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オノオレカンバのジャムスプーン
14-0930

今日はネットが縁で知りあった友人・soukichiさん(これでよかと?)をお誘いして、表参道の蔦サロンで開催されている「森へ帰ろう〜ゆずりは東京展」を見にいってきた。


ゆずりは」は、東北地方の手仕事を厳選して展示販売している青森・十和田湖休屋にあるクラフトショップで、何度か訪れいくつかの品を買ったことがある。最初は、今は亡き花鳥渓谷の木村さんが連れていってくださった店で、そういった意味でも私には忘れられない店である。


今日も会場にいらした店の方(男性)とお話したのだが、十和田湖周辺は近年団体の観光客が減って閑散としているという。派手な観光施設やスポットがあるわけではないが、あの空気感がとても好きであり、知りあいが何人かいる私としては淋しい。


ホテルや旅館も次々と閉館しており、土産物店なども昔ながらの古びた店がかろうじて営業している様子だ。「ゆずりは」はそんな中でも洗練された店構え、確かな目で選んだ品々で異色存在だが、何につけても一流好みの木村さんが連れていってくださっただけのことはある店だと思っている。


蔦サロンは、青学会館の向かいにある小さなギャラリーで、古いがなかなか味わいのある一軒家である。「ゆずりは」は、年に3回ここで展示会をしていると聞いた。店主の田中陽子さんは東北の手仕事を「次代に引き継いでいきたい」という思いからご自分の店の名前を「ゆずりは」とし、著作もあるステキな方。今日もちらりとご挨拶をしてくださったが、お忙しいようなのでこちらから声をかけるのは遠慮した。いつかお話したい方である。


「森へ帰ろう」という展示会の名前のように、今回は木や木の皮などを使った手仕事中心の展示会だった。木製のかわいらしいオルゴール、財布の中がもう少しゆったりしていたら買いたいくらい魅力的だったが、今回はぐっと我慢してジャムスプーンをゲット。両側が使えるヘラのようなデザインで、ジャムやはちみつをすくうのによさそうなデザインだ。


素材は、「オノオレカンバ」だと教えていただいた。名前の通り、斧が折れるほど硬い木材で、「斧折樺」と書く。成長が遅く、幹は一年の間に0.2mmしか太くならないといわれ、成長が遅い分緻密で硬い材質になるという。木肌はすべらかなので、ソリや印鑑の材料として使われているらしい。硬いだけに加工が難しいが、磨くと艶のある光沢が現れるとのことだ。


木材というのはなんと個性的であり、それぞれに美しいものであることか・・・オノオレカンバのスプーンのなめらかな曲線に触れながらそう思う。見回せば自分の身の回りには集合材や“なんちゃって木材”のようなものが多いが、手の届く小さなものについてはできるだけ木の個性が活かされたものを選びたいものである。


ジャムスプーンを買ったらおいしいジャムが欲しくなり、soukichiさんに教えてもらってスパイラルマーケットに行き「オレンジはちみつ」を買ってきた。あとは、おいしいパンを買ってゆっくり味わうだけである。楽しみ、楽しみ。


*ジャムスプーンは、岩手の「プラム工芸」のもの。

*「ゆずりは」もオンラインショップがありまする。

ホームスパンのショール、いつかは欲しいなぁ・・・

| - | 21:05 | comments(2) | - |
消息
14-0929

ネットが生活の一部になると、ネット上のみの付合いしかしていない人だとしても、その消息が気になることがある。


ブログが全く更新されなくなったら、単に忙しくなっただけだろうと思いつつ、いつ何があるかわからない世の中なので、もしや・・・などと妙な想像をすることもある。また、ごく少数だが、全く関わりをもったことがない人の消息が気になることもある。


ほとんど毎日チェックしているサイトの中に、一度も会ったこともなくネット上で言葉を交わしたこともない人のブログがある。何かを調べたくて検索していてたまたま出会ったブログだが、その人の暮らしぶりや住まい、庭、そして飼っている猫がいい感じで気に留めていた。今年の春ごろ、昨秋から闘病生活を送っていたことが明かされ、今までとは違う治療法を試してみるため夏の間は自宅に帰れないだろうという記事があった。


長期の治療ということは、ある程度難しい病気なのだろうと思う。8月の終わりころ、何度かブログを訪れたが全く更新された気配がない。見ず知らずの人なのに気になっていたら、9月になって一時帰宅した時の様子が簡単に書かれており、少し安心した。全くといっていいほど知らない人なのに不思議なことだと思う。


この年齢まで生きてきて、一体何人の人と私は出会ったのだろう。そのほとんどの消息を知らないといっていいのだが、たいていの場合それを気にすることはない。が、どうしているか知りたいと思う人たちもいないわけではない。


たとえ短期間にせよ、共感を感じながら付き合った人とは「縁」があると思い、できるだけその「縁」を大切にしてきたつもりである。しかし、中には年賀状の返事を出しそびれているうちに音沙汰がなくなり、連絡先もわからなくなってしまった人もいる。電話番号をどこかに書いておいたはずなのに、それを見つけられないこともある。そういった自分の怠慢に対する後悔を感じることが多いのは、年をとったということなのだろうか。


あらためて辞書で調べてみると、「消息」という言葉には思っていたより多くの意味があった。大辞林第3版では、


(1)動静。様子。状態。

(2)状況を知らせる手紙や言葉。便り。音信。

(3)盛衰・省長。

(4)来意を告げること。案内をこうこと。


「消」は「死」を、「息」は「生」を表しているそうだ。いつもはもっと軽い意味、「近況」に近いニュアンスで使っていた言葉は、もっと重く深い意味を持っていたということだ。


知らないままにしておいても特別差し障りはない「消息」だとしても、そのうちのいくつかは探ってみてもいいかもしれないなんて思う秋の夜長。

| - | 22:13 | comments(0) | - |
たまには、たべもののはなし
14-0928

家人が旅行中ということもあって、一人分のたべものを用意するのがけっこう面倒になっている。普段から習慣的に食事の用意をしていないのでなおさら。


わが家は最近、それぞれ食べるものを自分で作ることが多いのだが、私の場合は朝のサラダを作る(野菜を切って盛るだけ!)くらい。時々、旅館の朝ご飯のようなものが食べたくなることがあるが、そんな時はみそ汁を作り鮭をやいたり海苔をあぶったりはする。いずれにしても「料理」といえるようなものではなく、およそ「料理」らしい「料理」は家人が作り、それを少しいただくだけになっている。


ここ1週間も朝はサラダ、昼はパンとリンゴとヨーグルト、夜は酒をのみながらオイルサーディンをつまむ・・・くらいのものでほとんど何も作っていなかった。が、そろそろ煮込み料理が食べたくなってきたということで、久々にチリコンカンを昨晩作った。


前に作ったのがいつだったか忘れているほど時間が経っているので、レシピなど全く忘れている。普段料理をしないのでカンが働くということもない。しかたないのでネットでレシピを探して適当に選んで作った。今回いつもと違うのは、豆。いつもはお手軽な缶詰のレッドキドニーを使うのだが、この度は金時豆を買ってきて一晩つけてふやかし、柔らかくなるまで煮るという手間をかけてみた。


できあがりは、まあまあ。ちょっと辛さが足りないということは、チリパウダーの量が少なかったからだろう。レシピには入っていないが、セロリ好きなのでセロリのみじん切りも加えてみた。あとはほぼレシピどおり。


それにしても、金時豆って立派!レッドキドニーより大きくて、なんだか腹にたまる感じ。でも、豆らしい味がして、やはり手間をかけただけのことはあると思った。まだ半分残っているので近々カレーを作る時に使おうと思う。


しかし、やはり同じものをずっと食べ続けていると飽きるなぁ。昨晩、今日の朝、昼、と食べてもまだある。量を減らして作ればいいのだが、材料(トマト缶とか)が中途半端に残るのが嫌で結局4人分くらい作ってしまったからなのだが。一人暮らしをしていると、往々にしてあることだとは思うが、飽きるなぁ。


そこで、今日はチーズをちぎったものを乗せてレンジであたため、タバスコなんぞをかけて生のセロリの葉をちりばめてみた。おお、なかなかうまいではないか!


これだけで腹いっぱいになってしまうので、パンもごはんも昨日から食べていない。明日の朝はさすがにパンくらいは食べたいものである。


おやつは、先日久しぶりに買った少しいいお茶と山梨名物・信玄餅。隣町の百貨店(テナントが入っているだけなので百貨店じゃない?)の地域物産コーナーで2個入りをみつけたので買ってみたのだ。このコーナーは前から気に入っていて、「みずす飴」や「元祖・柿の種」などを時々買う。先日は信玄餅と一緒に霧笛楼の「横濱煉瓦」をひとつ買ってきた。明日のおやつにしよう。

| - | 16:39 | comments(0) | - |
アニマルウェルフェア
14-0927

少し前、どこかのニュースサイトで「パタリーケージ」で飼育された鶏の卵の使用をやめた外食産業の話題を見かけた。世界的にチェーン展開しているファストフード店だったように記憶しているが、名前を忘れてしまった。使用をやめたのは外国での話で、日本の店ではいまだに「パタリーケージ」の卵を使っているらしい。


「パタリーケージ」という名称は聞いたことがなかったが、調べてみたらなんとも残酷な飼育方法であった。


テレビなどで養鶏場の様子を見たことはあったが、注意して見ていなかったので何も気に留めていなかった。が、鶏たちがずらりと並ぶあの光景を見れば、鶏を「動物」ではなく「モノ」として扱っているのは明らかで、いくら商業動物とはいえ残酷なことである。


「パタリーケージ」とは、ワイヤーでできたケージの中に鶏を入れそれを何段か重ねて飼育する方法。卵がころがりやすいようにケージは傾斜しており、鶏1羽当たりの平均スペースは470㎠程度(約22cm四方)。鶏たちは、羽ばたくことも毛づくろいすることもできず、ただ給餌箱に入っている餌と水のみをとりながら卵を産む。羽は汚れ金網ですり切れ、爪は伸び邦題。つつきあうことを防ぐためくちばしを切断する「デビーク」という処置をすることもあるらしい。麻酔なしで(参考サイトは、こちら)。


なんとも残酷な飼育方法を知ると、卵を食べるのが嫌になってしまう。スーパーで売られている1パック200円前後の卵はほとんどが「パタリーケージ」で飼育されている鶏のものだろう。今までいやというほど食べてきたのが、そんな卵だったとは。知らなかったから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、そういった養鶏業界の動向に無関心であったことは「命」をいただきながら生きている動物として恥ずかしいことだと思う。


「パタリーケージ」について調べていたら、「アニマルウェルフェア」という考え方に行き着いた。直訳すれば「動物福祉」。もともとはヨーロッパで生まれた概念で、現在日本の(社)畜産技術協会が「快適性に配慮した家畜の飼育管理」と定義しているそうだ。


動物福祉が客観的に満たされているかを判断する基準に5つの「自由(解放)」が設定されている。以下は『アニマルウェルフェア推進ネットワーク』のサイトから得た情報。


(1)飢えと渇きからの自由(解放)

(2)肉体的苦痛と不快からの自由(解放)

(3)外傷・病気からの自由(解放)

(4)恐怖や不安からの自由(解放)

(5)正常な行動を表現する自由


(1)〜(4)までは分かりやすい。(5)は、その動物が正常な行動をとるために必要な広さが確保されているか、危険を避けるための機会や休息がとられているか。また、それぞれの習性に応じた飼育環境が与えられているか(群れで生きる動物たちは群れで、単独で生きる動物は単独で飼育、など)等々。


「アニマルウェルフェア」という考え方は、現在家畜(商業動物)だけでなく、動物園で飼育されている「展示動物」、家庭で飼育されている「愛玩動物」をも含めた考え方になっているようだ。動物保護については、欧米諸国に較べ日本ままだまだ遅れている。それは政府だけの問題ではなく、私たち生活者の問題でもあると思う。実行に移すのはなかなか難しいが、まずはこういった考え方があるということを「命」をいただき、「命」に癒されながら生きる私たちは知る必要があるだろう。


| - | 18:20 | comments(2) | - |
馬の祈り
14-0926
・・・一昨年10月に行った「ホースパラダイス群馬」にて・・・

先月は、猫の殺処分ゼロを目指す保護猫カフェ「ネコリパブリック」が企画するイベント『ネコ市ネコ座』プロジェクトにサポーターとしてささやかな協力(寄付)をした。目標金額を設定し、目標に達すればイベントを実施するというものだったが、当初の目標は軽々とクリア、さらに目標を高く設定し他のエリアでもイベントを開催する提案がなされた。その目標も達成し、東京と大阪でアフターパーティが行われたようだ。


犬や猫などの保護、処分などについての活動は様々なかたちで行われている。保護・里親探しをしている個人、団体の数も多く少しずつではあるが知られるようになってきたと思う。では、他の動物は?


一年に数えるほどではあるが、競馬場に足を運ぶようになりテレビで競馬中継を見るようになって、馬の余生について思うことが多い。大きなレースで優勝したり、有力馬として注目され、ある程度の成績を残した馬は種牡馬としての余生が約束されているのかもしれない。が、そんな馬たちよりはるかに多いのが、一向に勝てず登録を抹消され、肉用に売られていく馬たちである。


人間の都合で育てられ調教され走らされ・・・揚げ句の果てに「肉」になっていく・・・このどうしようもない現状が常に頭から離れず、レースを楽しみつつも負けた馬たちのことが心配になる。


数日前、facebookで引退場などを預かり世話をしている「渡辺牧場」のことを知った。約40年間、北海道浦河で競走馬の生産と育成に携わってきたご夫婦が経営されているらしい。現在は、引退馬の養老牧場として活動しているというが経営は厳しそうだ。


馬を預託したはいいが預託金の支払いが成されなかったり、そのためやむなく馬を手放す(多くは食用になったのではないだろうか)ことになったり、様々なことがあったと思われる。そんな「渡辺牧場」が、セントネイチャーという馬の里親会を作り会員を募集しているという。


馬は身体が大きいだけに、金も場所もかかる。具合が悪くなって医者にかかれば相当な金もかかるだろう。小さな牧場でそれをやるのはかなり大変だ。当然限界もひしひしと感じておられると思うが、新たな試みとしてこの里親会ができ、会員が増えれば安易な安楽死や食肉になる馬の数が少しは減るかもしれない。会費は1口2000円で何口からでもいいそうだ。会則をしっかり読んだ上でできる範囲で応援していきたいと思っている。


今回、「渡辺牧場」の話題を含む「引退馬協会」を取材したサイトにも出会った。netkeiba.comの“第二のストーリー〜あの馬はいま”の特別企画として連載された「日本中に馬のいる風景を・・・引退馬協会の取り組み/引退馬の現状と未来」だ。リンクしておくので、興味のある方にはぜひ読んでいただきたい。


「渡辺牧場」のサイトには、“イギリスのとある厩舎の壁に掛けてある言葉”として「馬の祈り」の一部が紹介されている。調べてみると、作者は不詳だが、ネットの普及により一部バリエーションを含め徐々に世界中に広まっているという。ここでは、「とどけ!馬の祈りプロジェクト」というサイトに掲載されているものを引用する。


馬の祈り

わたしに食物と水をお与えください。
一日の仕事のあとには、どうかわたしを気遣ってください。

わたしが安心できる住処を
清潔な寝わらと広い馬房をお与えください。

わたしに話しかけてください。
声をかけてください。そうすれば、手綱を使わなくてもすむのです。

わたしに優しくしてください。
そうすれば、わたしは喜んであなたを愛し、お仕えします。

上り坂を行くとき、手綱をひっぱったり
鞭で追い立てたりしないでください。

わたしがあなたの言うことを理解できないとしても
叩いたり蹴ったりしないでください。
そうではなく、わたしが理解するための時間をください。

わたしがあなたの指示のとおりに動かなくても
わたしが不従順だと思わないで下さい。
おそらく馬具かひづめの具合が良くないのです。

わたしが飼い葉を食べないようなときには
わたしの歯を調べてください。
おそらく歯が悪くなっているのです。
その痛さをあなたもよくご存知のはずです。

引き綱を短く縛らないでください。
また、わたしの尾を編まないでください。
尾はわたしにとって、蝿や蚊と闘う唯一の武器なのです。

そして最後に、愛するご主人様
ついにわたしが役に立たなくなったときには
わたしが飢えて凍えるままにしないでください。
わたしを売らないでください。

わたしを新しい主人のもとへ送らないでください。
その人はわたしを痛めつけて殺すかもしれません。
飢え死にさせるかもしれません。

そうではなく、愛するご主人様、そのときには
あなたのその手で、わたしを安らかに
ひと思いに殺してください。

そうすれば、神はこの世と次の世においても
あなたに恵みをお与えくださるでしょう。

わたしがこのようなことをあなたにお願いするからといって
不愉快だなどと思わないでください。

わたしはこのことを主の名において、
わたしと同じく馬小屋にて生を受けた、あなたの救い主、
イエス・キリストの名においてお願いするのです。

アーメン。

A Horse’s Prayer

Give me to eat, give me to drink,
and worry about me when the day’s work is done,

give me shelter, a clean bed and a wide box,
talk to me, often your voice substitutes for the reins,

be good to me and I will gladly serve you and love you.

Don’t jerk the reins, and forego the whip
when we go up a rise.

Don’t hit or kick me should I not understand you,
give me time to understand.

Don’t think me disobedient should I not follow your orders,
perhaps the harness and hooves are not in order.

Examine my teeth should I not eat,
perhaps I have a bad tooth.
You know how much that can hurt.

Don’t tie me too short and don’t braid my tail,
it is my only weapon against flies and mosquitos.

And at the end, dear master, when I am no longer useful,
don’t let me go hungry and cold and don’t sell me.

Don’t give me to a new master,
one who will torture me to death and let me starve,

but give me a quick and compassionate death, dear master,
and God will reward you, in this life and the next.

Let me ask this of you, not in disrespect,
when I request it in the name of Him
who too was born in a stable, your savior Jesus Christ

Amen

(From an inscription in an old English barn)

Dressage in Harmony by Walter Zettl より抜粋、日本語訳:塩谷文子

| - | 18:33 | comments(6) | - |
K社のやり口
14-0925-2

2週間前くらいになるだろうか。ある会社(ここではK社としておこう)の営業に関して不愉快な思いをした。


K社は電話会社でだいぶ前から利用しているのだが、数年前から時々電話がかかってきていた。電話営業というのは、まず切られてしまうことを避けるところからはじまるのだろうが、出た途端有無を言わせない調子でしゃべりつづけられるといささか不愉快である。なまくらな返事で聞いておき、タイミングを見計らって切ろうと思いつつ、顧客に対してどのような手法でアプローチしてくるのか観察してやろうかと思った。少なくとも最初のころは。


内容は、電話代が安くなるというありがたいお話である。が、そういったありがたいお話には裏があるのが常で、案の定インターネット契約とセットにすればという条件付きであった。やっぱりね、と思いつつ話を聞いてみると、なにやら別の機械(ルーターか?)を繋げば簡単にできるという。しかーし!私の部屋のモジュラージャックの口は大きな本棚の裏に隠れており、繋ぎ直す場合細い隙間に無理やり手を入れ込むか、本棚自体を移動させねばならぬ。


それはけっこう面倒だし、そもそも入居時からネット利用している会社に対して特に不満はない。多少安くなることよりも面倒なことをする方が私としては負担感が大きい。


ということで、何度も何度も断ったのだが、しつこく電話してくるのでついにK社を名乗られた時にすぐ「ネットとのセット契約で電話代が安くなるという話なら、前に何度もお断りしているのでいいです。ついに、当分このままで行きたいと思っているので、もう同じような電話はしてほしくない」とはっきり申し伝えた。「すみません」の一言でその時は終わり、以後電話がないのでほっとしていたのだが・・・


電話では埒が明かないと思ったのか、今度は営業マンのお出ましである。K社の営業だとわかっていればドアをあけずに断ったのだが、営業マンの名前とマンション管理会社の名称がとても似ていたため勘違いしてドアを開けた。すぐにK社だとわかったが、しかたないので話だけは聞いてやろうと思い(態度によっては途中でやめるつもりもあったのだが)聞いていると、やはり何度か電話で聞いたことと同じであった。


営業マンは、これだけ簡単な手間でこれだけ安くなるのだから、と盛んに勧める。利用しているプロバイダもサービス対象の会社なので無料だし、今使っているルーターとモジュラージャックとの間に機械をかませればいいだけだし、業者がそれをやるし、等々当たり前だがいいことばかり言う。


しかーし!そもそも業者が来ても手を差し込む隙間さえないのかもしれないのだし、今まで散々断ってきたことなのでいい返事をしなかった。すると、営業活動として客にきちんと説明したかどうか確認のサインが欲しいと言い出した。タブレットを出してきてペンでサインしてくれという。なにやら怪しいなと思ったので、申し込みのサインではないことを確認した。正規に申し込むかどうかは後日電話で確認するので今回はそうではないという。営業マンもある意味会社に見張られているのだろうと思ったのでサインした。


すると、その日のうちに会社から電話があるという。営業マンがきちんと説明したかの確認電話だという。サインしたのに電話もか、と鬱陶しく思ったが早く終わりにしたかったので了解した。最後に申し込むかどうかはまだわからないと念を押した。


営業マンはマンションの敷地内にいるうちに会社に報告したのだろう。10分もすると電話がかかってきた。驚いたことに、その電話口で「今回は当社のサービスをお申し込みいただき、ありがとうございます」と言ったのだ。


頭に来たので、「まだ申し込んでいません!営業の方にもそう言いました!営業の方がきちんと説明したかの確認電話だと聞いていますが?」と言うと、「あ、申し訳ありませんでした。そうです。当社の○○(営業マンの名前)はこれこれを説明しましたでしょうか。」「はい、お聞きしました。で、お返事は後日の電話でということになっていますが、それでいいんですよね?」「その通りです。たいへん失礼しました。2日後くらいにまたお電話させていただきます」で電話は終わった。うーん、確信犯に近い。これは絶対に断ろうと思った。


さて、2日後電話がかかってきた。断ると決めていたので、「そら、おいでなすった!」と出たら、また「この度はお申し込みいただき・・・」ときた。もう完全に怒ったぞ!「申し込んでいませんたら!」と強く言った後、今のままで当分変えないことを手短に伝え電話を切った。


電話代にしろ何にしろ、簡単な手間で安くなるならいいことだと思う。が、安さ以外にも選ぶ基準はある。とくに今回のような営業姿勢を取る会社とはできるならお付合いしたくない。厳しい競争を生き抜くための苦労はわからぬでもないが、しつこい、ずるい、は私が最も嫌うところなのである。今度同じことをしたら、消費者センターに訴えると脅かすぞ!

| - | 20:12 | comments(0) | - |
音がないからこそ、聴こえてくるものがある。
14-0924

大いなる沈黙へ」という映画が公開されている。構想から21年の歳月を経て制作されたドキュメンタリー映画だ。


フランスアルプス山脈にあるグランド・シャルトルーズ修道院を取材したもので、フィリップ・グレーニング監督は撮影申し込みをしてから延々と返事を待ち、16年後に突然許可が下りたという。


この修道院は、カトリック教会の中でも厳しい戒律で知られているとのこと。修道士たちは自給自足、持ち物は小さなブリキの箱のみという清貧の極みを一生続けるという。会話は日曜日の昼食の後に行われる散歩の時のみ許され、俗世間から徹底的に隔絶された環境で生活している。


観てみたいと思いつつ、果たして最後までしっかり観ることができるかという懸念も感じる。礼拝の聖歌のほか音楽を使わず、照明もせず、ナレーションもつけない映画だ。集中力が途切れることなく観終えることができるのか・・・


そんなことを考えていると、普段私たちがいかに「音」に溢れる環境に暮らしているか、またそれを自然に受け入れ馴れているかに思い至る。と同時に、私には「音」に対して少し過敏なところがあるなと思い、賑やかなところでは暮らせないなと思う。


思うに、音に対する態度はおおまかに2つに分けられるような気がする。常に何らかの音を感じていた方が快適な人とそうでない人がいるように思うのだ。一緒に暮らしていないとなかなか分からないが、たとえば私の場合でいうと家人は前者。元夫であった人も前者だ。常にテレビかラジオをつけていて、真剣に観たり聴いたりするかどうかはその時次第。どちらかというと、「音を流している」という時の方が多いようで、後で内容を聞いても覚えていなかったりする。私のような仕事をしている人の中にも音楽が聴こえていた方が仕事がはかどるという人もいる。


私の場合は後者で、テレビはあまりつけないが観るときはしっかり観る。音楽も聴きたいと思った時に聴きたい曲を聴く。たまにラジオなどをつけて「音を流す」ことはするが、基本的にはそういった態度だ。仕事をする時はラジオも音楽も流さないことが多い。集中力が乏しいため、音を感じると集中できないからかもしれない。


家人が旅行中でわが家はいたって静かである。ラジオはつけるが午前中のニュース番組のみ。テレビは食事中をのぞいてほとんどつけない。音楽は時々聴く。時折猫がちが「メシくれー!」「かわいがれー!」と鳴き会話を交わすが(^^;)、あとは私もずっと黙ったままだ。


タイトルの言葉は、「大いなる沈黙へ」のキャッチフレーズ的なフレーズの一部だ。「音がないからこそ、聴こえてくるものがある。言葉なないからこそ、見えてくるものがある」の2行を見た時、真理かもしれぬと思った。音や言葉は外部からの情報だ。それを遮断した時残るのは、自らの中の音であり言葉である。それらとじっくり付き合うことが「思索」というものなのかなと思う。


現代という時代は、そういう時間を意識的に持とうとしないとなかなか自分自身と向きあうことができにくい。情報を得るのは重要なことだが、常に情報に自分を曝していると何かを見失いそうな気もする。


時には、意識的に無音・無会話の時間を作っていきたいものだ・・・などと焼酎のお湯割をゆるゆる飲みながら思う夜。

| - | 22:36 | comments(0) | - |
22日は「猫に語らせる日」だってゆってるのにっ!・・・9月担当:まめこ
14-0923

ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、ひどーーーい!このまえもわすれていたのに、またわすれたの。まめこのばんだけ、わすれるって、わざと?わざと? まめこはうたがいぶかいので、ふしんかんいっぱいになっているの。


れによって、すみごんはいいわけしているです。うちのオッサンが19にちから「ほっかいどう」とゆうところにいっていて、そのあいだにおへやをかたづけなくちゃいけなくて、オッサンがこれでもか!とちらかしたままいってしまったので、「おかたづけ」や「おそうじ」がすんごくたいへんだった・・・とか。


「おかたづけ」や「おそうじ」と、まめこが「ぶろぶ」をかくのと、なんのかんけいがあるの? やっぱし、ただわすれていただけじゃん!そいでもって、おもいだしたのが、きょうになってからなの。すごくしつれいなの。


まめこ、ふだんから「まーちゃんは、ちょっとせいかくがわるいよね」とか、しつれいなことをゆわれているけど、こういうことがあるから、うたがいぶかくなるのあたりまえなの。もっとおとしよりになったら、「いじわるばーさん」になってやろうといまからおもっているの。


ここ2〜3にち、すみごんは、ちっともおちつかないの。いつもあれこれかたづけたり、ふいたり、そうじきをかけたり、なにかをうごかしていたりしているの。そいでもって、「ふー、つかれた。めまいがする。ずつうもしてきた」と、ぼやいているの。おへやなんてちらかっていたって、いきていけるとまめこはおもうです。あめつゆしのげるだけでも、じゅうぶんだとおもうです。これって、やっぱり、まめこが「のらねこ」だったからなのかな。


ふだん、ちらかっているおへやでくらしているので、あまりきれいになるとおちつかないの。ちがうおうちにきたみたいで、ふあんになるの。で、まめこも、うろうろしたり、くらがりにかくれたりしているです。きょうのしゃしんは、まえにすみごんのバカむすこがつかっていたへやなの。いまは、「ものおきべや」になっていて、そうじきのおとがきらいなまめこは、ここにひなんしているです。


すみごんが、「まーちゃん、しゃしんとるから、いいおかおして!」ってゆうけど、まめこはおこっているので、そっぽむくです。なぜか、30せんちくらいはなれたところに、みかんもいるの。みかんも、おかたづけされたおへやがいやなのかな。まめことおなじなのかな。だとしたら、みかんとは、もうすこしなかよくしてあげてもいいなって、まめこはおもっているところなの。


そうそう。まめこ、まだ「くびわ」をかってもらってないの。「くびわ」はきらいなので、どっちでもいいけど、まだ「ちぇーりんぐ」の「くびわ」をしているです。すみごんは、「まーちゃん、にあっているよ!」って、へらへらわらいながらゆうけど、ほんとににあっているのかな。


これから、だんだんさむくなってきて、さむがりのまめこははやく「あんか」をだしてほしいとおもっているです。おんなのこはからだをひやしちゃいけないんだもんね。みなさんも、かぜをひかないようにげんきでね。そいでもって、つぎのまめこのばんのときは、すみごんがぜったいにわすれないよういのってくれるとうれしいの。じゃ、ばいばい。


| - | 09:55 | comments(2) | - |
頭痛よ、こんにちは。
14-0922

子どもを産んでから久しくご無沙汰していた頭痛との付合いが1〜2年前からまた始まってしまった。


頭痛の原因はいろいろあるようだが、中学生の時からの付合いなので調べられることは調べたし、動けないほどの頭痛にまでは進まないのでこれからもなんとなく付き合っていくことになりそうだ。


中学生の時は目が悪くなりかけていたこともあったのかもしれないが、始終頭が痛いと言っていたので親が心配して精密検査を受けた。レントゲンやら脳波やら問診やら大げさな検査だったが、異常は見当たらず、医師からの「神経質だからなのでは?」という、今思えば無責任とも言える診断でひとまず落ち着いた。


以来、鎮痛剤が手放せず、どこへ行くにも持っていった。頭痛がしていなくても、持っていないと落ち着かないくらいの必需品になっていた。経験から、鎮痛剤は兆候を感じ始めた時に飲むのが一番効き、ひどくなってからだと全く効かないことを知っていたので、何かというと飲んでいたと思う。


20代になって酒を飲み始めてからも薬は飲んでいた。酒と鎮痛剤の組み合わせはよろしくないということは知っていたのである程度セーブしていたが、仕事やら付き合いやらで忙しい時は、酒を飲みながら薬を飲むなんていう荒技もやり、ついに薬物性過飲機能障害とやらになって1週間ほど入院するハメになってしまった。


それからは気をつけているが、頭痛は突然やってくるのでなかなか厄介な代物である。薬も習慣的に飲んでいると定量では効きにくくなってくる。できるだけ飲まないようにしてしのぐ日々が続いた。


不思議なことに、子どもを産んでから頭痛に悩まされることがめっきり減った。体質が少し変わったのかもしれない。頭痛に悩まされる余裕もないほど慌ただしかったのかもしれないと思うが、いずれにせよなんとも不愉快な頭痛から逃れることができただけで嬉しかった。


思うに、首から上の痛みというのは首から下の痛みよりもつらい。少なくとも私は頭痛、歯痛は痛みの中でも最上級レベルだ。大げさだが気が狂いそうだと思うこともある。


最近は年齢のせいで感度が鈍ってきたためか、若い時ほど強烈な頭痛になることは少ない。若いころの頭痛はとにかく起きていられなかった。そこで横になるのだが、横になっていても痛くて眠るどころではなく、頻繁に寝返りを打ちながら、頭痛が去ってくれることを願っていた。


このごろの頭痛は、後頭部からその気配が漂いはじめ頭全体に広がっていく感じ。血行が悪くなっているとすると風呂に入るなどして身体をあたためた方がいいのだが、以前それをやってさらにひどくなったので頭痛を感じる時はことさら何かをするということはない。きちんと容量、間隔をあけて薬を飲み、頭痛くんが「バイバイ!」と去っていくのを待つのみだ。


頭痛がひどくなると、音や光に対して敏感になってくるように思う。普段はあまり気にならない音がやけに頭に響く。さほどまぶしくない光もまぶしくて鬱陶しくなる。静かで薄暗い部屋の中でじっとしていたいと思うが、日常生活ではなかなかそうはできない。


こういうことがあると、病をかかえて生きている人のつらさが少しわかるような気がして、みなさん大変だなと思う。病は人を強くするということもあるが、強くなる過程はさぞつらいことだろうと思う。私の頭痛なんてそんな人たちからしたらたいしたことはない、頭痛持ちとして立派に生きていこう!と居直り気味に思ったりしている。

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人任せ
14-0921

独立を巡ってのスコットランドでは住民投票があった。当日は友人と会う予定があったのだが「反対派」が優勢とのニュースを見て出掛け、夜遅く帰宅したらやはり反対する人の方が多く独立は見送られたと知った。


ひとまず結果は出たにせよ、これで終わりということにはならないだろう。様々な軋轢や駆け引きなどが行われるのだろうが、そこに「議論で解決しよう」という気持ちがあるなら、しこりを残しつつも徐々に落ち着いてくるのかもしれない・・・反対運動がさらに加速することも考えられなくはないが、「住民投票」という直接的な手法による結果なので、賛成派の中にもある程度納得している人たちがいるのかもしれない。今後の動向を注目したい。


新聞にも関連記事がたくさん掲載されていたが、多いに共感したのは、住民投票に関するスコットランドの人たちの姿勢に対する羨望にも似た思いを紹介した記事であった。そんな思いを寄せたのは、住民投票を実現しようと奔走した2人の男女だ。


一人は福島第一原発の事故のため幼い娘を連れて関西に避難したという男性。それまで社会的な活動には興味を持たなかったということだが、原発に疑問を持ち始め東京都で原発に関する住民投票を目指す運動に参加、署名集めに奔走した。


もう一人は、自宅付近の雑木林が道路建設のため伐採されることを知り、「住民の意見を聞く会」の実現に漕ぎ着けた女性。意見は聞いてもらえたものの、計画変更は全くなかった。その時、住民投票という手段を知り署名を集め市の条例案可決までもちこんだものの、「投票率50%未満の場合成立しない」という条件のもとで行われた住民投票の投票率が35%だったことから開票もされなかった。


スコットランドではく普通の人たちが、独立すべきか否かについて熱心に議論している。16歳から投票でき、学校でも生徒たちが盛んに議論しているという。そういう話を聞くにつけ、なんとも羨ましいと2人は悔しさを交えて伝えていた。


島国の日本と、陸続きで争いが絶えなかった国々を単純に比較することはできないにしても、日本の国民は自分たちの暮らしを「人任せ」にしすぎていると今更長ながらもどかしく思う。前にも書いたことがあったかもしれないが、たとえば原発について友人たちと真剣に話をしようとすると、仲間から浮いてしまうといった状況は珍しくないような気がする。直接自分たちに関係ないなら、真剣に考えている人たちに任せておけばいい・・・と思っている人が少なくないということか。


原発にしても特定秘密保持法にしても集団的自衛権にしても、慎重にすべきという意見が多かったように記憶しているが、「民意」を繰り返しつつ政府は国民の考えなどとりあおうという気はない。それがこれだけ明らかになっても「人任せ」でいる人が多数派であるなら、いよいよこの国は危ないな、と思う。

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