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しばらく、お休み・・・
 我が愛機「GON」号(7年間お世話になったmac)が、昨日急逝いたしました(大泣)。後継機「GON2」号が到着し準備が整うまでしばらくブログはお休みいたします。ただいま、本猫とは似ても似つかぬコンパクトな「みかん」号(macbook air)からお知らせをアップしています。ではまた!
| - | 15:36 | comments(2) | - |
オリンピックをめざさないスポーツ
13-0919

数日前、朝のラジオ番組で「オリンピックをめざさないスポーツ」という話題が出ていて、興味深く聞いた。番組でとりあげたスポーツとは剣道である。


なぜ、めざさないか。それは一言でいってしまえば伝統を守るため、ということだろうか。

オリンピックはスポーツに携わる者が最終目標として熱く語られることがある。世界中からトップクラスの選手が集まり、他では体験できないような数の観客から注目され、自らの力を試す・・・最終目標にするのももっともなことだと思う。


が、一方ですべてがオリンピックを運営する組織の思惑に依存するのもまた事実だ。レスリングや野球が対象種目からはずす候補にあがっているが、その理由は明らかにされていないらしい。が、これだけオリンピックが商業的なもの、つまりビジネスになっていることからして、IOCにとって魅力的でない(つまり儲からない)と判断されたと考えても不思議ではないと思う。もちろんそれだけの理由ではないだろうが、そういった思惑もないわけではない

と私は思う。


また、柔道でよく言われているが、ルールの変更により観ている者にとって面白くなくなってしまうという事実がある。世界中で愛されているのだから、伝統ばかりにこだわっていてはいけないという意見もあるだろうし、ルールは絶対に変えるべきではないと思っているわけでもないが、みていてちっとも面白くないし(さほど熱心にみているわけではないので当てにならない感想かもしれないが)、発祥国である日本の選手が伝統にのっとった鍛練を経て臨んだ試合で戸惑っているように見えたこともある。


なにがなんでもオリンピックをめざすことなどないではないか、と思う。剣道のようにオリンピックをめざさなくても伝統を重んじながら世界中で愛されるという「道」を選ぶスポーツがあってもいい。


私自身、運動神経がいい方ではないのでスポーツ選手に対してはある種の憧れのようなものがある。スピードや距離や技だけでなく、より高いところを目指して厳しい練習を続けている姿には心を動かされることもある。が、何のために?と思う時、あまりにオリンピックを重視しているとたいせつなものを見失ってしまうのではないかと心配にもなる。


私はオリンピックそのものが嫌いなのではない。その裏に見え隠れする際どい商業主義や、あまりに馬鹿馬鹿しい周囲のはしゃぎぶりに閉口しているだけなのかもしれない。

| - | 16:56 | comments(0) | - |
表とか裏とか・・・
13-0917

先日書いた「本覚坊遺文」、原作は入手して読んだがDVDはレンタルがなくて観ていない。中古のものがけっこう高額で出ているが、原作を読めたのでこれでよしとしようと思う。


利休について私なりにこだわりがある、と書いたが何のことはない長い間尊敬というか、憧れというか、そういった言葉も適切ではないような「美」に対するひとつの究極としてあがめるような気持ちを持ち続けているだけである。


研究所の類いを読んだこともない。ただ映画を観たり少しばかりの書物を読んだりしているだけである。また、利休が愛したという器などを見るにつけ、その「眼」に深く敬愛の思いを抱かざるを得ないという経験をしてきただけである。


今回、再び利休に注目して本を読んだり映画を観たりして、今までより少しは「利休の茶」とは何かを理解しえたような気もしているが、それとて自信など毛頭ない。ただ、茶にしろ花にしろ他のものにしろ、日本には「道」がつく芸能分野があるが、その「道」というものが私はけっこう苦手なのかもしれないと気づいた。


利休は侘茶の祖と言われているが、自分が死んだら侘茶は廃れると言ったとか。利休十哲と言われる弟子たちがいたことは明らかになっているのだから、何らかを教えはしたのだろうが1つの流派として自分の茶を存続させたいと思っていたかというと、今の時点では私は懐疑的である。


茶道といえば「表千家」「裏千家」だが(武者小路千家、というのもあるらしいが)、表とか裏とかいうものも利休亡きあと様々な人たちの様々な思惑により出来たものであろう。そういった「流派」を長く伝えていくのが「伝統」ということになるかもしれないが、流派同士の争いや流派内でのもめ事など本来の「道」とは別の不穏な出来事を招いていることも事実だ。


私はそういった伝統のあり方を批判するものではないが、ごく個人的な感覚からすると真に創造的な物事というのはそれを生みだした人間一人だけのものだという方がしっくりくる。少なくともそれが「芸術」という表現とともに語られるのなら、一代限りのものではないかと思う。


話は多いに逸れるが、表とか裏とかいう表現をすると、「裏」はなんとなくマイナーなイメージを伴うと思うのだがどうだろう。「裏日本」と呼ばれることをよしとしない人は多いようだし、「裏街道」「裏社会」「裏稼業」などなどいずれもどこか暗く時には隠微で不健康で不真面目で・・・そんなイメージが伴う。だからこそ、多いに興味を持つわけだが。そんなことをふと思った。ちゃん、ちゃん!

| - | 22:35 | comments(0) | - |
シャネルを着たジャンヌ・モロー
13-0916

先だって横浜の小さな映画館で「クロワッサンで朝食を」という映画を観た。裕福だが孤独で気まぐれ、気難しい老婦人とエストニアから家政婦としてやってきた中年女性の物語だ。


これといってドラマチックなストーリーではない。が、母親を見取った後の空しい日々から抜け出そうと憧れのパリに来たものの女主人となかなか打ち解けられない家政婦と、自らのこだわりやプライドのために孤独を深めていく女主人が少しずつ心を近づけていく過程が淡々と描かれており、「大人の映画」といった雰囲気だった。


この映画を観ようと思ったのは、やはりジャンヌ・モローが出ているからだろうか。若いころの映画はほとんど観ていないが、あの独特の雰囲気とハスキーな声が好きなのだ。そして、映画を見終って最も印象に残ったのもジャンヌ・モローの存在感のすごさだった。


自分からほとんど外にでない生活をしているにもかかわらず、家の中ではきちんと装う。パジャマは上質なシルクのようだし、ガウンもまた素敵だった。そして、シャネル。家にいるだけなのにシャネルを着る。家政婦が淋しさをやわらげようとゲストを呼んだ時もシャネル。コサージュや豪華なネックレスをあしらった着こなしも、ジャンヌ・モローだと全く違和感がなく、完全に着こなしているといった感じ。


体型はもう若いころの姿からは想像できないほど衰えている。それもそのはず、2012年の作品なので84歳の出演なのだ。とくにお腹が妊婦のように出ていて「老残」という言葉を思い描いてしまいそうなくらいだ。が、何を着ても当然のように着こなしてしまう。さすがとしかいいようがない。


シャネルは日本人にも人気の高いブランドだが、果たしてあのように着こなせる日本女性が何人いるのだろう。少なくとも50歳以上にならないとシャネルは似合わないのではないかと思うが、年齢だけでなくどのように人生を過してきたかが問われると思う。


また、家政婦としてパリにやってきた女性が、それまでは着るものになど気を配っていなかったようなのに、ラスト近くになると短いスカートや女性らしいハイヒールを身に付けるようになっているのもほほ笑ましくていい。何才になっても人生の岐路に立った時は「変っていかなくてはいけない」ことを二人の女性の触れ合いから学ぶ映画でもあった。


水曜日(レディースデイ)だったこともあるが、なかなか好評のようで館内はほぼ満席。派手な宣伝もしないのに今どき満席になる映画はさほど多くないような気がする。生き方を見つめ直そうと思っている女性が多いということだろうか。私も考えなくては・・・

| - | 23:57 | comments(0) | - |
洋菓子店の包装紙
13-0915

私が小学生だったころ、今のように溢れるほどの洋菓子店もなく、その包装紙はある種あこがれの存在だった。デパートに行けばいろいろ洒落た洋菓子を売っていたが、めったに買ってもらえなかったし、包装紙が好みのものかどうかはまた別物であった。


憧れたのは何といっても自由が丘モンブランの包装紙だった。東郷青児画伯の女性の絵で、あの特徴的な線とトーンが大人っぽくもありロマンチックでもあり、夢見る少女(!)だった私はその包装紙が欲しくてしかたなかった。クラスメートがその包装紙を教科書のカバーとして使っているのをみて、とても羨ましかった。


今はもう、覚え切れないほどの洋菓子店が存在し、パティシエの名前を掲げつつ競っている。子どものころに比べたら甘いものを欲しなくなったけれど、食べてみたいものもいくつかある。


あまり購入しないので、それぞれの店の包装紙がどんなものか知らない。スイーツ好きの方は包装紙をみただけでどこそこのもの、と特定できるのだろうが、私はちんぷんかんぷんである。想像するに、私が子どものころ憧れていたような絵やイラストを使ったものよりも、無地に店名ロゴをあしらったようなシンプルなものが多いのではないだろうか。


ここ数年気に入っているのが、同じ東横線沿線にあるマッターホーンという洋菓子店の包装紙。名前からも察しがつくと思うが、自由が丘のモンブランと経営者が兄弟関係にあると聞いたことがある。が、包装紙の雰囲気は全く違っていて、モンブランのものが洒落た都会的なものであるのに対して、こちらはノスタルジックで飾り気のあまりないものである。


包装紙の絵を描いたのは鈴木信太郎という洋画家で、日本の洋画壇を知る人にとっては有名な方なのだと思う。が、一般的な知名度からすると東郷青児氏とは較べようもないように思うのだが、その絵のタッチがなかなか私は好きである。また、絵の横にさりげなく添えられた「す」の文字の雰囲気がなんともいい。


検索していたら、西荻窪にある「こけし屋」という洋菓子・フランス料理の店も鈴木画伯の絵をシンボルにしている。店の歴史を読んでみると、西荻窪の駅前広場は戦後の一時期ベレー帽の画家たちの姿が数多く見られた場所で、「こけし屋」には中央線沿線に住む画家や文学者が集まったとのこと。井伏鱒二、丹羽文雄、徳川夢声、東郷青児、田川水泡などがメンバーとなった「カルヴァドスの会」も常連で、鈴木画伯もまたその一員だったという。それが縁で包装紙に民族衣装を着ている女性の絵を使ったのではないか、と記されている。


マッターホーンでは何度か買い物をしているが、クッキーやマドレーヌなどが多くて生ケーキはまだ食べたことがない。大きさもほどよく値段もさほど高いというほどでもないし、昔から(創業1952年)愛されてきた店の味として今度行く時はケーキをいくつか買ってみたいと思っている。「こけし屋」にも行ってみたいなぁ。

| - | 09:38 | comments(0) | - |
利休のイメージ
13-0914

5年前直木賞を取った「利休にたずねよ」(山本兼一著)が映画化され12月に公開予定とのこと。原作は出版されてから比較的早く読んだが、思うところあって再読してみた。映画は見るかどうかわからないが、私の中にある「利休イメージ」と映画で利休を演じる市川海老蔵のイメージがあまりに遠いと感じたのでそれを確認したかったということもあった。


映画化に際しては作る側の様々な意向やイメージ戦略があったと思う。利休が若いころ抱いた恋心とその象徴である緑釉の小壺が物語の鍵となっているため、ああいう配役になったのかなと推測する。


また、歌舞伎役者ならではの所作の美しさも「美しいもの」を命をかけて追求した利休にふさわしいという考えもあったのかもしれない。


が、それらのことを考え合わせてもやはり私にはピンとこない。たぶん、私なりに若いころから利休についてはこだわってきたところがあるから、なおさらのことだと思う。加えて、私は利休にイメージにぴったりの俳優が演じた映画を何度も見ている。


その映画とは、野上弥生子の「秀吉と利休」を原作とする「利休」(勅使河原宏監督)である。利休を演じたのは故・三国連太郎氏。年齢的にも、一筋縄ではいかない人間像を演じる演技力という面でもこの人以上にふさわしい役者はいないだろう、いやこの先も出ないだろうと私は思っている。


レンタルのDVDで何度もみたが、今回私のイメージが変っていないかどうか確かめたくて今日再度観てみた。やはり印象は変わらず、12月公開の映画は観なくていいかなと思っているところだ。


利休をテーマにした映画はこれらの他にも井上靖原作の「本覚坊遺文」がある。これも観た記憶があるのだがかなり昔のことなので詳細は覚えていない。近いうち借りてみたいと思っている。

| - | 17:57 | comments(0) | - |
謝るということ
13-0912

先月末に「ひろしま〜遺されたものたち」というドキュメンタリー映画について書いたが、その時は書きそびれていたことがある。それは、映画にも出て来るカナダと原爆の関係である。


原爆というとアメリカと日本の問題だというのが一般的な認識であろうし、それにほぼ間違いはないと思う。しかし、私は全く知らなかったのだが、広島や長崎に落とされた原子爆弾に使用されていたウラニウムはカナダで採れたものだったとのこと。映画の中でカナダの美術史家であるジョン・オブライアン教授が、カナダの先住民であるデネと呼ばれる人たちがその採掘に当たったことを語っていた。


改めて調べてみると、「マンハッタン計画」は「第二次世界大戦中、アメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために科学者、技術者を総動員した計画」(wiki)とあり、

中心になっていたのはアメリカかもしれないが(本拠地がマンハッタン)、カナダもまた参画していたことがわかる。


そんな事実よりも私にとって印象的だったのは、ウラニウム採掘の目的を知らされていなかったデネが、戦後かなりの年月が経過してからではあるものの、日本を訪れて原爆について謝罪したということだ。ウラニウム採掘には被爆という危険が伴い、現に彼らの住む地域ではガン患者が多発していたというのに(もしかしたら、被爆という苦しみを背負った者としての共感もあったかもしれないが)、わざわざ来日して謝罪したということに、私は

ある種の驚きを覚えた。私たちだって知らなかったのだ、と言い訳して自分を納得させることもできたであろう。


安っぽいドラマに出て来る常套句ではないが、謝ればそれで済むというものではない。が、やはり何事もきちんと謝るべき時は謝らねば被害者も加害者もそれから先に進むことはできないだろう。


国と国の関係に限らず、私たちが生きている社会は複雑な人間関係によって成り立っている。また人間同士だけでなく、他のいきものたちとも無関係ではない。そのような環境の中で、自らの過ちを自覚したならまず謝るという態度は忘れたくないと思う。立場上謝りたくない、謝れないと思うことも多々あるだろう。が、それを乗り越えて謝らねば自らを貶めることになりそうな気がするのである。

| - | 23:17 | comments(0) | - |
あなたのブルース
13-0911

仕事の関係でいわゆる「歌謡曲」を時々聞くようになって約1年。若いころ遠ざけていたこのジャンルにも年齢のせいか妙な共感を感じることに気づき、やっぱり日本人なのかなぁと思う今日このごろである。


子どものころ、テレビでは「歌番組」が盛んに放映されていた。ゴールデンタイムだったと思うので、それなりに視聴率もあったのだろう。紅白歌合戦も途中で風呂に入ったりしながら毎年見ていたと記憶する。


中学生になると気持ちが洋楽に向いてきて、以来例外はあるものの「歌謡曲」は積極的に聞かずにきた。しかし、ジャンルにかかわらずいい曲はいいのであって、今となってはかえって新鮮に感じられる曲もいくつかある。


今年の春、あるベテラン歌手のコンサートで「あなたのブルース」を聴いた。印象的なサビの部分だけ記憶の片隅に残っていたが、ほとんど忘れていた曲である。あらためていい曲だなと思い、オリジナルを探して聴いてみた。


1968年に発表されたこの曲を歌っていたのは矢吹健さん。お名前も聞き覚えがあったが、声も容姿も全く覚えていなかった。作詞・作曲は矢吹さんが師事した藤本卓也さん。発表の年に日本レコード大賞新人賞、日本有線大賞新人賞、新宿音楽祭金賞を受賞したとあるので、かなりヒットしたのだろう。


いい曲の常として、様々な歌手がカバーしている。YouTubeでひととおり聴いてみたが、やはりオリジナルが一番いい。あそこまでハスキーな声の持ち主はなかなかいないのではないかと思うし、曲想にとても合っていると思う。


カバーでは先日亡くなった藤圭子さんのものが出色なのではないだろうか。ついでで申し訳なかったが、藤さんの曲もいくつか聴いてみた。五木寛之氏が「怨歌」と表現したのがよくわかる暗さを秘めた歌声でこの方も日本の歌謡界では貴重な存在だったと遅まきながら感じた次第。


*「あなたのブルース」オリジナルは、こちら

*藤圭子バージョンは、こちら

| - | 10:52 | comments(0) | - |
猫がいる店
13-0910

先日、ネコ友Kさんの案内で新宿にある通称「茶トラの穴」に行ってきた。午後2時の開店時間を待っていそいそと行ってみると、なるほど同じ年ごろの茶トラ(わが家では「アカトラ」と呼んでいる)が4匹。


猫は気分で行動するので、いるのはわかっていても会えなかったり相手をしてもらえなかったりすることもあるが、当日は幸運なことにみなさん自然体でうろうろ。客に出したグラスの水をすぐ飲んでしまうとのこと、店主が猫専用のカップに水を入れテーブルに置いていた。それでも客の水をねらう猫たち・・・猫キチはそんな行動にもニヤニヤ。


4匹とても似ていて区別がつかない。それぞれ色が違う首輪をしているので、かろうじてなんとか個体識別ができる。似ているのはそれもそのはず、4匹は兄弟猫で店の近くの駐車場で野良猫(これまた茶トラ)が産んだそうだ。駐車場の持ち主が腹を立てて保健所に持っていくというので、店主が慌ててひきとったらしい。


まだ生まれたばかりの子猫の世話をするのはけっこう大変だ。母乳を飲んでいる時期なので

あれこれ工夫してもミルクを飲まないのでミルクとキャットフードをまぜてペースト状にしてみたり、排泄の様子をノートに記録したり・・・1匹でも大変なのに、区別がつかないくらい似ている4匹となるといきなり4つ子の母親になったも同然。しかも男性で店を経営しているとなると・・・脱帽ものである。


なんでも茶トラのメスは珍しいようなのだが、その店の猫はメス3匹、オス1匹。シッポの長さや形が微妙に違うので慣れたら首輪なしでも区別がつくかもしれないが、顔だけではなかなか難しい。


私自身の経験だけでなく猫好きの方々からもよく聞くのだが、茶トラの猫は性格がおおらかで物おじしないことが多い。明るい毛色であることもあり、接する人間を気持ちよくくつろがせてくれる。


店のWEBサイトもあるが、そこには一切猫の写真も記事も掲載されていない。なぜなら、それをみて猫を捨てに来る輩がいないとも限らないからだ。世の中にはそういうけしからんヤツが存在するのだ。我が実家は昔から数匹の猫を飼っているが、あきらかに「ここなら飼ってもらえるかも」という意図のもとに猫が捨てられていたことがあったと聞く。ブログなどで有名になってしまうとその危険性は一段と高くなるにちがいない。


ということで、その店の名前も詳細な場所もここでは明らかにしないが、いかにも「穴」にふさわしい立地と居心地の店であったことは書いておく。店が暗め(といっても怪しい暗さではない)なので撮った写真もブレがひどいが、マシなものをプリントしておこう。今度行った時に店主に渡したいと思う。Kさん、どうもありがとう!

| - | 08:06 | comments(2) | - |
無節操でノーテンキで・・・
13-0909

がっかり。というか、腹立たしい。というか情けない。というか・・・


もちろん、オリンピックのことである。昨日早くに選考結果がわかるとのことだったが、全く気にせず就寝。いつもの習慣で朝ネットニュースを見たら・・・なんだとー!てな感じだった。


人の喜びに水を差すという行為はできるだけしたくはないと思っているが、今度ばかりはある程度言いたいことを言わないと気が済まない。オリンピック東京開催を嬉しく思っている方にとっては不愉快な記事になると思うので、読みたくなければこのあたりでトンズラ(死語?)してください。


8月の半ば過ぎくらいからだっただろうか。今回の最終決定をにらんでマスコミが騒々しくなってきて苦々しく思っていた。が、一方私のようにオリンピック開催に反対の人も多いような気がしていたのも事実である。


様々なアンケート結果(東京開催についての賛否)も見かけたが、いかにも力があると思われる新聞などでは賛成が多数派であったのに対し、ラジオの報道番組やマイナーなテレビ局のマイナーな番組が行ったアンケートでは反対派の方が多かった。少なくとも私が知っている範囲の話だが。とくに夕方放送されている某ラジオ局のアンケートでは賛成:反対が3:7という痛快な結果で、進行役のフリーアナウンサーも驚いていた。


街中の風景から商品パッケージに至るまで、様々な場所であのカラフルなロゴマークと「今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ。」というメッセージを見かける。こうでもか、こうでもかと洗脳しようとしているようでいささか不愉快であったが、諸手を挙げて賛成している人は案外少ないというのが私の実感であった。そして、開催を声高に叫んでいる一部の人々の無節操とも思える行動を冷ややかに見ている人たちが多いと思っていたし、今でもそう思いたい。


この招致活動に使った膨大な費用は、一夏のお祭り騒ぎのために使うものとしてふさわしいのか。経済効果云々というが、7年先の経済効果より今目の前に厳然として存在する問題解決に使うべきではないのか。東日本大震災の被害を受けた人たちのことを全く無視しているように思える態度はどんな神経から出て来るものなのか。彼らが「東京は安全」というたびに、福島の人たちはどのような思いをするのか想像もしていないに違いない。


東京でのオリンピック開催を心底望んでいたのは、無節操な政府と利益をもくろむ企業とそれらの戦略にいとも簡単に乗せられた一部のノーテンキな人々だけだと思う。それらの人々の多くが善良な国民なのだろうと思うし、何を喜んでも自由だとは思うが、今回ばかりは批判的にならざるをえない。


今のニッポンに必要なのは、本当に「夢の力」なのか。現実をしっかり見据えて地道に努力していく行動力なのではないのか。そもそもオリンピックは「夢」なのか。「気分」だけで「雰囲気」だけで国民が元気になり、国全体も健全な国として成長していけるのか。


昨日はほとんどテレビも見ずラジオも聞かなかった。どんな状態になっているかは目に見えているからだ。当分この馬鹿馬鹿しい状態が続くのかと思うといささかうんざり。7年後まで自分が生きている保証はどこにもないが、今回の決定で得たであろう「元気」や「力」で、これ以上非難されないよう数々の問題を解決していただきたいものである。


*今日は息子の誕生日。だというのにこんな記事。とほほ。

| - | 06:23 | comments(2) | - |
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