと思う。羊がたくさんいる牧場にも行ってみたいものだ(探しておこうっと!)。


それにしても・・・ふわふわの羊毛を触っていると幸せな気分になる。いいなぁ、羊毛!

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足元の貧困
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たまにテレビを見ると、子どもたちへの寄付を呼びかけるCMを見かける。きれいに澄んだ大きな瞳でカメラを見つめる子供たちは、今この時も死に瀕しており、1日100円、150円の寄付があればそんな子供たちを何人も救える・・・と伝える。


昨日のみかんの言葉ではないが、ボーナスだ、クリスマスだ、とうかれている世間に対して、世界で何が起きているかを少しでも伝えることができるなら、寄付募集のCMもそれなりに意味があるものだと思う。自分から知ろうとしなければ、何の罪もない子どもたちが戦争に巻き込まれ、信じられないような辛苦を経験しながら生きていることなど対岸のどころか遠い世界で起きている火事でしかない。


電車に乗れば、まだ大人になりきっていないうちに結婚を強いられ、未熟な身体で子どもを産まざるをえない女の子たちがいると額面広告が伝える。あんなことがあったのに原発をなしくずし的に受け入れようとしているどこかの国の国民には信じがたいことだろうが、どこでも一番辛い思いをしているのは子どもたちだと重苦しい気持ちになる。


そんな子供たちに対して何かできるのであれば、なんらかの行動に移すのは良いことだと思う。見て見ぬふりをするより、ずっとずっと良いことだと。しかし、それ以前に、やはり自国の状況をもっと知らねばならないのではないかとも考える。


朝日新聞が子どもと貧困についてシリーズ記事を掲載しているが、その内容を読むと現在の政治のあり方、ひいては施政者を選んできた国民のあり方(もちろん自分を含む)がいかにひどいかを思い知らされる。そして、世界中の子供たちへの配慮も大切だが、まず足元の貧困に向き合うことを優先させたいと思う。


生活保護の不正受給が問題になっているが、本当に必要としているのに受給されない人たちも確実に存在する。母子家庭、DV、介護、派遣切りなど様々な重荷を背負った人たちが見捨てられつつあるような気がすることがあり、他人事ではないという気持ちにもなり、気分はいっそう暗くなる。


19日の記事では、母に隠れてティッシュを食べていた姉妹の暮らしが伝えられていた。香り付きのティッシュは噛むと一瞬甘いということを発見した姉。妹はティッシュに塩をふって食べていたそうだ。夫のDVに耐えかねて家を出た母親は派遣で働いていたがうつ病になり、国民保険が払えなくなると窓口の職員に低収入でも払っている人がいるんだと言われ、長女のぜんそくの薬を求めに薬局に行ったものの金がなかったため「慈善事業じゃない」と薬を手にすることができず・・・自分一人でかかえこまずにいればいいのに、と言うのは簡単だ。が、そういった立場になり精神的にも追いつめられている人にとってそれは残酷というものだろう。


私が子どものころ、年末になると町内会で「歳末助け合い」(名称はうろ覚え)の回覧板が回ってきて、役員が集金にきていたと記憶する。つましい暮らしの中から無理のない程度の寄付金だったと思うが、そういう寄付が日常的に行われていたのだ。寄付する方も「施し」という意識はほとんどなかったと親を見ていて感じたものだった。今はどうなっているのだろうか。


12月はいつもこんなことばかりを考えるし、なんとなく慌ただしくて好きではない。しかし空気は冷たく澄んで、窓から見える町の灯はとてもきれいだ。


素直にきれいだと思えるのは、それが生活のための灯だからだろうと思う。目を刺すようなLEDのイルミネーションよりよほどきれいだ。少しでも多くの人たちが、野良猫たちが、あたたかい場所と食事を得られますように・・・そんなことを祈りながら灯を見続けている。


*いやー、今日はけっこう寒いっす!

*出かけた先で少し歩いたけれど、冷えきってしまった。ああ、温泉に入りたい!

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22日は猫に語らせる日・・・12月担当:みかん
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みなさん、おはようございます。みかんです。今年も残すところあとわずかになりました。世間はクリスマスだ、イルミネーションだ、大掃除だ、お正月だ、と騒がしくなってきたみたいですが、あたしたち猫にはほとんど関係ありません。ケーキ好きじゃないし・・・でも、ゴンは生クリームが好きだったな・・・と、今でもゴンのことを思い出すことが多い今日このごろです。


今年は生意気なチビがきたと思ったらゴンがいなくなって、騒がしかったり淋しかったり複雑な心境の1年になりました。でも、やっぱりゴンがいなくなったのが、あたし的には一番大きな出来事でした。


実は、先月の13日の夜、すみごんたちが寝てしまった後のことですが、ゴンがあちこちうろうろしていたんですよね。歩き方がよぼよぼしているのに、あっちに行ったりこっちに行ったり。具合悪いんだから、じっと寝ていればいいのに、とあたしは言いました。するとゴンがあたしのところに来て、「オイラ、そろそろ“みもこころもかるく”なりそうだにゃ。あとのことわ、たのんだにゃ。」って言ったの。


あたしは、「そんな気弱なこと言わないでよ」と答えましたが、ゴンは今まであたしをだましたり、嘘をついたりしたことがなかったし、あたしもなんとなくそんな気もしていたので目だけで「わかったわ」と言いました。ゴンも目だけで「それでこそオイラのいもうとにゃ」と言いました。だから、翌朝になってゴンが旅立った時も特別挨拶しませんでした。


思えばよく遊んでもらいました。小さいころは、しつこいくらい毛繕いしてくれたし、後足びろーん状態になっている上にのしかかっても怒らずそのままにしてくれました。寒い季節はよく一緒に寝ていて、顔と顔をくっつけている姿は道祖神みたいだと言われるほどでした。時々虫の居所が悪いと突然襲ってきたりしましたが、あとでこっそり「さっきわ、ごめんにゃ」と言っていました。あたしにとってゴンは、親変わりであり、兄であり、弟であり・・・大きな存在だったことは間違いありません。


でも、ゴンと約束したことだし、これからはあたしがしっかりしないと、とひそかに思っています。すみごんたちも、「みーくんがわが家の猫の中で一番偉いんだから、堂々としていいんだよ」と言ってくれていることだし。まめこは、ゴンがいなくなったことがショックだったらしく、それもこれもチビのせいだとばかりに追い掛け回していますが、もともとあの子も偏屈な性格なのでしばらくは見守るだけにしようと思っています。


この間久しぶりに(10月以来だから久しぶりじゃないでしょうか)病院に行きました。あたしの場合は、持病?の便秘を診てもらうためだったんですが、体重は3.8キロでした。ゴンは2.2キロまで減ったらしいです。本当にギリギリまでがんばっていたんだなぁと今更ながら思い、あたしもがんばらなくちゃと思っています。


チビ(ふく)もだいぶ大きくなりました。まめこと大きさがあまり変わらなくなって、自分も猫ブログに参加したいと言っています。まめこは反対で「あんなやつに、ぶろぶがかけるわけないよ」と言っていますが、ゴンに任されたあたしとしては、来年の様子を見て決めたいと思っています。


来月は、最近攻撃的な一面を見せるようになった、まめこの番です。寒くなってきたので、「まめこの巣」(タオルケットなどをまるめて土手を作り、中にあんかを入れたもの)を、毎日作ってもらい中で寝ていることが多くなりました。考えてみれば、あたしは今14歳(人間なら72歳)、まめこは12歳(同64歳)。ふたりとも老人の域に入ったといってもいいですね。来年は心穏やかに過ごしたいと思っています。


今年1年、あたしたちの猫ブログを読んでくださり、ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。


■ふくんこ通信■

ふくも生後6ヶ月を過ぎ、大人になりかけている状態です。来年早々には避妊手術をしなくてはいけないかな、と思っているところです。様子はまだ子どものままですが、まめこに追いかけられはじめてから、少しは恐いものもあるということを理解したようにも見えます。みかんにちょっかいを出すことも前より少なくなったかもしれません。

最近は私の蒲団の中に入ってくるようになりました。若いので熱気むんむんで少し暑いですが、じっとしているなら歓迎しています。が、時々突然噛むので困ります。寝る時は薄着なので噛まれたらひとたまりもありません・・・(T.T)

最近は「食欲の鬼」と言われています。なんでもよく食べます。食べ過ぎてデブになりそうです(^^;) いつも写真が小さいと文句を言うので今回は大きめに。

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ちいさいしゃしんだと、あたちのかわいいかおがよくみえないみゃ!

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