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白湯&足湯
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急に涼しくなって過ごしやすくなってきた。嬉しいことには嬉しいのだが、どうも体調がいまひとつ。たいしたこともしていないのに夏の疲れが出たのか・・・季節の変わり目に身体がついていけないのか・・・それはわからないが、天気の悪さも手伝ってずっと家にこもっている今日このごろ。


頭痛が続いて鎮痛剤が離せない。できるだけ使いたくないのだが、ひどくなる前に飲まないと効かなくなるのでタイミングがけっこう難しい。夜中に腹痛で起きたり、妙にだるかったり、咽喉が痛くなったり、と寝込むほどではないが不愉快な症状が五月雨式にやってきている。


どうにかしようと思ってはじめたのが、白湯を飲むことと足湯をやってみること。思えば、普段は冷たい飲み物を滅多に飲まないのに、暑くなってからは夜になると氷をめいっぱい入れたハイボールばかり飲んでいた。外で飲む時も冷たいものを飲むことが多くなっており、それで身体が冷え不調に繋がっているのかもしれないと思ったわけだ。


白湯は起き抜けにカップ1杯をゆっくり飲み、その後もポットに入れて適宜飲んでいる。合計するとたぶん1日1リットル近く飲んでいるかもしれない。白湯以外にも緑茶や紅茶を飲んでいるがどれも温かいもの。冷たいものは食べ物を含めてできるだけとらないようにしている。


足湯は浴槽に湯をためてやってみようかとも思ったが、時間をもてあましそうなので足湯用バケツというものを買ってみた。40度くらいの湯に10〜15分足を入れておくとのことだが、15分くらいでは身体があたたまったという感じがしない。で、20〜30分くらいゆっくり足をつけている。


塩を入れると保温性が上がるということなので、いただきもので使っていなかった塩を湯に入れ、差し湯用の湯をポットに入れておき、DVDかオンデマンド契約をしているブエルタ(ブエルタ・デ・エスパーニャ。自転車の三大グランツールのひとつ)を見ながらだと30分も長くない。


この白湯&足湯、しばらくの間続けてみようと思っている。身体を「冷え」から守ることで少しでも体調をあげていきたい。あとは運動ね、運動!


*昨日のデモ、軽く10万人を超えたみたい。すごい、すごい!

*その中の1人になりたかったな・・・

*海外のメディアもこぞってとりあげている。

これなんか、写真選びが秀逸!(^.^)


■ふくんこ通信■

暴れん坊ぶりは相変わらず・・・というかグレードアップ。小さな白黒台風に家の中は大荒れ。体力がついてきたせいか、わずかな充電でエネルギー長持ち。いったいいつになったら落ち着くんだ、と本猫以外は思っている。あまりに暴れようがひどいと、お仕置き部屋(キャリー)に幽閉されるも、ちっとも凝りちゃいない。やれやれ。

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あたち、なんにもわるくないもんにゃ。

| - | 09:57 | comments(0) | - |
朝顔
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今年も朝顔の種を蒔いた。種蒔きは八十八夜が過ぎたら、と昔母親が言っていたのを覚えているが、今年はなんとなく遅れてしまい、ちゃんと育つかどうか心配していた。結局摘心もせず、直蒔きをしたままという放置状態になってしまったが、毎朝花を咲かせてくれている。


今年の朝顔も、去年と同じ花。限りなく白に近い薄紫色とでもいおうか。かすかに紫がかった白とでもいおうか。非常に微妙な色がなんともいえず気に入っている。ソライロアサガオの名前で親しまれているヘブンリーブルーの青も捨てがたいが、ここ数年私の中のベストは今咲いている花の色だ。


ベランダから下を見下ろすと、1階のお宅の専用庭ではこれもまた去年と同じ曜白朝顔が咲いている。ピンクや紫、濃紅色に白い筋が入る中輪種で、にぎやかなのに嫌みがなくて他所の家のものながら毎年楽しみにしている。


しかし、見回してみると昔ほど朝顔を栽培している家が少なくなっているようで淋しい。子供たちの夏休みの宿題に使われると思われるプラスチックの鉢植えの朝顔が玄関先や庭の片隅に申し訳程度に置かれていることが多い。緑のカーテンとして旺盛に伸びて昼間も花を咲かせる琉球朝顔もよく見かけるが、昔ながらの朝顔はあまり見なくなってしまった。


朝顔は江戸時代二度のブームを巻き起こした植物だ。花色、花の形、葉の芸などが競われ様々な改良品種が作られたと聞いている。これらは今でも愛好家によって楽しまれているようだが、夏の風物詩としてもっと広く栽培されるようになればいいのに、と思う。


また、江戸時代にはあったと言われている黄色い朝顔が長い間存在しなかったところ、例によって(!)サントリーが金魚草遺伝子を使って再現したらしい。遺伝子を操作することについては抵抗感を持つが、写真で見る限り青いバラよりはいいかな。見た目が少し似ているペチュニアに黄色い品種があるので、あまり奇異に映らないのかもしれないが。


わが家で咲いている朝顔は、近所の畑脇から種を頂戴したものだ。ほとんど放置状態で毎年こぼれ種から芽生えてきれいに咲いていたが、どういうわけか今年は全く咲いていない。種がこぼれる前に刈り取られてしまったのか・・・・畑の栄養を吸収して咲き乱れる様子はとてもきれいだったので残念である。種をとっておいたのがせめてもの救いだ。


今年も無事種を採集し、来年はもう少しまともに植えて楽しみたいと思っている。年齢のせいもあるかもしれないが、年々朝顔の花が好きになっている。私の夏の花ナンバー1は、朝顔だ。


*今日はやはり行けそうになく残念!

*雨があまり強く降りませんように・・・

*twitterに続々と情報が入る。東京だけでなく全国的に活動は広がっている。

*それでも強行採決するのか、愚かな独裁者は。

*「木と草と花と・・・」、更新。写真よりずっときれいだけれど。

| - | 11:54 | comments(0) | - |
子どもたちの孤独
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寝屋川市の中学一年生2人が無残にも殺され、容疑者の男が逮捕されて1週間が過ぎた。フクイチで働いていたという容疑者はいまだに黙秘を続けているというが、重い口を開き殺害に至った動機を話し始めても、こういった痛ましい事件を未然に防ぐ防止策に役立つかどうか・・・新聞やテレビは容疑者に的を絞った報道ばかりしているが、この事件はその異常性だけに注目すれば事足りる事件なのだろうか。


事件が起きてからしばらく静観していたが、どうにも不思議だと思うことがある。中学1年といえば、今年の3月までは小学生ということになり、公開された写真を見てもまだ幼さが残っているのは誰の目にも明らかだ。それゆえ「かわいそうに」という気持ちも強く持たれるのだろうが、幼さが残る2人がなぜあのような時間に街をうろついていたか、ほとんど伝えられていないように思う。


私はテレビをあまり見ないが、昼時のワイドショーや夕方のニュースは見る。ラジオのニュースも聞く。新聞社のニュースサイトもある程度は見るし、facebookなどでフォローしているサイトで伝えられていることも一通り目を通す。しかし、被害者たちに関する情報は、少なくとも私にはほとんど届いていない。


LINEのやりとりなどから想像すると、彼らは家にいたくなかった何らかの理由があったのではないかと思う。男の子の方が友人に泊めてくれないかと連絡してきたらしいし、中学校に入ったばかりの子どもたちが日常的に深夜出歩いているとは普通考えにくいからだ。彼らにも、今回の事件に遭遇してしまうことになった事情があったのではないか・・・



中学生から高校生にかけては最も感じやすく傷つきやすい年齢だと私は思っている。全くの子どもでもなく、かといって大人でもない微妙な年齢だ。個人差はあるだろうし環境の違いも大きいとは思うが、自身の中にかかえもつ問題や重荷をもてあまし途方にくれがちなのではないだろうか。


大人から見れば「ちょっとしたこと」で彼らは悩み、誰もわかってくれないと思い、現実から逃げたいと思い、ひきこもることもあれば家出することもある。「ひきこもり」も「家出」も、それ事態は異常なことではない。


 「ひきこもり」は昔あまりなかったように思うが、それも家の中にひきこもる場所がなかったという事情も関係していると思われる。「家出」も考えたことがあるというだけなら多くの人が頭に浮かべたのではないだろうか。実際に実行した人もいるだろうが、考えたけれど結局やめてしまった人はそれ以上存在するに違いない。


 寝屋川市の2人は(もし本当に家出しようとしていたなら)何を思い行動に移したのか。2人ならなんとかなると思ったのか。なぜ深夜だったのか。単に親の目を盗みやすかったからなのか。もうこの世にいない2人には問いかける術はない。



いじめが原因による子どもたちの自殺、子供たちによる殺人事件、そして今回のように自ら犯罪の餌食になるような行動・・・一体子どもたちに何が起きているのか、と大人たちは思う。今回の事件も、単なる容疑者の異常性のみが引き起こしたことではなく、家庭のあり方、教育のあり方、しいては社会のあり方を問われる事件だと私には思える。しかし、その先になかなか行けない。立ち尽くすだけなのである。


ひとつだけ思い当たる・・・というか想像するのは、子どもたちがひどく「孤独」に対して弱いということだ。私なりのいいかたをすれば、彼らの「孤独」がとても弱々しいものだということである。


「孤独」については書こうと思いつつなかなか書けないでいる。それほど私にとっては大きいなテーマになっているわけだが、今回はただこう書いておこう。「私は「孤独」を悪いものだとも、避けるべきものだとも思っていない、と。ひとは根本的には「孤独」であり、だからこそ他者との関係を欲するものだと考えている、と。そして、「孤独」には勁く凛々しい「孤独」もあれば、脆弱な「孤独」もあると思っている、と。



子供たちに関する昨今の事件や問題に触れるたび、私は彼らの短絡性に驚く。いじめにしても、自殺にしても、犯罪にしても、どこかあっけにとられるくらい短絡的である(もちろん例外はある。とくに自殺の場合は悩み抜いての自殺が多い)。その短絡性はどこから来るのか・・・なかなか答えは見つからないが、もしかしたらと思うことはある。


それは、幼いころから自分で考えることをほとんどしてこなかったからではないかということだ。少子化に伴い親の目は子どもに行き届きすぎるくらい行き届く。よかれと思い、あれは危ない、これは汚い、等々と子どもに教える。当然ながら子どもたちは危ないと感じる経験をしなくなり、汚いと言われているものが本当に汚いだけなのか、それとも違うのかを知ることもない。子どもが集まれば必ずといっていいほどもめ事が起きるが、「ケンカはだめ。はい、仲直りして仲良くね」と言われ続け、友だちと仲良くすることがいいことで、仲良くできないことは悪いことだとすり込まれる。


学校に上がっても、社会に出ても、この紋切り型はついて回り、それに馴れてしまい疑問も持たなくなってしまう。しかしひとたび、この紋切り型では通用しないことに遭遇すると何もできなくなり、揚げ句の果てに短絡的な行動をとってしまう・・・そういうことも考えられるような気がする。



自分だけで、自分の頭で考えること。それは孤独な作業である。しかし、子どもだからできないと思うのは大人の思い上がりであるような気がする。子どもたちは子どもたちなりに、未熟なら未熟なりに、自分で考えることはできる。そして自分で考えることを身に付ければ、彼らの「孤独」は少しずつ鍛えられ、自分なりの問題解決意識を持てるようになり、そのために必要なコミュニケーション能力を求めるようになり、自立への足がかりを見つけることができるようになる。私はそう思っている。


*最近、前にも増してだらだら、長々と書いているなぁ・・・

*もう少し考えようっと。


| - | 10:36 | comments(2) | - |
尊い犠牲
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今度の日曜日に、国会周辺を10万人で囲む大規模なデモが予定されている。行きたいという気持ちを持ちつつ、ここ数日の体調不良、それに伴う気力不足を思うとまた傍観者に甘んじてしまうのかと半ば自虐的になりそうだ。


いつだったか忘れてしまったが、こんな話を目にした。活動をする人に対して誰かが「がんばってください」と言うと、その人ががんばれっていうな。おまえがやれ!」と答えた云々。私はそう答え多人の気持ちがわかるような気がした。「がんばってください」と言うのはたやすい。たやすい態度に甘んじている人に対する苛立ちがそう言わせたのかもしれないと思い、反感は全くといっていいほど感じなかったと記憶する。


しかしまた。自分の態度を明らかにする方法はデモ参加以外にもあるだろうし、それを探すこともたいせつだとも考えている。こうしてブログにあれこれ書くだけでなく、他の何かを探さなくては・・・と思う今日このごろだ。



夕刊に連載されている「江戸から見ると」というコラムを楽しみにしている。書かれているのは田中優子さん。江戸文化研究者として有名で、著書「江戸を歩く」は私のバイブル的存在だ。現在法政大学総長であり、着物の似合う美人である。


 先日のコラムは今年のお盆を石垣島と小浜島で過ごしたことに触れ、満月に照らされて全ての世代が寄り添い死者とともに過ごす盆を体験したことが書かれている。そして田中さんは続ける。首相の談話全体に「死者の欠落」を感じる、と。


もう一度、首相の談話全文を読んでみた。なるほど、と思った。最初に談話を読んだ時に感じた、どこか空々しい他人事のような印象は、田中さんが指摘していた「尊い犠牲」という言葉に集約されるような気もした。


 戦争で死んでいった人々の死は、果たして「尊い犠牲」という言葉で表されるようなものだったのだろうか。例年になく戦争経験者の言葉に触れることが多かったこの夏の経験からみても、そんなきれい事で済まされるものではないように思われる。田中さんの祖母は痛恨の思いで息子の死を「無意味な死」と受け止めていたという。



つい先日「屍の街」も読み終えた。いわゆる原爆小説と呼ばれる本の中で描かれる人々の死は、どう考えても「尊い犠牲」とは言いがたい。どの死もなまなましく、無残でとことん悲しい死だと私には感じられた。「お国のため」という大義名分をとことん信じ込むように洗脳され、胸を張って敵に突撃していった特攻隊の死も「尊い犠牲」ではなく「むごたらしい犠牲」だと私は思う。


「尊い犠牲」などという言葉は、犠牲にはなりえない立場の人からの、これこそ上から目線のもとに言われた言葉ではないかとさえ思えてくる。


私たちが当たり前のように享受してきた平和は、無数の「むごたらしい犠牲」があってこそのもの。そう思うとき、何が何でも守らねばならないものは何か、決然と否定しなければならないのは何か、は明白だ。



先日、若者たちが全国60ヶ所で一斉行動をとったが、それを大々的に報道したのは東京新聞だけだった。情けない。読売、産経、NHKにはほとんど期待していないが、それ以外のマスコミは30日の出来事をきちんと伝えてほしい。ジャーナリストとしての誇りがあるのなら、の話だけれど。


*首相の奥サマ、会員制クラブで泥酔し、某ミュージシャンに抱きついていたとか。

*お似合いの夫婦?(^^;)

| - | 10:25 | comments(0) | - |
「親なるもの断崖」
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例外はもちろんあるが、私は漫画をほとんど読まない。嫌いだというのではなく、絵と文字の両方を追わねばならないのが億劫というか、疲れてしまうのだ。漫画好きの友人には信じられないというような反応をされたが、最近私と同じような感覚を持つ友人もいることがわかり、結局のところ相性なのかなぁと思っている。


そんな私ではあるが、最近なかなかよい作品に出会った。「親なるもの断崖」(曽根富美子・宙出版)である。ニュースサイトだったかFacebookだったかtwitterだったかで見かけて興味を持ち、内容を確認した上で取り寄せてみた。原作は意外と古いもので「ボニータイプ」(秋田書店)という雑誌?に1988〜89年にかけて連載されたものだという。


 1991年に初版単行本が出版されるが以後絶版となっていた。戦後70年の節目である今年4月、電子書籍として再販された途端話題になり47万を超えるダウンロードを記録。印刷物の新装版も7月10日に発売された。私が手に入れたのはそれだと思われる。


この物語の背景は、昭和初期まで遡る。青森の貧しい家に生まれて身売りされた4人の娘たちが、女衒に連れられて北海道・室蘭に着いたところから始まる。娘たちは、幕西遊廓にある富士楼という店に向かう途中だ。寒さに震えながら歩く娘たちに、女衒の男は険しい断崖を指さし、「地球岬」だと教える。「地球岬」の断崖は「ポロ・チケウ」と呼ばれ、その意味は「親である断崖」である、と。少し離れたところに「ポン・チケウ(子供である断崖)」がある。そして彼は室蘭の町を一望する丘の上で娘たちに言う。「よく見ておけ。これからおまえたちが創っていくであろうこの土地を」。そしてまた言う。「けっして見失うな、自分の存在を。そして犬死はするな!」


しかし、娘たちはほとんど何も知らない子供だった。一番年長の松恵が16歳。妹の梅が11歳。同じ村から来た武子が13歳。道子が11歳。みな、親に売られたことを怨むでもなく、これからの暮らしに不安を抱きつつ幕西に向かい、それぞれの運命を懸命に生きる。


松恵は到着したその日に客をとらされ、首を吊って死んでしまう。梅は姉の死を見て、まだ11歳なのに娼妓(女郎)として生きる決意をする。美しく勝ち気な武子は芸妓として成り上がるため厳しい芸の稽古を始める。きれいな着物を着られる娼妓になりたいと思っている道子は、不細工な顔を女将になじられ下働きに甘んじる。


興味をもたれた方にはぜひ読んでもらいたいので詳しい内容は書かない。しかし、北海道室蘭にこういう遊廓街があったことも私は知らなかったし、ましてやそこに生きる女性たちの悲惨でもあり、たくましくもある暮らしも知らなかった。それを知ることができたことは大きな収穫だったと思っている。


 また、北海道の開拓についても丁寧に描かれており、開拓のため集まった(あるいは集められた)労働者たちの厳しく残酷な暮らしぶりには驚いてしまった。鉄道建設は開拓にとって重要なものだったが、「枕木ひとつにタコひとり」(タコとは自分の身体を喰いながら生きるもの、という意味)と言われ、ケガや病気で働けなくなったものはわずかな食料を渡されて放り出され、医者にも見せてもらえず、なおる見込みのないものは線路の下に生き埋めにされたというから全くひどい話である。


 戦争がはじまると、多くの捕虜が労働者として導入され、鉄道工事、荷役労働、飛行場、日鉄工内で過酷な労働を強いられ、その多くが死んでいったという。中国や朝鮮から無理やり釣れてこられた人々も多かったらしい。その意味でも、この物語は決して過去のものではないのではない、と感じている。


開拓、近代化のために犠牲になった人たちと、彼らのために集められ身体を売り続けた女たち。社会的な背景や土地に根づいた風習など様々な資料を当たり、丹念に取材して描かれた物語のスケールは大きい。久しぶりに読みごたえのある漫画を読むことができたと思っている。


*試し読みができますぞ。こちら

*幕西遊廓については、こちらこちら

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いきなり秋!?
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・・・葉山海岸通りの荒物屋店先。土瓶のディスプレイがイカしてる!!・・・

昨日から気温がかなり下がっている。過ごしやすくて私は助かっているのだが、まだ8月。忘れっぽいので以前にもこのようなことはあったのかもしれないが、「ここは日本か?」と思わせるような猛暑が続いたと思ったら、「今は8月か?」と言いたくなる気温に急降下する天候はやはり異常だと思う。


暑さが苦手な私としてはこのまま秋になってくれてもいいのだが、ひとつの季節から次の季節への移行はもう少し緩やかであってほしい。昨日まで聞えていた蝉の声も今日は聞えず、何年も土の中で過ごしてやっと地上に出てきた彼らの命が雨と低温で短くなってしまってはかわいそうだと思ったりしている。


涼しくなったらベランダの整理、掃除をしようと思っている。毎年のことだが、今年はとくに暑さにやられて枯れてしまったものが多い。本当に枯死してしまったのか(根までダメになっているか)をよく見極めた上で処分していかなくてはならない。悲しい気分でそういう作業をしながら、毎年もう少し植物を少なくしていこうと思うのだが、春が近づくとまた増やしたりしてしまう。少し考えていかなくてはと思っているところ。


気圧の変化が大きいと頭痛に悩まされがちなのだが、ここ2日は大丈夫。むしろ、昔骨折した右足親指が少しうずいたり、神経痛になったことがある左足の膝がなんとなくおかしかったり・・・寄る年波を感じさせてくれる今日このごろだ。年をとるということは、ちょっとした天気の変化などにも身体が反応してしまうことだと改めて思う。そんな身体と相談しながら、時には励ましながら残りの人生を歩いていくしかない。


とりあえず、気持ちいい秋風が吹き始めたら秋らしい空気を吸いにあちこち行きたいと思っている。秋の街もいいし、秋の海、秋の山もいい。うーん、迷うなぁ(^^;)

| - | 08:58 | comments(0) | - |
二人の墓標
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8月ももう終わりそうになっているが、自らに課した原爆小説のうち最後になった「屍の街」がいまだ読みきれていない。正確に言うと、「屍の街」は読み終えたが同じ本の中に入っているもうひとつの作品「半人間」を読み終えていない。どちらの作品とも私にとって手強い作品で後回しになっていた。


今年は林京子作品をいくつかはじめて読んでみた。その中でもとくに印象的だった「二人の墓標」について少し書いてみたい。


この物語もまた原爆・・・というより被爆者たちの信じがたい体験を描いている。目を覆いたくなるような人々の様子は何度読んでも印象的で、あのようなことが実際あったことが信じられないくらいである。しかし実際にあったことなのだと毎年思い、思い続けるためにまた読む。


「二人の墓標」で私が心惹かれたのは、女性同士の複雑な心理の描写だった。タイトルになっている二人とは同じ村に住み同じ工場に動員されていた若子と洋子のこと。仲良しということになっていた二人は同時に被爆し、若子だけが生きて故郷にたどりつく。同じ村なので当然洋子の消息を聞かれるが若子ははじめは黙り込み、洋子の母親の必死の問いに思わず生きていると言ってしまう。


しかし若子は洋子が死んだのを知っていた。女学校から万が一の時は集まるように言われていた場所に二人ともたどりつき、ともに過ごしていたのだ。若子はたいした傷もなかったが、洋子は背中にガラスがたくさん突き刺ささる重傷を負い、次第に弱々しくなっていく。背中のガラスの破片を抜いてあげようとした時、若子はそこにウジがわいているのを見る。もう洋子の命は長くないということを若子は知る。


洋子は若子に一人で逃げるように言う。しかしそれは洋子独特のいじわるであることを若子は知っている。同じ村の同じ年齢の女学生同士。二人は仲良しだと思われていたが、若子は洋子に傷つけられてきた。運動会の競争で洋子はいつも一等賞で、常にビリの若子を「だめな人ね」と言った。若子の家は村長の家として代々続いているが、実際のところ洋子の家の方が金持ちだった。勝ち気な洋子は、命からがら逃げ延びた場所で若子と遭ったとき、自分がこれほど傷ついているのに若子はたいしたことなく済んでいることが不服そうだった。


洋子は徐々に死につつあった。背中のウジが地面に落ち、それを若子が足で踏みつけるのを黙って見ていたが、うつろな目をして殺してはだめだ、そのウジ虫が自分になる、と呟く。若子は怖くなって駆け出す。「一人にしないで」と叫ぶ洋子を残して。


翌日若子は人々の列についてまた洋子がいるであろう場所を通る。そして洋子が死んでいるのを見る。「だけど、あたしには関係ない」とつぶやいて若子はその場を後にした。


奇跡的な若子の帰還を村人たちは喜んだが、やはりみな洋子の消息を知りたがる。とくに洋子の母である好は執拗に問い続け、若子は嘘をついてしまった。好は急いで若子を探しに向かい、洋子が一人死んでいるのを見つける。すでにウジに食い荒らされた洋子の体をさらしで巻き、好は洋子を連れ帰る。


村に連れ帰り、わざわざ坂の上にある若子の家まで遺体を運んでくる。好の意図は何か・・・若子は布団の上に起き上がり身体を硬くさせる。好は、洋子は若子が言った通り山の窪みで一人死んでいたという。しかし、若子は生きているかと問われた時にうなずいただけだ。誰かが若子と洋子が一緒にいるところを見たのだろうか・・・いや、いるはずはないと若子は自分自身に言い聞かす。


若子は徐々に弱り、母親であるつねの目にも死は近いと思われた。死んでしまったと思っていた若子が帰還してから、つねは若子を死なせるものかと思い、看病に全力を尽してきた。そして、洋子とのあいだに何かあったとうっすら気付きながら、若子を最後まで守り抜こうとしていた。


 村の人々の同情は死んでしまった洋子に集まっているように見えた。しかし、つねは万が一若子が洋子を見捨てて一人帰ってきたとしても、誰も若子を責めることはできないと思う。物語の最後近く、つねが好の家に向かう場面がある。娘を亡くした母親と生き残った娘を持つ母親。一人は自分の娘は置き去りにされて死んだと思い、もう一人の母親は自分の娘に罪はないと思う。母親同士の静かな戦いがそこにはあった。一部引用したい。


「噂は、ほんなことですか。知っとるなら教えて下さい」

新しい位牌に手を合わせていた好は、

「ほんなこと?それは若ちゃんが知っとんなるでしょうに。あたしも、それを若ちゃんの口から聞きたかです。あたしが知っとるほんなことは洋子が、たった一人で、山で死んどった。そいだけです」数珠に手をかけたまま、つねを見た。

「若子に逢わせたかって好さんはわざわざあの日洋ちゃんを連れて来てくれましたね。 若子は、洋ちゃんを一人、山におきざりにはせん。好さんも信じとるけん、つれて来 てくたとでしょう」

「・・・ばってん、洋子が山におる、そう教えてくれたとは若ちゃんです」

つねは、洋子によく似た好の、濡れたように光る目をしっかり見すえて、

「ひどすぎます。若子も誰かに聞いたとでしょう。噂は嘘です。若子は一人で、たった一人で逃げたとです。洋ちゃんと一緒ならあの子も、どげん心丈夫やったか」

これがほんなことです、とつねがいった。

「そんなら、それがほんなことでしょう。洋子は、もう死んでしもうたとです。聞きようもありません」

「ただでさえ、若子一人助かったことで、同情は洋ちゃんに集っとです。洋ちゃんが死んだとは、若子にはかかわりなか、よかですね、好さん」


「二人の墓標」(「祭の場・ギヤマン ビードロ」に収録)より引用。


衰弱した若子は妄想を見るようになり、布団のまわりに洋子がたくさんいると言い出す。いくら「仕方なかったんだ」と思っても、やはり若子は洋子を置き去りにした後ろめたさから逃れることはできない。山の窪地で洋子を置き去りにしてからというもの、頭の中にハエがたくさんいてうるさくてしかたない。「ハエを殺してね」とつねに頼み、かあさんがみんな殺してやると答えると血の気のない顔に微かな微笑みを浮かべ息を引き取った。


女学生同士、そして母親同士。それぞれの複雑な心理がからみあい、ぶつかっていく人間模様は女性作家ならではのリアルさだと感じた。地獄絵のような状況下でも、人々はそのような人間関係から逃れることはできず、知られることのなかった個人的なドラマが無限にあったのだろう。それをこの物語から教えてもらったような気がしている。


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再び、逗子へ。
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下旬とはいえまだ8月。しかも日曜日。そして天気よし。そんな日に海水浴場としてこの辺りではメジャーな逗子へ行く・・・普通に考えたら私にはありえない選択である。が、ありえないことをあえてやってみると、案外面白かったりするというのは経験済み。Sさんから逗子海岸のライトアップがあるから行かないかとのお誘いがあり、万事繰り合わせて(^^;)行ってみた。


ライトアップは暗くなってからなので、まず先日取材に訪れた時に気になったベーグル屋へ。逗子駅前からバスに乗り葉山海岸通り。少し迷ったが目的の店「ツキタビ」へ到着。昔の蔵を使ったユニークな店構えは好感がもてるもので期待度も高い。


私は軽く昼食を済ませてから行ったので飲み物だけ(もちろんビールですよ)にしたが、同行Sさんはプレーンベーグルにエビとアボカドをはさんだサンドイッチを注文。タルタルソースも美味しそうだったがボリューム感はかなりのもの。私はお土産にバジルとクルカレ(クルミとカレンツ)のベーグルを購入。


海岸通りをぶらぶら歩いた後、海岸に出てみた。意外なことに、逗子海岸(森戸海岸?)の海の家は昔ながらの建てかたのものが多く、少しなつかしい感じ。先月行った材木座の海の家の方が今風である。逗子周辺の海水浴場は規制がとても厳しいらしいが、みんな思い思い楽しんでいる様子。カラフルな浮輪を持った子どもたちや暑さをものともせずぴったり寄り添うカップル、賑やかな若者グループ・・・昔から変わらぬであろう夏の浜辺の風景の中、潮風に吹かれながら歩いてきた。風が気持ちよかったなぁ。


当初の目的のライトアップは、波打ち際に青い照明を当てるという地味といえば地味なものだったが、夜の海は昼とは全く違った表情を見せていてそれはそれで楽しかった。本番は10月とのことだが、もう少し派手になるのだろうか。どこかで打ち上げられている花火を遠く眺めながらしばし砂浜に座って海を見ていた。


逗子・葉山は魅力的なところだと思うが、交通手段がバスくらいしかなく、かといってマイカーで行けば酒が飲めないというデメリットがある。日帰りで十分行けるところだが、一泊してゆっくり歩き回るのが理想的だろう。いつか機会があったら・・・


土産として持ち帰ったベーグル、さっそく今朝食べてみた。なかなか美味しい!再度調べてみたら、原材料に天然酵母や無農薬、減農薬の野菜・果実を使っているようだ。人気商品らしいシナモンロール、週末限定販売で昨日あったのだが買わなかった。残念!次に行くことがあったらぜひ入手したいもの。


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フリーダ・カーロの遺品
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これまた先々週のことになるが、映画「フリーダ・カーロの遺品」を見に行ってきた。できることなら足を踏み入れたくない渋谷ではあるが、どうしてもはずせない映画や展覧会がある時には意を決して出掛ける。この気力がいつまで持つか少々不安ではあるが、あと数年はどうにかこうにか残しておきたい。


映画は、2004年まで封印されていたメキシコの画家であるフリーダの遺品を、写真家・石内都さんが撮影していく過程を追ったドキュメンタリー。


2012年にメキシコのキュレーターがフリーダの遺品撮影を発案、プロジェクトが立ち上がり撮影者として石内さんに依頼したとのことだ。石内さんは、これまでにもご自身の母の遺品や広島の被爆者たちの遺品を撮影しているから、その実績に注目しての依頼だったのだろうと推測する。


フリーダ・カーロはドイツ・ハンンガリー系ユダヤ人の父親とメキシコ人の母親の間に生まれているから、純粋なメキシコ人ではない。が、生涯メキシコの民族衣装を身に着け、メキシコ人の画家としてのアイデンティティを持ち続けた。自画像や写真からもわかるように意志が強く美しい女性だった。


 しかし、6歳の時に急性灰白髄炎に罹り寝たきりで9ヶ月を過ごし、国立予科高等学校(当時メキシコで最高教育機関とされた)に入学するも通学時のバスが事故に遭い、生死を彷徨う重傷を負う。3ヶ月寝たきりになり、その後も死ぬまで後遺症に悩まされた。晩年には片足の膝から下を切断、義足生活を送っている。一生涯耐えきれぬほどの痛みと付き合いながら、あれだけの絵を残したというのは並大抵の精神力では不可能だろう。


フリーダの遺品には、民族衣装はもとより左右のかかとの高さが違う靴(幼い時の病気のため足の長さが違った)、痛み止めの様々な薬、ネイルエナメル、そして苦痛を和らげるためのコルセットなど様々なものがあった。それは芸術家の持ち物というよりも、一人の女性が女性らしく、自分らしくありたいと願っていたことを証明する物だ。石内さんも女性らしい視点で補修の跡などに注目し、それがフリーダ自身の手になるものだということを聞いて感動していた様子だった。


遺品の撮影は、フリーダが住んでいた「青の家」(現在はフリーダ・カーロ記念館)で行われた。できるだけ自然光を使い、記念館の女性たちと話をしながら撮影していく石内さん。民族衣装についてさらに知るため、スタッフは民族ごとの特徴ある民芸品が集まるオアハカに出掛け、テワナと呼ばれるドレスや手の込んだ刺繍を生業としている女性たちに会い、親から子へと受け継がれていくドレスの素晴らしさを伝えている。


淡々としたドキュメンタリー映画なので、心震わす感動とか心躍るエンターテイメント性があるわけではない。しかし、今まで頑ななほど封印されてきた遺品から感じられる女性としてのフリーダや、同じ女性としてそれを撮影し、様々なことを発見していく石内さんの姿を見ることができ、私としては満足できる映画だった。


フリーダ・カーロについては、「フリーダ」という映画があり私は二度ほど見ている。今回の映画を見て、もう一度見たくなった。TSUTAYAのリストに入れておくかな・・・

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22日は猫に語らせる日・・・8月担当:ゴン
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うにゃ。うにゃにゃ。ざんしょおみまいもうしあげますにゃ。ゴンですにゃ。


ことしのなつわ、すごくあついですにゃ。いつもなら「ひんやりボード」でまったりくつろぐオイラですが、ことしわそういうわけにいかない「じじょう」ができてしまったですにゃ。


そうですにゃ!みなさんごぞんじの、あの「ふく」のせいですにゃ。あるひとつぜん、すごくちびなやつがきたとおもったら、こいつがあばれんぼうでオイラ、こまっていますにゃ。オイラ、わがやのねこチームのリーダーとしてながねん「くんりん」しているけど、みかんもまめこもこんなにあばれんぼうじゃなかったですにゃ。


はしりまわったりするのわ、まだゆるせるですにゃ。ゆるせないのわ、オイラのあとをおっかけてきて、のしかかったりかんだりすることですにゃ。みかんも、ひがいにあっていますにゃ。まめこのところにわいかないですにゃ。なんでかしりたいので、まめこにきいたですが、「うふふ、ひみつ」といっておしえてくれないですにゃ。もう、うっとうしくてオイラ、のいろーぜになりそうですにゃ。


オイラがくつろげるのわ、「ふく」がねているときだけになってしまいましたにゃ。いったいどうしてくれるのにゃっ!!


しかたないので、オイラわげんかんの「くつぬぎ」のところにねることにしましたにゃ。するとすみごんが、「ゴンくん、そこきたいないからやめて!」といいますにゃ。でも、そこしかくつろげないから、しかたないとオイラわおもいますにゃ。しかえしに、よごれたからだでテーブルのうえにのってやりますにゃ。オイラのいえわ、えいせいじょうたいがよくないですにゃー。ざまみろですにゃ!


そんなこんなで、オイラ、またやせてしまいましたにゃ。もう3キロないですにゃ。すみごんとおそろいのガリガリになってしまいましたにゃ。ちょっとなさけないですにゃ。それにくらべて、みかんわ、6キロいじょうありますにゃ。かんぜんな「デブ」ですにゃ。オイラにたいじゅうを2キロくらいくれるといいのににゃ。でも、しょくよくわあるのでどうぞごしんぱいなくにゃ。このごろわ、「ふく」の「あかちゃんよう」キャットフードがオイラのおきにいりですにゃ。こつぶであじもおいしいですにゃ。


それにしても、「ふく」わなんであんなにかみつくのか、オイラわからないですにゃ。よなかも、すみごんにかみついておこしていますにゃ。あまりひどいと、びょういんにいくときにいれられる「きゃりー」にとじこめられていますにゃ。いいきみですにゃ!


 それに、きょうオイラが「ブログかかなくちゃにゃ!」といったら、「ふくも!ふくも!」といいますにゃ。まだあかちゃんなのに、なまいきですにゃ!「ふく」にブログのじゅんばんがまわってくるのわ、はやくてもらいねんになるとオイラわおもっていますにゃ。


らいげつわ、さらに「デブ」になったみかんのばんですにゃ。きのう、「べんぴ」になってびょういんでおシリをほりほりしてもらったらしいですにゃ。いっぱいでたらしいですにゃ。おまけに、つれていったオッサンをひっかいてしまったらしいですにゃ。にゃはは!


■ふくんこ通信■

やんちゃ、というより暴れん坊状態。食べている時と寝ている時以外は走っているか、噛みついているか、オモチャで遊んでいるか。人間も他の猫たちおお手上げ状態になっている。眠い時はポンポンに膨らんだおなか(毛が薄いのでほのかにピンク)を惜しげもなく出しておとなしくなる。メリハリありすぎ!

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