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ツィゴイネルワイゼン
15-0430

久しぶりに映画の話。といっても、新しい映画を見に行ったのではなく家でDVD鑑賞。


好きな映画にもいろいろあって、「共感した」「感動した」等々理解した上で好きになる映画もあれば、「よくわからないけれど何故か好きな」映画もある。どこが好きなのかと聞かれると答えに困るのだが、強いていえば「雰囲気」が好きなのだろうか。何度見ても「理解」を超えたものを感じるのだが、そういう映画はもともと「理解」されることを目的に作られていないのだろうとも考える。


そんな映画の代表である「ツィゴイネルワイゼン」をまた観た。また、というより今度でたぶん5回目くらいだと思う。しぶとく何回も観る映画はいくつかあって、そのうちのひとつだ。


この映画は鈴木清順監督の「浪漫三部作」のひとつで最初の作品だ。内田百蠅痢屮汽薀機璽討糧廖廚縫劵鵐箸鯑世燭噺世錣譴討り、タイトルの「ツィゴイネルワイゼン」は「ジプシーの旋律」という意味で、登場人物の一人である中砂の生き方に通じる。


映画に出てくるのはごく限られた人物だ。男2人と女2人。男は陸軍士官学校独逸語教授の青地、その友人でかつて同僚でもあった中砂。女は青地の妻と中砂が妻にした女と妻の死後迎えた元芸者(大谷直子が2役)。あとは、盲目の旅芸人3人と、中砂と妻の間に生まれた娘・豊子。


旅先で知りあい関係を持った芸者とそっくりな妻を迎えた中砂は、妻の死後その芸者を後添えにしつつ、相変わらず放浪生活を送っている。妻は自分にうり二つだという女が何者か知りたがり、嫉妬しながら限りなくコンニャクをちぎる。


 青地は一見まともに生きている人間で、中砂やその妻、そして自分の妻に翻弄され続ける。梅の花が咲くとアレルギーを起こして身体に赤い湿疹ができる青地の妻は、ある日腐りかけの桃をおいしそうに食べる。青地の妻の妹は重病を患って入院しておりもう先がない。


 ある日青地が見舞いに行くと、中砂と姉(青地の妻)が一緒に来たという。2人の関係を疑う青地・・・娘を残したまま、中砂は旅先で死ぬ。麻酔薬を吸入したとかであっけなく。


 中砂の家も疎遠になった5年後、青地は切り通しで娘を連れた中砂の妻(元芸者)に会う。しばらくすると、中砂の妻が突然青地家を訪れ、夫が貸しているはずの本を返してほしいと言う。ドイツ語の専門書のタイトルと著者名を芸者だった妻はすらすらと言う。しばらくしてまた本を返して欲しいと言う。三度目は「ツィゴイネルワイゼン」のレコードを返して欲しいと言う。


妻が言うには、中砂の娘・豊子がうわごとのように父と会話することがあり、本やレコードもその時娘の口から聞いたことだという。豊子はある日突然青地の前に現れ、「おじさんの骨をちょうだい」と言う。青地と中砂は、先に死んだ方が残った方に骨を与えるという約束をしていたのだ。


恐ろしくなった青地は石の太鼓橋を渡る。死の世界から来たような豊子が怖くなったのだ。死の世界から逃げてきたと思っていたのに、目の前にまた豊子が現れる。船に白い菊の花を積んだ豊子が青地を迎えにきていたのだ。そして、いきなり映画は終わる。


現実と非現実の交錯が、監督の「美意識」の中で絡み合い、もつれ合い、何が現実で何がそうでないかがわからなくなってくる。そんな不思議な映画である。


ちなみに、私は「浪漫三部作」すべてを観ている。松田優作主演の「陽炎座」、沢田研二主演の「夢二」もやはり幻想と現実の間を行き来する不思議な映画だが、やはり一番好きなのは本作。久しぶりに音楽の方の「ツィゴイネルワイゼン」を聴こうかな・・・


*藤田敏八さん、だいぶ前に亡くなっていたのね・・・

*「木と草と花と・・・」、更新。

| - | 15:19 | comments(0) | - |
脅迫と裏切りと・・・
15-0429

世間は今週からゴールデンウィーク。海外旅行に出かける人も前年比増ということらしいが、なんだか全く楽しい気分になれない。わが家は大型連休だけでなく土日祭日など人出が多そうな時は家で静かにしていることが多いので、表面的にはいつもと同じだ。しかし、今年はなんだか憂鬱というか、腹立たしいというか、とにかく気分が優れず、ゴールデンウイークを謳歌しているように見える光景に触れても別の世界のように見えてならない。


2030年の電源構成案が出た。なんだこれは!という内容であった。福島の事故などなかったかのような原発依存が明らかになっていてまずは驚いた。事故を起こした原発は未だに廃炉への目処がまったっく立っていない。未だにあの事故のために生活を奪われた人たちがたくさんいて、深い傷を癒されずにいる人たちが大勢存在する。それなのに・・・


毎月電気代の明細を見るたび、その高さにうんざりする。息子が家を出て2人しか住んでいないし、私たちなりに節電している。それでも目に見えて値上がりした電気料金。「ほらね、原発を動かさないとこんなに高くなるんですよ。困ったでしょ?」と脅迫されているような気分だ。


しかし、私たちは電力会社を選ぶことができない。高いと嘆きつつも支払わなくては暮らしていけない。その弱みにつけ込まれているような気がして腹立たしいが、「脱原発」への過程だと思えばなんとか我慢もできる。


国民の多くが将来的には原発に依存しない社会を望んでいるのではないだろうか。しかし、政府も経済界もそんな国民をなだめつすかしつ、いいように扱っているように見える。口では「国民のため」「平和のため」などと言っているが、東日本大震災以前に戻る(もっと悪いかも?)ような政策を掲げるというのは、あの災害から何も学ばなかったということになる。そして、国民を裏切ることにもなると思う。


未だに全村避難が続く福島県飯舘村では、原発に頼らず村の自然を活かしてエネルギーを地産地消するという考えのもと、村民出資の「飯舘電力」が設立されたという。喜多方市でも市民出資の「会津電力」ができている。こうした動きが全国に広がればいいのだが・・・


気持ちが鬱屈してくるとベランダに出て外を眺める。眼下の公園は子供たちの声が溢れて賑やかだ。公園を囲む常緑樹の新葉が明るく輝いている。もうすぐ美しき5月。陽射しの明るさと気持ちの暗さがこうも対照的な5月も珍しい。困った、困った。

| - | 16:02 | comments(0) | - |
フォーヴの陶磁器
15-0428

パナソニック汐留ミュージアムで開催されている「ルオーとフォーヴの陶磁器」を見に行ってきた。


絵画に関する好みは割とはっきりしていて、印象派にはほとんど興味がないが象徴派や野獣派(フォーヴ)はけっこう好きで機会があれば見に行くことにしている。今回は絵画ではなく「陶磁器」ということで彼らが陶磁器を手がけていたことさえ知らなかったので楽しみにしていた。


まず、フオーヴの画家たちとコラボレーションをした陶芸家・アンドレ・メテについての展示から始まり、マチスやヴラマンクなどの作品を経てルオーの作品で終わる・・・そんな展覧会だった。


アンドレ・メテについては全く知らなかったのだが、色使いが非常に巧みな陶芸家という印象を受けた。


堯器(せっき)、ファイアンス、施釉陶器やその下絵などが展示されており、どこか日本の九谷焼に通じる鮮やかでありながら渋さを感じさせる色が目に残っている。堯器はストーンウエアと訳され、陶器と磁器の中間的な性質を持つという。メテの堯器は色彩が美しくシンプルで実用的だと思った。とくに「青と緑の斑模様」の小インク壺(けっこう大きいが)がとても気に入って身近に置いてみたくなった。鑑賞するだけのものよりも実際使えそうなものの方に心惹かれる私の好みからすると、晩年の作品(ファイアンスや施釉陶器)よりも初期作品の方がいい。


フォーヴの画家たちとメテを結びつけたのは、画商であるヴォラールだ。実用的な陶磁器に人気が出始めた頃のことのようで、進取の気風があったヴォラールは次々と画家をメテに紹介し、彼らは白い素焼きの器に個性的な絵付けをしていった。アリスティド・マイヨール、ルイ・ヴァルタ、アンリ・マチス、ピエール・ラプラード、モーリス・ド・ヴラマンク、ジャン・ピュイ、アンドレ・ドラン、そしてジョルジュ・ルオー。


奔放な線とカラフルな色使いの器は当時としては新しすぎたのだろうか。ヴォラールの目論見通りにはいかず、結局画家たちはメテの元を去ったという。


やはり今回の目玉はルオーの作品だろうか。深みのある多色使いの壺は存在感たっぷりだし、小さなポンポン入れに描かれた裸婦はどこか可憐な感じがする。様々なポーズの裸婦をモチーフにしたティーセットも展示されており、とても面白かった。装飾性が高いので実用向きではないのかもしれないが、あんな器を使って実際にお茶を入れたら・・・と想像するのも楽しい。


パナソニック汐留ミュージアムは今まで3回ほど行っているが、けっこう好きな美術館だ。こじんまりとしているが、そこがいいと思っている。以前見たハンス・コパーがとてもよかったこともあり、私の中では評価の高い施設だ。ルオーの作品を収蔵していることもポイント高し!


*展覧会は、6月21日まで。

*招待券が1枚余っているので、欲しい方は手を上げて!

| - | 16:58 | comments(0) | - |
にぼし!
15-0426
・・・よく出来ているが、これは箸置き!・・・

この年になるとどうしても「骨粗しょう症」が気になる。高齢者がちょっと転んだだけで骨折したなどという話を聞くと、まだまだ先のこととは思えない。加えて私は骨細でたよりない身体なので、今から対策をしておかないといけないと思っている。


数年前、カルシウムを補強するため牛乳を配達してもらっていた。某乳製品メーカーの営業が来たので試しに契約したのだが、半年くらいは続けただろうか。カルシウムを強化した牛乳でさほど大きなサイズでもなかったのだが、結局飲みきれなくて配達してもらうのをやめた。


それ以降しばらくはスーパーで低温殺菌の牛乳を買って飲んでいたのだが、今は全くといっていいほど飲んでいない。


というのは、「牛乳」についていろいろな情報を集めていて「カルシウム補給に牛乳」という考え方がどうやら間違っているような気がしてきたからだ。なにを今更という話しでもあるのだが、幼い頃から骨を丈夫にするには牛乳!とすり込まれてきたので疑うことをしてこなかったのである。


以下は私が調べたことなので、牛乳について興味を持たれた方は自分なりに調べてから結論を出していただきたい。


まず、牛乳に含まれるカゼインたんぱく質は、腸で吸収しにくいらしい。そのため、腐敗や異常吸収を起こしやすくアレルギーの原因にもなる場合がある、とのことだ。むしろ、カゼインはカルシウムと結合してカルシウムそのものも吸収されにくくなり、かえってカルシウム不足になるという。


それ以外にも、私は大丈夫なのだが牛乳に含まれる「乳糖」は、分解酵素を持たないとって下痢の原因にもなるし、「乳糖」が人間が本来骨の中に持っているカルシウムを奪ってしまうこともあるという。「乳糖」は牛乳だけでなくハムやはんぺんなど加工食品の増量剤として使われていることもあるらしいので要注意だ。


それ以外にもいろいろデメリットがあるようなので、牛乳は飲まないことにしたといういわけだ。が、ヨーグルトには牛乳の欠点がなく(乳酸菌が乳糖を分解する、など)、アミノ酸も多く含まれているということなのでこれは毎日食べている。


さて、カルシウムはどうするか・・・牛乳をやめたとなると、やはり小魚だろ う。骨ごと食べられる小魚が一番自然なのかもしれないと今は思っていて、みそ汁を作る時にはにぼしで出汁を取り、そのまま入れておいて一緒に食べてしまう。


使うにぼしは食塩無添加のもの。それでなくても塩分過多になりがちなので、多少高くても無添加を選んでいる。猫にもあげられるし、ね。


子供のころ、みそ汁の中ににぼしが入っているといや〜な感じがした。とくに頭が嫌で、必ずといっていいほど残していた。今は頭ごと食べる。妙なもので、慣れてしまうとなかなか美味しいとさえ思えてくる。あとは、海藻や干しエビ、シラスやじゃこなどを積極的に取ろうと思っている。それでなんとかなるような・・・?


今日、隣町のSCに行ったら「静岡フェア」をやっていて美味しそうなシラスと桜エビをゲットしてきた。いずれも釜揚げ。さきほど少し食べてみたら、ほのかな塩味があってとても美味しい。旬のものはきっと身体にもいいに違いない。

| - | 20:04 | comments(2) | - |
My Best Walking Shoes
15-0425

昨日だったか一昨日だったか、ラジオ番組で「お気に入りの靴」についてのリスナーアンケートをやっていた。結果を聞くと圧倒的にスニーカーが多かったが、放送の時間帯や番組内容からして回答者の多くは中高年の男性だと思われる。若い女性だったらもっと違う結果になっていたと思うが、やはりある程度長時間歩く時の選択はスニーカーかウォーキングシューズになるのではないかと思う。


昔ほど歩く機会は減ったが、それでも歩く時は歩く私である。基本的に歩くのが好きなのだと思う。自動車や自転車に乗っていたのでは見えないものがあるし、何か興味深い発見をするのはいつも歩いている時だから。昨今は少しズボラして歩くことが少なくなったが、もっと歩きたいと思っているのは事実で意識的に機会を作らねばとも考えている。


何度も書いているので重複して申し訳ないが、靴についてはかなり苦労している方だと思う。


 若いころはやはりデザイン重視になりがちだったが、30歳を超えたころからとにかく自分の足に合う靴を探し続けてきた。何人ものシューフィッターの意見も聞いたし、いろいろな靴を試してもみた。そして、50歳を超えたころ、ようやく靴選びも落ち着いてきた感がある。少なくとも、歩いている時に「今すぐこの靴を脱ぎ捨てて裸足で歩きたい」と思うことはなくなったし、家の変えるころになって多少の痛みを感じても我慢の範囲内になってきた。そればかりか、レアケースではあるものの自分の足にぴったり合う靴を履いている気持ちよさも感じることができるようになっている。めでたい、めでたい。


若いころに較べてハイヒールの靴は滅多に履かなくなった。が、ごく稀にだがハイヒールを履いた時の緊張感を感じてみたいと思うこともないではない。そんな時はブーツに限る。お気に入りのブーツについては、以前も書いたので割愛するが、今のところフランスかイタリアの型が私には合う。何を気取って!と思われるかもしれないが、いろいろ試した結果がそうなったまでのことで、日本の靴で私の足に合う型があれば、それが一番いいと思っているのだが、今のところそんな靴に出会っていない。


私が今、最も履きやすい靴はというと写真のスニーカーである。スニーカーもいろいろなメーカーのものを試してみたが、私の足にはニューバランスが一番合うことがわかった。同じメーカーでもモデルによって型が違うと思うのでニューバランスならなんでもOKというわけではないだろうが、今までニューバランスのスニーカーで苦労したことがない。


なにがいいかって、歩いている時に気持ちいいし、たとえば一日中といっていいほど歩き回っていても全く足が痛くならない。ほどよいクッション性があり、かつ足の形に合っているからだと思う。これはもう手放せないですな。


歩きやすいからといってデザインを無視することはできない。という見地から選ぶとなるとニューバランスでは「996」が一番好きかもしれない。「1400」もいいが「996」の軽快さは捨てがたいのだ。同じように考える人が多いのか、品薄であることが欠点といえば欠点か。


仕事も相変わらずヒマでオリエンやプレゼンに行く機会もめっきり減った。スニーカーさえあれば事足りる生活になりつつあるのが少し情けないが、足に合う靴を履いて歩く気持ちよさをせいぜい楽しもうと思っている。

| - | 18:33 | comments(0) | - |
麻のハンカチーフ
15-0424

「木綿のハンカチーフ」という歌があったな・・・と思いつつ、最近実感している麻のハンカチーフの使い心地についてちょっと。


今まで、ハンカチといえばコットンという意識でい た。夏場ならタオルハンカチを便利に使っていたし、それで特段不満もなかった。コットンローンなどのハンカチなら大判のものが使い勝手もよく何年も使い続けているものも多い。


が、ふと買った麻のハンカチの使い心地のいいこと!さらっとした肌触りもいいが、手を洗って拭いた時の吸湿性の良さには驚いてしまった。日常の、どうということもない経験ではあるのだが、それがかえって新鮮な驚きとなったのが不思議でもあった。


新しいハンカチを買った時には、たいてい一度水をくぐらせてから使う。誰が触ったかわからないからということもあるが、一度洗わないと吸湿性が悪いのだ。水をはじいてさっと吸収していかないのが不愉快になるので、必ず一度洗ってから使っていた。


少し前に買った麻のハンカチも洗ってから使おうと思っていたのだが、出がけにハンカチを持っていないことに気付き、手近なところに置いたままになっていたので「ま、いいか」と持って出た。そしてトイレで手を洗った後使ったら・・・さっと水を吸収して気持ちいいこと!


麻というと夏向きの素材という印象が強いが、この吸湿性の良さを実感するとなるほどと思う。実際のところ保温性もいいらしくオールシーズン使える素材のようだが、やはり麻のシャツを着たくなるのは汗ばむ気候になってからだ。


去年も書いたと思うが、麻のシャツもものによってはチクチクしてダメなことがある。今持っているものは着心地もよく気に入っているので、これからは麻のシャツと麻のハンカチーフで元気に出掛けたい。


ちなみに、私が持っているのは中川政七商店のハンカチブランドであるmottaのもの。現在2枚持っているが、まだ増えそうな予感(^^;)

| - | 22:14 | comments(0) | - |
傍観者として
15-0423

川内原発の再稼働差し止めを問う裁判で鹿児島地裁が住民側の申し立てを却下した。非常に残念。高浜原発の件があったので、期待する向きも多かったと思うが、結果は対照的ともいえるものになってしまった。


今朝の新聞に川内原発と高浜原発の司法判断比較表が出ていたが、鮮やかなほど対照的であることがよくわかる。この表を見るまでもなく、「最新の科学的知見に照し、不合理な点はない」「不確かさを考慮し、耐震設計で安全上の余裕を確保してある」「多重防護の考え方に基づき、重大事故を前提とした安全対策を取っている」などなどの説明を読んで、「またかよ・・・」とかなりがっかりした。


 人間の考えうることなど自然の力に較べたらたいしたことではない、絶対の安全などない、ということが福島の事故で明らかになったと思っているが、そんなことなかったかのような判決理由である。


また、火山噴火予知連絡会の会長のコメントも掲載されていたが、原子力規制委員会による火山対策の審査に「不合理な点はない」とした根拠を事実誤認とし、「火山学の専門家の関与・協力を得ながら」行ったと言われているが、火山予知連はその審査に参加していないことを明らかにしている。原子力規制委員会がいう「専門家」とは一体誰だ?学者ではあろうが、ご用学者なのではないのか?


と、あれこれ記事を読みながら憤りを感じているわけだが、この憤りとて所詮「傍観者」の憤りであることを私は自覚する。自覚し、福島の事故以来ずっと感じ続けている一種の後ろめたさを再認識する。


毎日新聞4月20日朝刊に掲載されたコラム「風知草」はこの傍観者について明確な批判を展開しており、自覚している身には全く耳が痛かった。痛かったが、その筋が通った論調は気持ちよく、少しでも「傍観者」から脱する努力をしていかねばならないという気持ちにさせてくれた。


傍観者が原発を支える」というタイトルである。冒頭で福井地裁の関西電力浜岡原発再稼働を認めない仮判決に触れ、大きなニュースにはなったが原発訴訟の底流を変える出来事だとは思わない、としている。実際、川内原発の裁判を見ればその通りであることがわかる。


そして、いつまでたっても変化を阻むものは、「保守反動、原子力村べったりの裁判官」ではなく、無意識に電気を浪費して原発を支える1億人の傍観者だ、と言及している。


 全くその通りだと思う。原発には反対で、反対を表明し行動に移している人たちを支持してはいるが、実生活になれば電化製品を使いまくり、イルミネーションがきれいだといえば行って騒ぎ・・・そんな人たちがいかに多いことか。私自身も自分なりに節電はしているつもりだがまだまだ徹底してはおらず、イルミネーション騒ぎに苦々しく思いなが傍観しているだけなのだから、これはもう紛う事なき傍観者である。せめてブログではっきり意見を書くことにしているが、原発訴訟の底流を変えるために役立つかといえばほとんど役立たないかもしれないと考える。傍観者の後ろめたさに押されて書いていると思われても仕方ないが、私自身としてはここ数年感じている強い危機感をどうにかしたくて書いているつもりだ。



このブログも今年で8年目を迎える。その前にも日記を公開していたので、自分が考えることを書き続けて15年になるが、途中までは政治的な話はほとんど書いてこなかったと記憶する。しかし、そうも言っていられなくなった。


年齢的な理由もあるとは思うが、この数年ほど自分を含めた日本国民を情けなく思ったことはない。情けない情けないとぼやいているだけではいけないので、なにか行動に移さねばと思うがなかなかできずにいてさらに情けない。


先日の統一地方選挙の結果において、民主党をはじめとする野党は散々だったようだが、共産党は票を伸ばした。ニュースでも、自民党には反対だが、かといって民主党は頼れない、さてどうしたものかという人たちの受け皿として共産党の票が増えたという分析がなされていたのを聞いたが、たぶんそうだと思う。


 なぜなら、私自身が共産党に入れたから。何を考えているかはっきりしない政党が多い中で、共産党はしっかり党としての方針を打ち出していた。それだけでも救いなのである。「共産」と聞くと拒否反応を示す人たちも多いと思うが、暴走する政権の抑止力になりうるのは今のところ共産党しかないような気がするのだ。「平和の党」を標榜する党は与党という立場にしがみつき、妥協してばかりいるし。



当事者とそれ以外の人たちとの間にできる溝は、簡単に埋めることはできない。その溝は果てしなく深い淵のように感じる。だから、震災後氾濫している「寄り添う」「絆」といった言葉にも、時として抵抗を感じる。


心から寄り添うのはそんなに簡単なことではないし、確かな絆は生半可なことでは築けないと思う。自分自身を納得させ且つ誰からも批判されないよう耳障りのいい言葉として「寄り添う」「絆」が使われていることもあるように見受けられるのだ。もちろん、そうでない場合もあるが・・・


「傍観者」から一歩抜け出すためには、まず自分が無邪気な(この場合よい意味としてではなく)「傍観者」であることを認識しないことには始まらない。国民の一人一人がもう少し意識を変え、なにかを発言していく。それには勇気が必要な時もあろう。しかし、なにもせず、なにも言わず、現状というぬるま湯の中で人任せに終始していては今にとんでもないことになる、と思いつつ今日はおしまい。


(業務連絡)

*ロコさん・・・

20日の記事に対するコメント、ありがとうございます。

お返事を、と思うのですが、どういうわけかその日に限りコメントができない状態になっています。ブログ運営会社のサイトも見ましたが障害情報もなく、今のところ原因不明です。しばらく様子を見ても同じようであれば問い合わせをしたいと思っています。申し訳ありません。(15:30現在)


解決しましたので、お返事のコメントを書きました。

ロコさんのコメントの後半部分に非常に長い空間(改行)があったため、最後までスクロールしていなかったのでした(^^;)

お騒がせいたしました。(15:40)

| - | 14:01 | comments(0) | - |
22日は猫に語らせる日〜4月担当:まめこ
15-0422

ぷんぷんぷんぷん!まめこはおこっているです。すみごん、またわすれたです。また、まめこのばんにわすれたです。きょうも、ほんとうはわすれそうになったです。なんか、おでかけのよていがあるとかで、ばたばたしていてわすれそうになったです。


じぶんたちのつごうばっかで、さんかげつに1かいの「まめこのぶろぶ」をわすれるなんて、ゆるせない!と、まめこはおこっているです。おまけに、まめこのしゃしんをとっていないので、あわててむかしのしゃしんをさがしているです。ひどい!まめこは、やっぱりさべつされているのかなぁ。しくしくしく(うそなき)。


でもね、きょうおもいだしたの。こんげつの1にちは、みかんのたんじょうびなのに、すみごんもおっさんもわすれていてまだわすれているままなの。うふふ。まめこだけじゃなくて、みかんも「れいぐう」されているんだ、きっと。ゴンだけがたいせつにされているみたいで、まめこはちょっとふふくなの。


まめこ、さいきん「ふとった」といわれるです。ゴンがガリガリにやせてきたので、よけいにまめこが「ふとった」ようにみえるんじゃないかとおもうけど、すみごんが「まーちゃん、なでるときもちいいね。プリプリしていてウインナーソーセージみたい」ってゆうの。まめこ、「ウインナーソーセージ」すきだよ。いつも、はしっこのところをもらうです。おいしいよ。


まめこも「ちゅうねんぶとり」しはじめたのかなぁ。みかんみたいな「じゅうりょうきゅう」にはなりたくないから、ごはんも「あさ」「ゆうがた」「やしょく」だけにしているのに、やせないの。すこしボケていつもハラヘリなゴンはたべてもたべてもふとらないの。はなもはじらう「じゅくじょ」のまめことしては、ちょっとうらやましいの。


でもね、すみごんはじぶんがガリガリだからなのか、ふとったねこがすきなんだよ。ゴンはれいがいだけど、デブなねこをみると、「かわいいー!」ってゆってるもん。だから、まめこもあんまりきにしないで、どんどんデブになろうかな。だけど、みかんみたいにはなりたくないな。やっぱし。


らいげつは、ガリガリだけどげんきでうるさいゴンのばんです。すみごんにわすれられてもしらないよっと!

| - | 05:54 | comments(4) | - |
幾千幾万の緑
15-0421
・・・去年の5月。sakiさんの庭にて・・・

新緑がきれいな季節になってきた。冬好きの私ではあるが、5月の美しさにはさすがに抵抗できず、目を洗うようなみずみずしい緑を眺める幸福を感じる今日このごろだ。


予定では明日、久しぶりに高尾山に行くことになっていたが昨日からの雨で歩きにくくなっているし、せっかくの新緑なのでもう少し天気がいい日を選ぼうと思う。前に行ったのは何年前だったか・・・秋晴れの気持ちいい日だったと記憶している。高尾山の新緑もこれからが見ごろだと思うので楽しみを少し先延ばしにするのもまたいい。


桜が咲き始めるころから、ベランダに出て木々の緑を見るのが楽しい。南西側から隣接する市民の森への小径が見える。暖かくなってからは犬の散歩、ジョギングだけでなく幼稚園・保育園の散歩や高齢者グループのハイキングなど時折人が行き来する。マンションの植栽として並んでいるキンモクセイも新しい葉を出して明るい表情を見せている。


 小径の向こう側も市民の森の一部で、手前には常緑樹があり奥まったところに落葉樹の高木がある。高木はかなり大きな木が多く何の木なのかなかなかわからないが、少なくともヤマザクラとコナラはある。台風が通り過ぎた時など小径にたくさんの葉やドングリを付けたままの小枝が落ちていてそれとわかるのだ。葉や小枝はベランダまで飛んでくる。


当たり前のことだが、窓というフレームで切り取られた風景の中でさえ、緑は一様でなくどんな宝石よりも私の目には美しく見える。とくに今日のような雨上がりの日は、木々の緑もそれぞれにみずみずしさを増し、いつまで見ていても見飽きない。


視線をぐっと手前に引き戻せば、ベランダに置いたバラや小さな鉢植えの木、野草の緑もまた美しい。木が多い環境というのは木々に集まる動物たちも多いということで、これからは虫たちが部屋の中まで入ってくる。鳥たちも時折ベランダを訪れるが、暖かくなってからはヒヨドリの姿も見なくなった。これからは、鴬の声を楽しめると思っている。


こうした環境が好きなので、いわゆる「田舎暮らし」への憧れがないではないが、東京で生まれて半世紀以上経過した今、現実的にそれができるかというとなかなか難しいだろう。住めば都になるかもしれないが、小さな共同体の中で親密な人間関係を築くのに骨が折れそうだし、自動車免許も持っていないし。環境がよくても、そこで暮らすというのはまた別物だと思うから、たぶん死ぬまでこの都会から離れずにいるような気もしている。


この文章を書いている間も、郵便局員のバイクの音にまじってシジュウカラの声が聞えている。北東から風が吹いているのか、バラの枝が大きく揺れている。あまり多くを望まず、今与えられた環境に満足している方が穏やかでいいかもしれない。身近なところでも、幾千幾万の緑は十分楽しめるから。

| - | 10:31 | comments(0) | - |
地方自治を真剣に考えているのは沖縄だけか。
15-0420

少し前のことになってしまったが、安倍首相と翁長沖縄県知事との初会談について。

アメリカに行く前に「一応会っておきました」という既成事実を作りたかっただけの会談だったという印象は否めないだろう。わずか30分くらいの時間で突っ込んだ話ができるとは思えないのに、冒頭5分ずつの公開しか認めなかったというのは、後ろめたいところがあるからと言われても仕方ないように思える。


翁長県知事の言葉が印象に残った。

「自ら土地をおきながら、老朽化したとか、世界一危険だからとか、嫌なら代替案を出せというのは、こんな理不尽なことはない」


その通りだと思う。そして、これだけきっぱりと潔い発言ができた背景には、沖縄の「民意」を背負っているという責任感と自信があるからだとも思う。


先日の統一地方選挙の例を出すまでもなく、投票率の低さをいつも情けなく思ってきた。様々な理由が言われているが、もし自分たちの生活を自分たちで守っていこうという真剣な気持ちがあれば、あれほどの低投票率にはならないと思う。


選択肢がない、というのもわからなくはないが、「絶対にこうなってほしくない」という考えをきちんと持ってれば、できるだけそれから遠い候補者(あるは政党)に投票するという方法がある。とりあえずであったも、今の政権の抑止力になりそうなところを選んでおかねば、「民意」を笠に着てやりたい放題になるのは目に見えているではないか。


沖縄が本土返還された時のお祭り騒ぎをぼんやりとではあるが覚えている。日本中があれだけこぞって喜んだのに、その沖縄が苦しんでいることに対して関心が薄いのは、これまた情けない。


沖縄の姿を見ていると、「自立」「自治」について考えざるをえなくなる。自分たちが生まれ育った土地を守ろうという意識の高さは尊敬に値すると思う。それに較べて・・・ふがふがふが・・・


日本の国民は国としての「自立」についてどう考えているのだろうか。アメリカという大国が後ろ盾にいなければ日本という国は立ち行かないと思っている人はどれだけいるのだろうか。何があってもアメリカは日本を助けてくれるとノウテンキに思っている人って以外と多いのか。


なんだかなぁと情けなさを募らせつつ、沖縄の姿勢に学ぶことが多いと思う今日このごろ。


*沖縄とは地理的に真反対である北海道の新聞がまともなことを書いているぞ。

| - | 20:28 | comments(2) | - |
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