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日々の内側
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木々の中で
11-1031

3.11東日本大震災から235日目


十和田湖畔宇樽部にある花鳥渓谷・・・営業を終え主もいなくなった今はもうその名で呼ぶことさえできないのかもしれない。


しかし、私の中ではたぶん永遠に存在する場所である。たとえ、其処にある木や薔薇がブルドーザで根こそぎ掘り返されてしまっても、荒涼とした原野のような地になっても。


あと何年、彼処に入っていけるだろうか。ほんの数年か。思ったより長い間か。私には知り得ようもないその運命を思いつつ一人で木々の中を歩いた。


10月下旬は、ちょうどクマが冬眠する直前になるのではないだろうか。たっぷり栄養を取り、長い冬を過せるだけの体力をつける時期、その食欲は想像を絶するものなのかもしれない。そんなクマに遭遇したらどうしよう・・・そんな不安を抱きつつ木々の中を歩き、草むらに分け入り、大好きな場所を独り占めしてきた。


怖いと思わなかったわけではない。しかし、怖さと魅力を天秤にかけたら、後者の方が重かったというだけだ。見上げるほど大きな木々は、人間の手が入らない森にあるそれらとは違う。


しかし、木村さんが1本1本植えてから30年近く経過した今、木々は昔からそこにあったような姿で私を迎えてくれる。落ち葉や枯れ枝が積もる中を、歩く。ひたすら気持ちが赴くままに。聞こえるのは、気休めに持っていたクマ避けの鈴の音と、宇樽部川のせせらぎの音だけだ。歩いているうちに、怖さを忘れる。そして、ふとまた思い出す。思い出しながら辺りを見回し、また歩く。そしてまた、怖さを忘れる。


木々の中を歩いていると、自分は生きているということを実感する。ただ、生きているということだけを。当たり前のようなことだが、それをひしひしと感じ、その幸福を感謝できるという機会はそうはないと思う。何か、人間の力をはるかに越えたものの、力強さと厳しさとやさしさを感じる。その中に抱かれている自分を感じる。緊張感を伴うその感覚がとても心地よい。


水を見ると私はやすらぎを感じる。荒れ狂う海には恐怖を感じるが、その恐怖は森で感じる怖さとは違う。その違いは何なのだろうと考えてもなかなか答えはでないが、強いて言えば、そこで死んでもいいと思えるかどうか、かもしれないなどと思う。海の中では死にたく

はない。が、森の中でなら、死んでもいいと思うのだ。


そんなあれこれを、考えながら森を歩いている時、私はちっとも淋しくはない。様々なものが私に語りかけ、それにたどたどしく応え、自問自答し、突然それをやめて今度は私から語りかけ・・・そんな賑やかな時間を過しているかもしれないと思う。


一人は賑やか


一人でいるのは 賑やかだ

賑やかな賑やかな森だよ

夢がぱちぱち はぜてくる

よからぬ思いも 湧いてくる

エーデルワイスも 毒の茸も


一人でいるのは 賑やかだ

賑やかな賑やかな海だよ

水平線もかたむいて

荒れに荒れっちまう夜もある

なぎの日生まれる馬鹿貝もある


一人でいるのは賑やかだ

誓って負け惜しみなんかじゃない

一人でいるとき淋しいやつが

二人寄ったら なお淋しい


おおぜい寄ったなら

だ だ だ だ だっと堕落だな


恋人よ

まだどこにいるのかもわからない 君

一人でいるとき 一番賑やかなヤツで

あってくれ


茨木のり子

| - | 23:43 | comments(0) | - |
バラのお勉強
11-1030

3.11東日本大震災から234日目


昨日、神代植物公園で開催された講演を聞きに行ってきた。テーマは「ミステリーローズ〜正体不明のバラを追う」。講師は千葉県立中央博物館定席研究員であり、バラの研究者としては第一人者という声が高い御巫(みかなぎ)由紀さん。


「ミステリーローズ」と聞くと、なにやらいわく付きのバラのことなのかなと想像する向きもあるかと思う。バラの栽培歴が長い人も興味(バラの来歴や祖先などに対する興味)の対象外であれば、この言葉さえ知らない人がいても不思議ではない。逆に、私のような人間(時としていきなりマニアックな方向に向かう)は以前からこの言葉に親しみ、興味を覚えているのかもしれないと思う。


前置きはこれくらにして・・・「ミステリーローズ」とは御巫さんの定義によると以下のようになる。


(1)存在しているけれど名前がわからないバラ

(2)かつて存在していたはずだけれど消えてしまったバラ


私が「ミステリーローズ」として考えていたものは主に(1)で、(2)に関してはなかなか知る機会がなかった。研究者ではない一般の人は研究書の存在もあまり知らず、知ったとしても入手が難しかったり内容が専門的で理解しにくかったりするのではないかと思うし、「かつて存在していたはず」ということは昔の文献と現在を比較しなければ言えることではないのでまあ、致し方ないかなぁとも思うが。


「ミステリーローズ」として私が知っていたのは「バミューダ・ミステリーローズ」と呼ばれている一群のバラである。バミューダとは北大西洋にある島々の総称で、かつてはイギリスの植民地であった。北緯32度18分、西経64度47分に位置し、気候は温暖湿潤。熱帯に近いのかと思っていたが、沖縄の気候に近いらしい。


そのバミューダで発見されたバラが「バミューダ・ミステリーローズ」と呼ばれている。もともとバラの自生はない国なので、どこからかやってきたに違いないのだが、いつ、誰が、どこから、何という名のバラを持ち込んだかの資料がないため「ミステリー」なのである。


気候からして暑さに弱いバラは持ち込まれたとしても生き残れないから、現在あるバラの中では温暖な気候を好むティー系やチャイナ系のバラに近いのではないかとうことくらいは推察できるものの、それから先はなかなか難しいようだ。


御巫さんの話は割愛するが(けっこう難しいし長くなるので)、講演を聞き終わって思ったのは、バラに限らず2つの品種を「同定」するのはかなり難しいということだ。「かつてあったはずだが消えてしまったバラ」と「新たに発見されたバラ」が非常に似ていても、

果たしてそれが「同じ」かどうか判断するのは難しい。現在ではDNA鑑定という手法があるが、それとて失われたバラのDNAが残っていなければ比較のしようがない。


私は研究者に向かないアバウトな性格なので、わからないならスタディネーム(仮に付けられた名前)で認識していればいいやと思ってしまうが、探求心が強い人や研究者だちにとってはそうでないだろう。また、自分がこうなので、他の人々の研究がおもしろいという

こともある。


ところで、バラというと西欧の花というイメージを持つ人が多いと思うが、そのルーツをたどっていくとアジアに行き着くことが圧倒的に多いことをご存知だろうか。アジアの中でも特に中国はバラの宝庫であると言ってもよさそうなのだ。


秋バラのシーズンということで、各地のバラ園は休日ともなると大勢の人たちで賑わっている。彼らが感嘆し、レンズを向ける大輪のバラも、ご先祖樣は中国のどこかに存在する(あるいはした)のかもしれない。そして、中国には今でもまだ発見されていない原種がたくさんあるのではないだろうか。そんなことを想像できるところが、バラの魅力でもある。


*写真はrosa pomifera(ロサ・ポミフェラ)のヒップ

*アップル・ローズの別名にたがわぬ、大きく真っ赤な実を付ける。

*講演会の内容を上手にまとめられていた方を発見!

*昨日偶然再会した、かな。さんのサイトへどうぞ(^.^;)

Walkin'、更新

| - | 16:08 | comments(0) | - |
ひとつの供養
11-1028

3.11東日本大震災から233日目


東京駅1906着の新幹線で帰京。自宅についたのが、2030を回ったころ。疲れと、どこか

満たされたような気持ちを抱いて。


昨日の夜は、木村さんと仲が良かったIさんが宿まで来てくださって、木村さんの話に花が咲いた。ヒメマスの刺し身や塩焼き、キノコや野菜の天麩羅、肉のソテー、お浸しや煮物、など豪華な夕食にびっくり。もしかしたら特別に用意してくれたのかもしれない。


Iさんは、以前私が送った木村さんの写真をフレームに入れ、花鳥渓谷のハウスの中で咲いていたという薔薇を飾り、手作りのワイン(ヤマブドウを発酵させたもの)などを用意してくださっていた。


薔薇の花束をかかえて笑う木村さんの顔を時々見ながら、宿の奥さんも参加した賑やかな追悼会。


ほとんど毎日一緒に夕食を食べたこと、Iさんのご主人と木村さんがとても気が合い、三角関係(!)のようになってしまったこと、大げんかしたこと、それでも困った時にはいつも助けてくれたこと、などなどなど・・・私が知り得なかった普段の木村さんのことをあれこれ話してくださり、とても楽しいひとときだった。


故人のことをあれこれ語り合うのも供養であると、いつだったか実家の菩提寺の和尚が言っていたが、これもひとつの供養になるだろうか。そうであれば嬉しい。


花鳥渓谷の自宅跡に薔薇を供えていたのは、やはりIさんだった。未だに木村さんが夢に出てきて、「熱い熱い」と言うそうだ。だから、いつも水はたっぷり用意しているのだという。毎日犬のハナちゃんを散歩させながら立ちより、語りかけているのだろう。「暢ちゃんは、あそこにいるのよ」というひとことが何故だかとても嬉しかった。


地元の言葉をまじえつつ3時間、Iさんご自身のことや宇樽部の人たちのこともいろいろお聞きすることができた。いい年をしていまだに人見知り癖が直らず、なかなか初対面の人とは打ち解けることができない私をあたたかく迎えてくださったことに感謝せずにはいられない。これも、もしかしたら木村さんが私にくれた「縁」なのかもしれないと思いつつ、再会を約束した。

| - | 06:34 | comments(2) | - |
晩秋の中で
11-1029

3.11東日本大震災から232日目


宿を出る前に、一応クマ情報を聞いてみた。最近、街中にクマが出たというニュースを耳にするし、ちょうど冬眠前の一番危ない時期かと思ったので、念のため当てになるかどうかわからないが気休め程度にはなると思われる「クマ避けの鈴」を用意してきたのだ。


案の定、出るという話もあるとのこと。ちょっと気持ちを引き締めて花鳥渓谷に向かった。天気は申し分ない。八戸駅に降りた時から(当たり前だが)東京との気温がかなり違うことを実感し、ダウンを着たので寒さ対策は万全。あとはクマさんと会わないことを祈るのみだ。


湖沿いの道を歩けばほどなく現地に到着。まず向かうところは、やはり木村さんが住んでいらっしゃった家があった場所だ。遠目にも花が、薔薇が供えられていることがわかった。赤と白の薔薇が円筒形の器(小さなゴミ箱くらいのもの)にたっぷりと活けられており、その横に1.5リットルのペットボトル。こちらにも水がたっぷり入っている。燃え尽きた線香や煙草も。薔薇の花はまだイキイキとしており、活けられてからあまり日が経っていないことがわかる。


煙草を供え、手を合わせる。「また、来ました。来てしまいました」と語りかける。答えはもちろんないが、ここ数年とてもやさしくなったと聞いている木村さんのこと、「しかたないわねっ!」と言ってくれたような。


クマ避けの鈴をチリチリ鳴らしながら、誰もいない森を、野原を歩いた。今月はじめ、冬に備えて薔薇の枝を結束しに行った方々がいるのを知っているが、数時間でできることは限られている。花を咲かせているもの、赤々とヒップを実らせているものもあったが、やはり去年とはだいぶ様相が違う。去年は10月の初旬に行ったのでほぼ1ヶ月遅いわけだが、それにしても違う。やはり、木村さんあっての花鳥渓谷だったのか・・・


いつものように、膝下までの長靴を履いてきているので、どこでもサクサクと歩く。踏み込んでいく。紅葉はちょうど見頃だろうか。といっても、京都のCMに見るような鮮やかな赤一色の紅葉ではない。楓は色づいていたが、黄色からオレンジ色へと移ろうやさしいグラデーションを見せてくれていた。ところどころに、はっとするような赤が入る。それが赤一色よりも美しい。


褐色、黄、オレンジ色が見事に調和した風景の中を歩く。宇樽部川の音を聞きながら歩く。赤い葉は少ないが、木々の実となると赤く色づいているものが多い。ナナカマド、ツリバナ、マユミ、ガマズミ、そしてもちろん薔薇。去年みんなで楽しく栗拾いした場所に行くと、落ちているのはイガばかり。あとは拾われたり動物たちの糧となったりしたのだろう。栃の木の下にも、実はほとんどなかった。探るように見て、やっと4つの実を発見。たった4つだが、見事な大きさの実だ。


去年、みんなに熊手を用意してくれて、一緒に栗の実を集めましたね。

袋いっぱいに採ってきたいろいろなキノコを見せてくれましたね。

小さな赤い実がスズランの実だと教えてくれましたね。

栗の保存方法を教えてくれましたね。

観光客が行かないような店や道の駅に連れて行ってくれましたね。

あなたの少々荒っぽい運転で、私は少し気分が悪くなってしまいましたよ。

でも、あのズバズバとした物言いでいろいろなことを話すあなたの声は、今でもなつかしく耳の奥に残っています。

バス停まで送ってくれて、「また来年!」と約束しましたよね。

笑顔で手を振ってくれましたよね。

「また来年!」といった一年前の約束を、ようやく果たすことができました。

あなたはいないけれど、やっぱり、あなたはいました。

伸び邦題になった棘のきつい薔薇の向こうに。

たわわに実ったヤマブドウの葉陰に。

宇樽部川のせせらぎの先に。

ノコンギクの綿毛や、輝くススキの穂、風に揺れる草たちが晩秋を歌う野原のどこかに。

| - | 23:52 | comments(0) | - |
宇樽部一人旅
11-1027

3.11東日本大震災から231日目


東京駅628発はやて11号に乗り、八戸へ。八戸10:20発おいらせ23号(バス)に乗り、宇樽部へ。


宇樽部は4度目の訪問だが、4度目にしてはじめて一人旅となった。


7月に訪れた時、偶然地元の方、しかも故・木村暢子さんとたいへん仲が良かったという方に会ったということはこの日記にも書いたが、以後何度か手紙を出し、電話をいただき、10月に行くという約束をした。それを実現させたというわけだ。


一人旅というものを滅多にしないので何かと緊張したが、その緊張感が心地よかった。同じ気持ちを持つ人との旅もいいが、一人旅も捨てたもんじゃない・・・というか、かなりいい。


バスが宇樽部の停留所に着いたのが12:30近く。前もって紹介していただいていた民宿に向かい、荷物を置いてすぐに出かけた。もちろん、花鳥渓谷に。短い時間だが、まだ4度目だが、それなのに「第二の故郷」のようになつかしさを覚える花鳥渓谷に・・・つづく。

| - | 11:29 | comments(0) | - |
茨木のり子
11-1026

3.11東日本大震災から230日目


いつも更新を楽しみにしている、まろさんが「孤独」について書かれていた日記で、茨木のり子さんの詩を引用されていた。茨木さんの詩については私も以前書いたことがあったと思うが、年々記憶がおぼろになっていく昨今、いつのことだったかはさっぱり思い出せない。


茨木さんといえば、「自分の感受性くらい」が一番有名なのだろうか。あの詩を読んだ時には、ガツンと早く鋭いパンチを食らったくらいの衝撃を感じた。詩の中の「ばかもの」はまぎれもなく自分であると思い、たぶん詩人が自らに向けたその言葉を自分の中で何度も繰り返した。気持ちいいほど凛とした詩。それが茨木のり子という詩人の真骨頂なのだろう。


その後73歳で発表した「倚りかからず」もまた、衝撃的だった。ここでもまた詩人は強い意志をすっぱりと宣言しており、その変らぬ姿勢に感動したものだった。


そんな茨木さんだから、常に勁い孤独を携えながら淡々とした人生を過していたのかと思えてくるが、2007年に発行された「歳月」は、そんな思い込みをこれまたすっぱりと否定してくれた。


「歳月」は四半世紀を共に生きた夫への思いに満ちた作品である。先立たれてしまった者のどうしようもない思いが「悲しい」という言葉なしに語られているといってもいいだろうか。読むたびに胸を締めつけられるような気持ちになるが、そこには暗く湿ったものは一切ない。今日のような秋の空を仰ぎながら深呼吸したような、どこか清々しいものを伴う孤独がそこにはある。


ご自身は2006年自宅で倒れているところを発見された。すでに亡くなっていたようだが、遺書はすでに残されていたという。「(前略)“あの人も逝ったか”と一瞬、たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」なんと見事な最後だろう。あくありたいと思えど、そうはならないだろう自分を思いつつ・・・


自分の感受性くらい


ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて


気難しくなってきたのを

友人のせいにするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか


苛立つのを

近親のせいにするな

なにもかも下手だったのはわたくし


初心消えかかるのを

暮らしのせいにするな

そもそもが ひよわな志しにすぎなかった


駄目なことの一切を

時代のせいにするな

わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ



倚りかからず


もはや

できあいの思想には倚りかかりたくない

もはや

できあいの宗教には倚りかかりたくない

もはや

できあいの学問には倚りかかりたくない

もはや

いかなる権威にも倚りかかりたくない

ながく生きて

心底学んだのはそれぐらい

じぶんの耳目

じぶんの二本足のみで立っていて

なに不都合なことやある

倚りかかるとすれば

それは

椅子の背もたれだけ



椅子


・・・あれが ほしい・・・


子供のようにせがまれて

ずいぶん無理して買ったスェーデンの椅子

ようやくめぐりあえた坐りごこちのいい椅子

よろこんだのも束の間

たった三月坐ったきりで

あなたは旅立ってしまった


あわただしく

別の世界へ

・・・あの椅子にもあんまり座らないでしまったな・・・

病室にそんな切ない言葉を残して


わたくしの嘆きを坐らせるために

こんな上等の椅子はいらなかったのに

ひとり

ひぐらしを聴いたり

しんしんとふりつむ雪の音に

耳をかたむけたりしながら

月日は流れ


今のわずかな慰めは

あなたが欲しいというものは

一度も否と言わずにきたこと

そして どこかで

これよりも更にしっくりしたいい椅子を

見つけられたらしい

ということ



(存在)


あなたは もしかしたら

存在しなかったのかもしれない

あたたという形をとって 何か

素敵な気がすうっと流れただけで


わたしも ほんとうは

存在していないのかもしれない

何か在りげに

息などしているけれども


ただ透明な気と気が

触れあっただけのような

それはそれでよかったような

いきものはすべてそうして消え失せてゆくような




| - | 11:52 | comments(0) | - |
水郷
11-1025

3.11東日本大震災から229日目


先日行きたいところをこの日記でリストアップしたが、もうひとつ強烈に行きたい場所ができた。滋賀県近江八幡である。


もちろん(!)、「剣客商売」の影響を受けてのことで、そのロケ地として有名な彼の地への憧れのような思いがDVDを見るたびに募っていく。たぶん、実際に行けば映像とのギャップは感じるのだろうが、それはそれ、掘割を行き交う小舟や葦が茂る水郷の風景などをこの目でじっくり見たいと思う。


そもそも私は水郷が好きなのであった。川が好きだという話は以前にも書いたが、人工のものであれ自然のものであれ、水がある風景にはなぜかとても心惹かれる。海も好きだが、川や掘割などより人間の生活に近いところにある水に惹きつけられる自分がいる。電車の車窓からほんの一瞬川が見えただけでもどこか気持ちがゆったりとするような気がする。


水は人間にとってなくてはならないもの。だから、本能的にそのような気持ちになるのだろうか。


水郷といえば、もうひとつ忘れてはならないのが福岡県の柳川である。


これも以前書いたと思うが、大好きな「廃市」(福永武彦)をくり返し読みながら憧れていた場所である。原作では場所は特定されていないが、柳川の出身である北原白秋の詩(「思ひ出」)の一節“さながら水に浮かんだ灰色の柩である”が冒頭に引用されており、作家はやはり「柳川」から想を得たと思える。


東京から縁あって掘割のある町に来た青年のひと夏を描いた作品だが、原作でも映画でも、全編に掘割の水を感じさせる。墓参りに行くにも、祭りを見に行くにも舟を使って出かける。掘割から聞こえる微かな水の音が作品の基調低音のように流れつづけている。それが魔力のように私を魅了するのだ。


「剣客商売」と「廃市」。何の関係もないように思えるこの2作品は「水郷」「掘割」という共通点によって、私にとって忘れられない作品・・・何度も読み返す作品になるだろう。

| - | 23:47 | comments(0) | - |
ああ、時代劇2
11-1024

3.11東日本大震災から228日目


「剣客商売」も原作はあと残すところ番外編の3冊のみ、DVDもあと3巻のみになった。


今月はこれしか読んでおらず、そろそろ全く違う本を読みたくもなってきたが、ここまで来たら一気に!と自分に鞭打っている(いささか、大げさ)。


DVDを見ていて思うのは、時代劇というのは制作にずいぶん金がかかるものなんだろうなぁ、ということ。ロケやセットはもちろん、衣装や鬘、殺陣の指導やら何やらで現代ドラマを作るのとはケタ違いの費用がかかるのがよくわかる。そして、今はテレビドラマの世界においても効率最重視になっており、安上がりのものしか作れないから面白くないんだろうなぁ、と。


丁寧に(つまり時代考証をしっかりやって、それなりに金をかける)時代劇というのは、もう見ることができなくなってしまったのだろうか。そう思うとなにやら淋しい。安上がりで代わり映えのしないものばかりで見ごたえのないテレビとはオサラバする時期が来たということだろうか。やれやれ。

| - | 23:31 | comments(0) | - |
PLAZA
11-1023

3.11東日本大震災から227日目


所用で横浜に出たついでに、相鉄ジョイナスの中にあるPLAZAをのぞいた。ハロウィン間近ということで、店頭はオレンジ色を主体とした色彩の氾濫状態。なになに、これはいつものことで、PLAZAはいつ行ってもカラフルで賑やかである。


とりたてて目的もないのに、PLAZAがある街に行く用事があるとついつい立ちよってしまう。ただ見て回ることが多く、そしてかつての「ソニープラザ」の印象とのギャップに多少がっかりすることが多い。しかし、それでも今なお、ついつい立寄ってしまう。そこには、子供時代に刷り込まれた何かがあるに違いない。


「ソニープラザ」がソニーから独立する関係で「PLAZA」になったのは2007年のことだという。すでに4年経過しているわけだが、名前が変わるかなり前から雰囲気は徐々に変わり続けてきた。たぶん、時代の趨勢っていうヤツだろう。仕方のないことだが、私の頭の中には子供時代いつもワクワクしていた「ソニープラザ」が未だに存在しているようなのだ。


調べて見ると、「ソニープラザ」は1966年銀座ソニービルの地下2階にオープンした、とある。私がはじめて行ったのは小学校の高学年のころだったと思うので、オープンしてからさほど年月が経っていなかったということになる。


妹とお年玉を持って出かけ、店の中央にあったソーダファウンテンの椅子(高めのスツールタイプ)に越しかけて何かソフトドリンクを飲むのが楽しかった。


アメリカへの憧れが微かにまだ残っていた時代だったからか、アメリカ製の文房具をあれこれ見ながらいくつかを購入し、ソーダファウンテンで一息つくのがなにやら晴れがましいような、妙な気分だったことを思い出す。


当時私たちが普段入手できた文房具とは一味も二味も違うデザインや色。それらに私たちは魅せられ、ささやかな贅沢としてノートやペンを買った。当時も菓子の類いはあったはずだが、不思議と食べ物には興味を持たず、もっぱら文房具のコーナーだけをじっくり見ていたように思う。


現在では、アメリカのみならず世界中からよりすぐりのデザイン、機能性を誇るものが街の中に溢れている。雑貨のセレクトショップも珍しくないし、ネットを探せばいくらでも出て来る。PLAZAはかつての輝きを失ってしまったかに見えるが、それでも私の中にはどこか微かな期待のようなものがあり、若い人に混じって店内をうろうろしているというわけだ。


私の期待感は全く根拠がないというわけでもない。今でもなお、PLAZAには新しい魅力的な商品を他に先駆けて導入しようとするマーチャンダイジングのパワーが残っているのではないかと思うことがあり、期待というより応援に近い気持ちがあるように思う。


たとえば、5年ほど前から冬になると愛用している「エバーウォーム」というサーマルウエアも、はじめて見かけたのはPLAZAだった。今ではいろいろなところで買えるが、ネットなどでは売切れが多い。今日確かめてみたら、PLAZAではある程度商品点数を確保しており、仕入れの力があるのではないかと思われた。


子供時代ほどワクワクもドキドキもしなくなったが、まだまだ期待できる何かを持ち続けて欲しい。がんばれ、PLAZA!


*写真は数年前のもの。数寄屋橋交差点からソニービルを臨む。

*今日はウエハース2種を購入。

*それだけなのに、持っていた重い荷物を一緒にしてくれた。

*大きなショッピングバッグを二重にしてくれたのは大助かり。

*こういうサービスって、大切だと思うよ。

| - | 20:48 | comments(0) | - |
書道教室
11-1022

3.11東日本大震災から226日目


昨日、子どものころ書道教室に通っていたことを書いたら当時のことを少し思い出した。タイトルは「書道教室」としたが、当時私たちは「お習字」と呼んでいて、日曜日の午前中に近所の教室を開いている先生のところに通っていた。


通い始めたのは確か小学校3年生のころだったと思う。中学3年まではなんとか続けていたが、高校に入って休みがちになりいつしかやめてしまった。


教室には小学生から大人まで通っていたが、大人は午後の時間帯だったように思う。小さな机に墨と硯が置いてあり、各自好きな席についてお手本を見ながら半紙に向かう。何枚か書いた後、先生のところに持っていき、朱を入れてもらう。1ヶ月にひとつずつ課題が与えられ、もっともよく出来たものをその月の作品として提出する。


私が通っていた教室は、全国的に教室を展開している「温知会」に属しており、作品を本部に送り評価を仰ぐシステムになっていたようだ。毎月「なにはず」という会員誌が配られて、学年ごとに合格者の名前が掲載される。


8級だったか10級だったか忘れたがそれくらいから始め、1級の次は特級、そして初段へ進んで最終的には特待生ということになる。自分がどれくらいまで進んでいたのかもう忘れてしまったが、特に下手でもなく、さりとて特別上手なわけでもなく、そこそこの成績だったのではないかと思う。


ただ一度だけ、年に一回開催される「一字コンクール」で最高賞に当たる「温知会賞」を受賞したことがあり、あの時は自分でもびっくりしてしまった。全国的なコンクールなので、教える方も自分たちの指導を評価されることになるのだろう、私の先生は当人よりも興奮して喜んでいた。各学年課題である漢字一文字が与えられ、「温知会賞」は各学年1人ずつ選ばれる。その時の課題は「想」という字だった。


それ以外はさほど目立つ存在ではなかったと思うが、賞を取ったこともあるのか先生はけっこう期待してくれていたようで、休みがちになってからも何度か通ってくるように親の方には連絡があったらしい。それでも、師の心弟子知らずで全くやる気をなくし、とうとう書道は再開しなかった。


かなり後になって、ずっと続けていればよかったかもしれないと思うこともあったが、書道より興味あることが次々と出てきたし、「そのうち」という言葉でごまかして今に至っている。


ついでに言うと、書道を習っていたのだから字が上手かというと、今の私の字を見たら驚かれる方が多いのではないかと思う。私と同年代の人はもっと「大人っぽい」字を書く方が多いと思いつつ、妙な字しか書けなくなってしまった。


これは偏に、コピーライターの勉強をしていた時に自分の字体を意図的に変えたことが大きく影響している。当時は原稿用紙を使っていたので、升目いっぱいに読みやすい字を書くようにと指導され、見本を示されたのだった。


それまで書道でいう楷書体から行書体に近い字を書いていたのを、少し丸っこい「コピーラーターらしい」字に変えてしまった。その後、ワープロやパソコンを使うようになり字を書くよりキーボードを打っていた方が早いので字は崩れる一方で全くお恥ずかしいことになっている。


「名文家は悪筆」という話も耳にするが、最近手紙を書く必要性に迫られることが多く、字を書くたびに嫌になってしまう。とにかく気持ちだけは伝えよう・・・と思っているが、字はきれいに越したことはないと思う昨今である。


*検索したら、「温知会」まだあった!

| - | 15:55 | comments(0) | - |
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