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日々の内側
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旧藤澤カントリー倶楽部・クラブハウス〜グリーンハウス
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友人Sさんのブログにステキな建物の写真があったので、見当をつけて調べ自分の目で見に行ってきた。廃虚はもとより少し間違えれば廃虚になりそうな建物、このままでいくと荒れ放題になってしまいそうな建物が何故か好きである。情報に出会うとついつい行きたくなる。そういう建物はたいていすぐれた設計のもとに建設されており、古いが観賞価値が高いものが多い。


旧藤澤カントリー倶楽部のクラブハウスは現在「グリーンハウス」の愛称で呼ばれているらしい。竣工は1932年(昭和7年)で設計はアントニン・レーモンド。1943年に海軍に徴用されるまで各界の著名人たちが交流する華やかな場所だったという。


現存する日本最古のクラブハウスとのことで、建築文化面からも重要な建物だと思われる。建築については疎いので様式などは全くわからないが、剥落した壁もいい雰囲気を醸し出しており、こじんまりとはしているがなかなか見どころの多い建物だと思った。


屋根は緑青色のスペイン瓦で、その色から「聖心の布教姉妹会」のシスターたちから「グリーンハウス」と呼ばれた、とリーフレットに記載されている。建物西側に回ればその瓦が見られたようだが、今日はそちらまで行かずに帰ってきてしまい、ちょっと残念だ。


屋内は、現在食堂として利用されている。今は一帯が神奈川県立体育センターとなっており、様々なスポーツを楽しむ人たちが利用しているのだろう。食堂は「玉屋食堂」というこれまた日本的かつ庶民的な名前。メニューも「かつ丼」「親子丼」「カツカレー」「オムライス」「ラーメン」など庶民的で、値段もリーズナブル。量が多いとのことだったので今日はオムライスを少なめで、と注文したが食べきれなかった(^^;)厨房は家族経営のようなアットホームな雰囲気で、由緒ある建物とのギャップがなかなかおもしろい。


歴史的建造物を残していくのはなかなか難しいようだ。補修や修理にも膨大な資金が必要であろうし、公開するとなると安全面での配慮も必要になってくる。ただ、壊してしまえばそれまでなのである。樹齢数百年の樹を切り倒してしまうのと同じことで、なんとか方策をみつけてできるだけ残してほしいと思う。


横浜の赤レンガ倉庫の現在を思うと、私は複雑な気持ちになる。残ったのはいいが、あのような形で・・・と。できれば、建物をできるだけ当時のままにしておいて、博物館や美術館など文化的施設にしてほしかった。あそこまで商業的な施設になってしまうと興ざめなのである。また、半ば放置状態になっている根岸の競馬場も心配だ。とても美しい建物なのに。


空気が冷たく澄んできた。桜の紅葉もはじまって秋は深まり明日から11月。私の好きな季節がやってくる。体力・経済力(^^;)が許す範囲で、できるだけあちこち出かけていきたいと思う。


エリスマン邸旧イタリア大使館別荘もレーモンドの設計なのね。

*旧イタリア大使館別荘は一度行ってみたいところ。

*そういえばレーモンド松屋さん、どうしているかな?

*お話したことはないが、仕事関係で間近で歌を聴いたことが何度か。

*陽水ばりののびのある声でっせー!


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SHUNGA
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今週はじめ、永青文庫で開催されている「SHUNGA〜春画展」に行ってきた。ちょっと不便なところにあるかな、と思っていたのだが、目白駅からのバス便の本数も多く、思っていたよりスムースに行くことができた。


開催される前からある程度話題にはなっており行くつもりではいたのだが、少し行くのが遅れた。こういう話題性のある展覧会は開催されたらすぐに行った方がいい、とあらためて思った次第。というのも、日数が経過するととりあげるメディアも多く認知度が高くなるので、自ずと混雑するのだ。


案の定、展覧会は盛況。予想を上回る混雑ぶりで「みなさん、お好きですな。ふふふ」と自分のことを棚に上げて心の中で微苦笑した。年代はやはり中高年層が多かったが若い人もちらほら。やや男性の方が多い感じはしたが、女性も積極的に鑑賞していた。まあ、場所が由緒正しき細川家由来の施設だし、おばさま方にも入りやすかったのかもしれない。


一言でいうと、充実した展覧会だった。春画という特殊なジャンルの展覧会は開催がなかなか難しいと思われるが、あれだけの作品を集めて公開したということは大きな仕事だと思う。


春画は肉筆画と版画に大きく分けられるが、展示された作品の作者がまた豪華である。渓斎英泉、歌川国貞、月岡雪鼎、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川国芳・・・美人画や役者絵でポピュラーな人気を誇る作家がちが軒並み春画を手がけていることはよく知られているが、こうして実物を見る機会はあまりない。浮世絵で有名な作家だけではない。徳川幕府御用達の狩野派などおよそ春画とは縁がないという印象を持たれがちな絵師たちも、その技術を駆使した美しい春画を描いている。


見終わってまず感じたのは、江戸時代の性風俗の明るさ、おおらかさである。なんだかみんな楽しそうで、悪い事をしている、人には知られたくないことをこっそりやっている、という雰囲気はほとんどない。人間の営みそのものを謳歌しているように見える。


 登場するのは公家、僧侶、武士から一般庶民まで様々で、時には外国人なども出てくる。多くは室内での出来事だが、ついたてごしにのぞき見する者がいたり、夫婦が子どもをあやしながらことに及んでいたり、と明るい滑稽味がある作品が多い。


春画というと一点に視線が集中しがちだが、全体を見ると構図のおもしろさ、巧みさや着物や室内の設え、季節感の演出などがとても巧みに表現されていることがわかる。技術的にも特出したものを持った作家が多いため、技量の限りを尽しなおかつ自分が楽しみながら作品に取り組んでいるのを感じる。


また、江戸時代の「色っぽさ」を味わえる展覧会でもあると思った。写真は展覧会のフライヤーにも採用されている喜多川歌麿「ねがひの糸口」の部分的なアップだが、歓喜を味わう女性の足の表情を鏡に映すという粋な趣向は江戸時代の遊びの精神の神髄を感じさせる。全体で見るよりこの切り取られた部分だけの方がかえって「色っぽい」と思うのは私だけだろうか。


展覧会は12月23日まで。夜8時までやってくれるのも嬉しい。興味のある方は(そこのあなた!)、これだけ春画が総覧できる機会はめったにないと思うのでぜひ。


*入場料はトーハク並の1500円。

*それより驚いたのは、図録が4000円。凝った作りなので妥当かもしれない。

*でも、資料としての価値もあるので思い切ってゲット。

*物販販売コーナーには「春画トランクス」もあった。

*懐に余裕があったら、家人に買ってあげたのになぁ(^^;)

*下の写真は図録の背。なんていうのかな?こういう製本。


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図書館と出版社
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今朝、朝日新聞のニュースサイトで『本が売れぬのは図書館のせい?新刊貸し出し「待った」』という記事を読んだ。公立の図書館が新刊本を貸し出ししていることにより、売れ行きが伸びず増刷できた本も増刷できなくなった等々の理由らしい。


記事では、全国図書館大会の「出版と図書館」分科会において、新潮社の佐藤隆信社長が売れるべき本が売れない要因の一つは図書館の貸し出しにある、と口火を切ったと伝えている。佐藤社長はある人気作家の過去作品を例にとり、全国の図書館が発売から数ヶ月で貸し出した延べ数万部のうち、少しでも売れていれば増刷できていた計算になると説明したというが、なにを根拠にした「計算」なのか・・・


出版不況が言われて久しい現在、出版各社の苦境はわかる。活字離れが進む中「電子書籍」という怪物が襲いかかり苦しくあえいでいる姿は容易に想像できる。が、この苦境はすべて自分たちを取り巻くもののせいだろうか。業界内で様々な反省に基づいた取り組みが行われているのかもしれないが、本屋に行ってもそれを感じることができぬ。


読書に対するスタンスは人それぞれで、読みたい本は買うことにしている人もいれば、できるだけ買わずに借りる人もいる。「買う」と「借りる」を使い分けている人もいる。図書館の貸し出しを要因の一つにして売れ行き云々を言うのであれば、なぜ「買う」のか(あるいはなぜ買わないのか)、なぜ借りるのか(あるいはなぜ借りないのか)をきちんと調査し、その裏付けをもって発言してもらいたいと思うのは私だけだろうか。


前にも何度か書いたかもしれないが、私が住む横浜市は図書館が少なくて情けなく思っている。もっと近くに図書館があれば、私の読書生活はもっと充実したものになると思う。新刊本はほとんど借りないが、好きな作家の新刊を楽しみにし、図書館を利用している人は多いことだろう。そんな人たちの中には、まずます高額になる本を買うゆとりがない人たちもいることだろう。そういう人たちに対して、出版社は「タダで読めるんだから、1年くらい待つのは当然」というつもりだろうか。


それ以前に、買うほどの価値がないと思われる(私個人の感覚で、の話)本がどれだけ本屋の店先に溢れていることか。ちょっと興味は持ったとしても、手に取ってパラパラとページを繰った後で「買うほどではないな」と思う本がどれほど多いことか。


記事の中の表現を借りるなら「エンターテイメント系」の作家の本というものは、買う価値のある本ばかりなのだろうか。もちろん価値観は人それぞれだからその価値はない、とは言わない。が、買うほどの本ではないという理由で借りている人たちだって一定数存在すると思う。出版社には綿密な調査をして、何に問題があるのかまず知っていただきたい。


ふと、忘れかけていた不愉快な出来事を思い出してしまった。確か今年4月に出版された本を8月だったか9月だったかに買おうと思ったのだが、すでに売り切れて書店の店頭にも出版元の販売サイトにもない。


 書店で調べてもらったら、出版元にもなく増刷する予定もないとのことだった。新聞の書評にも掲載され、大衆的な注目はないかもしれないが、興味を持つ人たちにとっては読んでみたい本だと思われるのに、出版後数ヶ月で絶版状態になってしまうというのはどういうことなのか。増刷しても増刷分がどれだけ売れるか分からないという商売上の理由があるとしか思えず、いささか腹が立ったことを覚えている。


ついでなのでその本が何なのかを書いておく。「忘れられた詩人の伝記ー父・大木惇夫の軌跡」(宮田毬栄)だ。発売日は今年の4月24日。出版社は中央公論新社。取り上げたメディアは多く、ざっと調べただけで以下のとおりである。


「忘れられた詩人の伝記」宮田毬栄著〜弱さを詩に昇華した父

 ・・・読売新聞(5月18日)

忘れられた詩人の伝記 宮田毬栄著〜洞察力と情で切開する父の生涯

 ・・・日本経済新聞(6月16日)

十余年の歳月をかけて娘が辿りついた父の実像「忘れられた詩人の伝記」宮田毬栄 ・・・(週刊文春6月28日)

「忘れられた詩人の伝記」宮田毬栄著

 ・・・朝日新聞(7月12日)

「忘れられた詩人の伝記」宮田毬栄著

 ・・・産経ニュース(7月12日)


本の価格は4600円(税別)で、単行本としてはどちらかというと高額だ。が、本当に読みたい人は買う可能性が高い本だと思う。


私が読んだのは朝日新聞の書評だったので、本の存在を知ったのが7月。すぐにAmazonを探したがすでに売り切れ状態。8月に東京の丸善に行ったので調べてもらったら、すでに絶版状態であることを知った。発売から3〜4ヶ月で絶版かい!と思った。


私は比較的本をよく買う方だが、こんなこと初めてである。よほど古くて内容がマニアックなものでない限り、発売後数年は手に入れられるというのが私の中での感覚だったのだ。


 しかし、これを機に欲しいと思う本は(まあ、エンターテイメント系でないことは確かだが)すぐに買わないといけないかなぁと思うようになった。出版社がそういうスタンスなら仕方ない。その代わり、買うかどうか迷ったらとりあえず借りて読んでみようかとも思っている。本当に好きになれる本は一度読んでもまた読みたくなるはず。借りて読んでみて、自分にとって価値のある本だったら間違いなく買うだろう。


出版というと文化レベルが高い業界かと思いがちだが(そんなことないか)、やはり商売なのである。本当に本が好きな人のことより、売れ行きに目が向いても仕方ないのかもしれない。が、そんなことばかりしていると、ますます自分たちが困ることになるかもしれないとも思う。


これも最近のことだが、TSUTAYAを運営するCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)と公共図書館の共同運営に取り組んでいた図書館流通センターが協業を見直す方針を明らかにした、というニュースがあった。公共の図書館と利益を追求する一般企業では水と油。さっさと共同運営をやめた方がいいと思っている。図書館は図書館。図書館らしくがんばってほしい。私のような貧乏人のためにも、ね!


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こけしおり
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先日、東京ステーションギャラリーのミュージアムショップで「こけしおり」なるものを見つけた。


名前の通り「こけし」の形をした「しおり」で、実用的かつ可愛らしいということで購入。こけしマニアではないが、ここ数年ちょっと興味を持ってきたし・・・


単行本はたいていしおりがついているが、文庫となるとついていないものもけっこうある。しおりとして使うものが本の中に入っていたりするのだが、読んでいるうちに無くしてしまうことがある(寝ころんで読んだりするから)。


なくしてもさほど惜しいものではないのだが、ないならないで不便。また適当な紙切れを探してしおりにする。そんなことをしてきたが、この「こけしおり」ならもう少し扱いがよくなり無くすこともなくなるだろう。


このしおりは、本に対して垂直に使う。本のページを開くとこけしがすっと立ち上がるようになっていて、単純ながらこれがなかなかよい。また、各こけしの裏には「津軽」「鳴子」「作並」など産地の名前も書かれていて、それぞれの特徴がわかるようになっているところもミソである。


5枚セットだったので2枚を友人におすそ分け。残る3枚を自分で使う予定にしている。読書の秋のかわいいパートナーができた。


こんな動画がありました。

*発売元はユニークな紙モノが楽しいCOCHAE


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わき出る綿毛〜ガマ
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先日河原でとってきてそのままにしておいたガマの穂がついに破れた。破れたという表現が適切かどうか・・・


 ソーセージのような穂の中にぎゅうぎゅう詰めになっていた綿毛が時を得て少しずつふくらみ、外側がそれに耐えられなくなってくると、滑らかだった穂の表面に微かなデコボコができてくる。薄いところと厚いところの差が出てくるので、薄いところが咲けて中の綿毛が出てくるというしくみだ。


家の中に置いているので河原よりはずっと風に当たらない。が、かすかな風にも出てきた綿毛は舞い上がり、このままにしておくと部屋中綿毛になってしまいそうだったので、ビニール袋の中に穂を入れ手でそっと押してみた。すると・・・出てくる出てくる綿毛が溢れ出るように出てくる。「もう我慢できないぞ!」と言わんばかりに、どんどん出てくる様子を見ていると、「すごい!」としかいいようのないような感動を覚える。


ぱっと弾けるのではない。やんわり出てくるのではない。まるで泉のように溢れ、流れてくるのだが、その綿毛のなんと繊細で軽いこと。ひとかたまりを掌に乗せても重さというものを感じないくらい軽い。羽毛のようでもあるが、ひとつひとつはもっと繊細で儚げだ。


昔の人はこの綿毛を蒲団の綿として使ったというが、どのようにして収穫したのだろう。非常に軽いのでちょっとの風でも飛んでいってしまう。風の当たらない屋内で、そっとそっと穂を押しながら収穫したのだろうか。


綿毛のある種をつける植物はたくさんあって、タンポポなどキク科の植物にも多い。秋ならやはりススキやオギが代表だろうか。しかし、私は今までこんなにドラマチックに綿毛を飛ばす植物を見たことがなかった。穂から綿毛がはみでているところは遠目で見たことがあったが、ひとつの茎にこんなに綿毛を集めていたなんて・・・


数えた人がいるのか!とも思うが、1本のガマの穂の中にある種(綿毛付き)はおよそ35万個だとか。ガマの穂を収穫した時、予想以上に重たくて驚いたのだが、この数字を見るとなるほどと思う。


ガマは、この軽い軽い綿毛をできるだけたくさん飛ばし、水に落ちると綿毛はすぐに種からはずれるという。種はそのまま水に沈んでいき、川の底に落ちてもぐり発芽する。まるで無駄がない。大胆でありながら緻密な計算をしているかのように思えるいのちのしくみ。


人間の技術も信じられないくらい進歩しているが、これほどそのしくみに感動することはないだろう。自然界には私たちがまだ知らない驚くべきしくみがたくさんあるということを、今年はガマに教えてもらった。


困ったのは、綿毛を出してみたものの捨てることができなくなってしまったこと。水辺でも近くにあれば蒔いてみたいような気もするが、とりあえずガラスの保存容器に入れておこうと思う。


*ソーセージの表面の茶色も種なんだよ。

*綿毛がすべて飛ぶと茎しか残らない。

*あふれ出る様子は、ここの動画で→こちら

*ガマの穂のしくみは、こちら

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猫人気アップ!
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しばらく前から、猫の人気が高くなっているような気がしていた。が、猫キチの私のこと、猫といえば頬がゆるみなにかにつけて贔屓目に見てしまうし、猫に関するニュースは自ずと目に入れてしまうので気のせいかもしれないとも思っていた。


が、テレビのCMにしてもやたら猫を使っているし、猫に関するイベントも続々と催されていて、やっぱり猫に関心を持つ人が多くなってきたのかなぁ・・・とまた思ったりもした。


今朝のニュースサイトで、ペットとして猫が犬を逆転しそうだという記事が目を引いた。ペットフード業界の調査によると、飼育数は犬が12.8%減少しているのに対し猫は3.6%増加しているという。数としてはまだ犬の方が多いが、推移を見ると近い将来猫の飼育数の方が多くなる可能性が十分ある、ということだろう。


猫の飼育数が多くなった背景として、散歩にいかなくてもいい、しつけをしなくてもいい(しようとしてもなかなかできないけどね)、など手間がかからないということ、単身者にも飼いやすいということ、などがあげられている。


 また、ネット動画の影響も指摘されており、行動の予測がつけやすい犬よりも不思議ちゃんである猫の方が動画対象としておもしろく、猫に関心を持つ人の増加に繋がっているのではないかとのことだ。


猫キチとしては喜ぶべき状況だと思う。猫を虐待するけしからん輩がまだ存在しているようだが、そういう人たちを許さない人がどんどん増えてくれればいいと思うし、飼うことができなくても、あたたかい目で猫を見てくれる人が多くなれば厳しい暮らしをしている野良猫たちにとってもいいことだと思う。


昨日ドリプレ・ローズガーデンで見た猫たちは、たぶん猫にとって理想的な環境の中で暮らしていると思われた。餌の心配はしなくていいし、広い庭の中を自由に歩き回れる。狭い室内に閉じこめられることもなく、好きなところで用を足し、木に上りたければ上り、虫や鳥を狙いたければ狙って追いかけ・・・猫が本来もっている野生を抑えることなく暮らしているように見えたから。


そういう環境で生きられる猫はごく少数だろう。とくに人家が立て込む都心部では人間社会の枠の中で暮らすしか道はない。そこからはみ出している野良猫たちは相変わらず生き残るため一日一日を懸命に生きている。猫人気が本当のものであるなら、そんな野良猫たちのことを思う人も増えてほしいと思う。殺処分ゼロを掲げた運動も全国で行われていて嬉しく思っているところだが、同じ星に生きるものとして野良猫たちにあたたかい気持ちを持ってくれる人が増えてほしい。


最も猫らしい猫は野良猫である。猫に限らず動物を飼うということはオモチャを持つことではない。その動物が本来もっている特質を心から受け入れる気持ちがなければ、平気で捨てたり虐待したりすることもある。人気が高まるのもいいが、単なる人気ではなく、それが理解へと進んでくれればいいと願う。


巨大クロネコ、私も鼻に触りたいにゃー!

*「木と草と花と・・・」、更新。

| - | 08:43 | comments(0) | - |
猫のいるローズガーデン
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・・・ミルクティ色のひとなつこいコ。客が帰ったテーブルの向こうで・・・

千葉に住んでいる友人が行った時の様子をブログで見て、いつか機会があったら行こうと思っていたところに行ってきた。君津にあるドリプレ・ローズガーデン。わが家のカーナビでは場所を特定できなかったが、運良くあまり迷うことなく昼前に到着。いきなりカフェの椅子でくつろぐ猫に遭遇。


そう、私たちはどちらかというとバラを見るために行ったのではなく、猫を見るために行ったのであった。


バラを見るならもっと他にあると思う。秋は四季咲きのバラしか花を見ることはできないが、「秋バラ」は春よりもゆったり色濃く咲くことが多いので、春よりも好きだという人もいる。四季咲きのバラはオールドローズと呼ばれているバラにもあるが、主にモダンローズ(ハイブリッドティ系など)やイングリッシュローズが多い。そういうバラは私の好みの範疇ではないので、バラそのものを見るため秋に出かけていくということはほとんどない。あるとすれば、原種の実を見るためとか紅葉の様子を見るためとか、それくらいである。


で、ドリプレ。猫が数匹いて、思い思いに過ごしているということだったので彼らを見たいと思っていた。「ガーデンパトロール隊」と呼ばれているが、敷地内を自由に歩き回り、時にはカフェの椅子や居心地いい場所で昼寝し、ごはんをもらい、また遊びに出かけ・・・という本当に気ままに過ごしているようだ。人馴れしていない猫もいるようだが、今日出会った猫たちはみなおっとりしていて撫でさせてくれる。かといって、自分たちからすり寄ってくることはあまりないようで、その自然体がなかなかいいと思った。


ガーデンの方は、「英国風」を謳っているだけにイングリッシュローズ中心。返り咲きしているものもかなりあったが、夏の間に延びた様々な宿根草などがそのままになっており、整然とした印象はなかった。そういう風情もまたイングリッシュガーデンなのかもしれないと思うし、私は嫌いではない。いくつかのバラの香りをかいでみたが、やはりイングリッシュローズは香りのいいものが多いと再確認した。


このガーデンは、広告業界で仕事をしていたご夫婦が手作りで作り上げたとか。自治体や企業が運営するところに比べれば面積は狭いが、個人レベルで作ったものとしてはかなりの広さだと思う。奥様がバラにはまったのがきっかけとのことだが、その夢を叶えるために費やした労力はたいへんなものだっただろうと推測する。


今日は風が強く気温も低めだったが、気持ちいい一日だった。日曜日なので渋滞に巻き込まれるかと思ったがほとんどそんなこともなく、夕方には無事帰宅。東京湾フェリーにも乗ったし、道の駅で里芋も買ったし。もう少し近ければ、年に何回か行ってまた猫たちの様子を見たいところ。

| - | 19:16 | comments(0) | - |
本屋
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先日三輪の商店街を歩いていたら、小さな本屋があってちょっと嬉しかった。私が欲しい本を置いていそうな店ではなく、主に実用書や雑誌中心の品揃えだと思われる。が、昔ながらの本屋といった雰囲気でなつかしさを感じた。


私が子ども時代を過ごした隣町にも本屋があって、なにかにつけてよく行ったものだ。大学がある町なのである程度品揃えもあったし、そういう本屋は目的なしに行ってなにかおもしろそうな本と出会う楽しみがあった。でも、それも昔の話。今は駅と一体化した大手電鉄系の商業施設の中にチェーン展開の本屋があるのみ。


今朝ネットニュースを見ていたら、丸善ジュンク堂渋谷店で開催中の「自由と民主主義のための必読書50」というブックフェアで並べられた本が一時撤去されたということを知った。きっかけは店員のtwitterでの発言らしい。ツイートに対して共感が寄せられる一方批判も続出し、企業としてのスタンスを明らかにすべく・・・という言い方をすればもっともらしいが、結局のところ批判されないよう身を守る対策だったようにみえる。


私は並べられていた本がどのような本だったのか見ていないので何ともいえないのだが、当初自分たちが企画して選定した本なら、批判に対して誠意をもって対応しながらフェア終了まで並べ続けてもよかったのではないかと思う。会期も今月末までだったんだし。


そもそも企画物というのは、ある視点をもって何かを計画して実行するものなので、万人に受け入れられることを目的とするものではあるまい。反対意見や批判が出るのは当たり前のことで、それを恐れて当たり障りのないことばかりしていてはちっともおもしろくない。大手の本屋は企業としての姿勢を問われるので仕方ないとは思いつつ、やはり少し情けない気がする。


最近とくに思うのだが、おもしろい本屋、楽しい本屋を探そうとしたら、大手ではなく個人経営の小さな本屋や古本屋を当たった方がいい。個人経営の自由さを生かした本選び、数々の企画はけっこう期待できると思っている。大手には大手ならではの限界というのがあるのはわかるから、目的や気分に合わせて本屋を使い分ける時代になったのだろう。


少し前、根津に行った時に「不忍ブックストリート」のマップをもらった。帰宅してじっくり見てみると、なかなかおもしろそうだ。毎年春に「一箱古本市」が開催されているようなので、来年はぜひ行ってみたいと思っている。また、個性的な本屋(ブックストアといった方が適切か?)を紹介する本もいくつか出ているようだ。カフェスタイルの本屋や小さな図書館のような本屋・・・深まりゆく秋、本屋めぐりをするのもステキな一日の過ごし方だと思う。

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小塚原へ・・・
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のんびりしたペースで続けているMちゃんとの「江戸巡り散歩」として、昨日は千住・小塚原に行ってきた。「小塚原」は「こづかっぱら」と読むことが多い。鈴ケ森と並ぶ江戸時代の刑場が置かれていた場所である。


これまでも何度か小塚原には足を運んできた。少なくとも3回は行っていると思う。そして、その地を思う時、脳裏には薄曇りの寒い日の弱い陽射しと時折鳴る淋しげな鈴の音がまず浮かんでくる。


昨日は天気もよく散歩には最適の日だった。南千住駅を下車してすぐ目の前にある延命寺にまず足を運んだ。大きな首切り地蔵がある寺で、線路を挟んだ回向院とともに刑場の跡地に建っている。東日本大震災の時、左腕が落ちるなどの被害があったが、なんとか無事に修復されて今も昔同様線路に挟まれた狭い敷地の中で来し方行く末を見すえている。


しかし、寺の雰囲気はかなり変わっていた。以前訪れたのが何年まえになるか記憶にないが、その時と比べてかなり明るい雰囲気になっていたのだ。墓地の入口にあった木戸も今はない。その木戸に付けられたいくつもの小さな風鈴が淋しげに鳴っていたのだが・・・その音ももはや聞えず、墓地の奥にあった朽ちかけた無縁の墓はきれいにひとまとめにされ、新しい墓石もいくつかあった。ふとさらに奥を見ると、いかにも分譲中といった感じの墓地が整備されていて「ありがとう」などと刻まれた新しい墓石が並んでいた。私の中にあった延命寺は、首切り地蔵とそのまわりの古びた石仏たちだけになってしまった。


延命寺を出て回向院に行くと、ボランティアとおぼしき高齢男性がファイルを持って立っていた。中に入ろうとすると頼んだわけではなかったのにガイドしてくれた。回向院は吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎、磯部浅一(二・二・六事件の首謀者の一人)など時の権力に逆らって処刑された人たちの他、鼠小僧次郎吉や悪女として名高かった高橋お伝などの墓がある。桜田門外の変の首謀者たちの墓石もあるが、石だけで骨は埋葬されていないそうだ。


 予想外に丁寧なガイドをしてもらい、予想外に長い時間を回向院で過ごした後お昼を食べて先住大橋、素盞雄(すさのお)神社円通寺浄閑寺を回り三輪橋へ出て商店街をぶらつき、荒川線に乗って鬼子母神前で降りた時にはすでに日が暮れかけていた。夕闇迫る鬼子母神を見学した後、なんとか見つけた中華屋に落ち着いた。帰宅して調べるとiPhoneの万歩計は13411歩。運動量としてもまずまずだが、お天気に恵まれ楽しい一日を過ごせてよかったと思っている。



それにしても、何故私はこれほど小塚原に惹かれるのだろうか。霊感というか、なにかそんなものの気配に敏感な家人はあまり行きたくないという。なにやらよからぬものを感じるそうな。鉄道工事の際も骨が出てきたというが、今なお無数の刑死した者たちの骨が地中にあり、それらの人々の怨念のようなものが残っているのだろうか。


幸か不幸か私にはそのような感覚がないので、小塚原に行っても気分が悪くなることもなく、どちらかというと歴史の闇の中に埋もれている人々・・・それが悪人であれ下賎の者たちであれ・・・に思いを馳せることができる場として魅力的なのかもしれない。


円通寺には、上野戦争で死んだ彰義隊員の墓がある。彰義隊は「賊軍」なので遺体の引き取り手がなく上野の山に散乱放置されたままだったというが、それを見かねが円通寺の大禅佛磨第和尚が斬首覚悟で供養。幸いに許され、明治時代唯一おおっぴらに「賊軍」の供養ができる寺として旧幕臣の信仰を集めたという。


浄閑寺は遊女たちの投げ込み寺として有名な寺で、安政の大地震の時に大量死した吉原の遊女たちを葬ったことからその名で呼ばれるようになったとか。「新吉原総霊塔」が建てられ、関東大震災や東京大空襲で死んだ遊女も祀られているらしい。また、山谷に生きる人たちの心のより所として建立された「ひまわり地蔵尊」もある。


強盗殺人などの罪人たちだけでなく、政治的な信念のもとに行動し「賊」と呼ばれた人々、遊女たち、日雇いで生きる人たち・・・三輪周辺はそれら日の当たらないところにいる彼らの魂を救おうとする寺が多い。


私は光が当たっている部分よりも闇に心惹かれる。闇の中にうごめくものの気配は時として恐怖さえ感じさせるが、それらから目を離すことがなかなか出来ない。かつて延命寺で聞いた淋しく悲しげな風鈴の音を忘れることができない。因果な性格なのかもしれないと思う。


*Mちゃんがわざわざ図書館から借りた本を持ってきてくれた。

*「小塚原刑場史」という本。もう絶版の模様だが図書館ならあるみたい。

*回向院には吉展地蔵尊がある。誘拐事件で犠牲になった、あの吉展ちゃん。

*調べてみたら、昨日偶然行った円通寺境内で遺体が発見されたとのこと。

*三輪の老舗蕎麦屋「砂場」、まだ健在。昨日は定休日だった。

*三輪の商店街で蕪のぬか漬けとらっきょう(塩漬け)ゲット!


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22日は猫に語らせる日・・・10月担当:まめこ
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みなさん、おはよう。まめこなの。ねこぶろぶは、3ひきでやっているので、まめこのじゅんばんがまわってくるまでまちどおしいの。これいじょう、まつのはいやなまめこなの。


このごろ、さむくなってきて、ねこにはきびしいきせつがやってくるの。でも、まめこは、おうちにいるからだいじょうぶなの。おそとのなかまたちは、かぜひいたりおなかこわしたり、たいへんだとすみごんからきいて、まめこ、しんぱいしているところなの。


あのね、せんげつみかんもかいていたけど、まめこはおおいに「ふふく」なの。だって、あの「ちび」がきたんだもん。ちっとも、かわいげのない「ちび」で、すみごんたちは「ふく」ってよんでいるけど、まめこは「わる」ってよんでるの。


 でね、あの「わる」は、ゴンやみかんをいたぶるの。のしかかって、かむの。やりかえせばいいと、まめこはおもうです。でも、ゴンもみかんも、やりかえさないで、にげるだけなの。だから、ますますあの「わる」が、ずにのにるです。


まめこ?まめこはだいじょうぶなの。だってね、あの「わる」がさいしょにこうげきしてきたときに、びしっとやりかえしてやったから。まめこの「ひっさすわざ」といわれている、「すーぱーこうそくねこぱんち」をれんぞくしてくりだして、こてんぱんにやっつけてやったの。だから、あの「わる」も、まめこにはこうげきしないです。えっへん!


だけど、ゴンやみかんがいたぶられているのをみていると、ときどきなさけなくなったり、かわいそうになったりするです。すみごんは、「ゴンもみかんもやさしいせいかくだから、つけこまれているんだよ」とゆうけど、まめこはちがうとおもうです。おとしよりになったので、あばれんぼうの「わる」についていけないだけだとおもうです。でも、やっぱりかわいそうなので、まめこ、ときどき「わる」に「ふくしゅう」してやるです。いきなりおいかけて、おいつめて、ねこぱんちをおみまいするです。


すみごんたちも、「わる」にはてをやいているので、そんなときもおこられないの。「まーちゃん、よくやった!まーちゃんはつよいね。つよくてびじんで、むかうところてきなしだね」って。うふふ。まめこの「かぶ」はあがりっぱなしなの。


ゴンは、もともと「てきとー」なせいかくなので、ストレスいっぱいっていうほどではないみたいなの。でも、むだに「まじめ」なみかんは、ぐあいがわるくなったです。なにもたべなくなって、うごかなくなったです。ちょうど、まめこがちょっとにがてなオッサンが、ほっかいどうとゆうところにいっていて、まめこはゆったりリラックスしているときだったけど、すみごんがしんぱいして、なんども「びょういん」につれていったです。


いまは、よくなって、いつものみかんになったの。まめこ、みかんとはそんなになかよくないけど、すこしずつなかよしになっているところだったから、よかったなとおもっているです。みかんは、しんようできるから、まだまだながいきしてほしいと、やさしいまめこはおもうです。


「わる」は、「ひもんや」とゆう、「こうきゅうじゅうたくがい」からきたっていうけど、ちっともじょうひんじゃないの。きっと、「ひもんや」ってそうゆうところだとおもうです。ゴンは「みたか」、みかんは「つるみ」、まめこは「つなしま」だけど、まめこたちのほうが「ねこのひんかく」があるとおもうの。「まだこどもだから、おおめにみてやろう」と、すみごんはゆうけど、おおめにみていたらつけあがるだけだと、まめこはちょっとしんぱいなの。


らいげつは、16さいのたんじょうびをむかえるゴンのばんです。またやせてしまって、「みすたー・がりがり」になってるの。でも、せいしんてきにはおこちゃまみたいになっちゃって、「80さいじ」ってよばれてるの。まめこ、ちいさいときにすごくゴンのおせわになっているから、「かいご」してあげてもいいなっておもっているです。みなさんも、ゴンのたんじょうびをおいわいしてあげてね。じゃ、ばいばい!


■ふくんこ通信■

相変わらずの、ふく。身体はずいぶん大きくなりましたが、精神的には・・・(^^;)抱き上げると身体がとてもあたたかく、全身エネルギーに満ちているといった感じで、若いってこういうことかと思わせてくれます。なんでも噛む、破く、転がす・・・わが家は、ふくがきてからさらにボロボロになってしまいました。あちこちの壁でツメ研ぎをするので、掃除してもすぐに壁紙のくずが雪のようにつもってしまいます。テーブルの上に乗せておいたものは、翌朝見ると必ずといっていいほど見事に下に落ちています。この間は浴室にも進出したらしく、ふと見ると荒されていました。こんな猫ははじめてなので、おもしろくもあるのですが、そうもいっていられないわが家です(^^;)

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あたちはなーーんにも、わるくないもんねーだ!「わる」じゃなくて「ふく」っていうかわいいなまえなんだからねーだ!

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