この話題についてはもっと前に書こうと思っていたのだが、なにせテーマが重くしかも次から次へと湧き上がる連想により寄り道なんぞをしていたので遅くなってしまった。本当はもう少し考えてから、と思ったのだが、とりあえず年が改まらないうちにと今日アップすることにする。
「癩」という言葉を知っているのは、ある程度の年齢以上の人たちだろう。若い人は読み方さえわからないかもしれない。今では「ハンセン病」という名称になり、きわめて伝染力の弱い、そして治療法が確率した病気である。
が、それ以前はこの病気を発症した家族がいるというだけで恐れられ、嫌われるほど「むごたらしい病気」であった。たぶん母親から聞いたのだと思うが、私も子供のころに「顔や手足がどろどろに溶けるようになってしまう恐ろしい病気」として癩(らい病)を認識していた。もし自分がその病気に罹ってしまったら、と思うだけで悪夢を見ているような気がしたし、できるなら罹患者には会いたくないと思った(実際に会わなかったが、子供とは残酷なものである)。
すでに身近なところでその病を得た人はおらず、知らないうちに忘れていた。そして、知らないうちに病名が「ハンセン病(ハンセン氏病)」に変わり、もはや恐るるに足りない病気になったということだけは耳にしていた。しかし、それさえほとんど忘れて
いたのだが、文学や映画の中でふと出会うことがあり再びその恐ろしさを思いだしたりしていた。今となってみれば恐ろしいというよりも悲しい病なのであるが、外見を著しく損なう病ゆえ、「恐ろしい」という印象がぬぐえないのだ。
「癩」というと、今までは映画「砂の器」と小説「わたしが・棄てた・女」(遠藤周作)を連想していた。「砂の器」については以前にも書いたような気がするが、今回また読み直したり見直したりしているので後日書きたいと思う。
しかし、先月だったか先々月だったか(かなりアバウト!)ある本を読み始めて「北条民雄」という人物を知った。知るのが遅すぎたという大きな悔いを感じながら、著作と伝記を注文。
伝記の方が早く到着したので、まず高山文彦氏の力作「火花〜北条民雄の生涯」から読み始め、一気に読み終えた。北条民雄の代表作である「いのちの初夜」を含む文庫(古書)が届き、そのめくるめくような内容に圧倒されながら読み終えた。そして読み終えてすぐ再読しはじめてまたすぐに読み終えた。何度も何度も読み直さないと冷静に読めないような気がしたし、今でもそんな気がしている。
「いのちの初夜」は、20歳でハンセン病を発病して隔離施設である「全生園」に入ったその日を描いた短編である。
当時新しく入園した者は、病状を検査するため重症患者たちを集めた建物にひとまず入れられたようだ。北条自身はまだ病気が見つかったばかりであり外見もほとんど普通の人と同じである。足の一部にマヒを感じている他はとりたててハンセン病らしいところはない。しかし、周囲を見回してみると・・・
23歳(執筆当時)という若さである。文学への熱い思いもある。しかし宿痾ともいうべき病に罹ってしまい、目の前にいる「これが人間か」と思えるほどひどい患者を見れば、自分の将来は真っ暗闇だ。何度も死ぬことを考える。首をくくるにふさわしい
木を探したりもする。しかし死ねない・・・
北条民雄にとって幸いだったと思える数少ない運命に、川端康成との出会いと同病の友とのふれあいがあると思う。「藁をもつかむ」思いで北条は作品を川端に送り返事を求める。
「きっと返事を下さい。こうしたどん底にたたき込まれて、死に得なかった僕が、文学に一條の光を見出し、今、起き上がろうとしているのです。きっと返事を下さい。先生の御返事を得ると云う丈のことで僕は起き上がるころが出来そうに思われるのです。」
ハンセン病患者(当時は癩者)が手を触れたものにさわるだけで病気がうつる、と云われていた時代。北条は手紙が完全に消毒されていることを書き添えている。
手紙を受け取り北条の才能を見抜いた川端は、すでに名の通った作家として忙しくまた悩ましい日々を送っていたにもかかわらず彼を励まし、才能をさらに成長させるための助言を惜しまず、作品発表の場を与えつづけた。そして北条が亡くなった時、全生園にまで出向いた。この師がいなければ、北条民雄という作家は生まれていなかったのかもしれないし、彼の作品を読むこともできなかったかもしれないと思うと、私は川端康成観を新たにせざるを得なかった。
書きたいことはまだまだあるが、このところ長文続きではあるし、また私が長々と書くよりも実際にいろいろ読んでもらった方がはるかにいいと思っている。今日書かなかったことは、いつか機会があればまた書きたい。
*「いのちの初夜」は青空文庫でも読むことができる。
*「独語〜癩文学といふこと」も読める。
*友人であった光岡良二著「いのちの火影 北条民雄覚え書」も読みたいが絶版。