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日々の内側
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黄色い花
12-0430

カラーカウンセリングで私のメインカラーは黄色!と聞いてから、黄色という色への意識が高まってきた。とっても積極的に黄色を取り入れるところまではいっていないが、今まであまり気づかなかったことに気づいたりはしている。


たとえば、花。私は品種を問わず白い花を最上とするが、次に好きな花の色はというと黄色だということに気づいた。黄色といってもいろいろだが、あまり強い黄色を除外するとかなり黄色い花が好きなのだ。


これは少し気づいていたようにも思う。何故なら、わが家にある薔薇のうち白について多いのが黄色あるいは黄色系といわれるもので、ピンクの花はほとんどない。花屋で買う花も、白や黄色、時にブルー系の花は買うがピンクの花はほとんど買わない。


どうしてだろうと思うに、たぶん白や黄色の花の方がナチュラル・・・というか原種に近い花は白や黄色が多いからだと思う。もちろん原種でもピンク色の花はあるが、白や黄色の方が野趣があり私好みである。


着るものや身に付ける小物などは遊びの要素としてピンクを取り入れることが多い。そんな時も「甘さ」を求めるというよりもアクセントとしての差し色を求めており、淡いピンクよりショッキングピンクの方が多いように思う。


春の花といえば桜を思う人が多いのだろうが、桜がもてはやされているころ、ひっそりと咲く黄色い花が好きだ。桜に先駆けて咲くマンサク、ロウバイ、ヒュウガミズキにトサミズキ、みんな色調の差こそあれ黄色である。


また、早春に咲き始める求婚植物にも黄色が多い。先日青森に行った時、八戸から出るバスに乗っていると畑の脇や人家の庭先に水仙が実に見事に咲いていた。最新の園芸品種ではないごく一般的な水仙なのだが、それらが輝くように咲いている姿はまさに春の歓びそのものである。


今、わがベランダではロサ・プリムラが花盛りを迎えている。他の薔薇にさきがけて咲く黄色い薔薇はいくつかあるが、私はこのレモンイエローの一重の花が一番好き。その名の通り、春一番に明るい陽射しを喜んでいるかのように咲く。小さな瑞々しい葉とよく調和し、紫褐色の枝もまたいい。


今年はほとんど何の手入れもしていなかったのだが、どういうわけか例年になく花付きがよく嬉しい驚きを感じさせてくれている。秋には実が赤くなり紅葉もする。いいとこずくめの薔薇である。薔薇の楽しみかたは人それぞれだが、私は花だけでなく花木としての姿や葉の様子、実の様子、秋の姿など全体的に魅力的な薔薇が好きだ。一年に何度も咲く必要はなく、他のほとんどの花木がそうであるように春の一季咲きで十分満足。


原種とそのハイブリッドをのぞくと、黄色い薔薇とえばノワゼット系かティー系の薔薇になろうか(オールドローズの場合)。これから、去年見事な花を見せてくれたイエロー・ティ、アリスター・ステラ・グレイなどが咲くと思う。イエロー・ティはちょっと遅れているのかまだつぼみが見えないのがちょっと心配。もし咲かなかったら、鉢から抜いて調べてみなくてはと思っているところ。小さなロサ・バンクシアエ・ルテスケンス(モッコウバラの黄色一重)は数年後のお楽しみ!

| - | 08:24 | comments(0) | - |
北の独楽屋さん
12-0429

花鳥渓谷で長年木村所長の手足となり働いていた小林さん。もともとは木工の職人で、あのように大きな建築物(薔薇の支柱)を作るよりも細かい手作業を本業としていたという。人づてに聞いた話では叔父さんがこけしの職人で小さいころからてほどきを受けていたとのことだ。先日は木村さんの話ばかりで、控えめな小林さんはご自分のことは話そうとされなかったが今度お会いしたらぜひ聞いてみたいと思っている。


秋田県の十和田大湯にある「りんごの里 平塚果樹園」の駐車場に小さな店を出し、木工作品の実演販売をされているところにお邪魔した。宇樽部からだと車で40分くらいだろうか。十和田湖畔から山に入っていったところにあり、当日はやっと観光バスが数台くるようになったとのことだった。


店に並んだ小さな木工品の中に、とても愛嬌のあるタコを見つけたので思わず「これ、かわいいですね!」というと小林さんはとても嬉しそうな顔をして、「これ、オレのヒット作品なんですよね」という。


どこぞで実演販売をしていた時ふと思いついて作ったところ評判になり、思わぬ数が売れたとのこと。タコの頭の上にはお得意の独楽がついていて、独楽をまわすとタコもまわる。まわりながら、タコがタコをあげるという趣向が楽しい。タコの顔もひとつひとつ微妙に違っていて手作りのぬくもりを感じる。


買って帰ろうとしたら、こんな遠くまで来てくれたんだから1つプレゼントしますという。無碍に断るのも失礼なのでありがたく頂戴することにして、タコの隣りにあるこれまたかわいらしいリンゴを買ってきた。


こちらは小さなリンゴが蓋物になっており、なかには小さな小さな独楽が5つ入っている。こんな小さな独楽を作れるなんて!と驚いた。


小林さんは毎年1回、神奈川県の某百貨店で実演販売していたというが、このところ客数も伸びず行ってもかえって赤字になってしまうので今年はどうなるかわからないとのこと。このタコやリンゴのかわいらしさ、素朴なぬくもりをもっと多くの人に知ってもらいたいと思うが、ご時世はどうしようもないのか・・・


お役にたつとは思えないが、ここで紹介させていただくことにする。住所も記すので、もし当地に行かれる予定がある方はぜひ寄って欲しいと思う。ひとなつこくてきれいな目をした小林さんにもぜひ会って欲しい。「北の独楽屋さん」で検索するといろいろ出て来るので、参考にされたい。


●北の独楽屋さん(小林和正さん)

 秋田県鹿角市十和田大湯字箒畑105-1 りんごの里平塚果樹園内

| - | 17:36 | comments(2) | - |
十和田市現代美術館
12-0428

今までこの美術館の前を4回通った。3回目はバスではなくレンタカーだったので外に展示されている作品は見ることができたが、中の展示を見る時間がなかったのであきらめた。そして4回目にしてやっとバスを途中下車して心ゆくまで美術館を堪能することができた。1人旅のいいところである。


この美術館は、十和田市の官庁街に当たる場所にあり、「ART TOWADA」計画の一環として建設された。美術館の敷地以外にもストリートファニチャーがいくつか展示され、駒街道と呼ばれる官庁街通りには馬の彫刻も何点か置かれている。


雰囲気としては金沢の21世紀美術館に似ているのではないかと思う。ガラス張りの迷路のような設計になっていてぼんやりしていると迷子になりそうになる。しかし、常設されている作品の数はゆっくり見るにはちょうどいいと思うし、ひとつひとつが個性的かつ完成度の高い作品であるように思われる。


まずびっくりするのが、入ってすぐ対面する「でっかいオバサン」だ。ロン・ミュエクのスタンディング・ウーマンがそれで、血管まで透けてみえるリアルな質感と常識を超えた大きさのギャップがなんともいえない。外から見えるスゥ・ドーホーの「コーズ・アンド・エフェクト」は数万体の樹脂製の人形が天井からシャンデリアのようにつり下がっている作品で高さは9メートルあるという。よく見ると人形の形が微妙に違っており、色のグラデーションとともに華やかかつ神聖な感覚さえ覚えさせる。


道を隔てたアート広場には、草間彌生の作品が賑やかに展示され、子供たちに人気がありそうだ。正面玄関付近には、花で埋め尽くされた大きな馬「フラワー・ホース」(チェ・ジョンファ)と真っ赤な巨大アリ「アッタ」(椿昇)が人目を引く。


今回は常設展で「ザンプランド」を展示している栗林隆の特別展が開催されており、こちらも大変見ごたえがある作品だった。なにかと感傷的になりがちな旅の終わりに、パキッとした現代美術に触れることができたのは精神的なバランスの上でもよかったように思う。


まだシーズンではないのでバスの本数が少なく、新幹線の時間との兼ね合いで3時間以上間が空いたが、こじんまりしたミュージアムショップの横にあるカフェで時間を潰すことができたので全く問題なし。このカフェもひとつの作品で床にはマイケル・リンのきれいな花の絵が敷き詰められている。


こちらからだと気軽に行けるところではないと思うが、新緑の奥入瀬渓谷などに行く予定がある方にはぜひおすすめしたい。

| - | 23:54 | comments(0) | - |
十和田へ
12-0427
・・・霧に包まれる夕暮れ時の十和田湖。宇樽部の湖畔にて・・・

23日で十和田へ行ってきた。


出かけるという話をすると、「旅行ですか?仕事ですか?」と聞かれることが多い。が、以前の十和田行きも含めて答えるのが難しい。単なる娯楽としての旅行ではないが、かといって依頼を受けての仕事でもない。ただ言えることは、私の中ではれっきとした仕事だということだ。


今回は初対面の方々数人にお会いし、嬉しい偶然もあったりして意義深い旅になった。

思えば、人との出会いは偶然である。しかし、その偶然の活かし方次第で単なる偶然に終わるか新たな偶然と出会うかの大きな違いがあると思う。


十和田湖畔といえば、このブログを読んでくださっている方々はピンとくるのではないだろうか。かつてあった日本一(だと私は思っている)のバラ園・花鳥渓谷の木村さんが亡くなって一年が過ぎた。あっという間の一年であった。


誰の手も入らない花鳥渓谷を歩いていると、ほんの2年前に見た夢のような光景がはるか昔のことのようにも思われたが、よく見れば其処此処にこの地を愛した人の気配が残っており、私なりに何度も再会しているような気がしている。


花鳥渓谷に行けたのも、木村さんという稀有の女性に会えたのも、偶然といえば偶然である。私が薔薇を育てはじめ、写真を撮り始め、それが縁で知り合ったOさんが誘ってくれなければ出会うことはなかった。


Oさんとの出会いも、私が薔薇を育てはじめたことも必然ではない。様々な偶然が重なってのことだと思っている。今回は、昨年7月に偶然お会いし木村さんと家族同様の関係にあったIさん、Iさんに紹介していただき10月に泊まった民宿のNさんご夫婦に半年ぶりで再会。Iさんのお向かいに住み、かつて花鳥渓谷で仕事をしていたというYさんともお話することができた。


また、長年花鳥渓谷で働き、あの見事なツリー型のポールなどをすべて作ったKさんにもお会いできた。Kさんは木村さんがとても信頼し頼りにしていた方だと聞いていたのでぜひお会いしたかったのだが、連絡先がわからず困っていたらIさんが教えてくださった。お会いするのは初めてだが、電話では何度かやりとりしており「おばんです」という何ともいいようがないあたたかな挨拶をしてくださる方だ。


木工の職人であり、縁あって花鳥渓谷で大きな構造物を造ることになったが今は本職に戻っておられる。果樹園に併設されている小さな店でご自分や仲間たちの作品を販売されていて、その小さな店の中で2時間ほどお話をお聞きした。お会いする前の思っていたとおり、あたたかく素朴でおおらかな方だった。


その他、十和田湖のクルーズやハイキング、地元のイベントなどでよく一緒に遊んだというOさんにもお会いできた。Oさんご指定の喫茶店でお会いしたのだが、そこは去年の夏に偶然入った店だったのには少し驚いた。店を1人できりもりしている方も木村さんのことはよくご存知の方。2人で話していると、後からお二人の方が偶然いらしたのだが、ともに木村さんとは親しかった方だった。夕方だったのだが、その時間帯にこのメンバーが偶然居合わすことは滅多にないこととのこと。私はまたしても嬉しい偶然に恵まれたのだった。


あたたかな方々との出会いに充たされた気持ちを抱いて十和田を後にした。十和田湖といえば青森県の中でも有数の観光地だが、連休や夏場、秋の紅葉時以外は閑散としたものだという。訪れる者からすると静かな方がいいが、どこの観光地でもかかえる様々な問題が十和田にもあるのだった。


帰りはバスを途中下車して十和田市現代美術館に行ってきた。その話はまた後日。

| - | 12:03 | comments(0) | - |
歴史への眼差し
12-0423

久しぶりに、そう、十年以上ぶりに某局の大河ドラマを楽しみにして見ている。ドラマなのでもちろん脚色もあるのだろうが、貴族社会に武士が食い込んでいく過程が描かれており、あの平清盛も子供時代や若いころはああだったのかもしれないと思い、昔観ていた「新平家物語」とは違う切り口を楽しんでいる。


ところが、である。放送開始からどこぞの知事が「画面が汚い」と文句を言ったというニュースが流れた。映像技術は最先端のものであろうし、まさかすごく古いテレビを観ているわけでもあるまいし、なにゆえそのような発言をするのか意図不明であった。


要は、貴族社会の「犬」であった武士たちの様子が汚く、野卑であることに対して物語の舞台である地元の代表としてははなはだ我慢ならないといったところなのではないかと思う。


が、私からすればそれこそ歴史的認識のはきちがいで、いやしくも知事たるものがそんな発言をするとは情けないことこの上ない。


大昔のことなので、何が真実かは計る術もないけれど、数々の学術的根拠を元にできるだけ史実に基づいてつくられたものであるならば、絵空事のきれいな話よりもずっと面白いはずだと私は思う。


平家といえば貴族のようなきらびやかな公達だちの一族だというイメージは今なお根強く残っているのであろうか。確かに権力を得てからの平家一門はそのようなものであったのかもしれない。そして、それゆえ図に乗りすぎて源氏に責められ、西海に散った哀しくも美しい物語の主人公たちであったのかもしれない。


しかし、実際のところ権力を握るまでは多かれ少なかれ貴族に比べれば野卑であったろうし、それが彼等のパワーにもなったに違いないと思う。


日本人はのんびりしているというか、現実的なことに疎いというか、自分たちがつくった嘘臭いイメージを後生大事に抱きたいと思う習性があるのだろうか。こんなことでは「フジヤマ、ゲイシャ」が日本の代表的なイメージであると海外の人から思われても仕方ないのではないだろうか。嘘くさいキレイゴトが嫌いな私だからこんなことを考えるのだろうか。


某局の大河ドラマの視聴率は芳しくないというが、その異例の低さというのはイコール日本人の歴史認識のお粗末さだとはいえなだろうか。私は応援するぞ!見つづけてやるぞ!ふんっ!(鼻息荒し!)


*明日から数日間留守にします。ブログも更新できません。

| - | 23:27 | comments(0) | - |
ロックを聴いていたころ
12-0422

ザ・バンドのドラマーだったリヴォン・ヘルムの訃報が伝えられた。思わず「ザ・ウエイト」などを聴きながらロックを夢中になって聴いていたころのことをつらつらと思い出していた。


今でも聴かないわけではない。が、本格的に聴きはじめた大学生時代から20代までが私の「ロック時代」といえよう。FMラジオを聴き、コンポーネントを買って好きな曲をカセットテープに編集し、ニューミュージックマガジンを定期購読し、ごくたまにライブに行き・・・その程度だったが、聴いていたのはロックだけだったと思う。


ザ・バンドはバンドを組んでベースを弾いていた従兄弟が盛んに勧めるのでアルバムを買った。いかにもアメリカという感じのほどほどに泥臭く大らかな感じがするバンドだなと思った。ボブ・ディランのバックバンドとして有名だったが、私のような素人よりも玄人受けするバンドかなとも思った。


「いかにもアメリカ」と書いたが、アメリカ人はリヴォン・ヘルムだけで他はみなカナダ人だったそうな。今にしてそんなことを知るとは、まったくいいかげんなものである。


今はどうだかわからないが、ロックには「反体制」というイメージがつきまとっていた。それが若者を魅了し、ささやかな反体制的行為に走らせた。たいていの場合、たいしたことではない。私も場合も、未成年なのに酒を飲み煙草を吸い夜遊びしていたくらいだ。体制に反抗していたというよりも、親が押し付けてくる常識とやらに反発していただけなのかもしれない。


社会にもまれ大人になっていくということは、ある意味で計算上手になり臆病になり狡くなり賢くなることだ。少しでも安逸な人生を送るためには必要なことだと思うが、青くて不完全で支離滅裂だったころ持っていた何かを失うことでもある。失ってしかるべきものなのかもしれないが、それにしては時々無くした何かが恋しくなるのはなぜだろう。


*「ラスト・ワルツ」と「イージーライダー」が見たくなってきたぞー

| - | 15:56 | comments(0) | - |
オスの哀しさ
12-0421

東急沿線の情報誌「SALUS」で毎号連載されているエッセイを楽しみにしている。書いているのはコピーラーターの岩崎俊一さん。「大人の迷子たち」というタイトルで毎回日常的なさほど珍しくないテーマをテキパキと裁いている文章で、さすがコピーライター!だと思うこと度々。


で、今出ている号ではオスというイキモノの頼りなさというか哀しさのようなものが書かれていて、メスとしてはさもありなん!と思いながらもほほ笑ましいような気持ちで読んだ。

タイトルは「自分の子が生まれたことも気づかない生き物。それが男です。」


「桃」という名の飼い犬の出産にまつわる話で、テキパキと出産準備を整え、苦しみに耐えて子供を生むメス犬とそれを全くしらず暢気に暮らしているオス犬を対比させていておもしろい。


メス犬が散歩から帰った後、家中をうろうろして出産場所を探していたころ・・・

「その同時刻、近所に在住する父親犬、熟睡中(たぶん)」

出産の苦しさに耐えながら1匹目を生んだころ・・・

「その同時刻、父親犬起床。玄関のケージの中で、起きぬけの大欠伸(たぶん)」


父親であるオス犬は近所に住んでいるようで想像しているだけなのだが、たぶんその想像は正しいと思う。そして、最後のしめくくりに差しかかったとき、筆者はこう書いている。


人間の世界も犬の世界も同じことだ。男が戸惑い、手を拱いている間に、生の営みを粛々と推進するのは女ばかりだ。男がぼんやりと次のメシのことなどを考えている時、女は体内に新しい命を育み、巣を調え、壮絶な出産を経て、ミルクを与え、子どもの糞と尿を舐めて清め、腕の中で子を守り、生と死の間で闘いつづけているのだ。


男性が女性の強さに圧倒されるというテーマは至るところで見かける。歌の世界でも物語の世界でも映画の世界でも。おもしろいのはその多くが男性からの視点であることで、正直といえば正直なのかもしれないが、だからといってそんな女性を尊重しようと思っているかはよくわからない。女性の強さに甘えている男がけっこう多いし。


しかし、世の中男と女がバランスよく存在してはじめてうまく回っていくような気がする。強いとか弱いとかだけでどうこうなるものでもなるまい。たぶん女はそれをよく知っていて、男の哀しさをほほ笑ましく思い、愛おしい存在だと感じるのではないだろうか。

| - | 21:34 | comments(0) | - |
初競馬!
12-0419

Sさんとの前々からの懸案であった競馬にようやく行ってきた。パドックも見たいし外にいることが多いので天気と相談し、前週の川崎競馬はあきらめて大井競馬へ。


競馬番組は見たことがあるが、競馬場に行くのははじめてである。亡父はたまに馬券を買っていたが主に場外馬券売場に行っていたようで競馬場に娘たちを連れていこうとはしなかった。また、当時の競馬場はそんな雰囲気ではなかったのかもしれない。


競馬に限らず賭事らしきことにはとんと興味のない私ではあるが、馬は大好きなイキモノである。サラブレッドでなくとも文句なく美しい。ましてや磨き抜かれたサラブレッドであれば非の打ち所がないに決まっている。


じっとしている姿もいいが、やはり馬は走っている姿が一番美しい。


目の前でそれを見るというのは賭事をすることとは全く別の次元のことで、今回はお遊び程度に3レース買ってみたが全く当たらず、それでもいい気分で帰ってきた。


スタンド席の上の方に座り、あらかじめ小分けして持ってきた焼酎を紙コップに入れてポットの湯をそそぎ、ゆっくり飲みながら競馬観戦。大きなレースではないので観客もまばらだが、さりとて閑散としているというほどでもなく、なんだかとても寛げる空間だった。昨日は1200〜1300メートルのレースだったが、スタートからゴールまではあっという間。その間を全力で走る馬はいつまで見ていても見飽きることがない。


パドックを見るのも楽しい。同じ毛色でも本当に個性豊か。ベテランはどんなところを見るのか知る術はないが、何度もパドックを周回しているうちに馬の様子が変わってくるのがおもしろい。いかにも素直そうで頼りなげな馬もいれば、きかん気が強そうな馬もいる。落ち着かない馬もいれば、静かに回りつづける馬もいる。しかし、騎手が乗った途端どの馬も多かれ少なかれ様子が変わる。これから走るのだという気力が漲ってくる。利口な動物だと思う。


ゲーム、ギャンブルとしての面白さはまだわからないが、競馬場に行く楽しさは十分味わった。機会があったら何度でも行ってみたい。ありがとう&これからも、よろしくお願いします>Sさん

| - | 15:32 | comments(2) | - |
GROOVY
12-0418

バス通勤の日にはiPodを必ず持っていき一人でいる時はほとんど音楽を聴いている。


とくにバスの中では音楽がないと手持ちぶさただ。電車の中では本を読むが、バスだとどうも気分が悪くなってくるので。見慣れた街並みを見ながら音楽を聴いている時間はなかなかいい時間である。


朝と夜では聴きたい曲が違うが、それ以前に昔は聴かなかったジャズを流すことが多くなっている。家でなら頻繁にジャズを聴くが、外出時は何故か聴きたいと思わなかった。しかし、年齢のせいなのか何なのかは不明だが最近はやけに多くなっている。


とくに帰りのバスの中。一日働いた疲れを感じながら、それでもなんとなくほっとしている時間。外は暗くて行き交う車のヘッドライトやテールランプが目に染みる。朝は目立たなかったスナックの看板がやけに目立ち、ガソリンスタンドなど眩しいくらいである。


バスの窓に乗客の姿が映り、その向こうに見慣れた街の夜がある。


そんな時私はプレイリストの中からジャズを選び、ある時はコルトレーンを、ある時はMJQを、ある時はオスカー・ピーターソンを、ある時は・・・と気分が赴くままに聴きつづける。何も考えずにただ聴きつづける。


なんでジャズなんだろう・・・と考えたがよくわからない。が、昨日ピーターソンを聴いていてかなりいい気分になった時、「GROOVY」という言葉が頭に浮かんだ。ジャズで使う言葉だが、定義はなかなか難しそうだ。ちょっと乱暴にざっくり言ってしまうと「ノリがいい」ということになろうか。


ピーターソンは久しぶりだ。ジャズを聴き始めた当初少し聴いていたが、あの派手な弾き方(^.^;)がどうにも鼻につく感じで飽きたというかとにかく聴かずにいたのだった。しかし、やはり好みは変わるのか、派手さが目立った弾き方を流麗だと感じ、弾きながら口ずさんでいるハミング(スキャット?)もノリノリな感じで楽しくなる。「主役はオレだぜ!」と言わんが如くぐいぐいと引っ張っていくパワーがすごい。


たぶん、しばらき聴きつづけているとビル・エバンスあたりが聴きたくなってきそうだが、今はオスカーさんにひたってみよう。

| - | 13:12 | comments(0) | - |
伊達の薄着?
12-0416

日々気温の変化が大きい昨今だが、気分はすっかり「春」である。髪も短くして軽やかになったことだし、服装だってやっぱり「春」じゃなくちゃね!ということで本日薄着で出かけた。


コットンの薄手タートルの上にフランネルのシャツ、デニムは短めのクロップド。


見た目には薄着に見えるかもしれないが、実はタートルの下に薄手の防寒肌着を2枚着て

おり、足だってストッキングを履いた上にソックスを履いていた。それでも、職場のみなさんには「信じられない!」という目で見られ(^.^;)、ある人からは「季節に合ってない!」と

言われたが、私からすると厚手のブルゾンなんぞを来ているご本人こそ季節に合っていない

のである。


何事も気分優先で動きがちな私だ。そうはいかないこともあるが、着るものについては気分

優先にしたところで誰に迷惑がかかるわけでもなし、着たいものを着る。とくに季節の気分

というのは重要で、いくら気温が低くても4月になっているのにムートンのブーツを履くなどという野暮なことはしたくない。


実際、寒いことは寒かったが「信じられない!」というほどのことはなかった。じっとしていると辛いが、身体を動かしていればさほどのことはないのだ。春の寒さというのはその程度のものだと思う。


正直言うと、今朝もPコートを着ていこうかとも思ったのだ。あるいは軽いコットンのコートを。しかし、外に出た時感じた冷気が気持ちよかったのであえて着ないで出かけた。それで自分が辛い思いをしても自業自得だし、どうせ自業自得なら辛くても平気な顔でさらりと人の言葉をかわしたい。


ちなみに「伊達の薄着」とは寒いのに無理して薄着でいることを意味し、由来は洒落者だった伊達政宗が着膨れするのを嫌って寒い日でも無理して薄着をしていたことに由来するという。「無理して」は「見栄を張って」というニュアンスを含んでいそうだが、この「見栄」がオシャレには必要なのだと私は思う。


あからさまな見栄はみっともないかもしれないが、人に悟られない程度の見栄くらいないと、緊張感もなくなってだらしなくなってしまいそうだ。家の中ならまだしも、不特定多数の人に出会う外出時は多かれ少なかれ「見栄」を張っていたほうがカッコいいと思うのだがいかに。

| - | 22:16 | comments(0) | - |
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