2月は逃げる、というらしいが本当に終わるのが早い。毎年こんな塩梅だったのか記憶していないが、暖いかと思えば真冬に逆戻りの一ヶ月であった。今日は往く冬を惜しむかのように冷たい雨が一日中降っていたが、冷たさの中にひっそり春がひそんでいるのを感じる。木々の芽は着実にふくらみ、焦る私の気持ちと裏腹にまだ植え替えもしていないベランダの薔薇の芽もふくらんできた。
先週の金曜日のことだっただろうか。いつも聞いている「大沢悠里のゆうゆうワイド」が番組の内容を変更して放送した。リスナーが経験したちょっとHな話を特集する「お色気大賞」発表の予定だったが、ニュージーランドの地震を受けて自粛したらしい。
こういうことはなかなかできることではないだろう。予定されているものに費やした準備や費用、広告主の意見、などにより当日になって番組内容を変更するということは緊急性のある場合(あるいは確実に視聴率を稼げる特番)以外ではあり得ないことなのではないだろうか。特にテレビでは。
別の日、やはりラジオの番組で永六輔さんがふと、自らが抱えもつ疑問を口にした。永さんといえば、パーキンソン病を患い一時は話が聞き取れないほどだったし、その後タクシーに乗っていて事故に遭遇。年齢的にもあちこち不安があるだろうと思われる。しかしあえて自分の病気を笑ってしまおう、楽しんでしまおうというスタンスで病と付き合っているらしい。そんな永さんが、番組で楽しい会話が弾んでいる時、こうして笑っていていいのだろうかと不安になるという。
ゲストで出ていた北山修さんがそれを受けて、自分たちは今、心のどこかに鬱屈したものを抱えて生きざるを得ないのではないかと言っていた。少なくとも北山さんは、楽しいことがあっても単純に楽しめない、気持ちのどこかに重たいものがある、と。
本当にそう思う。「明るいニュースがないですねぇ」というコメンテイターの言葉を聞くまでもなく、私たちが笑っている間にも次々と戦争で死んでいく人間がいて、がれきの下で命の灯火が消えようとしている。しかし、悲惨なニュースが静かに伝えられた後、アナウンサーは「では次のニュースです」と言いながら芸能人の離婚騒ぎやケンカ騒ぎを伝える。そして、空しいほどに明るいCFが流れる。
ほどほどの常識と良識を保ちつつ生きていくには、嬉しいことに素直に喜びつつも心のどこかに暗い重みを抱えざるを得ないことへの覚悟がいるのかもしれない。メディアとの距離を置きながら、何が自分にとっての真実なのかという難問を考えつづけなくてはならないのかもしれない。この時代を生きていくには。