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日々の内側
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16歳の犯罪
14-0731
・・・例によって話題と全く関係なし(^^;)ヴァロットンの版画ポストカード・・・

佐世保の女子高生による同級生殺人事件が連日話題になっている。警察が発表した情報をマスコミが伝えるだけでなく、ネット上は早くも手が付けられない状態になっているのではないかと懸念される。


軽はずみな情報の拡散が被害者家族や同じ学校に通っている生徒たちをどんなに傷つけることになるか。私たち大人がまず冷静な態度をとらなくてはならないのは言うまでもないことだろう。


それにしても、特別な感情のもつれもない、むしろ好意的でさえあった同級生を「殺してみたかった」から殺したとは・・・なんともやりきれない。「誰でもよかった」殺人事件がこのところ多く、私たちはどう考えていいかその度に戸惑う。「何故?」とい問いが繰り返し頭の中に浮かび、様々な専門家やマスコミの(もしかしたら興味本位の)分析が公開され、そうだったのかもしれないと思ってしまう。


人は理解不能なものに出会うと落ち着かない気分になるものだ。なんとかして理解したい、納得したいと思ってしまうものだ。そういう気持ちはもちろん私の中にもある。


しかし、今回の事件については、まだまだ結論を出す時期ではないと私は思う。被害者家族に対する気配りは最優先させるべきだが、だからといって加害者や加害者家族を口汚く罵るべきではないと思うし、そもそも残虐な犯罪の加害者であっても私たちには彼らを「裁く」権利はない。


今の状況では、加害者家族、とくに父親に対するバッシングのようなものがどこかで起きているのではないかと懸念される。なぜ娘があのような行動を取るのを止められなかったのか。何故娘を一人暮らしさせたのか。何故妻が亡くなってから日が浅いというのに再婚したのか。何故、何故、何故・・・と。


しかし私たちは今なお、加害者家族がこれまでどのような日々を送ってきたか、そこで何があったかを知らない。中学生のころから猫などを解剖していたというから、母親の死や父親の再婚だけが娘を猟奇的な犯罪に走らせたのではないかもしれない。両親ともに教育熱心で地元の名士であり、家庭も裕福であったというが、一見人も羨む家庭で何があったのかはわからない。また、犯罪を誘発するような要素が家庭にあったとしても、それだけで済ませられることではないのかもしれないとも思う。


私は今回の事件を知ったとき、まず1997年神戸で起きた連続児童殺傷事件を連想した。犯行声明文に記された名前で有名になった「酒鬼薔薇事件」である。犯人である少年Aの家族も教育熱心で地域活動にも積極的に参加しており、両親は両親なりに子どもを慈しみ育てていた。自分をかわいがってくれた祖母の死や愛犬の死が少年に暗い影を落としたことは疑いようがないが、自分より弱い立場の子どもを殺して首を切断して校門の前に置くなどという行為に直結したとは思えない。


サイコパス・・・ここで私はこの言葉に突き当たる。精神病質、反社会的な人格を持つ人を表す異常心理学、生物学的精神医学の分野で使われている言葉だ。サイコパスの定義や診断チェックリストはあるようだが、私たち一般人が彼らを「理解」することはなかなか難しい・・・というより理解できないのではないかと思われる。むしろ、私たち人間の中には理解を超える者たちが存在しているのだということを認識した上で、対応策を慎重に探っていく必要があるのではないか・・・そんな気がする。


言わずもがなのことだが、私は犯人やその家族をかばうつもりは全くない。犯した罪は許されるものではないし、それ相当の償いが不可欠だと思っている。安易な断罪はしたくない、ただそれだけである。



| - | 17:07 | comments(0) | - |
ヴァロットン展に行ってきた。
14-0730

知らない名前だった。“ナビ派”といえば、ゴーギャンやボナールをまず思い浮かべるが、スイス人であるゆえか「外国人のナビ」と呼ばれたフェリックス・ヴァロットンという画家がパリで活躍していたということを、私は全く知らなかった。


今回の展覧会は、オルセー美術館とフェリックス・ヴァロットン財団の監修による国際レベルの展覧会として、グラン・パレ(パリ)、ゴッホ美術館(アムステルダム)、を巡回。そして日本にやってきた。パリでは31万人が訪れたといい、展覧会としては大成功だったようだ。日本初の回顧展ということなので、私のようにこの画家のことを知らない人も少なくないのではないだろうか。


初めて行く三菱一号館美術館は、三菱が1894年に建設した三菱一号館(ジョサイア・コンドル設計。そう、河鍋暁斎の弟子ですな)を復元したもので2010年春に開館した比較的新しい美術館だ。もともと美術館としての設計ではないので、小さな展示会場が迷路のように続いている。案内係がいたるところにいるので迷うことはないが、ちょっと不思議な感じ。が、展示されている絵だけでなく、建物の内装や意匠を楽しめるところがいいと思う。


さて、ヴァロットンだが、展覧会のフライヤーには「冷たい炎の画家」「裏側の視線」とあるように、ちょっと謎めいたところのある画家である。若いころの作品(油彩)などを見ると基礎をしっかり学んで技術を身に付けたことは容易にわかるが、キャリアを重ねるに従って、その視点はオーソドックス(あるいはアカデミック)なものから、ごく個人的な、内面を示唆するようなものに変わっていく。


裸婦を描いても、エロティックでありながらどこか醒めているのが特徴で、その醒めた視線が非常に興味深い。自分を後ろ姿の真っ黒なシルエットで描いた家族の夕食の光景、隠された本音をのぞき見るような視線、憧れと嫌悪、愛と憎しみ。


異邦人としてだけでなく、持って生まれた冷静な性格が見え隠れする作品は、けっこう私の好みである。時にムンクを連想させるところも私好み。


油彩も興味深いが、私はモノクロの版画がとてもいいと思った。「アンティミテ(親密さ)」「楽器」「これが戦争だ」などの連作が展示されていたが、どれもほどよい風刺とユーモアが感じられる。そしてその背後にあるのは、あくまでも冷静に目の前の物事を見る乾いた目だ。


あれほど評判になり勧められてもいたのにバルテュス展には行かなかったというのに・・・やっぱり私は天の邪鬼?


ヴァロットン展は9月23日まで。丸ビルの近くの三菱一号館美術館にて。

| - | 23:50 | comments(0) | - |
メッシーナのサメ
14-0729

第101回ツール・ド・フランスの総合優勝は、アスタナのヴィンチェンツォ・ニーバリだった。21日間を通じてまさしく「格の違う」強さを見せつけ、ライバルたちを置き去りにした。


大会前、ニーバリは総合優勝の第一候補だったわけではない。予想では、昨年の覇者であるクリストファー・フルーム(チーム・スカイ/イギリス)、アルベルト・コンタドール(ティンコフ・サクソ/ロシア)に継ぐ“第3の男”であった。三大ツールのうち、ジロ・デ・イタリア、ブエルタ・ア・エスパーニャはすでに制覇していたが、ツールではなかなか勝てずにいたのだ。


コンタドールは現役選手の中で唯一の三大ツール制覇を成し遂げた選手で、昨年のツールでフルームに負けた屈辱を胸にレースにのぞむだろう。フルームが所属するチーム・スカイは2010年発足という新しいチームだが、2012年、2013年と2年連続で総合優勝者を出しており、いわば「乗りに乗っている」チームである。今回のツールに関しても事前に綿密な調査やコース試走をしており、最有力候補にふさわしい陣営でレースにのぞむ。


そんな予想がレース早々崩れ去ることになるとは誰が想像しただろう。フルームは第2ステージで転倒し手首を負傷。多くの選手が考えたくないほど恐れた第5ステージ(「北の地獄」と石畳の連続するコース。しかも天気は雨)では石畳に入る前に2回も落車してついにリタイアしてしまった。チームカーに乗り込んでもヘルメットをとらず呆然としているフルームをカメラがとらえている。


一方コンタドールは、「第3の男」からマイヨ・ジョーヌを奪う機会を淡々と狙っていたと思われる。山岳に強いので、レース中盤の山岳ステージで活躍するに違いないと期待するファンも多かったのではないだろうか。体重が軽い選手ほど辛いといわれる石畳では慎重すぎるほど慎重に走りタイムを失ったが、それもこれもその後に控える険しい山岳ステージに自信があったからに違いない。


しかし運命はコンタドールにも厳しかった。第10ステージで落車し、バイクを降りて治療しなくてはいけないほど負傷してしまった。これくらいのレースになると、軽いケガであれば乗りながら治療する。膝に包帯を巻かれてレースに復帰し、チームメート3人にサポートされなが走り続けた・・・しかし、高原骨折(脛骨上面の骨折)した足は思い通りに動かず、霧が立ちこめる中でチームメートの背を軽くたたいて感謝した後自転車を降りた。


ツール・ド・フランスでは各選手が無線を聞きながらレースの状況をオンタイムで把握できる。ニーバリもコンタドールのリタイアをすぐに知ることになっただろう。フルームに続いてコンタドールまでがリタイアした。自分の前にいた最有力候補選手が急にいなくなりニーバリは嬉しかっただろうか。


たぶん、違うと思う。何故なら、「第3の男」と言われていることに不満を感じていただろうし、マイヨ・ジョーヌを身に付ける者としてコンタドールと正々堂々と渡り合い勝ちたいと思っていたはずだから。レース後のインタビューでニーバリは以下のように答えている。


「もしもボクがツール総合優勝を果たしたとき、フルームとコンタドールの落車のせいだ、って言われたら悲しい。ボクはすでにかなりのタイム差をつけていたし、なにより、ボクはコンタドールと一騎打ちする準備が出来ていたんだからね。これからはマイヨ・ジョーヌを守っていく。だからといって、ボクに、もはやライバルがいないわけではない。リッチー・ポートやアレハンドロ・バルベルデは、いまだ戦線に残っている。すでにあるタイム差を、上手く制御して行かなければならない」(ニーバリ、公式記者会見より/J SPORTSサイクルロードレポート

ニーバリは、第2ステージでマイヨ・ジョーヌを手に入れ第9ステージで一端他の選手にジャージを渡した。自分のため強力なアシストを展開している他のチームメートを休ませるためという見かたがされているように、これは計算上のことだったようだ。そして計算どおり、第10ステージで軽々と取り戻し、インタビューの言葉どおり最後まで黄色いジャージを脱ぐことはなかった。

ニーバリには、「メッシーナのサメ」というニックネームがある。イタリアはシチリアの出身であり、アグレッシブな走り方をすることに由来するらしい。自身もこのニックネームを気に入っているようで、彼のために用意された特製バイクにはサメの絵が描かれている。

サメだけではないが、野生動物はどんなに強くても無駄な攻撃はしない。ここぞと思ったタイミングで強烈な攻撃をしかけ相手を倒す。ニーバリを見ていると、人間の能力を超えた動物的なカンがある人だなと思う。マイヨ・ジョーヌを着ているという大きなプレッシャーは確かにあるはずなのに、常に冷静で安定感があり、誰もが追いつけない絶妙なタイミングで強烈なアタックをしかけて一人走り抜けていく。自分こそがチャンピオンにふさわしいのだ、と周囲に認めさせるに十分な走り方で、見ていて気持ちいいことこの上ない。

2位の選手との間に5分以上のアドバンテージを持ってても容赦はしない。丸裸(アシストをすべて失って自分だけが先頭グループにいる状態)になっても淡々と走り差を広げていく。最終的には7分以上の差をつけての圧勝だった。

ステージ優勝4回。累積タイム89時間59秒(2位との差は7分37秒)。全21ステージでマイヨ・ジョーヌを着なかったのは一度だけ。フルームがいたら、コンタドールがいたら、という言葉を飲み込ませるだけの立派な勝利であった。

もうひとつ印象的だったのが、バイクを降りた時の表情だ。表彰台に立った時やインタビューを受けている時の表情が優しく、その笑顔はシャイな人間のそれである。アグレッシブな走りとの対照が鮮やかで私は思わずもうひとりのイタリア人チャンピオンを思い出した。マルコ・パンターニ。彼についてもいずれ書いてみたい。

*ニーバリのバイクは、これ。なかなかかっこいい。


| - | 11:48 | comments(0) | - |
ツールが終わってしまった・・・
14-0728
・・・最終日、シャンゼリゼを周回するシーンも感動的・・・

75日に始まったツール・ド・フランス全21ステージが今日未明終わった。平地でのスプリント勝負あり、石畳の連続あり、アルプスやピレネーの山岳あり・・・選手にとって正真正銘過酷な3週間だと思った。


自転車のロードレースの最高峰、グラン・ツール。その中でも最も有名で格が上だとされるのがツール・ド・フランスだ。


去年も開催されているのは知っていたが、中継を観ようと思うほどモチベーションがあがらず、レース終了後ダイジェストを見たくらいだった。が、今年は思い切ってスカパー・オンデマンドの契約をし、全21ステージすべてを見た。すべてといっても、放映時間が4〜6時間と長いので、たいていは途中まで見て翌日残りを見るということになってしまったが。


それでも毎日見ており、時間が空いている時には終了したステージを再度見直したりしていたものだから、この3週間はツールに入り浸りだったといっても過言ではない。それが終わってしまったので、ほっとしたような淋しいような、少し複雑な気分である。


見れば見るほど、ツールは面白い。最終的には個人のタイムにより総合優勝などの賞が決まるのだが、各チームのエースの成績を上げるためエース以外の選手が必死でサポートする。様々な知識と技術を駆使してエースのために尽すサポートなくしてエースの存在はない。


各チーム9人編成だが、エース以外の8人がそれぞれの脚質を活かしたサポートをするのだが、過酷なレースゆえ最後までチーム全員が揃っているのは22チーム中4チームだけだった。


元選手であった人やロードレースのカメラマン、自転車関係者が各ステージ入れ替わり進行と解説をするので、私のようなド素人でも少しずつレースについての知識も得ることができ、その難しさもわかってくる。わかってくるとさらに面白くなり、なんだか中毒状態のようになってしまった(^^;)


それにしても、ヨーロッパの自転車人気はすごい。ツール・ド・フランスの第一回が行われたのが1903年というのだから戦争を挟んで100年以上の歴史があるのだ。「文化」のひとつといってもいいほど過酷ながら洗練されたレースであり、そこに出場できるだけでもたいへんな栄誉なのだ。


サッカーのワールドカップには全く興味がなく、あの大騒ぎを冷たい視線で傍観していた私ではあったが、こうしてツールにはまってみると、あの盛り上がりもわからなくはないような気がしてきた。さて、来年も絶対に見るぞ!

| - | 09:04 | comments(0) | - |
母子家庭の苦悩
14-0727

昨日の朝日新聞朝刊第一面に「女が生きる そこにある貧困(上)」が掲載されていた。今年3月、ネット上で依頼したベビーシッターの男に預けた子どもを殺されるという事件があったが、その事件への「世間の反応」や息子を失った若い母親(22歳)が置かれていた状況などが記され、この事件を通して母子家庭がかかえる「貧困」という苦悩について言及している。


2面には日本の母子家庭の現状と諸外国のそれとの対比や、母子家庭の困窮が子どもにとっても大きな影響を与えることなどが記され、一面で扱った事件の背景をいくつかの側面から解説している。


私が子どものころ、母子家庭は非常に珍しかった。少なくとも私の周りにはほとんど存在しなかったと記憶する。クラスメートや友だちの家庭状況について子供はほとんど興味を持たないので、母子家庭であっても知らなかっただけということもあったとは思うが。


私の親の年代においては、結婚したら「男は仕事、女は家庭」という価値観が主流だったと思われ、経済的な理由でパートなどに出る母親もいたが(私の家も母が近くの会社にパートに出ていた)、それでも夫と妻の役割分担は明確にあったと思う。また、結婚したらどんなに辛くても家庭にとどまるべきだという考え方も女性たちの間に根強く残っていたのではないかと思われる。加えて、女性の就業率は低く、離婚後の生活を考えたら踏み切ることができないという事情もあっただろう。


しかし、今や離婚はありふれた出来事になった。私の知りあいにも何人かいるし、世間を見回してみても離婚して立派に自立している女性は昔に比べて格段に増えた。女性の就業率が大きく影響していると思うが、結婚生活についての価値観が大きく変わったことも同じくらい作用していると思う。


それでも、多額の慰謝料や養育費を設定して離婚する芸能人のような母子家庭はごく限られている。どう見ても軽はずみな行為としか思えない離婚(そもそも結婚も)もなくはないが、ほとんどの母親はさんざん迷ったあげくの選択をしているのではないだろうか。そして、離婚後も経済面でかなり苦労している人が多いのではないだろうか。


先の事件の母親も、安易にベビーシッターを雇ったわけではなさそうだ。離婚後親元で暮らしていたが父親の病気で実家は生活保護を受けるようになり、親への負担を考えて親元を離れた。その時子供はまだ1歳。育児と子育てを両立すべく週2回飲食店勤務をするにとどめていたため収入は月5万円程度。3歳を間近に控えた子供を預けた日は、たまたま友人親子とディズニーランドに行く約束をしていたが急遽取りやめになり、せっかくの休みだから仕事を入れることにしたという。


急に仕事を入れたこと、経済的に苦しかったことによりインターネットのベビーシッター紹介サイトを利用した、とのことだ。女性とおぼしきシッターから連絡があり預けることにしたが、当日待ち合わせ場所に来たのは事件の犯人として逮捕された男だったという。自分はちょっと預かるだけで他のシッターにすぐ引き渡すという言葉に一抹の不安を感じながら子供を預けた。その男には前にも一度子供を預けたことがあったが、不審な点があったので躊躇も感じていたらしい。しかし、仕事に穴をあけるわけにはいかず、淋しそうに手を降る息子に背を向けて仕事に向かった。


事件発覚当時、ネット上で母親に対するバッシングに近い非難が相次いだという。「母親の責任」に言及し、子供を失った若い母親を責める書き込みが相次いだ。杉並区の田中裕太朗都議は自身のブログに「大切な子宝を乳飲み子のうちから赤の他人に預けてはばからない風潮」についての疑問を書き込み、新党大地代表の鈴木宗男元衆院議員も「親として無責任な面があったのでは」とブログで問うた。


確かに、子連れで離婚したにしては甘いところがあったと私も思う。離婚後起こりうる様々なことに対する用意があまりなかったのではないかと思われるし、児童扶養手当ても受けていなかったというので、そういった補助いついての無知もあったと思われる。若いから、というのは言い訳にはならないと思うし、あのような事件が起きる前に相談すべきところがあったら、相談する場所を探そうとする努力がもっとあったら、と残念にも思う。しかし、子供を失ったばかりの母親に対して、バッシングのような態度をとるというのは感心しない。


私自身、息子が10歳の時に離婚し、それ以来母子家庭の世帯主として生きてきた。それまで離婚を考えたことは度々あったが、やはり子どもには両親が揃っていた方がいいという思いに縛られていた。が、両親が揃っていても夫婦間に亀裂があるのであれば、その方が子どもにとってよくないのではないかと思うようになり、さんざん迷った末結論を出した。


その時私は会社勤めをしており、少ないながら正社員としての安定した収入があった。それがなければ離婚したかどうかわからない。子どもを連れて離婚する以上、ギリギリでもいいから生活できる当てがないと、そのしわ寄せは子ども自身に行く。離婚するかなり前からいずれそういう日が来るかもしれないという思いもあり、会社を辞めて自営になりたいという思いも押さえていた。つまり、万が一の離婚に備えていたともいえる。


私にとって幸運だったのは、離婚した相手が子ども保険の積み立てプラスαを息子が18歳になるまで毎月送金してくれたこと、子どもも10歳になっていたのである程度自分のことは自分でできるようになっていたこと、仕事を家に持ち帰ることができたこと、そして、家人と同居するようになって様々なサポートを受けたこと、など。もちろん、それでも辛いことは多々あったが、母子家庭としては比較的恵まれていたのではないかと思う。


私の知人にも、離婚して子どもを育てた人、結婚せずに子どもを産み、育てた人などが数人いる。彼女たちのほとんどが養育費を一切もらうことなく子どもを立派に成人させており、その苦労は私のそれとは比べようもないだろう。彼女たちはみな、子どもをきちんと育て上げるために様々な努力をし、情報やネットワークを活用してきたと思うし、子供たちもまた母親に協力してきたのではないだろうか。


新聞の記事によると、母子家庭の収入に占める父親からの養育費の割合は、日本の場合3.3%だそうだ。それに対してアメリカでは11.8%(厚生労働省・経済協力開発機構などの資料より)。また、アメリカでは養育費の滞納者には自動車運転免許の停止などの強力な措置があり、スウェーデンでは養育費を政府が立て替える制度があるという。


結婚し子どもをもうけた以上、離婚しないですむならしないにこしたことはない。が、離婚したとしても、安心して子育てできるような法的整備や社会のしくみが必要だと、記事を読んで感じた。


出生率の低下が問題になって久しい。女性が子どもを産みやすい環境整備も重要だが、万が一の場合も安心して子育てできる環境づくりも大切なのではないだろうか。


| - | 19:14 | comments(2) | - |
「あんたのなかのあたし」
14-0726

マスコミが発する情報にはほとんど期待しなくなっているが、それでも新聞は日々の出来事を知る上で無視できない存在である。今は各社WEB版も用意してあるので、紙の新聞(妙な表現だが)を毎月契約購読している人は減少しているのかもしれないが。


私はほぼ30年近く朝日新聞を購読している。朝日新聞が好きだからというよりも、消去法の結果といった方がいい。また、購読料を自動引き落としにしているので、別の新聞に変えるのが面倒だというズボラから延々と同じ新聞を読み続けているともいえる。


しかし、ここへきて本気で東京新聞に変えようかと思っている。東日本大震災以後の報道を見ていると、東京新聞の態度が一番納得できるからだ。「そうだ!そうだ!」と思う記事がいくつかあり、金を払ってまで読むならそういう新聞にしたいと思う。本当ならもっと早く変えるべきなのだが、今の契約が半年毎なのでその期限がくるのを待っているところ。


今日の東京新聞のコラム「筆洗」もよかった。以下引用する。


 <わかってる?/あんたのなかにあたしがいるって/あたしにくちをきかないのは/あたしをみないでそっぽをむくのは/あたしをごみみたいにおもってるのは/あんたのなかにあたしがいるから…>▼谷川俊太郎さんの「あんたのなかのあたし」だ。谷川さんは小学生のころ、いじめに遭ったという。そんな詩人の作品と、子どもたちの詩を集めた『いじめっこいじめられっこ』(童話屋)が出版された▼この詩集を編んだ田中和雄さんは、小学校で「詩の授業」をしてみて驚いた。父母でも先生でもないせいか、じっと耳を傾けていると、子どもたちは驚くほど正直にいじめについて話す。話しただけで表情が変わる▼いじめられる子だけでなく、いじめる子、そしてそれを見ている子。自由に詩に書かせれば、自分の胸の中を見つめた言葉が紡ぎ出される。例えば小学五年生の詩。<ブツブツ/ボソボソッ/クスクス/かげで言ったり/言われたり/心の中にいる/もう一人の自分がこわい>▼あるいは小学四年の男の子の詩。<人を泣かせた/いい気ぶんだった/でも少したつと/心配になった/しかし/いい気ぶんは忘れられない/次の日もいじめにいく/もう自分はとめられない/ぼくの心の中で/うずくまっている/君がいる>▼「ぼくのなかのきみ」と「あんたのなかのあたし」。言葉には、それをつなぐ力がある。


いじめは、子供たちの世界だけで起こっていることではない。会社の中で、地域社会の中で、家庭の中で、友人間の中で、ネットの中で・・・と人と人がつながりをもつ場であればどこでも起こっているし起こりうる。そして、その本質を谷川俊太郎氏は「あんたのなかのあたし」という言葉で実に的確に指摘していると思った。


私が若いころは、周りの人間と「違う」ことで個性を表現していたと思う。いかに人と違うか、に価値観を置く風潮だった。が、今は人と「同じ」ことを求める人が多いらしい。違うことで目立てばいじめられる、馬鹿にされる、といったところだろうか。「みんなちがって、みんないい」という金子みすずの詩がよく引用されているのも、右へ倣えができない人間へのいじめが背景にあると思われる。


しかし、考えてみれば、人は他人の中に自分と似たようなものを発見すると不愉快になることが多いのではないだろうか。


自分とは違うもの、自分が目指していても手に入れられないものを持っている人間にも不愉快さを感じるかもしれないが、「人の中の自分」への嫌悪の方がより根深いような気がする。自分の中にも存在するが自覚したくないもの、認めたくないものを他人の中に見つけた時、自らを責めるのではなく他人の中の自分を責める。人間にはそういうところがあると思う。


子どもたちの詩も、真剣に読むに値すると感じた。近いうちに入手して読んでみたい。


*「いじめっこいじめられっこ」の情報は、こちら

| - | 14:49 | comments(0) | - |
ある男の話<2>
14-0725

死ぬ数年前から、男の体調は悪くなっていた。肝硬変で入院してから酒をやめると約束していたが、妻がいない時に隠れて飲んでいた。ちょっと車の様子を見にいってくるといって1時間ほど家をあけることがあったが、そんな時は車の中に隠していた酒を飲んだ。下痢が続くようになり、仕事もほとんど入ってこなくなった。


ある日彼は猛烈な腹痛に見舞われ救急車で搬送された。S字結腸にガンがあり、その近くで消化物がつまって腸が破裂したのだ。緊急手術が行われ、ICUに入って危篤状態になった。敗血症を併発しており、明日どうなってもおかしくないと医師は妻に告げた。ガンは手付かずのまま残され、まずは敗血症からの回復が最重視された。


妻は葬儀のことまで考えていたようだが、彼は一般病棟に入るまで持ち直した。しかし、依然として重度の肝硬変とガンをかかえており、緊急手術の結果人工肛門をつけなければならなくなっていた。ひとまず落ち着いてから抗がん剤の治療をはじめ、一時はガンの進行が押さえられたかにみえたが、拒否反応が出始めた。医師の判断では、肝硬変がひどいので抗がん剤はこれ以上使わない方がいいということだった。


肝硬変に対する処置も行われていたが、あくまで現状維持を目標にするしかなかった。機能のほとんどを失った肝臓は有毒物質の分解ができなくなっており、アンモニア成分が脳にまわって起きる「肝性脳症」の症状も出た。わけのわからないことを言ったり、暴れたりするので、ひどい時にはベッドに拘束された。治療によりこの症状は次第に治まったが、家にいたころとは性格ががらりと変わったようになった。妻は毎日病院に通い、欲しいものはすべて用意し、人工肛門の交換を手伝い、くたくたになって帰宅した。


救急車で運ばれた病院にもいつまでもいられるわけではなかった。病院とは治る見込みのある患者が優先だ。介護が必要な病人であっても、手術や治療など病院として積極的な行いができる患者が優先され、そうでない患者には退院を迫る。次の病院が決まるまで入院していていいと妻は言われていたが、転院先が決まる前に退院せざるをえなくなり家に連れ帰った。


妻は大々的な模様替えをし、病室となる部屋を整えた。病人用のベッドやポータブルトイレを買い、できるだけ病人が快適に過ごせるよう工夫した。退院の日、抱え込むようにタクシーに乗せ、「一人で帰る」と言ってきかない男を見送った後大急ぎで自宅に帰った。男より先に着かなくてはいけないからだ。妻はなんとか間に合い、タクシーからよろよろと降りてくる夫を出迎えた。


夫が家に戻ってくると、妻の仕事はさらに増えた。食事はもちろん、ひっきりなしに求められる夫の要望をかなえるために動き、人工肛門の交換を手伝い、常に病室の気配をうかがった。また、次の病院探しをしなくてはならず、ケアマネージャーと連絡を取り合い病院探しを続けた。が、どの病院からも色よい返事はもらえなかった。介護型の病院しか受け入れてくれないのはわかっていたが、そういった病院でさえまだ60歳にもならない病人は最も後回しにする。妻にとって八方ふさがりの日々が続いた。


妻は藁にもすがる思いで、以前肝硬変で入院した病院に当たってみた。下痢が続くようになってからも診察を受けていたが、その病院はガンを疑うことをしなかった。また、かつての患者の救急搬送を断った。ある意味、それはその病院にとって触れてほしくないことだったのだろう。やんわりとそれに触れると、入院を許可した。自宅での療養生活は男にとってもかなりの負担だったらしく、男は素直に入院した。


救急搬送され入院した病院は大規模な病院だったが、今度はこじんまりした地域密着型の病院だった。男はその方がいいらしく入院後の機嫌はよくなった。体重も減り足も弱くなっていたが、調子がいい時には歩く練習などもしていた。しかし、肝硬変からくる腹水がどんどんたまりはじめ、歩くこともできなくなってしまった。


一日に何度も男は家に電話をしてきた。欲しいものを次から次へと言い、妻が用意したものが気に入らなければ別のものを持ってきてくれと頼んだ。妻はまた病院通いが日課とするようになった。患者側で用意しなくてはいけない紙おむつの重いパッケージを抱え、患者が飲みたい食べたいというものを買い、毎日のように病院に行った。「先は長くないと思うので、できるだけのことをしてやりたい」と妻は言った。自分自身への意地のようなものもあったのだろうか。


今の時代、一度入院しても3ヶ月しか同じ病院にはいられない。そろそろ次の病院を探さないといけないのだが、相変わらず見つかる希望がもてない日々が続いた。男は痩せに痩せて体重が40キロを割った。小柄な人だったがそれでも30キロ台というのは今どきの小学生並である。


腹水もたまり、ほぼ寝たきりになっていた。呼吸困難になり妻が急いで病院に駆けつけたこともあったが、男の命の炎はまだ細く揺らめいていた。


ある日の午前中、病院から家に電話が入った。容態が急変したのですぐ来てほしいという。その日は休日で医師がいなかったが、看護師が午前中の薬を配りにいった時はいつもどおりだったという。しかしその後呼吸が乱れるようになり、同じ病室の患者がナースコールした。


大急ぎで妻が駆けつけた時、夫の命はすでに絶えていた。救急搬送されてから4ヶ月、長くもあり短くもある入院生活は永遠に終わった。


男は自分の人生をどのように思っていたのだろうか。他人から見れば、哀れな人生かもしれない。逆に、献身的な妻を持ち幸せな人生だったのかもしれない。壮絶な人生だと思う人もいるかもしれない。しかし、一人の人間の人生について云々する権利は誰にもないし、その人生のすべてを見ることは誰にもできない。


梅雨明け間近の強烈な陽射しが降り注ぐ日、男は真夏の空に煙となって上り、やがて消えていった。ご冥福を祈る。


※「ある男の話」はほとんど人から聞いたことに基づき書かれている。筆者が知り得ないことは知り得たことよりはるかに多いだろう。よって筆者が持つ様々な主観的な要素は可能な限り排除したつもりである。


| - | 09:36 | comments(2) | - |
ある男の話<1>
14-0724

ある男が死んだ。享年58歳。老年と呼ばれるにはまだかなりの時間が残されている年齢だが、晩年の彼は70歳にも見えるほど衰えていたという。


死因は知らない。が、数ヶ月間入院しており、その際の病名は肝硬変と大腸ガンだった。肝硬変はかなり進んでおり、ガンよりも問題視されていた。肝硬変であるために抗がん剤が使えず、ガンは放置状態だったらしい。肝硬変であることは、本人と家族は数年前にわかっていた。短期間だが入院もし、決して軽い状態ではないことも知っていた。


肝臓への負担は、だいぶ前からのことだったのだろう。とても小食で酒ばかり飲んでいたから。正式な医者の診断ではないが、家族の目には明らかに「アルコール依存症」だった。本人も自覚していたと思われる。


自営で住宅の外装を請け負っていたので、忙しい時は毎日仕事だがヒマな時はほとんど一日中外出せず、家の中でテレビを見ながら酒を飲んでいた。昔から非常に痩せていたので妻は少しでも食べさせようと様々な工夫をし、酒もやめさせようとしていたようだが、結局のところ入院する数ヶ月前まで酒と縁を切ることはできなかった。


多くの依存症患者がそうであるように、彼もまた大きなトラウマをかかえていた。母子家庭で育ったようだが、その母親に幼いころ捨てられたのだ。母親は彼とその妹を連れ出し、「ちょっと用事を済ませてくるから待っていて」と言ったきり、彼らを置き去りにして戻らなかった。男と妹は何時間も母を待った。しかし母親は戻らず、彼らは養護施設に連れていかれた。妹を高校に行かせるために彼は働き、ようやく2人が社会人としてそれぞれ自立した時、母親が急に現れた。


子どもを捨てたというのに、母親は子どもなのだから面倒を見るのが当然とばかりに彼と一緒に暮らし始めた。彼が何故同居を許したのかはわからない。憎しみもあっただろうが、やはり母親が恋しいという気持ちは根強くあったのだろうか。


それに乗じたのかどうかは不明だが、母親は彼の収入に頼り、時には勝手に貯金通帳を持ち出して金を引き出すなどやりたい放題だったという。


そんなある日、彼は一人の女と出会う。後に結婚することになる女である。リフォーム会社に勤めていた時、一度彼はその女の家に飛び込み営業をかけたことがあった。その時は仕事にならなかったが、会社を辞めて独立したので、かつての営業先を再び巡っていた。女は母親と2人暮らしだった。昔彼が営業で訪れた時にはいた父親は亡くなっており、女2人の静かな暮らしが続いていた。家もかなりほころびが目立つようになっており、再び訪れた彼に修繕をたのむことにし、仕事の合間に会話を交わすうち、女と男は親しくなっていった。


彼らが結婚を決意した時、彼の母親は猛反対した。彼の収入に頼りきっていた母親は、自分の暮らしの安定を脅かされると思ったようだ。何度かの言い争いの末、彼は母と絶縁することに決めた。自分を捨てた母を今度は捨てる・・・復讐心があったのだろうか。それとも本気で親離れしようと考えたのだろうか。とにかく彼は女の家の籍に入り、名字を変えた。


女の母親は、夫に先立たれてから感じていた不安が消えるこの結婚を歓迎した。家にはやはり男がいないと・・・を何かにつけて言っていたという。それが女に潜在的なプレッシャーを与えることなど、たぶん思いも寄らなかったに違いない。家にまた「世帯主」となる男がいるようになったことを単純に喜び、なにかにつけて男を立てる姿勢をとっていた。


若いころから世間の厳しさの中で過ごした男は、仕事仲間にも近所の人たちにも「面倒見のいい人」として好かれていた。困っていれば進んで手を貸し、簡単な仕事なら採算を無視して請け負ったりもしていた。典型的な「外面のいい」人間で、大きな地震が起きた時など、近所の家をまわって無事を確認したりもしていた。「親切で頼れるいい男」が彼への評価だったようだ。


しかし、家の中では数々の問題が起きていた。たとえば経済問題。収入が不安定で、なかなか見通しがつかなかったし、仕事柄必要なものは多かった。自分がもっているものすべてを母親に託して縁を切った彼は無一文で養子に入ったから、必要なものはすべて妻が貯金を切り崩しながら買っていた。また、外面がいい反動なのか、家では殿様のように振るまい、縦のものを横にすることもなかった。


すでにアルコール依存症だったと思われ、仕事がない時は酒を飲み続け、時々パチンコをしに行き、時には飲みすぎてわけがわからなくなって妻の手を煩わした。


自分ひとりで完結しない仕事で、知りあいを下請けに使っていたりしたから支払いにも追われることがあった。経済観念が全くなかったわけではなかろうが、支払いなどをすべて妻に任せていたため夫婦の間では経済的なことに関する言い争いが絶えない時期があった。


また、よほど困っていたのだろうか。妻には言わず、妻の伯母に借金を申し入れ、手元に金がないと言われると有無を言わさない雰囲気で車に乗せて銀行まで連れて行き、金を借りた。あとからそれが妻に知れた時、夫婦は激しい言い争いをした。激怒した妻は夫の借金を速やかに伯母に返し、再びこのようなことをすれば離婚すると言い渡した。


「アルコール依存症」の症状なのか、時折酒乱気味にもなった。外で暴れてケンカになり、妻が迎えにいったこともある。酔っぱらって「いまどこにいるかわからない。家に帰れないから迎えにきてくれ」と電話してきたこともある。心当たりをさんざん探し見つけると、どこかで転んだのか血だらけで足下もおぼつかない。タクシーもいやだという彼をかかえて、妻はなんとか家に連れ帰った。


彼はまた、妻が家にいることを望み、外に出ることを極端に嫌った。仕事がある時もたびたび電話をしてきて、妻が家にいるかを確認した。結婚生活は16年間続いたが、その間妻は日常の買物くらいしか出歩けないようになった。もともと妻はパニック症候群気味で結婚前から電車など乗り物に乗れなくなっていたが、結婚後はさらに引き込まざるをえなくなった。結婚当初の数年間は、妻が電話に出なかったり不在だったりすると「浮気」を執拗に疑った。その病的な嫉妬心の裏側には、やはりかつてのトラウマがあったのだろうか。


つづく・・・



| - | 18:00 | comments(6) | - |
朝顔
14-0723

去年の夏、その頃住んでゐた、市中の一日中陽差の落ちてこないわが家の庭に、一茎の朝顔が生ひ出でてきたが、その花は、夕の来るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませた。

(伊藤静雄「朝顔」より)


朝顔は、私にとって夏の花の中でもどこか特別な思い入れがある花である。子どものころの夏を思い出せば、いつも朝顔の花があった。八十八夜が近づくと、狭い庭の隣家との境あたりに、父が細い竹で組んだ朝顔の支柱を作った。その下に母が種を蒔き、じきに芽が出た朝顔はとくに肥料などやったわけでもないのにぐんぐん大きくなり、夏休みが始まるころから秋口までずっと咲き続けた。


濃いピンク、紫、青、うすいピンク、白、絞り模様のもの、縁取りがあるもの・・・様々な色の朝顔が毎朝咲き、早起きして花の様子を見て数を確認するのが日課だった。朝露が降りた庭はまだかすかにひんやりしていて、澄んだ大気の中で咲く朝顔が大好きだった。


夏の花は一日花が多く、それがいかにも季節感にあっていると思う。中でも朝顔は、朝咲き始めたと思ったら昼ころにはもうしぼんでしまう。その儚さがいかにも夏の花という感じで、その花が夕になっても咲き続けているのを見た静雄が「悲しい」と表現した気持ちがよくわかるような気がする。


通常の日照条件であれば昼には凋む朝顔が、夕刻まで咲いている・・・そんな日当たりの悪いわが家しか持てない自分の貧しさへの悲しさと、そんな環境でも生い出で花を咲かせたものの凋むことがなかなかできずにいる花への哀れみ。そんなものを感じる。


昨今はとても丈夫で終日花を咲かせる西洋朝顔や宿根朝顔(琉球朝顔)が流行りのようだが、私はやはり昔からある平凡な朝顔が一番好きだ。あんどん仕立てにしたものが出回るが、どちらかというと地植えでのびのび蔓を伸ばし思い思いに花を咲かせている姿が朝顔にはふさわしいと思う。


去年、近所の畑の隅に美しい朝顔が咲いていた。凝った花ではない。その色がなんともよかった。ほとんど白なのだが、微かに青が溶け込んでいる。あるようでいてなかなかない色だと思い、秋になって種を少しもらってきた。毎年植えっぱなしにしており、こぼれ種で翌年も咲いているくらいの放置加減だから、少し種をいただいてもいいだろう、といういわけで。


種を蒔いたらいくつか発芽したので、5号鉢に2芽植えてバラ鉢の上に置いている。つるがかなり伸びてきたが、鉢植えだからか肥料が足りないのかどこか頼りない感じである。畑の朝顔は今年もたくましく育ち、うちのものとは雲泥の差が出ている。日当たりがいいし肥料もたっぷり効いているのだろう。


その朝顔とは別に、青山フラワーマーケットの店頭でわい性の朝顔を見つけたので育てている。買ったのは6月のはじめころだったか。その時は割いていなかったが、今月に入ってからぽつぽつと咲き始めた。いわゆる「曜白」タイプの花で、ラベルに表記された色名は「チョコレート」。薄い小豆色とでもいおうか、なかなか渋い色目である。株も小さければ葉も小さく、花もぽつりぽつりとしか咲かないが、毎朝花を見るのが楽しみになっている。


朝顔は夏の花というイメージが強いが、実は秋口までよく咲いている。西洋朝顔などはむしろ秋からの方がきれいに咲きそろい、肌寒くなる11月くらいまで咲く。秋の凛とした空気の中に咲く青い花は、思いの外美しい。昔からある日本朝顔は秋が深まるころまでには種を付けて枯れていく。それもまたよい。


私の朝顔は、早朝に咲き始めて昼くらいにはちゃんと凋んでいく。夕方に種がつかないようしぼんだ花を摘み、株への負担を減らしている。夏の終わりまでじっくり楽しみたいと思う。


*カラー写真は、「木と草と花と・・・」で。

| - | 10:10 | comments(0) | - |
22日は「猫に語らせる日」・・・7月担当:ゴン
14-0722
・・・きたいどおり「ひんやりボード」でくつろぐオイラ。ねむいにゃ・・・

みなさん、こんにちわ。ゴンですにゃ。あついですにゃ。しょちゅうおみまいもうしあげますにゃ。


よのなかわ、「つゆあけ」まぢからしいですにゃ。いえねこにとってわ、あめがふってもかんけいないけど、そとのなかまわたいへんなので、あめがすくなくなることわ、いいことですにゃ。


でも、オイラ、あついのにちょっとよわいですにゃ。わがやのねこのなかでわ、いちばんあつさによわい「せんさいなおとこ」ですにゃ。ふだん、オイラたちがいるへやわ、エアコンがきいてすずしいのでいいですにゃ。すずしすぎることもあるけど、そんなときわ、ダンボールのはこにはいったりして、こまめにちょうせつしていますにゃ。にんげんわ、「ねっちゅうしょう」にきをつけなくてわいけないらしいけど、オイラたちわ、おしえてもらわなくてもちゃんとできますにゃ!


あと、オイラにわ、つよいみかたがあるですにゃ。それわ、なんねんかまえに、オッサンがかってくれた「ひんやりボード」ですにゃ。アルミのあついいたで、それにのるとすずしいですにゃ。わがやのメス2ひきわ、「ひえすぎる」といってのらないけど、オイラわあいようしていますにゃ。なんでも、いちまんえんくらいしたらしく、だれもつかわないとオッサンがひがむので、オイラわせいぜいあいようしていますにゃ。きづかいのおとこですにゃ。


オイラがつかわないときわ、すみごんがあしのうらをのせて、「ああ、きもちいい」といっていますにゃ。「こうねんきしょうがい」で、あしのうらがほてるらしいですにゃ。オイラとはんぶんずつつかうこともありますにゃ。ふたりであいようしているので、もうもとわとっているとおもいますにゃ。


さいきんのオイラわ、としのせいか、いちどでたくさんたべられませんにゃ。だから、すこしたべてきゅうけいしていますにゃ。そしてまたたべにいくと・・・ないですにゃ!ないですにゃ!デブのみかんが、オイラがのこしたとおもって、むさぼりくったですにゃ!


このままでわ、あいつわどんどんデブになり、オイラわどんどんやせさらばえてしまいますにゃ。すみごんも、さいきんわかんししていて、オイラがのこすとすぐにちゃわんをさげてくれますにゃ。まったく、ゆだんもすきもないですにゃ。


そうそう、このあいだ、オイラわまた「びょういん」につれていかれましたにゃ。まる1にちしょくよくがないと、つれていかれますにゃ。


「びょういん」わすきじゃないので、オイラ、いつも「ささやかなていこう」をしますにゃ。でも、このあいだわ、わかくてきれいなおんなのせんせいがしんさつしてくれたので、オイラ、おとなしくしていましたにゃ。


かえってきてから、そのことをさんざんいわれて、「ゴンもすみにおけないねー」と、すみごんにいわれましたにゃ。オイラわ、やせてもかれてもおとこなので、やっぱりきれいなおねえさんわ、すきですにゃ。なんかもんくありますかにゃ!そのときわ、「てんてき」と「ちゅうしゃ」をされましたが、とくにわるいところわないといわれましたにゃ。しょくよくももどりましたにゃ。


これからどんどんあつくなりそうですにゃ。すみごんわ、なつによわいので、さいきんだらけていますにゃ。すぐにねてしまいますにゃ。すみごんがふとんのところにくると、オイラわいつもみぎがわにいってねますにゃ。オイラようの「まくら」(ほん)もちゃんとよういされていますにゃ。オイラがみぎがわにいると、まめこがやってきてひだりがわにきますにゃ。すみごんわ、「ねこにはさまれてあつい」といいますが、なんだかうれしそうですにゃ。にゃはは。


みなさんも、あつさまけしないよう、きをつけてくださいにゃ。らいげつわ、オイラのごはんをよこどりして、ますますデブになりそうなみかんですにゃ。おたのしみににゃ!


| - | 11:08 | comments(4) | - |
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