3.11東日本大震災から255日目
先週木曜日、私の夫であった人が他界した。11月17日10時57分永眠。享年63歳。
昨年1月に肺ガンを宣告されて以来、昨年中は抗がん剤治療を続けてきたが今年8月に脳転移。放射線治療後退院していたが再入院し、10月に入ってからは衰えが目立つようになっていた。
8月時点で「余命は3ヶ月だが、いつどうなってもおかしくない」状態であると親族は担当医から知らされていた。ある程度の覚悟を周囲にさせつつ、本人は最後まで自分の余命を知ることはなかったが、それでもどこかの時点で感じていたのかもしれない。再入院直後は家に帰りたいと言っていたそうだが、次第にその言葉も出なくなり、ゆっくりと死に向かっていった。
16日の夕方に息子が病院に行った時には、点滴のためか全身がむくんでおり医師からは週末
あたりが山場だと言われていた。今月に入ってからは意識が徐々になくなり話をすることも
なかったが、息子は時々病院に行って話しかけていたらしい。
17日の午前9時過ぎに病院から連絡があり、危篤なのですぐに来て欲しいとのこと。私も家にいたので2人で駆けつけた。弟2人と妹1人がいるのだが、私たちが一番早く、待ちかねていたように医師が点滴チューブをはずして臨終を告げた。電話があった時点ですでに命の灯は消えかかっていたのだろう。少しむくんではいたが穏やかな顔をしていた。
離婚して11年が経つ。ケンカ別れしたわけではないが、やはり離婚するには離婚するだけの理由があったのであり、胸の中に蟠(わだかま)りがないわけではない。私は比較的過去をひきずらないタイプの人間だが、それでも「楽しかったこと」と「辛かったこと」が複雑にからみあった思い出は確かに残っている。
それはお互い様だったろう。互いに恩讐ともいえるものを胸の奥にしまいこみながら、自分たちの生活を営むことに精一杯だった。
それからの日々はお互いにほとんど知らない。私は同居人を得て3人暮らしを続けているが、彼は以来ずっと一人暮らしであったし、またそれが一番似合う暮らし方だったように思う。自分のペースを決して崩したがらない人だったので、結婚というシステムの中では生きづらい人だった。
一人暮らしの気楽さを選んだということは、孤独死するかもしれない暮らしを選んだことでもある。ましてや人付き合いがいい方ではなく、両親はすでになく兄弟姉妹とも疎遠であれば。
しかし、死の瞬間は一人きりだったかもしれないが、入院生活や自宅療養生活の中で息子とふれあう時間をもてたことは、彼にとって大きな幸せだったと思いたい。
小学生のころは、月に一度泊まりがけで父親のところに息子を送り出した。中学生になってからは本人の意思にまかせていたが、どこの家庭でもあるように息子は親との関わりを極力避けるようになっていった。同居しスネをかじっている私に対してもそうであるくらいだから、離れて暮らす父親のところには滅多に行かなくなっていった。
しかし、ガンの告知を知って以来時々顔を出すようになり、とくに今年の8月からは休みをできるだけ多くとって病院や自宅に行って世話を焼いてきた。「あいつがこれほどしてくれるとは」と父親本人が驚いていたくらいだ。そして私の目から見ても、一番心の支えになっているのは息子の存在であるように思えた。
この11年、息子のことではいろいろ思い悩むことも多かった。経済的にも精神的にも正直言ってきついことが度々あった。しかし時には周囲の助けを得て、時には一人でなんとか切り抜けて今に至っている。息子には父親についての愚痴を一切言わずにきたが、言いたくなったことがないわけではない。しかし、父親を憎むような人間にはなってほしくなかったので、喉元まで出かかった言葉を何度も飲み込んできた。そして今、それでよかったのだと思っている。
葬儀は明日行われるが、私は派遣の仕事が入っているので出られない。弟2人、妹1人、甥2人、そして数少ない友人のみのささやかな葬儀になるだろうが、喪主は息子が務めるそうだ。21歳の喪主である。親族に支えられながら、立派に喪主の役目を務めてくれることを祈っている。
結婚していたころ感じた「幸福」と「不幸」を秤にかけたら、どちらが重いだろう・・・と考えてみたが答えはでない。結婚生活は15年、離婚してから11年。年数でいえば結婚していた期間の方が長いけれど。たぶん、いつになっても答えはでないのだろう。
「ごめんなさい」と「ありがとう」をなかなか言えない人であった。それなのに、病を得て後は、見舞いに行った時など必ず最後に「今日はありがとう」とはっきり言う人になっていた。静かな気持ちで穏やかに旅立ったと信じたい。