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日々の内側
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照度 あめつち 影を見る
12-0630

川内倫子の名前は聞いたことがあるようなないような程度で作品を見たことはおそらくなかったと思う。


今回は夕方から行く予定の展覧会までの時間つぶし的な気持ちから写美に行ったのだが、これが案外よかったのでラッキーだった。


写真の多くが、誰でも日常的に見るような風景、光景なのだが、それらのどこに視点を定めるかは人それぞれで、写真家の視点の位置に共感を覚えるものが多かった。また、自分が知らず知らずのうちに見逃しているものがいかにたくさんあるか、視線を鋭くする努力がいかに足りないかを教えられたような気がしている。


今回一番惹かれたのは、炎であった。野焼きなのだろうか、河原のようなところの枯れ草に火が付けられそれが広がっていく様が魅惑的だ。あたりの空気さえ炎の色に染まっていくような、気持ちいいダイナミズムがそこにはあった。


写真を撮りたいと思わせてくれる写真に出会った時はとても嬉しい。身のうちに鬱屈するものたちを早く片づけて、気持ちよく撮りに出かけたいと切に願う。


*写美ではこれから面白そうな企画がもろもろ。

*「夢の光」(田村彰英)、鋤田正義展、時のポートレート(繰上和美)などなど。

| - | 14:08 | comments(0) | - |
紅型
12-0629

久しぶりに美術館のハシゴをしてきた。まずは写美に行き、川内倫子の「照度 あめつち 影を見る」を見て、そのあと六本木へ。サントリー美術館で開催されている「紅型〜琉球王朝のいろとかたち」に。


紅型(ひんがた)については、日本民芸館に展示されているのを何回か見ており興味を覚えていた。が、積極的にそれを目的に行ったことはなく、朝鮮陶磁を見た「ついで」のように見ていた。が、少し前テレビの美術番組で取り上げられており、それを見たら途端に見たくなってきた。


番組はたぶん現在開催されている展覧会に合わせて放映されたのだろうが、まとまった展示、しかも多くが沖縄の美術館などに所蔵されている歴史的にも貴重なものが見られる機会として逃したくはなかった。


以前国芳で経験したような落ち着かないくらいの混雑ぶりもなく、展示をゆっくり見ることができた。やはり実物を見ると、すばらしさを実感することができる。鮮やかだと思っていた色も時を経ていい具合に褪色し、味わい深く、また沖縄のおおらかさと貴族たちが身に付けるものとしての格調高さが感じられた。


紅型はどこか素朴な、というか気取らないおおらかさを感じさせる型染めだが、とくに衣装類に関しては庶民のものではなく、王朝貴族たちのために作られた。中国などとの貿易も盛んで、外国からの使節を接待や王朝行事の際に貴族たちが着飾るために染めらたもの。華やかでありながら、あくまでも穏やかで見ていると気持ちがやさしくなるような図案、色使いである。


染めるために用いられた材料は顔料、染料の両方らしい。とくに日本画にも用いられる粉末状態の顔料には粘度があり、はっきりくっきり色が出る。本州なら鮮やかすぎる色も沖縄の強い陽射しの中では周囲に調和し、美しく映えたことだろう。


用いられた柄は、植物、鳥、貝、蝶、流水、山、東屋など。ちょっと意外だったのは、そのほとんどが沖縄らしいものではなく、本土で見かけるものだということだ。花なら、梅、桜、橘、菊、牡丹、花菖蒲、藤、なんと紫陽花まであった。松竹梅の組み合わせもある。鳥は鶴、燕、千鳥、鳳凰など。


図録の解説で共立女子大教授の長崎巖さんが、日本の(琉球王朝は当時「日本」ではなかった)の型紙染めの影響をなんらかのかたちで受けていたのではないかという仮説を記している。実際どのような経路で伝わったのかはわからないが、これだけ日本的な意匠が多いことを考えるとやはり影響を強く受けていたと私は思う。


しかし、「かたち」としては日本の意匠だが、色づかいが全く違う。本来の色はきっぱりと捨てられ、紅型の色に染め上げられているところが紅型なのだ。また、作品を遠くから見ると、複雑な柄のデザインにはリズム感があり、南国らしい明るい解放感があり、音楽を感じさせるものがあることに気づく。


今回は、国宝に指定されている那覇市歴史博物館所蔵のもの、沖縄県立博物館・美術館、女子美術大学などからのものが中心となっており、加えて貴重な松阪屋コレクションが初公開されている。多くが画家・岡田三郎助により集められたものとのことで、大胆で新鮮なデザインのものも含まれている。テレビでも紹介されていた、「黄色地松枝垂桜燕流水菖蒲鶴亀模様衣装」は、なんでもあり!の意匠ながら王家の色である黄色を背景に松の下から桜が枝垂れ、空間に燕が飛び交い、裾のあたりの水辺では菖蒲がゆったりと咲き鶴が羽を休めて

いるすばらしい構図である。


会期が比較的長いので作品の入れ替えも数回行われているようだ。全部見ようと思ったら何度も行くことになってしまうが、時間があれば行ってみたかったと思う。展覧会は六本木ミッドタウンにあるサントリー美術館にて7月22日まで。火曜日休館。

| - | 23:53 | comments(0) | - |
いつもの顔
12-0628

サラリーマンほどではないが、週に3回くらい同じ場所に通っていると、自然と同じ顔に何度も出会うことにになる。電車より狭い空間を共有するバス通勤なのでなおさらで、知らず知らずのうちに何人かの顔を覚えた。


養護施設に通っていると思しき若い男性。身体が大きくて、以前横に座られた時にはちょっと閉口したが、座る席を当人なりに決めているようで、空いていればバス前方の3〜4人掛けのシートに座る。大きな黒いリュックを背負っていてファスナーのところにはかわいらしいマスコットが2つ付けられている。理由は分からないが時々上半身を前後に大きく揺らす動作をする。顔を見ると楽しそうなのだが、揺らしかたが大きいのではじめて見た時には少し驚いた。


4〜5歳と思しき男の子とその母親。終点かそのひとつ前で降りるのだが、その時男の子が大きな声で運転手に「ありがとうございました!」と挨拶するのがほほ笑ましい。働くお母さんと保育園に通う息子、かと思っていたが、時々ノートを出して英語の単語を書いているのでそういった施設に通っているのかもしれない。施設側との連絡に使っていると思われるノートの連絡欄(たぶん、その日の健康状態などを記入する)に母親が「fine」と書いているのを何度か見かけた。


かわいい花柄のリュックを持っている高齢女性。どこかに勤めているのだろうか。乗車して席に付く時に、隣りの人に笑顔で頭を下げる。そういった麗しき態度がすたれたなぁといつも思わせてくれる人だ。もうひとり、愛想のいい老婦人がいて、その人は髪をひっつめにして濃い化粧をしている。眉毛の濃さがちょっと異様なくらいで、派手な髪飾りも違和感を感じさせるものだが、いつもニコニコして同年代の女性が隣り合わせになると話しかけたりしている。


バスの中だけではない。2系統のバスを乗り継ぐのだが、その中継地点でいつも一休みすることにしていて、ファストフードの店に入る。お得なコーヒーチケットを買っていて、いつもコーヒーを飲みながら20分ほどすごし次のバスに乗る習慣だ。


私が席を取るのは店の奥に設けられた喫煙室で、最近あるような「隔離されている」感があまりないのが気に入っている。


そこでも毎度会う顔がある。1人は軽いモーニング程度のセットを頼んで食べ終わったらさっさと出て行く高齢男性。小さなショルダーバッグを持っており、どこかに勤めているように見える。食べ終わった器などを返す棚のところにいくと、自分のものだけでなく無造作に置かれていった他の人のものも整理したりしている。燃えないゴミ、燃えるゴミを分別してゴミ箱に入れ、飲み残しをは所定の場所に捨てる。並べられたトレーはできるだけ重ねる・・・偉いなぁと思うが、今までに二度、飲み物が半分近く入った自分の器をうっかり落としてしまったところを目撃したことがある。


また、煙草の吸い殻を入れるところも決まっているのだが、少し奥になっていてわかりにくいのか迷った揚げ句「燃えるゴミ」のところに捨てている。


店員からすれば、人の後始末はしなくてもいから余計な手間をかけさせないで欲しいと思うかもしれないな、とも思う。が、当人はなにやら確固たる信念をもってそのような行動をしているようで、軽く声をかけることができない雰囲気である。今日も見かけたが、今日は何も落とさず無事店から出ていった。ほっ・・・


それ以外にも数人顔を覚えた人がいるが、それらの人たちを観察しながらそれぞれの人生を勝手に想像していると通勤時間もまったく苦にならない。バス通勤も悪くないなと思う今日このごろ(だたし、終点から終点の場合。立っているのはやはり辛い)。

| - | 21:49 | comments(0) | - |
鉄仮面と数珠
12-0626

世の中にはどうでもいいこと(モノ)なのにどうにも気になること(モノ)がある。今日は日ごろ私が気になって仕方ないモノ2つについて書くが、それらを愛用している人も多いと思うので気分を害されたら申し訳ない・・・と、一応あらかじめ謝っておこうか。


1つ目は前にも書いたことがあると思うが、この時期になると現れて私を怖がらせるあの黒いサンバイザー?だ。今日もあの黒々としたものを被って自転車に乗っている人を見てしまった。どういうわけか、あれは自転車に乗る時だけに使うもののようで歩行者であれを身に付けている人を今のところ確認していない。


いかにも強力そうなので、かなり日焼けには神経質な人が使うものであろうし、そういう人なら歩きの場合は帽子を被った上で日傘を差しているのかもしれない。


今まで、あのサンバイザー(私はひそかに「鉄仮面」と呼んでいる)を使っているのは30代以上の女性かと思っていた。しかし、今日見たのは長い茶色の髪を靡かせた若い女性で、ああ、若い世代にも市民権を得ているんだなと思った。


日焼けの危険性については昨今とくに言われていることだから、注意した方がいいのはわかっている。なんでも、目も日焼けして支障を来すことがあるのでサングラスもかけた方がいいらしい。美容のためだけでなく、健康のためにも日焼けを避ける行為はもっともなことだと思っている。


しかし、あの鉄仮面だけはどうしても受け入れることができぬ。今にも雨が降りそうな曇りの日でも日傘を差している人がいるが、不思議に思いつつも「ま、いいか」程度で終わる。が、鉄仮面は・・・あの異様さは・・・(^.^;)


たぶん使っている人も見た目の異様さには気づいているのだろうが、そんなことは二の次でとににもかくにも自転車に乗っている時の日焼け対策としてご愛用なのであろう。みなさん、いつまでも色白の美肌を保つことであろう


もう1つの気になるものは、球形の石を繋げたブレスレット。たぶんパワーストーンだと思われるのだが、アレもいけない。使っている人が多いので見慣れているのに、どうしても見るたびに数珠を連想してしまい、服装とのミスマッチ加減が気になってしかたない。


あれがファッションとして使われているのか、それともパワーストーンのパワー頼みに使われているのは聞いたことがないのでわからないが、少なくともファッションとしてはいただけないと思う。だって、どうみても数珠。


とくにスーツを着たサラリーマンの袖口にアレを見ると、ポケットに入れておいた方がいいのではないかと思う。また、トレンドを上手に取り入れて素敵なコーディネートをしている女性の腕にあれがあると、ぶちこわしだなと思ってしまう。


そんなに効果があるものなのだろうか。効果はさておきお守りとして頼りになるものなのだろうか。確かに自然が生んだものには不思議な力があると私も思う。人知を超えたパワーがあると思う。しかし、それとあの数珠とが私の中では結びついてこない。イヤリングやペンダントヘッドだったらまたしも、数珠・・・(しつこい!)


せめてチェーンの間にいくつかの石をはめ込んだデザインのほうがいいと思うのだが、やはり数が多くないといけないのだろうか。


いずれも、自分が使うのはイヤだが、人が使っていることについて非難するつもりは毛頭ない。もっとも、好き嫌いの話なので目くじら立てられても困るのだが。

| - | 18:12 | comments(2) | - |
黒い実
12-0625
・・・黒くてツルツル。ツヤツヤ。シングルチェリーのヒップなり・・・

ベランダでバラの実(バラの場合「ヒップ」と呼ぶことが多い)が見られるようになった。たいていのものはまだ緑色だが、早咲きの品種のいくつかはすでに色づいている。


バラの実、というと「赤」を思いうかべる人が多いだろう。花屋で枝物として売られているノイバラや「スズバラ」の名で通っているらしいロサ・グラウカ(ロサ・ルブリフォリア)の実は赤い。庭先で見られるモダンローズの実も微妙な違いはあっても赤いものが多い。


赤い実もかわいらしいが、私がとくに愛してやまないのが「黒い実」である。赤い実が古びて黒くなったものではなく、緑色から徐々に色づき最終的に黒くなる実だ。


黒い実をつけるバラの代表がロサ・ピンピネリフォリアで(ロサ・スピノシッシマ)で、スコッチローズとも呼ばれている。枝葉細くくねくねと伸び棘が多い。葉は小さく9〜11枚あり、花屋で見るようなバラしか知らない人にとってはこれがバラかと思われるかもしれないバラである。原産はヨーロッパ、西アジア。花は白い一重でくっきりと美しい。実は正確には黒っぽい紫褐色で赤味のある黒という感じである。


私はどうもこのスピノシッシマ系のバラが好きで、少し減ったが仲間を数種類育てている。原種であるロサ・ピンピネリフォリアは持っていないが、それを少し大きくしたようなとしか表現できないロサ・スピノシッシマ・アルタイカがある。ナーサリーの解説などでは、スピノシッシマより樹型、花の大きさが一回り大きいとされているが、関係は明らかになっていないようだ。「ロサ・アルタイカ」とも「グランディフローラ」とも呼ばれている。


そのアルタイカの実がすでに黒っぽくなっている。スピノシッシマの仲間は弓なりに伸ばした枝に花が並ぶように付くのが特徴だが、うちのアルタイカは枝に並ばず枝先に一輪ずつ咲く。枝が細いので実の重みでさらに枝垂れ、風で揺れている。球形よりやや平らな実は直径1センチ程度。


アルタイカの実を「黒」と呼べるかどうかは微妙である。個人的には「黒といっていいような、ちょっと違うような」という感じ。


で、もっと黒い実が見たくてハイブリッド・スピノシッシマ(スピノシッシマの交配種・交雑種)であるシングル・チェリーを昨年手に入れた。


このバラは目が醒めるようなチェリーレッドの一重の花を咲かせる。黄色いシベと鮮やかな色の対比がきれいで、派手な色だが一重のためうるさくならずかわいらしい。花びらの裏が白っぽいところがおもしろいと思う。「レッドネリー」と呼ばれているバラと同じだとする向きもあるが、ヒップに毛がついているのが「レッドネリー」、つかずにツルツルなのが「シングルチェリー」という話も聞く。一応その説に従うと、わが家のはツルツルなので「シングルチェリー」ということにしておく。


買い求めたナーサリーでも「シングルチェリー」としていた。カタログには「レッドネリー」しかなかったのでそれを注文すると、品切れとのこと。あきらめていたら再度電話があり「シングルチェリーなら1つ残っていました」とのこと。違いを追求すればよかったのだが当時は同じものだと思っていたので素直にそのまま購入した。


毎度のことだが立派な苗が送られてきた。「レッドネリー」は前にも育てたことがあるのだが、強い剪定をした苗だったのか樹型はいわゆる「ブッシュ型」(つる性ではな木立性)だった。しかし、やってきたシングルチェリーは、つる性ではないもののすらりと枝が1メートル近く伸びて「半つる性」に近い。以前あったレッドネリーより樹型が繊細である。


正直なところ、私は黒い実が見たかったので花はさほど丁寧に見ていなかった。置き場所もあまり条件がいいところには置いていなかった。花も小さめだったように思う。が、今目の前にある実は私の期待に十分応えてくれるもので、ほとんど「黒」である。


細い枝、小さな葉、そして黒く丸い実・・・この組み合わせはとてもいい。シックなことこの上ない。大切にしなくちゃ!


| - | 19:00 | comments(0) | - |
「充足」あるいは「実現」
12-0624

日曜美術館のアートシーンでオーストリア美術館が紹介されており、代表的な画家であるクリムトの作品がいくつか取り上げられていた。


若いころからクリムトの絵が好きで機会があれば見てきたが、やはり現地で一度は見たいと思った。また、たぶんこの美術館で登場人物が出会う映画「ジェラシー」を思い出した。破滅的な恋愛劇と世紀末の不安を感じさせるクリムトの絵は似合いすぎるほど似合っていると感じた記憶がある。


ブログにする前の日記で書いたような気がするが、私はクリムトの絵の中では「充足・抱擁」と呼ばれているものが一番好きである。和訳のしかたにより「実現」とも訳されているようで、私が出会った時は後者で紹介されていた。


「充足・抱擁」は金箔を使ったきらびやかな衣装を身に着けた男女を描いた作品で、「接吻」と似ている。しかし、代表作として紹介されるのは「接吻」の方が格段に多いように思う。行き止まりの崖のようなところで抱き合う男女が描かれており、女性は膝をついて男性の手に自分の手を添えるポーズをとっている。クリムトの作品の多くがそうであるように男性の顔は描かれていない。女性の恍惚とした表情が印象的で、確かにこれはクリムトの代表作といっていいと思う。


しかし私は「充足・抱擁」の方がより好きである。こちらは衣装などは似ているが2人とも立ったポーズで描かれており、男性の顔は同様に伏せられている。女性の顔は「充足・抱擁」ほどあらわになっておらず、右手は天を指すがごとく男性の肩を抱きながら上を向いている。


この絵に出会ったのは、画集でもテレビ番組でもなく、新聞の別冊であった。解説していたのは著名な美術評論家でその文章がとても心に残った。今でもどこかを探せばその新聞があるはずだが、すぐには出てこない。二十年以上前のことなので詳細は忘れてしまったが、おおまかな内容は覚えている。


愛し合う2人はその愛に充足している。これ以上ないくらい至福の時間を共有している。しかし、そんな時間は永遠ではない。その事実に対して男は顔を伏せて考えまいとしている。女はこの愛が永遠に続くことはないと知りながら永遠であってほしいと切望し、この刹那に身をゆだねている。女の手は永遠を象徴する天に向けられているが、それは叶わぬことだということを女は知っている・・・


そんな内容だったように記憶する。不確かなので新聞を見つけたおりにはもう一度記事にしようと思っているが、私は「顔を背ける男と受け入れる女」という図式に男女の業のようなものを感じ、いつまでも忘れられないでいるのだった。

| - | 19:54 | comments(0) | - |
ネコ付マンション
12-0623

少し前ニュースサイトを見ていたら「ネコ付きマンション」なるものがあるという話題を知った。


ペット可のマンションではなく、はじめからネコが付いているマンション。なんともユニークだが、記事を読んでみるとそこには年間約15万匹とも言われるネコの殺処分への対応策としての意味があることを知り単なる商売とはまた違うものを感じた。


動物を飼うということは基本的に最期まで責任を持って飼うことが条件となろう。何があっても命を粗末にしないという覚悟が必要だ。しかし、飼いたいという気持ちがあっても、転勤の可能性をかかえていたりすれば二の足を踏む。結婚した相手がネコ好きでない場合もあろう。そのようなことを考えると飼いたいけれど実際に飼うところまでいかないという人も多いと思う。


このマンションはそんな人たちを含めたネコ飼いの潜在需要を掘り起こすもので、用意されたネコの中から気に入ったネコを選び同居することができるというもの。退去時に置いていくことも認められ、サポート体制も用意しているようだ。


重要なのは、対象となっているネコたちが保護されたネコたちであり、ペットショップで販売されているようなネコではないということ。少しでも殺処分を減らしたいというマンションオーナーの女性が考案した事業だとのことだ。


おそらくはじめての試みなので、あとからいろいろな問題も出てくると思うが、それを乗り越えてこういう事業が増えていってほしいと願う。ストイックな姿勢が悪いわけではないが、これくらい柔軟に考えていった方が結果的には殺処分を減らしていくことに寄与するのかもしれない。


さて、わが家はネコ付マンションではないが、3匹いるので部屋の中にはどうしてもネコ関連のものが多くなってしまう。トイレは2つ。エサ場はそれぞれなので3ヶ所。悩みは床がカーペットで毛の掃除がしにくいことと、ネコにありがちな食べ物を戻されたりしたときの後始末が大変なこと。壁はボロボロ・・・(^.^;)


ネコを飼うことを前提に作られたマンションなら、こんな悩みのうちいくつかは解消しそうだ。ちょっと羨ましい。

| - | 23:51 | comments(0) | - |
乞食
12-0622

今では立派な(?)差別用語(放送問題用語)で、マスコミなどではほとんど使われておらず耳にすることも少なくなった。「ホームレス」という言葉に置き換える向きもあるようだが、これはあきらかに違うと思う。


私にとっての「乞食」とは路上に座り、缶や箱などを置いて通行人に金を乞う人たちのこと(あるいは、そのような行為)であり、ホームレスの人たちの中にもそうした行為をしている人もいるだろうが、イコールでは全くないと思う。


「乞食」(こじき、こつじき)とは、もともと仏教用語で仏に仕える身である僧が自分の生命を保つため人にモノやカネを乞うことで「行乞」「托鉢」は同義。そして、乞食をすることは頭陀行という行のひとつである。


先日本屋で「私家版 差別語辞典」(上原義広著)を見かけて買ってきた。それについては

いずれ改めて書こうと思っているが、「乞食」の解説もある。その本によると、江戸時代には乞食はひとつの職業であり、鑑札を必要としたとのことだ。士農工商の身分制度のさらに下には「穢多」「非人」という人たちがいたが(非人の方が下)、その「非人」の支配下で営まれた職業であったという。地域によっては諜報活動も行っており、その地の治安維持に役立っていたということだ。


しかし、明治時代以降、乞食は職業ではなく単なる物乞いとして憐れまれ、厭われる存在になってしまった。いかなる理由があろうとも、負け組の行き着く涯であり「ああはなりたくない」ものの代表であったと思う。


「乞食」という言葉を目にしたり耳にしたりすると、どうしても思い出してしまう光景がある。昔の思い出ではない。今年になってからのことだ。


忘れもしない3月17日。まだ気温は低く冷たい雨が降っている日だった。私はみなとみらいにある会場で行われるバレエを見にいくため、みなとみらい線の「日本大通り」駅で下車した。開演時間を勘違いしていたことに家を出る直前気づき、ひどく慌てていたので思い切り早足で駅の構内を歩いていた。


地上に出るためのエスカレーターに近づいた時、通行人の邪魔にならない場所に1人の男性が座っていた。壁を背にして、正座をしていた。床に何かを敷くこともせず、正座して俯いたその人の前にはあまり大きくない空き缶がひとつ置いてあるだけだった。


今まで見たことがある乞食は、空き缶などの横にどうして自分はこのようになってしまったのかを説明する文章を書きつけたものなどを置いていることが多かった。読んだことはないが、たぶんそのようなものだと思う。しかし、その人は缶以外の何物も置かず、身体を思い切り硬くしていた。


膝に置かれた手は硬く握りしめられ、顔はほとんど見得なかったが目も閉じているように思われた。何かを必死に耐えているような緊張感があたりに漂い、立ち止まることなく目の前を通りすぎながら軽いショックのようなものを覚えた。


まず頭に浮かんだのは「何故」という言葉だった。何故こんなところに、何故そこまでの緊張に耐えて、何故何の説明もなく、何故、何故・・・


もし急いでいかなったら、私は彼に話しかけただろうか。やはりあの時と同じように、衝撃を受けつつも通りすぎるだけだろうか。帰りにはもうその姿はなかったが、あれから彼はどうしたのだろうか。今はどうしているのだろうか。案外暢気にしているのだろうか。それとも別の場所で同じように身体を硬くして俯いているのだろうか。


| - | 14:18 | comments(0) | - |
ゴッドファーザー
12-0621

少し前、久しぶりに「ゴッドファーザー」を観た。レンタルのDVDでではあるが。


この映画は昔々家族で観に行ったことがある。かれこれ40年前の映画なので、私はもちろん10代。たしか正月映画として華々しく上映されたと記憶している。以来、何度かまた観たくなって借りたりしてきたが、前回観てから何年経ったのかそれさえ覚えていないほど久しぶり。


今回はなんと「ゴッドファーザー」「ゴッドファーザーPart II」「ゴッドファーザーPartIII」の3本を立て続けに観る、という暴挙に出た。いやぁ、長かった。よほどの暇人でなければそんなことはしないと言われても当然だと思うほどに。


最初の作品が1972年、PartIIが1974年。そしてその存在を知らなかったPartIIIは1990年の作品である。原作を読んでいないので何ともいえないが、PartIIIはシリーズ作品というには違和感があり、世間の評価どおり3作品の中では一番面白くないと思った。


ご存知のように、この映画はイタリア系マフィアの物語である。マフィアという言葉は意図的に使われておらず、常に「ファミリー」と表現されているが、マーロン・ブランド演じるビトー・コルレオーネの時代には確かに「ファミリー」といえたものが、時代とともにどんどん世知辛いものになってきてその世知辛さと戦い、勝ち抜いてきたかに思えた二代目マイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)の老残ぶりはビトーと比べ物にならないほど残酷であり悲しい。PartIIで終わりにしておけばよかったのにと思うのは私だけではないような気がする。


しかし、大作であることに変りはないし、最初の作品は映画史上に残る名作だと私は思っている。ニーノ・ロータの哀愁を帯びた音楽もいいし、俳優陣もそれぞれがはまり役で見ごたえがあった。


血は繋がっていないがファミリーの一員として尽くしてきた弁護士トム・ヘイゲンを演じたロバート・デュバルが特にいいと思うが、今回は気が弱くて鬱屈した性格でそれゆえ弟であるマイケルを裏切ることになってしまうフレド・コルレオーネを演じたジョン・カザールの演技がなかなかいいと思った。


この人は「ディア・ハンター」でも彼ならではの役を好演していたが、その時はすでに癌に侵されており封切りを待つことなく他界したという。アル・パチーノとは仲が良かったらしく、なんとメリル・ストリープと婚約していたらしい。知らなかったー


ということで、しばらくはもう少し軽い映画を観たいような気がするが、さてどうなることやら。気分次第なので自分でもわからない。

| - | 22:49 | comments(0) | - |
あちこち老朽化
12-0619

今日は元同僚が急遽入院したと聞いて見舞いに行ってきた。脳梗塞と聞いていたので心配だったが本人は思いの外元気で発見が早かった(自分で電話して救急車を呼んだとのこと)ので、大事に至らず本当によかった。


今のところ大病には至ることはないが、やはり私んび身体もあちこち老朽化している。この数ヶ月それをひしひしと感じる。年齢的にいっても不思議なことではないが、普段何の不都合も感じていなかったところが急に気になり出す、というのが所謂「老化」なんだなと実感する今日このごろである。


頚椎に少し問題があるのは以前からわかっていたが、足腰は丈夫だと思っていた。ところがこの数ヶ月、膝が急に痛くなったり、股関節の具合が悪くて自転車のペダルを踏むのが苦痛になったりしていた。膝は診てもらっていないが、股関節は整形外科でレントゲンを撮ってもらい、関節に異常はなしとの診断を得ている。医師は筋でしょうというが、筋をおかしくした場合それほど長期に亘って症状が続くものなのだろうか・・・自転車に乗れなくなると実生活上も不便なことこの上ないのだが。


次におかしくなったのは腕。上腕の筋肉(あるのか?)というか筋というか、それが痛い。いつも痛いわけではなく、腕を後ろに伸ばして何かを取ろうとしたり、後ろ手でドアを閉めたりすると痛い。助手席に乗っていて、後部座席に置いた荷物を取るのがかなりの苦痛である。


五十肩かとも思ったが、腕を上に上げる体勢は大丈夫。こちらも筋の不具合だとすると、一気に筋違いしたのか!?不思議な現象である。


まあ、この程度なのでまだまだ大丈夫だとは思うが、これからはこういった細々とした不具合と付き合っていかなければならないんだなと思い、ちょっと憂鬱。普段は健康食品やサプリメントには全く興味を覚えないが、グルコサミンだのコンドロイチンだのという単語に反応してしまう自分が情けない。やれやれ。

| - | 21:03 | comments(0) | - |
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