今日の日曜美術館は富士山を題材にした傑作10選であった。葛飾北斎、谷文晁、片岡球子、横山大観、奥村土牛・・・それぞれが特別の思いを持って描いた富士山の数々・・・これを見ていると「文化遺産」として認められたということに対する微かな違和感も和らいでくるようにも思われた。
が、しかし、である。やはり最近のはしゃぎぶりを見るにつけ果たして世界文化遺産として認められたことがいいことなのかという疑問を強くする。
もともとは自然遺産としての登録をねらっていたのではなかったか。なぜそれが困難なのか。「自然」がダメなら「文化」があるさとでも考えているように思えてならないし、「遺産」とは何かを真剣に考えているとも思えない。
山梨や静岡の観光業に携わっている人たちにとっては喜ばしいことなのかもしれないが、「環境」と「観光」が両立するのは難しい。屋久島は世界遺産に登録されてから観光客が増え、環境が劣化していると聞く。世界的に認められたことは誇ってもいいことだと思うが、だからこそその「遺産」を保持していくための重い義務を負ったのだと自覚する必要があるのではないか。
入山料が試験的に導入されたというが、その金額や方法(任意)というのにもあまり納得できない。頂上めざして行列を作る光景は私の目には異様である。「霊峰」として(神聖な場所として)古来より大切にされてきた場所ならば、それなりの心構えを持っていなければならないと思うし、それならこれほどゴミ問題に悩むこともないであろうに・・・遠くから見る富士山はとても美しく畏怖の念さえ抱かせるのに、実際に登ると一気に世俗の世界に触れることになってしまっているのではないか。
世界遺産に登録されるのであれば、環境保全の基準も世界的視点で考えなければならない。入山者数をこれ以上増やさないためには(増えれば増えるほど山が汚されていくという悲しい現実は否めない)、入山料をもっと引き上げて義務化するのもやむを得ないと私は思う。
「世界遺産の経済学」の著者の一人である栗山浩一教授によると、世界文化遺産登録前の
登山者数にするには入山料を7000円にする必要があるとのことだ。7000円といわず10000円にしてもいいくらいだと私は思う。富士山は「観光地」である前に未来に引き継ぐことを好んで受け入れた「遺産」であることを、私たちは思い知らねばならないのではないか。
理想を言えば、「文化遺産」ではなく「自然遺産」として認められるよう努力をした上で申請すべきであったと思う。登録が決まってから慌てて対処しているとしか思えない状況を見ていると登録抹消の危険性も多いにありうるとさえ思う。長年富士山の清掃活動をしてこられた野口健さんが抱く危懼は実際の状況を見てきた登山家としてもっともだと思うのだが、
うかれ気分のニュースばかりが報道されているのを見ていると暗澹たる思いが胸の内に蟠ってくる。
「富士山清掃活動を始めたのだが、当時は環境問題に対する注目度が低く、関心を集めるために“富士山を世界遺産に”と発言してみた」
「多くの人は“世界遺産”という単語だけに反応する。だから、それを利用すればいいと考えたのだが、今は猛烈に後悔している」
(野口健・富士山の世界遺産にモノ申す/MSN産経ニュース)
子どもを産む前、自衛隊の西富士演習場で見た富士山の姿が忘れられない。長く裾を引くあの美しさ。おおらかで気高く、堂々と存在する稀有の山である。実際に登っても清らかな山になってほしいと願いつつ、私は遠くから眺めているだけでいい。