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ああ勘違い・・幾たび
12-0229

3.11東日本大震災から356日目


日常生活で経験する勘違いも、もはや話題にするほど珍しいことではなくなってしまった。「やれやれ」と思い、「まずいなぁ」と嘆息し、「まあ、いいか」と肯定し、「いやいや、それはいかん!」と反省し・・・のくり返しだが、こまめにメモをとるなど間違えない工夫をする以外どうしようもないこと・・・つまり老化現象のひとつなんだろうと思う。


今回の勘違いは、薬についての勘違い。実害はほとんどない勘違いでよかったが、こと薬に関しては注意しないといけない。


毎年春先になると、花粉症の季節がやってきたと憂鬱になる。が、私の場合はまだまだ軽症のようだし、毎年処方してもらっている薬を飲めば日常生活に支障を来すことはほとんどない。薬は早めに飲み始めた方がいいと聞いたので、今年は1月半ばから飲み始めた。去年もらった分が残っていたので、これ幸いと。


ところが、今月に入ってから、くしゃみや鼻水がとまらないことが多くなってきた。あまりに鼻をかみすぎて鼻の下が痛くなり、頭はぼーっとしてきた。おかしいなぁ、薬を飲んでいるのに。もしかして症状が重くなってきたのかなぁ・・・と思いつつ、ふと薬が入っている袋の中を見てみた。


飲んでいる薬と違う薬が出てきた。タブレットの裏側を見ると「アレロック」とある。何だか見覚えのある名前だ。もしかして・・・


1月から飲み始めていた薬の名前も分かるので、ネットで検索してみると、なんとそれはビタミン剤であった!


風邪などで医者にかかると、たいてい処方される薬は5日分だったり1週間分だったりする。持病で定期的に病院に通っている場合は2週間分、1ヶ月分ということもあるが、私がそのようなカタチで薬をもらっているのは花粉症だけだと思っていた(これが勘違い)。


かのビタミン剤は、頚椎をおかしくした時行った病院で処方されたもので、しびれや神経系の痛みを緩和するものだった。確かに去年の夏にもらった記憶がある。しかしその記憶も今回の勘違いに気付いてはじめて思い出したもので、それまではすっかり忘れていた。あーあ。


ビタミン剤なので飲んだからといって毒になるものでもなく、不幸(にしては滑稽)中の幸いであった。さっそく「アレロック」を飲み始めたら花粉症の症状は明らかに軽くなり、めでたし、めでたし・・・とも言っていられないのだが。毎日飲む薬なので、昨日耳鼻科に行きあらたに1ヶ月分もらってきた。次回からは間違えないようにしないと!

| - | 08:54 | comments(0) | - |
12-0228

3.11東日本大震災から355日目


ブログの記事にしようと浮かんだテーマを忘れないようメモすることがある。忘れっぽさにかけてはここ数年格段の進歩を遂げているので、できるだけ書いておこうと思うのだが、現実的にはなかなかできずにいる。たまにしかメモできないのは、習慣化されていないせいだろう。


いつも持ち歩いている小さなメモの最後のページに「嘘について」と一言書いてある。いつ書いたのだろうか・・・たぶん1ヶ月くらい前になるかと思われる。1ヶ月も前のこと、しかもふと思いついたことなので、その時どのような思考経路をたどってそのテーマが出てきたのか思い出すことができない。


もしかしたら、本音で生きるのは難しいことだと考えているうちに、そういえば私たちは本音で語るよりずっと嘘を言っている方が多いのかもしれないと思ったのかもしれない。

一口に「嘘」といってもいろいろである。


悪意に満ちた嘘、巧妙で複雑な嘘、狡猾な嘘などもあれば、苦し紛れの嘘、保身のための嘘、よく思われたいがための嘘、例の「あなたのためだから」的な嘘・・・「嘘」という言葉では物足りなさを感じてしまうことから、「嘘」と呼ぶには躊躇われるようなことまで、本当にいろいろである。


辞書で調べて見ると、

(1)事実を曲げてこしらえたこと。本当でないこと。偽り。

(2)誤り。間違い。

(3)望ましくないこと。すべきではないこと。

と、ある。


今日話題にしたいのは、最も一般的に使われる(1)なのだが、最も一般的であるがゆえに

複雑であるのもまた事実だ。


子供を育てたことがある人なら、一度くらいは自分の子に「嘘はつかないように」と言ったことがあるのではないだろうか。私も何度か言ったことがある。自分にとって都合が悪いことでも、真実を伝えあう間柄でありたいという気持ち、社会に出た時に信用されなくなるという気持ち、そんな気持ちがその背景にはあるのだろう。


しかし、実際に社会に出て見れば周りは嘘だらけなのである。家庭も学校も社会のひとつであるから、物心ついた時から子供は自分の回りにひしめく「嘘」と対峙しつづけることになる。そして、その中から、ついていい「嘘」とついてはいけない「嘘」を区別しはじめる。意識的にではなくとも、自身の中でその基準を作り始めるのだと思う。


私は小さな頃から「嘘」に対して比較的敏感だったように思う。大人の中でも最も身近な存在である親がつく「嘘」を見逃すことができず、反抗的なあるいは子供らしくない態度にその気持ちは出ていたのだろう。


ある時は「嘘」であることを認めさせようとし、ある時は「嘘」をついたことをナマイキにも馬鹿にしたような態度をとり・・・今にして思えば、他愛ないどうでもいい「嘘」がほとんどなのに、何故あのような態度をとったのか。


そんな私なので、学校にあがっても社会人としての生活に入っても、「人は嘘をつくものだ」「嘘をつくのが自然なのだ」という意識を根底に持ちつづけているような気がする。信用していた相手に嘘をつかれたらやはり腹立たしいが、激高するほどの怒りを感じる前に「やっぱりね」という思いが去来する。


こんなことを書くと、「あなたは淋しい人ですね」と言う人がいるかもしれないが、そんなことは余計なおせっかいであるし、淋しくない人というのはどんな人なのか聞いてみたくもなる。自分は嘘ひとつつかず真っ正直に生きてきたから淋しい人間ではない、と言う人がいたら、それはそれはよかったですねと言うしかない。


昨日だか一昨日だかに見かけたニュースの中に、「正直者は損」という記事をみかけた。

正直で他人を信頼しやすい人ほど中脳で情動や記憶などの機能調節を担う神経伝達物質・セトロニンが消えにくく、不公平感を強く感じて結果的に損をしやすい、ということが実験で確認されたということだ。


道徳的には、「正直=善」「不正直=悪」という図式で語られることが多いが、人生はそれほど単純なものでもない。正直と嘘をどのように使い分けていくかが求められているということだろうか。


杉山登志は、「嘘をついてもばれるものです」という言葉で締めくくった遺書めいたものを残し、37歳で縊死した。彼の中の「嘘」とは何だったのか・・・自分の価値観とはかけはなれた世界で生きている自分自身のことだったのか。彼が残した数行が今でも語られるのは、「嘘」に対する罪の意識に準じた彼の純粋さゆえなのか。


| - | 17:59 | comments(0) | - |
杉山登志、ふたたび
12-0226

3.11東日本大震災から353日目


少し前、偶然ネット上で「伝説のCM作家杉山登志〜30秒に燃えつきた生涯」(川村蘭太)

を発見し、購入した。


杉山登志については、今まで何度も書いたことがある。日記をブログに移す前にもあるし、

移してからも07年の9月24日、11月14日、08年の9月16日の比較的長い記事の中で触れて

いる。


それでも、その名前を目にしたのは久しぶりだった。なにゆえ今ごろ「杉山登志」なのか・・・そんな思いが頭を過ったが、今まで公には「CMにチャンネルをあわせた日」(馬場啓一・石岡瑛子編)しか知らない私にとっては、多いに興味がある人物の評伝として迷わず読もうと思った次第。


著者の川村氏はノンフィクション作家ということだが、作家になる前はCMづくりの現場で仕事をしていたらしい。杉山登志についても一度見かけたことがあると本書の中で書いている。そして、今なお一部では伝説として語られているであろう杉山への思いは強く、ずっと書きたいと思っていたのだろうと推測する。


「CMにチャンネルをあわせた日」は、天才とも言われた一人の男について様々な人が語った

ことを編集したものだ。広告業界、CM業界の人や共に仕事をした写真家、作曲家、そして

ジャーナリストなど。加えて、生前専門誌などに彼が書いた記事やインタビューなどもある。


それに比べて、「伝説のCM作家・・・」は一人の作家が一人の人間を追いかけたという点でそもそも視点が異なり、読み手により面白かったり存外退屈したりする内容になっているのではないだろうか。


対象の周囲を描くことは意味のあることである。が、個人的には杉山家、とくに父親のことや師として慕っていたという画家のことについての件は要点だけでよかったように感じた。個人的な好みというか嗜好の域での話だが。


それにしても、一人の人間について書くというのは大変な作業だなと思う。当たった資料や出向いた場所、取材した人数などを考えるだけで、書きたいという意欲の持続が求められることだろう、と。内容の好き嫌いは別にして(嫌いではないが)、いろいろ勉強になった本だった。


そういえば、今は亡きT3が杉山登志の絵コンテのコピーを偶然入手したとブログに書いていたと記憶する。日天(日本天然色映画)が会社をたたむ時、若手のディレクターが必死でコピーをとったとかいう500枚。今でもT3の家にはあるのだろうか。見せてもらえばよかったと今更ながら思う。


*検索していたら、ACCの会報にこんな記事が・・・

*そういえば、ドラマにもなったんだった。提供は、もちろん資生堂。


| - | 16:40 | comments(0) | - |
「馬」の映画
12-0225

3.11東日本大震災から352日目


私は自他共に認める猫好きであるが、猫と同じように好きな動物として挙げられるのが「馬」である。


猫は身近な動物として最愛の存在であり、馬は身近ではないが憧れるような気持ちを持ちながら、動物として大好きな存在である。


猫と馬・・・大きさも生態も違うが共通するのは優雅さと誇り高さだろうか。しなやかで美しい身体と優しくも決して人に阿ることがない性質・・・少なくとも私の中ではそんなイメージがある。


亡父は競馬好きで、時々馬券を買ったり競馬中継を見たりしていた。それを何ともなしに見ていて、子供ながら競走馬が走る姿の美しさや勝負の世界に生きるために生まれてきたものの哀しさなどを感じてきたのかもしれない。


それが影響しているのかどうかはわからないが、サラブレッドに限らず馬という動物は私にとってどこか特別な存在であったように思う。映画やドラマなどで誰かが上手に馬に乗っている姿を見ると自分も馬に乗って馬との一体感を感じられたらと羨望する。重荷を負わされて懸命に歩いている姿を見れば、早くその重荷から放たれればいいのにと思う。


それはさておき、最近「馬」が出て来る映画で気になる作品が2つある。


ひとつはかのスピルバーグが手がけた「戦火の馬」。もうひとつはマイナーだが「ニーチェの馬」だ。


「戦火の馬」は、人間の愚行としての戦争を馬の視点で描いた映画のようだ。一方「ニーチェの馬」は、公式サイトを観てもどうにも具体的なイメージがわかず、観ないと何ともいえないような気がする。が、何かにつけてニーチェには共感することが多いので、何となく気になっている。


どちらも観たいが、馬がどのようなかたちで出て来るのかわからないので観るのが怖くもある。さて、映画館に観に行くか、レンタルになるまで待つか・・・考えどころではある。

| - | 22:00 | comments(0) | - |
内なる衝動
12-0224

3.11東日本大震災から351日目


夕方ラジオを聞いていたら、園子温監督がゲストで出ていた・・・というか、監督が出るというのを前もって知っていたのでいつもは聞かないことが多い番組を聞いてみた。


園監督といえば、数々の問題作で有名である。問題作という言いかたが適切かどうかはわからないが、いわゆる一般受けする映画とはほど遠い作品群が多いようだ。私は「冷たい熱帯魚」しか見ていないが、あの1本を見ただけでそういったことは容易に想像がつく。


番組では「ヒミズ」についての話が多く、気にはとめていたものの積極的に観に行こうとまでは思っていなかったこの映画がとても見たくなった(たぶん、観に行く)。


この「とても観たくなった」「とても聴きたくなった」という感覚は、ある日突然やってきて私を揺さぶる。以前「居ても立っても」というタイトルで記事を書いた時にも少し触れたが、そこには何の目的もない。観たからといって、聴いたからといってその後の自分がどうなるかの予測もない。


ただひたすら、観たい、聴きたいだけなのである。


ふと顔をあげて自分の本棚を見てみる。なるほど、仕事に関する本も実生活に関する本もほとんどない。ただひたすら読みたいと思って手に入れた本ばかりである。ハウツー本と言われる類いの本は全くない。資料として使おうと思って手に入れた本はいくつかあるが、内容のごく一部を使ってはいるが、もともと仕事に関係なく個人的に興味のある分野のものに限られている。


観たい、聴きたい、会いたい、行きたい・・・このシンプルで強烈な衝動と私は一生付き合っていくことになるのだろうか。


| - | 20:01 | comments(0) | - |
カラーカウンセリング
12-0223
・・・モノクロでわかりにくいが、一番手前が私の色「イエロー」・・・

3.11東日本大震災から350日目


昨日、先日書いたカラーカウンセリングに行ってきた。30分コースと1時間コースがあるのだが、どうせなら深く突っ込んだことを聞きたいと思ったので1時間コースを選んだ。


コースにより使う道具が違うが、私が受けた「CAMESカウンセリング」では“しずく”のようなカタチをしたガラス製のオブジェを使う。全部で12カラーあり、その時好感を持った色を並べていく。並べ終わったところで、その人の本質的性質を表すカラー(ピュアカラー)、潜在的に存在し本質にかかわっていく性質(アクティブカラー)、そして今一番必要としているカラーが診断される。


さて私のピュアカラーは何だったか・・・かなり意外な結果だったが、私の色は「イエロー」つまり黄色だった。


黄色はどちらかというと苦手な色で身近に黄色いものはほとんどない。それなのに黄色とは!と驚いたがカウンセラーの話を聞くとかなり頷けるものがあった。


カラーカウンセリングでの「イエロー」は、空や光の象徴だという。空というと青や水色をイメージするが、一般的なイメージとは違うようなのだ。「イエロー」をピュアカラーに持つ人の特徴は、視野が広く遠くまで見通す、情報をキャッチするアンテナが鋭く、感性が豊か、ということらしい。


「知性」で動くより「感性」で動き、ひとつの道を真摯に貫くタイプではなく、その時々で自分のスタンスを変える。数多くのものの中から1つを選ぶのは苦手で、その中からいくつかを選んで組み合わせたり別のものにしたりする。見通しがきく性質だけに、何ら見通しが立たない状況が苦手。人間関係を大切にし、時間をかけてじっくり信頼関係を築いていこうとする・・・等々。


アクティブカラーがピュアカラーと同じ人もいるようだが、私の場合のそれはマゼンダだった。マゼンダはイエローの対極にある色で、堅固な土台を築いたり安定感を求める性質を持つ。つまり、私は大局的な色を内包する性質だということになろうか。


今一番必要とする色はイエローグリーン。この色は成長やゆとりを表し、豊かな実りに向けて自分がやりはじめたことを育む時期にあることを示しているという。


カウンセリングでは、現在自分の心を煩わしていることや将来的に考えていることなど、けっこう具体的かつ深い内容の話もした。そして、去年あたりから動き始めていることが選択として間違っていなかったこと、今年はそれをどんどん育んでいく時期であること、来年にその実りが期待できること、そしてその実りの中には次のステップのタネがすでに入っていること、などを知り、なにやらやけに安心した。背中をそっと、しかし確かな感覚で押してもらった感じがした。


今日の雨はやさしい雨だった。ふくらみはじめた木の芽草の芽をやさしく濡らして、もうすぐ春が来ることを告げているような雨だった。芽吹きの季節の色はまさにイエローグリーン(明るい緑色)。冬好きではあるが、来るべき春を多いに楽しみ、活動的に暮らして行こうと思う。


*私が行ったこは、ここ

*終わった後、紹介してくれたSさんと会い報告。その後大森駅近くで飲んだ。

*焼酎ボトルで頼み、2人で開けてしまいましたよ。わはは。

| - | 17:51 | comments(0) | - |
専門家と話す
12-0221

3.11東日本大震災から348日目


先日、バラの研究を専門とする方と話をする機会を持った。目的はバラとは直接関係ないことだったが、話の合間や終わり近くになるとどうしてもバラ関係の話になり、いろいろ興味深い話を聞かせていただいた。


ひとつのことをある程度深く掘り下げていくと、私たちはその道の専門家たちの説に出会う。内容を吟味し、その中から自分が信じるに足る説を見つけられることもあれば、そうでないこともある。見つけられたとしても、その専門家が唱えていることが果たして本当に「正しい」のかどうかは、ご本人と同じように研鑽を重ね、自分で出した結論が同じでなければ断言することはできないように思う。


「信憑性がある」「納得できる」「正しいと思われる」という言いかたはできても、専門家とはいえ「絶対に正しい」とは私は言い切れない。


だからこそ、専門家が断定的な物言いをする時、それが納得いくものであればの話だが、一種の爽快感を感じる。目の前でもやもやしていたものを一気に晴らしてもらったような気持ちになる。


先日お会いした方は、若手の研究者として評価が高く、詳しくは聞かないまでも断言の背後に数々の研究や経験があるのは察することができ、「信じるに足る」と思わせる話が多かった。講演会で出て来るような話を偶然とはいえ1対1で聞けたことは幸運なことだと思う。

| - | 23:29 | comments(0) | - |
色について
12-0219

3.11東日本大震災から346日目


子供のころから、色については並々ならぬ興味を持っている・・・というか、色が気になって仕方ない性分である。


少し前、アルバイト先での雑談で「何色が好きか」という話になった。3人で話していたのだが、私以外の2人は好きな色を躊躇いなくすぐに挙げた。が、私は考え込んでみたものの(その時点で回答は出てこないことは分かり切ったことだが)、「この色が一番好きだ」という色を挙げることができなかった。


私の場合、暮らしの様々なシーンの中で好きな色(好ましい色)は違う。着るものだったら、インテリアだったら、と具体的なシチュエーションを条件に加えれば少しは答えやすい。が、何の条件もなくただ「一番好きな色」となると、考えても考えてもひとつに絞ることができない。


木や草があるところでないと暮らしたくないという思いからすれば、たぶん私は緑色が好きなのだろう。しかし、人工的に作られた緑色の中には頭が痛くなりそうな色やどうにも気分が悪くなる緑色がある。


着るものや室内など身の回りの色としては、基本的に無彩色かグレーやベージュなどニュートラルな色がいい。ただ、着るものとしての黒は好きだが黒い家具や白い家具はいやだ。部屋の中にはできるだけ原色のものを置きたくないが、着るものでは時にはっとするほど鮮やかな色彩のものを着たくなることもある。


同じ青でも好きだと思う青もあれば、嫌だと思う青もある。ある時突然気になって仕方ない色があるかと思うと、時期を過ぎると全く気にならなくなる。


色は難しい・・・でも、おもしろい。で、Sさんに紹介してもらったカラーカウンセリングというヤツを来週受けに行く予定。どんな話が出て来るかけっこう楽しみである。報告はいずれ。

| - | 19:03 | comments(2) | - |
当事者になる
12-0218

3.11東日本大震災から345日目


「THE BIG ISSUE」に連載されている雨宮処凛の「世界の当事者になる」を毎度興味深く読んでいる。


先日手に入れた184号で連載は127回目。数回しか読んだことはないが、これだけ長く連載しているということはご本人もそれなりの覚悟でやっていることだと思うとともに、「当事者になる」と明確に断言するようなタイトルに触れるたびに、気後れするような、でも尊敬してしまうような、妙な感覚を覚える。


雨宮さんについては、名前はいつかどこかで聞いたことがあるような気がする程度である。著書も知らなければ、どんな活動をしてきたかも知らない。連載に添えられている短い紹介文だけでも腹が据わっているというか何をするにもとことんやってみないと気が済まない人のような気がするが。


ちょっと調べてみれば、まあたいした人生(まだ若いので「半生」にもならないと思うが)を送ってきた人のようである。興味を覚えないわけではないが、興味を覚えたものを端から突っ込んでいく気力はすでにないのでとりあえずは記憶に留めておくことにする。


それよりも、私が常に気後れ半分尊敬半分で気にしている「当事者になる」ことについて、少し書いてみたい。


昨年の大震災もそうだが、大きな災害に遭遇した人が「経験した者でなければわからない」という言葉を口にするのを時折耳にする(あるいは目にする)。なるほどそうだろうなぁと思う。経験していない者は想像するしか手だてはなく、いくら努力して想像してみたところでその人が経験した辛さなり悲しさなり悔しさなりは自らのこととして生々しく実感することはできない。察することはできても。


一方で、「経験した者でなければ・・・」と言う人は、その心の奥で「あんたなんかに分かってたまるか」というような、ある種の差別化を行うことにより自身を支えているのかもしれないと思うこともある。そうしなければ自分が崩れそうなら、それはそれでいいのではないかと思う。


しかし、たとえ同じような経験をしたといっても、受けるダメージは人それぞれ違うだろう。それでも、同じ「ような」経験をしたというだけで親近感や共感を持つというのも、ちょっと違うのではないかと思うこともある。


ただ、やはり同じようなことを実際に経験したかしないかは大きい。


たとえば、ホームレスのことを知りたいと思った人が、外から丹念に観察したり話を聞いたりしていることと、自分が実際にホームレスになり彼等と一緒に生活したのとでは大きな違いがあると思うのだ。一緒に生活したからといってとことん理解できるかどうかはわからないが、外側にいて見ていることとそれとは一線を画するものであると私は思う。片足を安全なところに入れたままもう一方の足を動かしてみたところで、動く範囲も分かることも高が知れている。


「当事者になる」と断言して飛び込んでいくには、私からすれば相当な勇気と覚悟が必要だ。そして、私には残念ながらあまりその勇気も覚悟もない。だから気後れや尊敬を感じるのだろう。私がせめでできることは、「分かった風なことは言わない」ということくらいだろうか。


そういう私も、考えてみれば自分自身の人生において「当事者」である。当たり前のことだが、自分の人生は自分でしか生きられない。最近鈍りがちなフットワークを反省しながら、もっとしっかりせねば!などと思うこのごろ・・・

| - | 20:13 | comments(2) | - |
居ても立っても
12-0217

3.11東日本大震災から344日目


人間、性分というものがある。しかし、性分というもののほとんど・・・と言わないまでもある程度のものは「困った」性分である。


私の場合、今まで何度も自戒しながらどうにも律することのできない性分の中に「堪え性がない」というのがある。我慢強くない。忍耐強くない。慎重になれない。衝動を抑えられない。


まあ、この年になれば若いころよりかなり自制はできる。無闇矢鱈、目茶苦茶なことはしなくなった(当たり前)。が、見たい、聞きたい、会いたい、行きたい・・・など突然湧き上がってくる衝動はいまだに私を執拗に誘惑し、堪え性がない性分は健在なのである(威張ってどうする?)。


最も手強いのは最も手軽な方法で解決してしまうこと・・・つまり、いながらにして「居ても立ってもいられない」衝動を充たすことができること・・・要するに買い物である。


経済状態からして大きな買い物に対する衝動は「居ても立っても」になるまでに淋しく消えていく。しかし、それほどでもないものが曲者だ。たとえば本。たとえばCD。図書館で借りればいい、レンタル屋で借りればいいという思いがちらりと過るが、行くまでの時間が鬱陶しい。行ったからあるとは限らず、あったからといって一度読めば、あるいは聴けば気が済むかというとそうでもない。


昨日、夕方にやっているどうでもいいようなドラマの再放送を何とはなしに見ていて、バイオリンを習っているという設定の女の子が聞き覚えのある曲を下手に演奏していた。本人が演奏しているのではないだろうが、それでも下手である。下手というか、私が聴いたことがある演奏に比べると全くもって質が悪い。


で、その曲が何という曲かが思い出せず歯がゆい思いを抱きながら、記憶の闇を彷徨うこと数分、なんとなく晴れ間が見え始めてきた。たしかあれは映画のタイトルになっていた曲だ・・・レンタルで借りて見たことがある・・・地味な映画だったが妙に心に残る映画だった・・・もう一度借りようと思ったがすでにレンタルショップにはなかった・・・


えーとえーと・・・そうそう、その曲がとても気に入ったので別の演奏者のCDを買ったはず・・・そして、それが気に入らずあまり聴いいないはず・・・ごそごそごそ・・・


見つけた。「バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番〜シャコンヌ」だ!映画のタイトルは「無伴奏シャコンヌ」だったと記憶している。内容はさておき、映画の中で聴いた演奏はキドン・クレーメルのものだった。さっそく探すとサントラ版は中古しかなくしかもある程度の値段。対してギドン・クレーメル自身のアルバムは廉価版がある。さてさて、

どうするか・・・サントラ版ではシーンに応じて何度か出てきて別テイクのようだ。聴きたいものを手に入れるには、サントラ版の方が確実なのだが・・・


「居ても立っても」の気持ちとにらめっこしつつ、明日まで結論はお預けにしよう。



*ちなみに映画の方はDVDがなくVHSのみが販売されているようだ。

*わが家にはすでにVHSを再生する機器がない。セーフ!?

| - | 23:44 | comments(2) | - |
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