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日々の内側
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おにぎり
11-0630
・・・節電効果をねらった「緑のカーテン」ブームで大人気とか・・・

3.11東日本大震災から112日目


息子がアルバイトに行く日には、おにぎりを作っている。わが家の朝食はごはんとみそ汁が

デフォルトなので、ついでといったところだが。


いつだったか、息子が「他の人がにぎったおにぎりは、あまり食べたくない」と言ったことがある。母親思いのいい子だ!というよりも、コンビニのおにぎりには全く抵抗を感じないようなので、ある種の潔癖感がそう言わせているような気がする。


だいぶ前になるが、妹もそんなことを言っていた。自分の母親が作るおにぎり以外は食べたくない、と。


確かに、おにぎりは飯を素手で握るわけだから、それを食するということは作り手への信頼感というか親近感というか、そんなものが必要なのかもしれない。握った人の体温や握っている時の気持ちやらを、おにぎりはまとっているのだ、きっと。


ところで「おにぎり」は「おむすび」とも呼ばれているが、何か違いがあるのだろうか。


同じようなことを考える人は多いようで、検索すると数々のサイトにヒットする。諸説あるようだが、ざっくりと考えれば同じものだといっていいと思う。


「おむすび」という言葉は「おにぎり」を意味する女房言葉だという説もあるらしいが、確かに語感としては「おにぎり」より上品な感じがする。関東的というより関西系の、はんなり感のある言葉である。


が、個人的な感覚として言うなら、親しい人が握ったものはやはり「おにぎり」だと思う。熱いごはんを手に取り、中央をへこませて具を入れ、リズミカルに手を動かしながら握っていく・・・あの行為は「むすぶ」というより、やはり「にぎる」のである。


朝の忙しい時間、とりたてて思い入れを込めて握るわけではない。が、おにぎりには、「調理する」という行為とはまた別の、もっともっと素朴でダイレクトな関係を感じさせる何かがあるような気がする。


これからは食中毒が心配なので、直接握るよりラップごしに握った方がいいに違いない。そう思いつつ、何かを隔てて握ることにどこか抵抗を感じてしまう私がいる。


*私は梅干しのおにぎりが一番好きかな。

*息子は昆布の佃煮がいいんだって。やけに渋い。

*明日から3日ほど留守にするので、ブログはお休み。

*帰宅してから遡って更新するかもしれないが・・・とりあえずは休みます。

| - | 20:14 | comments(3) | - |
BECK
11-0629

3.11東日本大震災から111日目


息子が高校生のころ夢中になって読んでいたコミック「BECK」の映画版をDVDで借りてみた。


2010年9月に公開され、興行的にはまずまずだったようだが、専門家からの酷評があったりもしていわゆるプロの目から見ればおもしろくない映画なのかもしれないと思いつつ・・・私自身はけっこう楽しめた。


いかにもコミックが原作になっている映画で、人気の若手俳優を起用し、現実的にはありえないストーリーだが、最初から若者たちの夢物語だと思って見れば単純に楽しめると思う。メンバー1人1人の個性もきちんと描けているし、ラストのフェスティバルシーンなどはわくわくする。


原作とその映画化された作品のギャップについては以前からいろいろ書いているが、この映画の場合は原作とは別物として見た方が楽しめるのではないだろうか(原作を読んでいないので明言できないが)。


こういう映画を観ると、息子が高校生だったころを思い出す。BECKにはほど遠いが、彼ら

と似たような夢を持っていたのではないかと思う。今ではメンバーもそれぞれの道を行き、

息子もドラムをやめてしまった。


私としては残念なのだが、音楽にはずっとかかわっていくつもりはあるらしく、以前知りあったバンドのライブを手伝いに行ったりしているようだ。


バンドだけにいえることではないが、観客になるよりも演奏する立場になった方が断然楽しいと思う。それで生活していくのは難しいだろうが、またいつか演奏する立場になってくれればいいなぁと思っている。

| - | 22:13 | comments(5) | - |
ラジオCM
11-0628

3.11東日本大震災から110日目。


東電の株主総会で「脱原発」提案が否決された。反対多数ということだが、出席した9309人のうち何人が反対したのかも明らかにされず、ただ「否決」とだけ伝えられた。全くもって腹立たしい。


書き出せばキリがなくなりそうなので、ここは気持ちを静めるためにもお気楽な話題にしておく。


最近・・・というかここ数年、CMがちっともおもしろくない。1日中テレビを見ているわけでもラジオを聞いているわけでもないので個人的な感覚に過ぎないのかもしれないが、とにかく「おもしろい!」と思うCMがほとんどない。


テレビでは大勢の人間が出てきて似たような振付けで踊ってみたり、オバサンの私には聞いているだけで不愉快になる妙にべたついた声の女の子たちが甘えたような声を出していたり、人気俳優が「プハー!」とビールを飲んでいたり、ギャラが高そうな俳優が高そうなサプリメントを愛用していると言ってみたり、持病持ちの高齢者を言葉巧みに脅迫していたり・・・そんなのばかりである。


そんな中、久しぶりに「これは面白いな」と思えるCMがあった。クルマ用ファブリーズのラジオCMである。


「その走りは忘れていた本能刺激し、忘れていた野生を呼び覚ます。12気筒DOHCエンジン搭載・・・」と、滑稽なほどに酔いしれている男のモノローグの後に、「でもクサイよ」という子どもの声。男はさらに酔いしれるが、またしても「でも変なニオイがするよ」。わはは!特に「今宵、ありのままの自分に会いに行く」というそれこそ「クサイ」セリフの後の「でもクサイよ」には大笑いをしてしまう。


「ニオイはすべてをだいなしにする」という結論もごもっともだが、自分に酔いやすい男性の性癖を利用しているところが女である私は楽しくて仕方ない。わはは。


こういうラジオCMに出会うと、聴覚にしか訴えられないラジオという媒体には、新しい(というよりも根本的な)可能性が期待できるような気がする。テレビはなまじ視覚に訴えるがゆえに、自由なようでいて束縛されているのかもしれない。


ということで、今日は借りてきたDVDを1本見たらラジオを聞くことにしよう。つい先日紹介したDigの今日のテーマはやはり東電の株主総会。どんな話が出るのか楽しみだ。

| - | 20:10 | comments(2) | - |
人を描く
11-0627

3.11東日本大震災から109日目


今年に入ってからどんな本を読んだっけ・・・と、つらつら思い出していたら、特定の人物を描いた作品が多いことに気付いた。いわゆる「伝記」というヤツに当たるものもあれば、ノンフィクションというジャンルに相当するものもある。


ビル・エバンスについて書かれた本を2冊。高島野十郎の評伝、サガンについての本。それらは「伝記」といってもいいだろう。が、再読した「フォーカスな人たち」(井田真木子)、「無名」(沢木耕太郎)は伝記というよりもノンフィクションだ。


最近読んだ「ホームレス歌人のいた冬」も、新聞の歌壇で話題になった“公田耕一”というホームレスを探す話で、これはもうノンフィクションそのものである。「人を描く」ということでは「伝記」も「ノンフィクション」も同じといえば同じだが、私は後者により魅力を感じる。対象となる人物の人生を知ることもたいそう興味をそそることではあるが、そこに書き手の主観があるとさらに面白い。


誰かのことを知りたい、知って書いてみたい・・・そのような衝動に動かされて取材を続けていくうちに、作者は自分を再認識するのではないかと思う。何故その人物に興味を持ったのか。その人物の何が知りたいのか。そして読者に対して何を伝えたいのか。それらは書き手次第で様々な物語となり、同じような話が出来上がることはないだろう。


「人を描く」ということは「自分を描く」ことでもあることだと感じさせてくれる作品が私は好きだ。


資料として、あるいは知識としてなら淡々と書かれた「伝記」も多いに意味のあるものだと思う。が、私にとって読書は勉強でもなければ実用的な知識を得るためのものでもなく、単純に楽しむものなのでノンフィクションに心惹かれるのだろう。


こちらに時々来てくださっているsoukichiさんがブログで書いていらっしゃった「珈琲とエクレアと詩人〜スケッチ北村太郎」も雰囲気のあるいい作品だ。詩についてはほとんど無知な私ではあるが、「荒地の恋」を読んで以来、北村太郎という詩人・・・というより人間に魅了されている。そして、著者である橋口幸子さんという方がどんな方なのか、今はどうしていらっしゃるのか気になったりしている。


| - | 20:38 | comments(0) | - |
3281人
11-0626

3.11東日本大震災から108日目


勤め人ではないので、たまにしか電車に乗らない。が、到着時刻を知らせるホームの電光板に人身事故のニュースがたびたび表示されることが気になっていた。たまにしか乗らないのに、それがすでに稀なことではないということは・・・ほとんど毎日といっていいほど人身事故が起きているのではないかという気がする。ラジオを聞いていても人身事故のニュースは珍しくないものになっている。


そんなところに、「5月の自殺者数が前年同月18%増の3281人」というニュース。震災が起きた3月までは前年比が減少気味だったのに、4月には3.2%増、そして5月には18%増となったという。震災が影響しているのは明らかだが、被災地よりも直接被害を受けなかった大都市圏で増えているのが特徴だ。


災害心理学の専門家は、大都市圏で暮らす人々は元々抑鬱感を持っていることが多く、震災をきかっけに「疑似被災」した結果なのではないかと分析しているが、果たしてそうだろうか。


当然のことながら、被災した人たちは想像を絶する苦労をされていることと思う。絶望や無力感にさいなまれている人たちも多いに違いない。しかし、被害があまりに大きいため呆然自失状態がある程度の期間続いていたのではないかと推測されること、周囲の人ほとんどが被災しているため「自分だけが苦労している」といった疎外感があまりないのではないかと思われること、などにより結果的に自殺にまで進まないケースが今のところ多いのではないだろうか。


むしろ、将来的な見通しについて地域差や個人差が明らかになってくるこれからが危ないのではないかと危懼する。


対して大都市圏の人々は、毎日のように流される悲惨なニュースにうちひしがれながらも、それだけで「疑似被災」し、自殺にまで追い込まれるとは私には思えない。


リーマンショック以来、景気の回復は実感できない。回復してきた業界もあろうが全くといっていいほどそれを感じない人の方が多いのではないだろうか。そこへきて今回の大震災。大口の取引先が被災地にあれば、その余波をダイレクトに受け、倒産する企業も出てくるだろう。辛い思いはしていても、「被災地に比べれば」と自身に言い聞かせて踏みとどまっている人たちもいるだろう。辛さ、苦しさを口に出すこともできず、孤軍奮闘している人たちもいるだろう。


そんな人たちにとって、「経済を動かそう!」「繋がっていこう!」という掛け声は、ガラスごしにきこえてくる声のように空しいものなのではないだろうか。自分のことで精一杯で何もできないことへの情けなさ。様々な抑圧が鬱積し、それが飽和状態に達し、死を選んでいる人が増えているのではないだろうか。


直接被災してはいないけれど、ギリギリのところで立ちすくんでいる人たちの声無き声。人身事故のニュースにそれらを聞くような気がして暗然たる思いになるのは私だけだろうか。

| - | 22:06 | comments(0) | - |
岡本敏子というひと

11-0625

3.11東日本大震災から107日目


昨晩、「太郎と敏子〜瀬戸内寂聴が語る究極の愛」という特別番組を見た。今年は岡本たろう生誕100年で、某局では今日も「TAROの塔〜芸術は爆発だ〜」を放映する予定で、これも見逃せない。


以前にも書いたが、私は特別岡本太郎の作品が好きなわけではない。どちらかというと絵よりも彫刻や写真が好きだが(「明日の神話」は好き)、昔は“ちょっと変ったオッサン”だと思っていた人が、存外愛すべき自由人であったことを知り、機会があればもっとその作品を見たいと思っている。


昨日の番組は、戸籍上は岡本太郎の養女ということになっているが、実質的には妻であり芸術活動のパートナーとしてなくてはならない人であった敏子にスポットを当てたもの。以前から単なるマネージャーの枠に収まりきれない人だとは思っていたが、太郎の作品にここまで深く関与していたのか!と驚くことも多かった。


東京女子大を卒業出版社に勤めていたころ岡本太郎を知り、その才能、人間性に強く惹かれた敏子。秘書として岡本家に同居するも、奔放な太郎の暮らしぶりに悩みはつきない。太郎の両親(岡本一平ーかの子)は互いの恋愛を認めるという夫婦で、かの子の愛人も同居していたというが、その影響があってなのか太郎は「結婚」をしようとはしなかった。


新たに見つかった敏子の日記には、「太郎が一番嫌い」と書かれている日もあり、いかに苦しんだかがしのばれる。しかし、そんな中で敏子が選んだのは、太郎の元を去ることではなく、「岡本太郎」をプロデュースしていくことであり、時として母親のように太郎を護る立場だった。


何かと誤解されやすい太郎に付添い、太郎の言葉を逐一記録し、発信していく・・・太郎の芸術の素晴らしさを少しでも世間に広め、理解してもらおうとする活動は死ぬまで続いた。晩年の岡本太郎はパーキンソン病を患い、身体の動きさえままならず、会話もできずにいたという。それでも最後まで寄り添った敏子。


太郎の死後、行方不明になっていた「明日の神話」がメキシコの資材置き場で発見され、確認に行った時の映像が少しだが流れた。縦5.5m横30mの巨大壁画を遠くから認めた時の表情が印象的だった。「嬉しい」という言葉では収まりきれない、心の奥底からあふれ出る感情が素直に表れていたように思う。


これは私の想像だが、敏子自身「岡本太郎の最大、最高の傑作」である「明日の神話」が行方不明になったことは、死んでも死に切れないほどの心残りだったのではないだろうか。1967年にメキシコのホテルロビーを飾る壁画として制作を依頼され、1969年仮設置されたもののホテルの経営が悪化し壁画は取り外されて各地を転々とするうちに行方不明になってしまった。


見つかったのが2003年。翌2004年に、敏子は「明日の神話再生プロジェクト」を立ち上げる。2005年に絵を日本に運搬、修復する取り組みに着手した矢先、急逝。享年79歳。


心残りであった作品の行く末を確認し、安心したことが一気に疲れとなって襲ったのだろうか。しかし、その死は「悲しい」ものではなく、実に「見事な」ものであるように私には思える。

| - | 15:34 | comments(2) | - |
団地の植栽
11-0624

3.11東日本大震災から106日目


暑い・・・蒸し暑い・・・毎年本格的な夏になる少し前の時期が一番辛い。真夏になってしまえば、身体もある程度暑さに慣れてくるような気がするが、今年のように5月並の低温状態から一気に真夏日になった日には・・・身体も気持ちも全くついていかず、ほとんど活動停止状態になってしまいそうだ。


しつこいくらい何度も書いているが、年を経る度に暑さが苦手になり、「うだるような暑さを撮るぞ!」と炎天下カメラをかかえて出かけた元気はすでになくなっている。情けないことである。


と、前置きはこれくらいにして、今日の話題は植栽について。とくに大規模な集合住宅の植栽について少し書こうと思う。


以前、分譲マンションの仕事をかなりしていたこともあり、敷地配置図などを見る機会が多かった。なにかと味気なくなりがちなマンションライフを補うかのように、植栽に力を入れているところもあったが、私の目から見るとどうにも画一的なイメージをぬぐえなかったのも事実。要は、見た目がそこそこよくて、管理しやすい木を選んでいるのね・・・と思うことが多かった。


植栽されている木に細かい視線を送る人は少数派なのだろうから、それで充分だったのだろう。こ洒落た雰囲気を出すならハナミズキ、高木の足元には手入れも簡単で毎年花が咲くツツジの類い。まあ、そんなところでいいかー!てな感じ?


そんな最近のマンションよりも、私は以前から昔建てられた団地の植栽の方が好きだ。あらかじめ植えられた木はありふれたものが多いが、合間を縫って住民が好みに応じていろいろなものを植えていて、路地裏園芸と共通する楽しさがある。モダンではないが、無計画に植えられたものがいつしか調和して、計画的な植栽にはない味わいが出ていたりする。


以前うちの近くにもそんな団地があった。すでに数年ごしの全面建て替えが進み、今はほとんど完成している。一部民間に売られてしまったので、三井のマンションなんぞになっているが、4階建ての古い団地は7〜8階建ての味気ない建築物になってしまった。


建て替え前、そこで育っていた大きな木をどうするのか非常に心配だったのだが、様子を見て見るとある程度、現在の植栽に活かされているようだ。昔のノスタルジックな雰囲気も捨て難いが、現在の植栽もそこいらのマンションのそれよりはマシかなぁと思っている。


敷地もかなり広いが、植えられている木々の種類が多い。とくに私が好きなのは、栴檀(センダン)、鬱金(サトザクラの一種。黄桜)、エゴノキ、ナンキンハゼなど。メタセコイアやジューンベリーなどもある。


先日、今日の写真にあるタイザンボクをみつけて嬉しくなった。ごく限られたところではあるが、ハマナスが植えられていて花と実を同時に見ることもできる。不思議なことにバラはほとんど植えられていない。いくつか見かけたが、1階住戸の住民がベランダの外に植えたのではないかと思われるものが多かった。ノイバラが1株あったが、猛々しくのびていたが花はまだ見ていない。


昔のように野草が入り込むスキがないのがちょっと淋しいが、これからも時々散歩して植栽を楽しんでいきたい。暑さに慣れたら、蝉時雨でも聞きながら夕方の散歩でもしてみるかな・・・

| - | 17:44 | comments(2) | - |
Dig
11-0623

3.11東日本大震災から105日目


最近夜遅くまで起きていられなくなってしまい、聞きたいと思いつつなかなか聞けないラジオ番組がある。


TBSの「ニュース探求ラジオDig」がそれで、下手なTVニュースよりよほど自分のためになるように思う。名の通り、その日のテーマを「掘り下げる」番組で、震災関連の話題も多い。


6月14日の「発生から3ヶ月。終わりの見えない福島原発事故。今、もっとも恐ろしいことは何か?」を久しぶりに聞いたが、京大の小出氏の電話取材もありなかなか聞き応えがあった。 自分の中でまとまらない様々な考えが話を聞いていくうちにすっきりしてくることもあり、今後もできるだけ聞いていきたいと思っている。


本当はもっときちんと紹介したいところなのだが、昨日あたりから早くも夏バテ気味でだるくて仕方ない。今日は妙な眩暈もあって、頭の中にあることがまとまらないので簡単な紹介のみで失礼する。コメントへのお返事は明日以降に・・・

| - | 23:59 | comments(0) | - |
「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ふたたび
11-0622

3.11東日本大震災から104日目


震災から100日以上が経過し、神経症的なほど原発の現状を気にしていた社会は少しずつ変わりはじめているような気がする。


なるほどニュースはまだ毎日流れているし(以前として予断を許さない状況なので当たり前だが)、様々な場所で団体が、個人が、「自分たちに何ができるか」を考えつづけている。しかし、震災前の日常が少しずつ気持ちの中に広がり始め、重苦しいものをかかえつつもあの時のあの衝撃を忘れつつあるような気もする。


「一番怖いのは忘れてしまうこと」だと誰かが言った。「忘れられているようでひどく心細い」と誰かが言った。


忘れることにかけては、諦めてしまうことにかけては、日本人は非常に能力があると日ごろ思っていたので、それらの言葉は鋭く耳に響く。この日記の冒頭に震災からの経過日を書き続けているが、そうしなければ知らないうちに忘れてしまいそうな自分がいて、自らを戒めるためにやっているのかもしれないと思うこともある。


ここ数ヶ月、持って行き場のない怒りのようなものに惑わされている自分がいたが、ここへきて「ちょっと待てよ」という気持ちが芽生えてきた。政府や東電や原発関連団体への不信感はもはやぬぐいようもないのだが、さりとてそれらを非難する気持ちだけを持っていてはまずいと思うようになってきたとでもいおうか。


ずっとウソだったんだぜ」という歌に喝采を送った気持ちは、あきらかに変化している。ずっとウソに騙されていたのは誰か・・・騙されていた私たちは被害者なのか。いや、そうではあるまい。そんなことを考えていたら、以前この日記でも紹介した伊丹万作の「戦争責任者の問題」を思い出した。


話題は「戦争」の責任についてではあるが、同じようなことが「原発」にもいえるのではないか。そんな気がしている。長くなるが一部を引用する。全文を読みたい方はリンク先へどうぞ。


だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

(中略)

つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。


| - | 17:48 | comments(3) | - |
ゲンスブールと女たち
11-0621
・・・Mさん宅のローズ君の気品漂うお姿。でも性格は!?・・・

3.11東日本大震災から103日目


先週Mさん宅にお邪魔した時教えていただいた、「ゲンスブールと女たち」を観に行ってきた。最近、どうも映画や展覧会情報を得る努力をしておらず、昔からゲンスブール・ファンを自称していた私としたことが!と自分の怠慢を情けなく思った。


いつごろからゲンスブールを聴くようになったのか・・・帰宅してから思い出そうとしたが、はっきり思い出せない。手元に「STUDIO VOICE」という雑誌のゲンスブールを特集した号(1993年10月号)と、彼の生涯をたどった本「出口なしの愛」(ジル・ヴェルラン著/1993年発行)があるので、本格的に聞き始めたのはそのころ、つまり彼の死後(1991年没)かと思う。


しかし、どう見ても破天荒・・・あるいは破滅的ともいえるその生き方にはもっと前から興味を持っていたのではないか。部屋の中を掘り起こせば、晩年の彼を近況として特集した昔の「BRUTUS」があるはずだ。


昔から私は破滅的な生き方をした人(そう見える人)に惹かれてきたが、ゲンスブールの場合は、それもあるがそれ以上に彼の作り出す曲と声(とくに晩年の声)に惹かれてきたと思う。久しぶりに聴いた1985年のライブでは、歌っているというよりも投げやりに歌詞を呟いているような歌が多いが、それがまたいいのである。


今回の映画は、ゲンスブールの、所謂「華麗なる女性遍歴」にスポットを当てたものだが、“醜い”というコンプレックスを抱えながらも、その才能と独特の雰囲気ゆえ女性たちを魅了してきた彼の魅力がよく表現されていると思う。


彼の分身として登場する異様に耳と鼻が大きいラ・グールの存在が映画にメリハリを与え、単なる伝記映画の枠に嵌まらない自由さを感じさせる。


映画の中に出て来る曲はほとんど知っている曲だったが、それもそのはず、映画のタイトルと大変似ている「ゲンスブールを歌う女たち」というアルバムを以前から愛聴しており、共通する曲ばかりだったのだ。


外見も歌詞も猥雑な印象が強いゲンスブールだが、メロディはとても美しい。一番好きなのは・・・とても迷うところだが今のところ「ラ・ジャヴァネーズ」だろうか。ジュリエット・グレコ(これまた好き)が歌っているが、彼自身が歌うこの曲もとても好きだ。今日は寝るまで、この曲を聴いていようと思う。


*ル・シネマでの上映は7月3日まで。

*今日はサービスデーなので初回はやや混んでいた。

*DVDが欲しかったのだが、迷った揚げ句やめておいた。

*amazonでも買えるしね。その方が安いしね。

| - | 21:04 | comments(0) | - |
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