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日々の内側
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農業を、漁業を憂う
11-0331

都会育ちの甘ったれた考えだと謗られるかもしれないと思いつつ、農業に対して憧れのような気持ちを持ってきた。ひとつぶの種から育てたものが立派に成長した時の充実感を憧れた。


モノやサービスを買ってもらうための文章を書くことが私の主な仕事であったわけだが、若いころならいざ知らず、年を重ねるごとに気持ちのどこかに空しさを感じるようになった。知恵を絞り書いた文章も、次から次へと跡形もなく消えていく。商業文とはそういうものなので納得もし、それでも書くことが好きだったから今まで続けてきた。しかし、自分がしていることの「確かさ」を感じることは少なく、もっと確かな手応えを感じるものへの憧れがあった。


今回の震災(地震、津波)が与えた農業、漁業への影響は計り知れない。丹精こめて耕した田や畑は荒野となり、出荷を待つばかりだった野菜は根こそぎ流され、船は崩れながら陸へ打ち上げられ、あるいはバラバラになり・・・生業を成り立たせていた土台そのものが自然の大きな力で根こそぎ消えてしまった。


しかし、と私は思う。


農業や漁業に従事してきた人たちは、私たちよりもずっと自然の力を知っていたはずである。こんな大きな地震、津波には思いが及ばずとも、自然の怖さ、厳しさを知っていたはずである。同時にそのやさしさ、おおらかさも知っていたはずである。


そう思うと、もし今回の出来事が地震と津波だけだったら(「だけ」と言うのも憚られるが)、彼らは心のどこかで納得したのではないだろうか。自然の力、自然の理不尽さを肌で感じてきた彼らは、茫然自失の時を越えた時、絶望の中でも納得し、一粒の種をまくように希望の種を蒔こうとするのではないだろうか。


しかし、地震の後に起こった原発問題は、あきらかに人災である。しかも、とてつもなく大きな、罪深い人災である。「天災があばいた人災」とどこかに書かれていたが、まさにその通りだと思う。


自分たちが守り、愛してきた土地。自分たちが恐れながらも愛してきた海。それらが果てしなく汚されていく・・・希望の種を蒔く気力さえ否定するよう禍である。


私の中にある農業に対する憧れと、私の中を流れる漁師の血が声にならぬ悲鳴をあげているような気がする今日このごろ。


***


花鳥渓谷及び木村暢子さんへのあたたかいコメント、メールをお寄せいただきありがとうございました。読みながら感動することも多く、あらためてその存在の大きさを知りました。今日いっぱい受け付けておりますので、よろしければどうぞ。

写真は、昨年6月末に花鳥渓谷を訪れた時のもの。2010年7月2日の日記の写真とは違いますが、やはり最高の笑顔です。


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花鳥渓谷または故・木村暢子さんへの追悼メッセージを募集しています。

3月31日(木)までに、当ブログあるいはメールにてお寄せください。

詳しくは当ブログ3月25日の記事をご覧ください。お待ちしております。

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| - | 10:21 | comments(0) | - |
本当に恐ろしいことが起きているなら
11-0330

今週発売の女性週刊誌が原発問題についての実用的な情報を掲載しているようだ。中身は読んでいないが、表紙に記されていた文章「正しく怖がりたい」に強い共感を覚えた。


普段は芸能人のどうでもいいようなことばかり追いかけているように見える女性週刊誌が、もしかしたら今私たちが求めている情報を簡潔に伝えているのかもしれない・・・そんな気がした。


今回の震災で、「想定外」のことが起きるというのは不思議なことでも何でもないことがわかった。そして、政府も企業も私たち生活者もその言葉に甘えていたことも痛感させられた。


マスコミは相変わらず公共広告を流しつづけている。最近は有名人を起用した「私たちがあるべき姿」シリーズだ。ごもっともなことなのだが、どこか現実味がないのはなぜだろう。


「デマを信じないようにしよう」というのはもっともなことだが、さて何が「デマ」で何が「デマでない」かを判断するのは難しい。明らかに「デマ」とわかるものもあるかもしれないが、「デマ」だとばかり思って軽視していたことが「真実」である場合だって多いにありうる。判断を保留しながらも、徐々に「デマ」と「真実」を見分けようとする努力をしなければ、と思う。


原発については予想される「最悪の状況」とはどのような状況なのかを明らかにしてもらいたい。歯切れの悪い会見はパニックを恐れてのことだというようにも思えるが、もしかしたら自分たちの非力さ、あるいは自分たちの癒着を白日の下に曝したくないという意図があるやもしれぬ。パニックが起こった時、収集できる自信が全くないからなのかもしれぬ。


本当に恐ろしいことが起きているなら(起きているのだろう、実際)、私とて怖いという気持ちにはなる。が、どうせ怖がるのなら、正しく怖がりたい。そして覚悟を決めていきたいのだ。


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| - | 22:08 | comments(2) | - |
写真の力
11-0329

震災から今日現在までの新聞を保存している。いつになるかわからないが、状況が落ち着いたら(あるいは自分の気持ちに少し整理がついたら)読み返そうと思っている。震災当初、紙面は連日衝撃的な写真が大きく、多く掲載されていた。


津波により人家に突っ込むように打ち上げられた船。玩具のようにただよう車、車、車。空襲の後のような瓦礫の山。避難所でうつろな表情のまま座り込んでいる老婆。抱きあって悲しむ人々。人影の消えた道を放浪する1匹の黒い犬。そこから受ける衝撃は、写真の力そのものなのか。


見出しをいくら大きな文字にしたところで、1枚の写真が与える衝撃には及ばない。


今回のような未曾有の悲劇を切り取った写真の力は、残酷でもあり、冷徹でもあり、暴力的でさええるかもしれない。しかし、それが写真というものであり、だからこそ私は写真が好きなんだなとあらためて感じた。有無を言わさず現実をとらえる。私はそんな写真の力に魅せられている。


2ちゃんねるには、津波によって打ち寄せられた瓦礫の中に混ざり込む無数の溺死体の写真がアップされていたようだ。誰が、どのような気持ちで撮ったのかはわからない。しかし、それは歴然とした現実である。自分から探したわけではないが、そのような写真が目の前に示された時、私はそれから目を離すことができない。


季節柄薄着をしていたとは思えない人々が、半裸の状態で木切れの間に漂っている。自然の力のなんとすさまじいことか。撮影者が意図していたかどうかに関係なく、写真の力もまた時にはすさまじいものになると知った。


一方、写真の力は全く違う作用をすることもある。人と人を結びつける引力のような力だ。


たとえば私が花鳥渓谷という楽園のような場所に行くことができたのも、写真の力に負うところが大きい。名前こそ知ってはいたが、まさか自分が行くとは思ってはいなかった。が、私の写真を見て、私が撮る花鳥渓谷の写真を見てみたいと思ってくださったtokiさんが誘ってくれたのだ。


そして、実際に目の前に広がる光景に感動しつつ撮った私の写真を見て、何人かの方々の心に響くものがあったと私は信じる。だからこそ、みなさんがコメントやメールをくださったのだと思う。


花鳥渓谷は美しかった。しかし、美しいだけではなかった。悲しくもあり、残酷でもあった。だからこそ私は、かの地にこれほど魅せられるのだろう。美しく、悲しく、残酷で・・・それこそが現実である。


たぶん趣味の範囲を超えることはないだろうが、これからも写真は撮っていこうと思う。過去でも未来でもなく、私にとっては今この時がすべてなのだから。


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| - | 19:39 | comments(0) | - |
寒い春
11-0328

もう3月下旬だというのに、まだ私はダウンを着たりしている。2月は比較的暖かったようだが、今年の3月は例年より寒いのではないだろうか。体感温度もそうだが、気分的にも。

まとまったことを書く気力が出てこないので、以下は雑感の羅列。


寒いとはいえやはり今は春なのだ。寒い春だが春には違いない。エドヒガンは咲き始めたようだ。木蓮も辛夷も咲いている。薔薇の新芽は日に日にやわらかい葉へと変化しているし、車窓から見た線路脇の斜面には、一面のタンポポが咲いていた。


「ため息をひとつつくと幸せがひとつ逃げる」と聞くが、ため息ばかりの日々。ため息にしたくなくて慌てて深呼吸にしようとするが、やはりため息はため息である。


日曜日に用事があって行ったショッピングセンターの1階は休みの日とあって大賑わい。スーパーや子ども関連のショップ、飲食店、ゲームコーナーなどがあるので館内でも一番込みあうフロアだろうけれど、どこか不自然さを感じる。と、不自然なのは彼らではなく、自分の心の問題だと気付く。


しかしほんの一瞬ではあるが、私は幻影を見た。大声をあげながら走り回る子ども、迷子にならぬよう子どもに声をかける母親、すれ違うベビーカー、店から流れる陽気な音楽、所狭しと並べられ積み上げられたカラフルな商品、商品、商品。それらが音もなく崩れ、大人も子どもも瓦礫の中に埋もれていく光景を・・・


ほんの一瞬だったが、節電のため証明を落とした館内を歩きながら私は寒かった。建物の中なのに、妙に寒かった。


震災以降、テレビを見なくなったという話をよく聞く。スイッチを入れても、いつになっても進展しない原発のニュースや、申し合わせたように「みんな一緒」「ひとりじゃない」といっているCMばかりが流れるからだろう。「がんばれ」はやめて「がんばろう」にしたところで、たいした変りはないじゃないかなどと思うのは、先が見えないことへのいらだちに疲れてきたからだろうか。



時間潰しに買った「朝日ジャーナル(週刊朝日緊急増刊号)」の特集は、「知の逆襲第2弾 日本破壊計画〜未来の扉を開くために」。地震前に編集されたものなので地震に関する内容は含まれていない。が、妙に予告めいた寄稿もあって再び寒気がする。


花鳥渓谷の写真をプリントする。120枚・・・アルバムに貼るだけでもかなり時間がかかりそうだ。写真の腕はいざ知らず、あの美しい風景が甦る。モデルは最高だ。


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| - | 18:09 | comments(0) | - |
わだかまり
11-0327

大震災及び原発について、今は何も言わずにいようと思いながら日々を過している。が、自分で考えている以上にこの出来事から受けた衝撃は大きいらしく、全く触れずにブログを続けることはなかなか難しい。


昨日の記事も、直接ではないが今回の不幸な出来事に全く関係がないことではない。そして今日、被災者同士の間に生まれつつある「わだかまり」についての記事を読み、昨日書いたことを思い出し、「やっぱりなぁ」と何ともやりきれない気持ちになった。


被災地では、徐々に住民の集団避難が進んでいるが、避難に踏み切った人たちの中にも、残ることを決めた人たちの中にも、「わだかまり」が生まれているということだ。


残りたいと思いつつ、年齢や身体のことを考えて避難することを決めた人の心の中には、残る人たちに対する罪悪感のようなものが重く潜む。残る人たちの心の中には、一緒に耐えてきたのに・・・という小さな怒りが存在する。「出ていったヤツは、戻ってこないでくれ」と明確にしている自治体もあるというニュースは、「絆」の裏側を見るようだ。


絆が強ければ団結力も強くなる。しかし、一つになったかに見えたその力が分散されていくとき、そこには絆という名前の縛りから逃れようとする者に対する憎しみが生まれる。「いつでも戻っておいで」とは素直に言えない心がある。悲しいことだが、それが人間というものではないかと思う。


被害を受けず、計画停電とはいえささやかな我慢に甘んじている私がこのようなことを言うのは傲慢である、という向きもあるかもしれない。が、これは今回のことではじめて考えたことではなく、以前から似たようなことをこのブログで書いているのであしからず、ということでお願いしたい。


一昔前、「価格破壊」という言葉が流行った。力づくで激安商品を多量に供給する企業が増えてきた時期だ。その破壊のため、中小企業や個人商店の数多くが消えていかざるをえなかった。


今回私たちが経験しているのは、「価値破壊」なのかもしれないと思う。被災された方々はもちろんだが、「影響を受けている」程度の私たちの中でも価値観が音を立てて崩れているのではないだろうか。破壊された価値観、崩れ落ちた価値観をどのように再建していくか・・・それが厳しく求められているような気がしている。


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詳しくは当ブログ3月25日の記事をご覧ください。お待ちしております。

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*メールをいただいた方々へのお返事が遅れております。申し訳ありません。

*「す薔薇しきガーデンライフ」のpotatoさんも賛同してくださった。

*できるだけ広くお知らせしたいと思っていたので、とても嬉しい。

| - | 11:27 | comments(0) | - |
「縁」と「絆」
11-0326

「縁」あって出会い、「絆」を結ぶ。「縁」も「絆」も、人間関係にはなくてはならないもの・・・別の言い方をすれば避けて通れないものであり、関連づけて語られることも多いように思う。


若いころに較べ、人との出会いについて考えることが多くなった。若いころは、なんとなく出会い、なんとなく疎遠になり、なんとなく忘れ・・・そんな人間関係も多かったような気がする。が、まだまだ先はあるとはいえ人生の半分以上を生きた(100年以上生きるとは思えないので)現在、ひとつひとつの出会いを疎かにしてはいけないという思いが年々募る。


「縁」にもいろいろある。ただ一度出会っただけでも「縁」には違いないだろうし、何の気なしに出会ったことが一生を左右するような「縁」になることもある。要するに私の考えでは、「縁」は偶然のものであり、その偶然が重なれば「縁が深い」ことになるし、多少努力しても疎遠になってしまえば「縁が薄い」ということになるのではないだろうか。


「縁」あって出会った人(物でも)との持続的な関係に必要なもの、それが「絆」であろう。「絆を結ぶ」「絆を断切る」というように、それがなくては関係性が成り立たない。そして、どのように「絆」を結び、あるいは断ち切るかは個人の意思次第である。


私はどちらかというと、「縁」を大切にしつつ「絆」は緩めにしておきたいクチである。「絆」の語源は動物たちをつないでおく綱にあるということだが、私はその綱をある程度長くしておきたいし、綱の結び目を緩めにしておきたいのだ。短い綱を硬く結ぶのが苦手である(嫌いというより苦手)。


家族にしても知人・友人にしても、密接な関係を想像するだけでどこか息苦しい。以前にも書いたが、理想の人間関係は「淡交」だ。


そんな私ではあるが、いつでも結び目がほどけてもいいと思っているわけではない。差はあるが、ある程度しっかり結んでおきたい「絆」ももちろんある。というか、断ち切るというのはよほどのことがない限り望まない。長い綱をゆったりと結んでたるませておき、時にはゆっくり引き寄せたり結び方を少し強くしたり・・・そういったイメージだろうか。それがいいと思っている。


「絆」といえば、昨日ラジオで社会学者の宮台真司氏の話が心に残っている。


震災後様々なところで「絆」という言葉を耳にするが、この言葉がもつイメージの甘さ(宮台氏は「砂糖みたい」と表現していた)への警告とも批判ともいえる話で、愛と憎しみが表裏一体であるように絆の裏には「縛り」がある、と。話すべてに共感したわけではないが、実は「絆」という言葉が発する甘いニオイに対して日ごろどこか抵抗を感じていたので、心の中で「そうそうそう!」と呟いていた。


多くの人が、困窮する被災者の人たちに「絆」を訴えている。もちろんほとんどが善意からのメッセージであろうから、それを非難するつもりは毛頭ない。しかし、「絆」を結ぶということは「縛る・縛られる」ことでもある。それを理解しておかなくてはならないと思うのだ。


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詳しくは当ブログ3月25日の記事をご覧ください。お待ちしております。

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*メールもすでに数通いただいている。ありがとうございます。

*今週いっぱいの予定だった花鳥渓谷の写真(当ブログ)を月末まで続けることにしました。

| - | 13:21 | comments(0) | - |
あなたの、ことばを。
11-0325

昨日、急遽tokiさんにお会いして、少し前から二人の間で出ていたことについて相談した。


花鳥渓谷の木村暢子(のぶこ)さんが亡くなって早くも2週間になろうとしている。私自身は去年はじめて訪れた地であるが、一生心に残る素晴らしい体験をさせていただいたと思っている。そこで、木村さんのお兄さまをはじめご遺族の方々に、花鳥渓谷という場所と木村さんからいただいたものへの感謝を伝えたいと思う。


その方法として、個人的に撮った写真をお送りすることは考えているが、もうひとつ、広くみなさんのことばを募集し、まとめて送りたいと思う。


「以前、花鳥渓谷に行ったことがあり、感動した」という方

「行ったことはないけれど、いつか行きたいと思っていた」という方

「今まで知らなかったが写真や記事を見て、ぜひ行ってみたいと思った」という方

「あのような場所があるなんて驚いた」という方

「薔薇の美しさに感動した」という方

「木村さんの笑顔に魅せられた」という方

 ・・・


実際に行った方はもちろんだが、その経験がなくても、いや行ったことがないけれど行きたいと思っていたと思う方もぜひコメントをお願いしたい。コメントを募集する主目的は感謝の気持ちを伝えることだが、ご親族の方々が知らないところに、花鳥渓谷に憧れる方々がこんなに存在するということを伝えることができれば、かの地の今後にも影響するかもしれないというささやかな期待もある。


当ブログ、拙写真サイト、tokiさんのブログなどの文章や写真に触れた時、少しでも気持ちが動いたという方のコメントならどのようなものでも大歓迎だ。「文章を書くのが苦手で・・・」という方も、気軽に言葉を寄せていだだければ嬉しい。人の心に届く文章とは、文の巧拙ではなく、その人の言葉で綴られたものであるということを私は信じる。以下をお読みになった上で参加してくださるとありがたい。また、ブログに書き込みをしたことがないという方も、これを機会に参加していただければとても嬉しい。


●募集期間・・・3月25日(金)〜3月31日(木)

●参加方法・・・基本的に以下のブログへの書き込み。メールの方がよいと思われる方は

        下記アドレスまで。

        *「interior」3月25日の記事(ここです)

              ・・・(参考)写真はWalkin'にて公開中(「北の楽園」)

        *「優しい薔薇の咲く庭を作りたい」(tokiさんのブログです)

        *メールの場合は・・・

          sumigon*fides.dti.ne.jp(*を@にしてお送りください)まで

          件名に「花鳥渓谷」という言葉を入れてお送りください。

●記  名・・・ハンドルネームでけっこうです。できれば「○○○在住」と地域を書いて

        いただけると嬉しいです。

●結果報告・・・ご遺族に送付完了後、できるだけ早くブログにてご報告します。

●その他・・・文章は基本的に何の手も加えず使用させていただきます。

       まとめ方についてはお任せください。


どうぞよろしくお願いいたします。

| - | 09:28 | comments(14) | - |
懐疑
11-0324

昨日出かけた帰りにスーパーに寄ったら、いつもは当然のようにあるホウレンソウがなかった。買って思い切り使おうと思っていたのに。


野菜騒ぎが不気味なほど早い速度で広がっているのではないかと思っていたら、今度は水だ。都内のコンビニではさっそくミネラルウォーターが売り切れているという話を今朝のニュースで耳にし、幼い子どもをもつ立場を考えれば当然のような気もしつつ、これからどれだけの「不安」が広がっていくのか暗澹たる思いを感じている。


これだけの災害に遭遇しながら略奪が起きない日本に対する称賛の声もあったとのこと、これを誇りと思う気持ちの裏側には、何かにすがりたいというせっぱ詰まった不安があるのかもしれないという思いがずっと頭の片隅にある。


しかし、外国の例とは比較にならぬとしても、信用金庫から金が奪われ、伝えられないところで略奪に似た様々なことが起こっているのではないか・・・震災に遭いつつ他人への心配りを忘れない人々の気持ちは美しいかもしれないが、自分のことで精いっぱいという気持ちを持ったとしても責められることではないだろう。


他国からの侵略を受けてこなかった島国に生まれ育った私たちは、「平和」や「平穏」は水道から流れてくる水のように当たり前に享受できるものと思っているところがある。それだけ恵まれているということであろうし、ありがたいことでもある。しかし、それゆえ「疑う」ことを否定的にとらえ、「信じる」ことを美徳とする傾向にあるように思われる。


それを「国民性」という言葉で表現し、それで済ませてしまうことを、そろそろやめるべき時にきているのかもしれない。「信じやすい」というこの性質は、その「信頼」が崩れた時に、裏切られた時に、衝撃を埋め合わせるかのごとくヒステリックな言動に走りやすいようにも思う。信じる前に、もう少し疑ってみた方がいいのではないか。信じながらも、「もしかしたら」という懐疑のタネを自分の心に埋めておいた方がいいのではないか・・・


あらためて「懐疑」ということを考えてみる。


辞書で調べてみれば、「疑いをいだくこと」とある。何かを疑うことは、決して愉快なことではないが、かといって溢れる情報に惑わされ、救われたいという思いに迫られ、妄信的になるとまではいかずとも物事を信じきってしまうのは危ない。


気になる情報があるなら、まずそれを横に置き、別の情報源を調べてみる。自分の立ち位置や視点を変えてみる。いろいろな人の話を聞いてみる・・・本当にこれでよしと思えるまで判断をくださない。そんな態度が今、国民全体に求められているような気がしている。


哲学の分野では、「懐疑」とは「充分な根拠がないために判断を保留、中止している状態」を意味するそうだ。肯定的なことも、否定的なことも、頭に浮かんだらまず「ちょっと待てよ・・・」と改めて姿勢を正してみる。そんな努力をすれば、風評被害も疑心暗鬼も少しは少なくなるように思うのだが、はてさていかがなものだろう。

| - | 09:10 | comments(3) | - |
おせっかいかもしれませんが?
11-0323

私だけではないのではないだろうか。震災このかた、テレビやラジオのCMでながれる「AC〜♪」にうんざりしているのは。


あれだけの震災、広告を自粛しようというクライアントの動きは当然だと思うし、広告を打っている場合ではないという企業もまた多いと思う。が、それなら広告なしでいけばいいじゃないか!というわけにはいかないところが民放各局の苦しいところでもあるのだろう。


それはある程度察しはつく。しかし、それでもなお、「もう勘弁してほしいなう」と言いたくなる。普段であればあまり見ないテレビを見る機会が増え、ラジオでさんざん聞いた台詞をまた聞くことになる。それが毎日続く。1週間経過して少しずつ少なくなってきたが、あれは広告というよりも単なる穴埋めだったんだろうなぁとしか思えない。


広告だけにいえることではないが、メッセージというのはその露出頻度が少なすぎても伝わらないが多すぎても同じである。むしろ反感を持たれる危険性さえある。


広告のひとつに、「おせっかいかもしれませんが」というコピーが入るものがあるが、こうなるとおせっかいどころか迷惑だとさえ思えてくる。広告そのものの作りは決して悪くないのにもったいないことである。


昔から私はACの広告は比較的好きだった。作り方に好感が持てたこともあるが、露出に節度があり、控えめながらじっくり見せ、じっくり聞かせる広告が多かったように思う。それだけに残念な出来事であった。


話は少しそれるが、金子みすずの詩を採用した広告をテレビ、ラジオで流しているが、あれは断然ラジオ版の方がいい。朗読のテンポが微妙に違う(ラジオの方がゆっくり)し、あの内容に映像はいらないように思われる。詩という文学における朗読=聴覚に訴えるの意味の大きさをはじめて知ったような気がするので、それだけは収穫といえようか。


*まあ、広告そのものが多すぎるのが現実。

*昨日、久しぶりにトイレットペーパー(4ロール)をゲットした。

*お一人樣一点限り。ライラック柄。ニオイ付き(^.^;)

*普段なら絶対に買わないタイプだが・・・

*全く、今回の買い占めはなんとも迷惑なことである。

| - | 07:30 | comments(3) | - |
今は静かに、ただ静かに・・・
11-0322
・・・今週は木村さんのご冥福を祈り、去年撮った花鳥渓谷の写真を掲載する・・・

震災から10日以上が経過した。しかし事態はますます深刻かつ複雑になってきている。

津波の甚大な被害から原発問題へ、そして放射線の影響へ、風評被害へ・・・


様々なところで、様々な人々が、様々なことを言っている。マスコミの多くは相変わらず

政権や東電などに対する疑問という形を変えた批判を展開し、被災地以外の人々は被災地を

思いやりつつも漠然とした不安をかかえ、もしかしたら何かを言わなくてはならないという

強迫観念でもあるのだろうかと思える様子もうかがえる。


「がんばれ」と応援し、「がんばろう!」と呼びかけることは悪いことではない。こんな

時期だからこそ元気になれるものをと考えるのも、悪いことではない。しかし、被災地の

人々といっても実に様々な状況なのであろうから、これらの思いがもしかしたらさらに

その悲しみや苦しみを増加させてしまうことも考えなくてはならないと私は思う。


先の阪神大震災の時、善かれと思い送られてきた援助物資があまりに現実とかけ離れて

いて(本当に欲しいものとのギャップが大きくて)、それでなくても崩れそうなプライドを

大きく傷つけられたという話も聞く。何かしたい、何かしなくては、という気持ちはたいせつだと思うが、先走ってはそれが無駄になることもあるのではないだろうか。


計画停電が始まるというニュースが流れ、自宅で人工呼吸器をつかって療養している高齢者のところにテレビ局がインタビューに行った場面が強く印象に残っている。


「停電したら困りますよね」と、当たり前を通り越して無神経ともいえる質問を向ける記者。呼吸器を離せないため、介護者が読み上げる50音を選んでまばたきで知らせる形でしか会話できない患者は、こう言った。「死ぬだけです」と。


そのような人たちが大勢いるのだろう。津波の被害を受け、原発問題を身近にかかえ、家族をなくし・・・と複数の悲劇を一度に味わった人もまた大勢いることだろう。そう思うと、今は何も言えない。祈ることさえ、なんだか空しい。


今はただ静かにしていよう。このような時だからこそ。この国に生きる一人の人間として、

どれくらい冷静でいられるかを試してみよう。悲しみや切なさは胸の奥にしまっておこう。

窓の外は雨。そして風に揺れる薔薇の新芽。


*花鳥渓谷のカラー版をご覧になりたい方は、お手数ですがWalkin'の「北の楽園」

*私の写真よりおすすめなのが、tokiさんの「花鳥渓谷・風に揺れるバラの写真

| - | 08:59 | comments(2) | - |
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