佐世保の女子高生による同級生殺人事件が連日話題になっている。警察が発表した情報をマスコミが伝えるだけでなく、ネット上は早くも手が付けられない状態になっているのではないかと懸念される。
軽はずみな情報の拡散が被害者家族や同じ学校に通っている生徒たちをどんなに傷つけることになるか。私たち大人がまず冷静な態度をとらなくてはならないのは言うまでもないことだろう。
それにしても、特別な感情のもつれもない、むしろ好意的でさえあった同級生を「殺してみたかった」から殺したとは・・・なんともやりきれない。「誰でもよかった」殺人事件がこのところ多く、私たちはどう考えていいかその度に戸惑う。「何故?」とい問いが繰り返し頭の中に浮かび、様々な専門家やマスコミの(もしかしたら興味本位の)分析が公開され、そうだったのかもしれないと思ってしまう。
人は理解不能なものに出会うと落ち着かない気分になるものだ。なんとかして理解したい、納得したいと思ってしまうものだ。そういう気持ちはもちろん私の中にもある。
しかし、今回の事件については、まだまだ結論を出す時期ではないと私は思う。被害者家族に対する気配りは最優先させるべきだが、だからといって加害者や加害者家族を口汚く罵るべきではないと思うし、そもそも残虐な犯罪の加害者であっても私たちには彼らを「裁く」権利はない。
今の状況では、加害者家族、とくに父親に対するバッシングのようなものがどこかで起きているのではないかと懸念される。なぜ娘があのような行動を取るのを止められなかったのか。何故娘を一人暮らしさせたのか。何故妻が亡くなってから日が浅いというのに再婚したのか。何故、何故、何故・・・と。
しかし私たちは今なお、加害者家族がこれまでどのような日々を送ってきたか、そこで何があったかを知らない。中学生のころから猫などを解剖していたというから、母親の死や父親の再婚だけが娘を猟奇的な犯罪に走らせたのではないかもしれない。両親ともに教育熱心で地元の名士であり、家庭も裕福であったというが、一見人も羨む家庭で何があったのかはわからない。また、犯罪を誘発するような要素が家庭にあったとしても、それだけで済ませられることではないのかもしれないとも思う。
私は今回の事件を知ったとき、まず1997年神戸で起きた連続児童殺傷事件を連想した。犯行声明文に記された名前で有名になった「酒鬼薔薇事件」である。犯人である少年Aの家族も教育熱心で地域活動にも積極的に参加しており、両親は両親なりに子どもを慈しみ育てていた。自分をかわいがってくれた祖母の死や愛犬の死が少年に暗い影を落としたことは疑いようがないが、自分より弱い立場の子どもを殺して首を切断して校門の前に置くなどという行為に直結したとは思えない。
サイコパス・・・ここで私はこの言葉に突き当たる。精神病質、反社会的な人格を持つ人を表す異常心理学、生物学的精神医学の分野で使われている言葉だ。サイコパスの定義や診断チェックリストはあるようだが、私たち一般人が彼らを「理解」することはなかなか難しい・・・というより理解できないのではないかと思われる。むしろ、私たち人間の中には理解を超える者たちが存在しているのだということを認識した上で、対応策を慎重に探っていく必要があるのではないか・・・そんな気がする。
言わずもがなのことだが、私は犯人やその家族をかばうつもりは全くない。犯した罪は許されるものではないし、それ相当の償いが不可欠だと思っている。安易な断罪はしたくない、ただそれだけである。