映画に同じタイトルがあったと思ったが、映画の方は「凶気の桜」だった。ともあれ、この季節はなぜか「狂気」というものを感じてしまう季節である。
東京・横浜地域は今日あたりでソメイヨシノが満開になりそうだ。ここ数日の高温で散り始めている木もあると聞く。先週土曜日は地元の公園で例年開催されている「桜まつり」があり、昼ごろからお囃子の音やら何やら賑やかな気配が我が窓辺まで届いた。咲き誇る桜の下で集い、しばしの非日常を楽しむという習慣はいつごろ始まったのだろう。
平安貴族が花を愛でる宴を催したのは知っているが、現在のように老若男女一般庶民が花見をするようになったのは江戸時代ころからか。
現代の花見の様子を見ていると、「花よりだんご」でとにかく集まって呑んで騒ぐ方が主目的になっているように思える。それが悪いというわけではないが、テレビのニュースなどで見る上野公園の様子などは、私には「狂気」を感じさせる。いい大人があれほどハメをはずすというのは尋常ではない。まあ、この場合の「狂気」は他愛ない「馬鹿ばかしさ」に近いが。
何度も書いているが、私は「桜」に陽気なイメージを持っていない。あの咲きかたは尋常ではない。葉が出るより先に花が一斉に咲く花木は桜以外にもたくさんあるが、桜の咲きかたはどこか気違いじみてみえることがある。そんなことを思っていると、映画「桜の森の満開の下」のシーンを思い浮かべる。
どこからともなく風の音が聞える桜の森を修行僧の一団が通り過ぎようとしている。桜の枝は揺れどこからともなく風が巻き起こり吹き過ぎる。と、それまで整然と並んで歩いていた僧たちが狂ったようにあがきはじめる。持っていたものや身に付けていたものを放り投げて、散り散りに走っていく。まるで恐ろしい何かから逃げるように。あの映画は(原作も同様)桜というものが持つ「狂気「を表現していると思う。この「狂気」は花見時の乱痴気騒ぎとは全く違う、本当に怖い「狂気」である。
わが家の近くにも先に書いた公園以外に桜の木はたくさんある。農家の庭先には見事な河津桜や紅枝垂れもある。今まで何度も写真を撮りにいったが、いつも同じような写真になってしまうので年々撮る意欲は弱くなるばかりだが。昨年も花の終わりが近づくころ一度だけ行ってみたが、きれいだと思うもののとりたてて感動はしなかった。
一ヶ所だけ、以前から気になっている場所がある。わが家からほど近い山の斜面にソメイヨシノの大木が数本あり、そこは花見ができる場所ではないのでいつも静かなのだ。人間2人がすれ違えるくらいの細い道が斜面の下にあり、桜の木を過ぎると昔からこの地に住む一族の墓が数基。昼間でも薄暗く、夜一人で通るのははばかられる。
公園の木よりだいぶ大きなソメイヨシノが斜面の下に向かって枝を伸ばしている。花が終わりに近づくと、花びらが文字通り吹雪のように降り注ぎ、飛び交う。そんな時その道にたたずむと、やはり「花の下は果てがない」と言いながら消えていった山賊のことを思い出す。
調べてみて知ったのだが、陰陽道では桜は「陰」で、宴会の「陽」と対を為すそうだ。人が全くいないところで満開の桜を見ると少し怖くなるのはそういうことか、と妙に納得してしまった。毎年花見で騒いでいる人たちも、一度はたった一人で満開の桜の下に立ってみるといい。それまでとは違う桜の妖しい力を感じるかもしれない。
北向きの仕事部屋の窓から、桜の森が見える。薄紅色の雲が厚くかかっているかのようである。手前には小さな公園があり、春休み中の子供たちが元気よく遊んでいる。桜と公園の間には花桃が濃紅、桃、白の花を賑やかに咲かせている。この森は、風が強く吹くと木々が大きく揺れて轟々と音を立てる。今日は穏やかに晴れてのどかな雰囲気だが、空がにわかに曇って風が吹き荒れたら・・・・あの桜は・・・と、ふと想像してみる。子供たちの声はいつしか消えている。