他に書きたいことがなくはないのだが、なんだか我慢できない。あまりにお粗末で馬鹿馬鹿しくて情けなくて恥ずかしくて腹立たしくて・・・
もちろん、今月23日に起きた東海村での被曝事故のことである。放射性物質上昇の警報が鳴ってもそれを止めて実験を続け、さらに何度か鳴り放射性物質の濃度が通常の10倍になっていることを知り換気扇を回し、数値が下がったのでそのまま研究を続け、また上がったのでしぶしぶ運転を停止し、汚染を確認したので立ち入りを禁止し、施設内にいた55人は放射線量を測定することなくいつもどおり帰宅し、その一部始終を方向したのは翌日になってから。
結果的に30人が被爆していたというが、一体全体この日本原子力研究開発機構という組織はどんな意識を持って研究をしていたのか(今後もするのだろうが)、ちょっと信じがたい状況が明らかになっている。彼らにとって1999年に起きた臨界事故の教訓など何も残ってはいないのだろうし、東日本大震災で起きたことも所詮他人事でしかないのだろう。
東海村臨界事故は実に悲惨な事故だった。犠牲になった3人(うち2人は死亡)にとってはもちろん、そこで行われていたことそのものが悲惨だったと思う。思わずそれを思い出して本棚から「朽ちていった命」を取りだし読み返してみた。
この本は、臨界事故に遭遇した作業員とその治療にあたった医療スタッフの想像を絶する闘いの記録である。83日間という日々の中で、患者の状況はみるみる悪化し、今まで見たことも治療したこともない患者を救いたいと思いながら悪戦苦闘するスタッフたちは緊張と不安と疑問と失望の中で全力を尽くしている。
病院に運び込まれた当初、看護士と笑顔で話していた患者はとても大量の放射線を浴びたとは思えなかったという。一番強く被爆した右手が赤く腫れていた以外、外見上はとくに変ったところはなかった。が、間もなく次々と異常が出てくる。高線量被爆により染色体が破壊され新しい細胞が作られなくなる。白血球が極端に少なくなり、ちょっとした感染も命取りになりかねない状態になる。妹から造血幹細胞の移植を受けるが、一時持ち直したもののまた白血球は減少しはじめ、59日後心停止。スタッフの懸命な延命治療により蘇生するが、腎臓、肝臓など多臓器に不全が起こり事故から83日後に死亡。この作業員と一緒に仕事をしていた人も事故から211日後に多臓器不全で死亡。
普段は意識しないが、新しい細胞が作れないということは人間の身体にとって致命的であることがよくわかる。そして、当時最新の医療とスタッフの能力を結集してもなお、救うことができなかったという厳しい現実。
この事故が厳密に管理された中で「想定外」に起きたものであったとしても悲惨なのに、現実的にはずさんな作業に甘んじていたから起きたという二重の悲惨さがそこにはある。マニュアルどおりやっていては効率的ではないということで「裏マニュアル」なるものがあり、当日は裏マニュアルよりさらに改悪した手法で作業が進められていたというのだ。その体質がちっとも変わっていないということではないか。
東海村のホームページをふと見たら、「東海村民憲章」に「わたくしたちは、ゆかしい歴史と原子の火に生きる東海の村民です」という文章があって唖然としてしまった。「原子の火に生きる」という宣言の背景には、どうしようもなく腐り切ったような組織が存在している。この事実から目を背けてはいけないと思っている。
*臨界事故の画像検索をしていたら、こんなサイトが。
*悲惨な画像があるので嫌いな方は見ないほうがよろしいかと。
*YouTube・・・http://www.youtube.com/watch?v=pXxV8nDau4Q&feature=player_embedded