「シャイニング」の記事でも触れたが、好きな写真家であるダイアン・アーバスの写真集を偶然いただいたことをきっかけに、何気なく検索してみると彼女をモデルにした映画があることを知った。それが、「毛皮のエロス」である。
洋画につける邦題については、以前から時折幻滅することが多いのだが、これもそのひとつ。原題は「FUR---AN IMAGINARY PORTRAIT OF DIANE ARBUS」で、直訳すれば「毛皮---ダイアン・アーバスの幻想的ポートレート」とでも言おうか。
アーバスの人間像を「想像上」のものとして断った上で描いた作品、といえるだろう。確かに作品の中に「エロス」を感じさせるシーンがないではないが、タイトルにつけるほど主題に近いかというとそうは思えない。ただ、見てもらいたいがための方策であるとしか思えないのである。
ダイアン・アーバスはフリークス(異形、変態、変人・・・)を撮った写真家として広く知られている。が、彼女は始めからそういった写真を志向していたわけではない。ニューヨークの裕福な家庭で育ち、夫になったアラン・アーバスの助手としてファッション写真の世界
に入るのが彼女の写真人生のはじまりだ。父親は五番街に店を構える百貨店ラセックスのオーナーで、一番の売り物は毛皮。映画でも父が扱う毛皮のファッションショーのシーンがあり、それが後々彼女が出会うことになる多毛症のライアンと対照が印象的である。
この映画の感想がいろいろネット上でも公開されているが、その多くがダイアンを演じたニコール・キッドマンの美貌だとかヌードだとかを中心に書かれていていささかげんなりする。なるほどハリウッドの有名女優なのだから仕方ないとは思うが、私はダイアンがかかえ持っていたであろう内面を演じた演技力を称えたい。
この映画を観て、私は自分自身の中にある共感があるのを発見した。異形に対する恐怖心と、それと同じくらい心惹かれる不思議な気持ちである。怖い・・・理由はわからないがとにかく怖い。しかし、怖いと感じる強さと同じくらい惹かれる。何故惹かれるかわからないが、忘れることができない。そんな気持ちを私は幼いころ経験した。
子供のころ、母は時々上野の動物園や水族館(当時はあった)に連れていってくれたのだが、日比谷線の上野駅から上野公園に向かう途中、短いが薄暗い地下道を通った。そこには、傷痍軍人と呼ばれる男たちがいて、片腕がなかったり足がなかったりする人たちが包帯をぐるぐる巻いてアコーディオンを弾いていたり跪いて俯いていたりするのだった。
彼らは肉体的に大きなものを失い、生活していくためのなにがしかを道行く人に恵んでもらうためにそこにいるわけだったが、幼い私はその姿がとても怖かった。アコーディオンから流れる軍歌のようなものの悲しげな旋律さえ怖かった。
しかし、怖いと思いながらも目を話すことができず、いつまでもその姿が目に焼き付いて忘れられない。「動物園に行こうか」と母が言うと、その姿を思い出し、「怖くていやだな」と思いながらもどこかでまた彼らを見られると期待するような気持ちがあったように思う。
当時は怖いという気持ちだけが意識されたが、今思えば確かに潜在的なところで彼らに惹かれる私がいた。怖いもの、残酷なものに遭遇すると、避けたいと思いながらも目を話せないという私の性質は、その時すでに芽生えていたのかもしれない。
ダイアン・アーバスも同じだったのではないだろうか。怖い、しかし惹かれる。惹かれる、しかし怖い。惹かれる気持ちに正直になろうとすれば対象に近づいていくほかない。それは非常に大きな勇気がいることで、彼女はその勇気を意識することはなかったのかもしれないが自らその世界に入っていったのだ。
裕福ではあるがスノッブな家庭環境の中に彼女の居場所はなかったのかもしれない。しかし、フリークスの中に入り込んでみても、いわゆる健常者である彼女はまた別の孤独を抱えもつことになったのかもしれない。そして、もうどこにも居場所がないと思ったのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えさせられる映画で、私にとっては「エロス」などどうでもいいように思えた。たぶん、私のようなコンプレックスを持っている人間でなければ、あまり面白いとは思えない映画かもしれない。