CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< December 2013 >>
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

Interior

日々の内側
copyright sumigon all rights reserved
猛烈な反省をスプリングボードに。
13-1231

一年があっという間に過ぎていく。年末感がどんどん薄れている昨今だが、やはり一年の最後の日にはこの年を自分がどう過ごしてきたか振り返る。「我ながらよくやった!」と言えるなら万万歳だが、現実はその真反対に近い。


「来年は生き方を変えよう」と去年の大晦日に書いたが、全くといっていいほど変えることができなかった。たいていの場合、言い訳はいくらでもできるが、絶対に言い訳してはいけないことやしたくないことがある。言い訳し、自分を納得させることで物事がいい方向に向かうこともなくはないが、また同じことの繰り返しになってしまうことも多い。


今年こそやり遂げたいことがあったが、ほとんど手をつけていない。やりはじめればどうにかこうにか形になりそうな気もするが、手がつけられずに終始した一年であった。私は何を恐れているのだろうか。恐れているのではなく単に怠惰になっただけではないのか。様々な思いが巡る。


自分が不甲斐なく、情けなく、歯がゆく、危うく、眠れぬ夜が何度もあった。が、少しでも納得して自分の人生を終わらせるためには乗り越えていかねばならないものがたくさんある。


世の中を見回してみても、理解できないことばかりが目につく。私は未来のために、子供たちのために、というような考え方はしないが、それでもそんな世界に生きていることがたまらなくなることもある。


希望をもつのはいいことだが、それには何かを思い込む必要があるように思う。自然のうちに希望を抱くことができない時代。個々の暮らしにはそれぞれささやかな希望や幸せがあると思うが、そんな幸せを取り巻く世界がどんなものなのか・・・もう少し多くの人たちに、現実を冷静に見渡す姿勢を持ってほしいなどと私が言うのはおこがましいか。


反省ばかりの一年であった。が、反省するなら猛烈に反省しなければならない。そうでなければ、生来怠け者なのでこのままグタグタと人生を終えてしまいそうである。この反省をスプリングボードにして来年は少しは地上から飛び上がってみたい。どれだけ強く踏み込めるかはわからぬが、とにかく踏み込むこと。それを来年の自分に課したい。


さよなら、2013年。

| - | 06:22 | comments(2) | - |
お気楽主婦
13-1230

仕事部屋、廊下、トイレ、洗面所、階段、の掃除が終わったので、もう今日はやめっ!階段の掃除はずっと中腰スタイルなので腰が・・・(T.T) 昨日重いもの(壊れたG4)を持って階段を上った時、腰の力がするっと抜けるような感覚を覚えたが・・・足腰は丈夫だと思っているが、この年になれば過信は禁物だ。


さてさて、家人がときどきのぞき見(!)しているサイトがおもしろそうなので、私ものぞき見してみようと思い検索してみた。ブログなのだがタイトルはうろ覚え。たぶんこんな感じだったはず、と検索したが見つからない。検索キーワードは「お気楽主婦」だ。


見たいブログは見つからなかったが(「お気楽主婦」ではなく「○○な主婦」だった)、ヒット数の多さにちょっと驚いた。世の中には「お気楽主婦」がこんなにたくさんいるのかー!もちろん、ユーモアのつもりで、というのもあろう。楽しそうな方がいいじゃない?という軽い気持ちでつけたタイトルもあろう。が、それにしても・・・主婦という立場がお気楽だとは思っていなかったので、一瞬だが目が点になってしまった。


まあ、中には本当にお気楽な人もいるのだろう。働かず亭主の収入だけである程度以上の生活をゆったり送り、家族の生活や健康にこれといった心配事がなければお気楽な毎日なのかもしれない。が、たいていはどこの家庭にも多かれ少なかれ何事かはあり、主婦たるもの心配事が絶えないというのが実情だと思っている。


件のブログだが、なぜ「お気楽主婦」だと思ったかというと、内容がほとんどそんな感じだからだ。少なくとも私がかいま見た内容に関しては、どこかに友人と食事に行ったとか、娘と旅行したとか、懸賞にはずれて残念とか、酒は何を飲んだとか・・・まあ、そんな感じだ。


しかし、読んでいたら息子が大学を卒業してから4年以上ニート状態だったことが判明(そういう記事があった)。今は少し仕事をしているようだが、やはりお気楽に見えてもけっこう大変だったのねと思った。やはり子供のこととなると気掛かりがあれば気分が重いし、何をしても心から楽しむことができない。そう思うと、そんな心配事をほとんど出さずにお気楽な内容だけのブログを続けているとは何というたくましさなのだろうという感慨さえ覚えるのである。


私も息子のことではいろいろあったし、それ以外でも精神的に晴れやかではない日々の方が多い。ブログにはあまりそういったことは書かないことにしているが、かといってお気楽に終始することもできぬ(というか、そもそもお気楽な性格ではないのかも)。


いずれにしろ、大阪のオバチャンにはかなわんわ、と思う東京のオバチャンであった。やれやれ。


*大阪には、こんなアイドルもいるのね・・・

*ここまでくると楽しいね。さすが大阪(-_-;)


| - | 16:38 | comments(0) | - |
ああ、大掃除!
13-1229
・・・ここまでになったら、もう手が付けられないかもしれないなぁ・・・

毎年毎年、「普段からもっとちゃんとやっていれば・・・」と思う。数年前から、「年が改まるといってもいつものように一晩明けるだけじゃん!」というズボラな発想もむくむくと沸いてくるようになった。そして、年賀状をやめたように、あと数年したら「大掃除」なるものもやめてしまいそうな気がしている。


昨日は風呂の掃除をやった。キッチンの一部整理もやった。今日は洗面台周辺。仕事部屋に関しては、10月にMacを新しくして不要になったOA機器を処分する時にけっこう整理したのであとは掃除機をかけるだけになっている。


問題はキッチンとリビングなのだが、こればかりは私1人の手には余る・・・というか、やれといわれれば一人でもやるのだが、後になってあれはどこに、これはどうしたと云われても覚えている自信がないので、明日一斉にやることにしている。


一斉に、といってもわずか1日だけのこと。やれることには限界がある。徹底的にやろうという意欲はすでにないので、とりあえずホコリやらヨゴレやらをできるだけ落とし、ゴチャゴチャ感をできるだけ整理し、床をきれいにするくらいかな。猫を3匹飼っていると、どうしても家屋が傷むがそれは仕方ない。かなり大目にみることにしている。


31日は全体の掃除機かけと玄関掃除くらいにして、買物に行き、夜はゆっくりしたい。といってもテレビはつまらない番組ばかりだろうなぁ。レンタルDVDでも借りてこようかとも思うが、同じことを考える人はけっこういそうな気がする。見たいものがあるかどうか・・・ま、成り行き任せの年末である。

| - | 17:27 | comments(0) | - |
フィギュア・スケート
13-1228

ソチ・オリンピックが間近になって、ウインタースポーツ関連のニュースがにぎにぎしい。中でも、華やかなフィギュア・スケートの大会については、日本人選手が活躍しそうだということもあり大きく取り上げられている。


実況番組はほとんど見ないのだが、フィギュア・スケートについては少し思い出があって気にならなくもない話題である。つい先頃ロシアの大会でプルシェンコ選手がSPこそトップだったものの総合2位になり、オリンピックは若い人に譲ると言ったとかいうニュースもかいま見た。クリスマス前に行われた全日本選手権は男子のSPだけ録画で見たが、羽生結弦選手の演技を見て久しぶりに感動のようなものを覚えた。


バレエに関してもそうなのだが、フィギュア・スケートについても私は女子にはあまり興味がない。男子のダイナミックな演技を見ている方が気持ちよく、先にあげたプルシェンコ選手の全盛期の演技にはいたく感銘を受けた。今回、日本の代表選びはなかなか難しかったようだが、羽生選手は文句なく現在日本の男子では圧倒的な力を持つ選手だと思う。


彼が素晴らしいと思うのは、あの両性具有的なしなやかさと難しい課題に真摯に向かう姿勢だ。私だけなのかどうかはわからないが、演技の中でジャンプに取り組む時に「さあ、飛ぶよ、飛ぶよ」と前もってあからさまにわかるような演技は好ましくない。ジャンプの難易度がどんどんあがる昨今、そんな意見は無謀かもしれない。が、私はプログラムの流れのなかでごく自然にジャンプにもっていく姿に「美」を見る。羽生選手にはそれがあるように思えるし、19才という若さもあって今後おおいに期待したいと思っている。


スポーツにはあまり積極的にかかわらない私ではあるが、フィギュアはちょっと特別な存在でもある。というのは、小学生のころ、ほんの数ヶ月間ではあるが教えてもらっていたからだ。もちろん選手になる目的ではなく、ただ「まともに滑ること」を目的とした初心者コースだったが。


現在はもうやっていないようだが、当時は代々木の国際競技場(第一体育館?)は冬季に限りアイススケートリンクになり、一般開放されていた。9時か10時か、それくらいからだったように思うが、私が通っていた「スケート教室」はその前の時間を使うもので、まだ暗いうちから妹と二人でスケートシューズを持って家を出た。


冬のことだからとても寒かった。夜が明けたばかりの渋谷の町を二人で競技場まで急ぐ。公園通りにはまだパルコもなくて、ひっそりした朝の坂道を二人で上っていった。3ヶ月くらいのもだったと思うが、楽しい思い出だ。


習ったのは基本的な姿勢とエッジの扱い方くらいだっただろうか。初めてスケート靴を履いてリンクに上がると、バランスをとるのが精いっぱい。エッジを前後に動かして前に進もうとするが、それではうまく滑れないのだ。肩の力を抜いて、エッジは真横に出す(横に蹴る)。単純なことだが、それをしっかり身に付けるとバランスよく前に進むことができるのだ。


結局、バックのクロスくらいまでで教室は終わりになった。が、中学生になって友達とスケートに行く機会が何度かあり、スポーツが得意とはいえない私が上手に滑ることができてなんだか嬉しくなったものだった。自分の靴を持っているということもなんとなく誇らしかった。通わせてくれた親には今でも感謝している。


中学校を卒業して以降、スケートは全くやらなかったが大学に入って一度屋外のスケートリンクに行った。なんとか滑れた(-_-;)その後子供を産んで家族で行った。その時もなんとか滑れた。子供のころ覚えたことは忘れないのだろうか。が、もし今行ったらどうなるか全く想像ができない。次の日筋肉痛になるのは目に見えているのだが・・・(-_-;)


| - | 21:16 | comments(0) | - |
冬を愛する人は
13-1227

ここ数年、春と秋が短くなって冬と夏が長くなった・・・という声を聞く。


春夏秋冬それぞれの定義も難しいのだろうが、実感として私も同じように感じている。長い冬が終わってそろそろ春めいてきたなと思い桜を楽しんだと思ったらすぐに梅雨でムシムシ。その後はジリジリと夏が続き9月になっても真夏日。10月になってようやく秋めいてきたなと思ったら11月にはもう冬の気配。そんな感じ。


冬好きとしては、冬が長いのは一向にかまわないのだが、夏が長いのは困る。冬長く、春と秋はほどほどで、夏が短い。そんなのが理想かな?


このブログでも何度か書いているので、最近では知人にも私の冬好きが知れ渡っているようだ。が、冬が好きという人は私の周りにはあまりいない。むしろ夏好きの方が多いくらいである。私の周り、ということは年齢的にもある程度長じている人が多いから、寒さが身体にこたえるということもあるのかもしれない。しかし、私についていえば年々寒さには強くなってきており、逆に暑さには弱くなり一方なのだ。身体が気持ちにつきあっているのだろうか。


花も緑も少ない冬だが、よく見ると木も草もちゃんと春の準備をしている。あるものは根元に小さな固い芽を持ち、あるものは冬芽を風に揺らしている。眠っているように思えてもそれは仮の眠りであり、力を蓄えながら生長の季節に備えているのだ。


そんな冬芽を見ていると、植物たちの強さや健気さに小さな感動を覚える。そして、来るべき春にみずみずしい若葉を展開する様子を想像して幸せな気分になる。実際に春になってそんな様子を見ても感動するのだが、冬の間の想像の方がなお鮮やかなのは何故だろう。


北風の中にいると身が引き締まるような爽快さを感じる。もちろん寒いのでじっと立ったままではさすがに辛い。が、歩いていれば血は巡り気持ちもすっきり。すぐにトイレに行きたくなるので冬の長時間散歩は難しいのだが、それさえなければ2、3時間は歩きたい。


そういえば、ふと思い出した「四季の歌」では「冬を愛する人は心広き人 根雪を溶かす大地のようなぼくの母親」となっているが、果たしてどうなのだろうか。母親らしいところはあまりないような気がするし、昨日自分の偏屈さを書いたばかりなので当てはまらないような気がしないでもない。

| - | 10:36 | comments(0) | - |
内緒話はいやなんだな・・・
13-1226

昨日仕事帰りの電車の中で、若い女性3人組を見かけた。夜11時少し前の時間だったので、仲良しがどこかで食事したか飲んだかしたのだろうか。同じ店のショッピングバッグを持っていたので買物がてらに。


電車は空いていて、私の目の前の座席に座っていた。3人横並びというのは案外会話しずらく、真ん中と右、真ん中と左の2人の会話になりがちだ。が、普通は会話していない側の人も聞こえるくらいの声で話すと思うのだが、昨日は真ん中の子と右側の子だけが話しており、しかも口に手を当てながらなので傍目には左側の子を無視して内緒話をしているように見えた。


見えただけで、けっこうそれがいつもの状態なのかもしれない。左側の子も私が気にするほど気にしていないのかもしれない。心持ち淋しそうに見えたのは、私がいわゆる「内緒話」が嫌いだからなのかもしれない。


そんなことを考えながら3人を見ていたら、あることを思い出した。もう2年以上前になるかもしれない。


このブログに内容には触れずただメールアドレスを教えて欲しいという書き込みがあった。多くの人がそうしているように、メールアドレスは安易に公開すべきではないのでこちらでは分かるようにしていない。会ったこともないし今まで書き込みをしてくれた人でもないので少し迷ったが、どこかせっぱ詰まった感じがしたので、@を別の記号に変えたアドレスを返信に記載し、その人からメールが来た時点でコメントを削除した。


メールを読むと、他の人に自分のコメントを読まれたくないという。ブログの運営会社によっては管理者だけが見られるコメントを書き込めることもあり、それをやりたかったのだろう。私もそれは知っていたが、自分のブログでそればできるかを確認していなかったし、またするつもりもなかった。もし設定できたとしてもするつもりがないからだ。


何故コメントを読まれたくないのかを聞いてみたが、私には納得がいかなかった。というより、その人にとっては大きな問題なのかもしれないが、私にとってはそうでもなかった、と言った方がいいかもしれない。ブログのコメントに対する私の考え方を伝えた上で、私と個人的に話がしたいのであれば、メールにしてほしいと伝えた。が、それ以来メールは来ない(-_-;)


以前にも書いたかもしれないが、少なくとも自分のブログはオープンな場にしたいと思っている。かなり大げさだが、私はインターネットというメディアを使って全世界に物を言っているのであり、それに対するコメントもそうあってほしいと思っている。それほどアクセスがあるブログではないので、こういう表現は適切ではないのだが、「こそこそ」したことはしてほしくないのである。ネットでだけではないのだが、内緒話はいやなのである。内緒話をするなら、誰もいないところでやってほしいのである(それじゃ内緒話じゃないですな)。


このことを思い出したので、ちょっと調べてみたら、ネット上ではこの内緒話について悪い印象を持っている人は少ないようだ。管理者のみ閲覧設定をする方法についてはかなりの数ヒットしたが、私のように「内緒話はいやなんだな」と言っている人はいまのところ見当たらない。私が偏屈なだけであろう。


実際、私がよく見に行くサイトのいくつかにはそういったコメントが寄せられている。管理者の人は普通にコメントしていることが多いが、やはり見ていてなんだか気分はよろしくない。ただ、ブログはその管理者の価値観で運営していけばいいのだから、それはそれでひとつの方法だとは思っている。偏屈な私は自分がコメントしようと思った時、前に内緒話コメントがあると書き込む気持ちが失せてしまう。そういうことが繰り返すともう記事を読んでいるだけにした方がいいと思い、ただ黙って読むことになる。


細かいことを気にするなんて、と思うかもしれないが(自分でも思っているのだが)、これはもう性格なので仕方ない。他の人のコメントやそれに対する管理者のコメントを読むのもけっこう楽しいのだが、偏屈なのでその楽しみを自らやせ我慢しているようなものかもしれない。


でも、やはり私は内緒話はいやなのである。わはは。


| - | 15:17 | comments(2) | - |
百人一首に挑戦!
13-1225

以前使っていたスマートフォンには「神経衰弱」のゲームが入っていた。お茶を飲んでいる時など自分の集中力と記憶力(の衰え具合を?)試すために時々やっていたが、iPhoneには当然ながら同じものがない。探してみて、鮓ネタの「神経衰弱」をダウンロードしてたまにやってみたりしている。最後の“まいどあり〜♪”という声が少しおマヌケでおかしい。


ついでというわけでもないが、百人一種のゲームもダウンロードしてみた。子供のころ、正月に家で遊び半分にやったこと、その後だいぶたってから百首全部暗記しようとして途中で諦めてしまったこと・・・くらいで、もうだいぶ離れていた。


一般的に知られている百人一首は「小倉百人一首」と呼ばれる、藤原定家が編纂した私撰和歌集だ。飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで100人の歌人の歌を一首ずつ選んで色紙にしたためたもので、その作業を小倉山でやったことから「小倉」の名がついたとのこと。


覚えようと努力していた時に気づいたのは、歌の意味をしっかり理解しようとしないとなかなか覚えられないということだ。意味など後回しにして上の句を読んだだけで下の句を思い出そうとしてもなかなかうまくいかなかった。


当たり前のことだが、それぞれの歌は選ばれた優秀な歌人たちが気持ちを込め、時には技巧を凝らして作った「作品」で、本来であれば作者についてもある程度知識を得た方がより楽しめるように思う。少なくとも、歌の意味(解釈は一通りではないにしても)はおおざっぱでもいいから記憶していないと、「ゲーム」としての百人一首は上達しないのではないだろうか。


ゲームをダウンロードしてからすでに1ヶ月くらい経過しているが、いまだに「初心者レベル」で遊んでいる。


対戦方式で画面に9枚の下の句が並べられ、上の句を読み終える前に9枚の中から下の句を選ぶ。間違えると「お手付き!」と云われる。10首勝負でより多くの札を取った方が勝ち。「初心者レベル」なら、すべて取れるくらいにならないといけないと思うのだが、9枚の下の句の札を見回しているうちに上の句の読み上げが終わってしまいそうになったり、似たような下の句があったり(これが百人一首の面白さのひとつなのだが)

で、なかなかパーフェクト勝利が果たせないでいる。


この一般的な遊びの他に坊主めくりもあり、こちらは単純に楽しめる。子供のころ「坊主めくり」をやろうとしたがルールがわからなかった。たぶん親も知らなかったのだろう。無闇に札をめくっては、坊主が出ると大笑いしていただけだったような気がする。ゲームをやってみて初めて一般的なルールがわかった(-_-;)


女性が出てくると「ひめ!」と高い声が聞こえ、坊主が出ると「ぼーず!」と低めの声が聞こえるのがおかしい。


これを機会にもう一度百人一首について勉強しようかと思ったのだが、たしか本があったはずなのにどこかに紛れている。年末までに見つけられたら、大晦日はこれを読んでみようかな。

| - | 11:29 | comments(0) | - |
苔に夢中!?
13-1224

育てる植物の嗜好が薔薇から野草や盆栽に戻って以来、再び苔が気になりだした。あの青々と、ふっくらとした苔は無条件に私の心をつかむのだ(-_-;)


今までもいろいろ試してみてはいるが、苔はそこいらじゅうにあるのに栽培しようとすると案外難しい。環境によるところも大きいと思われるが、あのみずみずしいきれいな状態を保つのは簡単ではないと思う。


木々がたくさん植えられている庭などでは比較的栽培しやすいと思うが、マンションのベランダではいろいろな工夫が必要となってくる。また、それぞれの苔が好む環境もざっくり把握しておくことが大切。


大きな園芸店などに行くと苔を売っていることがある。総菜を入れるようなパックに入っていることが多いのだが、それを買ってきてもよい。が、私は身近なところで成育しているギンゴケが初心者には適していると思う。道路の隅やコンクリート壁など環境に対する順応性が大きいと思うし、採取するにしても気兼ねなくできそうだし。


今までの失敗を省みながら苔栽培のコツを考えるに、鍵は「空中湿度」にあると思う。雨上がりや朝露に濡れた苔は美しく苔は水分が好きだと思いがちだが、滞留する水分については苦手であるような気がする。壁にびっしり苔が張り付いていることからもわかるように、常に湿っていてもびしゃびしゃにはならない状態が好きのようだ。従って当然のように乾燥は嫌い。風当たりが強いベランダではなかなか厳しいということになる。


そこでいろいろな工夫が必要になってくるわけだが、ネットや本で情報を集めつつ手軽にできる方法を試しているところだ。苔だけの鉢なら容器に入れてフタをしてしまえばいいかも・・・と100均ショップで買ってきたレンジ用のフタ(皿などにかぶせてチン!するやつ)を導入。小さな苔鉢はトレーに集めて使い捨てのシャワーキャップをかぶせてみた。


問題は小さな木や草が植えてある鉢に貼った苔で、上からなにかをすっぽりかぶせるわけにはいかない。そこで!穴があいている排水溝(あるいは三角コーナー用)のゴミ袋の中に入れて根元部分で結ぶという技(?)を考え出した。2週間くらい試しているが今のところ状態は良好。冬なので水やりは3日か4日に一度で、それ以外に思いついた時に霧吹きで水をかけ、そのあと根元で結んでおく。ああ、この涙ぐましい試みよ!


苔に夢中になると、どこを歩いていても目つきが悪くなる!あちこちキョロキョロしちゃって。昨日も自転車に乗りながらキョロキョロしてステキな「苔場」を何ヶ所か見つけた。車にぶつからないよう気をつけなくちゃ。


写真は園芸店で偶然みつけた苔。苔の種類を見分けるのは難しいのだが、ホソウリゴケあたりなのではないかと思う。これも偶然見つけたスノードロップの小さなポット苗を買ってきて、だいぶ前に手に入れたお気に入りの小鉢に植えてみた。花が咲く時まで苔がきれいなままでいられるか・・・請うご期待!(-_-;)

| - | 09:38 | comments(0) | - |
「癩」そして北条民雄
13-1223

この話題についてはもっと前に書こうと思っていたのだが、なにせテーマが重くしかも次から次へと湧き上がる連想により寄り道なんぞをしていたので遅くなってしまった。本当はもう少し考えてから、と思ったのだが、とりあえず年が改まらないうちにと今日アップすることにする。


「癩」という言葉を知っているのは、ある程度の年齢以上の人たちだろう。若い人は読み方さえわからないかもしれない。今では「ハンセン病」という名称になり、きわめて伝染力の弱い、そして治療法が確率した病気である。


が、それ以前はこの病気を発症した家族がいるというだけで恐れられ、嫌われるほど「むごたらしい病気」であった。たぶん母親から聞いたのだと思うが、私も子供のころに「顔や手足がどろどろに溶けるようになってしまう恐ろしい病気」として癩(らい病)を認識していた。もし自分がその病気に罹ってしまったら、と思うだけで悪夢を見ているような気がしたし、できるなら罹患者には会いたくないと思った(実際に会わなかったが、子供とは残酷なものである)。


すでに身近なところでその病を得た人はおらず、知らないうちに忘れていた。そして、知らないうちに病名が「ハンセン病(ハンセン氏病)」に変わり、もはや恐るるに足りない病気になったということだけは耳にしていた。しかし、それさえほとんど忘れて

いたのだが、文学や映画の中でふと出会うことがあり再びその恐ろしさを思いだしたりしていた。今となってみれば恐ろしいというよりも悲しい病なのであるが、外見を著しく損なう病ゆえ、「恐ろしい」という印象がぬぐえないのだ。


「癩」というと、今までは映画「砂の器」と小説「わたしが・棄てた・女」(遠藤周作)を連想していた。「砂の器」については以前にも書いたような気がするが、今回また読み直したり見直したりしているので後日書きたいと思う。


しかし、先月だったか先々月だったか(かなりアバウト!)ある本を読み始めて「北条民雄」という人物を知った。知るのが遅すぎたという大きな悔いを感じながら、著作と伝記を注文。


伝記の方が早く到着したので、まず高山文彦氏の力作「火花〜北条民雄の生涯」から読み始め、一気に読み終えた。北条民雄の代表作である「いのちの初夜」を含む文庫(古書)が届き、そのめくるめくような内容に圧倒されながら読み終えた。そして読み終えてすぐ再読しはじめてまたすぐに読み終えた。何度も何度も読み直さないと冷静に読めないような気がしたし、今でもそんな気がしている。


「いのちの初夜」は、20歳でハンセン病を発病して隔離施設である「全生園」に入ったその日を描いた短編である。


当時新しく入園した者は、病状を検査するため重症患者たちを集めた建物にひとまず入れられたようだ。北条自身はまだ病気が見つかったばかりであり外見もほとんど普通の人と同じである。足の一部にマヒを感じている他はとりたててハンセン病らしいところはない。しかし、周囲を見回してみると・・・


23歳(執筆当時)という若さである。文学への熱い思いもある。しかし宿痾ともいうべき病に罹ってしまい、目の前にいる「これが人間か」と思えるほどひどい患者を見れば、自分の将来は真っ暗闇だ。何度も死ぬことを考える。首をくくるにふさわしい

木を探したりもする。しかし死ねない・・・


北条民雄にとって幸いだったと思える数少ない運命に、川端康成との出会いと同病の友とのふれあいがあると思う。「藁をもつかむ」思いで北条は作品を川端に送り返事を求める。


「きっと返事を下さい。こうしたどん底にたたき込まれて、死に得なかった僕が、文学に一條の光を見出し、今、起き上がろうとしているのです。きっと返事を下さい。先生の御返事を得ると云う丈のことで僕は起き上がるころが出来そうに思われるのです。」


ハンセン病患者(当時は癩者)が手を触れたものにさわるだけで病気がうつる、と云われていた時代。北条は手紙が完全に消毒されていることを書き添えている。


手紙を受け取り北条の才能を見抜いた川端は、すでに名の通った作家として忙しくまた悩ましい日々を送っていたにもかかわらず彼を励まし、才能をさらに成長させるための助言を惜しまず、作品発表の場を与えつづけた。そして北条が亡くなった時、全生園にまで出向いた。この師がいなければ、北条民雄という作家は生まれていなかったのかもしれないし、彼の作品を読むこともできなかったかもしれないと思うと、私は川端康成観を新たにせざるを得なかった。


書きたいことはまだまだあるが、このところ長文続きではあるし、また私が長々と書くよりも実際にいろいろ読んでもらった方がはるかにいいと思っている。今日書かなかったことは、いつか機会があればまた書きたい。


*「いのちの初夜」は青空文庫でも読むことができる。

*「独語〜癩文学といふこと」も読める。

*友人であった光岡良二著「いのちの火影 北条民雄覚え書」も読みたいが絶版。


| - | 10:06 | comments(0) | - |
3.11〜あの日を忘れない〜
13-1222

facebookの友達S君が共有したリンクをたどって、しばし呆然となった。ああ、私は日々に埋もれて忘れそうになっていたのではないか、という反省、実際にこのようなことが起きたのだという事実の重み、今なお深く残っているであろう傷の痛み・・・様々なことが一気に押し寄せた感じでぼんやり空を見ていた。

リンクされていたのは、YouTubeにアップされている「3.11〜あの日を忘れない〜」という動画。澄んだ女性の歌声をバックに、津波に襲われた街の光景や被災した人々が次から次へと写されていく。見たことがあるようなものもあるが、どれもが信じられないくらいの映像である。

タイトルにもなっている強い思いを淡々と編集しているように感じたが、その「淡々とした態度」は現実を冷静に見つめる目から来るものであり、ドラマチックな演出よりもよほど心に届く。

この動画をとりあげている「刺さる」動画メディアdropoutでは、同じ動画に「祈りにも悲鳴にも異なる声をあげて、今すべてが止まるようにと願いを心から言った」というキャッチフレーズをつけている。こちらの方が見やすいかもしれないが、それだけに衝撃度は高いので見る方はご注意願いたい。

YouTube 【東日本大震災】3.11〜あの日を忘れない〜

●「刺さる」動画メディアdropout 祈りにも悲鳴にも異なる声をあげて、今すべてが止まるようにと願いを心から言った

巷では、クリスマス商戦が最終段階。街はイルミネーションで彩られ、ラジオからはプレゼントを何にするかだとか今年最も印象的だったわが家のニュースだとかいう話題が流れている。どこかの首長が悪あがきした末にいきなり辞めたとか、野球選手がアメリカに行くかどうかだとか・・・そんなこんなが別世界の出来事であるかのように思える人たちが、今なお多く存在すること。

浮ついた明るさで、暗く重い事実から目を逸らさせようとする輩は至るところにいるし、私たちもまた無意識のうちにそれらに乗せられたいと思っているところもあるように思う。が、やはり忘れてならないことは忘れてはならない。楽しい時はおもいきり楽しめばよい。が、自分の楽しみのすぐそばに大きな悲しみもあるということだけは覚えていたいと思う。

| - | 07:31 | comments(2) | - |
SPONSORED LINKS