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日々の内側
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長月晦日
12-0930

あっという間に9月も終わり。日々の流れが早く感じはじめて久しいが、今年の9月は特別早かった。


派遣の予定をコンスタントに入れていたら、本来の仕事(フリーランスとして個人で請け負う仕事)が3本重なり、その間を縫うように遊びに行ったり旅行に出たり。充実していたといえなくもないが、ここにきていささか疲れが出始めている感じ。


が、そうも言っていられない。10月はさらに忙しくなりそうなのだ。スケジュールを記してあるカレンダーを見ても平日はほとんど埋まっていて、土日祭日もちょこちょこ埋まりつつある。フリーで受けている仕事もまだ2つ続いているので、寝る時間を削らなくてはならないだろう。後半には旅行も(またしても!)予定している。


忙しいことは、いいことだ。とくに私のような人間は、あまりに時間があるとロクな事は考えない。不安なことがあっても考えすぎる時間がないから精神的な落ち込みも最低限で済むような気もするし、何よりも脳ミソが活性化して視野が広がるような(実際はどうかわからないが)気さえしてくる。


ただ、やはり寄る年波、体力的な問題はある。今だってあちこち不具合があるのだから、上手にごまかしつつ、さぼりつつ、休みつつ日々を過していこうと思う。

| - | 21:16 | comments(0) | - |
問いかける目
12-0929

先日、田村彰英写真展で藤牧義夫という版画家のことを知った・・・と書いた。以後気になっていて、数冊の本をAmazonの「ほしいものリスト」に登録しているが、そのうちの1冊「生誕100年藤牧義夫」(求龍堂)を買った。今年の1月、神奈川県立近代美術館で開催された展覧会の公式カタログらしい。


24歳で突然失踪してしまった謎多き生涯の版画家。その作品は、かなり私の好みである。荒削りに見える線は計算されつくしたものであろうが、痛いくらいの集中力と勢いを感じさせる。橋を題材にした作品も多く、橋フェチである私の心をくすぐる。


「赤陽」(せきよう、と読むらしい)は代表作として上げられているようだが、なるほど強い印象を受ける作品だ。ビルが乱立する街並みの中央に道路が描かれている。車が走っているのでそれは紛れもなく道路なのだが、川のようにも滝のようにも見える。道路そのものがまるで流れているかのような錯覚を覚えさせるのだ。そして、右上方のビルのあたりに落ちようとしている太陽。


上手く表現できないのだが、静止しているようでいて動いている、動いているようで静止している・・・そんな妙な感覚を覚える作品だ。そこには生暖かい温度があり、ゆるい風があり、倦怠があり、烈しさがある。写真家が強く影響を受けたことが頷ける1枚だ。


作品とともに、画家の写真や書簡なども紹介されている。群馬県館林の武家を先祖にもつ家に生まれたらしいが、藤牧の顔は武骨さを感じさせず、やさしく静かである。これといって特徴らしいものがない顔だが、集合写真を見てもすぐに探し当てることができる。何故だろう・・・


ふと、彼の視線が何かを問いかけているような気がしてきた。まっすぐにこちらに向けられた視線は清らかで、問い詰めるような力はない。しかし、何故だか目立つ。周りの人たちもみなカメラ目線なのに何故だか彼の視線が目立つ。もしかしたら私だけなのかもしれないが、問いを含んだ目線というのはひどく気になるものだ。だから、すぐに見分けがつくのかもしれない。


いったい彼は何を問うているのだろう。切羽つまっているわけでもなく、謎かけをしているわけでもなく、静かに問うている。気になるが、答えはたぶんでないだろう。

| - | 15:24 | comments(0) | - |
秋に烈しく
12-0928

数日前、一段と秋めいた空気が漂う日だったと記憶しているが、突然ミンミンゼミの大きな鳴き声が聞こえてきた。晩夏ともなれば鳴き声が聞こえてくるのはツクツクボウシばかりだと思っていたのに、そのミンミンはバックコーラスもない独唱体勢で鳴きつづけていた。


ヤケになっているね・・・家人と冗談めいて話していたが、他の蝉に遅れて生まれてきたその蝉もみなと同様自分に与えられた命が尽きるまで煩いほど高らかに鳴きつづけるのだろう。小さな虫の命のなんと烈しいことか。


今日、電車待ちのホームから何気なく線路を見ていたら、線路脇にヨウシュヤマゴボウがあるのに気づいた。うちの近所ではなかなか見つけられなくなっている、私の大好きな草だ。他の雑草にまじって大きく育ったそれは風にあおられたのか途中で折れ、倒れるような姿になっていた。


しかし、赤紫の実はつやつやと大きく。赤というより黒に近い色に熟しつつあった。ほとんど誰も気に止めない外来の草の命もなんと烈しいことか。


涼しくなって気持ちが落ち着いてくるせいか、周囲の風景が静かに透き通っていくような感覚を覚える秋。が、よく見ると、あちこちで烈しく生きているものたちがいることに気づく。

| - | 23:34 | comments(0) | - |
朝の愉しみ
12-0927

派遣仕事に行く日は、8時少し前に家を出る。もっと遅く出てもいいのだが、バスも道路も混み合う時間帯になってしまうので早めに出て、バスを乗り換えるターミナル駅前のファストフード店でゆっくりコーヒーを飲むのが習慣になっている。


家を出てしばらくすると、坂の上にある一戸建てから母親と幼稚園児くらいの男の子が出てくる。男の子は自転車用のヘルメットを被り、リュックサックを背負っている。2人が家を出てからしばらくすると、父親が自転車の前に小さな男の子を乗せて先に出た2人を追い抜いていく。そして長い坂を下り終わったところで、母親と上の子どもが来るのを待っている。


どうやら、保育園に2人の男の子を連れて行くのは父親の役割らしい。母親と一緒に歩いていた子はおもむろに自転車の後ろに乗り、母親は3人と分かれて駅へ向かう道を歩き始める。

母親と上の男の子が坂を下り終わるころまで、私は2人の様子を見ながらゆっくり坂を下りていく。


2人は手を繋ぎながら、楽しそうにおしゃべりしている。家を出る時から自転車に乗ることもできるだろうが、お兄ちゃんはママとの朝の時間を楽しみたいのだろう。


たいした話をしているわけではないと思う。しかし、わずか数分の母と子の時間は彼らにとってたいせつなものに違いない。天気がいい日は、明るい朝陽の中で彼らの後ろ姿が微かに輝いてみえる。それを見ているのが私のささやかな朝の愉しみだ。


そのような光景に愛しさを感じるのは、たぶん私がかつての自分と息子の姿を重ね合わせているからだろう。歩けるようになってから、息子と私はよく手を繋いで歩いた。子どもの中には親と手を繋ぐのを嫌がる子もいるが、息子はむしろそれが好きで私の手を離そうとはしなかった。小さな手の、微かな温もりを今でも覚えているような気がする。


これはなにも「アキノスショウコウグン」の症状ではない、と思う。何故なら、彼らの姿を愛しいと思う気持ちは決して切ないものではなく、ただただ、愛しく清々しいものだからだ。母親と手を繋いでいる子も、すぐに大きくなって母の手から離れていくだろう。それでいいのだ。だからこそ、彼らの今の姿が美しく私の目に映るのだろう。

| - | 22:17 | comments(2) | - |
キカイが人間を理解する?
12-0925

たまたまムシの居所が悪いのかもしれないが、何気なくTVを見ていてとても抵抗を感じたCMがある。「あなたを理解するスマートフォン」というのが、それだ。


え?スマートフォンが人間を理解しちゃうの?人間って、自分たちが作ったキカイに理解されちゃうの?


ディスプレイ相手に怒っても仕方ないのだが、思わず口に出しそうになった。こんなCMにほだされてしまう人って・・・けっこう多いんだろうなと思ったら、今にはじまったことではないがやはり情けない。


要は、本当に理解しているのではなく、理解しているようにプログラムされただけのキカイでしょ?キカイに人格があるような錯覚を持たせて売ろうとするいつもの手でしょ?その手に引っかかる人が多いから調子に乗っているんでしょ?というのが、私が考えたこと。


そもそも、技術が進むということは良い点ばかりではないのではないだろうか。便利だとうだけで諸手を上げて喜んでいいのだろうか。便利さに甘んじているから、人間がダメになってしまうのではないだろうか。


あたかも「自分を理解してくれ、自分ができるだけ楽になるようにしてくれる」キカイに頼っているから、何も考えず、工夫もせず、失敗もせず、だらだらと長生きしている人が多すぎるような気がするが?確かに誰でも辛い思いをするより楽な思いをしたいわけだが、もっとラクチンに、もっとラクチンに、という果てしない欲望に身を任せて何の疑問も持たない姿は、やはりおかしいと思う。


人は成功からよりも、失敗からの方がはるかに多くのことを学ぶと誰かが言ったそうだが、これは金言だと思う。


便利すぎて失敗しないクセがついてしまうと、学ぶこともなく進歩もしない。目先の便利さにかまけているうちに、せっかく高等な脳を持って生まれてきたというのに、その能力を腐らせたままで死んでいくことになってしまいそうだ。


もちろん以上の文章は自戒の意味も込めて書いている。私とて全自動の洗濯機は使っているし、カメラのオートフォーカス機能も常用している。ただ、便利な機能に気づいた時、果たしてそれを使うことが当たり前のことなのかを考え、その機能に甘えてしまうことに対する疑問を持ちつづけていきたいと思うだけである。

| - | 21:58 | comments(0) | - |
陽炎の辻
12-0923

なんだかんだ言って、私は時代劇好きである。一昔前は週1回はゴールデンタイムに時代劇が放映されていたと思うが、最近はとんと見かけないのがちょっと淋しい。


先日、レンタルで「陽炎の辻」を借りてきて現在一気に鑑賞中。この番組は、いつだったか偶然1話だけ見たことがあったが忘れていた。たまたま店でみかけたので借りてみたらけっこう面白いのだ。ストーリーは、まあ、よくありがちなものだが時代劇とはたいていそうしたものである。


ゆえあって脱藩して江戸の長屋暮らしをしている主人公が様々な事件や出来事に遭遇していくといったストーリーだが主人公をとりまく人たちがバラエティに富んでいて面白い。芸達者な脇役が大勢出ていて物語に厚みをもたせているような気がする。


主演は、山本耕史。この人はさほど注目していなかったのだが、「黒猫ルーシー」を見て面白い俳優だなと思った。「陽炎・・・」では、見た目通りの優しく爽やかな役柄だが、私が注目したのは殺陣の場面。形がきれいなのである。


殺陣については何も知らないが、けっこうな数の時代劇を見ている目から見ても、動きがきれいである。スピード感のある殺陣でも乱れることなくきれいに決めている姿は見ていて気持ちいい。たぶんこの人は勘が鋭いのではないかと思う。運動神経もいいのだろうが、相手あっての演技なので持ち前の勘のようなものがないとなかなかきれいに決まらないものなのではないかと思うので。


好評だったのか、シリーズは第3作まで作られ来年の正月時代劇としても登場するとのことだ。ちょっと楽しみ。

| - | 22:05 | comments(0) | - |
片恋
12-0922

某番組で寺山修二に関するクイズが出題された。著書から引用した名言と言われるものらしく、3人の回答者のうち1人が正解。どうやら寺山ファンや演劇人にはけっこう知られている言葉らしい。それは・・・


親の愛情、とりわけ母親の愛情というものは

いつもかなしい。

いつもかなしいというのは、

それがつねに「片恋」だからです


「家出のすすめ」からの引用らしいが、なるほど「片恋」とはよく言ったものだと思った。「片思い」ではなく「片恋」というのがいい。


「親の心子知らず」とはよく言うが、それとはやはりニュアンスが違う。母親の子どもに対する盲目的ともいえる愛情は、子どもからすれば鬱陶しく早くそれから逃れたいものなのかもしれない。


私は若いころ、自分の母親からそれを感じたことはないが、他人の母親のそれを感じてとてもイヤだと思った。母親にはなりたくないと思ったし、もしなったとしたら絶対にああいう母親にはなりたくない、と思った。


しかし、母親というものになって二十年以上が経過した現在、盲目的とまではいわないにしても、理屈抜きで子どもへの愛情を貫く母親の感情は、十分理解できるようになっている。


それをどの程度表面に出すかどうかは別問題で、我が子が罪人になろうが生きている以上捨てずに愛しつづけることができるのは、やはり母親ではないだろうか。我が子の罪の重さに対して、「死んでおわびをする」と自死を選ぶのは父親が多いように思う。母はどれほど子の罪が重くとも、子が生きている限りなかなか死ねない。かなしいと言えばかなしいが、強いといえば強い。それが母親というものだろうか。


若いころ、異性に対する片恋は辛く苦しいものであった。いくら思ってもむくわれない辛さ。そこから逃れられるならどんなに楽だろうと思ったこともある。が、思いが通じれば通じたで、また別の苦しみが待っているのである。それは片恋の時よりも、複雑で不純なものが混じっているような気がする。自分の愛情と相手の愛情を比べてみたり、無意識のうちに駆け引きをしてみたり。自分のエゴがあからさまになっていくのもまた辛いものである。


この年齢になってくると、そういう種類の苦しさ、辛さはもう経験したくない。できれば。だから、少なくとも子どもとの関係においては「片恋」が気楽でいいと私は思う。親とはそうしたものだとわかっていればいい、また、そうした親を子どもは乗り越え忘れていかなくてはいけないとどこかで思っている。


「片恋」のかなしさは、どこまでいってもかなしい。それがなんだか気持ちいい。と、思ったら谷川俊太郎の詩を思い出した。武満徹が曲をつけている「うたうだけ」だ。私の「片恋」のかなしさは、かくあってほしいと願う。


むずかしいことばは

いらないの

かなしいときには

うたうだけ

うたうと、うたうと、うたうと

かなしみはふくれる

ふうせんのように

それが わたしの よろこび


なぐさめのことばは

いらないの

かなしいときには

うたうだけ

うたうと、うたうと、うたうと

かなしみはふくれる

ふうせんのように

| - | 22:25 | comments(0) | - |
a bit like you and me・・・
12-0921

とりたてて好きでも興味を持っていたわけでもないのだが、「ちょっと面白そうかな?」という予感があって、横浜美術館に行ってきた。やっているのは、「君や僕にちょっと似ている 奈良美智展」である。


ファンではないので、作家の画業や経歴は全く知らない。が、人気者らしく、時々その絵をどこかで見かけることがあったし、また一度見たら忘れられない個性がある。あの、ちょっといじわるそうな女の子の顔はけっこう好きだ。


以前どこかで(たぶんどこかのミュージアムショップ)代表的なキャラクターの小さなぬいぐるみを買ったことがあり、その顔部分のみをmixiのプロフィール画像にしている。私は外見的にはいじわるそうには見えないと思うが(たぶん)、中身はほどほどにいじわるなのでちょっと共感を感じているのかもしれない。


で、展覧会だが、作品点数がほどほどで見やすかったと思う。展示開場が広いので、かなり混んではいたがあまり気にせず見ることができた。今回は、絵だけではなく、大きなブロンズ作品が数点展示されていて私はそれを期待していたのだった。


奈良美智の絵画作品は、アクリル絵具などを使ったきれいな「ぼかし」と、デフォルメされた人物像(女の子が多いが、果たしてそれが子どもなのか大人なのかは不明)が多い。ブロンズの箆(?)の跡が荒々しく残された肌は作家の絵画作品を見慣れた目には新鮮だ。少し離れて見れば、やはりそこには奈良美智の世界があり、面白い作家だなと改めて思う。


以前から感じていたのだが、単純化された少女たちの表情を見ていると、その瞳の奥にあるものはけっこう老獪な、あるいは屈折したものであるような印象を受ける。人間が持っている邪悪な性質を、キュートに表現しているところがなかなか面白いし好きである。言葉を使って書いてしまえば簡単なことだが、これはなかなか難しいことのような気がする。


チケットを買うにも、図録とポストカードを買うにも並ばなければならないほど盛況であった。次は、たぶん作家の故郷である青森に巡回するのではないかと思う。横浜での展示は23日まで

| - | 21:46 | comments(0) | - |
ケータイを忘れる
12-0919

今日も忘れてしまった。ケータイを。派遣先に行くと12時間以上家を開けることになるが、その間ケータイなし。


以前は度々忘れていたが、さすがにその回数は少なくなっていた。が、ここへきて夏の疲れなのか、はたまた老化現象なのか、立て続けに忘れている。やれやれ、である。


が、忘れたからといってあまり焦る気持ちにはならない。前回は夕方から待ち合わせの約束があったのでちょっと焦ったが、「なるようになるさ」と思うとどうでもよくなった。今回はそんな約束もなく、急な仕事の連絡がくる予定もなく(予定外の時はしかたないさ)、帰宅して受信履歴を確認して、連絡すべきところがあればそれから連絡すればいいだけである。


そんな私もスマートフォンに変えてから、便利だなと思うことはある。ひまつぶしの道具としてけっこう使えるし、わからないことがあればすぐに調べることができるので、そういう意味ではお手軽で便利だ。が、暇つぶしの道具としてなら、なければないでちっとも困らない。


フェイスブックやLINEも登録してはいるが、ほとんど使っていない。そもそも、「今ここにいる」とか「今これを見た」とか「今何をしている」とか「今誰それがこんなことを言っている」とか、そんなことはどうでもいいことで、はっきりした用事がある場合を除いて、私は人と繋がりたいとは思わないし放っておいてほしいのである。


だから、暇さえあれば、いや仕事中でもこっそりとケータイ(今はスマートフォン)の画面を見てこちょこちょやっている姿を見ると、なんとなくいじましい感じがしてならない。


ケータイなしでは生きていけなさそうな人たちが増えているような気がして、ちょっと不気味である。仕事に必要だというならわかるが、この病的な状態はそうではあるまい。小さな画面をこちょこちょいじくっているより、ぼーっと何かを考えているほうがマシな気がするのは私だけか。

| - | 21:51 | comments(0) | - |
日々雑感
12-0918

遊びに行った話とか、観た映画の話とか、読んだ本の話とか(最近ないな・・・)ばかりが続いているが他のことを考えていないわけではない。当たり前だが。むしろ、他に考えることが多すぎて書くほどの整理がつかず、書きやすい話題を選んでいるだけかもしれない。で、書ける範囲で雑感を五月雨式に。


夏休み時期に出かけると、イヤでも家族連れが目に入る。みなさん、限られた時間を家族とともに過すためそれぞれがそれぞれなりにいろいろ考えて楽しい時間を過そうとしているのだろう。ところかわまず泣き叫ぶ子どもたちに眉をしかめつつも、これが社会というものだとも思う。しかし、その一方で、子どもに対する虐待や子ども殺しのニュースが絶えない。どこかおかしい・・・なにか紙一重のものがあるような・・・そんな気がする。


戦略だけでは物事はちっとも前に進まない。戦略を実現する綿密な戦術がなくては。戦術だけでもだめだ。核となる戦略がなければ成り行き任せの頼りない未来しかそこにはない。しかし、今の世の中、とくに政治の世界を眺めていると、そのどちらかしかないような気がしてならない。


生鮮食品に関しては以前から国産だけを買うようにしているが、それ以外については気づけば「中国製」ということが多い。衣類などもタグを見てはじめて「中国製」であることを知ることが多い。中国とのギクシャクはさておき、品質において明確に劣る中国製はできるだけ避けたいと思う。安い労働力で商売するのは、もうやめてほしいとさえ思う。


少しずつ、ほんの少しずつだが復興に向けて動き始めている地域のニュースを見聞きするたびに、いつ故郷に帰れるかも全くわからない人たちのことを思う。来月から上映される「フタバから遠く離れて」は必見だと思っている。


「クライマーズ・ハイ」という映画の中で、ジャンボ機墜落事故の記事で埋め尽くされた紙面の下にショッピングセンターオープンの広告を入れる、入れないでもめるシーンがある。以前から記事と広告のあまりにもかけはなれたギャップにうんざりしているので、「こんな広告入れられるか!」という叫びに共感する。深刻な世情とノーテンキな広告との悲しいほどのギャップ。悲しげな顔で深刻なニュースを伝えた直後、ニコッと笑っておちゃらけた話題に転じるニュースキャスターの顔。しらけるばかり。


長い夏の疲れが出たのか、やたらと眠い。でも、寝過ぎるとやはり具合が悪い。困った!


| - | 23:56 | comments(2) | - |
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