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母として
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家人もいないし、前の日に作った豚汁はまだたっぷりあるし、今日は出かけずにまったりしようと思っていたら、息子が来た。仕事が休みとのことだが、いつも急に来るからなーんにもないのだが、昨日は幸いなことに?豚汁があったので残りをみんな食べていった。


息子も今月で25歳になった。「オレもアラサーの仲間入り」なんて言っていたが、まだまだ若くできることはたくさんあるはずだ。子どものころから要領もタイミングも悪くハラハラ、ドキドキしっぱなしで、高校生だったころの出来事は今でも私の中でトラウマのように残っている。が、それも息子にとっては少し苦い思いでに過ぎないのだろう。これからの人生の方がずっと長いしずっといろいろなことがあるはずだ。


帰る時、マンションのエントランスまで見送りに行ったが、階段を上りながらふと振り向いて「ちゃんと食べろよ!」と言った。家にいる時も私のことをやせ過ぎ、ガリガリ、と揶揄していたが、「あんたが苦労させたからだよ!」と冗談まじりに言い返していた。それを覚えているからとも思えないが、私の体調を気にかけてくれていることは実感している。


今年の誕生日も例年同様ハデハデなパンツを送った。LINEで連絡があり、「勝負パンツにする」と(何の勝負じゃ!?)。そして、「産んでくれて」感謝!とあり、これだけで私は十分のような気がした。


今でも時々、育てかたがまずかったのではないか、もっとできることはあったのではないかと思うことはある。自分なりに考え、悩みながらの子育てだったが、やはり時としてそんな考えが頭を過る。しかし、たぶんこれが正解というものはないのだろう。


佐野洋子さん(以下ヨーコさん)の本を読んでいると、いかに彼女が息子さんを愛していたかがよくわかる。母親が枠にはまらない人だったので息子さんもなかなかユニークな人のようだが、妊娠するまで子どもはいらないと思っていたのに産んだ途端可愛くてしかたなくなった、とある。その気持ちはとてもよくわかる。私自身がそうだったから。


ヨーコさんと息子さんの会話も普通の親子の会話とは少し違っていて、ぶっきらぼうながら率直で親子というより信頼関係で結ばれた友だち同士のようだ。息子さんはヨーコさんのことを時々「あんた」と言うが、私の息子も時々「あなた」と言う。母親であるのはもちろんだが、それ以外の人間でもあるということかもしれないと思うと少し嬉しい。


ヨーコさんはどこかで(立て続けに何冊か読んだのでどの本だったか忘れた!)、「私は死ぬまで母親である」と書いていた。私も同じだ。自分の子育てについてあれこれ考えるのはもうよそうと思う。「産んでくれて感謝!」の言葉を胸に、死ぬまで母親でありたい。

| - | 09:15 | comments(2) | - |
ホームページ
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「ホームページ」という言葉をあまり聞かなくなった。CMなどでも、「詳しくはWEBで!」というが「ホームページ」という言葉は使われていない。


一昔前(私がネットを始めたころ・・・つまり・・・20年近く前)は、個人のサイトを「ホームページ」と呼んでいる人が多かった。そういったサイトに行くと、「Welcome My Homepage!」という文字が大きく表示されていたり、チカチカ点滅したりしていた。タイトルの文字なども手作り感いっぱいで、フォントをダウンロードするまでもなくWordの「ワードアート」を使っているものなども多かったと記憶している。


お世辞にも洗練されているとはいいがたいが、今となっては自分自身のWebサイトを作るんだ!という意気込みが感じられ、ほほ笑ましくてなつかしい。今はブログやfacebookなどのSNSが主流で、お仕着せのスキンなどを使っていることが多いが、当時はレイアウトはもとより、背景の色柄やタイトルロゴ、バナーなどすべてが自分自身の手で作られていたり、無料配布サイトからダウンロードしたものだったと思う。


個人が自身のサイトを作るようになったのは、「作れるようになった」からだろう。それまではHTML原語を理解し使えないとできなかったことが、ソフトを使えばできるようになったことが大きい。「ホームページビルダー」など初心者でも少し勉強すればサイトが構築できるようになったのだ。多くのソフトにFTP(File Transfer Protocol=ファイルを転送するための通信プロトコル、つまりアップロード・ダウンロードする機能)機能が付いていたので、作ったファイルをネット上のサーバーに送ることができる。


今調べたら、「ホームページビルダー」はまだ販売されているようなので、自身でWebサイトを構築するという需要はまだあるのだろう。バージョンはすでに19なので、ロングセラーかな?私は使ったことがないのだが、当時は人気があったと思う。


そして「ホームページ」という言葉だが、私の記憶が正しければ正確には自身のWebサイトのことではなく、ブラウザを立ち上げた時、まず最初に出てくる(出てくるように設定した)サイトのこと。たとえばgoogleの検索画面がまず立ち上がればそれが「ホームページ」になる、ということだ。今でも欧米ではこの使われかたをしているのかもしれないが、日本では自分のWebサイト=「ホームページ」という誤用が一般化してしまい、商品名にまでなってしまった。もはや言葉が独り歩きしてしまった感がある。あまり聞かなくなった今でも、たとえば「オフィシャルHP」という表現は見かけるかもしれない。(ちなみに、日本で「HP」はホームページの略として一般化したが、本来はヒューレット・パッカードのことだという話も昔聞いたことがある)。


それはさておき、私が昔の「ホームページ」がなつかしいと思う気分の中には、自分で努力して何かを作成する楽しさが感じられるからだと思う。写真も決して上手とはいえないにしろ自分で撮った写真だったし、なにかを伝えたいという気持ちが今のブログなどからよりずっと強く感じた。サイトを持つ人の数が増えるに従って、暗黙のルールもなきに等しくなり、他所から勝手に写真を持ってきたり人の文章を引用元を明らかにすることなく書いていたり・・・目に余ることも多くなってきた。


ネット上で何かを発信するということは、プロ・アマ関係なく著作権が伴う。昔は自分のサイトには必ずといっていいほどコピーライトの表記をしたものだ。現在私が運営すている(借り物だが)ブログでも、タイトル下にコピーライトについては表記しているが、そんなこと気にする人もほとんどいないだろう。


 ただ、末端ながら制作という仕事をしている立場上、著作権については常に敏感でありたいと思っている。基本的に人が撮った写真は掲載しないし、文章もやむを得ず引用する時は出所を明らかにし、リンク先がわかっていれば必ずリンクする。


今でもたまに、検索してアクセスしたサイトが昔ながらの手作り感あるサイトだと、内容は内容として考えるにしてもちょっと好感を持ってしまう。私も見習わなくてはと思うが、「本家」と呼んでいるTodayを更新したくてもオーサリングソフトを入れて

いないのでできない。買おうかとも思ったが、コンテンツを増やす予定もなく、バージョンがかなり上がっていて覚えるのに一苦労だと思うと二の足を踏んでいる。この二の足がよろしくないのはわかってはいるのだが(^^;)


*一昨日、昨日の月、きれいだったー!

*スーパームーンというのか。ふーん・・・

*今日、家人が北海道に出発!

*今年は行けるかどうかギリギリまでわからなかったけどよかった。

*これで、晴れて2週間ほどの独身生活(猫4匹付き)(^^;)

*北海道のお供は去年と同じワーゲンタイプ2。がんばれよ!


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| - | 10:56 | comments(0) | - |
ハロウィンねぇ・・・
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最近はとんと外出しなくなってきたが、それでも用事があって街中に出ることはたまにあり、特に望んでいるわけではないが世の中の流行りだとか話題になっている物事だとかを知ることになる。


今月あたりから、街で目に入るのはオレンジ色一色といっていいほど。そう、来るべきハロウィンを大々的な商戦とする様々な業界がキャンペーンを張り、にぎにぎしく商品をディスプレイしているのだ。見慣れた光景といえばそうなのだが、バレンタインにしてもクリスマスにしても、なんと日本人は西欧の文化(?)が好きなのであろうかとあらためて思わせてくれる。


私がはじめてハロウインの存在を知ったのは大学生のころ。当時アルバイトをしていたドーナツ屋がアメリカに本社を置く会社で、アメリカンコーヒーというものを知ったのもそのバイト先でのことだ。9月に入ったころだっただろうか、キャンペーンとして「ゴブリン」(お化けに扮装した子どもたちだと思われる)のイラストをシールとして客に渡し、抽選でTシャツが当たるというものがあった。


イラストはかわいらしいものだったし販促としても成功したのではないかと思われるが、「ハロウィン」そのものについてはほとんど知らなかったし知ろうともしていなかったと記憶する。私が大学生だということは、1970年代ということになるので、今ほど「ハロウィン」は一般的ではなかった。その新鮮さに目をつけてのキャンペーンだったのだろう。


それから幾星霜(おおげさ)、これほど年間行事のようになるとは当時の私が想像できなかった。カボチャのランタンの形をしたお菓子やら小物やらが街に溢れ、コスプレした人たちが街をうろつき・・・いやはや隔世の感がある。


日本人は先の戦争に敗けて以来、西欧に憧れつづけてきた。それは今でも同じで、こういったイベントがあると大騒ぎになる。各業界の思惑だとわかっていても、楽しければいいじゃないかと思っているのだろう。悪いことだとは思わないが、自国の文化をないがしろにしていると感じることが多い昨今、なんだかなぁと思うこともまた事実である。


今日ラジオを聞いていたら、海外でのハロウィンの様子の話題に触れていた。私は海外のハロウィンを自分の目で見たことはないので確かではないのだが、海外でお化けの仮装をするのは普通子供たちだけだということだった。大人でもいるのだろうが日本ほどではないのかもしれない。何故日本では子どもより大人が仮装に熱中しているのかという話になり、番組のパーソナリティが「日本の大人が子どもっぽいっていうことじゃない?」と笑いながら言っていたのを聞いて思わず笑ってしまった。たぶん、その通りなのだと思う。


「ハロウィン」は来月末なので、それまではオレンジ色(と黒?)が街に氾濫するのだろう。それが終われば今度は赤と緑と金銀か。なんだか繁華街には当分行きたくないような気になってきたが、これもまた私が老いてきたということなのだろうか。はてさて。

| - | 20:05 | comments(0) | - |
秋の手仕事・事始め
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・・・モノクロなので色がわからない。色はね、ひみつ!・・・

ようやく天気も落ち着いてきて、秋らしいいい陽気の日が多くなってきた。昼間はまだ暑くて半袖の人もけっこういるが、朝晩はぐっと気温が下がる。いつのまにか蝉の声も聞えなくなり、暗くなれば秋の虫の声が聞える。


暑い間はなーんにもする気が起きないが、涼しくなってくると何かちょっと作ってみようかなという気分になる。編み物にはまだ少し早いので(気分的に)、手持ちの素材で何か・・・と思っていたが、まずはフェルトが少しあったので刺繍してブローチを作ることにした。


花や葉のかたちをした厚手フェルトのパーツがほとんど手付かずで残っていたのでまずそれを使ったものをいくつか作り、その後は木の刺繍をほどこしたものを2つテストで作ってみた。図柄は手元にあった本「木をかこう」(ブルーノ・ムナーリ作・須賀敦子訳)からちょっと拝借。この本についてはいつか書こうと思うが今日は割愛する。


図を写すためチャコペーパーというものを買ってきたが、どうにもうまく写せない。フェルトという素材の特徴がチャコペーパーと合わないのか。よほど強くなぞらないとダメなので結局本の絵を見ながら自分で描いて刺繍をしてみた。


まだピンをつけていないが、なかなかよい感じ(自画自賛)。商品化するか試作品にするかはまだ決めていないが、セーターの襟元に付けたら印象がかなり変わるような気がしている。次は違う絵で何かを作ってみたい。


今日は出かけたついでに手芸用品店に寄ったのだが、素材を見てるとあれこれ欲しくなってきて困る。私はどちらかというとまず素材ありきなので、気に入った素材を手に入れてから何を、どのように作るか考えることが多い。だから自然といろいろな素材が集まってしまうのだが、持っているだけではもったいないのでできるだけ今手元にあるものを使わなければと思うのだが・・・


今日も目的のものではなかったのだが、刺繍糸をいくつか買ってしまった。刺繍糸が入っている棚の魔力に勝てなかったのだ。棚ごと全部欲しいくらい。目の毒なのでできるだけ近づかないようにしないとね!


*今日はバラ会の勉強会に行ってきた。

*原種のお勉強らしかったので久しぶりに参加したのだが・・・

*原種について書かれたフランスの本を読むというものだった。

*バラの勉強というより、フランス語の勉強。やれやれ〜


| - | 19:26 | comments(0) | - |
大地窯展
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・・・漆黒の闇から生まれた群雲。小さな器の中に宇宙がある・・・

生憎の雨模様だったが、案内状をいただいていた「ヴェロニカ・シュトラッサー 大地窯展」に行ってきた。「大地」は「おおち」と読む。場所はいつも個展をされている根津のLIBRE。


今回の個展はとくに楽しみにしていた。というのは、たまたま6月3日に山梨のsakiさんのお宅にお邪魔した時、ヴェロニカさんがご自宅(仕事場でもある)に誘ってくださり、お会いしていろいろお聞きしていたからだ。


ちょうど窯焚きが終わって冷ましているところで、何故か温度をあげすぎてしまい、すべて溶けているのではないかとヴェロニカさんはひどく心配されていた。今回の個展に向けた挨拶文の中で、窯焚きの限界温度が1200度であることをヴェロニカさんは書かれているが、今回は”何故か”1350度まで上げてしまったとのこと。なぜそこまで温度を上げてしまったのか・・・ヴェロニカさんは繰り返し、独り言のようにおっしゃっていた。


 それが気になって、窯を開ける日に行くと言っていたsakiさんに連絡を取り、どうだったか聞いてみると思った以上に残っており、しかもすばらしい出来だったという返事をいただいた。そんなこともあって、自分の目で作品を見るのがとても楽しみだったのだ。


やはりすばらしかった。今までにも何度か個展にはお邪魔して作品を見てきたし、いくつか購入して自分でも使っている。いつも土味の良さに心惹かれるが、今回は土だけでなく石(黒曜石を入れたとのこと)が溶けた表情も見事だったし、高温により自然釉が様々な模様を描いているのが印象的だった。目の前にあるのは土を素材とした器なのだが、手に取り、掌でそっと包み込むと土だけではなく、火や炎が作り出す風、そして薪として使われた木のあたたかい名残のようなものを感じた。自然釉が流れる器をのぞきこむと、そこはひとつの宇宙のようであった。


こういう作品はいくら言葉を労してもうまく伝えることができなくてもどかしい。見ているだけでなく、ぜひ手に取り触れていただきたい器である。


今回あらためて感じたことのひとつに、ヴェロニカさんの作品は陶芸作品なのでもちろん眼で鑑賞するものではあるが、究極的には身体で感じる器なのではないかということだ。


前にも書いたことがあるかと思うが、私は五感の内「触覚」が一番鋭く(他の感覚がひどく凡庸ということもあるが)、それゆえか何でも触りたくなる。触ることにより、対象物が何であるか確かめたいのだ。見ているだけでは分からない何かを感じることができると思っており、それは私にとって見た目より重要なのだ。ヴェロニカさんは眼がかなり悪くなっているとのことだったが、それでもこれだけの作品を創ることができるというのは、もしかしたら触覚が非常に優れている方なのかもしれない・・・などと勝手に思っている。


昨日は家人も行きたいというので同行した。家人もヴェロニカさんとの会話を楽しみ、小さな器をふたつ買ってくれた。お茶に使ってもいいのだが、わが家の場合はたぶん酒を入れることになるだろう。黒曜石がそのまま残った大きめの器や厚手に創られた片口にもとても心惹かれたが、予算がないので我慢、我慢(^^;) あれらの器の良さを私以上に感じることができる誰かの手に渡ればいいなぁと思っている。


知りあいの個展に行く時は、なにか手土産をと思うのだがなかなか難しい。花かちょっとつまめる菓子類を持っていくことが多いが、昨日は近くの河原で採った野いばら(実付き)、オギ、ススキ、ガマを持っていった。花屋で売られている花はベロニカさんの作品には合わないと思ったので、2日前に河原で探しまくりうまいこと見つけたのだった。


野いばらの実はまだ完全に色づいてはいなかったし、枯れてしまった実も混じっている。しかし、その野趣がヴェロニカさんの作品によく似合った。オギやススキも葉をつけた状態で持っていったのでこれも野趣満点。ヴェロニカさんがとても喜んでくださり、雨の中持ち歩くのはちょっと骨だったが持っていって本当によかったと思っている。


個展は昨日はじまったばかりだ。10月4日(最終日)には笙の演奏会も企画されている。興味のある方は谷根千散策をかねてぜひ。


●大地窯展

 ・・・9/25(金)〜10/4(日) 会場:LIBRE(文京区根津2-29-4/03-3827-1925)


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荒々しい高台の表情。1350度の激しさを思わせる。


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買ってもらった器2点。美味しい酒が欲しくなる(^^;)


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6月にお邪魔した時、窯の近くで私が偶然みつけたもの。見つけた人と縁がある、とヴェロニカさんがくださった。底の表情がまたいい。


*大地窯のウェブサイトは、こちら

sakiさんのサイトでも紹介されている。自然光の中が一番ステキ。

*器を見たりヴェロニカさんと話したり、楽しすぎて写真を撮らせていただくのを忘れてしまった(^^;)

*会場LIBREはギャラリーが閉まる夜7時以降、日本酒のバーになる。

*一度行ってみたい。いや、行こう。

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ぐだぐだ言っている場合なのか
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・・・某駅の窓その2。ごく稀にではあるが放置されたものがすごくいい味を出す・・・

共産党の志位委員長が安保法案廃止に向けた野党共闘を提案した。これまで孤高ともいえる選挙戦を戦ってきたと思える共産党が・・・と驚きつつ、これは価値ある提案だと思った。今日25日、民主党の岡田代表との会談が予定されているというので結果に注目したい。


民主党ではすでに共闘反対の意見が出ているようだが、自分たちの票が少なくなってしまうなどという理由で反対しているのなら、私はそれを認めたくないと思う。そもそも、現政権の暴走は圧倒的な数を背景にしたもので、こうなってしまった責任の一端は民主党にもある。自分たちも大きく変わらなければならないと思わなければ、いつまでたっても党内のごたごたに振り回されてばかりで国民の意見は二の次になってしまいそうだ。


先の選挙で共産党は野党の中で唯一票を伸ばした党だったと記憶する。なぜか。私も共産党に票を入れた一人だが、その立場から考えるに主張が明確であり、ダメなものはダメとはっきり言っているからではないだろうか。安倍政権に不安は持っていても他に選択肢がないという理由で自民党に票を投じる人たちがいる一方で、後で述べるが「共産」という党名にやや抵抗感を感じつつも自分が普段から考えていることに近いことを打ち出している党に賭けたいという人たちが一定数おり、その数は増えつつあると思える。


それならば、志位委員長が言うように、とりあえずでいいから「思想・信条の違い、政治的立場の違い」を乗り越えて力を合わせることを野党各党は本気で検討すべきだと思う。細かいことだとは思わないが、今一番国民から求められていることは何なのかを考えてほしい。国民が切実に感じている危機感を理解しているなら、立場が、票が、などとぐだぐだ言っている場合ではないと思うのだが。


そもそも政治家と呼ばれる人たちは、なぜ政治家になったのであろうか。親が政治家だったから地盤を引き継ごうと思ったからか。周りの期待に抗えなかったからか。政治家というレッテルが欲しかったからか。尊敬される人間になりたかったからか。楽して金を得たかったからか。一体そこに「志」というものはあったのか・・・


国民はもううんざりしているのだ。まず第一に国民の方を向き、声に耳を傾けるべき政治家たちが、政局やら党内のごたごたやら経済界とのコネづくりやら宗教団体とのひそかな結託やらにばかり目を向けていることに。そして、うんざりしているだけではいけないと思い、今回の安保法反対運動であれだけの人々が態度を表明し声をあげたのだ。野党はそんな国民の声に応えなければならない。


志位委員長も述べているが、「共産」という言葉に抵抗感を持つ人もある程度いると思う。私の個人的な感覚では60代以上の世代で多いのではないだろうか。共産党の歴史をたどれば、わからないでもない。が、やはり大切なのは今、この時代を背景として何を考えている党なのかということなのではないだろうか。


アベノミクスが第2ステージに入ったと高らかに宣言し、相変わらず漠然としたきれい事ばかり述べている人にこれ以上好き勝手させていいのか。戦争をする国になるということは、テロの対象になるということだ。武器輸出を推進する政府は自ら「死の商人」になろうとしている。そんな国のテレビでは、戦争に巻き込まれ貧窮にあえぐ地域の子どもたちに支援を、などというCMが流れている。矛盾ばかり、理不尽なことばかりの世の中だが、諦めてしまうのはやはり悔しい。


今日は一日中雨が降ったり止んだりだという。ここ数年、心から晴れ晴れとした気分になったことがなく、いつも曇りか雨のような気分だ。個人的な理由もあるが、やはり自分をとりまく社会の状況がこの気分に影響していることは否めない。ピーカンとはいわないが、少しでも晴れやかになれればいいと願う。


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グラン・ツールが終わってしまった。
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ラグビーの話題が花盛りである。昨日の夕方ラジオを聞いていたら、「ラグビー通、ちょっと前はテニス通」なんていう川柳が披露されていたが、にわかファンの大騒ぎは傍から見ていると少々しらける。自国のチームが奇跡ともいえる(奇跡はないそうだが)勝利を収め、しかも勝ち方がドラマチックだったので仕方ないといえば仕方ないし、わかるような気もするが・・・


スポーツ観戦はほとんどしない私が唯一といっていいほど楽しみにしているのが、自転車ロードレースの世界でいう三大ツールである。


昨年も書いたので細かいことは抜きにするが、最後のブエルタ・デ・エスパーニャも今月半ばで終わり、5月から契約していたJ-SPORTSのオンデマンド契約も解約した。


ジロ・デ・イタリア(通称ジロ)、ツール・ド・フランス(同ツール)、ブエルタ・デ・エスパーニャ(同ブエルタ)はともに21日間を走り続けるレースだ。山あり谷あり、海岸沿いの強風あり、街中の狭い道あり、デコボコの石畳あり・・・選び抜かれた選手たちの誰もが最後まで走れるとは限らない。常にアクシデントと隣り合わせであり、自分の限界との闘いの連続である。良くも悪くもドラマチックであり、一度はまるとなかなか抜け出せない魅力がある。


が、今年は昨年より熱が入らなかった。何故なのか自問自答してみたが、たぶん気に入っている選手の調子が悪かったり素人なりに応援しているチームが勝てなかったりしたことが続いたからだと思う。本当に好きなら、どんなレースでも楽しめるはずなのだがそこはまだまだの私である。


特にツールには熱が入らなかった。昨年とてもおもしろく何度も見直したのとは対照的に、見ないステージがあったり見ても部分的に見るだけにしてしまったりが多かった。それはひとえに、どうしても好きになれない選手の代表であるクリス・フルームが活躍していたからだ。これはごく個人的な好みの問題で、フルームは素晴らしい選手だと思う。強いし、礼儀をわきまえた人だと思う。が、どうしてもあの走る姿がダメなのである。


 長身ながら山岳に強く(いわゆるクライマーと言われる山岳を得意とする選手は小柄でほっそりした人が多い)、2012年にツールで2位になってからメキメキ頭角を現した。イギリス人だがケニアのナイロビで生まれ、その後南アフリカに移住して2007年まで選手生活を送っていたようだ。所属するチーム・スカイ(イギリス)は科学的・先進的なトレーニングをすることで有名で、各国チームの中でもちょっと異色な雰囲気がある。


フルームの走行スタイルは、下を向いたままでくねくねしている。それがどうにも私は苦手なのだが、くねくねしながら粘り強く走り、ここはという時にアタックする。こういう選手が本当に強い選手だと言えるのかもしれないと思うが、やはりなんとなくダメなのである。


今年一番見たのはブ エルタだったが、注目していたヴィンチェンツォ・ニーバリ(アスタナ・プロチーム)がなんと第2ステージで失格となってしまった。ニーバリは昨年のツールで圧倒的な強さを見せて優勝した選手で、私はその勝ち方、走り方が好きなのだがなんとも残念。


 集団落車に巻き込まれた後、アシスト選手がなかなか来なかったり代わりの自転車が遅れたりで相当焦っていたようだが、チームカーにつかまってしまうという反則を犯してしまった。ボトルを渡したり監督と話をしたりする時、わずかな時間車につかまるということはよくされているが、今回の場合はつかまったと思ったらチームカーが速度をあげてしまい、あれよあれよと数百メートルつかまったままだったというから、これは罰せられても仕方ないだろう。


 ニーバリという選手は(昨年も書いたが)「メッシーナのサメ」というニックネームがあるようにアグレッシブな走りをする人で、私はその走りっぷりが好きなのだが、今回はそれがマイナス方向に向かってしまったようだ。


アスタナというチームはカザフスタンが国を挙げてスポンサードしており、資金面で苦労するチームが多い中で運営はそこそこ安定していると思われる。しかし、今年はツール前にドーピング問題が発覚しライセンス取り消しになるのではないかと囁かれていた。ドーピングが疑われた選手はカザフスタンの選手や研修生で、ツールなどに選ばれる選手ではないのだがチームとしての責任が問われるものなので、私もけっこうハラハラしていた。が、なんとかライセンスを持ち続けられることになり一安心していたのだが、チームは厳しく監視されることになり、それが何らかの形で選手たちに影響しているのではないかと懸念される。


今回のブエルタで、最強とも噂されていたのもアスタナだった。ニーバリだけでなく、ジロで総合3位になったファビオ・アル、アルのアシストだったのに総合2位になったミケル・ランダがおり、エース級3人というメンバーだったからだ。しかし、それは不協和音にもなりうる。


 案の定というわけではないが、ニーバリが早々に去った後はトム・デュムラン(チーム・ジャイアント・アルペシン)が予想外に活躍して苦戦。エースのアルも調子がよくないのは冴えた走りをなかなか見せられなくなっていた。


ツールを優勝したフルームも途中でリタイアし、第20ステージまで総合優勝の行方がわからないという珍しいブエルタだった。総合1位のデュムランと2位のアルのタイム差はわずか6秒。それだけでなく、上位5人の間の差が約3分という混戦だった。5人のうち誰が総合優勝になってもおかしくない中、デュムランがまさかの失速、アスタナのチーム力がいい方向に働いて総合優勝はアルの手に渡った。


なんともドラマチックな20ステージだったが、ステージ優勝したルーペン・ブラサ(ランプレ・メリダ)がまたすごかった。35歳のベテラン選手だがツールでもステージ優勝を1度しており、調子がよかったのだろう。残り110キロのところから単独アタックし、結局ゴールまで一人で走り抜いた。各チームの思惑や駆け引きなど関係ないというがごとき快走で、見ていて気持ちよかった。


来年もまた5月のジロから見始めると思うが、その前にいろいろ情報を集めておこうかなとも思っている。その方がより楽しく観戦できるから。ただ、自転車ロードレースは日本ではまだまだ認知度も低く、最新の情報が入りにくい。英語がもっとできればなぁ・・・とぼやきつつ、今から楽しみにしている。


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22日は猫に語らせる日(1日遅れ)・・・9月担当:みかん
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みなさん、逆さまで失礼ながらごきげんよう。みかんです。なぜ逆さになっているかというと、おっさんに抱っこされているからです。あたしは、いわゆる「お姫さまだっこ」がけっこう好きで、時々やってもらっています。


すみごんは、また忘れました。昨日の昼ごろカレンダーを見ながら「シルバーウイークも明日で終わりか。関係ないけどね・・・・あっ!」と気付いたみたいです。このところ物忘れが以前にも増してひどくなっているので、あたしは仕方ないと諦めています。まめこみたいに騒ぎません。


それはそうと。あたしだけでなく、ゴンもまめこも「なんとかして!」「どうしてくれるっ!」って思っています。そうです。いわずとしれた、あのチビのことです。あたしやゴンは争いごとを知らずに大人になったので怒りかたを知らないとすみごんに言われました。シャーッ!とかウウウオー!とかやっても、あのチビには全く通じません。なのに、まめこだけは、睨むだけでチビはそれ以上近づかなくなります。不思議です。


とくに被害を受けているのは、あたし。すみごんは、「みーくん、やさしいから慕われているのかもよー」なんて言ってごまかしますが、本当に鬱陶しいです。でも、閉じこめられてしまうとちょっと気になって様子を見にいったりします。そのあたりが甘いんでしょうか。


近くにいるのもいいんです。飛びついてきてもいいんです。咬まなければ!!あたしが小さかったころもけっこうやんちゃだったそうですが、咬まなかったわ。ゴンは時々あたしから逃げるために高いところに登っていましたが、うなられるほどのことはしなかったと思います。あれ、癖でしょうか。あのまま大人になったらどうしましょう。


あのチビが来てから、あたしはどうも体調が今ひとつです。前から出ていた咳がひどくなり、鼻水も出たりして風邪っぽいです。クスリをもらって飲んでいましたが、もうクスリもないので近々また診察を受けにいかなくてはいけないようで憂鬱です。あたし、キャリーに入れられるの嫌なんですよね。ゴンみたいに大騒ぎはしませんが。


前々回はおシリをホリホリされたショックでおっさんに噛みついてしまいました。前回は診察台の上でもがいた時におっさんを強烈にひっかいてしまいました。わざとじゃないんだから仕方ないですよね。おっさんは、家に帰ると傷をすみごんに見せて自慢していたので、あたしはあまり気にしていません。


こんなにストレス満点なのにあたしは痩せません。食欲モリモリです。だから、同情されにくいのかしら。損な体質ですよね。ゴンなんか、年がら年中なにか文句言っているし、ガリガリだから労られることが多くて不公平だと時々思います。まあ、もうすぐ16歳になるのでこれも仕方ないかな。


とにかく、今のあたしはあのチビが成長して少しはおとなしくなってくれるのを心から願っています。噛みつきさえしなければ、仲良くしてあげてもいいのに。少しずつ大人を敬うよう教えていこうと思っていますが、さてさてあのチビに理解できるでしょうか。


来月は最近「まーちゃん、強いねー!」と褒められて少し図に乗っているまめこです。チビには強くても、相変わらずビビリなのに。どうせ、すみごんはまた忘れると思いますが、一応お楽しみに!


■ふくんこ通信■

なんやかんや、どたんばたんしているうちに、ふくも生後3ヶ月を過ぎました。体重はもう1500グラムは越しているでしょう。順調といえば順調ですが、相変わらず元気すぎて他の猫も人間も振り回されています。子猫ってこんなだったっけ?とため息つきながら毎日を過ぎしています。ふくの困ったちゃんぶりを少しまとめましょう。

(1)ゴミ荒し・・・クズカゴをひっくり返す。台所の生ゴミの袋を破く。

(2)壁での爪研ぎ・・・あちこちボロボロです(T.T)

(3)トイレ掃除の邪魔・・・掃除していると中に入ってしまいます。

(4)洗濯の邪魔・・・洗濯機から出してカゴに入れるのを邪魔する。

(5)盗み食い・・・先日は佃煮まで!その次は焼いたアジを!

まあ、かわいいところもあるんですけどね。子猫だから当たり前かもしれませんが。夜寝る時は、どういうわけか私の隣で寝ることにしたようです。少し邪魔です。くたくたになったタオルケットが好きでちゅぱちゅぱしながらモミモミしたりしています。眠い時は咬まないので撫でられますが、それ以外は撫でようとすると噛みつきます。全くもう!ゴンやみかんも使った猫型のオモチャ、遊びかたが激しいので目がひとつ取れてしまいました。かわいそうに・・・

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あたちのにくきゅうは、くろっぽいんだよ。てはしろいのに。いいでしょう。

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あたちのおきにいりのおもちゃ。「だてまさむね」ってよぼうかな。

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これから
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・・・某駅の窓。こういうのを見つけるとやたら嬉しくなってしまう・・・

漱石は「それから」。今日の話題は「これから」(^^;)


言わずと知れた安保法案の強行採決。あれだけの民意を見せつけられたにもかかわらず、なんでこんなに急ぐのか。様々な理由があちこちで述べられており、だいたいは察することができるにしても目の前(メディアを通してだが)で繰り広げられた行為に一瞬とはいえ唖然とした。


政治上の駆け引きなんだから、与党の動きを読みきれなかった野党の方が「下手」だったのだという意見もある。一理あるとは思うが、結果はいずれにしても同じところに着地することは明らかだっただろう。


悪天候をものともせず膨れ上がるデモに対して、装甲車を並べた光景は異様だった。「国民を守る」なんてどの口で言うのかと思える映像を見るたび、なんという国になってしまったのかと嘆きたくなりもする。が、すべてはこれからだと思いたいし、思っていかなくてはならない。


先日、ラジオで久米宏さんがこの度のデモについて話をしていた。デモが無駄だとは思わないが、デモに参加している人たちのどれくらいが先の選挙で投票したのか聞いてみたい、と。久米さんは選挙があるたび自分の番組で投票に行くことの重要性を語ってきたので気持ちはよくわかるような気がした。こうなってしまったのも、すべてではないにしろ彼らを選んだ(結果的に選んだことになってしまう状況を作ってしまった)私たち国民にも責任はあり、それを忘れてのアピールだったら素直に評価できない、ということだろうか。


貴重な意見だとは思う。が、今回の件で(遅すぎるとはいえ)はじめて選挙の重要性に気付いた人、政治に真剣な目を向けはじめた人も多いと思う。遅きに逸したと諦めるのではなく、「これから」のことを私たちは考えていかなくてはならないのだろう。


国民の理解は得られると誰かさんは言うが、それは「いずれ忘れてもらえる」と言っているのと同じだと思う。意地でも忘れるものか、と思う。


そういえば、昨日読み終わった「役にたたない日々」(佐野洋子)で思わず笑ってしまったところがあった。この本は2010年発行なので、2009年に民主党が政権交代を成功させてからほぼ1年後になる。テレビを見ながらのオバアちゃん仲間の他愛ないおしゃべりとして記されているがオバアちゃんたちもなかなか言うじゃん!と思わせてくれる。


「安倍って、もしかしたら、本当はバカなんじゃない。何だかいつもその場の雰囲気読めないじゃん。ものすごい鈍感であんまり鈍感だから、物に動じないって周りの人がぜーんぶ思っちゃう無能の人だと思う」「キライ」「何で」「イヤ、キライナノ」

「別に不細工でもないじゃん」「キライ」。そう云えば安倍を好きだって云った人一人もいなかったなあ。

(「役にたたない日々」より)


「無能」具合はよくわかっているのに、それが大手を振っている。安保法案もひとまず採決しちゃったし、じゃ、ボクちゃんゴルフするよ。茨城の被災者?なんとかなるんじゃないの・・・と思っているかのような姿は見たくもないがやっていることは知っておく必要がある。顔見るだけでも不愉快なのだが。


一部マスコミでやり玉に上げられたSEALsの面々もがんばっている。一時の熱ではないことを証明するかのようにネットワークを広げ次に何をしなくてはいけないかを考えているようだ。頼もしいと思うだけでなく、私たち「いい大人」も自分たちにできることは何なのかを考え続けなくては。「これから」のために。

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墓参りに行って、つらつら考える。
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シルバーウイーク?なんじゃ、そりゃ!てな日々だが、彼岸なので墓参りに行ってきた。昨日は自宅から徒歩5分にある元夫であった人が入っている墓。今日は車で約15分くらいのところにある実家の墓。墓は近いに限るといつも思う。なぜなら墓は残った人たちのためのものだと思うし、それならできるだけストレスなく行けるところにあった方が残った者としてはありがたいから。


元夫であった人の墓には、他に彼の祖母、両親が入っている。最初は富士山周辺の大規模な墓地を考えていたようで、契約までしていたのだが義母であった人がそれをやめて今の寺に墓を建てた。まもなく義父であった人が亡くなり、義母も10年ほど前に亡くなった。墓碑を見るとやはり女性は長生きで80歳を超えている。元夫の享年63歳というのはいかにも若い。しかし、それぞれがそれぞれの寿命を生きたのだと思う。


いつも淋しく思うのは、いつ行っても他の人が墓参りをした様子がないことだ。私など離婚したのである意味で縁を切った人間なのだが、たまに息子がわが家に来る途中で参る他は私以外に誰も行っていないのではないかと思う。昨日も抜けるだけの雑草は抜いてきたが、差し出がましいので掃除はせずに帰ってきた。元夫の妹とその息子2人が車なら10分以内で行ける場所に住んでいるのだが、自分の親や兄の墓に全く参らないというのはどうしたことなのか。何か事情があるのかもしれないが、淋しいものだと思う。


私の実家の墓は、父が生前に買ったものだ。思い立ったように急に購入を決めて家族は少し驚いたが、まだまだ元気だったし、用意しておいた方が落ち着けるのならそれもいいと思った。今は父と昨年亡くなった妹の夫だった人が入っている。妹が結婚したのは父が亡くなった後だったので、まさか自分の妻や娘以外の者がまず最初に入るなど思っていなかったに違いない。もし、魂のようなものがあるのなら、の話だが。


墓参りをすると、どこかすっきりした気持ちになるが、これは一体どうしてなのだろうか。生前心配や苦労ばかりかけて親孝行らしいものもせずにいた後ろめたさがほんの少し和らぐからなのだろうか。それとも、墓がある以上参るのが義務だと思っているのだろうか。自分でもよくわからないながら、いつも少し晴れやかな気持ちになって家に帰る。


墓参りをすると、いつも最後に手を合わせて心の中でブツブツいろいろ語りかけるが、いったい何に語りかけているのだろうかと思うことがある。死者がそこにいるかといえば、いるかもしれないしいないかもしれない。とりあえず「いるもの」として語りかけているのだろうが・・・もはや面と向かって話すことができない人たちに語ることは、どこか祈りに似ているような気もしないではない。


墓参りに行き、清々したような気分になっている自分に気付くと、果たして自分はどうしようかと考える。今のところ、私は墓は入らないと思っているし(葬式もいらない)、息子にもそう伝えてある。が、墓がないと残るであろう息子が困るということはないのだろうか。


「かあちゃんはおそらにいるよ」というわけにもいくまい。以前、「骨にしたら、あんた持っていてよ」と言ったら、「やだよ、気持ち悪りい」と言われてしまった(^^;) まあ、そうだよな。いつまでも骨が目の前にあったら落ち着かないし気味悪いかもしれないな。


だからといって、将来的にも墓を買う金などできるとは思えない。万が一墓を買うくらいの金が持てても、きっと別のことに使いそうだ。樹木葬がいいかなとも思うが、あれもなにやらいろいろ規則はあるし費用も思っていたより高い。散骨でもいいと思うが、死ぬ前に資料をいろいろ揃えておいた方がよさそうだ。人間みないずれ死ぬのに、なんだかんだと面倒だ、本当に。


と、今思いついた。やはり墓はいらぬ。骨の始末はゆくゆく考えるとして、もし息子が死んでしまった私に何か語りかけたくなったら、今私の目の前にある小さな仏様に語りかけるように言おう。掌に乗るくらいの小さな仏像で、オークションで入手したので時代も何もわかったものではないが気に入っているのでいつも目の前に置き、時々拾ってきたドングリなんぞを供えている。


 目に見える何かがあれば、たとえそれが墓でなくてもいいのではないか。墓は動かせないが、小さな仏像だったらどこにでも持っていけるし狭い部屋の中でも負担感ゼロだろうし。いいことを思いついたなぁ。やっぱり墓参りした功徳かなぁ(^^;)


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