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映画の話・・・毛皮のエロス
12-0830

「シャイニング」の記事でも触れたが、好きな写真家であるダイアン・アーバスの写真集を偶然いただいたことをきっかけに、何気なく検索してみると彼女をモデルにした映画があることを知った。それが、「毛皮のエロス」である。


洋画につける邦題については、以前から時折幻滅することが多いのだが、これもそのひとつ。原題は「FUR---AN IMAGINARY PORTRAIT OF DIANE ARBUS」で、直訳すれば「毛皮---ダイアン・アーバスの幻想的ポートレート」とでも言おうか。


アーバスの人間像を「想像上」のものとして断った上で描いた作品、といえるだろう。確かに作品の中に「エロス」を感じさせるシーンがないではないが、タイトルにつけるほど主題に近いかというとそうは思えない。ただ、見てもらいたいがための方策であるとしか思えないのである。


ダイアン・アーバスはフリークス(異形、変態、変人・・・)を撮った写真家として広く知られている。が、彼女は始めからそういった写真を志向していたわけではない。ニューヨークの裕福な家庭で育ち、夫になったアラン・アーバスの助手としてファッション写真の世界

に入るのが彼女の写真人生のはじまりだ。父親は五番街に店を構える百貨店ラセックスのオーナーで、一番の売り物は毛皮。映画でも父が扱う毛皮のファッションショーのシーンがあり、それが後々彼女が出会うことになる多毛症のライアンと対照が印象的である。


この映画の感想がいろいろネット上でも公開されているが、その多くがダイアンを演じたニコール・キッドマンの美貌だとかヌードだとかを中心に書かれていていささかげんなりする。なるほどハリウッドの有名女優なのだから仕方ないとは思うが、私はダイアンがかかえ持っていたであろう内面を演じた演技力を称えたい。


この映画を観て、私は自分自身の中にある共感があるのを発見した。異形に対する恐怖心と、それと同じくらい心惹かれる不思議な気持ちである。怖い・・・理由はわからないがとにかく怖い。しかし、怖いと感じる強さと同じくらい惹かれる。何故惹かれるかわからないが、忘れることができない。そんな気持ちを私は幼いころ経験した。


子供のころ、母は時々上野の動物園や水族館(当時はあった)に連れていってくれたのだが、日比谷線の上野駅から上野公園に向かう途中、短いが薄暗い地下道を通った。そこには、傷痍軍人と呼ばれる男たちがいて、片腕がなかったり足がなかったりする人たちが包帯をぐるぐる巻いてアコーディオンを弾いていたり跪いて俯いていたりするのだった。


彼らは肉体的に大きなものを失い、生活していくためのなにがしかを道行く人に恵んでもらうためにそこにいるわけだったが、幼い私はその姿がとても怖かった。アコーディオンから流れる軍歌のようなものの悲しげな旋律さえ怖かった。


しかし、怖いと思いながらも目を話すことができず、いつまでもその姿が目に焼き付いて忘れられない。「動物園に行こうか」と母が言うと、その姿を思い出し、「怖くていやだな」と思いながらもどこかでまた彼らを見られると期待するような気持ちがあったように思う。


当時は怖いという気持ちだけが意識されたが、今思えば確かに潜在的なところで彼らに惹かれる私がいた。怖いもの、残酷なものに遭遇すると、避けたいと思いながらも目を話せないという私の性質は、その時すでに芽生えていたのかもしれない。


ダイアン・アーバスも同じだったのではないだろうか。怖い、しかし惹かれる。惹かれる、しかし怖い。惹かれる気持ちに正直になろうとすれば対象に近づいていくほかない。それは非常に大きな勇気がいることで、彼女はその勇気を意識することはなかったのかもしれないが自らその世界に入っていったのだ。


裕福ではあるがスノッブな家庭環境の中に彼女の居場所はなかったのかもしれない。しかし、フリークスの中に入り込んでみても、いわゆる健常者である彼女はまた別の孤独を抱えもつことになったのかもしれない。そして、もうどこにも居場所がないと思ったのかもしれない。


そんなことをつらつらと考えさせられる映画で、私にとっては「エロス」などどうでもいいように思えた。たぶん、私のようなコンプレックスを持っている人間でなければ、あまり面白いとは思えない映画かもしれない。


| - | 21:29 | comments(0) | - |
映画の話・・・「八甲田山」
12-0829

先週末、十和田湖畔宇樽部に2泊3日の日程で行ってきた。この1〜2年で数回訪れており、「行く」というより「通う」と行った方がいいのではないかという感じである。もちろん理由あってのことだが、ひとつの場所に年数回行くというのは異例中の異例である。ただ遊びたいだけなら他にも行きたいところはたくさんあるが、とりあえずしばらくの間はそれを後回しにしてでも行こうと思っている。


宇樽部に行く時は知人に紹介してもらった宿に泊まる。ドライブインを兼ねているような民宿というかペンションというか、規模の小さい宿である。宇樽部は十和田湖の遊覧船の発着所である「休屋」と「子の口」の中間にあり、民宿が数軒あるものの観光客はほとんど訪れない静かな場所である。昔は「東湖館」という由緒ある旅館があり、皇族も訪れたようだが

今は朽ち果てた建物が残るのみである。


それはさておき、常宿は2階が客室になっているのだが、そこに行く階段の途中に大きなモノクロの写真が額に入れて飾ってある。写真は映画「八甲田山」のワンシーンで、吹雪の中を行く雪中行軍を写したもの。そして写真の下に「ご協力ありがとうございました」という手書きのメッセージが添えられている。


映画「八甲田山」については、今年の4月にDVDを借りて観た。だいぶ前にテレビで観たような記憶もあるが、ほとんど覚えていなかったところ、件の写真が前から気になっていたので観ることにしたのだ。


1977年6月に公開されたこの映画の上映時間169分。3時間弱という長い映画だが、その長さを感じさせない。原作はご存知のように新田次郎の「八甲田山死の彷徨」で、1902年実際に起こった遭難事件を扱っている。ロシアへの脅威が強まる中、戦争になった場合の戦略上、極寒地での演習が必要になり青森の連隊と弘前の連隊がそれに参加。青森の連隊総勢210名中199名が遭難死するという日本遭難史上最悪の事故であった。


実際に真冬の八甲田でロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケだったという。青森の他新潟などでもロケをしたようで、完成まで3年をかけた大作であり、名作である。


内容は調べるなり観るなりしていただければいいと思うが、とにかく丁寧な映画づくりがなされていると思った。俳優たちの出演料は決して高額ではなかったというが、それにしてもあれだけの俳優陣をあれだけ過酷な環境で動かすというのは、並大抵のことではない。作品としての魅力が大きかったからこそ、プロである彼らはあれだけの環境に耐えすばらしい演技をしたのだと思う。


脚本もいい。原作を読んでいないが脚色はもちろんしてあって、それが映画を面白いものにしているのではないかと推測する。


映画の中で、青森歩兵第五連隊の指揮を任されながら、数々の困難に遭遇し全滅に近い形で兵を失うことになった神田大尉(北大路欣也)の台詞「天は我々を見放した」が有名になったので記憶されている方もいるかもしれない。そしてその悲劇的な出来事が語り継がれて

いるわけだが、方や38人(うち1人は負傷して途中帰隊)という小隊編成で見事行軍を成功させた弘前歩兵第三十一連隊は、悲劇をさらに鮮やかにする副次的存在として受け取られがちだったのかもしれない。原作者及び映画の製作者は、二つの連隊を鮮やかに対比させることにより、物語としての面白さを精密に組み立てていったように思われる。


とにかく過酷である。観ているだけでこちらが凍え死にそうな錯覚に陥るほどリアルである。八甲田に限らないと思うが、大いなる自然を目の前にした時、人間はなんと小さな存在であるか、また、そんな自然と対するためには徹底した覚悟と緻密な計画と準備が必要であるか・・・そんなことをひしひしと感じさせる映画であった。


ところで、宿で見た写真が気になっていたので、今回はオーナーに聞いてみた。私の想像では、ロケ隊に食事を用意するなどの協力をしたのだと思っていたが、なんとオーナー自身が弘前歩兵第三十一連隊の一人として映画に出たそうである。これには驚いた。当時農業か林業に従事していたと思われるオーナーは冬場は時間があり、俳優並のギャラもあって参加することにしたらしい。脚本を担当した橋本忍氏のサイン本を貸してくれたので、ざっと読ませてもらった。


青森から帰ってから再度DVDを借りて観てみた。やはりいい作品・・・というか、現在のシビアな映画業界では作れない映画であると思った。ぜひ原作も読んでみたいと思っている。

| - | 22:54 | comments(0) | - |
映画の話・・・「シャイニング」
12-0828

だいぶ間があいてしまった。たぶん、1週間休んだのは初めてかもしれない。毎日更新しないことにしてからというもの23日程度の空白はあまり気にしなくなったたが、気づけば1週間である。


忙しいということを言い訳めいて書きたくはないが、まあ、忙しい。忙しいというよりも、慌ただしいといった方がいいかもしれない。週3日派遣仕事を入れているが、ありがちだが重なる時は重なるということで、それ以外の仕事が3本重なってしまっている。重なる仕事を遣り繰りするのはフリーランスになってから慣れているのだが、かなり長い時間拘束される

派遣仕事との両立はなかなか難しい。しかも、そのような状態で旅行の予定が2つ入っている。はてさて、どうなることか。いや、どうにかなるだろう!(^.^;)


で、映画の話。前回から間があいてしまい、「次回は”ヒミズ”を」と思っていたが気が変わった。今回は「シャイニング」にする。


この映画はだいぶ昔に一度くらい観た記憶があるが、山奥のホテルにある迷路のような場所で狂った男が家族を追いかけるシーンを漠然と覚えているのみ。改めて観てみると、ああ、こういうシーンもあったなと思い出すのだが、ほとんど忘れていた。


冬季は休業する山奥のホテルに管理人として雇われた作家志望の男を演じるのは、ジャック・ニコルスン。最初は淋しいくらいの環境の方が仕事が捗るなどと強がっていたが、徐々に精神に異常を来していく。それには、そのホテルが内包する不思議な力が関与しており、昔そこで起きた悲劇が怨念のように彼を襲い、彼を狂わしていく。


原作はスティーブン・キングだが、この映画については原作と映画はほとんど別物と考えた方がいいらしい。原作者が映画をかなり批判していたこともあったようで、制作にかかわる根本的な意図が原作と映画ではかなり違っているようだ。映画の監督はスタンリー・キューブリック。


ストーリーは有名な作品なので割愛するが、キング作品については今まで原作と映画それぞれ面白いと思ってきただけに、これも原作をいずれ読まねばと思っているところだ。


また、そもそも、この映画をまた観ようと思ったきっかけがダイアン・アーバスの写真によるものだったことも我ながら面白い。


映画の中で、超能力(シャイニング)を持つ息子のダニーにしか見えない幻影として双子の女の子が出て来る。この目つきが気味悪い女の子たちは、アーバスの写真にインスパイアされたものらしい。


異形の人々に惹かれてそのポートレートを撮りつづけ、自らも精神を病み自殺したアーバスに、私は強く惹かれる。その生涯にも、作品にも。ただ、何故惹かれるのか全く説明ができなかったのだが、ここへきて少し自分でも分かるような気がしてきた。それについては、いずれ別の機会に書きたいと思う。


最近、アーバスの古い写真集(写真展の図版)を友人からもらった。現在も販売されているが、私がもらったものが写真展が開催された当時のものと思われる(奥付に1973年と記されている)。その表紙がまさしく、あの双子の女の子の写真だ。


私にこの本をくれた友人は、この写真が怖いので身近に置いて置きたくなかったらしい。なるほど、見れば見るほど不気味である。が、そういうものを手放せないのが私という人間であるから、この本は大切に持っていようと思う。

| - | 22:48 | comments(0) | - |
映画の話・・・「恋の罪」
12-0821

今を時めく園子温監督作品である。「冷たい熱帯魚」「愛のむきだし」に続き3本目。園監督の作品はご存知のようにどぎつく、殺人シーンやセックスシーンが目に付きやすい。しかし、その背景にあるのは、いつも人がかかえもつ「孤独」であるように思う。


3作の中で、私は今回の作品が一番重く感じられた。この監督は実際にあった事件を下敷きに作品を作るが、「恋の罪」も同様。少し前服役していた被告の無罪が決まり釈放されたことで話題になった東電OL殺人事件がそれである。


渋谷区円山町で死体となって発見されたのは東電という大企業に総合職として勤める、いわゆるエリート女性だった。そのエリートが昼の顔を脱ぎ捨てて夜は彼の地で売春をしていたことが判明し、当時はかなり話題になったと記憶する。


映画では、事件を担当することになった女性刑事、有名大学の女性教授、そして著名作家の妻の3人が、それぞれかかえもつやりばのない孤独・・・あるいはどうにも紛らわすことのできない居心地の悪さ、分けの分からない衝動に身を任せ、刑事以外の2人は奈落の底のような場所に落ちていく。落ちていきながら、彼女たちはどこかイキイキと輝いている。


東電OLを思わせる教授は夜のラブホテル街の片隅にある廃屋で「愛のないセックスなら金をとれ!」と叫び、昼間は大学で「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という田村隆一の詩(「帰途」)の一部を大きなスクリーンに映し出し学生たちに講義する。


一見、言葉を否定しひたすら本能的な行為のみを肯定する姿勢を表現しているようでいて、それだけではあっさり納得できない混とんとしたものが後に残る。解釈しようとすること自体が間違いであるような映画だと思う。


内容と直接関係ないが、何度かBGMとして使われているマーラーの交響曲第5番が気になった。第4楽章のアダージェットだ。この曲は私としては何といっても「ベニスに死す」なので、「恋の罪」と「ベニスに死す」のギャップの大きさがかえって面白かったともいえる。


言葉なんかおぼえるんじゃなかった

言葉のない世界

意味が意味にならない世界に生きてたら

どんなによかったか


あなたが美しい言葉に復讐されても

そいつは ぼくとは無関係だ

きみが静かな意味に血を流したところで

そいつも無関係だ


あなたのやさしい眼のなかにある涙

きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら

ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう


あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか

きみの一滴の血に この世界の夕暮れの

ふるえるような夕焼けのひびきがあるか


言葉なんかおぼえるんじゃなかった

日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで

ぼくはあなたの涙の中に立ちどまる

ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる


(田村隆一「帰途」)

| - | 19:38 | comments(0) | - |
映画の話・・・「この空の花」
12-0820

相変わらず映画を観ている。レンタルDVDを見たり自分が持っているものを再度観たり、先日のように映画館に観に行ったり。


実のところ、少なくともレンタルはしばらくやめておこうと思っていたのだ。借りてくると返却日までに観なくてはという義務感が生じるし、すべきことをせずにそちらにかまけているのはやはり良くないとも思ったからだ。日常的な些事ならいくら放っておいても、いずれせざるを得なくなる。が、それよりも、今考えなくてはいけないのではないかという様々な事柄から、逃げる手段に映画を選んでいるような気がして、そりゃマズイだろう!と思うわけだ。深く考えることが年々面倒になってきている自分が情けない。


しかし、観てしまったのだから仕方ない(^.^;)


ということで、今日から数日間最近観た映画の話を少し書こうと思う。とびとびになるかもしれないが、初めて観た映画や何度も観ている映画について書いてみたい。今日は、つい先日観に行った「この空の花」について。


この映画は、今年になって公開された映画だが(たぶん春)、その時観たいと思いつつ見逃していた。最近東中野の小さな映画館(ポレポレ東中野)でやっていることを知り、今月いっぱいなので慌てて観に行った次第。


描かれているのは、長岡の花火を背景にした平和への希求である、と思う。


天草に住む女性新聞記者がかつて付き合っていた男からの手紙で長岡に行き、長岡の花火について取材する。長岡の花火は、単なる観光行事ではなく、平和への祈り、戦争や災害で亡くなった人たちへの鎮魂の意味を持つ花火で、毎年8月1日から3日にかけて行われる。平日でもそれは変らない。


何故なら、8月1日という日は長岡が空襲を受けた日だからだ。8月1日午後10時30分から翌2日午前0時10分の間に市街地を標的に焼夷弾が大量投下され、1470余人が死亡。長岡まつり(花火大会はその一部)は、その空襲からの復興を祈るために始まり、その後見舞われた中越地震からの復興祈願、ひいては、平和そのものを祈るという大きなテーマをかかえるに至った。今回の東日本大震災においては、被災者をいち早く受け入れたのもそういった土壌があってのことだ。


映画の劇中劇として「まだ戦争に間に合いますか」とう学生の劇が演じられる。台本を考えたのは、過去から来たひとりの少女だ。少女は幼いころ長岡の空襲に遭い、母親の背中で1歳半の命を閉じた実在の人物である。その少女が映画に登場し、台本を教師に託して自らも劇に出る。一輪車を巧みにあやつりながら。


長岡の花火を見に来たという山下清の言葉が、映画冒頭に印象深く紹介される。


「みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりをつくっていたら、きっと戦争なんか起こらなかったんだな」


山下清が描いた長岡の花火の絵は全部で5点あるらしい。そのうちのひとつが、映画の中にも登場する花火師・喜瀬誠次さん(映画では榎本明が演じる野瀬清治郎)所有のものだ。山下清は長岡を訪れた際、打ち上げ現場近くをうろついていた時に喜瀬さんに危ないからあっちへ行けとどなられたらしい。あとで山下のことを知った喜瀬さんが苦労して手にいれた絵が今は家宝のように保存されている。


長岡にも行きたくなったし、長崎にも行きたくなった。毎年8月になると広島に行きたくなるが、この「行きたい」は単なる希望というよりも「行かなくてはいけない」という少し切羽つまった気持ちが混じる感情である。そんな感情をかかえつつ思いを馳せる場所がまた2つ増えてしまった。当分死ねないな!


*長岡の花火はすばらしいなぁ・・・復興祈願のニューフェニックスをご覧あれ。

*打ち上げられて高く高く登っていく様子が、魂のように見えちゃうんだよな。

| - | 19:13 | comments(0) | - |
PHOTO WEEK・・・晩夏の花<7>
12-0819

真夏の太陽をものともせず・・・むしろ陽射しが強ければ強いほど元気に咲いているように見えるサルスベリ。白もあるが、やはり夏らしいのは少し色褪せた折紙の桃色めいた花だと思う。秋の紅葉もきれいだ。
| - | 15:27 | comments(0) | - |
PHOTO WEEK・・・晩夏の花<6>
12-0818

海岸に近いところに多いハマユウ。このあたりではさほど目にすることはないが、団地の敷地内でひっそり咲いていた。とても香りがいいという。願わくば、もう少し早く出会いたかった。
| - | 12:50 | comments(0) | - |
PTOTO WEEK・・・晩夏の花<5>
12-0817

グロテスクな果実からは想像しにくい、黄色の可愛い花。最近はもっぱら「ゴーヤ」と呼ばれているが、私が最初に聞いた名前は「ニガウリ」だったっけ。
| - | 14:53 | comments(0) | - |
PHOTO WEEK・・・晩夏の花<4>
12-0816

見たかによっては暑苦しい色にも見える。が、いかにも夏の花といった風情で、暑苦しく見える花もたった一日でぽとりと落ちる。ノウゼンガズラには、ミンミンゼミの声がよく似合う。
| - | 19:15 | comments(0) | - |
PHOTO WEEK・・・晩夏の花<3>
12-0815

子どもの頃はいたるところで咲いていたのに・・・最近見かけなくなった花のひとつ、オシロイバナ。夕暮れ時から咲き始める花はこれといった特徴はないが、薄暮にふっと浮かぶ風情がどこか色っぽく、なつかしい。
| - | 11:42 | comments(0) | - |
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