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日々の内側
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暑い季節に、猫まみれ
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・・・接待上手な、なっちゃん。家人に擦り寄りオッサンの心を鷲掴み・・・

曇ったり晴れたりだが湿度だけはしっかり高い・・・不快指数は相変わらず高いが、昨日はその不快ささえ忘れるひとときを過ごしてきた。


以前にもお邪魔した「りきの毎日」のりきさん宅に、まだ怖いもの知らずのチビ(ふく)を連れておうかがいしてきた。こんな時季にお邪魔して申し訳ないと思いつつ、久しぶりに子猫が来たので猫の大先輩につい見ていただきたくなってしまったのだ。


りきさん宅のみなさんは、相変わらず個性豊かでマイペース。犬のハナちゃんがはじめのうち驚いたのか警戒警報を発していたが(^^;)、じきにあきらめてお昼寝。来客に興味のない方々は猫部屋で涼しくお昼寝し、フレンドリーななっちゃんは早速接待してくれ、シャイなダンダンはカウチの下に隠れ、気高きマリー様は悠然とした態度を崩さず、すみれちゃんは少し離れたところで子猫を観察し、ユニークな模様のガク君はキャリーの中まで入って点検し・・・と、それぞれの行動を見ているだけで猫キチは充たされてしまうのだった。


はじめは柄にもなく警戒していたふくも、少しずつ慣れてあちこち歩き回り、かわいい盛りの姿を写真に撮ってもらった。緊張して疲れたのではないかと思ったが、帰りの車の中でも元気いっぱい。キャリーの中から両手を伸ばして「出してよ!」とアピール。家についたらムシャムシャとごはんを食べた。身体は小さいが案外大物かも?


りきさんの家にお邪魔するといつも思うのは、猫たちから思う存分幸せな時間をもらっていると同時に命あるものへの重い責任をずっと果たしてきたことは傍から見ただけではわからないほど大変なことだろうなということである。


扉付きの大きな棚の上には小さな骨壷がたくさん並んでいる。「りきの毎日」の紹介コメントに現在「お星様組15匹+現役26匹」と記されていることからもわかるように、すでに15匹を見送ってきたということだ。こういったことは馴れるということではなく、まだ1匹も失っていない私からすると本当に悲しい思いをたくさんされてきたのだろうと察せられる。


26匹もいれば、普段の世話だけでも大変だ。もちろん理解あるご家族の協力があってこそだとは思うが、マイペースを崩さない猫のこと、それぞれの折り合いや体調などに気を配り、それぞれができるだけ快適に過ごせるよう心を砕くのが日常となっていると思う。それを続けられるのは、ある程度アバウトに考えることも肝要だろうし、息抜きにリフレッシュする時間を意識的に作っていくことも必要だろうと思う。親が幸せでないと子どもも幸せではないと同様、飼い主が幸せで日々を楽しんでいないと、飼われている動物たちも幸せではない。そんな気がする。


昨日は、一番新しく家族になったキンちゃん(白い立派なオス猫で通称「モチ」(^^;))のご尊顔を拝見することだったが、案外シャイなキンちゃんは猫部屋でお昼寝中。でも、帰り際におなかだか背中だかにタッチさせてもらえた。


今度(また行くのかよ!)は、あの味わい深いお顔をぜひ拝見したい ものである。私のタイプであるブンちゃん(渋い中年の魅力満点)にはちらりとご挨拶できたし、ハンサムなよっちゃんを撫でることもできたし、大満足で帰ってきた。ああ、猫ってなんて魅力的なんだろう・・・などと分かり切ったことをまた実感している。


*エピファネイア、引退ですか。残念だなー

*JCの見事な勝ちっぷりを見ただけに、もう一度勝ったところを見たかった。

*それにしても、あれだけ無茶ぶりをしてケガしないアイツって・・・(^^;)


■ふくんこ通信■

遊び疲れて電池切れ。ツメを出したままってところが子猫かな?

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| - | 05:09 | comments(0) | - |
無窮花〜ムグンファ
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猛暑日が続いている。最近の暑さは気温が高いだけでなく湿度も高いから、不快指数はかなりのものになるのではないだろうか。湿度が低い「カラッとした暑さ」なら夏らしくてこれもまたよし、と思えるがこうムシムシしたのでは・・・


というような人間の弱音をよそに、夏の花は季節を謳歌するように咲いている。中でも木槿は暑さなど何処吹く風といった涼しげな風情で人目を引く。高速道路の植栽にも使われているから性質も丈夫なのだろう。私が住む地域では至るところで見かける、見慣れた夏の花であるがゆえ今まであまり注目してこなかったのだが、今年はやけに木槿の白い花に心惹かれる。


木槿は韓国語の無窮花(ムグンファ)に中国語の木槿(ムーチン)の字を当てたとされている。「無窮」は果てしないこと、永遠、を意味する。韓国の国花だというが、なるほどこの花をじっと見ていると、「ムクゲ」より「ムグンファ」の語感の方が花の雰囲気に合っているように思えてくる。


木槿、韓国・・・という連想が働いたわけではないが、少し前に「利休にたずねよ」をレンタルDVDで見た。山本兼一氏の原作は直木賞をとった年(2009年)に読んでいるが、映画化されたのは2013年。その時このブログでも何か書いたと思う。


映画化に当たっては派手な宣伝もあり話題にもなっていたが、私の中では「利休=三国連太郎」なので、この映画は特に観たいと思わない、DVDになったら観るかもしれない、といったことを書いたような気がしているが・・・(調べました。2013年9月14日の記事


俳優のことはともかく、小説でも映画でもこの作品の中で木槿は象徴的な花として何度も登場する。若き利休が激しく惹かれた韓国の女性が手折った花として、まだ妾であった宗恩が来ていた小袖の柄として、死を賜った利休が茶室に活けた花として・・・原作の表紙や映画の中では底紅の白い木槿が採用されているが原作ではただ「木槿の白い花」とのみ表記されていたように思う。底紅の白花は千宗旦が好んだことから「宗旦」と名付けられ茶花としてよく使われるということだ。


私はつい今まで、木槿は一日花だと思い込んでおり、その儚さが夏の花らしいと思っていた。調べてみてもそういった解説が多いが、一日花ではないという話もある。自分が育てていれば観察できるのだが他所に植えられているものについてはそうはいかない・・・というより、一日花であるかどうかはこの際さほど重要ではなく、あの涼しげで儚げな雰囲気を単純に愛でればいいと思い直している。


ただ、この一日花説がどこから来たのかということだけは覚えておきたい。白居易の詩の中の「槿花一日自為栄」(木槿の花は一日しか咲かないが、れおはそれで栄華である)という一節があり、それとは別に「槿花一朝の夢」(この世の栄華は儚いものである)という諺(?)もある。意味は全く違うが、木槿を「一日花」としているところは共通しており、そこから一日花だと思われてきたのかもしれない。


私は白い花を最上とするので、木槿についても白一色の一重が一番好きだ。「宗旦」も悪くはないが。八重の品種もあるが、こちらは(勝手ながら)木槿らしい儚さがあまり感じられず(一重花は2〜3日、八重の花は2週間ほど咲き続けるという話もある)風趣ある庭には不向きかと思う。


それがしも其の日暮らしぞ花木槿 小林一茶


| - | 09:58 | comments(0) | - |
抒情歌
15-0729-1

先日材木座海岸に行った時、きれいな貝殻をふたつ拾ってきた。ひとつはほとんど白、もうひとつは薄紅色。薄紅色の貝は「桜貝」と呼んでもよさそうだが、一般的な(販売されていたりする)桜貝より色が淡い。


 透けるように薄く濃い紅色の桜貝も可憐だが、私が手にした貝殻の淡い色を見ていると「これが本当の桜貝かも」などと思えてくる。桜といってもいろいろあるが、私の中での桜の色は限りなく白に近い薄紅色だ。


貝殻を見ていたら、はるか昔聴いたことがある「さくら貝の歌」を思い出した。メロディは覚えているが歌詞が不確かなので検索してみた。


さくら貝の歌(作詞:土屋花情/作曲:八洲秀章)


美わしきさくら貝ひとつ

去りゆけるきみに捧げん

この貝は去年(こぞ)の浜辺に

われひとりひろいし貝よ


ほのぼのとうす紅染むるは

わが燃ゆるさみし血潮よ

はろばろと通う香りは

きみ恋うる胸のさざなみ


ああ なれど わが思いははかなく

うつし世の渚に果てぬ


この歌をはじめて聴いたのは小学校高学年のころだったか。父が買ってきたレコードで、であった。ある日突然今から思えばバカでかいステレオがわが家にやってきて、6畳の和室にでんと置かれた。その存在感たるや偉大なもので私たちは多いに喜び、父が買ってきたレコードをあれこれ聴いた。


父がまず買ってきたのがアルゼンチンタンゴの名曲を集めたアルバムとショパンのピアノ曲集だったと思う。父は若いころ社長となった人と二人ではじめた小さな機械製作会社の工場長をしており、所謂「ブルーカラー」と呼ばれる人たちのひとりだった。


当時のわが家は会社の持ち物で、6畳・4.5畳の和室と4.5畳の洋室、狭いダイニングキッチン、浴室とトイレという実にコンパクトな平屋だった。6畳の和室は、昼間はリビングとして夜は父母の寝室として使われていたと記憶している。そんな典型的な庶民の暮らしにも「ステレオ」が浸透し始めた時代だったのかもしれない。


次に父が買ってきたのは、LPレコードが10枚ほどセットになった全集物だった。クラシックの名曲集と日本のなつかしい歌を集めた全集でともに立派な箱に入っておりレコードと同じ大きさの解説書付きだった。「さくら貝の歌」は日本の名歌集(題名は忘れた)に入っており、解説書の歌詞を見ながらよく聴いたものだった。


10枚ほどのセットなのでかなりの曲があったと思うが、記憶に残っているのは「琵琶湖周航の歌」「北帰行」「城ケ島の雨」くらいか。たぶんもっと覚えているのだろうが思い出せないだけで、どこかでメロディを耳にすれば懐かしく思い出すに違いない。


気に入った歌は何度も繰り返して聴いた。小学校高学年の子どもではあったが、学校で習う歌にはない何かを感じていたように思う。歌詞の多くは文語体だったが、それが美しく格調高く感じられた。言葉の魅力をそれらの歌から教えてもらったような気もする。


とくに好きだったのは「琵琶湖周航の歌」だった。ゆったりした曲調と品性を感じさせる歌詞・・・子ども心に憧れのようなものを感じたことを記憶している。滋賀県は知名度ランキングが最低で県名を変えるかどうかのアンケートが実施されたと最近ニュースで伝えられていたが、この歌は滋賀県の誇りといってもいいと思う。名前など変える必要なし!(^^;)


それはそうと、この懐かしい歌の数々を何と表現したらいいか迷った。「懐かしのメロディ」とも違うような気がするし・・・といろいろ調べたりしたのだが、これぞといった分類が見当たらなかった。「抒情歌(叙情歌)」という言葉を見かけ、それが一番近いのかなと思ってタイトルにした次第。


 また、私が聴いたのは男性コーラスだったが、有名な歌手や俳優なども歌っていることを後から知った。たとえば「さくら貝の歌」は倍賞千恵子が、「北帰行」は小林旭が、「琵琶湖周航の歌」は加藤登紀子が・・・しかし、幼い時の経験がいかに強烈かということの証明になるかもしれないが、私は名も知らぬ男性コーラスで聴くのが一番好きかもしれない。もちろん例外はあるけれど(おときさんの「琵琶湖・・・」はいいですね)。


*しかし・・・殺人的な暑さですなー

*調子が悪かった仕事部屋のエアコン、なんとか稼働中(^^;)


■ふくんこ通信■

小さな野獣のごとく遊びまくった後、パタンと電池切れ。これが子どもだ!!

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| - | 08:19 | comments(0) | - |
もの喰う人々
15-0728
・・・鎌倉駅前で見かけたリトルカブ。キレイなおねいさんが乗っていた。かっこいい!・・・

最近、電車の中で化粧をする女性を以前ほど見かけなくなったような気がする。が、電車に乗る機会が減ったからなのかもしれない。通勤時間帯などでは今も相変わらず器用な手つきで化粧している女性をよく見かけるのだろうか。


化粧する女性より、最近は至るところで何かを食べている人が多く、それがけっこう気になっている。観光地などでソフトクリームや名産品を食べながら歩いている姿をよく見るが、それはあまり気にならない。食べているものや混雑具合にもよるが、「食べながら歩く」ことが暗黙の了解として成り立っているところなら、それはそれで楽しい経験なのかもしれないと思う。


私が気になるのは、日常生活の中の「公」の場での飲食である。ついこの間のことだが、駅のホームから改札に向かう長いエスカレーターに乗っていたら、反対側に乗っている若い女性がガリガリ君のようなアイスキャンデーをなにげなく袋から出して食べ出した。暑いから食べたくなるという気持ちはわかるが、コンビニの前で食べるとか、駅前にあるベンチに座って食べるとかすりゃいいのに・・・と思った。


先週は電車に乗っていて、隣に座った子どもが大きなパンを食べていた。いわゆる総菜パンの一種で、「臭い」というわけではないが人工的な脂や調味料ににおいが漂ってきて、最近とみにそういったにおいに過敏な私は少々不愉快であった。習い事帰りなのか隣に母親が座っており、パンを食べながらおしゃべりしていたが母親は子どもにパンを食べさせて平気の平左である。


小さな子どもを静かにさせておくために食べ物を与えている母親もよく見かける。子連れの大変さは私も経験しているので気持ちは分からなくはないが、無闇にそういったことをしていると騒げば何かもらえると子どもに勘違いさせることになるのではないかと思うし、粉がボロボロこぼれるようなものを与えるのは如何なものかと思う。無神経な母親は子どもにビスケットなどを与えておいて、自分はケータイに夢中になっていたりする。それでいいのか!と内心ぼやくだけだが・・・


書いていて思い出したのだが、半年ほど前だったか自転車で近所を走っていたら、向こうから歩いてくる女性が弁当を食べながら歩いていたので驚いた。おにぎりとかサンドイッチとかではない。コンビニで売っているような弁当を片手にもち、箸を使って食べているのだ。歩きながら。器用だなぁと感心もしたが、のほほんとした表情で食べながら歩いている人の顔を見たら、空腹で空腹で死にそうなので仕方なく歩きながら食べているという感じではなかった。いつもあんなことをやっているんだろう。


私が住む地域にも小さな夏祭りがあって、8月最終の週末には神社の参道に面した道に夜店が並ぶ。夜店で売られているものを食べるのはいいのだが、道端に座り込んで通行の邪魔になっていたりするのを見ると、場所を考えろと言いたくなる。近くに住んでいる人に聞いた話だが、マンションの入口に何人もが座り込んで焼きそばやら何やらを食べ、空いた容器をそこに置いていってしまうそうだ。注意すると「うるさいオヤジ」というような目つきで嫌々立ち上がり他に行ったということだ。



以前、電車の中で化粧する女性について、「パブリックとプライベートの境界が曖昧になっている」という指摘を耳にした。


電車の中はパブリックな場所だが、普通化粧するのはプライベートの場所においてである。しかし、化粧している女性はそこがパブリックな場であることを意識していない・・・あるいは知っているが自分のところだけプライベートな場だと思っている・・・のではないかという見解である。プライベートな場所なので他人の視線などあってなきが如しで、ひとつの「背景」に過ぎないのではないか、という見解である。


ものを喰う人々についても同じようなことが言えるのかもしれない。しかし、化粧している姿も何かを食べている姿も見ていて愉快なものではないと思うのだが・・・とくに「食べる」という行為は生理的なものを感じさせるので場所をわきまえてほしいと私は思う・・・のだが、もうそんな時代ではないのか。なんだかどんどんみんな下品になってきているような気がするなぁ。



以前、音を立てて食べることについて不愉快だと書いた記憶があるが、今朝Huffington Postで国によっては音を立てて食べるのがマナーに反しないという記事を見かけた。


クチャクチャと音を立てて食べたり、食器と食器が接する音を立てたりすることは多くの国で「マナーに反する」とされている。しかし、これは例外的ともいっていいと思うのだが、韓国では「音を立てて食べている=おいしそうに食べている」と解釈され、印象がよくなるという。本当だとするとお国柄かと思うほかないが・・・

| - | 06:54 | comments(2) | - |
山栗と山葡萄
15-0727-1

字を書くことがめっきり減って久しい。漢字は忘れるわ、字そのものが下手になるわ、本当に情けなくなるがキーボードを打つ方が断然早い。しかも、最近の連絡方法はメールが主体になっているから、字を書く必要性も昔ほど多くなくなっている。


若いころ私は所謂「筆まめ」だった。日記にも長々と文章を書いた。それでいて、ちっとも面倒ではなかった。若さゆえだろうか。脳ミソが今よりずっと活発に動き、書きたいことが次から次へと出てきて、溢れる水を少しでも多く掬い取ろうとするかのように書いていたような気がする。


今や、手描き文字は季節ごとに出す便りと小さな手帳への書き込みくらいになってしまった。字はますます下手になり、不確かになり、バランスが悪く・・・いやいや、下手でも「気持ち」ということで許してもらえるのではないか、などと自分を慰めつつ、数日前も暑中見舞いをいくつか書いた。


使うお道具は万年筆である。前にも書いたかと思うが、私はボールペンが苦手。実用性から言ったらボールペンの方が優れていると思うのだが、どうもあの書き味が気に入らない。筆圧が強い方ではないので、宅配便の伝票を1枚書くだけでも嫌になる。水性サインペンの方がまだよい。今でも定形外の封書の宛名書きには昔懐かしい「ぺんてるサインペン」を使うことが多い。


万年筆については数年前少し凝ったことがあり、数本手に入れたが今使っているのは主に3本。やはり書き心地がいいもの・・・ペン先が金のものの方がやわらかくてよい)が残る。いずれもペリカンのもので、一番のお気に入りは復刻版として販売された「茶縞」のスーベレーンM400。ペン先は「B」(太字)だ。スーベレーンシリーズは「緑縞」が最も有名で人気もあると思うが私は「茶縞」が好き。


万年筆を使う楽しさのひとつにインク選びがある。昔なら黒かブルーブラックくらいしかなかったように思うが、今やよりどりみどりだ。同じ「明るい青」でもメーカーによって微妙に違うから、自分が好きな「明るい青」を見つける楽しさがある。


一時はいろいろなメーカー、いろいろな色を試したが、現在のところだいたい落ち着いており、「茶縞」にはパイロットの「色彩雫(いろしずく)シリーズ」の『山栗』(渋い茶色)、誕生日にもらったバーメイイル・トートイスには同じシリーズの「山葡萄」、M420シルバー/ブラックにはカランダッシュの「ブルースカイ」を使用。


パイロットの色彩雫シリーズは微妙な色が厳選されておりコストパフォーマンスがいいので、これからも愛用しそうだ。まず色で選んだのだが、偶然山の植物の実の名前。なかなか野趣があっていいではないかと一人悦に入っている。「山葡萄」は落ち着いた赤紫色で、山葡萄はもちろんだが私が偏愛するヨウシュヤマゴボウの実の色にも似ている。以前使っていたモンブランの「ボルドー」よりやや青みがかった色で、こんな色が好きな伯母に秋になったら手紙を書こうかと思っているところだ。


今、念のため調べてみたら(正確な名前を確認したかったので)、私が持っている万年筆は3本のうち2本はすでに販売されていないことが判明(^^;) 「茶縞」は限定販売だったので予想はできたが、バーメイルはあまり人気がなかったとみえる。でも気に入っているからいいの、いいの。もう買えないものだし、大切に使っていこう。


*「自殺の一因と考えられる」って・・・「一因」かい?

*少なくとも「主因」じゃないの? 全くもう!

*しばらくの間、不定期に「ふくんこ通信」をお送りいたします(^^;)

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名前は「ふく」。おなかは「ぷくぷくりん」


| - | 07:53 | comments(0) | - |
ちいさな、ひみつ
15-0726
・・・あたち、ふく。はなのうえの「てん」はもようだよ。よろちくね!・・・

今月の猫ブログでまめこが「ひみつ」と言っていたのが、これ・・・このコ。現在(たぶん)生後1ヶ月を越したくらいだと思われる。このちいさいのが思いがけずわが家の家族になった。


子猫はかわいい。子猫だけでなく動物の子どもはみんなかわいい。かわいさが彼らの自然に備わった自己防衛力である。見かければ立ち止まってゆっくり見たくなるし、逃げる様子がなければそっと触ってみたくもなる。ただし、「飼う」となるとそこには責任やら何やらが発生するので安易に猫を増やそうとは思っていない。


わが家のような狭い集合住宅では多頭飼いはなかなか難しい。猫同士仲がよくみな健康であればまだいいのだが、相性が悪かったり誰かが感染性の病気になったりしても隔離するスペースがないからだ。また、私としてはやはり先住猫たちを優先させたいという気持ちもある。


 とくに今年の秋16才を迎える高齢のゴンにできるだけストレスを与えたくないと思っている。家の中に見知らぬ何かが入り込むことは、猫にとって人間が想像する以上にストレスになる。少しずつ「慣れる」という経験をしてもらうのも若い猫ならいいのだが、このところめっきり子ども返りをして甘えん坊になったおじいちゃん猫には、できるだけ心穏やかに過ごしてもらいたいと思っている。


だから、もう10年以上猫は増やしていない。一番年下のまめこが11才で、わが家は大人猫たちだけの静かな生活が続いていた。真ん中のみかんとまめこの距離感も縮まって(メス同士はなかなか打ち解けない)、それぞれがそれぞれのペースで暮らしていた。来るべきゴンとの別れを時々想像しては心乱れることはあるが、このまま穏やかに、と思っていた。


しかし、運命というか出会いというか、そういうものは突然やってくる。


家人の実家から電話があり、庭に野良猫が子どもを連れてきたので保護している、とのこと。これは単なる報告ではなく、依頼に近いものだと思う。家人のお母さんは92才というご高齢でありデイサービスに通っているのでほぼ一日家を空けることもあるので、保護した子猫が心配だったのだろう。猫のこととなると何はさておき動く家人、さっそく様子を見に行ってきた。家人のお母さんには、以前こちらで保護した猫(じー坊)を引き取ってもらい、大切に育ててもらった恩がある。


とりあえず近くの動物病院に行って健康状態を診てもらい、翌々日くらいにわが家にやってきた。それが今月の15日である。その時は生後2週間くらいとのことだったと思うが、体重が300グラムあったので生後3週間に近かったのではないかと思う。すでに目は開いていたが、風邪をひいたのか目と鼻がぐちゃぐちゃっとなっており薬を処方されていた。


みかんがわが家に来た時と同じくらいの大きさだった。掌に乗るほど小さく、手足はまだ細くて頼りない。食欲は旺盛でミルクはぐんぐん飲む。とりあえずわが家の猫たちの主治医のところに連れていったところ、やはり6月生まれとのこと。性別はまだ分からず、目は結膜炎らしいので飲み薬と塗り薬を処方された。


食欲があるし、とても元気。まだ怖いもの知らずで先住猫たちにもどんどん近づいていく。大人猫の方がおじけて逃げる。感染性のある症状なので先住猫たちに近づけないように言われていたのだが、先にも書いたようにそれは無理。できるだけ接触させないようにするのが精いっぱいだが、ゴンやみかんは所謂「気のいいやつ」なので油断していると子猫のにおいを嗅いだり頭をぺろりとなめてやったりする。あまり神経を使って疲れてしまうのもよくないので、子猫にはかわいそうだが食事の時キャリーから出してしばらく遊ばせ、またキャリーに戻していた。


しかし、子猫の成長は早い。さっそくトイレを覚えてきちんと自分からトイレに行けるようになった。大人猫が残したドライフードをむさぼり、動きも日に日に早く激しくなってきた。キャリーの中から出せと盛んにアピールするようになり、閉じこめておくことができなくなってきた。目の方もよくなってきているので、キャリーから出して好きにさせることが多くなってきた。


一昨日、薬もなくなったし全体の様子を診てもらった方がいいということで獣医に行ってきた。17日に390グラムだった体重は550グラムになっていた。成長著しい。ただ、左側の耳とシッポの裏側にカビ(真菌?)が認められ、かさぶたになっている。かさぶたが落ちたところは毛も一緒に落ちるので、現在耳がハゲハゲ状態。医師の見立てだと症状はあまり重くはないようで、殺菌性の強い水(何度か拭くためのもの)が処方され、薬はまだ出ていない。これも感染性があるとのことだが、あまり神経質になっても体によろしくないのでこまめに殺菌して様子を見ることにしている。


白黒の猫は模様がユニークなことが多いが、わが家の新入りもなかなかである。おもしろいのは肉球が斑というか黒でもなくピンクでもなく家人曰く「うんち踏んじゃったみたい」(^^;) どうやら女の子らしい。みかんも小さいころはやんちゃでゴンを手こずらせたが大人になったらとても穏やかで賢くなった。この子猫もそうなってくれるといい。


 名前は「ふく」。幸福の「福」ではなく、豆大福の「福」!当分このちいさな台風にわが家はかき回されそうだが、こちらもエネルギーをもらって夏を乗り切るしかない。また折りに触れて紹介すると思うので、どうぞよろしくにゃ!

| - | 06:06 | comments(2) | - |
救いようのないエゴイスト〜深瀬昌久
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先週、鴨居玲の展覧会を再度観に行ったついでに、渋谷のDEASEL ART GALLERYで開催されている「救いようのないエゴイスト」に行ってきた。2012年に亡くなった写真家、深瀬昌久さんの写真展である。


渋谷は20代のころまで最も行く繁華街だったが、「できるなら避けたい街」になって久しい。しかし、それでもなお行かねばならないと思った。生前深瀬さんの写真展を観ることができなかったが、以前からとても興味を持っていた・・・というより好きな写真家だったといっていいと思う。が、「好きな」というありきたりの言葉では表現しえない何かが私の中にあって、それは私自身が持つ大げさな言いかたをすれば「業」のようなものと無関係ではないと感じてる。


深瀬さんについてはこのブログでも何度か書いているので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。ざっと調べただけでも今まで4回ほど書いている。たとえば2011年12月28は深瀬さんの消息を気にかけて。あるいは2012年12月8には同年6月に深瀬さんが亡くなっていたことを知って。


1992年6月、深瀬さんは新宿ゴールデン街にある店の階段から転落して重度の障害を負った。泥酔してのことだった。その後廃人同様の生活をし、カメラは二度と持てないと伝えられていた。


 昨日と一昨日の記事でも触れた「眼の狩人」にも「深瀬昌久」の章があり、著者である大竹昭子氏が1994年に深瀬さんを見舞った時のことが触れられている。階段からの転落後2年余りが経過していたが、記憶や意識は不鮮明で介護者がなくては生活できない状態だったという。過去に何度か会ったことがある大竹氏のことも覚えておらず、雑誌を見せて連載で深瀬さんのことを書きたいと言っても無反応。渡した名刺をじっとみつめているだけだったらしい。


深瀬さんの写真をどう表現したらいいかわからない。実見てもらうしかないと思うが、確かに言えることは人によって好き嫌いがはっきり分かれる作品が多いということだ。私はどちらかというとそのような作家に惹かれる傾向にあるが、深瀬さんもその一人だと言えるだろう。飯沢耕太郎氏は「私写真論」で以下のように書いている。


深瀬昌久の写真が持つ奇妙な引力について、どんなふうに書けばいいのか。

決して見ていて心地よい、気が晴れるような写真ではないのだが、つい引き込まれるように見入ってしまう。そこから目を離すことができなくなるような不可解な魅力、一枚一枚の写真が忘れかけていた記憶に食い入り、なぜか物狂おしい思いにさせる。この光景はどこかで確かに目にしたはずなのに、その出自をどうしても思い出せない、あるいは、この出来事は止めようがないほど進行してしまって、もはや取り返しがつかない・・・何が「取り返しがつかない」のか、よく考えるとわからなくなるのだが、彼の写真のすべてがぎりぎりの切迫した感情を湛えて、そんなふうに身を震わせながら叫んでいるように感じてしまうのだ。

底の見えない昏(くら)い井戸・・・そんな比喩も思いつく。どうあがいて見ようとしても、視線は深い闇の奥に吸いこまれ、どんな像も結ぶことはない。しかし、その闇の底をじっと覗かずにはおれない。手を変え、品を変え、さまざまな工夫を凝らして、そこに何があるのか確かめようとする。

(「深瀬昌久 私という病」より抜粋)


さすがに的確な表現だと思う。私もまた「奇妙な引力」に引き込まれ、「取り返しのつかない」何かを探らされ、「深い闇の底に視線が吸いこまれ」たままそこから目を離すことができないでいる一人だ。


今回の個展のタイトル「救いようのないエゴイスト」は、当時妻であった洋子さん(のちに離婚)が、カメラ雑誌(カメラ毎日別冊の「写真家100人 顔と作品」毎日新聞社 1973年)に文章を寄せた時のタイトルだという。


彼はくる日もくる日も写真のことのみを考え、この世に情念を持ち、生き、思い悩んでいるのは彼ただ一人、他の生きものといえば“ヘボ”という名のヘボな黒猫が唯一。十年もの間、彼は私とともに暮らしながら、私をレンズの中にのみ見つめ、彼の写した私は、まごうことない彼自身でしかなかったように思います。(略)近ごろは、三十九歳という年齢のせいか酒乱癖も柔らぎ、ほんのわずかな世間的な思いやりを、家族に見せるようになったものの、共同生活者としての深瀬氏は、救いようのない、エゴイストのコンコンチキであります。

(同上)


深瀬さんの写真については調べてもらえばある程度出てくるのでこちらでは紹介しない。写真集も何冊か出ているが、ほとんどが絶版で古書であったとしてもとびきり

高価であることが多い。「鴉」(1986年)という写真集が昔から気になっていて欲しいとも思っていたが、これも手に入れるのは至難の技だ。ただ、後年海外で出版された同じ写真集(「The Solitude of Ravens」1991)が今回の個展会場にあり、ケースの中から出してもらって見ることができた。思っていた以上にいい写真集で、苦手な渋谷もなんのそので行ってよかったと思っている。


 また、ギャラリー担当の若い女性スタッフが深瀬さんのことをよく勉強しており、少し話ができたことも収穫のひとつ。写真学校の生徒たちが教師から絶対に見に行くように言われて多数来場しているという。若い人たちがあの写真を見てどう思い、何を感じるのか・・・聞いてみたいような気もする。


深瀬さんが残した膨大なネガなどを管理する「深瀬昌久アーカイブス」が出来(キューレーター:トモ・コスガ)、深瀬作品の普及に努めているということも嬉しい限りである。今回の個展においても、「Wonderful Days」という猫を中心とした写真集が販売されている(もちろん、手に入れましたよ)。ビンテージプリント(写真家自身あるいは専属の人間が撮影後すぐにプリントし写真家が署名したもの)を使っているとのことだ。深瀬さんは猫とは切っても切れない写真家で、「猫の麦わら帽子」「サスケ!!愛しき猫よ」「ビバ!サスケ!」という写真集がある。


最後に「私写真論」の中で深瀬さん自身のコメント(深瀬さんを「救いようのないエゴイスト」と言った洋子さんを撮った『洋子1974』に寄せた文章として)を引用している

のでそれを紹介しておきたい。


これからも洋子の写真を撮るかもしれないし、撮らないかもしれない。いずれにしても、この一年のように集中することはもうないだろう(中略)思えば私は生まれた時から写真の中でだけ育ってきた。もう取り返しはつかないのだが、いつも愛する者を、写真を写すという名目で、まきぞえにし私を含めてだれも幸せにはできなかった。私はいつも迷いつづけ、人を迷わせた。写真を撮るのは楽しいか?

(同上)


*写真展は8月14日まで。渋名DEASEL ART GALLERYにて。

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「まぎれなき撮影、結」〜その2〜
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昨日のつづき・・・

ある日宿泊していた沖縄のホテルでちょっとした騒ぎがあった。真夜中に大竹さんの部屋のドアを激しくノックする者がいる。驚いて出て行くと中平さんであった。


 沖縄は中平さんにとって特別な場所で精神的に高揚していたのかもしれないが、毎晩遅くまで街を歩き回りやりたい放題だったという。翌日のスケジュールを心配しながらも、他のスタッフは中平さんがやりたいようにしようと見守っていたが、イライラしているところもあったのだろう。大竹氏がいったい何なのかと問い詰めると、火事が起きたからあなたを救おうとしたのに何がいけないのかと中平さんはいきり立った。「いったいどこが火事なんですか」「あそこだ」・・・外は暗いままだった。


「燃えてないじゃないですか!」という大竹氏に「終わったことは関係ないというのか!」という激しい言葉が返ってきた。一瞬たじろぐほどその様子は激しく、かつての中平さんを彷彿とさせるものでさえあったという。心配になって部屋まで行くと、ビールの空き缶がたくさん並んでおりまた一瞬驚いたが、それらは牧子さんがすべて飲んだものだったという。しかし・・・大竹氏は腑に落ちない。


あれほどしっかりしている牧子さんがなぜあれほどビールを飲み、部屋にかけつけた大竹氏に曖昧な微笑みを見せたまま何も言わないのだろうか・・・後日牧子さんの方から大竹氏に話があるということになり、二人だけで話てみると牧子さんもまた混乱していたようだという。


牧子さんは中平さんとは年齢的にも大きく離れており、大学では技術的なことを中心に学んできたので出会うまで中平さんのことは知らなかったという。中平さんとの出会いは、これまで牧子さんが持っていた写真観を大きく変えた・・・というより壊した。真面目で優しい性格だったことが、この運命的な「破壊」に混乱し戸惑っていたのかもしれない。


 中平さんとの会話はほとんどが「写真とは何か」だったように思えるが、沖縄に着いてからそれが一段とヘビーになったということらしい。そして、「写真の本質を語り、行為を問題にするうちに写真の極点にむけて意識が突っ走り、その高揚感の中で中平は強引にビールをすすめたり、いきなり私のドアを叩いたり、撮影行為だといって夜の町に飛び出したりという過激な行動に出るらしかった。そういうとき、止めることは難しいと牧子は言った」(「眼の狩人」120ページ)


大竹氏はこうも書いている。

「中平卓馬は写真家を名乗るやいなや、写真という池に全身で飛び込んだ人だった。池のまわりにいる人びとは、中平がおこす波紋を見て、写真とはなにかを考えた。中平には写真という「行為」があるだけで、写真という「作品」はなかった。「作品」は陸に上がった時に出来るもので、池の中にいるかぎり、ひたすらつづく「行為」があるのみだからである。病気を背負い、行為の意味を問うのを止めたことで、中平は写真の池そのものになった。写真が散乱する綱島の部屋はまさにその風景である。」


「ふと、これから牧子はどうなるのだろうと思った。まだ写真の入口でうろうろしている時期に、一番手強い相手につかまってしまったのだ。失うものがない、捨て身の人間に挑まれるほど怖いことはない。いずれは中平と別れて自立するときが来るだろうが、そのときどんな気持ちで写真に向かっているだろう。」

(同120〜121ページ)


牧子さんは、中平さんから自立することなく旅立ってしまった。中平さんとの出会いは、牧子さんにとって何だったのだろうか。楽しいこともあっただろう。新しい何かが見えかけてきたこともあっただろう。しかし、その死を思う時、「写真の池そのものになった」「一番手強い相手」である中平さんとのやり取りが巻き起こした波にのまれ、必死で泳いだものの力尽きてしまったような気がする。その苦しみはいかばかりか。


「まぎれなき撮影、結」の冒頭、「一人の“写真家”のために」というタイトルで飯沢耕太郎氏が文章を寄せている。写真評論家として著名な人で、かつて季刊写真誌「déjà vu」の編集長をしていた人でもある。飯沢氏の記憶ではたぶん1992年の秋、牧子さんが編集部に写真を持ち込んだらしい。


その時の写真は大学の卒業制作として撮ったベトナム人の「ボートピープル」の写真で、「白布の前でポーズをとる老若男女を、6X6のカメラで端正な構図に収めたもの」だったが、飯沢氏は「卒業制作としてはかなり高度に完成された出来栄えを示していた。だが、奇妙な心の動き方なのだが、僕にはその取り澄ましたような完成度の高さがなぜか気に入らなかった。(中略)おそらく学校を出たばかりとは思えないほどの写真のたたずまいが、一人前の“写真家”を相手にするような、やや厳しい態度を僕にとらせたのではないかと、今になって思う。」と書いている。


牧子さんはあきらかに写真家としての才能があった人だったのだろう。学校をでたばかりとは思えない完成度、「対象を写真化する手つきが余りにも手際良すぎる」と飯沢氏が書いている能力を一番よく分かっていたのは中平さんかもしれない。だからこそ、常に行動をともにし、頼りにもし、写真という「行為」を共有できる人として手元から離したくなかったのではないだろうか。


しかし。失うものがない人間、自分が信じることを疑わず無我夢中で写真に没頭する人間、しかも精神的に常態ではなくなることがある人間と真っ向から付き合うのはどれだけ大変なことか。中平さんにそのつもりはなくても、激しい言葉で責めさいなまれているように感じることもあったのではないだろうか。


反発、反論という反応をすることもできず、混乱し、そして絶望してしまったのだろうか。飯沢氏が指摘しているように、中平さんと出会ってから牧子さんが撮った写真は「混乱を混乱のまま引き受けることで、彼の写真は痛々しいほどに引き裂かれてしまった」のかもしれない。人と人の出会いは素晴らしくも恐ろしいものだとつくづく思った。


 牧子さんの死後、この写真集が発行されることになって本当によかった。ちょうど一周忌に当たる発行年月日をもう一度見て、心からそう思う。


*仕事部屋のエアコンがほぼイカレポンチ(この言葉って・・・(^^;))

*ごく稀に、ごく気まぐれに動作する。こういうのが一番困る。

*とりあえず今年はなだめながら扇風機で対処。

*扇風機、注文して10日も経っているのに「在庫がありません」だって!

*腹立ちまぎれに他のものを即注文!!

| - | 06:24 | comments(4) | - |
「まぎれなき撮影、結」〜その1〜
15-0723

最近、一冊の古い写真集を手に入れた。写真集というにはかなり薄手の、「冊子」といってもいいくらいの体裁ではあるが、中を見ればそれこそ「まぎれもない」写真集である。発行は1995年1月23日。撮影者は牧子剛という青年だ。


牧子剛、という名前を聞いたことがあるという人はとても少ないのではないかと思う。もし名前を聞いたことがある、知っているという人がいるとすれば、おそらく写真家である(であった、かもしれない)中平卓馬さんに関係のある人物としてだろうと思われる。中平さん(わが家では失礼ながら「卓馬ちゃん」と呼ばせていただいている)については、今までも何度かかいているので割愛するが、興味のある方は「眼の狩人」(大竹昭子著)を読めばだいたいのことはわかると思う。


牧子さんは1968年神奈川県藤沢市で生まれた。日大芸術学部写真学科に入学し、在学中にタイ、インド、ネパールなど世界各国を旅行する。この旅行は卒業まで何度か繰り返され、2〜3ヶ月は滞在。卒業制作のためタイ、フィリピンを春と夏それぞれ2ヶ月ずつ訪れている。この旅行(というより撮影のための旅)を知っただけでも、彼がいかに真剣に写真と向きあい、自分の写真を追求していたかが察することができる。


卒業の翌年、牧子さんは偶然、中平卓馬さんに出会う。茅ヶ崎の友人宅を訪れ散歩に出た中平さんが道に迷っているところを見かけて声をかけたのだ。その後写真についての話がはずみ、以後行動を共にするようになるのだが、この出会いは(今となっては)まさに運命的な出会いだった。


出会った年(1993年)の6月と10月に中平さんとともに沖縄に撮影旅行をする。その時の様子は先に「眼の狩人」に詳しい。また、中平さんを追ったドキュメンタリー映画「きわめてよいふうけい」、「カメラになった男 写真家 中平卓馬」でも沖縄での様子を伝えている。


沖縄への旅行の後、「東京に目を向ける」と写真集に掲載されている年譜には書かれている。その下(1994年)にはたった2行。「1月23日逝去(享年25才)」と「『東京人』(4月号)に『明日の記憶』掲載」だけだ。そう、牧子さんは中平さんと知りあった翌年に亡くなっているのだ。


映画の中でだったか、何かの文章でだったかすでに記憶にないのだが、私は牧子さんが亡くなっているのは知っていた。中平さんが気心の知れた若い友人を亡くした、と。「湘南の海で亡くなった」ということだったと思う。海ということは海難事故か何かかなと不思議に思っていたのだが、今回写真集に付属している小冊子(写真。タイトル文字は中平卓馬さん)を読んで、はっきりは書かれていないものの自ら選んだ死であったことを知った。


「眼の狩人」は東松照明、森山大道、中平卓馬、高梨豊、深瀬昌久、荒木経惟、篠山紀信など戦後を代表する写真家に取材した著作である。一人の写真家について20〜30ページほどが費やされ、これらの写真家を知るためのバイブル的な本だと思う。


唯一例外的に「記憶喪失を生きる神話の人ー中平卓馬」のあとに別立てで沖縄撮影旅行に同行したときの模様が印されており、あらためて読んでみると牧子さんの人となりがよくわかって切ない気持ちになる。


「旅には中平と頭二つ分ほど背丈の高い長身の青年が同行していた。沖縄行きを考えたのは、具体的には彼と出会ったことがきっかけらしかった。病気で倒れてからの中平は、綱島の自宅周辺を撮影したり、数少ない友人を訪ねたりと、活発に動きまわった病前にくらべると別人と思われるほど行動範囲が狭まっていた。そこにふと現れたのが、大学の写真学科を卒業したばかりの牧子剛だった」(「眼の狩人」108〜109ページ)


沖縄への撮影旅行は牧子さんにとって楽しいだけのものだったわけではないようだ。取材スタッフ(新潮社の担当、大竹氏)と中平さんの間に立ち、常に気を配った。中平さんは急性アルコール中毒で意識不明になり、奇跡的に助かった時はほとんどの記憶を失った人である。徐々に記憶は回復したとはいえ、とても完全に過去のことを覚えているわけではなかった。


 身の回りのことにも無頓着で何をするかわからないところがあり、中平さん自身への気配りも必要だった。牧子さんはきめ細かい配慮で中平さんの日常生活の面倒を見ており、大竹氏も25才の青年とは思えないしっかりした態度に感心していたほどである。・・・明日につづく。



| - | 17:06 | comments(0) | - |
22日は猫に語らせる日・・・7月担当:まめこ
15-0722
・・・明るいところに出てこないので、いつもこんな写真(T.T)・・・

しょちゅうおみまいもうしあげます。まめこなの。みかんが、あつくなったから、さいしょになつの「ごあいさつ」をしたほうがいいよ、っておしえてくれたの。みかんも、なかなかしんせつだとまめこ、みなおしているの。


あのね、まめこはねこだから、あつがりじゃないの。なつでも「えあこん」のつめたいかぜがあたるばしょは、あまりすきくないの。みかんもなの。でも、ゴンはあつがりで、あるみの「ひんやりぼーど」にのっかって、ぐてっとしてるです。いちばんやせているのに、おかしいなぁとまめこはおもうです。おとしよりは、からだをひやしちゃいけないんだよ。ねー?


すみごんも、やせているのに、なつによわいです。ぐてーっとしてるよ。ときどき、「ひんやりぼーど」にあしをのせてきもちいいといってるです。そのくせ、こないだは「ひざがしんけいつうだ」と、ぼやいていたです。ひやすからだよ。そんなのあたりまえなのに、すみごんてあんがい「ばか」です。けけけ。


あのね、まめこ、もうすぐ11さいになるです。このいえにきたのは、10がつだけど、じゅういのせんせいが「たぶん、せいご2かげつくらい」とゆったので、いちおうたんじょうびは8がつ1にちになってるです。でもね、そのせんせい、まめこのことさいしょは「おとこのこ」ってゆったんだよ。だから、さいしょのうちは「まめお」ってよばれていたんだよ。あんまりあてにならないせんせいだとおもうです。


11さいって、にんげんならなんさい?ちゅうねん? すみごんは、「まめこ、つやつや、ぷりぷりで、ちゅうねんのみりょくまんてん!」ってゆってくれるけど、にんげんのちゅうねんも「みりょくまんてん」なの?まめこ、おそとにでないから、にんげんの「ちゅうねんのみりょく」ってなんだかわからないの。まめこみたいな「つやつや、ぷりぷり」のちゅうねんにんげん、いる?すみごんは、ちがうよ。かさかさ、がりがり。


あのね、いまね、まめこのいえには「ひみつ」があるです。きょうは、まめこが「ぶろぶ」をかくひだから、まめこがその「ひみつ」をこくはくできるとおもっていたら、すみごんが「まだ、だめ!」とゆうです。ゴンは「いちゃえ、いっちゃえ!」とゆうけど、みかんは「やめといたほうがいいよ、さきざきのために」とみみうちするです。


 うーん、まめこ、まようです。でも、まめこ、ゴンのことはだいすきだけど、「しんよう」というてんでは、みかんのほうが「しんよう」できるので、みかんのゆったとおりにするです。へへへ、まめこ、かしこいでしょう。


「ひみつ」はそのうち、すみごんがじぶんでこくはくするとおもうです。おたのしみに。


らいげつは、いまのところ「なつばて」していないがりがりのゴンです。いまのところ「しょくよくおうせい」で、まめこがたべそこなったごはんまでがつがつたべているので、なんとかなつをのりきれるとおもうです。もうりっぱな「おじいちゃん」なのに、ちっとも「かんろく」がないけど、それがながいきの「ひみつ」じゃなくて「ひけつ」かもしれないと、まめこはおもうです。じゃあね、ばいばい。

| - | 05:57 | comments(2) | - |
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