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日々の内側
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縁は異なもの
12-1031

映画「フタバから遠く離れて」の公式サイトは、こちら

船橋淳著「フタバから遠く離れて」(岩波書店)は、こちら

※朝日新聞10.30夕刊で取り上げられました。


旅の楽しみのひとつに見知らぬ人との出会いがある、と思う。その多くが一期一会なのだろうが、だからこそその出会いを大切にしたいとも思う。


今回は、家人が旭川で贔屓にしている「独酌 三四郎」で京都の方と出会った。カウンター席で隣り合い、ふとしたことから話しかけたのがきっかけ。聞けば、京都でごま油を商う会社の方で旭川には駅前の百貨店で催されている京都の物産展に出店するために来ているとのこと。常連で賑わう店に女性一人で入って来ること自体珍しいように思うが、旭川の知り合いから聞き来店したとのことだった。


声をかけてからはいろいろな話で盛り上がり、京都のことも少しお聞きすることができた。私が会った方は、現社長の奥様で取締役。といってもたぶん私より若く、地方への営業活動にも熱心なようだ。東京や横浜の百貨店でも時々催事参加するらしいが、営業社員の手が回らない時は取締役自らが営業に回っているようだ。


お会いした翌日、百貨店の会場に行きごま油を2種類購入。まだ試していないが、オマケで入れてくれたごま塩や擂ったばかりのごまを使ったらとても美味しい。私は大のゴマ好きなのでこれは嬉しい出会いだった。


名刺もいただいたので、そのうちたくさんオマケをくださったお礼と感想をお便りしたいと思っている。そういえば、店に行ったのは家人の誕生日だったが、社長夫人の誕生日がその翌日とのこと。なんだか妙な縁を感じてしまう出会いであった。



●株式会社山田製油(京都山田のへんこ手絞りごま油)http://henko.co.jp/index.html

※「へんこ」とは、「がんこ」「へんくつ」という意味だそうな。

| - | 05:54 | comments(0) | - |
小樽
12-1030

映画「フタバから遠く離れて」の公式サイトは、こちら

船橋淳著「フタバから遠く離れて」(岩波書店)は、こちら


今回の北海道行きは往復フェリーだったので船中泊で2日とられてしまい、北海道に滞在できたのは2日ほど。宿を旭川にとったのであまり遠出もできず、やや時間に追われた感があった。その分、今後の課題がはっきりしてきたのでそれらを次回からのお楽しみにすることにしよう。


行けるところでどこか・・・ということで、一度は行ってみたいと思っていた小樽に行った。写真でしか見たことがなかった石造りの倉庫が見たかったのだが、行ってみるとあまりに観光地化されているのでびっくり。メインストリートと思しき通りにはガラス工芸品を扱う店や海鮮物を食べさせる店がずらりと並び、まことに勝手ながら「なんだかなぁ」と思った次第。


有名な北一ガラスにも入ってみたが、ピンとくるものがなくて何も買わず。六花亭の大きな店があったのでお土産を買っただけだった。


2〜3時間だけの訪問なので、これもまた仕方ないかなと思う。もっと時間をかけて隅から隅まで(というより、人があまり行かない場所を探して)歩けば、面白い発見があるのではないかと思う。歴史的建造物も点在しているようなので、それらをじっくり見るのもいいかもしれない。


しかし、こんな経験もある意味で大切なのかもしれないとも思う。少なくとも、自分の旅行先における嗜好がはっきり自覚できたのはよかった。今後旅行を考えるに当たっては、この嗜好を中心に考えていかねばと思う。


第一に、私はいわゆる「観光スポット」に興味がもてないようだ。小樽でも、誰もいない港の大型倉庫あたりがとても気に入った。カモメしかいない、見かたによっては殺伐とした風景。そんなものが好きなのだ。


きれいな黄葉に感動したが、さりとてそのような自然の風景を見ることを大きな目的にすることもできない。たしかに気持ちいいし感動もするが、それだけだ。もっと、心が強く刺激されるものを私は求める。もっと明確に言えば、「撮りたい」と思う風景なり光景なりがないと満足しない。つまり、私はカメラとともに旅をし、カメラを向けたくなるものを最も求める、ということになろう。


後日書こうと思うが、苫小牧から旭川に向かう途中で立ち寄った夕張がよかった。地元の方々には申し訳ないが、あの寂れかた、あの夢の残像が忘れられない。いつか・・・これも課題の一つである。

| - | 20:26 | comments(0) | - |
北の秋
12-1029

映画「フタバから遠く離れて」の公式サイトは、こちら

船橋淳著「フタバから遠く離れて」(岩波書店)は、こちら


今回の北海道、予想以上に気温が高くて拍子抜けしてしまった。これから急に寒くなるのだろうが、持っていったダウンはついに使わずじまいで、日中は長袖のTシャツの上にパーカを羽織るくらいで十分。寒冷地用の防寒ブーツを履いていったので足が暑いくらいだった。朝晩はさすがに冷え込むが、それにしても「これが10月末の北海道か!?」といった感じであった。


しかし、自然はちゃーんと時節をわきまえていて、紅葉は着実に進みつつあった。まず目を引くのは街路樹にもよく使われているナナカマドだろう。すでに葉も真っ赤になっているものも多く、同じように赤い実がたくさんついていた。


小樽の歩道で落ちている実を拾ったが、そんなことをしているところを地元の人に見られたらすぐによそ者だと知れてしまうだろう。それほどナナカマドは一般的なのである。


一般的に「紅葉(こうよう)」というと葉が赤くなるというイメージが強いように思われるが、私が見た限り北海道では葉が赤くなる木は少なかった。ナナカマドかカエデの仲間くらいだろうか。植栽されている低木、たとえばニシキギなどはきれいに赤くなっていたが、山々を見渡してみても赤く色づく木は少ないように思う。


赤く紅葉する木がないと淋しいかというと全くそのようなことはない。以前にも書いたと思うが、私は黄色や褐色に色づく木々の「黄葉」がむしろ好きである。赤は目をひくが、気持ちが落ち着かない。緑から黄緑へ、そして黄色や褐色、あるいは紫色へと変る木々にはなにかしっとりした情緒を感じる。


白樺の黄葉がとても美しかった。みなさんご存知の白っぽい幹から細い枝を伸ばし、葉をぱらぱらと付ける。その葉が透明感のある黄色に染まる。どこか儚げな感じもして何ともいえない。強い風が吹いたら一気に散り落ちてしまいそうな錯覚を覚えながら、たっぷりと白樺の黄葉を楽しませてもらった。


そういえば、奥入瀬の秋も黄色のハーモニーがきれいだった。彼の地も赤く葉が色づく木は少ない。黄色や褐色中心の黄葉と渓流が冷たく澄んだ空気の中で冴えわたる。今年は見に行けなかったが、いつかまた、と思う。

| - | 05:22 | comments(2) | - |
船旅
12-1028

映画「フタバから遠く離れて」の公式サイトは、こちら

船橋淳著「フタバから遠く離れて」(岩波書店)は、こちら


23日から北海道に行ってきた。今回ははじめてフェリーに挑戦!?


新潟から小樽という経路もあるが、今回は大洗から苫小牧で。乗ったのはご存知商船三井のサンフラワーだ。はじめてということでやや緊張気味だった。今でこそ車酔いなど滅多にしなくなったが、子どものころは車に弱くてバスで行く遠足にはいつも恐怖に近い気分を伴った。成長するにつれて心理的なコントロールもできるようになったのか車酔いをする頻度は減ったが、それでも子ども時代の記憶はやはり残っている。一応酔い止めの薬も買って内心ドキドキで乗船。


大きな船なので揺れるといっても、ゆら〜りゆら〜りといった感じ。よろめく程の揺れではないのだが、眩暈持ちの私としては自分が眩暈を起しているような妙な気分になってくる。ただ、時間が経過するとなんとなくコツのようなものを体得(おおげさ)した。揺れが気持ち悪いと思ったら、できるだけ身体を水平にするといいのだ。


立っているより座っている方がいいし、座っているより寝ている方が揺れによる違和感を感じない。ここが普段の眩暈と違うところで、眩暈が起きると時によっては横になるとさらに気持ち悪くなる。


慣れてしまえば、ただひたすら入港を待つのみとなる。乗船時間は約19時間。いつもより長い睡眠時間を取るといっても、時間はたっぷりある。船の中を探索するといっても限りがあり、船旅に慣れない者は時間を持て余す。


世界一周クルーズとはいわないまでも、何日間かを船上で過す旅にはそれを楽しむ術を身につけておかないとダメだな、と思った。本を一冊読む、マフラーを一本仕上げる、人とのゆったりした会話を楽しむ、書き物をする、でも何でもいい。船の上にいるからこそ楽しめることを見つけて乗船すれば、陸上では味わえない時間を体験できるかもしれない。


往きの部屋は洋室ツインベッドのデラックスルームだったので部屋にいる時は快適。バストイレはついているし、冷蔵庫もあってちょっとしたビジネスホテル並である。さすがに窓は小さいが、それでも海の様子はいながらにして見ることはできるし。スイートルームだったらもっと長く乗っていたくなるかな?


ということで、海が荒れていない限りまた船旅を楽しみたいという気持ちはある。新潟からの新日本海フェリーもよさそうだ。


さて、明日からは北の大地上陸後のお話を少し。

| - | 08:30 | comments(3) | - |
黒に帰る
12-1022

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船橋淳著「フタバから遠く離れて」(岩波書店)は、こちら


かなり方向性が定まってきたとはいえ、着るものに関して私はかなり気まぐれである。どんなものが着たいか、自分でもなかなか先の予測がつかないことも多々あって、そのくり返しの結果が一向に減らない衣類というわけだ。


デザインについてはほぼ好みが固まっているが、色についてはなかなかそうはいかない。急にある特定の色が気になりはじめるとその色ばかりを追いかけそうになる。今年の夏は、以前受けたカラーカウンセリングで私の色だと言われたこともあり黄色が気になった。といっても強い黄色を着る勇気はなく、淡めの黄色にとどまったのだが・・・


最近一番気になるのは、黒。若い時分、一時的にではあるが黒ばかり着ていた時期があった。今でも黒は一番大切な色だが、だからこそ無闇に着なくなってきていた。フリーランスになって、家で仕事をしていることが多くなると黒はホコリが目立つのでまず着ない。派遣仕事先にもあまり着ていかないでいたのは、ホコリっぽい職場であることもあるが、とにかく緊張感を持たずにいられる服装にしたかったからだ。


黒を着るには緊張感が必要だ。そして、その緊張感は気持ちいいものでありたい。やはり、黒は私にとって特別な色であり、いろいろな色に浮気をしても結局帰っていく色なのだと思う。


ここ数年、ユニクロなどカジュアル(!)な価格のものを買うことが多くなっているが、黒い服は買わない。何故なら、黒はごまかしが効かない色なので、上質なものでないと(ユニクロが特に悪いというわけではない)ボロが出る。若い人ならそれでもなんとか着こなせるように思うが、私の年齢になるとダメである。見た目の衰えがさらに強調されるような気がして。


それはともかく、先日久しぶりに黒づくめスタイルをしてみたら、けっこう気分がよい。この秋冬は黒を着るためのシチュエーションづくりに励もうかと思っている(遊びに行くことを考えているな?)。


*明日からしばらく留守にするので、次回更新は週明け・・・かも。

| - | 17:09 | comments(2) | - |
闘う人
12-1021

映画「フタバから遠く離れて」の公式サイトは、こちら

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人間は大きく「闘うひと」と「闘わない人」に分けられる、と思う。ずいぶんおおざっぱで乱暴な分類だが、何か理不尽な出来事に遭遇した時、闘う姿勢を取ろうとする人と闘いを避けようとする人がいる、と思う。とことん闘うかどうかは別にして、とことん避け続けるかどうかは別にして。


闘う人が強く勇気があり、闘わない人が弱く卑怯だ、という単純な話ではない。むしろ、闘い続けることが愚直であり闘いを上手に避ける方が利口だと思われているのが現状に近いのではないだろうか。少なくとも日本では。


若松孝二監督がなくなった。映画を監督で選ぶという所謂「通」の観かたをしない私にとって、さほど愛着がある監督ではないが、あらためてその経歴や仕事を振り返ると、その闘いぶりは見事だったと思わざるをえない。権力や体制に対するあのパワーは一体どこから来ていたのだろうか。多くの信奉者を作ると同時に多くの敵を作ったに違いない人生だったように思われる。


私が観たことがある若松作品は2つだけだ。「実録・連合赤軍あさま山荘への道」と「エンドレス・ワルツ」だ。どちらもおもしろかったし、「エンドレス・・・」については偏愛に近い気持ちを長年抱いていてDVDも持っている。


連合赤軍の映画は、彼らの運動に共感したというよりも彼らの闘う姿勢に興味を持って作られた映画、という印象を持つ。映画からはあの悲惨な事件への非難も、同情も感じられない。あのような状況に追い込まれていった彼らの姿がリアルに描かれているように思われた。


「エンドレス・・・」は、鈴木いづみと阿部薫の物語である。ピンク女優から作家に転身した鈴木いづみと、フリージャズの世界では天才と言われた阿部薫。ふたりとも、それぞれの世界の中では異端者であった。その2人が出会い、愛し合い、憎しみ合い、片方が死に、残された方もまた後を追うように死ぬ。所謂「闘い」は描かれていないが(一部学生運動のシーンが出て来るが)彼ら2人は明らかに「闘う人」であったと思う。


個人的には、「闘う人」が好きである。愚直であろうと、損ばかりしようと、みじめに見えても、上手に闘いを避ける人よりも好きである。そして、闘う姿勢を取ってはみたもののおじけづいたり諦めたりして、のらりくらりと生きている自分がイヤになることもある。


若松孝二監督のご冥福を祈る。

| - | 22:48 | comments(0) | - |
DEDICATED
12-1020

映画「フタバから遠く離れて」の公式サイトは、こちら

船橋淳著「フタバから遠く離れて」(岩波書店)は、こちら


映画「今日と明日の間で」を観て、首藤康之というダンサーに惹かれて、「鶴」に続き今日は「DEDICATED」を観に行ってきた。


今回の演目は映画でとても印象的だった「今日と明日の間で」、映像作品「The Afternoon of a Faun 〜ニジンスキーへのオマージュ」、そして「WHITE ROOM」である。ろくすっぽ調べないで行ったので、これほど映像が占める割合が高いとは思っておらず、ちょっと拍子抜けした感があった。また、約1時間と以外と短い公演で、もっと彼のダンスを観たかったという物足りなさが残ったステージだった。


が、少し時間を置いて振り返ると、「ニジンスキー・・・」は映像としてかなり見ごたえがあったものであるのは確かだし、映像とダンスのコラボレーションを狙ったものであるなら、これはこれでひとつの試みであると思えてくる。長ければいいというわけではない。


そこで思ったわけだが、これは、何の予備知識もなくただステージを観るだけでは表層的なことしかわからない作品なのだということ。このステージの狙いや込められた思いなどを知ろうとしなければ、ただ「あ、そう」で終わってしまいそうだ。


それだけ深いといえば深い。だから、今回の印象のみで何らかの結論を出すつもりもない。

それにしても、あらためて思うのは首藤康之というダンサーは、たぶん最も有名であるであろう熊川哲也とは対照的だ。


どちがいいという話ではない。価値観や目指すものが、全く違うダンサーだというだけだ。どちらがいかというのは、ほとんど好みの問題である。私は首藤が好きだが、これは私の個人的な好みだというだけだ。


今日は会場でダンスマガジン社が編集した本を買ってきた。つらつらと読んでいるが、首藤から見たジョルジュ・ドンの姿が印象的でいずれそれについても書いてみたいと思っている。


*「今日と明日の間で」の予告編は、こちら

| - | 18:43 | comments(2) | - |
弱き者たち
12-1017


映画「フタバから遠く離れて」の公式サイトは、こちら

船橋淳著「フタバから遠く離れて」(岩波書店)は、こちら


「社会的弱者」という言葉がある。あまりいい印象は持たないが、いろいろな意味で「強い者」と「弱い者」が存在するのは事実だ。金をもっている者ともっていない者。地位があるものとない者。健康な者とそうでない者。若い者と年老いた者。大きい者と小さい者・・・


強弱の差は、なにかが起きた時にはっきり意識されることが多い。今回の大震災も同様。「強い」という表現はちょっと違うが、被災していない私たちと実際に被災し多かれ少なかれ何かを失った人たちの間には、明らかな温度差があるような気がする。被災者同士の中にもそれはある。


これは人間社会のことだが、当たり前のように地球上には人間以外の動物たちがいる。しかし、今回のような想像を絶する出来事が起きると彼らは忘れられがちである。放射能にまみれた地域にも野生動物はたくさんいるし、家畜として飼われていた動物、ペットたちもいる。ペットについてはレスキューを行う団体の献身的な行動に頭が下がる思いをしたが、それ以外の動物たちについては話題になることは少ない。


「フタバを遠く離れて」は、双葉町から遠く埼玉県の騎西高校まで避難して来た人たちにスポットを当てた映画だが、例外的に浪江町で牧場を営む人が出てくる。


ニュースで見たことがある方も多いと思うが、強制的な避難で放置されたまま多くの家畜が悲惨な死を向かえた。放牧されている牛たちは放射能まみれの草を食んで飢えを一時しのいでいられたが、繋がれたままのものたちはそのまま水を飲むこともできず餓死していった。


映画では、浪江町で牛とともに暮らしつづける牧場経営者(のちに、それがエム牧場の吉沢さんという方だと知る)が出ていて、危険な地域にとどまっている自身の悲壮な意思が印象的だった。


酪農家にとって牛たちは生活の糧を得る手段だが、だからといって命あるものを無機質の道具と同じようには思えないのだろう。牛たちを放置して自分だけが避難するという道を捨て、「意地」で留まり続けている。すでに商品としての価値が全くない多くの牛たちの面倒を見ることは、ある意味愚かな行動なのかもしれない。が、自分たちだけが助かっていいものなのかという疑問もまた当然のことである。


映画では、エム牧場の近くにある見捨てられた牧場の牛舎の様子が取材されていた。牛たちは、骨と皮になったまま、あるものはすでに白骨化した状態で死んでいた。目を覆いたくなるような悲惨な光景である。言葉を発しない動物たちは、ただひたすら苦しみに耐え静かに死んでいったのだ。累々と並ぶ牛の屍。そんな光景が彼の地では珍しくないという。


最近、被災したペットたちのストレスについて行った研究結果がニュースになった。人と密接に暮らしている犬についてだったと思うが、被災していない犬に比べてストレスを示す物質の測定値が目立って高いとのことだ。反応が鈍くなったり、学習能力が落ちたり、人に対する愛着が薄くなったり、と様々な症状が出ているらしい。


牛や馬、野生の熊など人よりもはるかに身体が大きく体力もある動物も、人間社会の中においては弱者である。人里に出て来れば熊は射殺される。人の暮らしが行き詰まれば牛や豚は放置される。ペットと言われている動物も飼い主から引き離されたりしてかなりのストレスを受けている。


国家というシステムは、結局は「強き者たち」を守るためにあるのではないか、と思うことが多い今日このごろ。が、「弱き者」に目を向けない社会は、絶対におかしいと思う今日このごろ。


希望の牧場ふくしま

| - | 21:38 | comments(0) | - |
現実を見る
12-1016
・・・ホースパラダイスの近くで見た可愛い仔牛・・・

映画「フタバから遠く離れて」の公式サイトは、こちら

船橋淳著「フタバから遠く離れて」(岩波書店)は、こちら


本の方はまだ読み終わっていないので、それについては後ほど書きたいと思っている。が、映画を観て以来なにかにつけて断片的なシーンを思い出し、自分の目の前にある平和ボケしたような世界が嘘臭く感じることがある。


映画を見終り、渋谷の街に出た時感じた違和感は何だったのだろう。感動的なものに出会った後の一時的な痺れのような感覚のせいだろうか・・・そうも思った。すぐに今までの自分に戻るのかもしれないと思い、付近の百貨店に入っていた大型書店に行ってみた。欲しい雑誌があったので、そこならあるかもしれないと出かけることを決めた時に考えていたのだった。


しかし、目的の雑誌はなかった。もっと綿密に探せばあったのかもしれないが見当をつけたコーナーをざっと見るだけで精一杯だったのだ。延々と並ぶ本棚の、みっちり積み込まれた本が頽れてくるような錯覚を覚えていたたまれなくなり早々に引き上げてしまった。


久しぶりの感覚だった。以前似たような錯覚を覚えて長い間本屋に行けなかったことがある。その原因もわからなければ、知らないうちにそれが消えてしまったきっかけもわからないままだが。


渋谷には久しぶりに出たので、あれこれ見て帰ろうと思っていたのだがそれもできなかった。楽しそうに話をしながら歩いている若者たち、路上にあふれる雑多な音楽や呼び込みの声、これでもかこれでもかというほど飾り立て並べられた商品たち・・・それらは目の前にありながらガラス越しに見ているようで現実味を感じなかった。しかし、それが私の目の前にある現実なのであった。


本を読み始め、頭の中が少しずつクールダウンしてきた。なかなか明確な答えは出ないと思うけれど、それでも目の前の現実だけでなく、故郷に帰ることを許されない人たちの、福島の、そして日本の現実をしっかり見る努力をもう一度(というより常にくり返して)していかなくてはいけないと思う。


しばらくの間、記事の冒頭に映画と本のリンクを貼る。

| - | 20:55 | comments(0) | - |
フタバから遠く離れて
12-1014

懸案であった映画「フタバから遠く離れて」を観に行ってきた。昨日からの公開だったが、再度調べてみると2週間限定の公開とのこと。考えたら今日しか行く日がなく、自宅でゆっくりしようと思っていたが急遽出かけた次第である。映画を観るならできるだけ平日に行きたいと思っているし、今回はテーマがテーマなだけに混雑が予想され、できれば日曜日は避けたかった。が、そんなことを言っている場合ではないのであった。


映画は、福島県双葉町から埼玉の廃校になっていた高校の校舎に町ぐるみで避難してきた双葉町の人たちを取材したものである。町全体が警戒区域となり1423人の町民が約250km離れた埼玉へ避難した。それほど大掛かりな非難は他にない。何故、そんな遠くまで非難したのか。何故町ぐるみの非難になったのか。それは映画の中で町長である井戸川さんによって語られるので、ここではあえて割愛する。


内容は書かない。面倒だからではなく、実際に観て欲しいからである。もし観る機会がどうしてもなければ、監督である船橋淳さんが書かれた映画と同名の著書を読んで欲しいからである。


日曜日である今日出かけたのは正解であった。正解というよりも運が良かった。なぜなら、今日は井戸川町長と今なお旧埼玉県立騎西高校で非難所暮らしをしている方々数人がおみえになり、代表者からのご挨拶、町長と監督の遣り取りを聞くことができたからだ。映像だけでなく、実際被災された方々や避難を決定した町長の声を聞くことができたことは幸いである。映画から受けた衝撃を、さらに生々しくすることができたからだ。


映画の中で、避難してきた方の一人が自分たちは「腹で怒っている」と独言のように言っていたのが印象的だった。「頭で怒っている」のでもなく「心で怒っている」のでもない。「腹で怒っている」というのはもう身体全体の本能的な反応に近いような気がする。


「経験した者でなければわからない」という物言いを私はあまり好きではない。それは、想像力を真っ向から否定しているように思えるからだ。が、今回の件に関しては、それを悔しさとともに自覚しつつ、少なくとも「絶対に忘れない」ことを自らに誓いつつ、自分ができることを探していかなくてはいけないと思っている。


原発に依存じない社会を求めてデモをするのも大切な行動である。しかし、より身近な問題として、フタバの人々のことを考え続けなければならないのではないかと映画を見終った後思った。すでに被爆してしまった人も多い。生活の変化で体調を崩されている人も多いことだろう。避難所から少しずつ人が減り、今では200人もいないそうであるが、離れていった人たちも同じ傷を持っているに違いない。


映画の後、町長から一枚のシートが配られた。それは、「チェルノブイリより4倍も高い福島の避難基準」というタイトルが付けられている表で、チェルノブイリ区分においては5mSv以上が移住の義務を負う(強制避難)のに対し、福島では20mSv以下であれば避難指示の解除が準備されている区域となっている。20〜50mSvが「居住制限区域」、50mSvを超えてはじめて「帰宅困難区域」なのだ。これはひどすぎる。この事実を少しでも多くの人たちに知ってほしいという思いから町長はこのシートを準備したという。


渋谷での公開は26日(金)まで。機会をつくって是非行ってほしいと思っている。


●「フタバから遠く離れて」公式サイトは、こちら

●船橋淳著「フタバから遠く離れて」(岩波書店)は、こちら

井戸川町長の国会での訴え


| - | 19:26 | comments(2) | - |
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