3.11東日本大震災から235日目
十和田湖畔宇樽部にある花鳥渓谷・・・営業を終え主もいなくなった今はもうその名で呼ぶことさえできないのかもしれない。
しかし、私の中ではたぶん永遠に存在する場所である。たとえ、其処にある木や薔薇がブルドーザで根こそぎ掘り返されてしまっても、荒涼とした原野のような地になっても。
あと何年、彼処に入っていけるだろうか。ほんの数年か。思ったより長い間か。私には知り得ようもないその運命を思いつつ一人で木々の中を歩いた。
10月下旬は、ちょうどクマが冬眠する直前になるのではないだろうか。たっぷり栄養を取り、長い冬を過せるだけの体力をつける時期、その食欲は想像を絶するものなのかもしれない。そんなクマに遭遇したらどうしよう・・・そんな不安を抱きつつ木々の中を歩き、草むらに分け入り、大好きな場所を独り占めしてきた。
怖いと思わなかったわけではない。しかし、怖さと魅力を天秤にかけたら、後者の方が重かったというだけだ。見上げるほど大きな木々は、人間の手が入らない森にあるそれらとは違う。
しかし、木村さんが1本1本植えてから30年近く経過した今、木々は昔からそこにあったような姿で私を迎えてくれる。落ち葉や枯れ枝が積もる中を、歩く。ひたすら気持ちが赴くままに。聞こえるのは、気休めに持っていたクマ避けの鈴の音と、宇樽部川のせせらぎの音だけだ。歩いているうちに、怖さを忘れる。そして、ふとまた思い出す。思い出しながら辺りを見回し、また歩く。そしてまた、怖さを忘れる。
木々の中を歩いていると、自分は生きているということを実感する。ただ、生きているということだけを。当たり前のようなことだが、それをひしひしと感じ、その幸福を感謝できるという機会はそうはないと思う。何か、人間の力をはるかに越えたものの、力強さと厳しさとやさしさを感じる。その中に抱かれている自分を感じる。緊張感を伴うその感覚がとても心地よい。
水を見ると私はやすらぎを感じる。荒れ狂う海には恐怖を感じるが、その恐怖は森で感じる怖さとは違う。その違いは何なのだろうと考えてもなかなか答えはでないが、強いて言えば、そこで死んでもいいと思えるかどうか、かもしれないなどと思う。海の中では死にたく
はない。が、森の中でなら、死んでもいいと思うのだ。
そんなあれこれを、考えながら森を歩いている時、私はちっとも淋しくはない。様々なものが私に語りかけ、それにたどたどしく応え、自問自答し、突然それをやめて今度は私から語りかけ・・・そんな賑やかな時間を過しているかもしれないと思う。
一人は賑やか
一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
よからぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も
一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな海だよ
水平線もかたむいて
荒れに荒れっちまう夜もある
なぎの日生まれる馬鹿貝もある
一人でいるのは賑やかだ
誓って負け惜しみなんかじゃない
一人でいるとき淋しいやつが
二人寄ったら なお淋しい
おおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと堕落だな
恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ
茨木のり子