3.11東日本大震災から140日目
「夏の花」という言葉を聞いて、何を連想するだろうか。ある人はヒマワリを、朝顔を、ある人は花火を連想するかもしれない。
私はといえば、このブログ(前身の日記を含む)でも何度か書いているように、やはり原民喜の「夏の花」になってしまう。どうしても。どうしてもそうなってしまうので、この短い小説を毎年夏になると読む。読まねばならないと思う。
愛妻を亡くした内気な作家は、故郷である広島に戻る。そして原爆に遭遇する。幼いころから「死」と親しんできた作家にとって、妻との出会いは「死」までの猶予期間であったのかもしれないという見解はなるほどと思わせる。
内へ内へと向かう彼を姉のように温かく包み込み、創作への意欲をさりげなく引き立て、病床の身になっても彼を支え続けた妻を失ったということは、作家にとって「死」への猶予期間が終わったことを意味したのかもしれない。
しかし、そんな時彼は原爆に遭う。そして、命からがら非難する最中にもメモを記し、後に「夏の花」という作品に結晶させる。
手元にある集英社文庫の「夏の花」は、原爆投下前のどこか精気を失った故郷と人々を描いた「壊滅の序曲」、原爆投下直前から直後までを描いた「夏の花」、そして原爆以降周辺に起こったことを記した「廃虚から」の3部構成になっている(一般的に「夏の花三部作」と呼ばれているらしい)。いつもなら8月に入ってから読むのだが、昨日佐倉への往復で読み終えた。
「夏の花」の冒頭で、妻を亡くし故郷に帰った男は妻の墓参りに行こうとしている。
私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。(中略)その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小弁の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。
「黄色の小弁の可憐な野趣を帯び」という表現が、はじめてこの作品を読んだ時から脳裏から離れない。そして、私にとっての「夏の花」は、その作品であるとともに、名も知らぬ「黄色の小弁の可憐な野趣を帯び」た花となった。
かつての原爆では、関節被爆(二次被爆)などというものがあるなどということは知らされていなかった。というより、未知の爆弾の正体さえ誰にもわからなかった。家族や知人の安否を心配し、多くの人たちが原爆投下直後から被爆地を訪れ、間接被爆した。
間接被爆は、体に異変を感じても原因を特定しにくく、辛い思いをしている人たちは信じられないくらいの年月を過してきた。数十年経ってから被爆証明をもらえたとして、彼らが過してきた辛苦に満ちた年月は誰も補うことができない。
「夏の花」を読み、あらためて今回の原発事故のことを考える。かなり遅れたとはいえ、とりあえず非難区域を設定し、住民に間接被爆の危険性を知らせることはできた。しかし、「平和で豊かな暮らし」を実現する手段のひとつとして私たちが積極的にであれ消極的にであれ選んできたものが、これから数十年尾を引き、多くの人たちを苦しめることになるということをもう一度確認しなければならないと思う。
「原爆記念日に広島に行く」という計画は、未だ実行に移せていない。しかし、諦めずにいようと思う。生きている限り、諦めずにいようと思う。忘れずにいようと思う。