3.11東日本大震災から104日目
震災から100日以上が経過し、神経症的なほど原発の現状を気にしていた社会は少しずつ変わりはじめているような気がする。
なるほどニュースはまだ毎日流れているし(以前として予断を許さない状況なので当たり前だが)、様々な場所で団体が、個人が、「自分たちに何ができるか」を考えつづけている。しかし、震災前の日常が少しずつ気持ちの中に広がり始め、重苦しいものをかかえつつもあの時のあの衝撃を忘れつつあるような気もする。
「一番怖いのは忘れてしまうこと」だと誰かが言った。「忘れられているようでひどく心細い」と誰かが言った。
忘れることにかけては、諦めてしまうことにかけては、日本人は非常に能力があると日ごろ思っていたので、それらの言葉は鋭く耳に響く。この日記の冒頭に震災からの経過日を書き続けているが、そうしなければ知らないうちに忘れてしまいそうな自分がいて、自らを戒めるためにやっているのかもしれないと思うこともある。
ここ数ヶ月、持って行き場のない怒りのようなものに惑わされている自分がいたが、ここへきて「ちょっと待てよ」という気持ちが芽生えてきた。政府や東電や原発関連団体への不信感はもはやぬぐいようもないのだが、さりとてそれらを非難する気持ちだけを持っていてはまずいと思うようになってきたとでもいおうか。
「ずっとウソだったんだぜ」という歌に喝采を送った気持ちは、あきらかに変化している。ずっとウソに騙されていたのは誰か・・・騙されていた私たちは被害者なのか。いや、そうではあるまい。そんなことを考えていたら、以前この日記でも紹介した伊丹万作の「戦争責任者の問題」を思い出した。
話題は「戦争」の責任についてではあるが、同じようなことが「原発」にもいえるのではないか。そんな気がしている。長くなるが一部を引用する。全文を読みたい方はリンク先へどうぞ。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
(中略)
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。