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大人が子供に戻る時
12-0331

「童心に返って」という言葉をよく聞くが、実際のところ本当に子供の自分の気持ちに返ることはさほど多くないのではないかと思う。きっとそんな時は何かに夢中で、後になって「いやぁ久しぶりに子供に戻ったようだった」と思う・・・そんな経験はなかなかあるようでいて、なかなかない。


今日も風が強いが、昨日はもっと強烈だったように感じた。自宅付近はさほどではなかったが、職場の敷地内に入ったら前に進むのも難しいほどの風。思わず去年9月の台風時を思い出したが、向かい風だったのでまだよかった。強烈な追い風というのは背中を押すだけでなく、足を掬うのだ。


仕事場は横浜の中でも風が強いと思われる沿岸エリア。地上でも当惑するほどの風なのだから屋上はもっとすごいだろう・・・ということになり、昼休みが終わる間際みんなで屋上に向かった。


みなさん、私よりだいぶ年下の元気な方々である。面白半分に行き、渦巻くような強風を体験していた。私は去年のことがあるので一人出入り口付近に留まり、みんなが風に玩ばれているところを見学。


髪が風にあおられて舞い上がり、身体全体が流され、行きたい方向になかなか行けず、写真を撮ろうとしても手元が定まらず、大切なものを落として必死で追いかけ(^.^;)・・・そうこうしているみんなはまるで子供で、一人観察者を決め込んだ私はその光景にみとれて写真を撮るのを忘れてしまった。


人間を心底子供のようにするのは、人間が作ったものによってではなく、自然現象なのではないかとふと思う。あの時、あの場所にいた人たちは仕事のことなど全く考えていなかったに違いない。


仕事以外のいろいろもろもろ抱えているものも、一切忘れて風を楽しんで!?いたに違いない。いずれにしろ、みんなとてもいい顔をしていたことだけは間違いない。


そういった時間を共有できなかったことは残念といえば残念だが、その職場において私は常に傍観者であり観察者でもあるようなスタンスでいるため、あえてみなに加わろうという気持ちにはなれなかった。でも、見ているだけで半分くらいはあの風を共に感じたと思っている。


そういえば、私が高校生だったか大学生だったかのころ、大雪が降って夜半に止んだ。何を思ったかは思い出せないが、私は父と母を誘って夜の散歩に出かけた。大雪といったって横浜の大雪である。


たいしたことはないのだが、あたり一面真っ白になった雪の中を3人で歩いた。たくさん積もっているところを選んでざくざくと足跡をつけたり、小走りで走って「ラッセル車!」などとはしゃいだ。


父は笑いながら黙って歩いていたが、雪の中を歩き雪を踏みしめながら、子供時代を思い出していたのかもしれない。北海道の雪とは較べようもないが、若いころこちらに出てきめったに帰ることがなかった故郷の雪を思いだし、少しだけ子供に戻っていたのかもしれない。今にしてそんなことを思う。

| - | 21:51 | comments(0) | - |
サービスのクオリティ
12-0330
・・・ヤマネコの剥製の周りに乾き物のつまみ。一体この店は???・・・

ネットで買い物をすることが年々多くなってきたが、通常配送に使用する宅配業者は売り手が設定していることが多く、買った方は選べない場合がほとんどではないかと思う。いろいろな理由があって決めているのだろうが、買い手のことをまず第一に考えて、アクシデントやミスが少ないところを選んでほしいものだとつくづく思う。


というのも、できるなら某S急便には運んで欲しくないと思っているのだが、そういうわけにもいかず気分が悪い思いをした経験が幾度かあるからだ。


昨日も、26日に先方を出ているはずの荷物が届かないのでネットの追跡ページで調べたら、3日も経過しているというのに配送状況は「○○店でお荷物を預かりました」のままなのだ。いくらなんでもそりゃないだろう。とっくに配送店に届いており、普通だったら私の手元に届いているはずなのだから。


思わず電話してみると、折り返し電話するという。システム管理しているなら、すぐにわかりそうなものだと思いつつ電話を待つことにしたが、30分経っても電話がこない。1時間くらいして漸く電話が来たと思ったら、ドライバーに問い合わせているがその番号の荷物を持っている者がいない、という。引き続き調べるのでもう少し待ってくれというので、今までも何度かこういうことがあり困っていると伝えた。


そんな苦情は慣れっこなのか、先方はひたすら謝るのみ。仕方ないので待っていると午後10近くに電話があり、まだ見つからないという。「もし紛失したということになったら、どうするんですか?」と思わず聞いてみた。「送り先に連絡して同じものを送ってもらうように頼みます」という返事。「もしそれが一点物で同じものがない場合はどうするんですか?」と重ねて聞くと、もちろん明確な返事はない。


その電話から約1時間後、また電話が鳴った。やれやれやっと見つかったかなと思って出たら、送り先の人が配達日時を指定しており、数日先になっているとのこと。なるほど確かに私は自宅にいる可能性が高い曜日は送り手に知らせていた。しかし、その曜日指定で配送したという連絡はもらっていなかったので、いつ届くか心待ちにしていたのだ。


そんなことよりも、まだ先の曜日指定がしてあるのならドライバーが持っているはずがない。伝票番号で検索すれば、その荷物が営業所に保管されていることくらいあっという間にわかるはずではないか。一体S急便のシステムはどうなっているのだろうか。


今までにも似たようなことがあり、以前は本当に一時は荷物をなくされたかと思ったことがあった。その時は曜日指定もしておらず、単にS急便が荷物の在り処を見失っていただけだった。やっとのことで届いたのは、届く予定の日から数日後だった。


宅配業者に限らず、目に見えぬ「サービス」を売る仕事はたくさんある。彼等にとって「サービス」は「商品」であり、それがとんでもなくひどいものだったら消費者に背を向けられても当然だ。しかし、大口の顧客として宅配業者を選ぶ立場になる企業は、自分たちのメリットを最重視して選んでいるような気がしてならない。


モノを売るということは、モノだけを売ることではない。配送が必要なものについては質のよい配送サービスもモノの一部になると私は思う。買った者が不愉快になるような配送業者を選んでいると、今にそっぽを向かれますよ!といいたいところだが、消費者の方にも責任がないわけではないだろう。配送料が安いことを第一に考えていれば。


ちなみに私は複数の配送業者を選べる場合、多少料金が高くても自分が信頼できるところを指定している。売り手も買い手も、もっとサービスのクオリティに厳しい目を向けなければいけないと思うのだがいかに。

| - | 22:42 | comments(0) | - |
朝陽の中で微笑んで
12-0329

今日は気温も高めで春らしい一日だった。今年の桜は1週間遅れとか・・・そんなニュースを耳にしたが、ここ数日春めいてきたかと思うとまた冬に逆戻りのような日が続いており、やっと来たか!という感じである。


この時季になると、いくら気温が低くても真冬に身に付けるものを使う気になれない。ムートンブーツはとっくに片づけてしまったし、ダウンもできるなら着たくない。少し明るめの色の服を着たくなったり、スニーカーを履きたくなったりする。気温はいざ知らず、気持ちの中にはすでに春が訪れているものとみえる。


晴れた日の、しかも朝の、明るい陽射しは気持ちをも明るくさせる。いつもと変わらないものを見てもいつもとはちょっと違って見えることもある。


駅へ行く途中にある猫だまりにも春の陽射しが溢れ、冬の間は風が当たらないところにいた猫たちも朝陽を浴びてのんびりしている。赤トラ猫は陽射しを集めてオレンジ色に輝いているように見える。


白黒の猫の黒い背中もつやつやに見える。野良猫たちにとって冬は過酷な季節。みな、「やれやれ、やっと春がきた」と思っているのだろうか。


バスから外を眺めていると、自転車の前後に信じられないくらい大きな袋をくくりつけたオジサンがのろのろとペダルを漕いでいる。中にぎっしりつまったアルミ缶が朝陽に輝いている。アルミ缶1個いくらくらいで買い取ってもらえるのだろう。オジサンが満足できる金額で買ってもらえるといいのだが・・・そんな私の気持ちなど知る由もなく、オジサンはのんびりのんびり自転車を走らせている。


朝陽には不思議な力がある。やっぱり人間陽射しを浴びないと心身ともに不健康になるな、と思う。なぜなら、朝陽の中で見るものはいつもよりほんの少ししあわせな色彩を帯び、それがこちらに伝わって知らず知らず口元が緩んでくるからだ。笑おうとして笑うのではなく、気付けば微かに微笑んでいる自分を朝陽の中で見つけるからだ。


| - | 21:04 | comments(0) | - |
築地〜銀座
12-0327

昨年1214日に食べ逃した寿司を食べに築地まで行ってきた。1年以上会っていない友人と会うことになり、千葉在住の彼女が出てきやすいということもあり、築地。となれば、やはり心を残した寿司を食べねばなるまい。


10時半に待ち合わせて場内の店に向かったが、店の前にはすでに列が・・・並ぶのは苦手な私だが、おしゃべりする相手もいることだし心残りは解消したいので並ぶこと40分。やっと店に入ることができた。ビールを飲みながら好みのものをにぎってもらっている人もいたが、はじめてなのでとりあえずお任せのにぎりセット(3500円)を注文。


最初からセットでとーんと出て来るのではなく、ころあいをみはからって順次握ってくれる正統派?スタイルで混雑しているのに慌ただしい雰囲気はなく、なにより美味しかった。鮪も海老も美味しかったが、がっかりすることが多い雲丹が美味しく、みそ汁も美味しく、大満足で店を出た。


さほど頻繁には行かないが、地元の寿司屋に行くときはつまみを頼んで酒を飲み、最後ににぎりを2種類くらい頼んで終わりになる。握りだけを楽しむのは久しぶりだったが、それがとても美味しかったのでとても嬉しかった。店を教えてくれたHさんに感謝!


食後は場内をしばし歩き、波除樣にお参りした後新大橋通りの「うおがし銘茶」へ。入る予定はなかったのだが5階の催し物スペースで織物の個展をやっていたのでのぞくことにしたのだ。するとラッキーなことに2階でお茶を飲めるチケットをいただいた。


「うおがし銘茶」は築地場外にも店を構えるが、新大橋通りの店は場外より落ち着いた店構えで、ビル1棟まるごと使っているのでゆったりしている。2階のティールームではお茶を飲むことができ、季節の和菓子がついた美味しいお茶がいただけるのだ。今日は4種類あるお茶の中から好きなものを2つ選び、「泡雪」という名の上品な和菓子をいただいた。


その後、なつかしき「ひよこ」へ。昔ながらの喫茶店で近くに勤めていたころには同僚とよく行った店だ。老夫婦と娘さんでやっており、昼時は食後のコーヒーを飲むサラリーマンで満員になる。気取ったところがない平凡で少し古くさいところがかえって和やかなのかもしれない。なによりコーヒーが180円というところがいい。


「ひよこ」を出て銀座方面に向かい、友人が寄りたいという王子製紙のショールームに行き、銀座中央通りをそぞろ歩き三丁目交差点(4丁目)へ。左折して三越新館に行き、以前から気になっていた「OSUYA GINZA」に入ってみる。


この店はデザートビネガーを扱う店で、日本第一号のソムリエならぬスムリエがプロデュースしたとのこと。友人はブルーベリービネガーラテ、私はホットスパイシービネガーを注文。なんだかとても体によさそうなものを飲んだという感じ。


その後、つい先日オープンしたユニクロを見学し、ドイツビールの店「Zugspitze(ツークシュピッツェ・・・覚えられない!)」でドイツビールを軽く3杯飲んでお開き。


うーん、いろいろ楽しいことづくめの一日であった。明日からまたがんばろう(^.^;)

| - | 21:59 | comments(2) | - |
連想と衝動
12-0326

なにやら大げさなタイトルになってしまったが、話題はそれほどのことではない。むしろ、他愛ない

ことである。


いつだったかブログで取り上げた、昔から使っているiPod(たぶん第二世代)が突然壊れた。リセットしたら、あの可愛くも悲しき「サッドマック」(泣き顔のマックアイコン)が出てきてしまった。修理という手もあるやもしれぬが、なにせ古い。時間と金がかかるだろうし・・・とりあえずまだ健在であるnanoでガマンするかなぁ・・・とも考えた。


しかし、である。片道50分を要するバス通勤をすることが多くなった昨今、nanoでは頼りないのである。


というのも、nanoは容量からいってある程度の曲数しか入れられず、それでは困るのである。というのは、私はなにかを聴いていると突然全く別の曲が聴きたくなり、それが入っていないといたく気分が悪いのである。その連想の方向は定まらず、予想もつかない。


日によっては次から次へと予想もつかない連想が続けざまに頭の中を駆け巡る。だから、自分のiTunesに入れているものをすべて持ち歩く必要があるのだ。自分が持っていない曲ならあっさり諦めもつくが、私の連想は自分が持っている曲の範囲に収まることが多いので、iTunesの中身をすべて同期させている御大(そう呼んでいた。ひそかに)が必要なのである。


「この曲が聴きたいんだ!」という連想からくる衝動はかなりすさまじくて、それが敵わないとひどく悲しいし悔しい。その悲しさや悔しさはストレスになる。こういったストレスを解決する方法は単純なので少しくらい無理しても解決せねばならぬ。ということで、なけなしをはたいてiPod classicお買い上げとなった。デザインは昔のものの方が好きだが仕方ない。


classicの容量はなんと160Gである。十分すぎるほど十分だ。40Gあった亡きiPodでもまだ余裕はあったのだから。でもまあ、大きいことはいいことだ!これからもガンガン入れるぞ!


こうした連想や衝動は音楽だけの話ではない。そう、本である。こちらはもっとタチが悪い。音楽の場合は初期投資はあるていどかかるが、それ以外はさほどではない。が、本の場合はいちいち金がかかる。


読みたい本は基本的に買うことにしているが、それは所有欲からというよりも、一度読んだ本を何度も読み返すことが多いからである。ある日突然、前に読んだ本のことを思い出して激しく読みたくなる。その時手元にないとゴキゲンはいたくナナメになる。他の本でごまかそうとしたこともあるが、あえなく失敗。そんなことを繰り返しながら、本はどんどん増えていくのである。


今も、先日読み返したいと思っていた本が見当たらず、気持ちのどこかに苛々したものを抱えている。買ってきたもののまだ読んでない本がたくさんあるにもかかわらず。


堪え性がないといえばそうなのだが、そういってしまっては身も蓋もないとも考える。いや、節制する努力が足りないのであろう。たぶん。

| - | 22:39 | comments(0) | - |
Sweet & Fruity
12-0325

昨日、馬車道を歩いていたらちょっと気になる店があったのでのぞいてみたら、以前アルバイト先で一粒だけもらったことがある小さなキャンディを作る店だった。いわゆる金太郎飴の手法で作る飴なのだが、小さくてとてもかわいい。今風のオシャレな金太郎飴だ。


ご存知の方もいらっしゃると思う。店の名は「papabubble」。「パパブブレ」と読むらしい。


直径1センチくらいの小さな金太郎飴だが幾種類もあるのだが、失礼ながら意外だったのが、ひとつひとつちゃんと味が違うことである。こういった見た目がかわいらしいものは、見た目だけかわいければいいという作り方をしているものが多く、味までしっかり気配りされているものは少ないように思うのだ。


ここのキャンディはバナナのものはバナナの味、リンゴのはリンゴの味、というようにそれぞれがきんとその味を感じさせる作りとなっている。


店頭で飴作りの実演を見せており、昨日は土曜日とあってけっこうな人気でだった。一種のパフォーマンスだが、販促というよりもPR手法としてなかなか成功しているようだ。今は中野、神谷町、そして横浜馬車道の3店舗の展開のようだが、これから少しずつ増えていきそうな予感。

| - | 22:54 | comments(0) | - |
愛のうた
12-0324
・・・近所の焼鳥屋付近に常駐する三毛ママ。元気そうでよかった・・・

さてさて「うたシリーズ」の最終回は「愛のうた」である。もしかすると「花のうた」よりも多いかもしれない。たぶん、そうであろう。「うた」は人間が作るものなので。


愛の反対は憎しみではなく無視である、というようなことを誰かが言ったという。なるほど、と思う。愛と憎しみは切っても切れない間柄ではあるが、対極ではないだろう。むしろ、愛があるからこそ憎しみがあるのであり、愛のないところに憎しみはない。


愛といってもいろいろあるわけだが、ここではいわゆる「恋愛」に絞る。男女間あるいは同性間の「恋愛」だ。


「恋愛」についての私の基本的なスタンスは、大学生のころ出会ったD.H.ロレンスに影響された部分が多い。この小説において、作者の分身ともいえるルパート・バーキンは理想的な恋愛の形を星と星の関係に喩える。


それぞれが独立しながら、互いに強く引き合う関係、とでもいおうか。相手と一体化しようとするのではなく、独立した「個」と「個」である必要が大切だ、と恋人であるアーシュラに説く。


何故だかはわからないが、私はその考えかたにいたく共感した。特に女性に多いと思われるのだが、恋愛をしはじめた途端趣味が変ったり言うことが前と全く違ったりすることがある。すべてを「彼色」に染めるというか、「彼色」に染まることが恋愛だと思っているのではないかと見受けられる。


そういうのは私にとって蔑視の対象であった。今ならもう少し寛容になれると思うし、お互いそれでうまくいっているのならいいではないかと思うのであるが。


前置きが長くなったが、そのような私の恋愛観にぴったりなのが、以前にも紹介したことがある「I Am You」という歌である。「タンゴレッスン」という映画のラストに、主人公が歌うもので、原曲は「Milonga Triste」。Piana&Manziによるタンゴの曲にこの映画の監督であり主役を演じるサリー・ポッターが歌詞をつけたものだ。


Where did you come from?

Where,oh where?

From earth,from Water

From fire,or air?


When we're dancing

Then I'm sure

I know I know

From before


Traveling man

Man in my heart

Man on stage

Man f his art


Swiftly speaking,

With his feet

I see you,I hear you

There we meet


Where eyes and ears

Receive the word,

Where what is spoken

Can be heard


You are me

And I am you

One is one

And one are two


One is one

And one are two

You are me

I am you


「あなたは私」「私はあなた」でありながら、「一人は一人」なのであり「一人は二人でもある」のだ。


この映画については何度か話題にしているので詳しくは書かないが、ダンスシーンがすばらしく、それだけを見るだけでも満足できる。が、もうひとつのテーマは、男女間における愛の在り方への問いであるように思われる・・・と書いたらまた観たくなってきた(^.^;)


*検索してもあまりないのだが、好きなシーンのひとつが、これ

| - | 09:31 | comments(2) | - |
花のうた
12-0323
・・・りきさんちのヨッちゃん(蓬くん)。フレンドリーすぎて写真が撮れない(^.^;)・・・

予報どおり午前中から雨が降り始めた。仕事先の喫煙場所から見える運河を行き交う船を眺めながら春先の雨はいいなぁと思う。雨に煙る川は大好きだ。そして、見頃を迎えた梅の花が雨に濡れ、ひそやかに香りを放っている姿を思い浮かべた。平安の時代、「花」といえば梅を指すということも思い出した。


「花のうた」は数々ある。知っているだけでかなりの数になると思うが、悲しいかな思い出そうとするとすぐに出て来るのはかなり限られている。が、口が裂けても「世界でひとつだけの花」などは取り上げない(^.^;)


滝廉太郎の「花」はあきらかに桜である。桜はよほど日本人の心情に訴えかけるものが大きいと見えて、桜をテーマにした歌は非常に多いように思う。検索してみると、演歌や歌謡曲のジャンルでも桜は多い。桜以外では山梔子、菫、山茶花、野菊、紫陽花など情緒的な印象が多い。私が知っている歌もいくつかあるが、はてさて今日は何を取り上げよう。


梅だ、桜だ、という前振りをしておきながら、取り上げるのは外国の歌にした。サイモンとガーファンクルの「雨に負けぬ花」だ。バスの窓越しに雨に濡れる街並みを見ながら聴いていた大好きな歌。原題は「Flowers Never Bend With The Rainfall


Through the corridors of sleep

Past the shadows dark and deep

My mind dances and leaps in confusion.

I don't know what is real,

I can't touch what I feel

And I hide behind the shield of my illusion.


So I'll continue to continue to pretend

My life will never end,

And flowers never bend

With the rainfall.


The mirror on my wall

Casts an image dark and small

But I'm not sure at all it's my reflection.

I am blinded by the light

Of God and truth and right

And I wander in the night without direction.


So I'll continue to continue to pretend

My life will never end,

And flowers never bend

With the rainfall.


It's no matter if you're born

To play the King or pawn

For the line is thinly drawn 'tween joy and sorrow,

So my fantasy

Becomes reality,

And I must be what I must be and face tomorrow.


So I'll continue to continue to pretend

My life will never end,

And flowers never bend

With the rainfall.


暗く深く自己の中に閉じこもり、二進も三進も行かず、身動きが取れずにいる人は、しばし死を思うことはあっても、やがて自分に言い聞かす。何かあるはずだ、もう少ししたら何かが変るかもしれない、と。


そうして生き続けている人は少なくないと思う。生き続けるためには、自身をも騙さなければいけないこともある。


この歌のサビの部分がまさにそれだろう。ひたすら自分に言い聞かせる。自分の人生はまだまだ終わらない、花も雨に折れることはない、と。


常に前向き、常にプラス思考の人には共感できないかもしれないが、私のような人間はいたく共感を感じる歌である。


| - | 23:58 | comments(3) | - |
雨のうた
12-0322

この時季になると、一雨ごとに春になっていくと思う。明日も雨らしいが、いくら寒くてもすでに春が雨の中に溶け込んでいるような気がする。その雨の中を歩けば新芽をふくらませはじめた木々や蕾をもちはじめた草花が喜んでいるような気もする。


さて、今日は雨の歌だ。個人的に雨が嫌いではないということが関係あるのかないのか知らないが、雨の歌といって思い浮かべる歌はいくつかある。外国の曲を入れたらもっと増える。どれを選ぼうか迷ったが今日はシンプルであどけない感じがするものの、どこか謎めいていて、その謎が魅力になっている歌にする。


雨が空から降れば


雨が空から降れば

オモイデは地面にしみこむ

雨がシトシト降れば

オモイデはシトシトにじむ


黒いコーモリ傘をさして

街を歩けば

あの街は雨の中

この街も雨の中

電信柱もポストも

フルサトも雨の中


しょうがない

雨の日はしょうがない

公園のベンチでひとり

おさかなをつれば

おさかなもまた

雨の中


しょうがない

雨の日はしょうがない


しょうがない

雨の日はしょうがない


しょうがない

雨の日はしょうがない


(作詞:別役実 作曲:小室等)


「しょうがない」と言いながら、ちっとも残念がったりがっかりしている様子が見えない。そう言いつつ雨を楽しんでいるようにさえ見える気配が私は好きだ。が、それにしても不思議なのは「公園のベンチでおさかなをつる」というくだりである。


公園の池なら、金魚か小さな鯉をつろうとしているのかと想像するが、雨の日の、濡れているであろうベンチで、である。「おさかな」はどこにいるのであろう。雨に濡れた地面を池か川か海に見立て、濡れたベンチに座ったまま想像の「つり」をしているのであろうか。


その不思議さがいつまでたっても新鮮なまま記憶に残っていて、雨が降ると時々この歌を思い出す。


作詞の別役実さんは劇作家だという認識を持っていたが、童話作家の顔をもっているとのこと。「おさかな」が出て来るお話もいくつかあるようで、それを読めばこの謎は解けるのであろうか。


また、カタカナの使い方が面白い。「シトシト」「コーモリ傘」はまだ一般的かもしれないが、「オモイデ」「フルサト」は明らかに意図的である。耳で聞いているだけではわからない歌の「ヒミツ」がこのあたりにもありそうな。


今日の写真は、またしてもりきさんちのケイ(恵)さん。マリー様と呼ばれている。犬のハナちゃんをあたたかい目で

見守る堂々たるマダムである。

| - | 19:21 | comments(0) | - |
春のうた
12-0321

春をテーマにした歌は、もしかしたら春夏秋冬の中で一番多いかもしれない・・・というのが根拠もない私の推論。


寒くて心身ともにちぢこまっていた冬が終わりそうになり春の気配が漂い始めれば、冬好きの私でさえどこか浮き立つ気持ちを身内に感じる。気持ちの高揚は創作意欲に繋がるのではないかと思うので、根拠はなくてもそう思うわけだ。


ラジオを聞いていても、春をテーマとした曲を意図的に流していることが多い。リクエストする方も気分的に春らしい曲をリクエストしたいと思うのかもしれない。


あれこれ考えてみたが、今日取り上げるのは「春よ、来い」である。といっても、子どもの頃歌ったものではなく松任谷由実の、である。この歌は以前から好きなのだが、ちょっと抵抗感を感じる部分もある。さすがユーミン!と思う一方で、うーん、これはどうかなぁ・・・と思う。取り合えず歌詞を引用する。


淡き光立つ 俄雨

いとしい面影の沈丁花

溢るる涙の蕾から

ひとつ ひとつ 香り始める


それは それは 空を越えて

やがて やがて 迎えに来る


※春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに

 愛をくれし君の なつかしき声がする


君に預けし 我が心は

今でも返事を待っています

どれほど月日が流れても

ずっと ずっと 待っています


それは それは 明日を越えて

いつか いつか きっと届く


※春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき

 夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く


夢よ 浅き夢よ 私はここにいます

君を想いながら ひとり歩いています

流るる雨のごとく 流るる花のごとく


(※リフレイン)


私が抵抗を感じるのは、文語と口語の混在である。これはひとつの冒険かもしれない、作者もそれを意識して作詞したのかもしれないと思いつつ、文語には文語の、口語には口語のリズムのようなものがあり、混在させるとそのリズムが不意に崩れておかしな感じがするのだ。


では、どこの歌詞をどのように直せばいいのかというと、それがまた難しい。下手にいじると余計におかしくなりそうだ。無理やりどちらかに決めて直してしまうと、これはもう別の歌になってしまいそうだ。


ということは、これはこれでいいのではないかという安易な結論に落ち着き、もう一度あらためてこの歌をくり返し聞いている。


りきさんちの猫の写真もそろそろ大詰め。今日は、オウ(桜)ちゃん。静かだが味わい深いお方とお見かけしたがいかに。

| - | 23:39 | comments(2) | - |
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