さて、2015年も今日で終わり。これといって感慨はないが、昨年の今日書いたことを思い起こすとなんだか予知めいた内容で不思議さを感じる。
昨年12月31日の記事のタイトルは「死を想え」だった。前日に元同僚のNを見舞ったことから連想された内容だとは思うが、果たしてそれだけだったのだろうか。記事の最後を私はこう括っている。
来年はもっと「死を想う」時間を増やし、生きていることに感謝し、生きているうちにやりたいことをやろう。
「死を思う」時間は意識して増やしたわけではなく、そうせざるをえなくなった。年明け早々訃報が3回立て続けに届いた。そのうちひとつは以前にも書いたようにNの訃報だった。知り合いの家の犬や猫が亡くなり、わが家のゴンも旅立った。自分や身近な人たちの「衰え」を強く感じるようになった中での「死」は、自ずと自分の「死」を想うこと、「死」とは何かと考えることにつながっていった。
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あらためて言うまでもないことだが、私も私の周りの人たちもいつこの世からいなくなるかわからない。「死」という絶対的なものによる別れ以外にも、なんとなく疎遠になっていくということもある。
みな自分の人生を自分の足で歩んでいるのだから、そういう人たちの人生と私の人生の接点がなくなったに過ぎない・・・と思うことにしている。私は「縁」というものを大切にしたいと思っているのでできるだけ不義理はしていないつもりだが、「縁」も「義理」もとらえかたは人それぞれだ。去る者は追わず、のスタンスが一番いい。
以前に比べて外に出ることが減り(仕事はもっと減り)、新しい出会いは少なくなった。が、今年は中学校時代の友人に会えたし、友人と江戸巡りの散歩や美術館に何度も行くことができた。その都度それぞれの人生から得たものを交換できたと思うし、それはこれからも続いていくと期待している。自分のネットショップを通じて京都にお住まいの方とも知り合え、いつか京都に行った時は案内してくださるとの約束もできた。「いつか」が来年になればいいとほのかな希望も持っている。
また、来年2月には久しぶりの旅行ができるかもしれない。極寒の季節に極寒の地に行く計画がある。今から楽しみだ。ぱっと明るいことがほとんどなくなってしまった昨今だが、好奇心を持ち、何かを作り、どこかに行く。
来年は私にとって一つの区切りの年になるかもしれない。年女だし。どう区切るのか自分でもわからないが、新しい何かを見つけられればいいと思っている。さよなら、2015年。