某番組で寺山修二に関するクイズが出題された。著書から引用した名言と言われるものらしく、3人の回答者のうち1人が正解。どうやら寺山ファンや演劇人にはけっこう知られている言葉らしい。それは・・・
親の愛情、とりわけ母親の愛情というものは
いつもかなしい。
いつもかなしいというのは、
それがつねに「片恋」だからです。
「家出のすすめ」からの引用らしいが、なるほど「片恋」とはよく言ったものだと思った。「片思い」ではなく「片恋」というのがいい。
「親の心子知らず」とはよく言うが、それとはやはりニュアンスが違う。母親の子どもに対する盲目的ともいえる愛情は、子どもからすれば鬱陶しく早くそれから逃れたいものなのかもしれない。
私は若いころ、自分の母親からそれを感じたことはないが、他人の母親のそれを感じてとてもイヤだと思った。母親にはなりたくないと思ったし、もしなったとしたら絶対にああいう母親にはなりたくない、と思った。
しかし、母親というものになって二十年以上が経過した現在、盲目的とまではいわないにしても、理屈抜きで子どもへの愛情を貫く母親の感情は、十分理解できるようになっている。
それをどの程度表面に出すかどうかは別問題で、我が子が罪人になろうが生きている以上捨てずに愛しつづけることができるのは、やはり母親ではないだろうか。我が子の罪の重さに対して、「死んでおわびをする」と自死を選ぶのは父親が多いように思う。母はどれほど子の罪が重くとも、子が生きている限りなかなか死ねない。かなしいと言えばかなしいが、強いといえば強い。それが母親というものだろうか。
若いころ、異性に対する片恋は辛く苦しいものであった。いくら思ってもむくわれない辛さ。そこから逃れられるならどんなに楽だろうと思ったこともある。が、思いが通じれば通じたで、また別の苦しみが待っているのである。それは片恋の時よりも、複雑で不純なものが混じっているような気がする。自分の愛情と相手の愛情を比べてみたり、無意識のうちに駆け引きをしてみたり。自分のエゴがあからさまになっていくのもまた辛いものである。
この年齢になってくると、そういう種類の苦しさ、辛さはもう経験したくない。できれば。だから、少なくとも子どもとの関係においては「片恋」が気楽でいいと私は思う。親とはそうしたものだとわかっていればいい、また、そうした親を子どもは乗り越え忘れていかなくてはいけないとどこかで思っている。
「片恋」のかなしさは、どこまでいってもかなしい。それがなんだか気持ちいい。と、思ったら谷川俊太郎の詩を思い出した。武満徹が曲をつけている「うたうだけ」だ。私の「片恋」のかなしさは、かくあってほしいと願う。
むずかしいことばは
いらないの
かなしいときには
うたうだけ
うたうと、うたうと、うたうと
かなしみはふくれる
ふうせんのように
それが わたしの よろこび
なぐさめのことばは
いらないの
かなしいときには
うたうだけ
うたうと、うたうと、うたうと
かなしみはふくれる
ふうせんのように