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日々の内側
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スポットライトの陰で
14-0131

ここ数日、STAP細胞のニュースでマスコミは盛り上がっている。既成概念にとらわれず研究を続けた若い女性の快挙は、同じ女性としても嬉しいし日本国民としても喜ぶべきことだと思う。優秀な頭脳が外国に流れがちであることを残念に思っていたので、このまま日本で活躍してくれればいいな、とも思う。


が、根が天の邪鬼な私のこと、顰蹙を買うのを覚悟で言えばこの騒ぎを手放しで喜ぶことはできない。明るいニュースはニュースとして素直に喜ぶべきだとは思うが、まばゆいばかりのスポットライトの陰にあるものの存在を忘れてはならないと思うのだ。


私は時々、進歩著しいテクノロジーを駆使すればこれくらいのことはできるだろうに、と思うことがある。ある分野が非常に発展しているのに、別の分野が驚くほど遅れている・・・なにかアンバランスだなと思うことがある。結局のところ、利権がからまない分野は日の目を見ることが少なく、一部の人たちの立場や懐にとって都合がいい分野にしつこいくらいのスポットライトが当たる・・・そんな感覚を覚える。


たぶん、私たちが知らないだけで、有益な研究は数多くなされているのではないか。が、タイミングの問題もあるとは思うものの、何かの力で潰されているような気がしてならない。


また、今朝の新聞でも伝えられているが、原発新設をめざす電気事業連合が自民党の議員に模範解答まで配っている。福島第一原発ではいまだに汚染水が流れ続けているというのに。何かあればあれだけの悲劇を産み、何かなくても廃棄物の処理がうまくできずにいる原発を新たに増設する・・・利権のためなら、何でもアリ!の態度に下劣ささえ感じる。


今回の新しい細胞にアンチエイジングを期待する声もちらりと聞こえたが、そんなに若返ってどうする!?などと思ってしまう。健康は誰もが望むもの、外見上の美は女性なら誰でも望むもの、なのかもしれないが、それにも限度というものがあるだろう。


だいぶ前から、主にアンチエイジングを目的とした化粧品には胎児や胎盤の細胞が使われているという話はあった。それが人間であれば由々しき問題であるが、もしそうであったとしても表には出てこないだろう。


5〜6才くらい若く見られるというのはまだ自然だが、60代なのに30代に見えてたら気持ち悪い。人間の欲望に限りはないのかもしれないが、それを限りあるものにするのが理性というものだろう。


何度も言うようだが、光あるところには必ず陰があるのだ。そして、光に目を奪われがちだが、そのすぐ隣にある陰は思っている以上に深く、濃い。陰を見ようとしない生き方は浅ましいと思う。


*1月も終わりか・・・はやっ!

*「木と草と花と・・・」、更新(昨日)

| - | 12:51 | comments(0) | - |
犬、猫、猫、猫・・・
14-0130
・・・Kさん宅の末っ子。サビ模様。カーテンの間から、鋭い視線でこちらを監視!・・・

昨日は以前からの猫友だちであるKさん宅にお邪魔してきた。久しぶり。前回は家人とお邪魔して1泊させていただいたが、今回は日帰り。が、犬の散歩にも同行させてもらい、その後は堂々たる体躯の猫たちを触らせてもらい、おでんまでごちそうになって帰ってきた。


猫好きが集まれば当然のように自分たちの猫についての話が多くなるが、その場では話だけになることが多い。犬のように連れ出すことがなかなかできないので、お宅にお邪魔しないと話に出てくる猫に会うことはできない。また、猫は自分のテリトリーに敏感なので、連れ出せたとしても緊張感を伴うので、ちょっとかわいそうだ。


私はさほど積極的に猫友だちのお宅にお邪魔するということはしないが、Kさんとは比較的古いお付合いなので、いつも甘えさせていただいている。


それにしても、Kさん宅のO君(オス・10才?)はでかい。体重はわが家のゴンの2倍はあるであろう。頭からしっぽまでも長い。身体の幅が半端ではない。が、アカトラ猫の常として、性格は温厚で部外者にもフレンドリーである。昨日は家人と仲良くしてくれて、なんとだっこまでさせてくれた。その重さに家人は驚いていたようだが。


犬の散歩もめったに経験できることではない。昔々、中学生のころ友人の家の近くでもらってきた白い犬がわが実家では最初で最後の犬となった。どこの家庭でもありがちだと思うが、「ちゃんと面倒見るから」と言って飼うことを許可してもらったくせに、結局散歩は親がやった。私や妹は気が向いた時だけ。全く子供ってやつは・・・


まだ畑や田んぼが多く残るKさん宅付近は、犬の散歩にはもってこいだろう。とにかく「土」がないと犬もかわいそうな気がする。また、たとえ10分でも15分でも、外を歩くというのは気分転換になるから飼い主にとっても有益なことだと思う。真夏や真冬、天候が悪い時は大変なこともあるが、健康にもいいだろう。


生き物と生活を共にするということは、元気なときは元気なときでその世話に手がかかり、やがて死んでいく姿を見なくてはいけないという運命がある。そして、飼い主は思う。もっと何かしてやれたのではないか、と。完全に満足がいくことは、もしかしたらないのかもしれない。心のどこかに「許してほしい」という気持ちを抱きつつ、彼らと過ごした年月の重みを大切に持ち続けることしかできない。


しかし、犬や猫だけでなく、この世にいきるものすべてについて同じことがいえるのだ。人間同士もまた然り。会うは別れのはじまりなのだ。そして、みなそれらを受け入れながら生きている。それならば、いい出会いがあっただけで幸運と思わなくては、と思う。


*なんだか、写真にフィルターがかかってしまったみたい(^^;)

*なんでなのか不明。教えて!iPhone!

| - | 07:59 | comments(2) | - |
「書くことの重さ」
14-0128

昨秋、いち早く前売券を購入して「今か今か」と待っていた映画「書くことの重さ 作家 佐藤泰志」をようやく観ることができた。


海炭市叙景」という映画を観て感動し原作を読んだことが、佐藤泰志の作品との出会いだった。とても面白く読み終え、その後いくつかの作品を読んだ。そして、どこがいいのかという説明をしにくいのだが、やはり他の作家とは違う雰囲気に惹かれていった。


「海炭市叙景」の「海炭市」は架空の町になっているが、あきらかの作家の故郷である函館を思わせる。そこで暮らす市井の人々の、一見穏やかに見える生活の中にある様々な葛藤、軋轢、愛憎、諦観などが淡々と描かれている。それまで自身や自身の周辺の人々を投影した作品が多かった佐藤にとっては異色ともいえるものだ。


佐藤泰志は、小学生のころから作家になることを目標にし、高校生の時にはすでに作品(「市街戦の中のジャズメン」)を書き、第5回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞している。その後上京し國學院大学に進み、同人誌「黙示」「立待」を発行し作品を発表しつづける。卒業後、アルバイトをしながら「北方文芸」で作品を発表しつづけ、「深い夜から」が第1回北方文芸賞佳作になる。上京から10年が経過したころ母親の体調がよくないということで函館に帰郷するが1年ほどして再度上京。学生結婚していたので、すでに4人家族になっていた。


佐藤泰志を語る時、よく持ち出されるのが芥川賞である。小学生のころ、すでに「芥川賞をとる」と文集に書いたが、5回も候補に上がりながら(「君の鳥はうたえる」「空の青み」「水晶の腕」「黄金の服」「オーバーフェンス」)結果的に一度も受賞しなかった・・・“不運”な作家というイメージを持たれがちなのではないかと思う。


芥川賞の件だけでなく、三島由紀夫賞も野間文芸新人賞も候補にあがりながらとれなかった。また、自死という死に方も佐藤のイメージを暗くしているように思える。


映画は、生前の佐藤と交流のあった友人、記者、教師などを取材したドキュメンタリーと、仲代達矢率いる無名塾の俳優、加藤登紀子らが演じる再現ドラマからなるもので、重厚なナレーションは仲代本人が引き受けている。


監督の稲塚秀孝さんは佐藤と同じ北海道出身(苫小牧)で、若いころ小説家をめざしていたが1年先輩の佐藤泰志の「市街戦・・・」を読み驚きと憧れを感じたという。自身は小説家をあきらめてテレビ番組制作にたずさわっていたが、訃報を受けて作品を読み返し映画の制作を企画したとのことだ。


映画の中で印象的だったのは、佐藤泰志と並んで私が最も好きな日本の作家としてあげたい堀江敏幸氏の言葉だ。


インタビューの一部らしく文脈全体を見ないとなんともいえないのだが、映画のタイトルにもなっている“書くことの重さ”について語っている。曰く、どのような仕事でも真剣に取り組めば、それは重い。自分も真剣に書き続ければ肉体的にも精神的にも不調をきたす、云々。


この言葉は、「佐藤泰志のみが「書くことの重さ」を抱えていたわけではない、誰だって重さに耐えているのだ」と言っているように思われ、佐藤の弱さを指摘しているとも受け取ることができる。また、「重さ」にこだわるインタビュアーへの反論かもしれないとも思える。


いずれにしても、堀江正幸の作品からはその「重さ」が感じられない。軽々と書いているとはもちろん思わないが。しかし、佐藤泰志の場合は、ふとした瞬間にどうにもならないほど重いなにかが横切るような感覚を覚える。それが個性であるともいえると思うが、2人の好きな作家の対照的な面を見たように思われた。


佐藤泰志は、晩年親しい友人に「いろいろ書いてきて、もう書くことがなくなってしまった」と苦笑しながら言ったという。あまりにも一途だったのだろうか。「書くこと」しか自分にはないのに、その「重さ」に耐えられなくなってしまったのだろうか。それとも・・・


ふと、鈴木いづみの有名な文章が頭に浮かんだ。

速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっているという気がする。細く長くか太く短くか、いずれにしても使い切ってしまえば死ぬよりほかにない・・・

(「いつだってティータイム」より)


「海炭市叙景」が映画化され話題になったことで、絶版になっていた佐藤泰志の作品が次々と復刊したことはありがたいことである。映画の最後に、佐藤の作品がこれからも読みつがれていくことを祈るとのコメントがあったが、私も少しずつ読み続けていきたいと思っている。


| - | 16:42 | comments(2) | - |
春の球根植物
14-0127

早春は球根植物が活躍する季節だ。秋咲きのものもあるが、私の好みからすると早春のものが一番かもしれない。寒さに縮こまってしまったような気持ちを、ふっと柔らかくしてくれるような気がする。


山野草の中にも球根性のものはあるが、やはり目につくのは園芸品種。が、原種あるいは原種に近いものに心惹かれるのが私の常である。


春の球根植物というと何を思い浮かべるだろう。近ごろは珍しい品種がどんどん紹介され、しばらく園芸品種から遠ざかっていた私には初めて見るものも多い。スイセン、チューリップ、ヒヤシンス、クロッカス、ムスカリ、くらいしか咄嗟には思い出さない。それでも、それぞれに多彩で「これがチューリップか?」と思えるような八重咲きのものや、珍しい色のものもある。


いいなぁと思うのは、スイセンとチューリップ。いずれも原種に近い、シンプルな花型がよい。私は、花は白い色が最上としているが、次に好きなのが緑か黄色である。スイセンもチューリップも黄色い品種が多いので惹かれるのかもしれない。特にスイセンは白、クリーム色、明るい黄色、オレンジを帯びた黄色、と明るい陽射しを思わせる色が揃っていていい。


写真は「テータ・テート」(読み方はいろいろあるようだ)というミニタイプのスイセン。ミニといっても、わが家のものは花茎の高さが20センチ以上はある。花は小さめで、そこがかわいらしい。


気温がまだ低いこともあって、咲きはじめてから1ヶ月は経っているがまだつぼみがある。もう1種類、白いスイセンがあるが、こちらはまだ芽が出たばかりなので咲くのはしばらく先になるだろう。


球根植物で少し困るのは、花の後だ。花が終わっても花がらを摘むだけでそのままにし、葉が枯れ始めたら暗いところに置いておき、ころあいを見計らって掘り出して日陰で管理し、秋になったらまた植える、というのが基本的な扱い方だと思う。が、保存したものを忘れていたり、秋になったら鉢の置き場がなかったりする可能性もあり、ここ数年は球根植物を買わないでいた。今年はスイセン2種類だからなんとかなると思うが・・・


そういえば、マンションに隣接する空き地でチューリップが咲いているのを見かけた時は驚いた。高いフェンスに囲まれ、夏はススキやオギなどが私の背丈より高く生い茂る場所で、草刈りの業者以外が入るとは思えない。誰かが意図的に植えたのではないとすると、一体どうしたのか。鳥が種を運ぶ(フンに種が混じっている)というのはあるが、球根はまさか運べないだろうし。


不思議なものだと思いつつ、今年の春も咲くかしらと心待ちにしている自分がいる。

| - | 21:30 | comments(0) | - |
盆栽の教科書
14-0126

山野草を育てはじめて間もないころ出会った「四季の盆栽」という本がある。いわゆるムックタイプの本で講談社のマイフルール・シリーズのひとつとして出版された本だ。著者は大宮盆栽村にある九霞園の初代園主である村田久造氏で、この本により私の「盆栽観」は大きく変わった。


山野草栽培を趣味とする人たちにもいろいろあって、展示会や専門雑誌などでは栽培の難しい高山植物を立派な「作品」としている人や、見事な数の花を咲かせる人や石や流木などを組み合わせた「作品」を発表している人たちがいる。すごいなぁと思う気持ちはあったが、なんとなく自分の好みとは違うような気がしていた。


そんな時出会ったのが「四季の盆栽」で、その辺でよく見かける草が見違えるように見える栽培スタイルに驚いた。以来、現在に至るまでこの本は私の「盆栽の教科書」になっている。


「教科書」といっても、ノウハウが詳しく書かれているわけではない。樹齢100年以上の立派な松や梅など格調高い盆栽の数々が美しい写真で紹介されているし、見事に持ち込まれた雑木も季節の合わせてそれぞれ掲載されている。が、私がとくに惹かれたのが「草」で、盆栽の添え草としてだけでなく、一般愛好家の参考になるものばかりだった。この本に出会い、私は「草物盆栽」として野草を育てたいと思うようになったのである。


巻末の実用特集で、鉢の種類や道具の解説、九霞園の名士録(吉田茂氏などそうそうたる方々)などが掲載されているのだが、特集冒頭の「培養ノート」がとても参考になった・・・というより目からうろこがはがれるような思いを経験し、今でも時折噛みしめるように読んでいる。実用的な培養のコツを解説してあるのだが、そこには九霞園の「盆栽哲学」がある。その哲学に私は強く惹かれたのだった。


「四季の盆栽」は第一刷が1988年なので、今からかれこれ26年前になる。それでもこの盆栽哲学は少しも古びておらず、2010年に発行された「盆栽 春夏秋冬」に引き継がれている。こちらの著者は村田勇氏。「四季・・・」の時は若林姓だったので養子に入られ二代目園主になられたのかもしれない。


この「盆栽 春夏秋冬」で驚くのは、前回の本よりさらに自由になっていることだ。より気軽に盆栽を楽しんでほしいという気持ちもあるのだろうが、もともと「盆栽になる木、ならない木」「添え草にふさわしい草、そうでない草」といった概念を超えた盆栽哲学は昔からのものなので、驚くほどのことではなかったのだ。が、実際、よく見かける園芸植物やハーブ、果ては野菜までが盆栽になっているのを目で見ると新鮮な驚きを隠しえない。


九霞園の盆栽哲学は、園のウエブサイトで紹介されているが、どれもいいので一部をご紹介しておきたい。


生き物と接する時,とかく愛情と言われるが,人間とは異なる時間軸を生きる植物と向き合うには,愛情ではなく捧げる祈りが欲しい。

余計な手を加えずとも樹形は木みずからが決するので,最低限の剪定で無駄を省いたら,後は時に任せる。ただし,どれほど人間の痕跡を消そうとしても,作り手の影は避けられず木に寄り添う。

近年における生活様式と意識の圧倒的な変化の中で,在来種にこだわることは得策でない。ただし盆栽としての一線に止まるために,鉢選びには慎重を期したい。

大きな木を小さく作ることが盆栽の面白みというのが世間の認識だとしても,型に押し込んで意のままにしようとした結果は,纏足と同様の奇形に近い。盆栽の理想は,小さな木が大きな景色に見えることではないだろうか。 

「人工美」に対する「自然美」とは枝の形や根ばりといった細部の形体を忘れることで初めて体験できるものだが,盆栽界は意味を知らずにこの言葉を安易に使い過ぎる。青空の美しさ,海原の雄大さをいうとき,人はそこに何らかの形体や意味を見出したり,まして算盤をはじいたりするだろうか。

自然はいつも人間の想像を超えてゆくから, 人工の枠をはめようとすると,木を愛で慈しむはずの盆栽が,超えようとするものと抑えようとするものの,単なるせめぎ合いへ堕落する。

*「木と草と花と・・・」、更新。今日の内容が内容だけに恥ずかしいかも(^^;)

| - | 15:28 | comments(2) | - |
近所の園芸店
14-0125

薔薇を育てはじめてからというもの、近所の園芸店にはあまり行かなくなってしまった。薔薇の苗は主にネットの専門ナーサリーかバラ園に付属する園芸コーナーで購入していたし、そもそも近所の園芸店には私好みのバラ苗がなかったからだ。


しかし、このところ再び山野草に手を出しはじめ、年始当たりから時々行くようになった。近所の、といっても区をまたぐので徒歩では少し遠いが自転車なら楽勝!同じ道沿いに2店舗あるのがありがたく、行くならいつもハシゴしている。


この2つの園芸店は私が子供のころからあって、実家にいたころも母と何度か行ったものだ。両店とも当時よりだいぶ変わったが、ガーデニングブームもあってかいまだに営業してくれていて嬉しい。


T園芸は多彩な品揃えで観葉植物ばかり置いた温室もあり、季節の花苗などをメインに扱っている。O園芸は花苗売り場を拡大したが基本的に盆栽専門で、時折驚くくらい安値の処分品がある。昔から造園もやっているようで、昔は小さな池に大きな錦鯉を泳がせていた。


ともに山野草は扱っているが数は少ない。だからいつもあまり期待していないのだが、やはり研究しているのだろう、T園芸は時々「あれ!こんなもの扱っているんだ」と思うようなものに出会う。山野草は専門店のオンラインショップで買うか、上野のグリーン会館で年に何度か行われる展示即売会で買うのが一番いいと思っていたのだが、そういったところで買うより明らかに安い価格で同じ品種が売られていることがあるのだ。苗の状態などが同等であればお買い得である。


O園芸に至っては、そもそも盆栽が専門なので立派な盆栽がたくさん並べられており、買うつもりはなくても見ているだけで面白い。盆栽は「持ち込み」(栽培年数)が命なのだが、置き場は限られているから処分したいものもいくつか出てきて当然で、「こんな値段で売っちゃっていいの?」というものが珍しくない。見切り品扱いなので手入れはあまりされていないが、きちんと手入れしてしかるべきところで販売すれば1万円以上はするのではないかと思われるものが千円台、二千円台で売られている。草物も少ないが扱っているところも私には嬉しい点だ。


それぞれの個性を活かしながら、これからもがんばって営業しつづけてほしい。売り上げにはあまり貢献できないが、細く長くお付合いしたいと思っている。


写真は去年O園芸で買ったスノードロップ。やっと花が開いたが、まだ寒いのでしばらくは楽しませてくれそうだ。


*左フレームのリンクを変更しました。ずっと忘れてた(^^;)

*「木と草と花と・・・」、時々更新しています。

| - | 17:28 | comments(0) | - |
当事者意識
14-0124
・・・三鷹・跨線橋下の掲示板。1月21日撮影・・・

都知事選もいよいよ大詰めになってきた。各候補者の立候補正式表明、記者会見が行われ、食い入るように見ていた方々も多かったことと思う。私は後でニュースを見た程度で、「当事者意識」が欠けているなぁと反省。都民ではないので今回の選挙については権利がないが、もっと真剣に考える姿勢を持たねばと思った次第だ。


あくまでも個人的な意見だが、私の目には“まともな”都知事として活動してくれそうな人は明らかである。“まともな”というのは、ごく普通の都民(あるいは国民)の声に耳を傾けようとする気持ちを持ち続けるということであり、政局や利権などよりもそれを重視する人であり、数々の理不尽と戦う意欲のある人であり・・・と、きれいごとばかりのようにも思えるが、今の政界を見るときやはりそのように考えてしまうのである。


できればその“まともな”候補者に当選してほしいと思う。都民ではないが陰ながら応援もしている。が、結果を予想すると当選はなかなか難しいような気がする。熱心に応援している人たちも存在し見習わなければと思いつつ、ここでも私は「当事者」になれないでいる。


前回の都知事選でもわかることだが、「この人に任せればどうにかしてくれるだろう」という感覚から、押し出しの強い、知名度の高い、言葉が巧みな候補者が当選しそうな気もするのだ。発言の裏にとても危険なことが隠れているとしても、目先の「頼もしさ」「カリスマ性」に目が鈍るというか・・・この予感がはずれるといいのだが。


結局、私たちが少しでも「当事者意識」を持たないと政治は変わらないのではないか。もし、自分たちの地域に原発が建設されたら。もし、近くに米軍基地ができたら。もし、日本が戦争に加わることになったら。もし・・・真剣に想像してみると、ある程度のことは見えてくるようにも思われる。


話は逸れるが、こういう時こそマスコミ各社のニュースの扱い方を観察するにふさわしい時期はないかもしれない。比較してみると、その会社の政治的スタンスが大ざっぱではあるが分かると思う。


*そういえば、ビッグイシューで「世界の当事者になってみる」という連載があった。

*今でも続いているのかな。毎回楽しみにしているのだが。

*といっても、なかなか買う機会がない。

*どこで売っているかあらかじめ調べておかないとダメですな。

| - | 18:36 | comments(0) | - |
小鉢豆鉢
14-0123

盆栽の世界には「小品盆栽」という分野があって、手のひらに乗るくらい小さな盆栽を愛好する人たちがけっこうな数存在する。住宅事情を考えても、小さな盆栽ならマンションのベランダでもいくつか栽培することができるから、趣味にしている若い人もいるようだ。


盆栽に限ったことではないが、小さいからといって格が下がるわけではない。権威ある盆栽の賞の対象にはならないのかもしれないが、長い年月持ち込んだ手入れのいい小品盆栽はなかなかのものであるし、商品として販売されているものを見てもそれなりに高価である。


小品盆栽に使う小さな鉢は、作る方もおもしろいのかデザインもいろいろで見ているだけで楽しい。プロの盆栽鉢作家だけでなく、素人の趣味として作っている人もいてほほ笑ましい雰囲気をもつ鉢もある。


小鉢よりもさらに小さな豆鉢というものもある。とにかく小さな物が好き、という人はけっこういるようで、「こんな小さな鉢に何を植えるのかしら」と思うほど小さな豆鉢もある。植物を植えなくても鉢だけでかわいらしいので、コレクションしている人もいるのだろう。


けっこう昔になるが、陶磁器に興味を持った時期があり(今でも興味はあるがほとんど買わない)、好きな土物を中心にいろいろ見たり探したり買ったりしていた。だから、鉢についても「器」として鑑賞に堪えるものという基準で見ており、以前のようにはまらないよう気をつけねばと思っているところだ。


植物だけのことを考えればどういう鉢に植えればいいかはだいたい分かる。が、それが味も素っ気もない鉢だとどうしても落ち着かない。それぞれの特質を把握した上で、ある程度その特質に逆らうような鉢を使うこともある。枯れてしまっては元も子もないので極端なことはしないが、水やりや置き場所である程度調整することはできるので、試行錯誤しながら植物と鉢とのコラボレーションを楽しみたいと思っている。


写真はどこで買ったのかも忘れてしまった昔のものや、最近たまたま見かけて入手した小さな鉢たち。どれも数百円から千円台の手ごろな価格のものなので気楽に使ってみたい。中央のコロンとしたかたちの豆鉢の直径は500円玉くらい。豆鉢植えは水切れしやすいので、大きめの皿に砂を敷き、砂に鉢が半分埋まるくらいにして水やりする。鉢の中の水がなくなっても砂の中の水分があるので枯らす危険性が少なくなるのだ。


何を植えるかはまだ未定だが、こぼれ種で芽生えた小さな苗などを選んで植えてみようかと思っている。小さな小さな楽しみである。

| - | 15:21 | comments(0) | - |
「カネ」と「評価」
14-0122

昨日帰宅してメールチェックすると「犬と猫と人間と2」ニュース11号が届いていた。さほど頻繁ではないが、映画の公開を終えてからも時々届く。映画への反響であったり、作り手側の近況であったり内容は様々だが、自分たちの作品を大切にしている姿勢が感じられて毎回楽しく読んでいる。


今回のメールの中で「DVDを制作するに当たって特典映像に加えるために取材した福島県飯舘村に住む犬猫たち・・・」という文章に行き当たり、そういえば映画は観たがDVDとして販売されるのか(前作は販売された)と期待がふくらんだ。各地での上映会を募集しているので、そのためのDVDなのかもしれないが、ぜひ「商品」として

の販売もしてほしいものである。


私はこの映画に限らず、自分が評価し今後も奮闘を期待したいものに関してはできるだけ「カネ」を使うことにしている。間に大手企業などが入っているとべらぼうなマージンを取られている可能性もあるので考えるが、小さな会社や個人に対してはうすっぺらい財布のヒモを緩めて「カネ」を出す。


日本人には「カネは汚い」という意識がどこかにあって、時として私もそれに共感するのだが、「作品」や「個人の活動」の評価としての「カネ」は汚いものではなく、受け手にとって励みになるものだと思っている。


「すばらしい!」「ステキ!」「いい感じ!」と言葉で言うのは簡単だが、それだけに終始するのではなく、積極的に「カネ」を使っていかないと、大手資本の中で埋もれてしまいかねないとの危懼もある。また、たいしたものではないがモノづくりをする立場としても、「カネ」は明確な評価であり嬉しいものなのである。


たとえば本にしても、大手出版社が扱うものは印刷部数も多い。ゆえに当たり前だが単価は安くなる。が、小さな出版社だとそういうわけにはいかず、価格は高くなりがちだ。が、本当にその価値を認めるなら、私はできるだけ買おうと思う。図書館を利用すれば毎月の書籍代が節約できるとも考えるが、本当に好きな本はやはり「カネ」を出して身近に置きたいのである。そもそも、図書館にないことも多い。


自費出版については、ほとんどの利用者がそれで稼ごうとは思っていないだろう。価格は「一応」設定する決まりになっているらしいが、元手を取り戻そうとしたらべらぼうな価格になるかもしれず、「とりあえず価格を印刷しておく」程度のことになっていそうである。が、もし興味を持ったり価値を認めていたりするなら、少なくとも表示されている価格分の「カネ」は払うのが常識であると私は考えている。自費出版なんだから「タダ」でもらって当然という姿勢は無礼だと思う。


最近よく利用する横浜のジャック&ベティも応援したくて「カネ」を払っているところのひとつだ。私好みの映画をよく上映してくれるということもあるが、大都市の大きなシネマコンプレックスに負けるなよ!という気持ちもあって会費を払って会員になっている。毎月一度、近々上映される映画のフライヤーとスケジュールが郵送され、手作り感いっぱいの「KAWARA」も楽しい。


人のことはともかく、自分も「カネ」を出してもいいと思ってもらえるような「仕事」を死ぬまでに一度はしてみたい、しようとしなければ、と思う今日このごろ。

| - | 10:58 | comments(4) | - |
なつかしの跨線橋
14-0121

ふと思い立って三鷹に行ってきた。前に何度か書いているように、三鷹は以前住んだことがある街である。引っ越してから何年経ったのか・・・息子が3才の時だったと思うので、もう20年以上前ということになる。


それから現在に至るまで、三鷹の駅で下車したのはわずか2回。しかも、そのうちの1回は駅前の三鷹市美術ギャラリーに絵を見に行き、見終わったらそのまま帰ってきたので街を歩いてはいない。もう1回は引っ越してから10年くらいしてからだったと思うが、カメラを持っていろいろな街を歩いていたころ。以前住んでいたマンションや散歩コースだった玉川上水あたりを歩き、商店街の裏道にある蕎麦屋に行ったと記憶している。


今回の第一目的は、跨線橋を見ることだった。数年前、テレビでちらりと見てなつかしく思って以来、行こう行こうと思いつつ先延ばしにしていた。


本当になつかしい。三鷹駅北口からわが家までの最短コースにある橋で、幼い息子を連れてよく上った。当時息子は電車や自動車がとても好きだったので、行き来する様々な電車を見飽きることがなく、何かにつけて連れていったのだった。


あらためて「跨線橋」を調べてみると日本各地にあるようだが、三鷹の跨線橋は歩行者専用であり、中央線快速、総武線、東西線、特急の「あずさ」や「かいじ」などバラエティに富んだ車両を見ることができた。電車庫を見下ろす場所にあることも特徴のひとつといえるかもしれない。


この橋は昭和4年に作られたそうで、武骨な鉄骨がむき出しになった姿も私好みだ。階段はコンクリートだが、粗目の砂を使ったのか長年の使用でところどころ欠けていたりする。小さな子供連れの時は注意を要したのだが、今見るとなんとも味わいのある階段だと思えてくるから不思議である。


私はいつも線路の北側から上っていたのだが、橋を渡って南側の階段を下りると小さなプレートがあり、太宰治が時折友人を連れてこの跨線橋に来た云々が書かれていた。三鷹は大宰終焉の地であり墓所もあるので、この跨線橋も「文学コース」のひとつに加えられているようだ。


ごく自然に昔のあれこれを思い出しながら歩いていた。目線を同じ位置にするにはしゃがみ込まなくてはいけなかった息子も、すでに170センチを超えて私の手元から飛び立った。3才までなので彼には記憶がほとんどないかもしれないが、私が見る風景には常に小さな息子がいた。


それにしても商店街の変わり様は半端ではなかった。かつてあった店はほとんどなくなっていた(新しくできたビルにテナントとして入っているのかもしれないが)。私があれから20才近く年を重ねて変わってきたように、街もまた変わっているのは当然のことなのだろう。淋しいとは思わなかった。


以前住んでいたマンションの近くも住宅がかなり増えていた。北側は通りを隔てて植木の畑だったり空き地だったりしていたのが、今出はほとんど一戸建ての住宅が建っている。


しかし、南側は市の遊歩道なのでほとんど変わっておらず、部屋から見下ろした桜も大きくなっていた。窓から見えた小さな公園もほとんどそのままで、ベランダからそこで遊ぶ息子を見下ろしたことを思い出し、公園から住んでいた部屋の写真を撮ってみた。今日は穏やかに晴れた日で、洗濯物がたくさん干されていた。それがなんとなく気持ちを明るくしてくれて、ああ来てよかったと思える一日になった。

| - | 20:13 | comments(0) | - |
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