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日々の内側
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おおつごもり
12-1231

毎年のようにバタバタし、ゆとりなど一かけらもないような年末も今日で終わり。大掃除らしきことも年々いいかげんになってきたが、今年は暗くなってからやっと家中に掃除機をかけるという「滑り込みセーフ!」状態であった。


振り返るにはあまりに早く過ぎた一年。記憶力も心もとなくなってきて忘れてしまったことも多いに違いない。が、ざっくり考えてみても思うようにいかないことが多かった一年だったと思う。自分の力ではどうにもならないこともあったが、結局のところその場その場で自分が下した判断が甘かった、あるいは見通しを間違った、あるいは怠惰になっていた、等々自分自身に責任があると思っている。


フリーランスとしての仕事がかなり減ってきたので派遣業務を続けてきたが、月に数万円を得ることと失ってしまったことを秤にかけて見れば後者が断然重いような気がしている。


働かなくては生きていけないのだから、来年もまた何らかの形で仕事をしていくだろうが今年のようなテイタラクには陥りたくはない。来年は生き方を変えよう、と思う。


一方、失ったといえば失ったことになるのだがそれでよかったこともある。そう、息子の独立だ。家を出てからほとんど連絡もよこさないが、彼なりにがんばっているようでよかった。まだまだ心配だが、どこか一仕事終えたような感慨めいたものもある。母親というのは妙なもので、子どもが元気でがんばっているだけで自分にも力が出て来るような気持ちになる。まだまだ負けずにがんばらねばと思うようになる。不思議なものだ。


個人的にも、社会を見回しても明かるい話題はさほど多くなりそうもないが、それでも生きていくならできるだけいい方向に行くよう努力はすべきだろう。あちこちガタが来ている肉体と衰えがちな精神力に鞭打って(!)、来年も自分なりにがんばっていこうと思っている。


さよなら、2012年。

| - | 22:26 | comments(0) | - |
ゴミと格闘した2日間
12-1224

世の中はクリスマスイブということで、特別なことをしている人が多いのかもしれない。

が、わが家はここ数年いつもと変わりなく過しており、それに不満を感じることもない。

が、今年はいつもどおりというよりも、いつもよりハードな日々になってしまった。


責任の一端は私にもあるのだが、ずっとなおざりになっていた息子の部屋の片づけに大変な思いをした。


部屋全体がゴミ置き場か!?と思えるほどひどくて、一緒に住んでいたころからもっと

厳しくやらせておけばよかったと思いつつ、小学生ではあるまいし付きっきりでやらせる

わけにもいかないので結果的には同じかなと思いつつ、数十秒呆然とし、頭の中で段取りを

考え、「やるっきゃない!」とやりはじめたわけであるが・・・


まず、床が見える状態にするまで一苦労。腹が立ったので息子には「全部捨てる!」とメールを送っておいたのですべてきれいさっぱり捨てるつもりではいたが、捨てるにしても「分別」というものをしなくてはならない。それが大変なのだ。


それに、いかにも捨ててしまってはまずいものや、私が貸したままにしていたものなどが出てきてそれらは別にしなくてはいけない。小さなガラクタの中にまぎれている1円玉だって捨てるわけにはいかない。


マスクを付けての完全防備で突入したが、出たゴミの量が半端ではなかった。一体アイツは!と何度呪ったことだろう(^.^;)。だって、小学校の時に入っていたサッカークラブのユニフォームなんぞも引き出しの奥に丸まっているし、中学生のころの教科書なんかもある。大切にしていたのではなく単に捨てるのが面倒なだけ。そんなヤツの後始末をするなんて!と腹は立つがやりはじめた以上やり終えなくてはいけない。黙々と作業が続いた。


片づけも大変だが、ゴミ捨てがまた大変。45リットルのゴミ袋いくつになったのだろう。どれも1つ1つが重い。そして、ゴミ捨て場は階段を9階分くらい降りたところにある。


前にも書いたが、住んでいるマンションは斜面立地で一番高いところに立っている棟の3階がわが家である。ゴミ捨て場は斜面の一番低いところにある。棟の階段を降りても6階分くらいの階段が控えている。1往復でさえ面倒なのに、昨日と今日でなんと13往復したのであった。


おかげで腕とふくらはぎが筋肉痛。運動不足の身にとってみればいいことなのかもしれないが、こんなことで運動したくないわ!と思わず独言。右腕が五十肩でなかなか上がらず、左膝が神経痛でズキズキしていたのだが、片づけたりゴミを出しに行ったりしている間はそれを忘れているのだから不思議である。


明日、明後日は仕事。自分たちが生活しているスペースの大掃除はどれくらいできることやら。もうすでに消耗している。やれやれ。

| - | 21:25 | comments(3) | - |
あしたのチョコレート
12-1221

先週の土曜日だったか、ラジオを聞いていたら医師の鎌田實氏が代表を務めているJIM-NETでチョコレートを販売していることを知った。「CHOCOLATE FOR TOMORROW(あしたのチョコレート)」がそれで、なにやらかわいいパッケージでしかも中身は六花亭。


加えてそれを購入することによりイラクの子どもたちの食糧支援と福島の子どもたちを放射能から守る活動に寄付することができる。寄付らしい寄付などできないが、これくらいなら!とさっそく申し込み先日手元に届いた。


なるほど、かわいい。1セット2000円でチョコが入った丸い缶が4つ入っている。缶に描かれているのはイラクの子どもたちの絵で、子どもの絵が好きな私にとってそれだけで魅力的な商品である。


現金を寄付するのが一番いいのかもしれないが、寄付に対しての考え方や許容金額は人それぞれだ。このように商品の魅力づけをしっかりした上で行う、ある意味カジュアルな寄付はこれからもどんどん増えていってほしいと思う。


先日仕事でFEED Projectなるものがあることを知ったが、これも魅力的な商品販売を通して社会貢献を行う活動である。プロジェクトを起ち上げたのはブッシュ元大統領の娘であるローレン・ブッシュ。オンラインショップで衣料品、バッグ、雑貨などが販売されており、こちらもオシャレである。


●JIM-NET http://www.jim-net.net/

●FEED Project http://www.piecepeace-shop.com/

| - | 16:53 | comments(0) | - |
情けなきこと
12-1217

「ひどいね・・・」今朝発した最初の言葉である。


私のような日本、日本人に半分サジを投げたような人間でもこうなのだから、もっとまともな人たちの落胆はいかばかりか。


今朝は新聞を見る気持ちにも、ニュースサイトを見る気持ちにもなれなかった。昨夜遅く帰宅してメールチェックしがてらサイトを見て、すでにこの結果が火を見るより明らかなことを感じて暗澹たる思いのまま就寝したのであった。


どの党を、どの候補者を選んだらいいかわかりにくい選挙だとは言われていたが、自分が何を最も重視して生きていきたいかを真面目に考えれば、自ずとターゲットは絞れるのではないかと思い、私なりに考えて投票した。しかし結果は最も望ましくないものになってしまった。


日本国民は、強者の論理をやみくもに声高に叫ぶ政府を望んでいるのだろうか。


先日ラジオを聞いていたら、日本の外交下手(稚拙さ)について話されていて面白かった。外国(たとえば中国)に不本意なことをされ「けしからん!」「戦争も辞さない!」という外交がいかに稚拙か、という話。


なにかされたら、短絡的に怒りを表明するのではなく、それを逆利用して自国の有利に結びつけていくのが外交である、という話。なるほどと思った。日本にはそのしたたかさが全く感じられない。


何事についても、諦めてしまえばそれでお終いである。それはもちろんわかっている。しかしまた、そうは思うことが妙に空しい師走の一日。

| - | 16:57 | comments(4) | - |
ひとときの夢
12-1214

少し前のことになるが、久々にショックなことがあった。買ったばかりの器を割ってしまったのだ。


今まで数え切れないほどいろいろな器を割ったが(^.^;)、これほどショックなことはなかった。買ったばかりということもあるが、なかなか手に入れにくい器であることが大きい。


写真は無残に割れたその器である。作者はイム・サエムさん。5年前になるだろうか、このブログの記事でも少し触れたことがある。先月末から3年ぶりの個展をやっていたのでその時に購入した焼酎カップ。焼酎に使わなくてももちろんいいのだが、最近愛飲しているお湯割にぴったりの雰囲気で気に入っていた。お茶なら、ほうじ茶などカジュアルなお茶がよく似合った。


5年前に買った器もまだあるが、こちらも何度か落としてヒビが入っている。いつ割れるかわからないので、今回は満を持して出かけ、手に入れたものだった。以前のものより大振りで肌合いが違うような気がしたが、安南焼の雰囲気がある絵付けが大好きなのでいくつかあるものの中から選ぶのが大変だった。


何故落としたかというと、不注意というほかない。台所の流しの横に置いてあったのだが、ジョーロに水を入れて運ぼうとした時に持ち上げかたが足りず、器にぶつかってしまったのだ。するりと器はキッチンマットの上に落ちてパッカリと割れた。


台所はクッションフロアでしかもマットの上だったのだが、いともたやすく割れた。たぶん焼き方や土の性質によるのだろう。がっくりしながら破片を集めて袋に入れ、しばらくはそのままにしておいた。ゴミと一緒に捨てるにはまだ未練があったし、機会があったら継いでみてもいいかなと思ったからだ。


それでも諦め切れず、個展最終日に再度行ってみたが、焼酎カップはもちろん、少し背が高いカップ類もすべて売り切れて高価な皿や酒器が残るのみだった。人気があるのはわかっていたのでさほど気落ちしなかったが、あらためてあれはひとときの夢のようなものなんだと思った次第。


かたちあるものは、いつか壊れる。よく言われていることだが、買って間もないとやはり悔しくもある。日々、自分の動きには気をつけなければと戒めているところである。

| - | 16:41 | comments(2) | - |
世知辛い年末
12-1210

昨日は用事があって都内に出たが、年々感じてきた年末の喧騒に対する違和感をあらためて感じた。


渋谷の街はクリスマス一色で、表通りやテナントビルで見かける人たちは一様に幸せそうに見える。厳しい商戦に突入した店員たちは精一杯大きく明るい声で通り過ぎる人たちの耳をとらえようとしている。


友人同志、カップル、家族・・・他愛なさそうな会話に混じって街頭演説の声が聞こえる。

どこをどう見ても平和な国の平和な街の光景だが、そこにいる自分の気持ちが全くついていかない。


どうしていいかわからない選挙。なおざりにされている被災者たち。後をたたない自殺(最近とくに人身事故が多い。例年のことだが)。先行きが全く見えない仕事。隣国の不穏な動き。今になって明らかになってくる不祥事の数々・・・


とてもじゃないが、明るい顔をして街を歩ける気分ではないのだが、街はいつもそうであるように平和な顔を装いつづけている。そこにいることに対する不快感と苛立ちはやがて重い疲れとなって自覚される。


しばらくは街に出たくない。イルミネーションは確かにきれいかもしれないが、それを単純にきれいだと思い、眺める心持ちにはなれない今年の年末。

| - | 22:16 | comments(0) | - |
気づかなかった訃報
12-208

どういう連想の結果だったか忘れたが、ふと深瀬昌久のことを思い出して調べてみたら今年の6月に亡くなっていたことがわかった。亡くなったことが残念だという気持ちはない。後述するが、彼にとっては遅すぎた死かもしれないと思うからだ。


しかし、深瀬のことを長い間忘れていた自分に微かな腹立たしさを感じている。


深瀬の写真は暗い。暗くて、ちょっと怖い。荒木経惟の写真がどんなものを撮ってもどこか渇いた明るさがあるように感じるのと正反対に、何を撮ってもそこには重く暗い闇のようなものを私は感じる。不気味で不吉なものを感じる。それが彼の個性だと思い、またその個性が好きであった。もっとも私が見たことがある彼の写真はほんの一部なので、もしかしたらこの印象は間違っているものなのかもしれないとも思う。


北海道の写真館二代目の長男として生まれた深瀬は、生まれた時から写真に囲まれて育った。高校時代にはすでに写真雑誌のコンテストに夢中になり大学は日大芸術学部写真科。広告代理店で広告写真を撮り26歳で初の個展を開催している。


以後、写真雑誌への掲載、個展開催などを経てフリーランスに。40歳になる前に写真集を出し、ちょうど40歳になる91974年ニューヨーク近代美術館、東京国立近代美術館の展覧会に作品を出品。これだけ読めば非常に順調で幸せな写真家人生を送ってきた人のようにも思われる。


が、彼の写真からは幸福感とか穏やかさは全く感じられない。二度の結婚、離婚、実家であった写真館の廃業といった出来事もあるのだろうが、それよりも彼の奥底に存在しつづけた何かがあのような写真を撮らせたような気がする。


写真のモデルにもなった最初の妻・洋子は「救いようのないエゴイスト」と題して深瀬のことを何かに書いたという。「彼の写した私は、まごうことなき彼自身でしかなかったように思います」と。


何をしていても自分のことにしか行き着かない人間・・・それは性格というよりもひとつの「業」のようなものとして深瀬が持ち続けたものなのかもしれない。


1992年、新宿ゴールデン街にあるなじみの店の階段から落ち、脳挫傷の重体になる。酔って階段から落ちたのは初めてではないらしく店の人も気にかけていたらしいが、不幸な出来事は起こってしまった。以来、命はとりとめたものの記憶障害を含め介護が必要な暮らしだったのではないかと思う。


「眼の狩人」の著者である大竹昭子氏が1994年に見舞った時、病院のベッドにちょこんと座っていた深瀬は昔のことをほとんど覚えていなかった、と書いている。たぶん、カメラを持つこともなかったのではないだろうか。転落事故から20年後の2012年亡くなったわけだが、彼にとっての20年とはどんな年月だったのか・・・想像もつかない。


同じように記憶障害になった中平卓馬は、空白の時期を経てまたカメラを持った。以前とは全く違う作風ながら撮ることのみに生きているかのように見える人生を送っている。もうだいぶ衰えてしまったように見えるが(うちの近くに住んでいるのでたまに見かける)、いつでもカメラを持っており、おぼろげな足取りながら「撮る行為」を続けている。中平の人生もまた深瀬とはある意味で対照的だと言えるのかもしれない。


今にして惜しいのは、深瀬を知った当時に写真集を購入しておかなかったこと。今では絶版になっているものが多く、古本の値段はびっくりするほど高価である。どこかの図書館で見るしかないが、それで我慢しなければと思っている。とにかく今の私は深瀬の写真がとても見たいのだ。

 

| - | 21:46 | comments(0) | - |
ストレスって・・・
12-1207

厄介なものだとつくづく思う。何を今更、ではあるが。


私はどちらかというと気持ちの切り替えが早いので、ストレスには強いと思っていた。「ストレスで具合が悪くくなった」と聞くと、それはストレスとの付き合い方あるいはストレスの遣り過ごし方が下手なのではないかと思ったこともある。


しかし、ストレスとはさほどに単純なものではないことに今更ながら気づいたのである。


人は生まれ落ちたその時から様々なストレスに曝されながら生きていく。環境や性格によって程度は違うのかもしれないが、ストレスの重さを量ることは無理に近いのではないかと思う。恵まれた環境にいると思われる人だってストレスに悩むのだろうし、そもそも何がストレスになっているか自分で明確に判断することだって難しい。


心身の不調を感じて調べてみたり、医者にかかったりした時、そこに「ストレス」という名が出てくると私は困ったものだと思う。悩みは数多く抱えてはいるが、それらの総てがストレスになっているのか、そのうちのいくつかがストレスなのかわからない。また、自分が意識していないストレスの原因もあるかもしれない。


意識しているものについても、その原因がわかっているとしてもそれをどうこうする力が自分にはないことが多い。だからこそ、ストレスなのかもしれないが。


とするならば、原因と考えられるものを取り去ることができないのなら、自分自身をだましたり、ごまかしたりする必要があるのかもしれない。忘れた「フリ」をする。考えないようにする。他のものに気持ちを向かわせて気をそらす。人生とはこんなものさと悟ったつもりになる・・・


いわゆるポジティブシンキングというやつはあまり好きではないので、私の場合はまあこんなことに帰結してしまいそうだ。やれやれ。

| - | 18:17 | comments(0) | - |
勘三郎さんを悼む
12-206

中村勘三郎さんが他界された。少し前、容体を懸念する記事をどこかで見かけ、漠然とではあるが信憑性があるなと思っていたが予感は的中してしまった。


私は歌舞伎ファンではない・・・どころか歌舞伎を見に行ったことがない。行きたいと思いつつ未だに行っていないのだから興味はあるものの優先順位はさほど上ではなかったのだろう。また、歌舞伎以外の分野にも積極的に顔を出していたことも知っているが、それを意識的に見たこともない。


しかし、勘三郎さんについての2つの記憶が鮮やかに残っており、それだけの理由で彼の死を本当に残念だと思っている。


ひとつは、ほとんどおぼろげなので書くのも躊躇われるのだが、だいぶ前に偶然テレビで観たドラマの印象が非常に強かったことだ。どんなドラマでどんな役柄だったかも忘れているのに、その時感じた類い稀なる才能に対する驚きと称賛の気持ちは根強く残っている。


当時はまだ「勘九郎」だったと思う。時代劇仕立てだったように記憶しているが、ジャンルを超えた演芸人としての魅力を強烈に感じたのだった。演技の上手下手ではなく、存在そのものが役者だったというか・・・豊かで温かい何かを見る者の胸にしっかり残す役者だと思った。家柄や経験だけでなく、彼の人間性そのものが花開くように演技に投影されていたように思う。


もうひとつの記憶は、だいぶ前に亡くなった女優・太地喜和子とのロマンスだ。当時た彼女が何歳だったかは知らないが、勘九郎は若干19歳だったらしい。それでも彼女を熱烈に愛してはばかることがなかったらしい。


同じ世界に住むかなり年上の女性、しかも「魔性の」という形容詞付きで語られることが多い女性を一途に愛したというその心意気が私はとても好きなのである。太地喜和子も一途で情熱的な女性だったらしいのでふたりの関係はかなり激しいものを含むものだったのでっはないだろうか。「歌舞伎者(傾奇者)」の血をしっかり受け継いだ役者だったように思われる。


それにしても、ここ数年でいい役者が次々といなくなり、ガキばかりが跋扈しているような気がしないでもない。淋しい限りの昨今である。

| - | 22:40 | comments(3) | - |
馬の写真集
12-1204

時々チェックしている恵文社のサイトで馬の写真集を見つけた。新しいものではないがヨゴレなどもあまりないようだし価格的にも手ごろだったので注文。この手の本は1点物の場合が多いので、本はなるべく買わないようにはしているが迷わず。


サイトでの紹介によると、ワンテーマの写真集を量産していたドイツの出版社「Hanns Reich Verlag」から出た「PFERDE」という本で古い壁画から挿し絵などを交えながらモノトーンで統一してある、とのこと。実際に届いて中身を見てみると、ほとんどが写真であった。


馬は人間となじみが深い動物だが、昔ほど人々が馬に触れ合うことはない現代。実際に見ることも、映像として見ることもあまりないのではないか。動物園のポニーや競馬中継くらいが関の山であるような気がする。


この写真集は、競馬で疾走する馬、障害コンテスト(?)でまさに柵を飛び越えようとしている馬、農作業をしている馬、サーカスの馬、馬車を引く馬、ポロの様子、野生の群れ、など様々なかたちで人と関わる馬の姿を見ることができる本になっている。


発行は1967年だから写真も古びてはいるが、あまり見ることができない馬の姿を楽しめ、また写真のセレクト感覚からして日本ではなかなか出せない本であるように思われ、入手してよかったと思っている。


それにしても、馬という動物はなんと美しく、強く、優しい動物であることか。それを再確認できたことにも満足、満足。

| - | 10:52 | comments(0) | - |
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