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遺されたものたち
13-0831

昨日も書いたが、猛暑をものともせず(!)映画を観に出かけてきた。アメリカ人のリンダ・ホーグランド監督が撮ったドキュメンタリー「ひろしま〜遺されたものたち」だ。ドキュメンタリー映画は再上演されることもDVD化されることもあまり期待できないので、これは!と思ったものはできるだけ観に行くようにしている。昨日は当日になってこの映画の上映を知り急遽出かけた次第。なにせ最終日だったもので(^.^;)


映画は写真家・石内都が原爆資料館に寄贈された遺品を撮った作品展を取材したものである。ところはカナダのバンクーバー。ブリティッシュ・コロンビア大学人類学博物館で2011年10月14日から2012年2月12日まで開催されたとある。


石内都は好きな写真家のひとりで、このブログのサイドバーでも写真集を紹介している。モノクロームの写真が多いが、母親の遺品を撮った「Mother's」そして「ひろしま」はカラーである。好きな作家なので機会をとらえてできるだけ観てきたが、見逃しているものも多いに違いない。


「ひろしま」については2008年から2009年にかけて目黒区美術館で開催されていた「HIROSHIMA YOKOSUKA」で観ているが、その時は「Mother's」を含めて総覧的な展覧会だったのでもしかしたら観かたがアバウトだったかなと今になって思っている。


石内都は今でも年に少なくとも一度は広島を訪れているという。原爆資料館には今なお遺品が寄贈されつづけているからだ。それらを撮るために通いつづけている石内の撮影シーンから映画ははじまる。資料館の保管庫で眠っていた遺品たちが包装を解かれ広げられていく。


自然光のもとで撮ると決めていたようで、一般的な「ブツ撮り」に使うライティングは一切用意されていない。大きな窓のある部屋だが室内はやはり明るいとはいえない。その中

で石内は作品に近づき、ピントを合わせながら淡々と撮っていく。


シーンは変ってバンクーバー。人類博物館の大きなトーテムポールに驚きながら館内に入っていく写真家。館内にはカナダの先住民族たちが遺した数々の文化財(工芸品というよりやはり文化財)が並べられており、キューレーターが解説していく・・・


映画は、写真展会場を訪れた様々な人々の様子や声を次々と追いながら、それぞれの心の中になるものに焦点を合わせていく。遺品の持ち主だった人に思いを馳せる人、幽霊に囲まれているようだと言う人、広島で出会った日本人妻を偲ぶ元兵士、子ども用の和服の写真を見て苦い過去を連想する韓国の人。原爆被害者たちの遺品は過去のものでありながら、現在のものでもあるという共通意識がそこに生まれているように感じられた。


監督のリンダ・ホーグランドはアメリカ人宣教師の娘として京都で生まれ、小学校・中学校時代を山口や愛媛で過した。現在の東京の話ではない。白人で金髪の少女はさぞかし目立ったことだろう。好奇の目にさらされ、授業で原爆の話が出た時、アメリカ人であることの責任を一斉に問われたような気がしたという経験を持つ。日本語が堪能なので日本映画の字幕翻訳家でもあるそうだが、2010年に長編ドキュメンタリー「ANPO」で監督デビュー。本作は2作目となる。


リンダと親しい作家の桐野夏生によると「日本人顔負けの豊富な語彙を持ち、電光石火で的確な日本語を繰り出してくる。しかも、瞬時に相手を品定めする冷酷さも、必要としない人間を切る度胸も併せ持つ。その峻烈さは、並外れた頭脳のせいだ。そして、おそらくは、日本に生まれ育ったせいでもある」と評している。また、「石内都の凄みは、情緒的な写真を撮らないところにある。悲しい時は、むしろ喪失のまっただ中に立ち向かっていく雄々しさ」ち書いている(映画パンフレットより)。


石内については私も同感でそのようなところが好きなわけだが、桐野の人物評を読む限り、リンダと石内は相性がとてもよさそうに思えてくる。もちろんプロの仕事人としての相性だが。


映画を見終って思うことは、過去にあった重大な出来事というのは「過去」のものであると同時に「現在」のものでもあるということだ。「過去」のものだと決めつけ、今の自分とは関係がないものだと割り切ってしまうのは間違っていると思う。遺されたものたちから静かに発せられる声に、私たちは真摯に耳を傾けなくてはならないと思う。


また、映画の中でも触れられていたが、保存庫から出された遺品たちが思わず深呼吸しているような錯覚を覚えた。自然光の中でのびのびとしているように見えたのが不思議である。戦時中はオシャレなどもってのほかだったのだが、女性たちは地味な着物やもんぺの下にジョーゼットのワンピースや可愛いらしい水玉模様のブラウスをそっと着ていたという事実。それらの質感やデザインの良さには驚くべきものがあるし、ひそかに身に付けていた女性たちの気持ちを愛おしいと思う。きっと、石内都に写真を撮ってもらって、持ち主たちは喜んでいるに違いない・・・そう思えるのである。


●「ひろしま〜遺されたものたち」公式サイト→http://www.thingsleftbehind.jp/

「ひろしま」(石内都・集英社)

●この人に聞きたい「石内都」(2008年)は、こちら

| - | 11:50 | comments(0) | - |
もっと、ちゃんと、話をしようよ。
13-0830
・・・まだまだ暑い。でも空はすでに秋の空・・・

8月ももうすぐ終わりだというのにこの暑さ。都内では36度以上を記録したとか。そんな中出かけてきたので何をしにいったのか書こうと思ったが、その前に書きたいことができた。


先日facebookについて少し書いたが、だいぶ前からmixiにも登録している。が、自分のブログをリンクしているだけで時折「マイミク」さんたちの書いていることをつらつらと読む程度のスタンスを持ちつづけている。


昨日、数少ないマイミクの一人であるhさんが「意見を闘わせるということ」というタイトルで記事をアップされており、そこで(たぶん)このブログであったことが触れられていた。くしくもfacebookというタイトルで書いた8月9日の記事についてである。


どんな記事でそんな反応があったかは確認していただければいいので書かないが、hさんが書きたかったのは、真剣に議論することの大切さであり、そういった場を作ることの大切さであるように推測する。


自分のブログでも他の人のものでも、他愛ない話題の方が多くのコメントが寄せられているように思う。それが悪いというわけではないが、記事を書く方も真剣に書く時もあればお気楽に書くこともあるわけで、コメントをいただけること自体嬉しいのだが真剣に書いた記事についてのコメントはさらに嬉しい・・・というのが本音である。


ブログ以前にも日記を公開しており、その時から言いつづけてきたのは、「反対意見多いに歓迎」であり、どのようなコメントにもひとまず正面から向き合い、受け止める覚悟はしているということだ。が、実際のところ社会的な話題やごく個人的な意見についてはあまりコメントは寄せられない。そんなものかも、と思い淡々と続けているのだが、だからこそ

手応えのあるコメントをいただけたことは嬉しい。


ネットという不確かな世界でのコミュニケーションは常に不安を伴う。が、不安なことばかり考えているのはもったいないようにも思う。理不尽な誹謗中傷や揶揄は問題外だが、生まれも育った環境も年齢も性別もその他もろもろも違う人たちとひとつのことについて話をする場として上手に利用することもできると思うのだ。


ブログを始める前は、日記に直接コメントをつけることができなかったので、ツリー型のBBS(掲示板)を用意していた。ひとつの話題に対する様々な人のコメントがツリーのように繋がる掲示板で、時にはスクロールしないとツリー全体が見えないくらい活発な書き込みをいただいたこともある。管理人である私とのやりとりはもちろんだが、参加している

方同士のやりとりもあって私はそれを嬉しく思っていた。きっかけを作り、話の方向性をある程度まとめるのが管理人の役目ではあるが、そこで新たに知り合った方々が気持ちよく話をしているのを見るのは楽しいものである。


もちろん、楽しいことばかりではなかった。たいていの方はネット上の掲示板での常識的なふるまいを理解し、気持ちのいいやりとりをしてくださっていたが、中には突然感情的になったり、誰が読んでも不愉快な書き込みをされることもあった。また、ああいう場でのコミュニケーションには限度があり、これI以上話が発展しそうもないと思ったらキリがいいところで打ち切った方が互いのエネルギーを浪費しなくていいと思うのだが、そのタイミングがなかなか難しい。やんわりと「そろそろ終わりにしましょうよ」というニュアンスを伝えても理解してもらえず、はっきりと書いたこともある。管理人はいざとなったら毅然としなければならないと思っていた。


そんなこんなを経験してきて、最近やはり思うのは、「自分の意見を言う」ことには勇気が必要かもしれないが、できる範囲でやっていかねばならないということだ。それを自己満足に終わらせず、常に自分の中で問いつづけるためにも、私が書いたことに対して思うことがあれば気軽にコメントを寄せていただけるとありがたい。


一人の人間が知り得ること、考えうることには限界がある。人の意見を聞くことによって、やはり自分の考えはこれでいいのだと思うこともあれば、軌道修正する必要があると思うこともある。多いに反省させられることもあれば、共感してくれる気持ちを嬉しく思うこともある。そういった経験を重ねることで、少しでも成熟した人間になれたらいいと思っている。


以前、自分の考えを上手く言葉にできないからコメントはなかなかできない、と言われたことがある。そういうこともあるかもしれないと思う。が、何か思うことがあれば、ひとまず発言してみるとまた違う世界が開けてくるかもしれないと思う。会話を重ねれば理解する度合いも少しずつ深まっていくことが多いからだ。


また、私はあなたのように強い人間ではないから、と言われたこともある。が、私はそうは思っていない。というか、強い人間・弱い人間という分けかたが私にはよく分からないのだ。誰しも強いところもあれば弱いところもあるのではないか。グチをいうのは嫌いなのでできるだけ書かないようにしているが、私自身だってかなり情けないところもある。


8月9日の記事に対するやりとりは正直嬉しかった。実はもう少し議論を続けてみたいくらいだったが、こればかりは強制することではないし、あれはあれでよかったのかもしれないとも思っている。これからも機会をとらえて真面目な(!)テーマで書きつづけていきたいと思っているので、みなさまどうぞよろしく。


この世知辛い世の中、私とて「自分のことで精一杯」だと思うことはある。が、そんな自分も周りと無関係で生きていけるわけはない。自分の環境の中で、自分の生活感の中で、どんなことを考えているのか・・・あまり堅苦しく考えず、もっと、ちゃんと、話をする機会

が増えていくといいな・・・と思う今日このごろ。

| - | 19:47 | comments(4) | - |
マグロの街
13-0829

三崎港には、かれこれ5回以上は行っていると思う。と聞くと、さてはマグロ好きですな!と言われそうだが実は全くそんなことはない。マグロは寿司屋に行ってもほとんど食べないし、もともと魚に関しては大きなものより小さいもの、イワシやアジなどの方が好きなのだ。


ということで食べ物は主な目的ではなく、港町の風情が好きなので何度も訪れているわけだ。とくにかつて(ここ重要!)漁業で一世を風靡した港には建物や路地のたたずまいに独特のものがあって、足の向くまま歩くのがとても楽しい。


とはいえ、歩きながら目につくのは「マグロ」「まぐろ」「鮪」の文字である。三崎港のみならず神奈川県の貴重な観光資源である「三崎のマグロ」。いたしかたないと思うものの、いささか食傷気味にもなる。寿司や刺し身、かぶと焼きはもちろん「まぐろラーメン」、果ては菓子まである。産直センター「うらり」に入れば地元の商魂逞しいオバチャンたち

に「ちょっとそこのお姉さん!」と呼びかけられ、あれこれマグロモノを食べさせられる(^.^;)


笑ってしまったのはマグロ入りの菓子「マグレーヌ」。あまり食べたくなる名称ではない。苦心の作かもしれない。パンフレットに掲載されていて形がかわいいのでつい買ってしまった「かぶと焼き」は、マグロを餡に練り込んだ人形焼のようなもの。帰宅して一口食べたら・・・「う!」。生臭いというか、妙な味でそれ以上食べられずテーブルの上に置いておいたら、夜中に猫が狙ってボロボロに。


何でもそうだが、「○○○づくし」というのは苦手だ。すぐに飽きてしまう。料理方法をいろいろ変えてみても素材が同じだとやはり飽きる。三崎ではほとんど食べていないというのに道筋にあふれる「まぐろ」の文字に飽きる(^.^;)。私にとってまぐろはたまに少しだけ食べればいいもののようだ。


先日は以前何度か行ったことがある「くろば亭」を予約して昼食(もちろんビール付!)。“おやじ”と呼ばれるユニークな店主がやっている人気店で当日は19名の団体さんが入っていて平日だというのに激混みだった。血合いのカルビ焼というのを食べてみたが、さすがに味が濃厚でこういったものが好きな人にはおすすめかもしれない。私は網ではなく棹で釣ったというアジの刺し身が絶品だと思った次第。


あまりに「まぐろ」を見てしまったからなのか、佐島あたりの地魚が妙に食べたくなった。涼しくなったら行きたいものだ。


*くろば亭のおやじは絵も上手→おやじの部屋

*店から少し離れた別館(?)に行ったら2階にある作品を見せてくれた。

*仏教関係の陶芸がメイン。うーん、濃い!

| - | 10:47 | comments(0) | - |
城ケ島の休日
13-0828

2627日にかけて三崎周辺で遊んできた。宿は以前から一度泊まりたいと思っていた城ケ島京急ホテル。三崎港からバスで10分もかからない島だが、神奈川県最大の自然島である。観光地としての歴史は古く、鎌倉時代以来の景勝地として知られているそうな。東西で岩質が異なり地質学的に貴重な露頭(地層・岩石が露出している場所)が多いとのこと。ホテル近くの城ケ島灯台は江戸時代に設置された西洋式灯台。


城ケ島というと、年配(私の世代を含む!)にとっては北原白秋作詞の「城ケ島の雨」かもしれない。“雨はふるふる城ケ島の磯に 利休鼠の雨がふる”子どものころ家にあったレコードで初めて聞いたが、きれいな曲(作曲は梁田貞)だが歌うのはとても難しいと思った。


もうかれこれ10年近く前になろうか。今考えるとススキの穂が出ていたので秋だったと思うが、記憶の中では晩夏。西日が磯に降り注ぐ時間に城ケ島を訪れた。休日のイベントだったのか、ホテルの方からジャズが流れていた。ほとんど誰もいない磯辺、西日、けだるい空気、心地よい疲れ・・・ジャズはすべてによく似合い映画のワンシーンのように記憶に残った。いつか夏の終わりに城ケ島に行こうと思いつづけ、ようやく実現したというわけだ。


観光地としての城ケ島はすでに斜陽を迎えて久しい。バス亭付近の土産物屋や飲食店も数店のみ営業していて残りはシャッターを降ろしたままだ。ホテル周辺の民宿も廃業しているところもちらほら。水族館がある油壷、マグロ一色の三崎港の方に客足が流れたのだろう。


遠浅の海岸もなく、「景勝地」というだけでは子ども連れにはちょっと退屈かもしれない。

が、今回泊まってみて、だからこそ大人の休日にはいいと思った次第だ。足元に気をつけなければならないが、岩場をゆっくり散歩するのもいいし、なにもせず船が行きする海を眺めているのもいい。観光業者には気の毒だが、個人的な好みとしては少し寂れているくらいのほうが静かでいい。


昨日の朝はとても涼しく半袖では寒いくらいだった。が、海風が心地よく朝の散歩を楽しむこともできた。せっかく持っていった花火をしそびれたことに翌朝気づいたのだが、それほど充実した時間が多かったということにしておきたいと思う。次は秋にぜひ行ってみたい。

城ケ島に行く前に三崎港周辺を少し歩いた。三崎についてはまた後日。

| - | 06:06 | comments(0) | - |
やっと完成!リメイク・バッグ
13-0825
・・・布を横に使ってボーダーにしたところもミソ!・・・

先月、友人が手持ちの布でバッグを作りたいとのことだったので、久しぶりにいつもお願いする「アトリエ縫い子」さんに私の分もお願いすることにした。


このところ目(老眼、疲れやすい)、肩(言わずと知れた五十肩)の不調で縫い物を全くやっておらず、かつて集めたアンティークの布が泣いている・・・で、ついでにということで自分の分を3点頼んでしまった。


いつもトートバッグのようなシンプルなものが多いのだが、今回お願いしたものの1つが大きなハトメを使うちょっと凝ったデザインのもの。「旅のはじまりはこのバッグで」という本に出ていたもので、掲載されているものはビンテージのデニムを使っていた。


私はデニムを持っていないので、以前けっこう探しに探したアンティークのティッキングファブリックを使うことにした。ブルーと白のストライプで以前にも似たような布で大きなトートを作っていただいた。が、同じブルーでも前回のものがネイビーブルーであるのに対し今回のものはインディゴブルー。


私はどちらかというとインディゴの方が好きなのだが、探してもなかなか見つけることができなかった。なにかの折にやっと見つけて、少々高かったが購入したと記憶している。インディゴといっても使い込まれているのでいい感じに褪せている。


写真がそのバッグだが持ち手にナスカンを付け、本体にハトメをぐるりとあしらって持ち手の位置を好きなように変えられるデザイン。そこが気に入ってお願いしたのだが、意外なところに落とし穴が!


ハトメもナスカンも私が選んで送ったのだが、すべて出来上がってナスカンをはめようとしたら合わず食い込んでしまった、という連絡が入った。本には20ミリのナスカンとしか書いていないしナスカン部分のアップ写真もないので、適当に選ばざるを得なかったのだが、こういう金具選びは難しいと思い知った次第である。


食い込んだナスカンをなんとかはずしていただき、そのままこちらに送っていただいた。なるほど全くはまらない・・・さて、どうしようとしばし悩んだ後ネットで検索。下谷のあたりにナスカンを専門に販売している業者があることを知り、ネット販売主体のようだが店での相談にも応じてくれるとのこと。バッグ本体と金具がついていない持ち手、掲載されて

いる本を持って行ってきた。


日比谷線入谷駅から歩いて7〜8分くらいのところにある「にのきん」こと「二宮金属株式会社」の事務所で相談に乗っていただいた。あらかじめ電話しておいたのでさっそく本題に入る。事情を説明しハトメが打ってあるバッグ本体を見せると「うーん、これは・・・」と難しそうでドキドキ。本を出すと、「ちょっと失礼」とルーペを取り出してナスカン部分をじっと観察。


で、「これはこのタイプじゃないかと思うんですよね」と私が買ったのとは少し違うものを出してきてくれた。実際にハトメにかませてみると少し苦労はするがきちんと入った。同じタイプで仕上げが違うものも出してきてくれて、最終的にはそちらに決め2組買ってきた。


名刺をいただいたので見てみると、なんと代表取締役の二宮さんではないか。こんな個人的な少量購入に嫌な顔ひとつせず親身に相談に乗ってくださって・・・なんだかちょっと感激。聞けば趣味でレザー小物を作っている人やセミプロの人がたまに相談に来るとの

ことだ。小さな金具だが奥は深く、驚くほどいろいろな種類があっておもしろいとも思った。今度なにかあったら、また相談に乗ってもらおう。下町の職人の心意気のようなものを感じた楽しい時間であった。


あれこれ苦労してやっと出来上がったので家人に写真を撮ってもらった。縫製は毎度のことながらしっかりしているし、ナスカン選びに苦労はしたし、生まれてはじめてカシメ打ちをやったし(おおげさ!)記憶に残るバッグになりそうだ。大切に使おう!

| - | 14:31 | comments(0) | - |
エシカルファッション
13-0824

「エシカル」なる言葉をご存知だろうか。私は遅ればせながら最近知ったばかりだ。「倫理的な、道徳的な」を意味する英語だが、とくに「環境や社会に貢献する」という意味で使われることが多いらしい。


その代表がエシカル・コンシューマリズムで、環境保全や社会貢献を意識し、それらに配慮した素材、工程、流通で提供された商品を買おうという消費活動だ。エコバッグや寄付金付きの商品などが知られている。


エシカルという言葉は知らなかったが、以前からフェア・トレードには共感を持っており対象商品を購入したこともある。フェア・トレードの店である「ピープル・ツリー」には以前何度か行ったことがあり、実はごく最近ものぞいてみたばかりだった。


拙いものの、自分でも少し手作業をすることもあり、「手仕事」に対する対価があまりに低いことについては常日頃不満を持っている。国内においてはもちろん、発展途上国で作られた手の込んだものが驚くほど安いのにはちょっと納得がいかないものもあった。


物をできるだけ安く作り利益をあげるために、常識では考えられないくらい労働力を安く抑えてはいないのか・・・そのあたりが心配である。手の込んだもの、特に機械ではできない手作業に頼るものについてはそれなりの金が支払われてしかるべきである。


最近、ネットで「フェアトレードを進化させるピープル・ツリーの挑戦」なる記事を読んだ。ファッションジャーナリストの生駒芳子さんという方が書いた記事だが、ピープル・ツリーの代表であるサフィア・ミニーさんの活動が紹介されている。


フェアトレードであるだけでなく、「めちゃくちゃおしゃれな」ものを作り提供するために世界中で意欲的に活動されているとのことだ。トップデザイナーや有名女優とのコラボレーションなどもファッション業界では話題になっているという。


また同じシリーズの記事でベトナム出身のチャン・ルーさんのアクセサリーが紹介されており、私は目下とても興味を持っている。セレブリティと呼ばれる人たちや日本の芸能界にもファンが多いとのことだが、色とりどりのビーズを使ったラップタイプのブレスレットはとても魅力的。クオリティについても厳しくチェックしているようなので、ちょっとほしいなと思っているところだ。


エシカルな活動は幅広く行われているのだろうが、こういったアプローチはとても有効だと思う。誰だって義務的に行動するより楽しみながらの方がいいだろうし、活動の意義も広めやすいのではないかと思う(まあ、ファッション的なものだけを求める人も多いと思うけれど)。


●ピープル・ツリー

http://www.peopletree.co.jp/index.html

●チャン・ルー

http://www.chanluu.jp/

| - | 21:29 | comments(0) | - |
ある選択
13-0822

数日前、ふとテレビのスイッチを入れてみたらドラマを放映していあ。見たこともないが、今やトレンドともいうべき医療モノである。そして、その時のテーマは臓器移植についてだった。小学生くらいの男の子が何かで(最初から見ていない)死んだのだが、その子が臓器移植意思表示カードを持っていた。親はそんなことは知らず、子どもの臓器を提供することなど考えていなかったのだが・・・というような内容。


ドラマの内容はこの際どうでもいいのだが、免許証の裏にも臓器移植についての意思表示欄があるのを思い出した。


前の免許証の裏にはそんな欄はなかったはず・・・と思ったらそれもそのはず、平成22年1月17日から改正臓器移植法が施行されたとのこと。それに伴い、本人の意思が不明な場合でも家族の承諾があれば臓器移植が可能になり、まず本人の意思を確かめる必要性があるので免許証や保険証の裏にそのような欄を設けたのだろう・・・と思う。


こういったことは、生前言葉のみで意思表示をしていても、いざとなるとそれだけを頼りに結論を出すのは難しいということが背後にあるのかもしれない。臓器移植についてだけでなく、故人の意思ははっきり文面にされているといないとでは大きな違いがあると思われる。文面にしていたとしてもそれですべてオーライとはいかないかもしれないが遺族にとっては大きな違いだろう。


ドラマを見て思い出したくらいだから、私はまだ免許証の裏にも保険証の裏にも何も記入していない。が、近々きちんと記入するつもりである。いつどこで死ぬかわからないので遺書らしきものも今のうちに作っておかねばと思っているので、手始めに臓器移植の意思を明確にしておかねばと思う。


免許証の裏の記入については他人に見られないようにするための保護シールのようなものがあるらしい。今のご時世、悪用する輩がいないとも限らないのでそれはいいことだと思う。が、私の場合は必要ないかな?


というのは、私は自分の臓器を提供するつもりがないからだ。「臓器移植意思表示カード」には、選択肢のひとつに「提供しない」があるが、どちらかというとこのカードの目的は「提供する」意思を確かめるためものものだろう。何も記入していなければ結果として意思があやふやということで臓器提供の対象にはならないのかもしれないが、私は明確にしたいと思う。


なぜ提供しないかというと、誤解されたり非難されたりするのを承知で言えば、「人間はこれ以上増えない方がいい」と思っているからだ。医療の進歩とともに、昔は治らなかった病が治るようになった。それは人間にとってはいいことだと思うが、その一方で最新医療の技術を駆使して人間がさらに長生きすることが果たしていいことなのかという疑問が私の中にはある。DNAをいじることには大いなる抵抗を感じるし、臓器移植についても抵抗感が強い。


世の中には臓器移植しか生き延びるための手段がない人たちがたくさん存在する。それは知っている。そしてそういった人たちに諦めよというつもりは毛頭ない。が、自身が提供するか問われれば否と答えざるをえない。臓器移植が「意思」に任されている以上(義務的になったら、こりゃ問題だ!)、提供する意思がある方々にお任せするほかはない。


こんなことを言うと、「それならあなたが臓器移植しなければ死ぬことになったらどうするのか?」あるいは「あなたの子どもが臓器移植でしか助からない病気になったらどうするのか?」という問いが投げかけられるかもしれない。それに対して私は答える。


自分自身の場合は、臓器移植で助かるつもりはない。子どもの場合は提供するが、これは例外中の例外である。子どものためなら、生きている時にでも必要なものはあげてもいいと思っているからだ。


少し前、一緒に仕事をしている人たちとお茶を飲んでいる時に、このような話題になった。私は迷わず自分の意思を話したが、内心あまりいい反応はないだろうと思っていた。が、「そうだよなぁ」という言葉が返ってきて少し驚いた。マイノリティかもしれないが同じようなことを考えている人がいたことを少し嬉しく思った。


いずれにしても、自分の意思をはっきりさせられないようになってからでは遅いのだ。できるだけ頭がしっかりしているうちに死後起きるかもしれない事態にそなえて考えられる範囲で意思は明確にしておいたほうがいい。それが残る人たちのためにもいいと思うし、なにより自分自身にとって最後のけじめであるように思う。

| - | 23:53 | comments(0) | - |
ハンドケア&フットケア
13-0821
・・・例によって記事には全く関係なし(^.^;)横須賀美術館のレストランテラス・・・

同窓会をきっかけにネイルサロンに通いつづけている。といってもジェルネイルは2回ほどやっただけ。確かに持ちはいいのだが、2〜3週間そのままにしておくとさすがに爪は伸びて塗られていない元の部分が気になってくるし、だいたい飽きてしまう(飽きっぽい私)。しかも、塗ったジェルをオフする時、塗り替えだったら無料だがオフのみだと1本当たりいくばくかの金がかかる。


エナメルだったら除光液でさっさと落とせるのだが、ジェルの場合は手間がかかるので費用が発生しても不思議ではない。が、そうすると年中ジェルを付けっぱなしになりそうだし、だいたいジェルネイルの真骨頂であるデコレーションには興味がないのでさっさとやめることにした。費用もけっこう高額だし!


月1回ほどのペースで続けているのはハンドケアコース。ファイル(やすりで形を整える)、キューティクルクリーン(甘皮などを除去する)、パッフィング(磨く)、トリートメント(手全体のローショントリートメントとマッサージ)、ベースコートのコースで、これだけやってもらって2000円台ならさほど高くはないと思う。


素足になる夏だけ、フットケアもやることにした。手より金額がかさむので年中というわけにはいかないと思うが、手足同時にお願いすると平日なら2割引き、ということで。


足はある程度自分でも手入れしているつもりなのだが、やはりプロの道具と技術を使うと断然違ってくるというのが実感だ。とくに角質除去した足のすべすべ感!市販の道具を使って踵ががさがさにならないよう気をつけているが、それでも角質なるものはかなり蓄積されていることが一目瞭然なのだ。


フットバスに足を交互に入れながらケアするのだが、お湯で柔らかくなった足の皮膚にローションのようなものを塗り、踵のケアで使うような道具で丁寧にこすっていくと・・・まあ、恥ずかしくなるくらいボロボロ角質が落ちていく。考えてみれば足の裏は全体重がかかっていることが多いので、それなりに皮膚にも負担をかけているのかもしれない。角質がとれてつるんとなった足にトリートメントをして、爪にベースコート。一皮むけたような足が快適である。


私は一年を通してほとんど素足になることがないので、自分の足をまじまじと見ることも少ない。が、だからこそ手入れはきちんとやりたいと思う。とても個人的な感覚だが、私は足が荒れているというのがとても嫌なのだ。人間の身体の部位の中で手と足がとくに気になるということもあるが、角質除去はしないとしても荒れ放題の足はうら寂しくて。


本当は手も足も自分できちんとケアできればいいのだが、それには道具と技術が必要だ。道具の方は金で解決するかもしれないが技術の方はいかんともし難い。自分の不器用さと費用対効果を考え併せるとプロにお願いした方がよいというのが私の結論だ。


それにくらべ顔の方はほとんど諦めの境地で洗顔と基礎化粧品に多少の金をかけるくらいで特になにもせず。時々思い出したようにハイチオールCを飲んだとてシミ対策にもならず。こちらの方はいたってテイタラクな状態である。

| - | 19:04 | comments(4) | - |
おがさけ!
13-0820

今日は急遽(!)、横須賀美術館まで行ってきた。家人が車で行ってもいいよと言ってくれたのでご好意に甘えて。


ガラス貼りの開放的な建物は2007年開館。観音崎公園内にある、海を臨む開放的な美術館である。ガラス貼りにしたのは塩害を防ぐためらしいが、金沢の21世紀美術館や十和田市現代美術館など新しい美術館のトレンドといった雰囲気だ。


もちろん、目的は「日本の妖怪を追え!」展。先日言った三井記念美術館の展示との共通性を持たせつつ、現代アートにまで及ぶ展示はそれなりに見ごたえがあった。重厚な雰囲気の三井と明るく現代的な横須賀という展示スペースとして対照的な雰囲気を持つのもおもしろかった。


妖怪の絵については先日も書いたし、特別新たな発見があったわけでもないので今日はとりあえず他の話題に。といってもたいしたことではないのだが、美術館のミュージアムショップで国芳の猫のフィギュアを見つけて購入した、というだけのことだ。


このフィギュアは歌川国芳の「其のまま地口・猫飼好五十三疋(そのままぢぐち・みょうかいこうごじゅうさんびき)」の中から3匹を選んでフィギュアにしたもので、これはもちろん「東海道五十三次」の猫版パロディである。


「地口」というのは「ダジャレ」「言葉のもじり」などという意味があるらしく、たとえば五十三次の起点である「日本橋」は猫とかつおぶし2本の絵で「二本だし」。「品川」は白い猫の顔で「白かを」。やや無理やりな感はあるものの楽しい「地口」とともにそれに合う猫の仕草が描かれている。


フィギュアになっているのは「金谷」→「たまや」(太ったブチ猫)、「見附」→「ねつき」(寝ている赤トラ猫)、そして「岡崎」→「おがさけ}(尾が裂けている三毛猫)の3種。私の印象だと「岡崎」の猫が一番国芳らしくて好きなのだが、以前横浜美術館のミュージアムショップで見かけた時、「おがさけ」だけ売切れになっていて残念に思ったのだ。


ところが縁があったのだろうか、今日は無事横須賀でこの「おがさけ」を手に入れることができた。どちらかというと痩せていて目つきが鋭い猫で、後ろ足を広げてこれから顔を洗おうとしているような仕草だ。


猫好きなので猫グッズには目がないが、何でもいいというわけではない。猫好き歴が長くなるに従って選択眼も練れてくるので滅多なことでは買わないようになっている。が、この「おがさけ」には抵抗できずゲットした。国芳の絵の猫はシッポが二つに裂けているがフィギュアの方は普通のシッポ。ちょっとそれが惜しいがなかなかの出来である。

| - | 22:16 | comments(0) | - |
韓国映画の実力
13-0819

クライアントの営業担当の人に勧められてTSUTAYA DISCASに入会してみた。郵送で送られてきて郵送で返す、期限なし、というのは確かに気楽でいい。借りたはいいが返却期日を勘違いして延滞金を払うことも何度かあったし、慌てて観る必要もない。


入会してまだ間もないが、韓国映画を数本借りてみた。前から感じていたのだが、韓国映画の面白さにもっと早く気づいていればよかったのにと少し後悔している。


一応断りを入れておくと、私が感心しているのは「韓国映画」の一部であっていわゆる「韓流映画」ではない。


今まで観てよかったのは「母なる証明」「息もできない」「悲しき獣」、そして割と最近観た「プンサンケ」「映画は映画だ」「うつせみ」など。いずれも、また観たいと思わせる作品で中にはDVDを購入してもいいかなと思っているものもある。


どこかそんなにいいのか・・・となると上手く表現できないのだが、第一印象を端的に言えば「骨が太い」ということだろうか。ストーリーの構成や配役、俳優の役作り、演出、カメラ・・・すべてが骨太で堅固な印象を受けた。日本にもいい映画はたくさんあるが、国民性ゆえだろうかどこか線が細い。繊細だといえば聞こえはいいが、心にぐっと迫ってくるパワーという点においては韓国映画に軍配があがるような気がする。それぞれの個性なのだろうし、どちらがいいというわけでもないのだが。


そういえば懸案になっている「嘆きのピエタ」をまた観ていない。渋谷での上映は終わってしまったので、六本木あたりに早く行かねばと思いつつ焦りだけが募っている。「アリラン」で赤裸々な自身の姿を見せたキム・ギドク監督作品には注目しており、目下過去の作品を少しずつ観ているところだ。「いずれDVDになるだろう・・・」などと悠長に構えず、きちんと映画館で観たい映画である。


ル・シネマでは現在ゲンスブールの映画「ノーコメント」もやっていて、これも見逃したくない。

| - | 19:42 | comments(0) | - |
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