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日々の内側
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百合コレクション
10-0731

昨日は久しぶりにiPodを持って外出。炎天下の中を歩くのは辛いが、音楽と一緒だと気分も変わっていいなぁ・・・と思っていたら、あっという間に駅に着いた。


私は歩きながら聞くならテンポが早めの曲、ファンキーな曲がいいと思っているので、iPodにはそんな曲が多く入っている。昨日しみじみといいなぁと思ったのは「百合コレクション」(Virgin VS:ヴァージン・ヴィズ)だ。


このバンドのことについては以前も書いたと思うが、あがた森魚が1980年代はじめころに作った、“ニューウェイブ・バンド”ということになっているらしい。あがた森魚はA児という名前でヴォーカルを担当している。


「百合コレクション」だけではないのだが、あがた森魚が作る曲は詩的な歌詞のものが多い。デビュー曲である「赤色エレジー」は哀切極まる曲と詞で一度聞いたら忘れられないが、ロマンチックでどこか不思議な歌詞が多く、言葉選びのセンスが独特だ。


俳優としてもユニークな存在で、吉永小百合が主演した「夢千代日記」でストリップ劇場の照明係役をやっていたのが印象に残っている。


百合コレクション


夜毎夜毎夢に咲く百合の君

百合から百合へささやく花言葉

高原の停車場の汽笛ふるわせて

ゆめうつつのまま閉じたるつぼみを抱きしめて

オペラホールの丸屋根の上で視つめていましたね

砕けてしまった土星のような淋しい星でした

それでもあなたと歩いた星ですね

サヨナラは Ii's only

モウイイノサ 百合コレクション

それでもあなたがほほえみ咲くかと

サヨナラは Ii's only

モウイイノサ 百合コレクション

ふりむけば秋空に昇る星


一秒一秒毎に変る君

一雨一雨毎にそよぐ百合

マッチ・ボックスに灯る夜の影

ゆめうつつのまま触れたる口唇抱きしめて

ラスト・シーンにくるくる踊る北極星を視た

シネマが終われば街灯りさえない淋しい星でした

旅の果てに訪ねた星ですね

サヨナラは Ii's only

モウイイノサ 百合コレクション

それでもあなたがほほえみ咲くかと

サヨナラは Ii's only

モウイイノサ 百合コレクション

ふりむけば秋空に沈む星


*曲はこんな感じ(私が聞いているものとアレンジが違うが)

*「ロンリー・ローラー」も好き。

*アニメ好きなら「星空サイクリング」は知っているかも?

*「うる☆やつら」のエンディングテーマ曲だったとか。

*「赤色エレジー」、最近はこんな『画ニメも』も。

*林静一の絵もいいし、石橋蓮司の語りもいいなぁ・・・

| - | 11:52 | comments(11) | - |
善悪の彼岸〜ハンニバル
10-0730

少し時間が空いてしまったが、「羊たちの沈黙」を読み終えた後、「ハンニバル」「ハンニバル・ライジング」を立て続けに再読した。特に「ハンニバル」についてはいろいろ考えたこともあったのでブログに書こうと思いつつ、仕事がバタバタしていたこともあって後回しにし、気楽な話題を優先させていた。が、やはり書こうと思ったことを書かずにいると落ち着かない。


ハンニバルの話の前に、「善」と「悪」について書いてみたい。


私たちは生まれてからずっと、「これはよいこと」「これは悪いこと」と教えられ続けている。ある時は「道徳」という名の元に、ある時は「一般常識」という名の元に教えられ、時には水戸黄門の印籠のように掲げられる。私自身、半世紀以上生きてきたということもあり、それなりに身の中にしみ込んだものはあるし、社会生活を穏便に送るためのコツとして利用していることも多々あると思う。


しかし、そういった現実的な観点を離れて考えてみると、果たして本当に「よいこと」、本当に「悪いこと」というものはあるのだろうか。「本当に」という言葉は「絶対的に」「普遍的に」といった意味で使っていると理解していただいてかまわないのだが。


長い間、折りに触れてこの件について考えているのだが、今のところ達している結論は、「そんなものはない」のではないか、というものである。「


絶対的な存在」「普遍的な存在」がそうであるように、「善悪」についても、必ず限定される・・・つまり「(・・・にとっては)善である」「(・・・にとっては)悪である」としか言えないのではないか、ということだ。


その「・・・」の数が多ければ多いほど、「善」も「悪」も「絶対的」「普遍的」に近づくが、近づきはしても完全に一致することはないのではないか、ということだ。世の中多数決原理が基本であるからにして。


今日のタイトルの「善悪の彼岸」はニーチェの著書のタイトルから借りてきたもの。本は読んでいないが、「キリスト教の諸前提を盲目的に受け入れてきたことを非難している」本(「 」内はWikiによる)として、恐れ多くも借りてしまった次第である。キリスト教的倫理観は多数決原理の代表だと思っている、という理由もあるし、私にとってハンニバル・レクターという怪物は「善悪の彼岸」にいるということもある。


何故、「ハンニバル」のことを書く前に善悪の話をしたかというと、先日「羊たちの沈黙」について書いた時、ハンニバル・レクター博士のことを「究極の悪人」と書いてしまったことへの反省があるからだ。


分かりやすく書こうとするがために、安易に言葉を選んでしまうというのはやはりよくない。「究極の悪人」という言葉の前には、「常識的には」「一般的には」「道徳的には」といった限定が必要であったと思っている。


レクター博士が数々の殺人を実行し、人の肉を食らったことは法治社会の道徳から言っても、キリスト教的倫理観から言っても間違いなく「悪」であろう。人肉を食って快感を覚えるという博士の嗜好は、幼いころ妹であるミーシャが敗残兵に食われたという経験からくるトラウマを起因とする嗜好だとも捉えられるが、そう捉えて安心してしまうのも安易であるように思う。


博士は類い稀に見る美食家でもあったわけで、その味覚も凡庸な味覚に比べたらはるかに鋭かったに違いない。凡庸な味覚を持つ人が決して口にしないものの中に「うまみ」を発見することもできただろうし、一度その「うまみ」を経験してしまったらその呪縛から逃れられなかったのかもしれないと考えらえる(人肉が「うまい」かどうかは、凡庸な味覚の持ち主であるゆえわからない)。


とにかく自分の嗜好に正直だったとはいえるのではないかと思うが、普通「善」と考えらえがちな「正直」もまた場合によっては「悪」として非難されるといういい例だろう。


今回「ハンニバル」を読んで強く印象に残ったのは、以下の部分だ。


自分の切なる祈りが一部しか聞き届けられなかったこのとき以来、ハンニバル・レクターが神の意図について思いを凝らすことは絶えてなかった。例外があるとすれば、神による殺戮に比べれば自分のなす殺戮など何程のものでもない、と思い知ったときくらいだろう。


巻末の解説にも、「この本の随所に鏤められた果敢なキリスト教文明批判」が指摘されており、上記部分が引用されている。この批判はまぎれもなく著者であるトマス・ハリスのものであろうし、そんな作家が書いた本だからこそこんなに面白いのだろう、と妙に納得してしまった。


余談になるが、「ハンニバル」シリーズはみな映画化されており「ライジング」以外は見ている。原作と映画を比べれば、圧倒的に原作の方が面白いというのが一般的だと思うが、このシリーズに関しては、映画もなかなか見ごたえがあり面白かった。惜しむらくは、「ハンニバル」の結末が原作と映画で大きく違っていること。個人的には原作の終わり方の方が圧倒的に面白いと思っている。


*似たようなことを前にも書いたような・・・
*「考えたこと」「思ったこと」はあまり変らないということね。
*とくに「いい大人」になってからは。
*同じようなことを繰り返していることに意味があると思っていただければ。
*それにしても、こんな時間にこんな内容をこんなに長く!
*実は昨日早く寝てしまい、午前1時に目が醒めてしまったのでした。
*眠れそうもないので、7時まで仕事を。
*それでも眠れそうにないので、一気に書いてみたのでした。
*さて、そろそろ寝ようかな、それともこのまま起きていようかな。
| - | 08:42 | comments(2) | - |
蓮の器
10-0729

蓮の葉や実(?)も工夫次第では器になりそうな気もするが、今日は久々に買った蓮模様の器の話。


仕事の打ち合せで時々人形町に行くのだが、打ち合せ先にほど近いところにある「ヒナタノオト」で購入した。


この店、知人に教えてもらったのだが、なかなか行けなかった。「仕事ついでに」なんて思っていてはいけないなぁと実際行ってみて思った。ここぞという所は、なにかのついでに行くべきではない。なんとか時間を作っていかなくては。


教えてくれた知人いわく「行く時はあまりお財布にお金を入れておかない方がいいわよ」・・・なるほど、店内をざっと見ただけでも欲しいものがたくさんあり、財布のヒモが緩みがちだ。


蓮の器を買う前に一度様子を見に行った折、近々開催するということで「百の蓮・百の氷」展の案内カードをもらった。大谷桃子さんの陶芸とさこゆうこさんのガラスのコラボレート企画で、蓮の意匠が好きな私はおそるおそる行ってみた。


ガラスもなかなか素敵だったが、財布の都合により蓮柄のフリーカップを買うに留めた。

写真のように下に向かってすぼまっている形がやさしい。柄は蓮のつぼみ、花のものもあったが何故か実!気持ち悪いと思う人がいるかもしれない実を選ぶところが天の邪鬼な私たる所以か?


実際使ってみると、手によくなじみ(普段使いの器はこれがたいせつ!)口当たりもいい。目下仕事漬けの日々なので、これにジャスミンティを入れて1日5杯くらいは飲んでいる。


「ヒナタノオト」では昨日から「オトナノナツヤスミ」展が開かれている。DMにもそそられたが、ブログを見たらさらにそそられた。こりゃ、まずい。開催期間が長いのが、さらにまずい(^.^;)

| - | 17:25 | comments(4) | - |
「愛の試み」
10-0728

「夜われ床にありてわが心の愛する者をたずねしが尋ねたれども得ず」


一昨日引用した鮎川信夫の「愛なき者の走法」で取り上げられていたこの一節は、旧約聖書雅歌からの引用である。


キリスト教についてほとんど知らず、また共感も感じていない私が何故この一節を知っているかというと、若い頃読み、今でも忘れられない一冊の本の、扉に当たる部分で引用されていたからなのだ。


その本とは、福永武彦の「愛の試み」である。


ゴーギャンについて書いた時触れた小説家だが、福永には優れた随筆、翻訳もある。「愛の試み」は、私が最初に読んだ福永作品で、新潮社の紹介には以下のように書かれている。


〈人が生きる本質的な基盤として孤独があり、愛とは運命によってその孤独が試みられることに対する人間の反抗に他ならない。〉と考える著者が、愛と孤独についての一切の妥協を排した思索の跡を綴るエッセイ。挿話として掌編小説9編を併録する。人間を豊かにする愛の諸相を分析し、また愛の陥り易い錯覚にも鋭い視線を向けて、愛の問題に直面する人々に多くの示唆と力を与える名著。


なぜこの本を手に取ったのか・・・30年以上前の話なので覚えていない。今の私からはちょっと想像できないが、若い頃(20代)の私は多分に恋愛体質であった。何か恋愛関係で悩んでいたのだろうか・・・


それはともかく、この本から受けた影響は自分が思っている以上に大きかったのではあるまいか、と中年過ぎてから思うことがある。多少の変化はあるが、私の恋愛観、孤独感は20代のころから大筋では変わっていない。そして、その基礎はこの本があったればこそなのかもしれないと思うのだ。


「愛の試み」を皮切りに、「草の花」「風土」「廃市」「海市」「死の島」などを立て続けに読み、少し間を空けて福永が日本に紹介したともいうべきジュリアン・グリーンの作品を読んだ。ジュリアン・グリーンの作品の中では「他者」がことのほか気に入り、何度か読み返したりもしてきた。


「愛の試み」で最も印象的で、かつ影響を受けたのは、恋愛の本質に言及した部分よりもむしろ孤独について書かれたところだ。孤独には「勁(つよ)い孤独」と「弱い孤独」がある、という考え方に私は目を見張り、感動し、共感した。これが私の孤独感の核になっているといってもいいだろう。


今また、日記からの連想で「愛の試み」を読もうかと思ったが、果たして本棚のどこにも見当たらない。どこかに隠れているのかもしれないが、薄い文庫なので新たに買った方が探すより早いかなとも思っている。


*「愛の試み」については、このブログがなかなかいい。

*昨日も今日もみっちり仕事。

*4案件がくんずほぐれつ・・・似たような業界の仕事でなくてよかった。

*8月半ばまでこんな状態かな。でもその後ぱったりヒマになりそう。

*忙しいうちが花!がんばらなくちゃ。

| - | 21:35 | comments(8) | - |
壺中の天
10-0727

昨夜はクライアントでもある某所の料亭で会席料理をいただいてきた。由緒ある建物なので、私としては料理よりも建物の方に興味があったのだが、以前撮影の時に入ることができなかった部屋を見ることができ、それだけで満足。


サイトの方でも軽く説明されているが、その建物は料亭として稼働する前は大正時代の実業家の私邸だった。当時の姿を今に残すのは南側の建物で、「蘭の間」と呼ばれているという。文人趣向と中国趣味が融合しているということだが、そのあたりの様式については無知なのでよくわからなかった。


が、室内に使われている木のほとんどは土佐の名木でもある「むろ」という木で、この部屋を作るため四国山中の山をまるごとひとつ買ったというからすごい。梁、柱、椅子、テーブルはもちろん「むろ」製だが、驚いたのは床だ。床はその他のものに使った「むろ」の残りを使った寄せ木細工のような作りなのだ。とても凝っているし、素材を無駄にしなかったという点でもすばらしいと思う。


料理はやはりお値段だけのことはある、ということだろうか。今回は坂本龍馬にちなんで高知の素材を使ったものを提供するキャンペーン中とあって、蓮芋(高知では「りゅうきゅう」と呼ばれているとか)、四万十河口流域産の鱧、土佐ジローという卵肉兼用地鶏の卵、土佐はちきん地鶏、土佐あかうし、チャンバラ貝、そして鰹などが洗練された味付けで出された。私としてはちょっと量が多かったが、なんとかデザートまで完食。高知の地酒4種(酔鯨、亀泉、美丈夫、?)も味わえて幸せ・・・


ところでその料亭の名前は、中国の故事「壺中の天(地)」から名付けられたとのこと。名付け親は故・遠藤周作氏。壺中の天」とは、大辞林によると


後漢の費長房が、市中に薬を売る老人が売り終わると壺の中に入るのを見て一緒に入れてもらったところ、りっぱな建物があり、美酒・佳肴(かこう)が並んでいたので、ともに飲んで出てきたという、「後漢書」方術伝の故事から》俗世間を離れた別世界。また、酒を飲んで俗世間を忘れる楽しみ。仙境。


とのことだ。なるほど由緒ある建物の中で料理と酒を味わうひとときは、(とくに貧乏人にとっては?)壺中の天にいるがごときなのだろうと思う。


しかし実際には、中居さんがけっこう元気な人で、「よさこい鳴子踊り」を披露してくれたり(鳴子という音を出す道具で客も参加する!)、おちょこを使ったゲームをしたりと「壺中の天」にしては世間的だったかなぁというのが正直なところ。


楽しかったことに変りはないし、集まった4人で気の置けない話ができたことはもちろん嬉しかったということで、差し障りのないよう締めておこうかな。

| - | 23:57 | comments(0) | - |
「荒地の恋」
10-0726

たいして期待もせず、なんとなく買った本が予想をはるかに上回るほど面白かった、ということがある。


本を買う時はたいてい書評なり雑誌の紹介なりを読んでから買うのだが、先日出がけに寄った書店には買おうと思っていた本がなかった。それで諦めてもよかったのだが、電車に長時間乗ることもあり、読む本がないというのは心もとない。で、つらつらと文庫本のコーナーを眺めていて、偶然見つけたのが「荒地の恋」(ねじめ正一)。


作者の名前は知っていたが、著書は読んだことがない。読もうと思ったこともなかった。が、どこか引っかかるところがあり裏表紙の解説を読んだ。


五十三歳の男が親友の妻と恋に落ちた時、彼らの地獄は始まった・・・


このところ、とんと恋愛物には興味を持てず読みもしなくなっていたが、この五十三歳の男が北村太郎という詩人であり、親友とは田村隆一であることを知り、面白いかも!?と買うことにしたのだ。


「荒地」とは北村や田村がかつて属してた同人誌の名前で、そのグループは「荒地派」とも呼ばれている。田村隆一は荒地派の中でも最も著名な詩人だろう。私もいくつかの詩編は読んだことがある。が、北村太郎の名は今まで知らなかった。私の知識などその程度である。


知らなかった北村太郎は、なかなか興味深い人物だった。田村の妻である和子に恋をし、いい年をして(!)家族を捨てて家を出るのである。恋愛に年齢は関係ないとはいえ、五十三歳でそのような行動をとるというのは、詩人だからだろうか。世間的な安定感に安住することがない生き方は、周囲を戸惑わせ、怒らせるが当人はそうせざるをえないのだろう。


すったもんだの末に同棲しはじめた北村と和子であったが、その後もすったもんだは続く。「荒地」という絆はそれほどに強く、彼等を絶縁させないのだ。


物語の顛末は例によって書かないが、ひとつ大きな発見をしたことだけは記しておこう。


冒頭から登場する「鮎川」なる人物は、まぎれもなく鮎川信夫であった。そして、この本で描かれている鮎川は、私が想像していた鮎川像とかけはなれた、実に鷹揚でやさしく思いやりがある人物だった。それを知ることができたことだけでも、この本を手に取り買った自分を褒めてやりたい。


前述したとおり、私は詩についてほとんど知らない。若いころ数人の詩人を知り、いくつかの詩編を読んだが、私の本棚にある詩集は、時々このブログでも触れる伊東静雄と鮎川信夫だけである。そして、私が勝手に持っていた鮎川のイメージは、気持ちがいいほど孤独な詩人、というものだった。


それはある意味で間違ってはいないと今でも思っているが、普段の生活で見せる人となりがそのイメージとこれほど大きなギャップがあるとは思ってもいなかったのだ。詩人とは・・・けっこうやっかいなイキモノだなぁと思う。


愛なき者の走法


歌のはじめには開かれた理由がある

ひといりることにたえられない

人間蛾は街の燈火に誘われる

「夜われ床にありて

わが心の愛する者をたずねしが

尋ねたれども得ず」

されど尋ねて得ざるは

出あおうとしない心のためか?

行きあう顔色の底の底までわかって

愛する者を欲しないためか?

おぼえた窓枠のかげシャッターのうしろ

背をかがめて小走る群集のなか

剥がされた敷石の下

ゾンビーたちはいたるところにいたが

うまれるはずのないものがうまれず

誰もが語ろうとしないし聞こうともしない

死の匂い甘美な横丁で

なんじの心の愛する者を知れりと

耳打ちするあやしき男から

ものさびしい火を借り

いくつもの街衢と大路を過ぎる

せめていっさんに駆けていきたい

われを産みし者の室をすてて

永遠に帰るべき家をもたない

いさぎよかった者の眼のような

暗天の星にみちびかれて

野末の朝露

数知れぬ花が袖にこぼれろところまで。


(新選鮎川信夫詩集より)

| - | 11:21 | comments(2) | - |
それぞれの歴史
10-0725
・・・長屋門をくぐり庭を見る。百合がいい感じで咲いていた・・・


今月10日に、秋谷の祭りを見に行ったことはすでに書いた。到着した時間が早めだったので、神輿が出るまでエツコさんに周辺を案内していただいた。


ご夫婦の別荘「海と暮らす家」から徒歩10分くらいのところを流れている前田川に沿った道を散策し、神輿が最後に収められる秋谷神社の手前にある、「若命家(わかめいけ)」の長屋門にも連れていっていただいた。


海からあがった神輿や榊は周辺の路地を通り(新築の家の前で少々粗っぽい挨拶をするのが楽しい)、神社に続く階段を上る。若命家の門前の広場に着くころはすでに辺りは暗く、そこで祭りはクライマックスを迎える。規模が小さいだけに、とりまく人々と神輿を担ぐ若者たちが一体となっているような、実に気持ちのいい祭りだと今思い出してみても感動を覚える。


ところで、この若命家だが、泉鏡花の「草迷宮」の舞台だったとのことだ。若命家は江戸時代に秋谷の名主を代々勤めた家で、名主に特別許された長屋門は現在横須賀市の文化財に指定されている。


普段は門がしっかり閉じられているとのことだが、祭りの当日とあって開いていた。入っていいのやらいけないのやらわからないので、3人でちょっとだけ入ってみた。


突き当たりには時代を経た日本家屋、左手には蔵のような建物があり、庭はきちんと手入れされているようなので現在も使われているのだろう。が、「草迷宮」の話を聞いたせいか、どこか謎めいた空気が流れているような気がしたのも事実だ。あまりずかずかと入っていくのは失礼なので、少し入って写真を数枚撮らせていただいた。


当たり前のことだが、私が知らない場所は知っている場所の数倍、いや数百倍?もあり、それらにはそれらのそれぞれの歴史があるんだなぁ、と今回つくづく思った次第。「秋谷」という土地もご縁がなかったら行かなかっただろう。人の縁により様々な土地に導かれていく・・・それが人生ならば、その縁を大切にしていかなければ。


とうことで、秋谷にはまた行きたい、いや行こうと思っている。


*前田川はエツコさんにとって創作意欲の源だとか。

sadwatさんの祭り写真、臨場感があっていいですよ。ぜひご覧ください。

*今日はアンズさん宅で興味深い催しがあったのだが・・・

*参加する意欲満々だったのに、体調が悪くて欠席(T_T)

*この暑さにバテバテだったのでバテのピークに達したのか

*はたまた一昨日行った御徒町(アメ横)のよどんだ空気に当てられたのか

*一日中飲まず食わずで寝ていた。あーあ。

*明日からけっこう仕事が忙しくなりそうなので、なんとか復活しなければ!

*とりあえず明日は、打ち合せ後、こんなところにお呼ばれ。

*自分じゃなかなか行けないところなので楽しみだ。

| - | 20:34 | comments(2) | - |
PHOTO WEEK・・・水を撮る<7>
10-0724

海や川まで行かなくても、噴水を見に出かけなくても、水は私たちのまわりにいつでもある。

とらえどころがない故に、いや、それだからこそ、人は水の表情をとらえようとするのかもしれない。
| - | 08:44 | comments(2) | - |
PHOTO WEEK・・・水を撮る<6>
10-0723

常に変化している水面の一瞬は、時として水とは全く違うものに見えてくる。
| - | 08:59 | comments(0) | - |
PHOTO WEEK・・・水を撮る<5>
10-0722

波紋の面白さにはっと驚くのは、撮る前や撮っている時よりも、撮った後画面で確認した時。

常に動き、揺らめき、ざわめく水面・・・一瞬の表情を見極めて撮るのは不可能に近いのかもしれない。
| - | 09:37 | comments(4) | - |
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